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カテゴリー: society

  • ラージコート 2

    ラージコート 2

    朝6時過ぎに近くのモスクからアザーンの呼びかけが流れてくる。今日は7時まで寝ているつもりであったので、「起きるものか」と頑張ってみるが、数秒の間を置いて他のモスクからも流れてくる。互いに反響するみたいにワンワンと鳴るので、やはり目覚めてしまう。

    しばしば思うのだが、この礼拝の呼びかけについて、スピーカーで電気的に拡声した声を流すというのはいつごろから始まり、どのようにして各国に広まっていったのだろうか。その過程でその是非について宗教者たちの間で議論などはあったのだろうか。

    朝7時ごろ、部屋に朝食を頼む。移動する日には時間の節約のため朝の食事は抜いている。こうしてゆっくり食べると気持ちに余裕が出来ていいものだ。

    オートでGO!

    ガーンディーが15歳のときまで暮らしていたという彼の父親の旧家へ。ここの藩王国の宰相であったという割には意外に簡素な家である。あまり大きくもない。建物内ではガーンディーや独立運動にまつわる様々な写真を中心とした展示がなされている。

    その後、Watson Museumに行く。1880年代のイギリス人行政官のコレクションが元になっている博物館である。彼が集めたサウラーシュトラ地域の文物以外に、自然科学関係の展示もあった。だが内容としては田舎博物館という感じで、あまり見応えがあるものではない。

    しばし徒歩で市街地の古い建物を見物する。この街を前回訪れたのはもう20数年も前のことになる。当時は快適そうなテラスや手の込んだ飾り窓などが付いた伝統的なたたずまいの建物がたくさんあり、テキスタイルを中心とする商業活動は盛んながらもひなびた雰囲気があったと記憶している。だが今はずいぶん様変わりしているようだ。レンガにコンクリートや漆喰、そしてペンキで塗られた四角い建物に置き換わっている。それこそ、インドネシアでもアフリカでも、つまり世界中どこにでもある普遍的な景色になっているといえる。地域性の希薄な建物だ。

    当時、かくしゃくとしたご隠居さんであった人たちの多くはすでにこの世を去り、元気に働いていたおじさん、おばさんたちは隠居し、あのころオギャアー、オギャーと盛大に泣いていた赤ちゃんたちがバリバリとよく働く商売人、でっぷりと貫禄のあるお母さんになっていたりするのだ。それほど長い時間が経過しているのである。もはやふた昔半くらい、つまり四半世紀くらい過ぎているのだから。

    だがそんな中にも古い街並みは少し残っていた。傾斜屋根の瓦、二階に突き出た出窓やテラスであったり、面白い意匠の飾り窓であったりする。なかなかいい感じだ。ただし、多くは残念なコンディションにあり、ところどころ崩れていたりもする。しばらく立ち話をした地元の人によると、2001年のカッチの大地震のとき、ラージコートでも相当な被害が出て、そうした古い家屋におけるダメージも相当あったとのこと。

    古くからの伝統的なスタイルの家屋は、街や地方の個性を無言のうちに主張していたものだが、そうしたものはどんどん消滅している。遅かれ早かれ、これらは街中から消滅してしまうことだろう。こうした様式で新しく今風の建材で作ってもいい感じなのではないかと思うが、そうしたものはだ見ていない。

    シンガポールやマレーシアのように、行政が主導して保存に取り組むことがなければ、こうしたものはすぐに消えてなくなってしまうであろうことは間違いない。街並み保存については、そうした措置を講じるほどの社会的な余裕があるかどうか、人々が今もそれらに愛着を抱いているか、保存にメリットを感じるかどうかによるのだろう。

