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カテゴリー: travel

  • Markha Valley Trek  The Day 3

    Markha Valley Trek The Day 3



    ルート上にある茶屋

    朝7時半にスキウの村を出発。マールカー村を目指して川沿いに歩いて行く。その日によって楽しむ景色が異なるのがいい。初日は斜面と耕作地、2日目は高い峠と長い下り坂、3日目の本日は、川の流れ沿いに進んでいく。
    浅瀬を選んで渡渉するが、連日の雨で川が増水しているのが少々厄介

    マールカー川に注ぐ支流とマールカー川で、本日は何回かの渡渉があった。マールカー川の水は濁った深い茶色。氷河や雪解け水が水源であるため、まるで氷水のように冷たい。少し浸っているだけでしびれてしまうほどだ。








    途中、競争しているわけではないのだが、他のトレッカーたちに追い付いたり、追い越したり、追い越されたりもする。こうしたことを繰り返しつつ進んでいくにつれて、いつしか顔見知りとなり、次の休憩地や宿泊地で話をしたりするようになってくる。

    テントやら自炊用具やらすべてを背負ってキャンプしながら回っている頑強なイングランド人男性(有り余るパワーがうらやましいほど)とその彼女、NGOのスタディーツァーで来ているフランスの大学生グループ、同じくフランスから来たシニア夫婦、キューバ人男性とイタリア人女性のカップル等々、人気のルートなのでいろんな人たちと知り合うことができるのもまた楽しい。

    村ではペットボトルのコーラその他の清涼飲料水は高値で売られているが、ミネラルウォーターのボトルを見かけない。これは販売が禁止されているからとのこと。その代わりに村々でホームステイを受け入れている家には、UV殺菌機能付きの水のフィルター浄化装置が配布されているとのことである。だが、そのフィルターがどの程度信頼できるものなのかわからないし、山歩きのときに下痢にでもなったらたまらないので、やはり宿泊先で沸騰させたお湯を頼むほうが安心なのではないかと思う。


    マールカー村に到着

    瑞々しい畑の眺めが美しい

    幾度か、マールカー川のこちらから向こうへ、あちらからこちらへと渡渉しつつ歩いて来たら、やがてマールカーの村にやってきた。マールカーの村は川の北岸にある。宿泊したのは村の東の外れに近い部分。少し先には川があり、そこから先にも数軒の家がある。
    マールカーのゴンパ

    ゴンパの裏手

    宿泊先はマールカー・ゴンパの隣の家。ゴンパは改装中で、村人たちがボランティアで材木を切ったり、壁にペンキを塗ったりといった大工仕事をしていた。このゴンパは、マールカー川沿いではなかなか由緒あるものらしい。

    風が強くなると、続いて雲が押し寄せてきて間もなく雨となる。まさに「風雲急を告げる」といった感じだ。山の天気は変わりやすい。

    この晩の食事はスキウという料理。日本のすいとんのようで好きだが、ラダックの料理は総じて非常に薄味だ。

    午後7時くらいに食事を出していただき、8時半には就寝した。

    〈続く〉

  • Markha Valley Trek  The Day 2

    Markha Valley Trek The Day 2




    屋上に設置されている太陽電池。これが日没後の居間の照明を灯す電源となる。

    ユルツェのホームステイ先で、朝の6時くらいに目が覚めた。昨夜寝たのはずいぶん早かったので、ゆうに9時間半は寝たことになる。実にすっきりとした爽快な気分だ。午前7時に宿泊者たち全員が居間に集合して朝食、そして7時半過ぎに出発。
    ホームステイ先を出発

    ガンダ・ラ・ベースキャンプまで1時間くらい、そしてガンダ・ラという峠までそこから1時間半程度の道のり。雪を被った峰を仰ぎながら、少々急な斜面で息を弾ませながら登っていく。
    キャンプサイト

    この地域の運搬手段は馬とロバ

    川沿いに進んでいく

    しばらく登ると、川の流れはこんなに細くなってきた。

    ここから先の登りは少々きつい

    こちらは水をがぶ飲みしながら肩で息をしているのだが、ガイドのタシ君は呼吸が荒くなることもないようで、涼しげな表情で歩いている。彼の出身のアリアン・バレーの地域はラダックの中でも標高は高くなく、彼自身はずいぶん長いことジャンムーの学校に通っているのだが、ラダック生まれだけあって呼吸器の造りが違うのだろうか?と思ってしまう。

