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カテゴリー: life

  • ボリウッド・トーク・イベント@阿佐ヶ谷ロフトA

    5月1日(木)の夜、東京都杉並区の阿佐ヶ谷ロフトAにてトーク・イベント『マサラスタイルでボリウッドNo,1!! 〜カレーに紙吹雪が入らないよう注意!〜』が開催される。詳細については以下をご覧いただきたい。

    5/1 ボリウッド・トーク・イベント@阿佐ヶ谷ロフトA (Namaste Bollywood)

    これは5月3日(土)から渋谷・シネマライズを皮切りに順次全国公開されることになるカラン・ジョーハル監督の『Student of the Year』(2012)に合わせて開催されるものである。

    このトークイベントでは、ボリウッド映画を愛する人々にとって耳よりなお話が沢山飛び出してくることだろう。

  • パーキスターンに味の素進出

    かつてアジアで「グルタミン酸を旨みと認識する食文化圏はヒマラヤの手前まで」と言われていたことがあった。

    確かに中国や東南アジアではそのような食文化が展開されていて、インドから西はといえば、異なる味覚の世界という捉え方がなされていたようだ。

    もちろんそれらの国々でも肉の旨みというのは誰もが判っていたこととは思うが、グルタミン酸調味料の大きな商圏といえば、やはりアジアの東側であったことは間違いない。

    だがここ数年は、エジプトで「行商スタイル」での営業活動を展開する味の素が売上を伸ばしていること、人口増加率が高くて若年層の人口が厚く、今後順調な所得増が見込まれるイスラーム圏(といってもあまりに広大だが)での販路を求めて様々な策を練っている様子が伝えられている。

    なぜエジプトで“味の素”が売れるのか?(東洋経済)

    味の素、東アフリカに進出へ ケニアに拠点、来年度から販売 (SankeiBiz)

    また、最近は日本初のハラールファンドが設立されて、日本の食品業界が本腰を入れてイスラーム圏へ進出を図りつつある様子もうかがえる。

    日本初のハラルファンド 地銀など50億円出資 (日本経済新聞)

    このあたりの動きが可能となったのは、やはり化学調味料メーカーの営業努力はもとより、昨今のグローバル化により、食の分野でも多様化が進んだことも背景にあるのだろう。

    同様に、日本国内の消費が長く頭打ちであること、中国や東南アジア方面でも競合相手が増えて、マーケットが飽和状態にあるため、これまでは「圏外」であった地域に活路を求めなくてはならなったという事情もある。

    そこにきて、4月に入ってから新聞紙上を賑わせていたこんな記事もあった。

    味の素、パキスタン進出 「ハラル」市場の攻略拠点に(日本経済新聞)

    これらの地域へのグルタミン酸を主原料とする調味料等の販売はネスレをはじめとする欧州勢が先行しており、日本企業はこれを追う形になるのだが、化学調味料の浸透とともに、地元の食の世界もジワリと変化を迎えつつあるのだろう。

    果たしてそれが良いことなのか、そうでないのかは定かではないものの、今後の行方に注目していきたい。

  • 第23回東京ダジャン

    今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

    こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

    もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

    その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

    とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

    多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

    当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

     

    第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

     

     

  • PENTAX Q7 & Q10

    PENTAX Q7 & Q10

    外観はPENTAX Q10と同一のPENTAX Q7
    Q7と2台持ちすると画角の違いでも重宝するQ10

    以前、PENTAX Q7と題して取り上げてみた「世界最小デジタル一眼」を謳うこのカメラ、昨年7月の発売日に購入して以来、愛用している。

    先代のQ10に比べて、センサーのサイズが1/2.3から1/1.7型へと大型化したといっても、画質そのものが劇的に向上するというものではなく、コンパクトデジカメと同等の大きさであることから、画質云々にこだわるほどのものではないとはいえ、それでも思いのほか写りが良いことと、レンズ交換式でまさに一眼感覚で楽しむことができるのが、Qシリーズの人気の理由だろう。

    「トイレンズ」と名付けられたチープなレンズも加えて8点のレンズを持ち歩くとしても、カバンの片隅にこじんまりと収まってしまうのがいい。冬ならば上着のポケットに全て収まってしまうという機動性も頼もしい。