    その後、サーリーを機織りしている工房へ。ここでは糸からすべて手作りで生産している。婚礼シーズンで使われるという絹のサーリーを製作中であった。糸は最初から染めてあり、その色の間隔できちんとデザインを組み上げていくという職人技の世界。オートの運転手に携帯で話をさせて場所確認して行ったのだが、普通の住宅地に見えるところなので、ここを通過しただけだったら、まさかここがそれらの工房が寄り集まっている場所であるとは気がつかないことだろう。

    通り過ぎただけでは機織職人たちのエリアとは判らないだろう。

    おそらくこれらの品物の単価が高いからであろうが、どの家もかなり立派だ。作業場はそれなりに散らかっているものの、外から家を見ると、ロワー・ミドルクラスやそれよりも少し上くらいのクラスの家に見える。かなり経済的にうまくいっているコミュニティであることが見て取れる。

    機織を見学してからしばらく徒歩で街中を散策してみる。途中、路上でハルモニウムを修理している人がいた。知的な風貌の人で、彼の名前のブランドでハルモニウムを製作しており、その顧客から依頼された修理をしているという。彼自身の作製したハルモニウムだというのだが、本当だろうか?

    〈完〉

  • ラージコート 1

    ラージコート 1

    サーサンの宿を朝7時過ぎたあたりでチェックアウトした。幹線道路に出たところで、ディーウ島近くのウナーから来てラージコートまで行く直通バスがやってきた。昨日やってきた時のように、ジュナーガルで乗り換える必要があるものとばかり思っていたので、ちょっとラッキーな気分だ。

    現在、グジャラート州営のバスは、どこもチケットは車掌が手にした電子機器からプリントアウトされるようになっている。昔のようにカバンから何種類かの金額別のチケットをちぎって渡すような具合ではない。乗車勤務が終わってからの精算も簡単なのだろう。

    サーサンからジュナーガルまでは一時間半か二時間弱くらいであった。ここまでの道の路面状態はあまり良くない。片側一車線ずつの道路で道両側に大きな木々が植えてある昔ながらの道路といった感じだ。よく茂っている場所では緑のトンネルを形成していて美しい。

    サーサン近くの湖のあたりのような、集落がほとんどないエリアでは携帯が2Gになったり圏外になったが、あとはほとんど3G環境。田舎道をバスで走っていてもフェイスブックで友人たちの動向がわかったり、書き込みをしたり、メールのチェックができたりするというのは、しばらく前には考えられなかったことだ。地元の若者たちにとっては当然のことになっていて、隣に座っている女子学生たちもスマホでいろいろやりとりしているようだった。

    昔々、インドの女の子に電話するのはなかなか大変だったもの。家の誰が出るかわからないし、とりわけお父さんが出たらとても緊張した。当然、電話することができる時間帯もごく限られてしまうなどということは当然として、家に自前の電話がないということもごく普通であったため、直接顔を合わせることが唯一の意志疎通の手段さえであったりもした。当時のソーシャルコードや環境が現在とは大きく異なることもあるが、以前は通信手段が男女交際のバリアーになっていたという部分もあるだろう。

    携帯電話の出現により、個々が自前の通信手段を持つようになり、誰が電話口に出るかわからないという不安が解消されるとともに、家族の監視の目から逃れることができるようにもなった。また、目の前で話していても相手が誰だか偽ることもできるし、時間の制約から解放されることとなった。そして通信費の大幅な下落がそれに拍車をかけることとなった。そしてスマホの爆発的な普及により、通話だけではない様々なコミュニケーションが可能となってきている。

    このような事情から、昔と違って結婚前の男女が交際することがごく容易なものとなり、同時に結婚してからの不倫なども簡単になった。親が決めた結婚のあともそれまで付き合っていた相手との交際が可能ということにもなってしまっているという部分もあるだろう。そんな家庭内でのトラブルは今ではよく耳にするものとなってしまっている。

    今では遠い昔となってしまった90年代前半までの若者たちと、現在のそれとではかなり大きな意識や行動の違いがあるのは当然のことだろう。こうしたことについては娯楽映画などを見ても内容が非常に変化していることが読み取れる。