    地表から湧き出る清水

    冷たい清水をふんだんに吸って育つ高山植物

    あと少しでガンダ・ラに着く


    ところどころで地表から澄んだ清水が湧き出ており、こうした細い流れの筋がユルツェの村の前を流れる川に注いでいる。
    ガンダ・ラ

    来た道を振り返ってみる。

    ガンダ・ラという峠に来た。標高は4,980mとのことだが、周囲に残雪もなく殺風景なので、そんな高地にいる気はしない。
    ガンダ・ラから下るときに出会った馬とロバのキャラバン

    羊の放牧

    ガンダ・ラからは長く緩い下りとなる。峠が分水嶺となるため、これまで来た道筋とは反対の方向に水が流れている。息を切らせて登っているときにはあまり気が付かなかったマーモットの姿を楽しむ気持ちの余裕が出てきた。ここから先、シンゴの村までは緩い下り坂が続いている。いくつものマーモットの巣があり、ガイドのタシが口笛を吹くと背を伸ばしてこちらを見ている。ところどころ集合しており、まるでみんなで会話をしているかのようで可愛い。
    巣穴から出てきたマーモットたち



    シンゴの村まであとわずか

    シンゴから先は傾斜が急になる。いくつかの川を越える。越えるといってもここでは流れの中で石伝いに渡るだけである。あるいは川岸にふんだんにある大きな石を川の中に投げて踏み台にしたりする。ところどころで清水が湧いており、いかにも「川のはじまり」といった感じがする。
    2010年にラダックを襲った洪水の際には、このあたりでトレッカーたちが流されたとのこと。

    しばらく進むと谷が細く深くなっている。このあたりでは、ラダックを襲った2010年の洪水の際には土石流の被害があったとのことで、キャンプしていた人たちが流されたりもしたそうだ。確かに今でもその土石流の後らしきものが確認できる。そうした荒天の際には、逃げ場がないだけに危険である。
    岩に含まれるミネラル分の違いからか、ずいぶん色合いの異なる山肌

    美しい花が咲いている。


    狭小な渓谷を過ぎると景色が急に開けた。スキウの村まであと少し。

    深く狭い谷を通過して、少し開けた谷に出た。ここからの斜面は緩く、ダラダラと下っていくとスキウに到着する。午前7時40分に出発して、午後3時半に到着したので、8時間ほどかかったことになる。宿泊先はスキウの村の東の端。明日の行程が少し短くなるから、とのことである。
    スキウの村に到着

    翌日からはマールカー渓谷沿いを歩く

    この日のホームステイ先の家の切り盛りするのはジグメットさんという男性。父母と兄弟合わせて5人、そして9歳と3歳半の子供とのこと。9歳の子はレーの学校に通っており、寮生活をしているとのことだ。夏休みは15日、冬休みは2か月半から3か月くらいとのことだが天候によるらしい。ラダックの冬は寒い、そして厳しい。こうした休みの時期にだけ学齢期の子供たちが帰宅するのだそうだ。
    クルマが行き来できるチリンからここスキウの村までは近いため、まだいいかもしれないが、それでも小学校に入ったばかりの子供がひとりでレーに出たり、帰ってきたりというのはかなり大変だろう。村の子供たちと一緒に移動するにしても、さらに遠い村では途中で宿泊する必要があるし、大変厳しいものがある。もしかしたら携帯電話も持たせているのかもしれないが、山の中では通じないだろう。そんな環境のもとで、自立心が養われることは間違いないにしても、これまた厳しいものがある。

    〈続く〉

  • 日本におけるインドのヴィザ関連業務委託先変更

    何を今さら、と言われるかもしれないが、今年の4月から日本においてインドのヴィザ関連業務担当機関が変更となった。これにともない、東京で私たちが申請に出向く場所も文京区大塚から港区芝へと変わっている。旧ヴィザセンターが移転したわけではなく、業務委託先の会社そのものが変更となったようだ。

    ヴィザ業務担当機関が2015年4月1日より変わりました (駐日インド大使館)

    IVS Global Japan (インドヴィザ申請センター)

    Google等で検索すると、今年3月まで業務を担当していた旧ヴィザセンターのJapan Overseas Corporationのウェブサイトも引っかかってくるので紛らわしいのだが、うっかりそちらに出かけてしまうことのないようにご注意願いたい。

