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カテゴリー: life

  • 先入観を疑うべし

    バーングラーデーシュでのグラーミーン・バンクによる取り組みから世界的に注目されるようになったマイクロ・クレジット。通常、商業銀行から融資の利用ができず担保も持たない人々のグループに対する少額融資であり、返済についてはそのグループ全体が責任を負うという仕組みだ。経済的に困窮している層、とりわけ女性たちの経済・社会的地位向上のための役割が評価されている。

    マイクロ・クレジットの代表格と言えるグラーミーン・バンクがアメリカに進出し、グラーミーン・アメリカを設立したのは2008年。当初はいろいろ不利な予想もあったが、現在までの4年間で着実に実績を上げているようだ。

    Grameen America

    滝川クリステル×ムハマド・ユヌス(ウェブゲーテ)

    米国市民の間での経済格差について、よく「米国の黒人の寿命はスリランカと同程度である」ということが言われる。国民皆保険制度がなく、医療費が私たちから見れば法外なまでに高額なものとなりがちなことから、定収入のある勤め人でも大病を患った結果、自己破産という例はよくあるようだ。ましてや経済的に不利な境遇下にあるマイノリティの人たちともなれば、必要なときに充分な診療を受ける機会を逃してしまうということは決して想像に難くない。

    だが、具体的な数字を提示することなく「スリランカ並み」という表現には、かなり恣意的なものを感じずにはいられない。このあたりの事情をあまり知らない人がそれを耳にすると、『とんでもなく短命』であるような印象を受けることを画策しているはずだからである。国連の統計によると、2005年から2010年の間のスリランカの平均寿命(74.25歳)は突出して高く、南アジア地域の平均の64.48歳を10歳近く上回る。ちなみにインド(64.19歳)は、ちょうどその平均値あたりにいる。

    世界の平均寿命 (United Nations Population Division)

    平均寿命73~74歳程度の国々はといえば、中東やアジアでは、サウジアラビア(73.13歳)、バハレーン(74.60歳)、タイ(73.56歳)、欧州ではルーマニア(73.16歳)、ハンガリー(73.64歳)、エストニア(73.91歳)あたりが挙げられる。日本では何故か長寿のイメージがあるブルガリア(72.71歳)、経済成長著しい中国(72.71歳)と比較しても、実はスリランカの数字はなかなか立派だ。豊かな産油国、東ヨーロッパと同水準なのだ。

    予備知識無しで、「アメリカの黒人の寿命はスリランカ並みだ」と言われると、いささかショックを受けるかもしれないが、これを「金満の産油国並みだ」と言い換えたら、どんな印象を受けるだろうか。

    国情の異なる国々の寿命を平たく慣らした世界平均(67.88歳)はあまり意味のないものかもしれない。だが、あらゆる面においてはるか前を邁進しているはずのアメリカ(77.97歳)の平均寿命が、自分たちの国との間のあまりに大きな経済格差のあるアメリカの平均寿命が、自分たちのそれとの差が3歳強しかないことについて、スリランカの人たちは不思議に思うだろう。

    アメリカにおけるバーングラーデーシュ発のマイクロクレジットの成功、アメリカの黒人がとりわけ短命であるという一種の都市伝説の類など、先進国と途上国という色分けを取り払って社会を眺めてみると、世の中でいろいろ興味深いものが見えてきそうだ。

  • サッカーボール Made in Pakistan

    サッカーボール Made in Pakistan

    ADIDAS、DIADORA、PUMA、NIKE等々、ブランドを問わず、サッカーボールに表示されている生産地は、パーキスターンとなっていることが多い。世界に出回っているこれらのボールのおよそ8割は同国で製造されているという。もちろんサッカー以外の種目においても、とりわけ縫いボールの場合はたいていそんな具合らしい。

    だがパーキスターン各地で広くこれらが生産されているわけではなく、パンジャーブ州のスィヤールコートに集中しているのは興味深い。縫いボールの工程が機械化されているところもあるらしいが、やはり主流は手縫いであるため、極めて労働集約的であることから、低賃金で作業する労働力が豊富にあるところということになる。するとパーキスターン全土はもとより、南アジア地域で普遍的にこの産業が盛んであってもいいように気がするのだが、そうではなく、一極集中しているのには何か理由があるに違いない。

    パーキスターン以外にも、サッカーボールを大量に生産している国は他にもいろいろある。中国製のボール、南米で作られたボールもあるし、価格帯は非常に高かったがかつては日本製も公式試合球(市場はほぼ日本国内に限られていたようだが)として販売されていた。

    パーキスターンでサッカーボールの生産が飛び抜けて多いことについて、歴史的な経緯という観点からは、サッカーの母国であるイギリスの海外領であり、家畜の屠殺が盛んであったということがある。ボールの外皮として使われる牛皮はもちろんのこと、現在使われているゴムチューブが普及する前までは、牛の膀胱が使用されていたため、ボール製造の材料の有力な供給地であった。

    牛皮といえば、今では本革のサッカーボールはほとんど見かけなくなった。かつてはサッカーボールといえば、当然のごとく革製品であった。皮革という性質上、同じメーカーの同一品番の製品であっても、かなりバラつきがあった。同じように使用していても、かなり寿命が異なった。動物の皮である以上、部位により厚みや硬軟にどうしても差異が出てくるため、ボールに空気が充満して表面が緊張した状態で放置すると、ゆがみが生じてくる。そのため、練習や試合で使う際にポンプで空気を入れて、使い終わったら空気を抜いて保存するというのが常識であった。これを怠ると、とりわけ安価なボールの場合、楕円形になってしまったり、縫い目が広がってチューブが外にはみ出してきたりすることがよくあった。

