暑い盛りの8月6日(土)と7日(日)に、東京都千代田区の日比谷公園大噴水広場にてヒマラヤンフェアーNEPAL2011が開催される。時間は8月6日が10時から19時まで、8月7日は10時から17時まで。
昨年、一昨年は「ネパールフェスティバル」として開催していたもので、在日ネパール人会のメンバーが中心となって運営しているだけに、日本在住のネパールの方々の参加も多い。
東京では年間で最も気温が高くなる時期なので、熱射病にはくれぐれもご注意を!
暑い盛りの8月6日(土)と7日(日)に、東京都千代田区の日比谷公園大噴水広場にてヒマラヤンフェアーNEPAL2011が開催される。時間は8月6日が10時から19時まで、8月7日は10時から17時まで。
昨年、一昨年は「ネパールフェスティバル」として開催していたもので、在日ネパール人会のメンバーが中心となって運営しているだけに、日本在住のネパールの方々の参加も多い。
東京では年間で最も気温が高くなる時期なので、熱射病にはくれぐれもご注意を!
中耳炎になった。小学生だったころ以来である。当時は風邪を引いては耳もおかしくなっていたものだが、今回は飛行機に乗ったことが原因である。
航空性中耳炎について耳にしたことはあり、航空機の乗務員の間でしばしば発生する職業病のようなものということは知っていた。機内の気圧の変化により、耳の中が痛くなることがあるが、その際にあくびや唾を飲み込むなどしてうまく耳抜きができないままになっていると生じる不具合である。
気圧の変化といっても、上昇時つまり耳の中の気圧が周囲よりも高くなる際よりも、下降時に鼓膜の内側の気圧が、その外側よりも低くなるときに起きやすいという。
飛行機が着陸態勢に入るというアナウンスの後、飛行機がどんどん高度を下げていく中、耳の中がツーンと突っ張った感じになった。いつものようにあくびをしたり唾を大きく飲み込んでみたりする。普段ならば耳の中が「バリバリッ」と音を立てて元に戻るところだが、今回はカゼを引いていて鼻がひどく詰まっているためか、左側の耳にはまったく効果がなかった。
飛行機が滑走路に着陸してターミナルまでゆっくりと動いている最中もその状態は変わらず、市内に出て宿に荷物を置いてもまだ同じ状態が続き、数日経っても回復しなかった。
プールや海で泳いでいて耳の中に水が入ったときの様子に似ている。おかげで左耳の聞こえかたが悪くなっている。障子一枚隔てた向こうからの聞いているような感じだ。
これではいけない、と耳鼻科医に診てもらっているところだが、なかなか治らない。診察の際に左の鼻から、耳に繋がる耳管に空気を通してもらうと、かなり痛みを伴うがなんとか通気できるようになる。
するとしばらくの間はすっきりと聞こえるようになるのだが、またすぐに塞がってしまうような感じになる。塞がっているといえば、鼻腔から耳にかけて空気がスムースに通るようになっていなければならないとのこと。そこが塞がってしまうから気圧の調整がうまくいかず、耳の中の気圧が外気よりも低くなったままになってしまう。
すると鼓膜の内側に水が溜まってきてしまい、いわゆる滲出性中耳炎を発症する。これがいわゆる航空性中耳炎が起きてしまうメカニズムであるとのことだ。
やれやれ・・・。
日本国内どこに行っても英会話教室の広告を見かける。多くは『ネイティヴの講師』を売りにしていて、アメリカ、イギリス、オーストラリア他の『英語を母語とする』人々が教えることになっている。
だが英語の教員という点では、インド人もなかなか評判がいいことをご存知だろうか。産油国方面で英語を教える、英会話を教えるといった仕事に就いているインド人は昔から少なくないようだ。
また、実はあまり広く知られていないようだが、インドの隣国ブータンは1970年代から学校教育の場で、国語のゾンカ語以外の教科は英語で教えるようになっている。その教育の英語化を導入するにあたり、当時まだ英語を自由に使うことのできる現地教員の数がとても少なかった時期に、非常に大きな役割を果たしたのは同国の要請により、大量に派遣されてきたインド人教員たちである。
そんなわけで、英語教育の分野で実績のあるインドで、現地の英語教職者を使って、日本人に対してインターネット経由でオンラインレッスンを行なう英会話教室がある。
MOA (MINATOMO ONLINE ACADEMY)
インドの教育資源を活用した面白い試みであり、こうした事業の今後の進展にも注目していきたい。
写真やアルバムは本人や家族にとって大切なものだ。年月を重ねるにしたがってその価値や重みを増していく。 その画像に写っている『現実』がどんどん遠いものとなっていくからだ。
大人になってから眺めてみる子供時代の写真、今では年取った親の若いころの写真、社会に出てからずいぶん経ってから、ふと開いてみる学生時代の卒業アルバム、そこには今とは違う自分や家族や友人たちの姿がある。
どれも懐かしい思い出に満ちている。時間の経過とともに記憶の中で特に良かった部分が、非現実的なまでに増幅して思い起こされるものだ。 そうした昔の写真は、さらに時を経てそこに写っている個人やその家族のみならず、そこに記録された時代を知る貴重な手がかりとして、万人にとって価値あるものとなってくる。
インドの古い写真をブログ的に取り上げているOld Indian Photosというサイトがある。1850年代から1970年代にかけての写真が取り上げられている。セピア色の画像の裏に繰り広げられていた当時の日常、そこに写っている人々はすでにこの世に無く、その個々を知る人さえない忘却の彼方に去って行った過去もある。今とはずいぶん違う景色、現代とは異なる装い人々の姿から当時の世相や習俗が伝わってくる。
想像力たくましくして、色褪せたモノクロームの写真に『記憶された』風景の背後に思いを馳せたい。撮影者の目の前にあった当時の日常生活、彩り豊かな失われた昔日をゆったりと眺めてみたい。そこには人々が歩んできた歴史があり、それは言うまでもなく今の私たちの時代に繋がっている。
アフガニスタンに関するニュースといえば、戦争やテロといったネガティヴなニュースが大半を占めているが、なんだかホッとする記事を見かけた。
Ten facts you may not know about Afghanistan (BBC NEWS SOUTH ASIA)
ブズカシの競技の様子を伝えるビデオ、携帯電話の普及、マッチョな気質とは裏腹に詩をたしなむ文化と豊かな食の世界、世界最古の油絵が描かれた国・・・といった事柄が簡潔にまとめられている。
インド世界のすぐ外側にありながらも、かつて西欧のバックパッカーたちがこぞって訪れた観光地としての過去とは裏腹に、ずいぶん距離感をおぼえる国だ。
上記リンク先の記事の内容をカバーした番組が7月6日にBBCで放送されたようである。これからもまだまだ混乱は続くようではあるが、一日も早く市井に生きる普通の人々の顔が見える、もっと身近な国となることを祈りたい。
日々が過ぎ去っていくのは早いもので、2011年もすでに半分以上が終わってしまった。インドにおいて7月は鉄道時刻表改定の時期だ。例年のごとく国鉄のウェブサイトにこれがPDF形式でアップロードされている。
Trains at a Glance (July 2011 – June 2012)
なお今年5月から7月までの夏季特別列車の時刻表も閲覧できる。
All India Summer Specials Time Table (April-July2011)
インターネットでの鉄道予約といい、ウェブで閲覧できる時刻表といい、かつて列車の予約が大仕事だった時代がまるでウソのようだ。