  • Sia-La Guest House

    Sia-La Guest House

    Sia-La Guest House

    「Assalaam Aleikum…」
    またこの宿の門をくぐると、スタッフのスディール君が迎てくれて母屋に声をかけると、出てきてくれたおかみのザリーナーさんのはじけるような笑顔が眩しい。居間に通されて、ご主人のグラームさんを交えてしばし雑談。

    ここ数年、夏にはラダックを訪問している。レーで常宿となっているのはSia-La Guest HouseというFort Roadから少し脇に入ったところにある宿泊施設。静かな立地ながらも、レーの町の中心部まで徒歩わずか5分程度。

    西部のカールギルあたりを除けば、仏教徒が大半のラダックにあって、レーには歴史的経緯からムスリムの人たちも多い。ラダック王国時代にカシミール王国から輿入れした花嫁があった際に、王宮が町を見下ろす丘のふもとのエリアにムスリムの人々を住まわせたのが始まりと聞いている。現在もそのあたりはムスリム地区となっており、なんとなく中央アジア的な雰囲気が感じられるエリアとなっている。

    さて、このゲストハウスは、そうした歴史背景を持つ敬虔なムスリム家族による経営。ここしばらくは毎年、夏季にラマザーンの時期がやってきているので、自らの生活のペース(日の出から日没までの断食)と滞在客の食事その他の用事等々)とうまく折り合いを付けながら、ホスピタリティに満ちた応対をしてくれている。

    オーナー夫妻はとかく話好き。家族連れや友人同士のグループから一人旅のお客まで、いろいろまんべんなく声をかけて気を使ってくれる。楽しい会話とともに、彼らの暮らしぶりを垣間見ることができて興味深い。曽祖父がラダックで初めて英文で本を著した人物でもあるオーナー氏は、レーの町の歴史的な経緯等について、かなりの事情通でもある。

    清潔で快適な部屋が用意されており、NGO関係者を含めた滞在客にはリピーターが多いようだ。宿泊料金についてはこちらをご参照願いたい。

    宿の中庭は菜園になっており、畑と建物の間にはいくつかのテーブルとチェアがしつらえてあり、WIFIを利用することができる。座っているとスタッフたちがすぐにお茶を勧めてくれる。これは宿泊費に含まれている。自室以外に自由に使えるこうしたスペースがあることによって、他の宿泊客たちと知り合って、おしゃべりをしたり、あるいはトレッキングに同行したり、クルマをシェアして何泊かで出かけたりといった楽しみの幅が広がるものだ。こういうスペースの有無によって、宿の快適度が大きく左右される部分もある。

    夏のシーズン中はかなり込み合うため、早めにメールや電話により予約しておいたほうがいいだろう。通常、メールによる問い合わせについては迅速に回答をもらうことができるのだが、ラダックにおいてはインターネットが数日間、いや数週間に渡ってダウンしてしまうという頼りないこともしばしば起きるため、「あれ?どうしたのかな?」と思ったら、インド国内においては電話、国外からの場合はスカイプ等で電話をかけてみたほうがいいかもしれない。

    家族経営の宿について、アットホームな雰囲気で楽しい会話等が楽しめる反面、往々にしてルーズなマイナス面もあったりするものだが、このゲストハウスにおいてはそうした弱点は見当たらない。

    ラダック人ムスリムのオーナー夫妻の元で働くジャールカンド州から来た出稼ぎスタッフたちが、かなり長い期間に渡って毎年夏にはここに来て働いている。そうした彼らとオーナー夫妻との間で築かれている信頼関係もまた大変好ましく感じられるところだ。

    このゲストハウスの施設ではないのだが、隣にパドマゲストハウスという、ここよりも少々アップマーケットな宿がある。そこの屋上にあるレストランは、私の知る限りではレーにおいて最も見晴しの良い食事どころであり、ストックカングリー峰を含めたレーの南側に位置する山脈を眺めながら食事を楽しむことが出来る。とりわけ日没の眺めは最高だ。

    先述のとおり、静かなロケーションながらも町中心にごく近いこと、清潔で居心地が良いこと、暖かくフレンドリーな家族経営であることに加えて、こうした周囲のロケーションも併せて、レーにおける私の常宿となっている。