    主流であった本革から人工皮革へと素材が切り替わる大きな転換期は、1986年メキシコで開催されたワールドカップであった。サッカー選手としてピークにあったマラドーナが大活躍して母国アルゼンチンを優勝に導いた「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」として広く記憶されている大会だ。彼の「神の手」によるゴール、伝説の5人抜きなど、後々に語り継がれるプレーを連発した大会だった。この大会で公式球として採用されたのは、ADIDAS社のAZTECAというモデル。ワールドカップ初の人工皮革製のボールだった。

    人工皮革のボールが普及し始めた当初、高級品を除けばまだまだ本革製品と質感が異なり、あまり積極的に手を出す気にはならなかったものの、クオリティの向上には目覚ましいものがあり、耐久性の面はもちろんのこと、サッカーの全天候型競技という性格からも、雨天でも水を吸収して重くなって反発性が失われるという本革特有の欠点とは無縁で、濡れた後の手入れの面倒もなく、素材の普及とともに高級品が低価格化していくという非常に喜ばしい展開が進んでいく。その結果、本革製品を市場からほぼ駆逐することになった。

    サッカーボールの人工皮革化は、テニスコートほどの広さのコート(体育館あるいは人工芝)で行う5人制の競技、フットサルの普及にもつながっている。もともと「サロンフットボール」ないしは「インドアサッカー」として知られていたものだ。これのラテン式名称の略語フットサルが定着した結果、競技の正式名称として採用されるようになった。このスポーツで使用されるボールのサイズは、成人のサッカーで使用される五号球であるのに対して、四号球とひと回り小さいだけでなく、外皮には低反発素材を含む人工皮革が使用されており、狭い場所での競技に適した反発性に仕上げてある。人工皮革素材の発展と普及なくして、この競技が現在のように広まることはなかっただろう。

    話はスィヤールコートのボール生産に戻る。3月24日(土)と25日(日)に東京渋谷区の代々木公園で開催された「パキスタン・バザール」に、日本の外務省招聘により、スィヤールコートの工場関係者たちが出展していた。ブースには工場の経営者とともに工員2名が詰めており、サッカーボールの手縫い作業を実演していた。初めて外国を訪れたという工員たちとも少し話をしたのだが、作業はなかなか時間がかかるもののようで、一個縫い上げるのに2時間くらいかかるとのこと。そのため1人が丸1日かけても、せいぜい4個か5個程度しか作ることができないらしい。世界の生産量の8割を担うというスィヤールコートで、どのくらいの人々がこうした作業に従事しているのか、ちょっと想像できない。

    一針一針丁寧に縫い上げていく慣れた手さばきはお見事!

    スィヤールコートという街自体は、人々の平均年収が1,370米ドルと高く、パーキスターン全土の平均値の倍ほどの収入を上げていることから、地域経済におけるボール生産業の貢献度は非常に高いものと思われる。

    とはいえ、こうした製品はMade in Pakistanとして消費者からの需要があるわけではなく、あくまでも生産委託元の外国ブランドの名前で輸出されるがゆえのことであり、内外の市場で通用する地場ブランドが存在していないことについては憂慮すべきものがある。同様に、スィヤールコートなくしてサッカーという世界的な競技が成り立たなくなっている現状にもかかわらず、相も変わらずパーキスターンはサッカー不毛の地であることについても、なんだかお寒い限り・・・としか言いようがない。

  • さくらフェスティバル 2012

    今年も東京都千代田区九段にあるインド大使館にて、さくらフェスティバルが開催される。

    さくらフェスティバル2012 (インド大使館)

    会期は3月31日(土)から4月8日(日)までと長いが、日によって開催時間が異なる。詳細については、上記リンク先のPDF文書をご参照願いたい。

    なお、先日『春の足音』と題して取り上げてみたとおり、今週末の3月24日(土)と25日(日)には、東京都渋谷区の代々木公園にて、『パキスタン・バザール2012』『ソンクランフェスティバル2012』が場所を分け合っての開催となる。

    今年もいよいよ屋外イベントの季節が始まろうとしている。

  • Grameen UNIQLO

    近年、新たな『世界の工場』として注目されてきているインドの隣国、バーングラーデーシュにて、UNIQLOを展開するファーストリテイリングが興味深い取り組みを行なっている。

    GRAMEEN BankグループのGrameen Healthcare Trustとの間に合弁会社を2011年8月に設立し、Grameen UNIQLOブランドでのソーシャルビジネスの展開だ。

    About the Social Business of Grameen UNIQLO (Grameen UNIQLO)

    同国への進出は、UNIQLO製品の生産地として依存度が非常に高い中国における高騰する人件費と頻発する労働問題に対するリスクヘッジという面が否定されるものではない。

    だが、上記リンク先を読んでみると、どうやら日本その他先進国等向けに販売する衣類の生産基地としての進出だけではなく、ソーシャルビジネスという位置付けにより、現地に根付いて、地元の人たち向けの製品を展開していることがわかる。また委託販売請負者となる『グラミンレディ』や『グラミンメンによる対面販売という点からも、また地場市場向けに、バーングラーデーシュ現地の素材を用いて、現地の縫製工場で仕上げた衣類は、これまで日本その他のUNIQLO店舗で販売されているものとは異なり、他国での展開の様子とはずいぶん違った形態での展開だ。

    男性の襟付きシャツ類、女性にはサーリーやその下に着るペチコート、加えてサニタリー用品まである。ウェブサイト(ベンガル語)には掲載されていないが、子供用のカラフルなプリントTシャツ類もある。