サッカーの話題である。
インドのI-LeagueのDempo S.Cが元アルゼンチン代表のアリエル・オルテガ獲得に向けて交渉中であるとのことだ。成功すればI-Leagueにおける空前のビッグネームが加入することになる。
Dempo SC in talks with Argentina international Ariel Ortega (goal.com)
オルテガといえば、『マラドーナ後』のアルゼンチンのナショナルチームのMF陣を代表する選手であった。小柄ながらも爆発的なスピードと変幻自在のテクニックを兼ね備えた天才的ドリブラー(同時にボールを持ちすぎる選手という印象も強い)として知られてきた。
祖国アルゼンチンのリバープレートを振り出しに、スペインやイタリア等の名門チームを渡り歩いてきた彼もすでに37歳。すっかり盛りは過ぎてはいるものの、彼の華麗なプレーはインドのサッカーファンたち(地域的に限られているが)を魅了するだろう。
こうした非常に高いレベルの中盤選手のイマジネーション豊かなプレーは、サッカーというスポーツの面白さや醍醐味を、インドのそれとはまだ縁遠い人々へと伝える大きな力となり得る。
ただ気がかりなのはチームのグッズ販売収入の20%前後を求めていることが交渉の上でネックになっているとのことで、本当に加入へと事が運ぶのかどうかは今のところ不明。
またこれまで幾度も所属クラブのマネジメントと衝突したり、試合のフィールドでもトラブルをしばしば起こしたりしている、なかなかの暴れん坊だ。サッカー新興国・・・というよりも、それ以前の段階にあるI-Leagueのクラブが、果たしてオルテガをうまく手なずけることができるのかどうか?という不安もある。
オルテガ自身にとっては、もしDempo S.C.に加入することになれば年齢的におそらく彼のサッカー人生をそこで終えることになるだろうが、この移籍話が実現すれば、Dempo S.C. はもとより、I-Leagueやそのファンたちに対するとても素敵な贈り物ということにもなる。J League草創期に鹿島アントラーズでプレーしたブラジルのジーコのことをふと思い出した。
ぜひ話がうまくまとまることを期待したい。
Ariel “El Burrito” Ortega (Youtube)

このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。
アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。
この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。
反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。
彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。
そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。
蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。
ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。
アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。
だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。
時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。
舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。
それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。
もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。
だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。
作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。
この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。
蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。
歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。
バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

投票日を7月3日に控えたタイの下院総選挙。前評判では海外に滞在しているタクシン元首相が操るタイ貢献党が現在の与党の民主党をわずかにリードしているとのことで、再び政権交代ということになるのだろうか。辛くも民主党が持ちこたえたとしても、今後の政局はかなり苦しいものとなるとの見込み。
2008年の黄色いシャツがシンボルの反タクシン派であるPAD(People’s Alliance for Democracy民主市民連合)によるバンコクの空港占拠、2010年に起きたそれと逆の立場の赤シャツがトレードマークのタクシン派UDD(National United Front of Democracy Against Dictatorship反独裁民主戦線)がバンコク市内で繰り広げた大規模なデモ活動とそれに対する政府側の弾圧といった非常に大きな出来事は記憶に新しいところだ。
まさにそれらふたつの対立する勢力が真っ向から衝突するのが今回の選挙だが、結果はどうあれ国民和解への道のりは遠いものと思われる。

それはさておき、ハンサムな風貌で知られるアピシット首相はもとより、勝てばタイ初の女性首相となるインラック・チナワット氏(タクシン元首相の妹)もまた相当な美人。おかげでタイの政治にまったく興味関心のない筋からも注目されている今回の総選挙のようである。




今年4月29日にイギリスで行われたウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式は、国外にも広く放送されて注目を浴びたが、インド亜大陸北部のヒマラヤの王国ブータンでも今年10月にロイヤル・ウェディングが予定されている。
2008年6月に父君の退位に伴い王位に就いた現在31歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が選んだお相手は、王族・貴族ではない民間人のジェツン・ペマさん。イギリスのリージェント・カレッジで学ぶ前には、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州のヒルステーション、カサウリー近くにあるローレンス・スクール・サナーワル、その前には西ベンガル州のカリンポンのミッション・スクールで学ぶなど、インドとの縁も深い女性だ。
残念ながら結婚式の様子をテレビで拝見する機会はなさそうだが、2008年から立憲君主制に移行した新しいブータンの顔として、今後も注目していきたい。
His Majesty announces Royal Wedding (bhutanjournals.com)