    普段は宿についてこだわりは何もないので、特に宿泊先について記すことはほとんどない私だが、ラダックの中心地レーの町において、ここはとてもお勧めの一軒である。

    Sia-La Guest Houseホームページ

  • レーでバンド 2

    レーでバンド 2

    7月22日、外の道路ではずいぶん早くからクルマのエンジン音がしていた。宿の奥さんの話では、本日の朝のフライトであった人たちは朝4時にタクシーで宿を出たそうだ。それ以降の時間帯になると本日のバンドのため走らないのでやむを得ずそんな変な時間帯に出ることになったそうだ。日の出前からクルマが走り回る音がしていたのはまさにこれだろう。

    また、本日のフライトにて空港から宿にやってくる人たちがいたが、彼らについてはタクシーがないため、政府が用意したヴァンでレー市内の各所に回ることになったとのこと。そうした人たちが数人、私の滞在先にもやってきた。バスは無料ではなく、1人あたり20ルピー徴収されたとのこと。

    本日のバンドでは、自家用車やバイクにも運転自粛を呼び掛けており、無理に走ると投石される危険があるとのことでもある。そんなわけで、外を走るクルマはほとんどなかった。スリナガル方面から、あるいはヒマーチャル方面からこちらに向かっているクルマについては、ラダック地域に入る手前のところで止められてしまうであろうという話も耳にした。









    レー市街地では、路地裏の店まで、食堂や旅行代理店などを含めて見事に休業。チャングスパロードも完全に休みとなっている。唯一普段どおりに開いていたのは、ステイトバンクオブインディアの支店のみ。加えて、家屋やビルの新築や改装工事、メインバーザールの再開発工事の作業員などは、普段と同じように仕事していた。野菜や果物を売るラダック人の女性たちが路上で商っている姿はわずかながらあった。

    市内の要所要所では、警官たちが警備している。中にはかなり重厚な装備をしている者もあり、万一の衝突があった場合などに備えているのだろう。

    メインバーザールのゴンパでは、高僧らしき人物による説法が行われていて、白昼の路上の寂しさとは裏腹に、ここだけには人々が集まっている。・食事やチャーイも振る舞われている。

    今朝方、デリーから到着して地元政府が用意したバスにて宿泊先のゲストハウスにやってきたシンガポール人の青年と会った。食事できるところがどこも開いていないし、短い期間で訪れているので、今日のうちにパンゴンツォに行くクルマの手配が出来ないと不安だと言う。ちょっと思いを巡らせてみると、少し奥まったところにあるゲストハウスの屋上のカフェ、そして階下では旅行代理店業もやっていることが頭に浮かんだ。

    少々歩いてそこに向かってみると、ドンピシャリであった。道路からかなり引っ込んだところに中庭があり、さらに奥なので平常通りの営業であった。彼には喜んでもらえて幸いである。困ったときは旅行者同士お互い様だ。食事を終えて、さらには彼がパンゴンツォに行く予約を済ませてから、することがないのでチャングスパロードを進んだところにあるシャーンティ・ストゥーパに行くことにした。普段はインド人や外国人の観光客が多く訪れるこの場所だが、今日ばかりは仕事から解放されてヒマになったビハール、UP、ネパールなどからやってきている出稼ぎ人たちが休みを楽しんでいた。

    バンドの期限となる時刻が近づいてくると、店のシャッターを半分ほど開けて様子を窺っていたり、小声で呼び込みをしたりする店などが出てきた。そして午後7時になると、もうすっかり多くの店が平常どおりに営業を始めた。短い観光シーズンの中の貴重な1日の損失を少しでも取り戻そうというかのように。日中静けさがまるで嘘のように賑やかな有様となってきている。

    バンドという抗議の形態は、英領末期にガーンディーが率いた反英闘争のときにも頻繁に使われた手法で現在も様々な形で用いられている。
    今回のバンドでも大変迷惑であるというような話をしばしば耳にした。独立運動時代にも政治よりも日々の稼ぎにより関心のある人たちは大勢いたはずなので、当時も「仕方ないなぁ・・・」というのが本音の商売人や大衆も実は大勢いたのではないかと私は思っている。もちろん出会ったばかりの相手にそんなことは言えないが、まぁ世の中そんなものだろう。

    午後の少し遅い時間までは、とても天気が良かったのに、日が沈んでからは雷が鳴りだした。レーでの雷は裏山にこだまするためか、勇壮な太皷の音のように聞こえるのだが、感心ばかりしているわけにはいかない。強い雨が降り出してきた。