    取り組みが始まってからまだ日が浅く、紆余曲折もあるのではないかとも思うが、今後の展開にぜひ注目していきたい。

  • Sony Reader

    Sony Reader

    1年半ほど前に、『ドキュメント・スキャナー』と題して、書籍や雑誌記事類をどんどんPDF化させるために購入したスキャナについて取り上げてみた。

    『継続は力なり』という言葉を胸に、日々少しずつ、しかし欠かさずにスキャンを続けた結果、室内がスッキリ片付いて快適になってソファのひとつでも置くことになったかというと、なかなかそうはいかない。まだまだ山積みになっている書籍がある。 結局、電子化作業と並行して、いろいろ買い込んだりしているからそうなってしまうのだが、これでスキャナがなかったらと思うと恐ろしい。 だが、せっかく電子化した書籍類はパソコンに蓄積してあるため、もしこれが突然壊れたら・・・という恐怖もある。ゆえに毎週、外付けHDにせっせとバックアップをとるようにしている。

    何はともあれ、電子化は進んできたものの、パソコンやタブレットPCの画面でPDFを閲覧するというのは、通常のワードのその他のワープロ文書を書いたり読んだりするのと、あるいはウェブサイトを閲覧するのに比べて、非常に眼が疲れる気がしてならない。もちろん眼への影響は、それらと変わらないはずなのだが、書籍になっている活字を追うという行為は、これまでずっと紙面上で行なってきたため、どうしても紙の書籍を読むときの疲労具合と比較してしまうのかもしれない。

    そんなわけで、もっと楽に書籍を読みたいと思い、液晶画面ではなく、アメリカのE Ink社の電子ペーパーを画面に採用している電子書籍リーダーを購入してみることにした。

    だが電子ペーパー画面のモデルは案外多くないため、広く流通していて簡単に入手できるものとなると、やはりamazonのkindleかSonyのReaderあたりということになる。どちらもWi-Fiモデルがあり、簡単なウェブ閲覧やメールのチェックにも使えそうだ。

    SonyのReaderとKindle Touchを比較してみた。後者のほうに手頃感があるし、電子版書籍をネット上で購入するならば、Readerとは比較ならないほど膨大な量の書籍が用意されている。だが、私の購入目的は自前で電子化した書籍類を読むことであるし、ウェブ検索やメールチェックの際に日本語入力が不自由なくできるほうが良いと思い、しばらくあれこれ考えてみた結果、後者を購入することにした。Kindleは内蔵の4GBのスペースしか利用できないのに対して、Readerは、内蔵メモリーこそ半分の2GBしかないが、micro SD(最大32GB)を挿入して使うことができるため、電子書籍を保存できる容量は格段に大きくなる点でも有利だ。

    Eインク画面を利用するのは初めてだが、さすがに電子ペーパーと呼ばれているだけあり、紙のモノクロ印刷物を見ているのと変わらない感覚であるのが良い。これならば目が疲れやすいということはなさそうだ。液晶と異なり、画面が発光しているわけではないためだろう。もちろん太陽がさんさんと降り注ぐ屋外で見づらいということなく、周囲が暗くなるともちろん読めなくなってくる。紙と同じだ。

    少々残念なのは、そのサイズだろうか。6インチという画面はペーパーバックを電子化したものを読むにはまあ充分であっても、単行本をスキャンしたものを扱うには小さすぎる。もともと日本の文庫本や新書あたりのサイズを想定した大きさなのではないかと思う。画面を横表示にして読めば、表示される文字は大きくなるのだが、今度はスペースが狭く感じられる。

    ページをめくる際に生じる独特の挙動も液晶画面にはないものなので、最初はびっくりした。瞬間的にバラバラッと白黒反転するので、壊れたのかと思ったくらいだ。ページめくりはタブレットPCよりも遅いものの、じっくり読む本の場合は気にならない。だが辞書やリファレンス用の書籍(そういうものを電子化することはあまりないと思うが・・・)の類を閲覧するのには向かないだろうが、とりあえず私にとって当面は充分だと思っている。電源の持ちの良さは特筆すべきものがある。購入してから10日経つのだが、購入時にチャージしたバッテリーが上がる気配さえない。

    電子書籍を読むツールとしては、まだ発展途上という感じがするものの、もう少し大きな画面、そしてページめくりの反応がスムースで自然なものとなれば、100%満足のいくものとなることだろう。あるいは市中に出回るタブレットPCの液晶がもっと目に優しいものになっていき、電子書籍リーダー用として単機能(購入したモデルはWiFi接続してウェブサイトを閲覧可能)しか持たない、こうしたデバイスの存在価値が薄れていくのかもしれないが。

    とりあえずカバンの中に放り込んでおき、いつでもどこでもヒマさえあれば取り出して読書を楽しんでいる。

    画面はこんな具合
  • 2011年の地震の分布

    2011年の地震の分布

    2011年の世界の地震 分布図 (Youtube)

    本日、3月11日は東日本大震災からちょうど1周年ということになる。震災後、ずいぶん長く余震が続いた。ひところのような頻度ではないものの、今でも東日本を中心に頻発している地震は、やはり1年も前の大地震の余震なのか、それともあの日を境に地震の活動期に入ったためであるのか、様々なメディアを通じて流れる専門家たちの見解は様々である。

    日本は世界的に見ても地震が多い国のひとつであることは言うまでもないが、少なくとも2011年に限ってみれば、地震の頻発数ではどうやら世界一であったようだ。

    以下の動画は、昨年1年間に起きたマグニチュード4.5以上の地震の発生をまとめたものだ。2011年の元旦から大晦日までに、世界のどのあたりで地震が発生しているかを視覚的に把握することができるようになっている。

    2011年の世界の地震 分布図 World earthquakes 2011 (Youtube)

    3月11日の大地震発生とそれ以降の爆発的な激しい動きとともに、それ以降も大規模かつ非常に頻度の高い地震が繰り返されていることがよくわかる。

    ご存知のとおり、地震は特定の地域に集中して発生するものなので、日本、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニアから南太平洋西部、そして南米のチリ周辺での発生が非常に多いこと、それらとは対照的にイタリア、ギリシアを除く欧州とアフリカの大半の地域では、地震が発生していないことが見て取れる。地震がほとんど発生しない地域に生まれ育った人たちは、年老いてこの世を去るまで滅多に『大地が揺れる』という経験をすることなく過ごすことになる。

