

ジャグダルプルに着いて、宿にチェックインするころには夕方になってしまっていたが、少し周囲を散歩してみた。
驚いたことに、この田舎町であるにもかかわらず、天下のGoogleが出店しているように見えるし、やや小さいけどモールまであるのには驚かされた。
このBINAKA MALLだが、昼間訪れてみると、中は閑散としていて入っているテナントは少ない。グラウンドフロアーから上に行ってみると、入居募集中のプロットのみだ。
やはりある程度の人口規模、経済規模がないと、こういう物件は成り立つはずもない。






ジャグダルプルに着いて、宿にチェックインするころには夕方になってしまっていたが、少し周囲を散歩してみた。
驚いたことに、この田舎町であるにもかかわらず、天下のGoogleが出店しているように見えるし、やや小さいけどモールまであるのには驚かされた。
このBINAKA MALLだが、昼間訪れてみると、中は閑散としていて入っているテナントは少ない。グラウンドフロアーから上に行ってみると、入居募集中のプロットのみだ。
やはりある程度の人口規模、経済規模がないと、こういう物件は成り立つはずもない。




チャッティースガル州カーンケールのハート、つまり定期市は、国道30号線上にあるバススタンド敷地内で毎週日曜日に開催される。
市街地で開かれるハートは部族色が薄く、ちょっといまひとつに感じる。お客の大半が部族ではない一般の人々となるため、雰囲気が異なるだけではなく、商う内容にも違いが出てくる。売り手にしても部族以外の人たちのほうが多いかもしれない。
やはり不便なところで開かれるからこそ、ハートの主役、売り手も買い手も部族民となるため、私たちのような部外者にとっては面白いのだ。それでも、ここに出入りする部族の人たちの姿は確かにあるし、活気あるやりとりを見ているのは悪くない。
ハートにはよくこうした装飾品屋が来ている。この地域では、ほぼ毎日どこかでハートが開かれているので、日々あちこち回っている専業の人たちなのだろう。こうした人たちの家族は町で店舗を構えているのかもしれない。部族の女性たちが着用する金のノーズリングや太い銀の首輪なども含めていろいろ持ってきている。
村落などでのハートには普遍的に見られて、町中ではあまり見かけないのは、村で自家醸造した地酒を持ってきて開く「青空バー」だろう。会場であるバススタンドの真横に警察署があるため遠慮しているのかもしれないし、町の人は普通に酒屋で売られている酒のほうに関心があり、部族の酒など見向きもしないのかもしれない。
村からこうしたハートに出てきて商う部族の人たちの場合、品物が手に持てる範囲であれば20km、25kmくらい平気で歩くそうだ。マーケットは昼からなのに朝3時くらいに村を出るというケースもよくあるらしい。近郊の村、つまり道路が通っている村から大量の野菜などを運ぶ人はジープなどを手配して仲間たちと一緒に町へ出てきている。

国道上にある交通の要衝の町なので、かなり大量に売り買いする人が多いいっぽう、あまり欲のないご夫婦もいた。
「週に一度、こうして売りにくるだけだよ。他の日はどうしてるかって?寝てるか畑仕事だなぁ。」
なんだか売り物もずいぶん少ない・・・。
巨峰くらいの粒サイズのジャングルトマトも売られていた。部族の村の特産品とのことで、味が濃く滋養に富むとのこと。町の人たちにも好評だそうだ。


ラーイプル駅周辺の人通りの多いエリアには食堂が多く、ターリー100Rs, 80Rs, 50Rsというような段階別の価格設定をしている店の他に、50Rsと表示しているところも目に付く。
中には、ご飯、ダール、サブズィーで20Rsの店があるいっぽう、なんと10Rsの店もある。
このあたりになると、ご飯の中にところどころ小石が入っていて、うっかり強く噛んだら歯が欠けるような感じだろう。こういう店は、「食事はゆっくり咀嚼していただくのもの」という教訓を与えてくれる。






