ラーイプル駅周辺の人通りの多いエリアには食堂が多く、ターリー100Rs, 80Rs, 50Rsというような段階別の価格設定をしている店の他に、50Rsと表示しているところも目に付く。
中には、ご飯、ダール、サブズィーで20Rsの店があるいっぽう、なんと10Rsの店もある。
このあたりになると、ご飯の中にところどころ小石が入っていて、うっかり強く噛んだら歯が欠けるような感じだろう。こういう店は、「食事はゆっくり咀嚼していただくのもの」という教訓を与えてくれる。






ラーイプル駅周辺の人通りの多いエリアには食堂が多く、ターリー100Rs, 80Rs, 50Rsというような段階別の価格設定をしている店の他に、50Rsと表示しているところも目に付く。
中には、ご飯、ダール、サブズィーで20Rsの店があるいっぽう、なんと10Rsの店もある。
このあたりになると、ご飯の中にところどころ小石が入っていて、うっかり強く噛んだら歯が欠けるような感じだろう。こういう店は、「食事はゆっくり咀嚼していただくのもの」という教訓を与えてくれる。






パトナが4割くらいのサイズになった貧しい街(人口比ではだいたいその程度)なのだろうと想像していたラーイプルだが、中心地域はかなり華やかだ。
ミドルクラスが出入りするようなスポットがけっこう多く、ファッション関係の店が集まるエリアが広大で、しかも店の構えも大きく立派だったりする。
意外なまでに都会的な装いの人たちが多く、子持ち世帯の父親や母親たちにもファッショナブルな人たちが少なくなく、経済的なゆとりを感じさせてくれたりもする。意外なまでに景気の良さを感じさせてくれる州都である。






シティーセンター・モールは、チャッティースガル州都ラーイプルの文字通り商業地の中心エリアにある大型モール。
各種ブランドのショップ、洒落た家具や調度品の店、アウトドア用品の専門店も入るなど、かなり頑張っている。今のところ空きプロットが無いという点も評価できるだろう。この手の商業施設としてはとても大事なポイントだ。
だが上階に行くと、やはりチャッティースガル州都の限界が露呈しており、田舎町のメーラーで出店していそうな業者が入っていたりする。このあたりは空きを作りたくないが、あまり変なものを入れるわけにはいかない。けれどもやむなく・・・・という経営判断があったに違いない。まったくトレンディーではない感じのヘアサロンもどうかと思う。



さらには、ちょっと崩れた感じのお兄ちゃんたちが切り盛りする複数の「タトウー屋」が店を構えている一角も「場末な雰囲気」を醸し出している。当然、あまり目立たない隅っこのほうの場所があてがわれている。彼らにとっては、州都ラーイプルでこのような場所に出店できるというのは、業者自身にとっての「ブランド化」にはかなり有効なのだろう。

またビミョーなものとしては州政府エンポリアム。「身元はしっかりしている」とはいえ、まったくもってあか抜けない。せっかく力を入れているモールなのだが、やはりライプルではブランドの店を揃えるには、まだまだ高い壁が感じられる。

一見、高級ブランドのショールームのように見えるのだが、スペイン版のユニクロと言えるZARAの店。こうしたイメージ作りに貢献してくれそうな物件に事欠かないのがインドとはいえ、ムンバイの地価は世界でも上位クラスなので、おそらくZARAはインドにおける旗艦ショップとして大きな投資をしたのだろう。
中を少し歩いてみるとすぐに気がつくのだが、コロニアル建築を改築して利用しているのではなく、「新築」している。
つまり外壁の部分を残して、あとはすべて建て直してあるのだ。
欧州や南米でもこのようなことはとうの昔から行われており、アジアでもシンガポールやマレーシアでは、かなり前から街並み保存のために道路に面した外観だけ残して新築というのはよく行われてきたが、インドではそのようなことはほとんどなされず、英領期の景観が失われていくいっぽうだったが、こうしたことがなされるのは喜ばしい。通りをはさんだ反対側を少し北上したあたりでも、同様のやりかたで工事が進んでいる物件があり、「とりあえず外観は残す」というものが流れとなっていくのかもしれない。
それでもやはり、面の皮だけ残して・・・というのは寂しいものがある。植民地建築の魅力は外壁だけではなく、内装の重厚さや目の届くあらゆる部分に及ぶからだ。



マーク・トウェインが逗留したことでも知られる旧ワトソンホテルに入ってみた。植民地期のボンベイを代表するホテルであった歴史があるが、1960年代に廃業し、エスプラネードマンションというオフィスビルに変わっている。
2018年後半、行政当局から入居者たちに対して退去命令が出ている物件だ。理由は危険なまでに老朽化していることだが、まだ退去していない者がたくさんいるようだ。ここに入居しているのは、法律事務所が多い。裁判所が近いという立地が好まれてのことらしい。

非常に幅広な階段が、なんとなく「ムンバイを代表する元高級ホテル」の面影を感じさせる唯一の部分だ。予備知識なしに踏み込んだとすれば、フロアーが非常に細かく壁で細分化されているため、「ホテルであった」と言われても、そうとはまったくわからないだろう。