    場所にもよるが、地震が比較的多く発生し、大地震による災害も周期的に起きる地域として認識されているインドは、昨年9月18日のスィッキムの震災とその後幾度か起きた北部での地震を除き、ほぼ平穏であったことがわかるだろう。

    上記リンク先の関連で、昨年1年間に日本国内で起きた地震の分布を示す動画もある。

    2011年の日本の地震 分布図 (Youtube)

    今年1月には、4年以内にマグニチュード7級の首都直下型地震が発生する可能性が70%というショッキングな報道があった。

    M7級首都直下地震、4年内70%…東大地震研 (YOMIURI ONLINE)

    たとえそれが従前に言われていたような30年以内という想定であったにしても、まさにいつ起きてもおかしくない地域であるだけに、残念ながら世界一の地震大国の人間としては、避けようのない危機に対してどう対処するかという大きな問題に直面しているわけである。

    日本の東北地方太平洋沿岸で起きた大震災の教訓を糧に・・・とは言ってみても、個人が出来ることは、せいぜい自宅に最低限の食料や水の備蓄をすること、ガラスの飛散や大きな家具類が倒れないような防止策を施すこと、家族との連絡手段の確認くらいしかないだろう。

    普段、都会では『大自然の脅威』などという言葉さえ忘れてしまいそうだが、ひとたび事が起きれば、その大自然の力の前で、私たちはあまりに無力である。

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • 「フェリーチェ・ベアトの東洋」 東京都写真美術館にて

    19世紀を代表する偉大な写真家、フェリーチェ・ベアトーの作品群が日本に上陸する。

    アメリカのロサンゼルスにあるJ.Paul Getty Museumによるフェリーチェ・ベアトー(1832-1909)の作品の国際巡回展の一環として、日本では東京都目黒区の東京都写真美術館での公開である。

    2年ほど前に、『時代の目撃者 ベアトー』と題して、写真家ベアトーについて取り上げてみた。今の残されている幕末の江戸の風景の秀作の中には、彼の手による作品が多いことは、日本でよく知られているが、1853年に勃発したクリミア戦争、そして1857年に始まるインドのセポイの反乱を撮影したことにより、戦争写真家の先駆けでもある。

    当時の交通事情はもちろんのこと、その時代の写真機材自体が後世のものとは大きく異なるため、彼が撮影したのは戦闘行為が終了した直後であるとはいえ、戦火の爪痕生々しい北インド各地の様子や処刑される反乱兵の姿などを伝えるとともに、当時の街中の様子なども活写しており、貴重な歴史画像を私たちに残してくれている。

    ベアトーの生涯を概観する日本発の回顧展という位置付けがなされており、アジアの東西で多くの風景を撮影した彼の青年期から晩年までの軌跡をたどることができる。写真芸術としての高い価値はもちろんのことながら、歴史的な重要性も極めて高い。

    今から180年前に生まれ、103年前にこの世を去ったベアトーが後世に残してくれた風景の中にじっくりと浸ることができる稀有な機会だ。

    会期は、3月6日から5月6日までの2か月間。

    フェリーチェ・ベアトの東洋 (J・ポール・ゲティ美術館コレクション) 東京都写真美術館

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • ハジョーとスアルクシー

    ハジョーとスアルクシー

    ポビットラ国立公園を後にして、ハジョーとスアルクシーに向かう。国立公園から見て、グワーハーティーを挟んだ反対側にこれらの地域があるため、一旦ゴミゴミした都会に戻ってから向かうことになる。

    市内を抜けて、ブラフマプトラ河にかかる大きな橋を渡り、グワーハーティー北部、つまりブラフマプトラ河の北側の市街地を通り、ハジョーに向かう。途中、片側二車線の見事な道路がある。高速道路並みにスピード上げたクルマがグングン流れていく。

    グワーハーティー出てから1時間くらいでハジョーに着く。ここにはヒンドゥーと仏教徒の巡礼が崇める五つの古い寺がある。その中で最も代表的なものはハイグリヴ・マーダヴ 寺だ。本堂への階段の下方にあるタラーブとその向こうの緑豊かな景色が美しい。扉を閉め切ったお堂からは、ドンドンドンと鳴り物の音が響いてくる。建物の造りとしては、さほど魅力を感じないが、本尊は6,000年もの歴史がある(?)ということになっているらしい。

    小高い丘の上にあるハイグリヴ・マーダヴ 寺から周囲を見渡す。
    建物自体はあまり興味を抱かせるものではなかった。
     
    スヤスヤと眠る仔犬3兄弟。ナガランドではなくて良かった・・・と思う。

    続いてスアルクシーに向かう。ここはムガーシルクと呼ばれる野蚕の織物生産で有名な町。どこに織物作業場があるのかと、通りかかった壮年男性に尋ねてみると「どこの家にもある」との返事。その男性、シャルマー氏は、自らの家の中に招き入れてくれた。彼は8人の職人を雇い織物を作らせているとのこと。機織機には、木で作られた沢山の穴が開いたプレートが上のほうに付いている。これはデザインのパターンのプログラムだ。こうした機織りの作業場はどこも同じように見える。基本的には彼と同じように小規模な家内工業として生産しているのが普通のようだが、大きなところでは100人ほど使って生産しているところもあるとのことだ。

    シャルマー氏自宅敷地内の機織り機

    シャルマー氏の家の作業場では、すでに職人たちは仕事を終えて帰宅しており、作業そのものを見ることはできなかった。すでに午後遅い時間帯に入ろうとしているため、近所にも作業をしているところはないようだ。ここでは午後3時くらいには、その日の仕事は終わり、みんな家路に着くのだともいう。朝は何時から働いているのか知らないが、まだ日が高いうちに家族との時間が充分持てることについては、ちょっと羨ましい気がする。