久しぶりにバンコクのカオサン通りに来てみた。
特にここで何か用事があるわけではない。だが一時滞在の外国人という流動的かつ季節や時勢によって大きく増減するお客を相手に、これまた多くはこの場所において一時滞在的なタイ人その他の商売人たちが、様々な工夫を凝らした仕事をしているのを見物するのが楽しい。
もちろん昔からずっと同じ場所にて家族で商っている人たちもあるのだが、そうした人たちは少数派である。そもそもカオサン通りは1980年代以前までは米穀類の問屋街であり、目と鼻の先には王宮その他バンコクの観光名所が目白押しというロケーションに目を付けた現地女性が、外国人向けの民宿を始めたのがそもそもの始まりであったという。その後は次から次へと安宿、飲食店、旅行代理店その他の旅行者向けの商売をする人たちがこの通りを占めるようになった。
バンコクの繁華街どこでもそうだが、カオサンもとりわけ流行り廃りは早い。いつ訪れても雰囲気は同じようでも、お店はずいぶん入れ替わっていることに気がつく。視界を遮るものが多く、雑然としているためそうとは気付かなかったりするのだが、いつの間にかビルが丸ごと建て替わっていたりもする。
カオサンに高級な感じのリゾートホテルが出来ていた。泊まるならば、このホテル余りのバンコクではけっこういいところが安く出ていたりするので、市内のまともなところに宿泊したほうがいいと思うのだが。とりあえず何でも手近に揃うというメリットがあるので、利用する人は案外少なくないのかもしれない。
昨年の同時期に見かけたアップル製品の専門店は姿を消していた。iPhone, iPad, iPhone, そしてアップルのノートパソコン等が展示されていて、店内ににはそこそこ人が入っていたものの、やはりバックパッカーのゾーンにアップル製品は高価格過ぎたのだろうか。
カオサンでは昔からタトゥー屋はあったが、それらがずいぶん増えていることに改めて気付かされる。いろいろなデザインのサンプルを手にして、旅行者たちに手当たり次第に声をかける男たちがいる。それほどタトゥーが西洋人の若者たちの間で一般化しているということだろうか。もちろん日本人の間でもそうした傾向はあるのだが。

食べ物や飲み物等の様々な屋台が出ているカオサン通りだが、夕方になると昆虫専門屋台も出ている。飼育用ではなくすべて食用で、すでに調理済みだ。タイでもイサーン(東北)地方ではもともと昆虫を食用とする例は多いが、もちろんここでは好奇心旺盛な外国人たちが顧客である。


タガメ、何かの幼虫、甲虫、イナゴなどいろいろあるが、すべて素揚げになっている。極め付きはサソリである。けっこう大きなサソリが他の虫と同じように揚げてあり、黒々テカテカと光っている。写真を撮りに寄ってくる人も多く注目度は抜群。