本来ならば、1869年に完成したインド最古の鋳鉄構造の「ヘリテージビルディング」として保護されるべき対象らしいのだが、そこは民間資産のためオーナーにその意志がなければ、どうにもならないようだ。
2018年7月の報道によると、ベランダの一部が崩壊して落下し、下に停めていたタクシーが壊れたとのこと。幸いなことに運転手はこのときクルマから離れており、事なきを得たとのこと。
Mumbai: Part of 19th Century Esplanade Mansion collapses, crushes a taxi (scroll.in)
この旧ワトソンホテル華やかなりしころ、パールスィー実業家ジャムセートジー・ターターがタージマハルホテルを創業するきっかけになったという逸話がある。
当時のボンベイ随一の高級ホテルは「ホワイトオンリー」のポリシーをもって運営されており、数々の有名人が宿泊したことでも知られる。
その逸話とは、ジャムセートジーが入館を断られたため、インド人のためのこうした立派なホテルを建てようと決意したというもの。今ではもっともらしく語られるが、これが実話であるかについてはなんとも言えない。
当時、ムンバイのパールスィーやユダヤ人上層部は白人社会に軸足を置いていたし、当時の彼は白人社会において有力者でありVIPでもあった。ホテルにそんな実力者の入館を拒む勇気があっただろうか?
もしかすると、インド人の部下たちを引き連れて会合を持とうとしたり、インド人実業家を連れての予約を打診したら「お連れの方々が・・・」と、色よい回答が得られなかったということはあったかもしれない。
あるいは、こういうことかもしれない。イギリス統治下で地場資本が成長し、インド人有力資本家が次々に育つ中、またインド高等文官試験の受験が「ネィティブ」つまりインド人たちにも開放され、白人役人をアゴで使う「インド人高級官僚」がこれまた次々と出てくるといった世相の当時だ。
「白人社会の顧客のみを相手にしていてはもったいない」と、インド人上層部が広がる世相を高級ホテル業参入への好機と捉えたのではないだろうか。
パールスィーという人口規模が極めて少ないマイノリティーが率いるターター財閥だが、まさにそれがゆえに「愛国的資本」というイメージを創出することに代々努めている。ジャムセートジーが入館を断れて・・・という、もはや史実のようになってしまっているが、私はこれについてはかなり懐疑的だ。あくまでも私の個人的な意見ではあるのだが。
以前、「鉄道でデリーからレーに移動することできる時代がやってくる?」と題して、デリーからヒマーチャル・プラデーシュを経由してラダック、そしてスリナガルへと至る鉄道建設計画について取り上げてみたことがある。
リンク先動画はCGだが、ラダックを走る鉄道計画が実現したらこのような具合になるのだろう。しょっちゅう土砂崩れなどで通行止めになりそうな気もする。
ムンバイの旧バラード・ピア・モール駅が再オープンするかも?というニュースがだいぶ前にあったが、その後どうなったのだろう。
植民地期末期に廃止されている駅だが、ヴィクトリア・ターミナス駅のすぐ東側のため、ヴィクトリア・ターミナスが手狭にでもなって、発着の一部をそちらに回すのかな?と想像していたが、その後の様子が伝わってこない。
ところで、このバラード・ピア・モール駅だが、ここを始発としていたフロンティア・メールなどの特急列車に英国などからの大型客船が桟橋に到着後、降船した乗客はそのまま列車へ・・・という具合に接続していたらしい。
このバラード・ビア・モール駅が廃止となるあたりまでは、現在のもうひとつの終着駅としてチャーチゲートではなくコラバ駅が運用されていた。
いまや鉄道のターミナスがあったという痕跡さえなく、往時は列車が往来していたチャーチゲート・コラバ間の鉄路がどこを走っていたのかも、今の街並みからは想像もできないのだが。
Historic railway station in Mumbai may be reopened (The Tribune)
なんとインドの「OYO」が日本進出というニュース。これにはビックリした。しかし既存の宿泊施設がこれによって圧迫されるというような懸念はないだろう。
このOYO、自前でホテルをバンバン建設して・・・というものではなく、既存の宿泊施設を勧誘してOYOに加盟させるというスタイルだからだ。
よって、インドの大きな繁華街では、狭い一角にOYOが3件も4件もあり、通りを渡るとまた別のOYOがある・・・というような光景が展開している。初めて目にすると、本館、別館、そのまた別館・・・と拡張したホテルみたいに思うかもしれない。しかし、それらはまったく経営者が異なる別々のホテルなのだ。
ホテル運営と集客のノウハウを伝授し、マーケティングを行い、OYOのウェブサイトでも各地のOYOへピンポイントでお客から予約が入るように誘導するなどの見返りに、これらのホテルからOYOがロイヤリティ等の支払いを受ける。
そんなわけでロゴマークの入った看板以外は、OYO独自のスタイルというようものはなく、元々の宿のスタッフたちがこれまでと同じように働いている。たいていの場合、OYOに入るのは、元からダメだったホテルで、OYOからの指導により、なんとか稼げるようになることを画策している施設。
日本でOYOに入ろうという宿泊施設はどんなところかといえば、なんとなく想像がつくように思う。経営が苦しい施設にとっては、もしかしたらいくばくかの助けになるのかもしれないのだが、利用者にとっては特に魅力がないのがOYOの特徴といえば特徴。近い将来、日本でOYOの看板を見つけたら「経営者芳しくない施設だね」と理解してほぼ間違いないのだ。
2018年10月1日から日本及び韓国の国籍所持者に対して、ミャンマーへの観光目的で渡航する際の査証が免除となった。これにより30日以内の滞在が可能となる。入国地点は、ヤンゴン国際空港、マンダレー国際空港、ネーピードー国際空港、タイとの陸路国境のタチレク、ミャワディー、コータウン、ティーキー、そして入国地点として利用する機会はあまりないかもしれないがヤンゴン港でもこの措置を利用できる。
1年間の期限付きとなっているが、特に問題が生じない限りは、往々にしてさらに延長されるものだ。私たちとしてもこの措置を歓迎したい。