    『定時は午後3時』のスアルクシーの町

    ちょうどこの日の新聞記事に出ていたが、アッサムのムガーシルクの生産を機械化する試験プロジェクトが開始されたとのことだ。今のところ、昔ながらの手作業の機織機でギッコンバッタンと作業しているのだが、これを機械化するとどういうことになるのか。生産性の向上、そこからくる収入の向上は図られることはずだが、これまで育まれてきた匠の技は失われてしまうだろう。また現在生産に関わっている職工たちが、そのまま機械化された職場に雇用してもらえるのかどうかも疑問だ。利するのは生産手段を持つ立場にあり、かつ機械化に伴う投資をするだけの財力を持つ者だけということになりそうだ。

    そうは言っても、生産技術は時代とともに進化しなくてはならないということも事実。現在、職工たちが日々行なっている作業にしても、ある時代までは物凄い先端技術であったはずだ。今も使用されている機織機が広まる前の時代には、もっと古いやり方で布を織っていたはずなのである。伝統の維持と近代化はしばしば相反するものがある。

    小さな町なのに、ムガーシルクを販売する店舗は、大きなものから小さなものまでいろいろあり、この産業によって町の経済が成り立っていることが感じられる。どれも小売りと卸を兼ねているようだ。

    この町の『定時』らしい午後3時を回っているため多くは店を閉じていた。せっかくムガーシルクの産地として有名な町に来たので、記念にハンカチでも買おうとわずかに開いているいくつかの店で探してみるが、どこにもなかった。どこもアッサムで消費するサーリーその他のための品揃えをしてあり、私のような外国人が欲しがるようなものはないということに好感を覚える。今後、機械化される方向にあるとしても、観光客におもねる変な商品を手がけることなく、今後とも質実剛健な商いを続けて欲しいと思う。

  • ナガランド6 ディマープルへ

    ナガランド6 ディマープルへ

    午前6時半に宿を出て、コヒマのバススタンド前にあるディマープル行きシェアタクシースタンドから乗車。山間の道を下っていき、少しずつ高度が下がってくる。途中でパイナップル畑が沢山あった。

    新鮮なパイナップル

    沿道ではあちこちでそれらを販売する売り子たちの姿がある。私たちは停車してひとつ購入。ディマープルに着いてから、ホテルのレストランで朝食の際に切ってもらったが、とても甘く、かつ酸味も強い濃厚な味であった。

    ディマープル近郊に入ってくると、もはやナガランドという雰囲気ではなく、普通のインドの街みたいになってくる。州都は人口10万人弱のコヒマだが、州内最大の都市ディマープルは人口は17万人近い。午前8時頃、街の郊外にあるNiathu Resortに到着。 スイミングプールやテニスコートなどもあり、いくつものコテージからなる、いかにもといった感じのリゾートホテルだ。 私たちが利用したのは、バルコニーがある2階。部屋は広いしきれいで快適だ。まだ出来たばかりで新しいのもよい。

    Niathu Resort

    ただ難点は、街からずいぶん遠いことだ。所在地が「7th Mile」と書かれているだけあり、市街地からずいぶん離れている。乗り合いテンポやオートリクシャーで、ディマープル中心地にある鉄道駅から30分くらいかかる。

    ここを選んだのは、WiFiを利用できるからだ。一緒に旅行しているL君が抱えている仕事の大詰めを迎えており、是が非でもネット環境がなくてはならない。コールカーターで購入したvodofoneの3G接続は、平地に降りてきてもあまり良い状態ではなく、ほとんど使いものにならない。ナガランドではどうもダメなようだ。

    しばらく部屋でのんびり過ごしてから、昼前くらいになって観光に出発。宿の敷地前の国道から乗合テンポで、終点のディマープル駅前の道路の立体交差下、通称レールゲートと呼ばれるエリアまで行く。そこからオートにてハイスクール・コロニーのサーキット・ハウスまで行く。

    カチャリー王国の遺跡

    ここの正面がカチャリー王国の遺跡だが、あまり見るべきものが残っているとは言えない。複数のピラーが固まっている部分とタラーブがある。ピラーの周囲は柵で囲ってある。いろいろいたずら書きや勝手に掘りこんだ跡などがあることから、遺跡保護のためにそうしたのではないだろうか。この遺跡やカチャリー王国のことはよく知らないこともあるが、よほど想像力たくましくないと、あまり楽しめない遺跡であった。

    しばらく歩いた先にあるSaramati Hotelという州政府系のホテルがあるあたりは賑やかな商業地になっており、ナガ民族関係のグッズを売る店がいくつもある。ショールやマフラーであったり、ナガの槍を模した工芸品であったりする。ナガの刀の模造品もあった。その他の工芸品といえば、竹を利用したものが多い。

    竹細工

    しばらく歩くと駅前の道路の立体交差に出た。さきほどはここでテンポを降りて、オートに乗り換えたあたりの場所だ。立体交差も駅舎もごく新しく、駅のすぐ南にはバススタンドがある。このエリアは、相当数の商店や家屋を取り壊して建設したものと思われる。ディマープル市街地はほとんど『インドの街』である。ナガランドの他地域ではほとんどみかけないヒンドゥー寺院がいくつもあり、ムスリムの墓地もあった。入口のゲートには、1930年に出来たことが記されている。かなり前から他地域から流入してきた人たちが多く住み着いていたのだろう。その墓地の隣にはアッサムライフルズの連隊の駐屯地があり、周囲では兵士たちが物々しい警備をしている。装甲車に乗った重装備の兵士達もしじゅう出入りしている。