    そんなわけで、ボディをもう一台買い増ししたいと思っていたので、このたび中古で購入することにした。同じQ7にするか、それともひとつ前のモデルであるQ10にするか、少々迷ったが、センサーサイズの違いから同じレンズを装着しても画角が少し異なるQ10を入手することにした。

    Q7の発売後もしばらく平行して販売されていたQ10だが、昨年秋くらいには生産終了となっており、現在は1万円強程度で購入することができる。ちなみにQ7はその倍程度の価格である。(2014年4月現在)

    ボディのデザインや重量は両者とも同一で、操作メニューもほぼ同じである。どちらもボディの色は黒を選んだので、軍艦部に刻印されているモデル名以外の外見はまったく区別がつかない。2台持ちしてもまったく苦になることのないコンパクトさがありがたい。

    私にとって最も使用頻度の高い広角ズームをQ7で常用して、その他のレンズをQ10で使いまわすか、それともQ10はトイレンズの専用機にするかは、そのとき次第である。

    写真を撮るのが趣味とはいえ、重くてかさばるカメラは億劫なので、ハイエンドなコンデジを創意工夫とともに思い切り使い倒すことを身上としている(?)私だが、やはりコンデジ単体での限界値は低い。レンズ交換して楽しむことができる「一眼式コンデジ」の存在意義は大きい。

    「インドでどうだろう?この一台!」というところで、やはりPENTAXのQシリーズはイチオシだと私は考えている。

  • 著名人の政界への転身

    有名なスポーツ選手やタレントが選挙に出馬することが多いのは、社会で知名度が高いため広告塔としての効果が期待できること、そしてもちろんのこと有名であるがゆえに、たとえ新顔であっても個人的な人気により、浮動票を集めて当選する可能性が高いからでもある。

    もちろん政治活動を続けてきて政界に通じている人物、経済活動や社会活動を通して高い見識を身に付けて来たような候補者と異なるため、素人扱いされることも少なくないが、社会の様々な層の人たちの意見を代弁する議会という場で、他と背景がまったく異なる人たちが加わるのは悪いことではない。

    さて、そうしたスポーツ選手やタレントが選挙で候補者として登場することが少なくないのはインドも同様で、今回のローク・サバー選挙においては、俳優のパレーシュ・ラーワル、射撃選手でオリンピック銀メダリストのラージャワルダン・スィン・ラートール、クリケット選手として活躍したモハンマド・カイフ等々が出馬しているが、西ベンガル州だけを見てもサッカーの元インド代表のエース・ストライカーであったバイチュン・ブーティヤーとベンガル語、ヒンディー語映画等で活躍した女優、ムーン・ムーン・セーンが、マムター・バナルジー率いるTMC(トリナムール・コングレス)から立候補する。

    ベンガル人であり、ミドナプル地区から出馬するムーン・ムーン・セーンはともかくとして、スィッキム州出身のブーティヤー族であるバイチュン・ブーティヤーがダージリン地区から出馬していることについては、いろいろな波紋を投げかけることになっている。

    西ベンガル州のダージリン地区は、同州内の他の地域とは地理的、文化的、人種的な要素が大きく異なる。インドが英領であった時代に当時のスィッキム王国(現在のスィッキム州)から割譲された地域ということもあり、ブーティヤー族の住民も多い。それがゆえにダージリン地区においては盤石とは言えないTMCの有力候補として擁立されたわけである。

    TMC candidate Baichung Bhutia campaigns in Darjeeling (The Indian EXPRESS)

    だが同地区は長年、西ベンガル州からの分離活動が盛んであった地域であり、ネパール系の住民たちの利益を代表するGJM(ゴールカー・ジャンムクティ・モールチャー)がその流れを牽引している。TMCは、ネパール系ではないものの、サッカー人気の高いこの地域において、近隣地域であり、居住地域が重なることから民族的にも馴染みの深いブーティヤー族出身のバイチュン・ブーティヤーに期待をかけているはずだ。しかしながら地元のTMC活動家たちは、バイチュンのGJMとの融和的な姿勢について不満を隠さないという具合で、党内部でもいろいろ摩擦が生じていることがうかがえる。すでにひと月近く前の記事ではあるものの、参考までにリンクを掲載しておく。

    Baichung Bhutia draws ire of local TMC leaders after seeking GJM support (The Indian EXPRESS)

     

     

  • ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッドのエントランス

    アーグラー郊外のスィカンドラーにあるアクバルの廟を模しているとされる、コールカーターのナコーダー・マスジッド。現在のグジャラート州西部のカッチ地方を起源とする商業コミュニティにより建造されたスンニー派のモスクで、1926年に完成している。

    この街のモスクを代表する存在であるといえるが、地元のコミュニティではなく、国内とはいえ現在のインドの西端からやってきたムスリムたちにより建造されたというのは、いかにもコスモポリタンなコールカーターらしい。同時にこのあたりにはグジャラート州などインド西部起源のムスリム住民が多いのではないかという推測もできるだろう。

    この地域は旧中華街、旧ユダヤ人地区等と交わる昔からの繁華街。元々、欧州人でも地元ベンガル人でもない外来の人々が多く定住したエリアなので、前述のグジャラートから移住したムスリムたちにも都合が良かったのかもしれない。

    1万人の礼拝者を収容できる大型モスクなのだが、狭小地に建てられているがゆえに、伝統的なムガル様式を踏襲した建物ながらも、礼拝堂が多層構造になっているのが特徴だ。

    エントランスのあるザカリア・ストリートからよりも、ラビンドラ・サラニからの側面の姿のほうが見事な造形を楽しむことができる。モスクが面している道路とキブラの方向とのズレを、建物が捻じれた構造にすることによって解決してあるため、ちょっとだまし絵のような印象も受ける。

    ラビンドラ・サラニから眺めるとこんな具合

    ユナーニー医学の腹薬

    周囲は門前町となっており、様々なイスラーム関係のグッズやその他の日用品などを商うイスラーム教徒の商売人たちの店や露店が所狭しと賑やかに並んでいる。モスクのエントランス正面にあるAMINIA HOTELという食堂は、このバーザールで最も早い時間帯から開く店のひとつのようだが、まだ辺りが薄暗いうちから店のスタッフたちが準備を開始して、通りを行き交う人々の姿が多少目に付くあたりには営業を開始している。ここのネハーリーは絶品なので、朝の時間帯にここを訪れる際にはぜひ味わっていただきたい。

    AMINIA HOTELでは、もちろんそれ以外の時間帯にも各種ケバーブ類その他、おいしいイスラーム系料理が沢山用意されている。いかにも下町の大衆的な料理屋さんといった風情で、エコノミーながらも味わいは本格的で、ナコーダー・マスジッドの向かいというロケーションも最高だ。夕方遅い時間帯になっても営業しているので、ぜひともナコーダー・マスジッド詣でとセットで訪れたい。

  • 久美子ハウス

    四半世紀以上も前のことになるが、バナーラスの久美子ハウスに宿泊したことがある。日本人宿というものに特段の興味や関心があるわけではないのだが、当時は泊めてもらう前に「面接がある」だの、その面接で「落とされる人がいる」だのといった噂を耳にしていた。落とされた人というのは、当然そこに宿泊させてもらえず、他の宿を当たらなくてはならない。観光客の多い街で、界隈には他の宿泊施設も多いので困ることはないのだが、お客に対してそんなに居丈高な宿が本当にあるのかと不思議であった。

    当時大学生であった私は、友人と初めての海外旅行で訪れたインドであり、目にするものすべてが物珍しく、迷路のようなバナーラスの街はどこか異次元の世界のようでもあった、昼間はどこまでも人々でごった返している小路を進んでいき、ようやくたどり着いた先に「久美子ハウス」と日本語で書かれた看板が目に入るにあたり、ホッとした気分になった。

    「面接」といっても何を聞かれたのかは今となってはまったく記憶していないが、確かにそれらしきものはあった。久美子さんの夫でヒゲ面のシャーンティさんが流暢な日本語でいろいろと質問、といった具合であったのではないかと思う。

    料金はいくらであったかも記憶していないが、ドミトリーで朝晩の食事が付いていて、バックパッカーが利用する宿としても最安クラスであったはずだ。食事というのは、かすかに醤油の味がするようなしないような汁の中にブツ切りの人参と大根がプカプカ浮かんでいる鍋のようなもの?と大きな器にドカ盛りされたご飯を各自好きなだけ取り分けて食べるといった具合。

    思えばちょうどホーリーの時期であった。着替えが一揃いしかないので、衣服をダメにすると、なけなしの旅行資金から捻出して新しい服を買い求めなくてはならなくなるので、屋上から通りの下を眺めているだけであった。そういう日とは知らずにバナーラスの鉄道駅に降り立ったという人たちは、全身物凄い色になって宿に転がり込んできていた。