    ラージコートに到着

    そんなことを思いながら、ジュナーガルを通過して、ラージコートに着いたのは午後1時ごろ。昨日朝にチェックアウトした同じホテルに投宿。ここは料金の割にきれいで広くて快適だ。

    料金の割に立派な感じの宿泊先

    私が宿泊するフロアーの廊下いっぱいに若者たちがいるので、何事かと思い尋ねてみた。この階の一室で、ある会社の就職試験の面接が行われているとのことだ。廊下で待っている誰もが緊張した面持ち。どこの国でも求職活動は大変だが、頑張ってほしいものだ。

    〈続く〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ4 

    サーサンギルの野生動物保護区へ4 

    サーサンの町の夕暮れ

    宿に戻ると、闇サファリを勧誘する男が来ていた。夜間閉鎖されている国立公園にバイクで乗り込み、徒歩でライオンに接近するのだという。基本料金が1,000ルピーで、ライオンに出会うことができたら、成功報酬として更に1,000ルピーだという。

    彼が曰く、大声を上げたり、駆け出したりしなければ危険はないのだという。そんなバカなことがあるだろうか。町中の夜間、野犬集団に囲まれても大変危険であったりするのに、大型肉食獣のライオンがそんなにおとなしいはずがない。

    「夜10時出発だがどうだ?」などと言う。

    おそらく、彼は客引きで、国立公園内の集落の住民が手引きするのではないかと想像したりする。ともあれ、たとえ間近にライオンを目撃することが出来ても、彼らのエサになるのは御免なので、当然お断りである。

    闇サファリの客引きを追い返して部屋に戻る

    〈完〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ2 

    サーサンギルの野生動物保護区へ2 

    朝目覚めてすぐに部屋に簡単な朝食を頼む。これをそそくさと済ませて宿をチェックアウト。近くにあるバススタンドの外から出るマイクロバスにて、ジュナーガルに向かう。ラージコートから3時間ほどで到着。プライベートバスはバススタンドまで行かなかった。下ろされたところから乗り合いオートでサーサンギル行きのバスが出る交差点まで向かう。

    さきほどラージコートから乗ってきたものと同じようなマイクロバスが現れて、これがサーサン行きであるとのこと。乗り込んでからしばらくは席がなくて立っていたが、ようやく何人か降りたので座ることができた。

    グジャラートは乗り物の中が混雑していても殺伐としていないのがいい。大声で言い合う人たちもいないし、人々がちゃんとしているという印象を受ける。ジュナーガルから乗ってきたバスの乗客、そして沿道にもスィッディーと呼ばれるアフロ系の人たちの姿がときおり見られるのは、いかにもカティアーワル半島の南側に来ているという感じがする。

    アラビアやアフリカ方面との海上交易が盛んであった地域であるがゆえに、黒人系インド人たちの姿がある。ディーウを領有したポルトガルによる部分も大きいようだ。今はインドの中の田舎となっているとはいえ、かつては大海原を越えての大きなスケールで人やモノの移動があったことを思い起こされてくれる。またこの地域が西方から見たインドの海の玄関口であったことも。

    さて、ジュナーガルから2時間ほどでサーサンに着くことになるのだが、そのしばらく手前で湖があり、景色を楽しむことができた。サーサンの町は小さいのだが、国立公園があるため、やたらと沢山の宿があるようだ。これならば予約しなくても宿泊できたのではないかと思うが、バスを降りたところで、昨夜宿泊したラージコートから予約しておいた宿に携帯で電話をかけてみる。ほどなく宿の主人のニティンさんがバイクで迎えに来てくれた。

    〈続く〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ1

    サーサンギルの野生動物保護区へ1

    今回のグジャラート訪問では予定していなかったのだが、ふと思い立って、サーサンギルの野生動物保護区を訪れたくなった。アジア最後の野生ライオンが棲息していることで知られる国立公園だ。