    今回、ナガランド観光のハイライトのひとつである北部のモンと呼ばれる地域は訪れなかったが、ごく最近まで自由に訪れることができない州であったため情報がとても少なく、また滞在中に他の外国人にもほとんど会わなかった。だがRAP免除措置がこのまま続けば、より多くの人たちが訪れて、様々な魅力を発見していくことだろう。治安面での不安がなければ、タイ北部のように山岳部に住む少数民族の村を訪れるトレッキングがブームになる可能性も秘めており、そのあたりが今後のナガランドにおける観光振興のカギになることは容易に予測できる。

    他の魅力あるエリアから距離があり、バーングラーデーシュを跨いだ反対側に位置するため交通の便の面からも、今後もそう大きな人気を呼ぶことはないように思われるのだが、人口が希薄で丘陵地の眺めも良いことから、のんびり過ごすにはもってこいだ。

    まだ知られていないところが多く自分で探る楽しみがあることからも、個人的にはナガランドはなかなかオススメである。

    <完>

  • ナガランド5 市場

    ナガランド5 市場

    食品市場
     干物だがどれも川魚である。
    ウナギの干物。どんな味がするのだろうか?
    ナガランドといえば、他の土地では通常食用とされない様々な物が食されていることが知られているが、やはり市場に行くといろんなものが売られていた。 

    本日の記事については、人によってはとてもグロテスクに感じたり、不愉快に感じたりするかもしれない画像が含まれることをあらかじめ申し上げたい。加えて、これらの写真の多くは、私自身の主観に照らして『珍しい』と判断したがゆえに取り上げているが、市場で売られている大多数の品々は、私たちが日常的に食べている食肉、野菜、果物類と大差ないことをお断りしておく。また、こうした『珍品』については、同じ『動物性蛋白源』であっても、大量生産が可能な鶏肉やマトンなどと比べて高価なこともあり、個々の家庭で日常的に消費されているという訳ではないと思われることも言い添えておく。

    野蚕の幼虫
    野蚕のサナギ

    さて、ナガランドの市場において最も特徴的なのは、いろんな種類のイモ虫やサナギが売られていることだろう。多くは野蚕の種類である。私はそれらを見て大いに引いてしまったのだが、韓国人のL君は「何だ、ポンデギじゃないか。」と事もなげに言う。そういえば韓国の街角では屋台料理のサナギをよく見かける。昆虫類では、他にはイナゴ、ヤゴなどが売られており、虫以外ではタニシやカエルを商う売り子が多い。

    イナゴ
    ヤゴ
    タニシ
    蜂の子
    ハニーコーム。これは飛びきり美味しそうだった。

    やけに赤身の色が濃い肉が売られており、尋ねてみると犬肉であるとのことであった。ボウルに入った臓物も販売されていた。その脇では、噛み付かないように口をヒモで結ばれた犬たちが、首から下を麻袋に包まれた状態で置かれている。すっかり観念した様子でゴロリとなっているが、ときどき頭を起こして周囲を見渡したりしている。こちらと視線が合うと、慌てて目をそらして反対側を向いて寝そべる。頭の良い動物なので、おそらく自分の運命がだいたい判っているのではないだろうか。気の毒に思うが、地元の食文化なので仕方ない。ナガランドで野良犬が少ない理由はこれだろう。しかも他の食肉よりも値の張る『高級食材』でもある。

    食品として売られる犬たち。
    カゴに入れられたネズミたち

    だが、『食肉』の元となる動物たちについて思えば、きれいにパックされて、あたかも工業製品であるかのように、無機的な感じで販売されているのが良いとは一概に言えないだろう。そうした環境下では、『生けるもの貴重な命をいただいている』という謙虚な気持ちが生じることはない。例えば、マーケットで『シメたて』の鶏の肉を手渡されて、ビニール袋越しにさきほどまで生きていた鶏の体温を感じつつ家路につくのと、冷蔵あるいは冷凍で『規格製品』然としたパッケージをレジ袋に放り込んで帰宅するのとでは、相当な違いがある。

    昆虫類など、あまり好奇心に満ちた表情で見て回るのは失礼かと思い、幾人かに「あなたの国でも食べるのか?」と質問されたが、「そう、ウチの村ではよく食べているんだよ。」など適当に答えておく。市場では、こうした『食品類』を販売する地元の売り子たちと肩を並べて、平地から来たインド人たちも商っているが、慣れないうちはずいぶカルチャーショックを受けていたに違いない。

    食品ではないがヒョウタンも売られていた。日本のそれと同じ。

    インドの露店商たちは、隣合わせているナガ族の同業者たちと親しげに会話しているが、ナガの言葉を理解するインド人はほとんどないようで、ヒンディーが使われている。文化的にも民族的にも『インド』とは大きく異なり、長らく民族独立闘争が続いてきたナガランドではあるものの、意外なまでにヒンディーの通用度は高い。もちろん在住のインド人がナガの言葉を多少は覚えたりもすることもあろうが、ナガ族の間でのヒンディーの普及度のほうが、はるかに高いはずである。

    <続く>

  • ナガランド 4 コノマ村

    ナガランド 4 コノマ村

    山の上の街州都コヒマから平地にあるナガランド最大の街ディマープルへと続く国道39号線を途中で逸れると未舗装のひどい悪路となる。モンスーン期には小型車での走行は不可能となり、バスかスモウ(大型の四輪駆動自家用車)のようなクルマでなければ通行できなくなるという運転手の言葉に頷くしかない。

    ターター社の小型車インディカにて、文字通りバンバン跳ねながらの走行。幾度も車内天井に頭をぶつけてしまう。こういうタイプの車両で移動するような道ではない。クルマが壊れるのではないかと思うくらいだ。窓を閉めているものの、車内はどこからか侵入してきた土埃でたちまち一杯になる。 ジャングルの中のダートのようなひどい道を進んで1時半半くらいでコノマの村が見えてきた。縦に長く、斜面に広がるこの村は、両面の斜面に家々が張り付いている。まるでコヒマをそのまま小さくしたかのようだ。どこまでも丘陵地が続くナガランドでは、町や集落はたいてい小高いところに造るもののようだ。