    安旅行者を相手にしている宿であるだけに、面倒な問題を起こす旅行者が少なくなく、中には警察沙汰になったり、時には行方不明になったりしてしまう滞在者もいるなど、なかなか大変であったようだ。それに加えて宿が多くて過当競争になっている地域にありながらも、客引きに頼むこともなくしじゅう宿泊客の日本人たちが出入りする、経営環境としては非常に恵まれた立場にあるだけに、周囲の同業者から妬まれるということも耳にしていた。そういう事情があったため、宿泊者への「面接」というのが行われていたのだろうと思う。

    こうした環境でもまれてきたからなのだろうが、久美子さんといえば、やたらと眼ヂカラのある豪放磊落な感じがする女性、肝っ玉母さんという印象がある。元来世話好きでもあるようで、ときには「口うるさいオバハン」と疎まれたりすることもありながらも、朝夕の料理のときには長期滞在者の誰かしらが手伝っていることが多かった記憶があるし、久美子さんもそうした人たちを気軽に「使い走り」に駆り出していたりもしていた。なかなか普通の宿ではありえないことだろう。

    数か月単位の長期で滞在している人たちも少なくなく、安ホテルというよりも、賑やかな下宿屋といった風情の久美子ハウスであった。ガートに面した建物の屋上からのガンジス河の景色は良かったし、月夜に照らし出された河面の眺めも最高だった。当時はまだ幼かった可愛い子供さんたちも、とうの昔に成人してコテコテのインド人になっていることだろう。

    その後、久美子ハウスに逗留したことはないのだが、幾度かバナーラスを訪れてガートを散歩中にこの宿のあたりを通りかかると、当時のことを思い出したものである。

    そうした記憶もすっかり遠くなってしまった今、FB上で複数の方々が久美子ハウスについての記事を取り上げられていて、とても懐かしい思いがする。久美子さんもお元気そうで何よりである。なんでも今では久美子ハウス2号館というのもあるとかで、商売繁盛のようである。

    -次期経営者募集?!-久美子さん(ウッタル・プラデーシュ州バラナシ在住)(LIVE INDIA)

  • ネットで読むキプリング

    インド生まれの英国人作家、ルドヤード・キプリング(1865-1936)といえば、日本語に翻訳されている「少年キム」や「ジャングルブック」などの代表作で知られている。

    英領インドのボンベイ生まれのアングロ・インディアンであった彼の執筆活動の舞台はインドに限定されるものではなく、主に短編小説でその才能をいかんなく発揮し、ノーベル文学賞を受賞するまでにもなった偉大な作家であるが、やはり私自身にとっての興味関心は、キプリングの作品中に描かれる英領期のイギリス人を中心とする欧州人社会の様子ということになる。

    ちなみに「アングロ・インディアン」という言葉は、20世紀以降は英印混血の人たちのことを指すようになっているが、19世紀まではインド在住の英国系の人々のことを称するものであった。キプリング自身はイングランド人の父とスコットランド人の母との間に生まれており、インド人の血は流れていない。

    インターネット上でも邦訳はわずかながら青空文庫でも公開されているが、Project Gutenbergではもっといろいろ読むことができる。

    晩年のキプリングは十二指腸潰瘍に罹り、これにより死亡しているが、今は簡単に治る病気であっても、当時は命取りになったわけで、数年前にピロリ菌の除菌により、周期的にやってくる腹部の痛みから解放された私にとっては身につまされる思いがする。

  • カナダとインドの国際結婚 印度華人

    コールカーターを訪れる際にはいつもお邪魔させていただいている在印華人のCさんから手紙をいただいた。今年の華人の旧正月では、彼女のお店に獅子舞のチームが三つも訪れてハッピーな正月であったようだ。PCを使うような年代の方ではないので、コールカーターでお会いするとき以外は、彼女とのやりとりはいつも手紙である。

    その中で、ちょっと興味深いことが書かれていた。カナダに家族と一緒に移住している甥がこのたび在印華人女性と婚約したとのこと。インドの新聞広告で、在外のインド人が結婚相手を求める記事を見かけることはよくあるが、華人であり、とりわけ北米に移民して育った若者ともなれば、すっかりカナダ人化して日常生活の中で知り合った人と結婚するものとばかり思っていたが、こういうこともあるらしい。お相手はチェンナイ在住の華人家族の娘さんだそうだ。