    ブジを出発

    ブジのバススタンドからラージコート行きのバスに乗り込むとほどなく出発した。隣にはブジに暮らすおしゃべりな青年。ひじょうに英語が流暢だが、すでに修士まで取得していて、現在はPHDをやっているらしい。同時にビジネスの関係の学校で講師もしているとのこと。非常に快活で頭脳もシャープそうで、いかにも前途洋洋という感じのする人だ。

    ガンディーダムを過ぎたあたりからだろうか、非常に良い道路を走っていることに気がついた。片側三車線くらいある。高速道路のような感じで舗装の状態も極上である。さすがにグジャラートは道路の質がいい。

    塩田が広がる
    風力発電の巨大な風車

    カッチ小湿原の地域に入ると道路の両側に塩田や巨大な風車が回転する風力発電機が無数に見える。このあたりを通過すると、カッチ地方を出ることになるわけだが、緑や耕作地も目に見えて増えて、何か大きな境界を通過したような気分になる。

    当然のことながら休憩地で降りる際に自分のバスの確認は大切

    国道8号線を進んできたわけだが、ちょうどカッチ地方を出たあたりのバススタンドで小休止のとき、大変うっかりしていて危うく荷物を失うところであった。車外にビスケット買いに出たのだが、バスがクラクション鳴らして出発を知らせたため、慌てて乗り込むと私のバスではなかった。政府のバスはどれも同じに見えるため注意が必要だ。その隣のバスも出発を知らせていたので、こちらだと乗り込むが、これまた違う。私のバスはその2台横であった。

    私のバスは幸いなことに出発までまだ少し時間があったから良かったものの、ほぼ同時に出ていたりしたら、バックパックとサヨナラしてしまうところであった。自分が乗ってきたバスがどれかよく記憶しておくのは基本中の基本だが、こんなことは初めてだ。気を引き締めよう。

    ブジからラージコート到着まで約7時間。そのままサーサンギルまで向かうには少々遅くなっていたので、翌日朝早く発つことにしてラージコートのバススタンド近くの宿にチェックインした。車内でビスケットをかじったくらいで、朝から食事をしていないため、かなりくたびれた。

    ラージコートの宿

    〈続く〉

  • カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    港湾都市として栄えたラクパトを囲む城壁
    ラクパトの入口のひとつ

    コーテーシュワルから今度は北方向に向かう。このあたりまで来ると途中に集落は見かけない。しばらく走ると、40km位だろうか、やがて壮大な城壁のようなものが見えてきた。これがラクパトである。その威容に思わず息を飲む。長大な壁にしつらえられた門をくぐったところに小さなグルドワラーがあった。

    ラクパトのグルドワラー。スィク教の開祖、グル・ナーナクが中東方面に赴く際に立ち寄り、このラクパトから船出をしたということに因んで建てられたもの。グルドワラーのランガルで温かい食事をいただく。どこから来た人でも、どんな信条の人でもウェルカムな姿勢がありがたい。

    グルドワラーから少し西に向かうと小さな集落がある。今の時代にここで暮らしている人たちは、かつて繁栄したラクパトの時代から住んでいる子孫なのか、それとも衰退後に外から移住してきた人たちなのかはわからない。

    グルドワラー
    グルドワラー内部

    ラクパトを囲む7kmに及ぶ要塞のような外壁と外に通じるこれまた巨大な門構えから、港湾都市として、この地域の交易の中心のひとつとして栄えた過去を思わせるに充分以上の貫禄がある。

    スーフィーの聖者の墓
    スーフィー聖者の祝福により様々な色に変わったとの伝承がある池

    今では小さな村にわずかな住民たちが暮らしているだけだが、精緻な飾りが施されたモスクやスーフィーの聖人の墓やダルガーの存在から、ここに集積された富は相当なものであったはず。外壁に囲まれた内側だけではなく、外側にも人々の家や耕作地などが広がっていたことだろう。聖者の墓の前には小さな池があるが、その聖者の祝福により、池は様々な色に変わったという伝承があるとのこと。