    ナガランドの村は小高いところにというのが定石らしい。
    日中は人々の姿が見えない村

    ずいぶん静かな村であった。そもそも村の主であるはずの人々の姿がなく、突如として蒸発してしまったかのようで気味が悪い。まったく人気のない村の中を進んでいくと、ようやく幼い子を遊ばせる母親の姿があってホッとする。

    村の中には伝統的なナガの家屋は一軒もないようで、コヒマ郊外にあるような感じのごく普遍的な木造の家屋が大半で、これらに加えてインドの他の地域にあるような普遍的なレンガ積みの建物が少々といった具合。村のあちこちに展望台のようなものがあり、そこがちょっとしたスペースや広場のようになっている。焚き火の跡もあり、夕方そのあたりに人々が集ったりするのだろう。

    共同の水場がいくつもあり、近隣のより小さな村から出てきた学齢期の子供たちを住まわせるホステルもあることに加えて、村の中の細い路地のかしこに小さなゴミ箱が設置されており、チリひとつない清潔な環境であることにびっくりした。想像していたよりもずっと文化的だ。それぞれに政府のプロジェクトで作ったことを示す記号らしきものが書かれていることから、活発な反政府活動が続いてきたナガランドだけに、政府が民生の向上に対する貢献をアピールするためのプロパガンダ的な要素があるのかもしれない。

    広場を中心にいくつかの家屋が集合しているものもある。一族で暮らしているのだろうか。そうしたひとつで、少年、青年がいた。こういう村でもちゃんと英語を話す人がいるのはナガランドらしいところだ。食事中であった彼が言うには、人々は朝早くから田畑に出て仕事をしているため、日中の村の中には幼い子供を持つ母親くらいしかいないとのことだ。

    比較的大きな村ではあるものの、店らしいものは見当たらない。村人たちは日用品をどうやって調達しているのだろうか。衣類などは町に出て購入するにしても、石鹸、洗剤、調味料といった毎日使うようなのは、どこかでまとめ買いしておくのだろう。

    村は細い丘の上にある。真ん中を縦貫する階段の通路があり、周囲をぐるりと回る道路が囲んでいる。インドのどこでもそうだが、村を訪問する際に嫌なのは犬だ。町中に住んでいる犬たちと違って、ヨソ者に慣れていないため盛んに吠え付いてくるし、これまたしつこい。太陽が高いうちのコノマの村はほとんど無人状態だ。野犬たちの群に囲まれたら、素手だとちょっと危険かもしれないと思い、カバンから折り畳み傘を出しておいたが、一匹の野犬もいないのが意外であった。州都コヒマでも妙に野犬が少なく、人を見かけると逃げるように迂回してしまう姿を目にして、ちょっと不思議に思っていたが、そのあたりについては、後日触れることにする。

    家屋の中には、英語で売りに出しているということを書いた紙が貼られているものがあった。こういうところで、つまりアンガミー・ナガの村であるがゆえに、他所から関係のない人が移住してくることはないだろう。だが、もしこの村が観光化されていくことがあれば、マナーリーのヴァシシュトのようになるのではないだろうか。

    最初は地元の人々がゲストハウスや食堂などを始めて、外国人その他の観光客の出入りが増えてくると、地元の人々もこなれてきて、他所からの商売人も入ってくる。そうしたところで雇われて働く人々にはナガ以外の人たちも入ってくる。そうしたプロセスを経て、いつしか他所の人々も含めた小さなコスモポリタン的な集落になり、観光客たちが「沈没する」場所になっていくようなこともあるかもしれない。RAPが恒久的に不要となれば、インド長期滞在旅行者たちが集う場所となることが予想できる。彼らは何か特別なものが、何か特に見るものがなくても、こうした牧歌的な風景の中でゆったりと時間を過ごすのが好きだからだ。

    村の周囲には段々畑や棚田が広がる。インド人たちの姿はない。見かけるのはナガの人々だけである。インド人たちと違い、外国人が来てもチラチラと見てはいるものの、好奇心剥き出しに近づいてくることはない。大人も子供も、こちらが声をかけると、はにかみながら返事をしてくれる。

    村の中心部にあるバプティスト教会前の広場には、戦争で亡くなった人たちに対する慰霊塔がある。この戦争とは、旧日本軍の侵攻ではなく、ナガの独立戦争のことである。石碑には死者の名前が刻まれており、上部には青地に星と虹を描いた「ナガランド国旗」が描かれている。

    内戦による戦死者たちへの記念碑

    政府の様々なプロジェクトが実施されているこの村の玄関口に、こうした記念碑が建立されていることにいささか驚いた。だが、こうした村の中にあるこうした石碑は、たいていナガの言葉で書かれているもののようだが、これは英語で記されている。ひょっとすると、和解を演出するために行政側が建てたのでは?と疑いたくなる余地もある。

    それでも、コノマの村も内戦とは無縁ではなかったこと、ここから多くの戦士を出していることがわかる。内戦時代にはとても危なくて近づくことはできなかった場所なのかもしれない。内戦が激しかった時代には、州内を走るトラックやバスは前後に軍用車の護衛をつけてコンボイを組んで山道を走っていたという。それも上り坂で速度が落ちたところを襲撃されていたという話を聞いたことがある。

    ナガランドは、総体として和平への方向にあり、それが進展してきたがゆえに、こうしてRAP無しで入域できるようになっているわけだが、これが恒久的なものであって欲しいと願いたい。

    <続く>

  • ナガランド1 コヒマ到着

    ナガランド1 コヒマ到着

    インパールのClassic Hotelにて、利用した部屋の二人利用での宿泊費は、種々の税金が加算されておよそ3,000Rs(約4,700円)なのだが、この価格帯のホテルとしてはあり得ないほど、サービスやマナーが優れていた。いくつかのタイプの部屋があり、料金はこちらをご参照願いたい。