    それでもバンドが明けたバーザールでは、大勢の人々が行き交い、各商店での人の出入りも盛んなようである。この日は普段よりも少し遅くまで店を開けているところが多いようであった。

    〈完〉

  • レーでバンド 1

    レーでバンド 1

    午前中からレーの周辺をタクシーで回っていたら、運転手が唐突に「7月22日は明日だよね。明日はバンドとなるはず・・・」などと言う。どういう趣旨のバンドなのか尋ねたが、この人はよく知らないようであった。「理由はよくわからないけど、バンドだというから明日タクシーは走らないし、店も閉まるよ。午後になってからバーザールで話を聞けば判るよ。」とのこと。

    夕方になってからレーの町に戻り、翌日のバンドの詳細に関する情報は簡単に手に入った。具体的な内容は、主に口コミで伝わるようだが、タクシースタンドにバンドに関するポスターが貼り出されていた。

    タクシーユニオンによるバンドの呼びかけのポスター

    これによると、ラダックに自家用車を運転してやってくるインド人たちが環境や安全を省みない無茶をすること、飲酒運転の問題などについて、行政が何の対策も取っていないことに対する抗議としてのストライキということになっている。

    その建前の裏には、自家用車で来られると地元の短い観光シーズンに貢献する度合いが低くなる(タクシーの売上が上がらない)ことについての不満があるとのこと。外から自家用車を運転してやってくるインド人たちの中にマナーが非常に悪い人が決して珍しくないことと合わせて、ユニオンは常々申し入れをしていたようだが、なかなか聞く耳を持たないため、「それならば自分たちで対策を取る」と呼びかけたのが今回のバンドとなるようだ。

    しかしながら、ユニオンが呼びかけてここまで完全なストライキが決行できるということについては、おそらく地元の有力な政党のサポートがあるのではないかとも思うのだが、このあたりについてはよく聞いていない。

    今回のバンド、つまりゼネストはレー市内に留まることなく、ラダック地域ほぼ全域でタクシーはもちろんのことほぼすべての商店や事務所等々が閉まることになるようだ。つまりツォモリリ、ヌブラその他にタクシーで出かけている人たちについては、明日一杯は滞在先で足止めということになる。

    バンドは翌日の7月22日午前6時から午後7時までとのこと。

    〈続く〉

  • ハナムコンダーとワランガル

    ハナムコンダーとワランガル

    MGバスステーション

    ハイデラーバードのMGバスステーションは巨大ながらも実によく整備されていて、ATMやきれいな食事場所、夜遅く到着した乗客のための宿泊施設などもあり、利用者に親切な造りになっている。ここからハナムコンダー行きのバスに乗車。3時間強の道のりだ。

    ハナムコンダーはワランガルの隣町。バススタンドからオートでハナムコンダーの1000 Pillard Temple, Bhadrakali Temple, そしてワランガルのFortに行く。

    最初に訪れた1000 pillared templeでちょっと考えさせられたことがある。ASI(インド考古学局)管理下にある遺跡を訪れる際にしばしば感じる違和感だ。歴史的・学術的な価値がゆえに国の責任のもとで管理や調査研究が行われているわけだが、それにもかかわらず、奇妙なものがしつらえてあることが決して珍しくない。



    何が奇妙なのかと言えば、往事のものとは異なる今風のご神像が本殿にしつらえてあったり、そこにプージャーリーが常駐していたりすることだ。大変古いものであっても、個人なり宗教団体の所有ならともかく、歴史的な価値がゆえに、国有化されている場所がこうなるのはおかしい。

    また、ここでの話ではないが、やはりASI管理下のイスラーム関係の遺跡内のモスク跡で、メッカの方角を示すミフラーブのところがサフラン色に塗られていたり、ヒンドゥー教の神像が鎮座していて、やはり正体のよくわからないプージャーリーがデンと構えていたりするというようなことはしばしばある。

    これは遺跡に傷をつけたり、名前を彫ったりしてしまうような子供の悪戯と同じというか、それが堂々とまかり通ってしまっている分、もっと余計に悪質だと私は思う。常駐する職員や警備の人たちもいるのだが。これを許容する現場の側にもそれなりの理由(ひょっとしたら何か実利的な?)があるはずだ。プージャーリーたちは、何もボランティアとか世のため人のためにそうやっているわけではなく、そこで賽銭なり喜捨を受けることにより、食い扶持を稼いでもある。