パトナが4割くらいのサイズになった貧しい街(人口比ではだいたいその程度)なのだろうと想像していたラーイプルだが、中心地域はかなり華やかだ。
ミドルクラスが出入りするようなスポットがけっこう多く、ファッション関係の店が集まるエリアが広大で、しかも店の構えも大きく立派だったりする。
意外なまでに都会的な装いの人たちが多く、子持ち世帯の父親や母親たちにもファッショナブルな人たちが少なくなく、経済的なゆとりを感じさせてくれたりもする。意外なまでに景気の良さを感じさせてくれる州都である。






シティーセンター・モールは、チャッティースガル州都ラーイプルの文字通り商業地の中心エリアにある大型モール。
各種ブランドのショップ、洒落た家具や調度品の店、アウトドア用品の専門店も入るなど、かなり頑張っている。今のところ空きプロットが無いという点も評価できるだろう。この手の商業施設としてはとても大事なポイントだ。
だが上階に行くと、やはりチャッティースガル州都の限界が露呈しており、田舎町のメーラーで出店していそうな業者が入っていたりする。このあたりは空きを作りたくないが、あまり変なものを入れるわけにはいかない。けれどもやむなく・・・・という経営判断があったに違いない。まったくトレンディーではない感じのヘアサロンもどうかと思う。



さらには、ちょっと崩れた感じのお兄ちゃんたちが切り盛りする複数の「タトウー屋」が店を構えている一角も「場末な雰囲気」を醸し出している。当然、あまり目立たない隅っこのほうの場所があてがわれている。彼らにとっては、州都ラーイプルでこのような場所に出店できるというのは、業者自身にとっての「ブランド化」にはかなり有効なのだろう。

またビミョーなものとしては州政府エンポリアム。「身元はしっかりしている」とはいえ、まったくもってあか抜けない。せっかく力を入れているモールなのだが、やはりライプルではブランドの店を揃えるには、まだまだ高い壁が感じられる。

一見、高級ブランドのショールームのように見えるのだが、スペイン版のユニクロと言えるZARAの店。こうしたイメージ作りに貢献してくれそうな物件に事欠かないのがインドとはいえ、ムンバイの地価は世界でも上位クラスなので、おそらくZARAはインドにおける旗艦ショップとして大きな投資をしたのだろう。
中を少し歩いてみるとすぐに気がつくのだが、コロニアル建築を改築して利用しているのではなく、「新築」している。
つまり外壁の部分を残して、あとはすべて建て直してあるのだ。
欧州や南米でもこのようなことはとうの昔から行われており、アジアでもシンガポールやマレーシアでは、かなり前から街並み保存のために道路に面した外観だけ残して新築というのはよく行われてきたが、インドではそのようなことはほとんどなされず、英領期の景観が失われていくいっぽうだったが、こうしたことがなされるのは喜ばしい。通りをはさんだ反対側を少し北上したあたりでも、同様のやりかたで工事が進んでいる物件があり、「とりあえず外観は残す」というものが流れとなっていくのかもしれない。
それでもやはり、面の皮だけ残して・・・というのは寂しいものがある。植民地建築の魅力は外壁だけではなく、内装の重厚さや目の届くあらゆる部分に及ぶからだ。



マーク・トウェインが逗留したことでも知られる旧ワトソンホテルに入ってみた。植民地期のボンベイを代表するホテルであった歴史があるが、1960年代に廃業し、エスプラネードマンションというオフィスビルに変わっている。
2018年後半、行政当局から入居者たちに対して退去命令が出ている物件だ。理由は危険なまでに老朽化していることだが、まだ退去していない者がたくさんいるようだ。ここに入居しているのは、法律事務所が多い。裁判所が近いという立地が好まれてのことらしい。

非常に幅広な階段が、なんとなく「ムンバイを代表する元高級ホテル」の面影を感じさせる唯一の部分だ。予備知識なしに踏み込んだとすれば、フロアーが非常に細かく壁で細分化されているため、「ホテルであった」と言われても、そうとはまったくわからないだろう。