    同行しているL君は「インパールで一番のホテルということは、政治家や実業家その他の要人の利用も多いんじゃないかな。だから従業員への教育がしっかりしているんだと思う。」と言う。まさにそのとおりなのだろう。宿泊、食事は言うに及ばず、立派な会議室や宴会場も用意されている。2009年開業と新しく、客室が快適であることはもちろんのこと、階下のレストランもリーズナブルかつ美味でとても良かった。今、私の記事を読んで下さっているあなたが、インパールを訪れることがあれば、ぜひこのホテルに投宿されることをお勧めしたい。辺鄙な地方ではあるものの、『州で随一』のホテルが、この程度の料金で利用できるというのも、あまりないことである。

    朝食を済ませてから、ホテルの界隈から出発するナガランド州都コヒマ行きのバスに乗り込む。バスは宿近くの交差点あたりから午前8時発の予定であったが、乗客が集まって発車したのは結局9時くらいになった。周囲を山に囲まれた盆地にあるインパール市内を出たところで、時間的には出発から20分ほどのところで、バスはいきなり休憩時間に入り、運転手や乗客たちが食事を始めてしまったので、ちょっとびっくりした。これは朝食ではなく、中途で食事できる場所がないため、これは昼食なのだという。この場所には二軒のレストランがある。

    市内を出たと思ったらいきなり昼食休憩

    この日、コヒマまで6時間ほどの行程の中で、他州と違って街道沿いにいくつか食堂が軒を並べているような場所はなかった。私とL君は、乗車前にインパールのホテルの朝食バフェでたらふく食べてきたばかりであったので、やけに早い昼食をパスした。

    40分くらい停止した後、バスは出発する。運転手が食事を終えて、チャーイをすすって、タバコに火を点けて紫煙を燻らせて満足したあたりで、運転席のドアをガチャリと開けて、クラクションを鳴らして『出発するぞ!』と乗客に招集をかける専制君主的な態度は、全インド共通のものである。

    今回、ひとつ気掛かりなのは、『専制君主』が手慣れた感じのオジサンではなく、そもそも免許取得年齢に届くかどうかといった外見の、非常に若い運転手であることだ。今日のバスは、インパール始発、コヒマ経由でディマープルまで行くものだ。

    この食事の場所から山地に入る。しばらくは上り坂だ。道路はかなり悪く、揺れが大きい。ときおり軍用車両を見かける。複数の車両が固まって走っており、兵士たちは防弾チョッキを着ている。また銃を背負うのではなく常に前に構えており、走行中の車両から複数の兵士が天井の窓から上半身を出して、銃を外に向けて警戒していることなどから、他州の軍駐屯地ののんびりした雰囲気とはまったく違う。

    どこまでも続く丘陵地

    山間の道をバスは進んでいく。ヒマーチャル・プラデーシュ州のような急峻な崖を想像していたが、もっとゆるやかな丘陵地であった。だが道路の交通量は、ヒマーチャルに比較して格段に少ない。途中の町々は、やや大きめのものはあったものの、相対的に発展から大きく取り残された貧しい地域であることは明らかだ。スィッキムやヒマーチャルと地理条件には少々似たものがあるとはいえ、ずいぶん遅れていることが見て取れる。沿道には、 長距離バスが停車して食事を取るような安食堂さえ見当たらない。

    どのあたりからナガランドなのかと思っていたが、マニプル州都のインパールからナガランド州都コヒマまでの全行程6時間のうち、ナガランドの州境を越えたのはコヒマ到着の1時間前であった。チェックポストがあり、「ナガランドへようこそ」と書かれたゲートがあった。そこからしばらく走るとコヒマの街が斜面に見えてきたのだが、コヒマ到着まで1時間近くかかった。山間部なので道路が大きく迂回しているためだ。

    コヒマはかなり大きな街だ。ここに来るまでの山間部では他のインドの地域とは異なる感じの家々があった。・・・と言っても、ナガ族独特のスタイルの家屋があったわけではなく、木造の三角屋根の建物という意味)が大半であった。だが街に入ってくると、シムラーやダージリン等、他のヒルステーション同様の街並みとなる。現代のインドの建材と工法で建てるので、結局そういうことになるのだろう。

    ホテルはRazhu Pruという、何と発音するのかよくわからないホテル。ナガの言葉はローマ字で表記されるが、ウムラウトが付いていたりすることから、発音はなかなか複雑なのかもしれない。68年前に建てられたというクラシカルな洋館である。

    ロビー周りはなかなかいい感じに飾ってある。

    チェックインしてから部屋に荷物を置いて外出。斜面を下るとマーケットがある。しばらく散策しているうちに日が沈み、辺りは暗くなってくる。そして周りはすっかり真っ暗になってくる。つまり街灯がないからだ。まだごくわずかに開いている店では蝋燭を点している。どこも行くところがないし、帰り道もわからなくなるので、そそくさと宿に戻る。

    街の中心近くだが、街灯はほとんど無いため、陽が沈むとそのまま闇に包まれてしまうのが困る。

    宿ではナガ式の夕食を注文する。ブタとチキンの煮物、そして何か発酵調味料のはいっているスープ、ご飯とデザート。発酵した味の正体が何だかよくわからない分、旨いのか、そうでもないのか、ちょっと微妙な感じだ。

    ナガ料理の夕食

    夕食前にはネットが繋がっていたものの、その後はまったくダメになった。Vodafoneの3G通信のUSBスティックを持参のノートパソコンに挿しているのだが、州都でありながらもまったくもって不安定である。その後、長い停電があった。窓の外に見える向こうの斜面の街並みでは煌々と灯が点いている。翌日歩いてみてわかったのだが、政府機関、軍施設、有力政党の事務所等がある地域であった。