    Bhadrakali Temple

    次に訪れたBhadrakali Temple。この寺の来歴についてはよく知らないのだが、古い構造物の上に新しい構造物がかぶる形になっている。寺自体はかなり古いものなのだろう。

    このあたりまではハナムコンダーで、いよいよオートはワランガルの市街地に入る。想像していたよりも大きくて賑やかな町だ。地域の主要駅もここにある。この町のシンボルとなっているのはワランガルのFortの遺跡で見られる、鳥居のような印象の門。駅前やカレッジの入り口などにレプリカが建っている。

    街のシンボル的な存在







    さて、このFortだが、丘の上にある城塞を想像されるかもしれないが、カカティア王国時代の神殿・宮殿跡である。ほとんどの構造物が壊れて大地に散らばっている状態だが、一部は少し修復してあったり、石のフロアーが残されていたりする部分もあり、想像力たくましくすれば、往時の様子思い浮かべることはできるだろう。
    Khush Mahal


    Fortの横にはイスラーム王朝時代になってから16世紀に造られたKhush Mahalがあるのだが、中に陳列されているのはこれと時代が異なるヒンドゥー王朝時代の神像ばかりであるのが奇妙だ。
    城壁と門


    帰路は運転手が違うルートで走ってくれた。これにより、さきほどのKhush Mahalの時代に造られたと思われる城壁と門を見ることができた。ワランガルの繁華街とは違い、このあたりは落ち着いたひなびた町並み。地元の人たちばかりのようで、ワランガルにしてもコスモポリタンなハイデラーバードとは異なるローカルなムードが漂っている。

  • CHAWMOHALLA PALACE

    CHAWMOHALLA PALACE

    ハイデラーバードのチョウマハッラー・パレスを見物。現在の当主であり、世俗の権力を有しないながらも、「ニザーム」のタイトルを継承するムカッラム・ジャー(Barkat Ali Khan Mukarram Jah Asaf Jah VIII)は、フランスのニースで生まれで、イギリスに留学していたことがある。

    最初の后はトルコのオスマン家のエスラ王妃。だが彼女との結婚生活は15年で破綻。これまで5度の婚姻を経ているが、あまり結婚運には恵まれなかった人物らしい。ハイデラーバード藩王国は、ムガルの家臣でトルコ系の血筋。初代のアスィーフ・ジャー1世の祖父は現在のウズベキスタンのサマルカンドの出身の武人であった。

    ハイデラーバードのニザーム(現在も当主の所有)の宮殿ともなると、田舎の藩王国のそれとは洗練度が違うようだ。インド各地の藩王国の多くとは、ずいぶん格が違うことは素人目にも明らか。展示品も、良いものを品良く陳列していた。おそらく管理運営はどこか専門の企業に委託しているのではないかと思われる。ゴテゴテと並べ立てた感じではないところもまた洗練度の高さを感じる。

  • Old & New

    Old & New

    伝統的な水甕

    バーザールの歩道に素焼きの甕がしつらえてあり、そこで働く人はもちろんのこと、道行く人々もそこから水を汲んでは飲んでいる。素焼きの表面に染み出た水分が蒸発する際の気化熱で冷却されるため、夏季で高温の屋外ではなおさらのことひんやりと感じられる。

    こうした甕は日々水を交換したり、中をゴシゴシと洗浄したりなど、きちんと管理されているようだ。炎天下にあっては、まさに命の水。一服の涼感、そして脱水症予防。ちょっとした社会貢献でもあり、徳を積む行為でもある。

    モダンな水甕

    いっぽう、ちょっとモダンな「水甕」もある。テーランガーナー州で、街外れの一角に設置された冷水機。通行人はもちろんのこと、ここを通りかかるタクシーやオートの運転手なども冷水を汲んで飲んでいる。かなり知られたスポットのようで、反対車線を走っていたオートが、わざわざUターンして訪れたりなどもしている。

    しばらく眺めていると、利用者のほとんどは運転手、行商人、ガードマンなど、暑い最中に額に汗して働く人々。冷水機の提供者は宝石店。お店の客層とは関係なさそうな相手に貢献していることに心意気を感じる。

  • 街中あちこちから聞こえてくるコトバ

    ハイデラーバード旧市街のムスリムたちはウルドゥーを母語にする人たちが多いと聞いていたが、街中を歩いていると想像していた以上にこの言葉による会話が聞こえてくるのにちょっと驚いた。歴史的経緯があるとはいえ、デカンのこの地に昔から根付いたウルドゥー語圏があるのは興味深い。