    カナダには、在加華人としてはマイノリティであるインドから移民した華人たちの「同郷会」もあり、先祖のルーツである中国各地出身のコミュニティへの帰属意識以外に、「印度華人」という意識も強いということは聞いているが、やはり数世代暮らした土地、自分の生まれ故郷に対する愛着もあるのだろうし、人的なつながりも健在らしい。

    私が印度華人に関心を抱いていることをよく知っているCさんは、コールカーターを訪れるたびに、一緒に中国茶を啜りながら、「この間はどの話をしたっけ?」と、しばらくニコニコして考えながら、いつも興味深い話をして下さる。

    前回、正月(西暦の)に訪問した際には、彼女が幼かった頃の華人たちの正月(旧正月)の親族の集まり、子供たちへの紅包(お年玉)のことなど、楽しい想い出話を聞かせていただいた。裕福な華人実業家であった彼女の父親には、もうひとつの家庭があったこと、その家庭との行き来も盛んであったことなども、あっけらかんとした様子で話して下さった。もっとも、当時はおおらかな時代であったので、決して珍しいことではなく、子供たちにとっては同じ親類であったとのことだ。

    私はまだ北米を訪れたことはないが、いつか在印華人たちが多く移住したヴァンクーバーやトロントといった街を訪問して、インド出身の華人の方々のお話を伺う機会を得たいものである。

  • 「英語圏」のメリット

    コールカーターで、ある若い日本人男性と出会った。

    インドの隣のバーングラーデーシュに4か月滞在して、グラーミーン・バンクでインターンをしていたのだという。これを終えて、数日間コールカーターに滞在してから大学に戻るとのこと。彼は、現在MBAを取得するためにマレーシアの大学に在学中である。

    マレーシアの留学生政策についてはよく知らないのだが、同級生の半分くらいが国外から留学しに来ている人たちだという。

    今や留学生誘致は、世界的に大きな産業となっていることはご存知のとおりだが、誘致する側としては英語で学ぶ環境は有利に働くことは間違いなく、留学する側にしてみても英語で学べるがゆえに、ハードルが著しく低くなるという利点があることは言うまでもない。

    同様のことが、ターゲットとなる層となる自国語が公用語として使われている地域が広い、フランスやスペインなどにも言える。これらに対して、国外に「日本語圏」というものを持たない日本においてはこの部分が大きく異なる。

    出生率が著しく高く、世帯ごとの可処分所得も潤沢な中東の湾岸地域にある産油諸国においては、急激な人口増加に対する危機感、そして石油依存の体質から脱却すべく、自前の人材育成に乗り出している国が多く、とりわけ欧米諸国はこうした地域からの留学生誘致に力を入れている。昨年、UAEのアブダビ首長国で開かれた教育フェアにおいては、日本も官民挙げて力を注いだようだが、来場者たちは日本留学関係のエリアはほぼ素通りであったことが一部のメディアで伝えられていた。

    投資環境が良好なUAEにおいては、Dubai International Academic Cityに各国の大学が進出して現地キャンパスを開いているが、それらの大学はほぼ英語圏に限られるといってよいだろう。やはりコトバの壁というものは大きいが、こういうところにもインドは堂々と進出することができるのは、やはりこの地域との歴史的な繋がりと、英語力の証といえるかもしれない。

    日本政府は中曽根内閣時代以来、留学生誘致に力を入れているものの、現状以上に質と規模を拡大していくのは容易ではなく、「留学生30万人計画」などというものは、音頭を取っている文部科学省自身も実現不可能であると思っているのではないかと思う。仮に本気であるとすれば、正気を疑いたくなる。

    もともと日本にやってくる留学生の大半は日本の周辺国であり、経済的な繋がりも深い国々ばかりであり、その他の「圏外」からやってくる例は非常に少ない。また、日本にやってくるにしては「珍しい国」からの留学生については、日本政府が国費学生として丸抱えで招聘している例が多いことについて留意が必要である。そうした国々からは「タダで学ぶことができる」というインセンティブがなければ、恐らく日本にまでやってくることはまずないからである。