本来ならば、1869年に完成したインド最古の鋳鉄構造の「ヘリテージビルディング」として保護されるべき対象らしいのだが、そこは民間資産のためオーナーにその意志がなければ、どうにもならないようだ。
2018年7月の報道によると、ベランダの一部が崩壊して落下し、下に停めていたタクシーが壊れたとのこと。幸いなことに運転手はこのときクルマから離れており、事なきを得たとのこと。
Mumbai: Part of 19th Century Esplanade Mansion collapses, crushes a taxi (scroll.in)
この旧ワトソンホテル華やかなりしころ、パールスィー実業家ジャムセートジー・ターターがタージマハルホテルを創業するきっかけになったという逸話がある。
当時のボンベイ随一の高級ホテルは「ホワイトオンリー」のポリシーをもって運営されており、数々の有名人が宿泊したことでも知られる。
その逸話とは、ジャムセートジーが入館を断られたため、インド人のためのこうした立派なホテルを建てようと決意したというもの。今ではもっともらしく語られるが、これが実話であるかについてはなんとも言えない。
当時、ムンバイのパールスィーやユダヤ人上層部は白人社会に軸足を置いていたし、当時の彼は白人社会において有力者でありVIPでもあった。ホテルにそんな実力者の入館を拒む勇気があっただろうか?
もしかすると、インド人の部下たちを引き連れて会合を持とうとしたり、インド人実業家を連れての予約を打診したら「お連れの方々が・・・」と、色よい回答が得られなかったということはあったかもしれない。
あるいは、こういうことかもしれない。イギリス統治下で地場資本が成長し、インド人有力資本家が次々に育つ中、またインド高等文官試験の受験が「ネィティブ」つまりインド人たちにも開放され、白人役人をアゴで使う「インド人高級官僚」がこれまた次々と出てくるといった世相の当時だ。
「白人社会の顧客のみを相手にしていてはもったいない」と、インド人上層部が広がる世相を高級ホテル業参入への好機と捉えたのではないだろうか。
パールスィーという人口規模が極めて少ないマイノリティーが率いるターター財閥だが、まさにそれがゆえに「愛国的資本」というイメージを創出することに代々努めている。ジャムセートジーが入館を断れて・・・という、もはや史実のようになってしまっているが、私はこれについてはかなり懐疑的だ。あくまでも私の個人的な意見ではあるのだが。
以前、「鉄道でデリーからレーに移動することできる時代がやってくる?」と題して、デリーからヒマーチャル・プラデーシュを経由してラダック、そしてスリナガルへと至る鉄道建設計画について取り上げてみたことがある。
リンク先動画はCGだが、ラダックを走る鉄道計画が実現したらこのような具合になるのだろう。しょっちゅう土砂崩れなどで通行止めになりそうな気もする。
ムンバイの旧バラード・ピア・モール駅が再オープンするかも?というニュースがだいぶ前にあったが、その後どうなったのだろう。
植民地期末期に廃止されている駅だが、ヴィクトリア・ターミナス駅のすぐ東側のため、ヴィクトリア・ターミナスが手狭にでもなって、発着の一部をそちらに回すのかな?と想像していたが、その後の様子が伝わってこない。
ところで、このバラード・ピア・モール駅だが、ここを始発としていたフロンティア・メールなどの特急列車に英国などからの大型客船が桟橋に到着後、降船した乗客はそのまま列車へ・・・という具合に接続していたらしい。
このバラード・ビア・モール駅が廃止となるあたりまでは、現在のもうひとつの終着駅としてチャーチゲートではなくコラバ駅が運用されていた。
いまや鉄道のターミナスがあったという痕跡さえなく、往時は列車が往来していたチャーチゲート・コラバ間の鉄路がどこを走っていたのかも、今の街並みからは想像もできないのだが。
Historic railway station in Mumbai may be reopened (The Tribune)