    旧市街を出ても、商業地ではウルドゥーやヒンディーを耳にすることが多くて、これはいったいどこなのか?と思ったりもする。

    私の勝手な推測だが、おそらくこんな具合なのではなのではなかろうか。

    ・大都会で、しかもウルドゥー/ヒンディー話者人口が多いというインフラがあるので、北インド各地から移住した商売人も多い。
    ・同様の理由からネパールやビハールからの出稼ぎ人も多く働いている。
    ・もちろん、出張や観光を含めた一時滞在者も大勢いる。
    ・よって誰だかよく知らない相手には、ヒンディーやウルドゥーのほうが通りが良く、日常的に使う頻度が高い。ちょうどムンバイーやカルカッタのような、他の大都市圏がそうであるように。

    大都会というものは、ただ人口が多い、市街地が広いということに留まらず、文化的・言語的にも重層的かつ多元的なものである。

  • バドシャーヒー・アシュルカーナー

    バドシャーヒー・アシュルカーナー


    ハイデラーバード旧市街で、ビリヤーニーの名店とされるホテル・シャダーブのすぐ隣には、バドシャーヒー・アシュルカーナーがある。アシュルカーナーとは、文字通り「嘆きの館」の意味だが、第3代目のイマーム、フセインの殉教を記念したものであり、シーア派の大祭モハッラムの際には大変な混雑となるそうだ。
    ゴールコンダーのクトゥブシャーヒー朝5代目の王、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーが建てさせた(1594年)もので、ハイデラーバードの街を象徴する歴史的建造物であるチャールミナール(1591年)とほぼ同時期に建設されている。
    ムスリム人口が4割に及ぶというハイデラーバードだが、シーア派人口もかなり多いようだ。





  • パイガー墓地(Paigah Tombs)

    パイガー墓地(Paigah Tombs)

    ハイデラーバードの旧市街からパイガー墓地に行くのはあまり簡単ではなかった。オートの運転手たちがそこを知らないからである。またマクバラー・シャムスルウムラー(Maqbara Shums Ul Umra)と言えば判ってもらえたのだろうか。
    ともあれ、こんなときにスマホは役に立つ。グーグルマップで検出して出てきたロケーションに近く、誰でも判りそうな「サントーシュナガル警察署」まで行くことにした。

    この街では、オートの運転手たちに対する道案内サービスのようなものがあるらしい。運転手が携帯で電話して誰かに行き方を質問、というようなことがしばしばある。運転手がムスリムで、運転中に携帯を手にして話しているのがウルドゥー語なので、その会話内容が判るわけなのだが。最初は誰か知人にでもかけているのかと思ったが、そうではないようなので尋ねてみると、もちろん知らない場所に行く場合に、先方が知る範囲での情報をもらえるともに、道路混雑具合の照会にも使えるということだ。なかなか面白いサービスである。

    警察署前のヒンドゥー寺院

    しばらく走って到着したサントーシュナガル警察署のゲート近くにいた人に、進むべき方角を確認。警察署付近には南インド様式のヒンドゥー寺院があるが、少し進むとムスリム地区となり、インド北方系と思われる色白で風格のある顔立ちの人々が多い。そうした中高年の人々が立ち話しているところでふたたび道を尋ねて、もう近くまで来ていることがわかった。私の目的地は、ジャマー・マスジッド・クルシード・ジャーの裏手にあるとのこと。

    パイガー墓地はこのモスクの裏手

    ここは、ニザームの家臣、パイガー一族の墓地。この一族はイスラーム教の二代目のカリフ、ウマル・イブン・アルハッターブの子孫であるとされる大変な名門。ニザームの忠実な家臣として仕えた家柄だが、独自の宮殿や数千人にも及ぶ私兵を持つなど、藩王国内の王国のような権勢を誇った一族であったとのこと。先祖がアラブのクライシュ族から出たとされるムスリムの家系はインドやパーキスターンで他にもあるが、その中でもまったく次元が異なることになる。1960年代に埋葬された人の墓もあり、同家の墓地として割と最近まで使われていたらしい。ムガルやラージャスターンの様式に地元デカンのスタイルを加えたものとされる精緻なデザインで、大変風格を感じさせる墓地である。












    墓地内の礼拝施設

    墓地内の礼拝施設の中