    身の丈を越えた大きな数を求めるのではなく、質を高めるほうに転換したほうが良いのではないかと思うが、ひょっとすると、少子高齢化が進む中で、外国から高学歴な移民を受け入れて、労働人口の拡充に寄与しようという目的もあるのかもしれないが、実際のところは、学齢期の人々が漸減して、冬の時代を迎えている国内の大学の生き残りのための政策なのではないだろうか。

    こればかりはどうにもならないが、もし日本が「英語圏」であったならば、様々な国々からの留学生の招致は現状よりももっと容易であったに違いない。

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

  • コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

    コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

    コールカーターの宿で出会った日本人旅行者と食事に出かけた。アテにしていたこの街の一番古くからある中華レストランの「欧州飯店」に電話をかけてみたが、誰も出ないのでどうやら休みらしい。

    街の東郊外にある華人地区のテーングラーまで出るのは面倒なので、ラール・バーザール近くの旧中華街に行くことにした。カルカッタ警察本部のあたりでタクシーを降りる。このあたりから先はムスリム地区になっている。

    道沿いにあるモスクのスピーカーからは、怒りをぶちまけるかのような過激な調子で、ウルドゥー語による内容も扇情的な説法が大きな音で流れている。こういうタイプのモスクがあると、ムスリム住民でもこれに同調しない人も多いだろうし、近所に住んでいたり、たまたま通りかかったりする非ムスリムのたちは、不安をおぼえるのではないかとさえ思う。

    さて、チャターワーラー・ガリーを進んでいくと、暗い夜道ながらも漢字で書かれた赤いお札が貼られた家屋がいくつもあるので、今も華人たちがかなり暮らしていることが感じられる。

    小さな店で商っている華人たちは、混血しているので一見ネパール人?と思うような風貌の人たちが多い。中国大陸からの移民は19世紀後半から20世紀初頭にかけての清朝末期、その後の国共内戦にかけて、中国の政情が混乱していた時期にインドに流入してきたわけだが、とりわけ初期の移民の大半は男性であった。当然の帰結として伴侶に現地女性を求めたケースが多かったがゆえに、現在コールカーターに居住している華人の間では、やはりどこかでインド人の血が入っていることは往々にしてある。

    さて、小路を進んでいくと、チャターワーラー・ガリーとスンヤートセーン・ロードが交差するあたりにあるのが、この旧中華街に今も残る中華レストラン「トゥン・ナム」である。ちなみにスンヤートセーン・ロード(Sun Yat Sen Rd.)とは、中国や台湾で言うところの「中山路」に当たる。Sun Yat Senとは、孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことであるからだ。

    平行している道路はLu Shun Sarani、つまり「魯迅路」であり、まさに中華街らしいロケーションである。しかしながらこの界隈からの華人人口の流出は著しく、隣接するムスリム地区に呑み込まれてしまっているのだが、かつて華人の屋敷であったと思しき建物は今もそのような雰囲気を残しているし、いくつかの中国寺院や華人たちの同郷会館なども見かける。

    さて、レストラン「トゥン・ナム」で席に着いて料理を注文する。経営者は客家人家族。「トゥン・ナム」とは、客家語で「東南」かな?などと想像してみたりもする。二人で訪れると、いろいろ注文できていいものだ。ご飯の豚肉あんかけ、魚と豆腐の炒め物、チョプスィー、ワンタンスープその他を注文した。どれも美味であった。インドの中華は炒め物でも最後はグレイビーに仕上げるのが特徴。やはり乾いたご飯と乾いたおかずでは食べないようになっている。

    店内のお客たちの多くは中華系の人たちであった。豚肉を出す店であるがゆえに、この地域と隣接するムスリム住民たちをまったく相手にしていないということになるが、それでもかなり繁盛しているようである。

    経営者家族は華人。注文聞きはインド人で、トイレを借りると途中で見えるキッチンの様子から、料理しているのもインド人であることがわかった。それでも味はちゃんとした中華なので、みっちりと教え込んであるのだろう。

    先述の欧州飯店では家族以外の料理人を雇うことなく、門外不出のレシピとで調理をしているとかで大変美味しいのだが、トゥン・ナムも負けず劣らずいい料理を出してくれる。やはりインドにおける中華料理の本場コールカーターの旧中華街に店を構えているだけのことはある。

    Chinese Restaurant 「Tung Nam」(火曜定休)

    24 Chattawala Gully, Kolkata 700012

    Phone.22374434 / 9831635767