    こちらもイスラームの聖者を祀るダルガー

    周期的にやってくるカッチ地方の巨大地震のひとつ、1819年に起きたそれは、ここを流れていたインダス河支流のコースを変えたことから、港湾都市としての機能を削いでしまうこととなり、急速に衰退へと向かう。えて当時、この地域の他の港町の台頭がそれに追い討ちをかけたという面もあるかと思う。

    ラクパトの周囲を取り囲む城壁内部
    Rann of KutchのKori Creekに面している。

    城壁に上ると海水と淡水が混じる広大な湿原が見える。Rann of Kutchの中のKori Creekと呼ばれる部分である。はるか彼方は見えないが、パーキスターンなのである。印パ間の係争地帯でもあるKori Creekの無人地帯が緩衝地帯として機能しているのだろう。

    ラクパトからは一路ブジへ。ラクパトへのパーミットはブジの町の警察署で取得したものの、行きも帰りもそれを提示するように求められることはなかった。しかしながらもし検問で引っかかったら困るので、やはり必ず取得すべきである。今回、私はクルマをチャーターしてナラヤン・サローワル、コーテーシュワル、ラクパトを訪れた。公共バスで行くと、本数と出発時間等の関係により、ナラヤン・サローワルとラクパトでそれぞれ一泊することになってしまう。

    辺境にあたる地域とはいえ、今日通った道路は非常によかった。軍用の目的もあるのかもしれないし、ここが先進州であることの証かもしれない。

    道路状況は良好

    〈完〉

  • カッチ地方西部3 〈コーテーシュワル寺院〉

    カッチ地方西部3 〈コーテーシュワル寺院〉

    ナラヤン・サローワルから2キロほど西に進んだところにコーテーシュワル寺院がある。コーテーシュワルの地名は神話の時代にまで遡ることができるものの、この寺院はそのような長い歴史を持つものではない。

    コーリー・クリークを臨む

    コーリー・クリークに面した寺院のすぐ外には軍の詰所があり、遠くに軍用艦も停泊している様子が見える。彼方はパーキスターンのスィンド州だが、霞がかかっているためか何も見えない。

    本来は、ここからひと続きの世界であったはずだが、分離独立後のインドからするとすでに海のあちら側は異郷なのである。歴史に「もし」はあり得ないにせよ、あえてもし分離がなかったとするならば、ここは辺境ではなく、カラーチーへと続くルート上にあり、人々の行き来が盛んであったはずとするならば、カッチ地方のありようは現在とはかなり異なるものとなっていたことだろう。

    国境のあちら側、カッチ湿原の反対側にもこちらと同じような生活文化空間が広がっているはずなのだが、それを人為的に作られた国境とその分離以降の敵対関係により、これらが交わることなく、それぞれの「国」の一部として組み込まれるようになってしまっている。本来はここからひとつづきの大地のはずなのだが。そんなわけで、コーテーシュワル寺院はインド国内では最西端にあるシヴァ寺院ということになる。

    階段を少し登った先にある境内に入る。寺の本堂入り口に鎮座して本尊を見上げる形のナンディの耳を両手で囲い、女子学生たちが何やらひそひそとお願いごとをしている様子はかわいいが、中年以降の男性たちも同じことをしているのはやや滑稽に感じられる。

    〈続く〉

  • カッチ地方西部2  〈ナラヤンサローワル〉

    カッチ地方西部2 〈ナラヤンサローワル〉

    グジャラート州カッチ地方のナラヤンサローワルは、チベットのカイラス山付近のマーナサローワル、ラージャスターンのプシュカルサローワル、カルナータカのパンパサローワル、同じグジャラート州のビンドゥサローワルとともに、インドの五大聖池のひとつとなっている。