見た目はグロテスクだが、調理しているのはタイ人なので、試してみると案外美味なのではないかと思う。だが私自身は、昆虫を口にすることに対してとても抵抗感があるのでやめておく。
いい商売になるかどうかはさておき、西洋人のバックパッカーたちの中で、これらをトライする人は少なくない。仲間や彼女の前で豪胆なところを見せてやろうといった気負った感じの若い男性が多いようだ。あるいは酔った勢いでといったところだろうか。もちろんこれらを「旨いから食べたい」という動機を持つ者はまずいないので、当然そういう具合になる。
サソリを食べて「醤油の味しかしないなあ」などと仲間に言う者、ビールを片手にイナゴをつまむ者・・・。だが1, 2回ほど齧ってみれば、それで満足してしまい、習慣的にこれら好んで食すリピーターはほぼ皆無だと思う。カオサン通り彼らの顧客はタイでの定住者ではなく一時滞在者なので、次から次へと新たにこの場所にやってくるため、商機は無尽蔵である。
ある意味『コロンブスの卵』のようなものかもしれない。こうした屋台が外国人たち相手に売れるはずがないと思うのがごく当たり前のところだ。だが近ごろは食に対してオープンな人たちが増えているのか、あるいは単に客層が好奇心に溢れる若い世代が大半であるためかもしれない。屋台のお兄さんは『案外売れているぞ』と手応えを感じているのではなかろうか。
かといってこれが大当たりすることもなさそうなので、お客が飽きてきたらさっさと違う品物を売り始めるに違いない。カオサン通りに出入りする商売人たちは、様々なアイデアと機知でいろいろ試行錯誤している。彼らのフットワークの軽さが面白い。


日本の出版社から出ているバーングラーデーシュのガイドブックといえば、旅行人の『ウルトラガイド バングラデシュ』くらいかと思っていたが、昨年10月に地球の歩き方から『バングラデシュ』が出ていることに今さらながら気がついた。
近年、日本からアパレル産業を中心に企業の進出が盛んになってきているとともに、同国首都ダーカーに旅行代理店H.I.S.が支店をオープンさせるなど、観光の分野でも一部で注目を集めるようになってきているようだ。
すぐ隣に偉大なインドがあるため、観光地としてクロースアップされる機会が少なく、存在すら霞んでしまう観のある同国だが、なかなかどうして見どころは豊富である。
もちろんここがインドの一部であれば訪れる人は今よりも多かったことだろう。またインドとの間のアクセスは空路・陸路ともに本数は多く、両国の人々以外の第三国の人間である私たちが越えることのできる国境も複数あるため、行き来は決して不便というわけではない。
だがインドのヴィザに近年導入された『2ケ月ルール』のため、インド東部に来たところで『ふと思い立ってバーングラーデーシュに行く』ことが難しくなってしまっている。インド入国前のヴィザ申請の時点で、隣国への出入国を決めておかなくてはならなくなったからだ。
だからといって西ベンガル、アッサムその他インド東部まで来て、この実り豊かな麗しの大地を訪れないというのはもったいない話だ。
インドでも西ベンガル州で親日家、知日家と出会う機会は少なくないが、ことバーングラーデーシュにおいては、日本のバブル時代に出稼ぎに行った経験のある人々が多いこと、日本のODAその他の積極的な援助活動のためもあってか、日本という国に対して好感を抱いてくれている人たちがとても多いようだ。
それはともかく、歴史的にも地理的にも、『インド東部』の一角を成してきた『ベンガル地方』の東部地域だ。南側に開けた海岸線を除き、西・北・東の三方を東インド各州に囲まれ、本来ならばこれらのエリアとの往来の要衝であったはずでもある。
またこの国の将来的な発展のためには、圧倒的に巨大な隣国インドとの活発な交流が欠かせない。同時にインドにとっても、人口1億5千万超という巨大な市場は魅力的だし、この国の背後にあるインド北東諸州の安定的な発展のためには、ベンガル東部を占めるこの国との良好な関係が不可欠である。もちろん今でも両国間の人やモノの行き来は盛んであるのだが、それぞれの国内事情もあり、決して相思相愛の仲というわけではない。
イスラームやヒンドゥーの様々なテラコッタ建築、仏蹟、少数民族の居住地域、マングローブ等々、数々の魅力的な観光資源を有しながらも、知名度が低く訪れる人も多くない現況は、『インド世界』にありながらも『インド国内ではない』 がゆえのことだ。
日本語のガイドブックが出たからといって、訪問者が急増するとは思えないものの、やはり何かのきっかけにはなるはず。今後、必ずや様々な方面で『バーングラーデーシュのファン』が少しずつ増えてくるように思われる。