    アクセスすること自体が容易ではないカイラス山近くにある聖池は別格だが、ラージャスターンのプシュカルサローワルのようにあまりに有名で国内外から多数の訪問客が訪れる俗化したロケーションとは異なり、静謐な雰囲気を感じることができるはずだろう。満々たる水を湛えている時期であれば。

    乾季に干上がった池の底、聖水を汲むためにしつらえてある井戸

    この時期、つまり乾期のナラヤンサローワルは、すっかり水が干上がってしまい、ガートがただの階段となっている。もともとごく浅い池であるようで、ガートを下ってすぐのところが干からびた大地となっている。その乾いた「池」にあるごく浅い井戸から参拝客は水を汲んでは、ありがたい「聖水」を体にふりかけている。サローワルの手前には七つほどの寺院があり、どれもカッチ地方を支配した王族が建てたものだ。

    境内では女性たちがバジャンを歌いながら踊っている。中年以上の人たちばかりだが、楽しそうでいい感じだ。グジャラートの人たち、女性は着道楽な人たちが多く、地場の染め物や飾りの入った伝統的な衣装をまとっている。
    グジャラート州の寺院は概してカラフルで清潔にしている。日がな過ごしていても心地良さそうな空間だ。人々も概して穏やかながらもおしゃべりだ。とても居心地が良い。

  • マンドヴィー4  〈ダウ船〉

    マンドヴィー4  〈ダウ船〉

    ディリープ氏の屋敷を後にして、しばらく歩いたところにダルガーがあり、その横のところで若者たちがカッワーリーの演奏の練習をしていたが、これがなかなか上手くて聴き応えがあった。

    そこから少し戻り、バススタンドのほうに歩く。やはりここも2001年1月の震災でひどくやられたのかもしれないが、あまり伝統的な古い建物は残っていない。その前に来たときにはこんな具合ではなかったように思う。

    港湾として栄えた歴史を持つルクマワティ河の河口部分には、干潮時には広いスペースが陸地として現れる。ここではダウと呼ばれる木造船が昔ながらの工法で建造されており、海上貿易で栄えた港町の過去を彷彿させてくれる。本来は帆船だが、さすがに今の時代はエンジンを付けて航行するようになっている。

    〈完〉

  • マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー3 〈ディリープ氏の館〉

    マンドヴィー在住のディリープ氏のお屋敷を見学させていただく。ロンリープラネットのガイドブックに紹介されているが、日常的に公開されている家屋ではなく、社交的な氏が訪問者たちを快く受け入れているがゆえのことである。

    彼の許可を得たうえで、屋敷の写真を掲載させてもらっているが、かつて商家として大いに栄えたファミリーの豪邸そのもののたたずまいはもちろんのこと、このディリープ氏による語りも大変興味深かった。

    今はインドの西果ての片田舎となっているマンドヴィーだが、藩王国時代までは、広く外に門戸を開いたこの地域の窓口でもあり、現在のパーキスターンを含めた当時のインド国内各地はもちろんのこと、すぐ目と鼻の先にある中東地域とも盛んに交易を行なう港町であった。

    かつてカティアーワル半島ととに、このあたりの沿岸もまたアラビアやアフリカとのネットワークがあり、多くの大志を抱く商売人たちを外地に送り出してきた。失敗するものあり、また成功する者あり。そのまま外地に定住する者あり、故郷に錦を飾る者あり。

    曽祖父が抱えた負債に始末をつけるために、モザンビークへ渡ったディリープ氏の祖父。商売は成功して大きな富を築くこととなった。氏はその祖父の次男の息子であるとのこと。

    モザンビークで蓄えた富とともに故郷に凱旋し、この地域に大規模な綿花の栽培を導入したのと彼の祖父であり、貿易業とともに製糸業やムンバイーでの工場の操業や投資などで更にその富を拡大させていったとのこと。

    そんなわけで、祖父が自動車を購入したり、電話を引いたりしたのは当地の王家よりも早く、そのラージャーから物言いを付けられた、とは氏の弁だが、それをきっかけに王家と親交を結ぶようになったのだとも。

    その後、祖父は家業を息子たちに継がせたのだが、長男は商売に向いておらず散財に歯止めがかからず、次男でありディリープ氏の父親でもある次男は裁判沙汰に相次いで巻き込まれたこと、ヤクザとのトラブルなどもあり、次々にそのビジネスや財産を失っていくこととなったということだ。

    とりわけ強大な敵であったのが、かつてムンバイーのアンダーグラウンド一世を風靡したワルダーンバーイーとの対立であったという。現在で言えば、ダウード・イブラヒムのような人物ということになる。
    「外国の人にとってはカーストなんて悪だということになっているようだし、ここでも人と人の間に不要な垣根を作ったりするネガティヴな部分もある。けれども出自に関わる強いプライドを与えてくれることも事実じゃ。」

    ワルダーンバーイーの手下が強請に来たときに、父親が一喝して追い出した話、氏自身がワルダーンバーイーの家に一人で乗り込んだという武勇伝が続く。
    「クシャトリア、誉れある武人階級の生まれだ。たかがヤクザごときを相手に縮こまってしまうわけにはいかん。」

    裁判による係争については、「ハイデラーバードのニザームの次に豊かな弁護士」に依頼したところ、法外に高い報酬をむしり取られるだけで大損したということだ。
    「だからこそ、彼はそれほどの金持ちの弁護士になったということが解った」とも言う彼の話には多かれ少なかれ誇張が含まれているとしても、おおよその部分は事実を伝えていることと思う。

    この商家が栄華の極みにあった時代から、急坂を転げ落ちるように零落していった過程までを活写する話は、まるで映画かドラマのようにカラフルで大変興味深かった。

    今はずいぶん荒れてしまっているものの、素人目にも往時のきらびやかな様子が容易に脳裏に浮かぶ27部屋もあるハヴェリー(屋敷)の内部。各部屋ごとに異なるタイルが壁にあしらわれており、天井に描かれた絵、おそらく元々は高価であったはずの家具類の数々。彼の祖父夫婦が寝室としていた部屋の天井には、氏が言うところの「男女のロマンチックな光景」(春画の類ではない)が洋風のタッチで描かれたものが残っている。

    私が訪れたときには、文化財保護の調査にきた建築家にも話を聞く機会を得られた。何か具体的なプロジェクトがあるわけではないが、この家屋に対して何ができるかを調べに足を運んでいるのだという。アーメダーバードの大学も同様に文化財としての価値に注目しており、現在この屋敷を調査中とのことだ。

    かつての栄華をふんだんに感じさせる建物であるが、今の氏の暮らし向きは厳しそうだ。それがゆえにずいぶん家にもガタが来ていて、今すぐにでも修復が必要な状態にあるようだ。それでも、この家屋は2001年1月にカッチ地方を襲った大地震の際にも大して損傷することなくよく耐えたという。

    かつてはたくさんの使用人たちを抱えて、家の中もすっきりとまとまっていたことだろう。どの部屋も美しい装飾がなされているのだが、どこも例外なく散らかり放題となっている。そうした中にたくさんの骨董品、外国から輸入された高価な調度品などが埋もれている。氏が普段使用していると思われる日用品類は非常に簡素である。

    家屋の周囲は同家の敷地であったとのことだが、時代が下るとともに切り売りしていったそうで、現在は窮屈に建て込んだ中にディリープ氏の屋敷が残る形となっている。

    氏はガルフの国で働いていたことがあり、アメリカも訪れたことがあるのだと氏は言うが、現在の氏はかなり経済的に楽ではないようだ。氏は結婚していないため子供はおらず、氏は目の見えない妹さんと二人暮らし。氏も相当の年配であると思われるため、今後が大変だろう。

    階下のガレージには非常に古い、1931年式だというシボレーの乗用車がある。もう動くようなコンディションではなく、ボロボロだが、このような時代に外国からクルマを取り寄せるというのは大したものである。氏にとっては子供のころからの大変思い入れのあるクルマなのだと思う。

    本日はお昼が終わったばかりのところでお邪魔してしまい、長い時間にわたり、各部屋にて、そこにまつわる逸話について色々と話してくれた氏に大変感謝している。

    やはりカッチ地方は興味深い。「kutch nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)」という、アミターブ・バッチャンによるセリフを、ひとりで呟いて頷いていたりするこの日の午後であった。

    以下はディリープ氏の許可を得て、当サイトに掲載する屋敷の写真である。

    〈続く〉

  • マンドヴィー2 〈Vijay Vilas Palace〉

    マンドヴィー2 〈Vijay Vilas Palace〉

    マンドヴィー市街地に着いた。ルクマワティ河に架かる橋を越えたところで下車して、オートでヴィジャイ・ヴィラース・パレスに向かう。広くはない市街地を外れて、海岸線に平行して走る軍用の滑走路を左手に眺めながら進むと、やがて到着する。

    敷地に入ったところで乗り物の通行料を徴収されるが、ここから宮殿まではさらにちょっとした距離がある。ここのパレスは今も王家の所有であり、外国人料金の設定はなく、誰が訪れても入場料は一律である。そのため、インド人にとっては国有のものと比較して少々割高(入場料30Rs、カメラ使用料40Rs)ということにはなる。

    1929年にカッチの王家の夏の宮殿として完成したこのパレスは、幾度もヒンディー語映画のロケで使用されているため、何となく見覚えのある人もいるだろう。ラージプート建築と西洋建築のハイブリッドだが、上部の装飾に散見される大ぶりなベンガル風の丸屋根がアクセントになっている。瀟洒な外観の割に内部はやや地味ながらも、屋上からの周囲の眺めは実に素晴らしい。

  • マンドヴィー1 〈スマホと日記 〉

    ブジのジュビリー・サークルの交差点に出て、ここからバスをつかまえる。マンドヴィーまでは1時間半くらいかかる。

    このところ旅行中にSNSに長文で書き込みをしている。以前は、旅行中にあまりこうしたものに熱中してしまうのはどうかとも思っていたのだが、途中から考えを変えた。

    なぜかと言えば、夜に宿に戻ってから一日のことを思い出して書こうとすると、うっかり忘れてしまっていたりすることが多々あるので、なるべく日中にいろいろメモとして書いておくといい部分もあるということに気が付いたからだ。もちろん歩きながらなどは言うまでもなく、往来で立ち止まってスマホ操作するのも危険なのでそんなことはしないが、移動中のバス車内や食事を注文して待っている間など、「無駄な時間」「捨てている時間」にどんどん書いておくのは悪いことではないだろう。

    そうしてメモしておいたことを目にしながら、夕食後に宿泊先の部屋でその日にあったことをいろいろ書き進めてみるのもいいし、元々自分自身が書いたものなので文字通り「コピペ」してしまってもいいのだ。

    SNSであまりに大量な駄文やメモ書きを公開したりするのはどうかと思うし、気恥ずかしくもあるので、公開先を「自分のみ」にするような慎み深さは必要かと思うが、なかなか便利な時代になったものである。

    私自身も最近はフリック入力にもかなり慣れてきたため、両手を使ってかなり高速で長い文章を書くことができるようにもなっている。また、数年前であれば、インドで人前でスマホを取り出すのはちょっと憚られるところがあったが、今では町の人たちもずいぶんいいもの、たとえば6インチくらいの大ぶりのスマホを持っていたり、その他かなり高性能であったり、見栄えのするものを扱っていたりするので、何か気おくれするようなこともなくなった。

    〈続く〉