ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: society

  • フェアローン・ホテル 2

    フェアローン・ホテル 2

    壁に掲げられた家族写真や新聞の切り抜き

    壁に飾られている家族の写真などを見ても、ここに植民地時代から続く白人系のファミリーの生活の様子を想像することができて、いかにもコールカーターらしい宿であるといえよう。壁には英国王室の安っぽいポスター的なものが飾られていたり、ここの宿について書かれた古い新聞記事の切り抜きが飾られていたりするのは俗っぽいのだが、それでもここの宿がどういう具合にメディアに取り上げられているかを見ることができて楽しい。

    一応は「ヘリテージ・ホテル」ながらもゴチャゴチャと俗っぽい

    部屋のクオリティから考えると、ちょっと割高な宿ではあるのだが、建物そのものの雰囲気は良く、植民地時代の白人の屋敷の雰囲気を感じられるのはいいと思う。

    フェアローン・ホテルの一日は、すでに90歳を超えている女主人、ヴァイオレット・スミスさんの登場から始まる。やや朝寝坊の宿泊客たちが朝食を摂り始めるあたりで、宿のスタッフ(雇用されているのは、もちろんすべてインド人)に両脇を抱えられて、グラウンド・フロアーのテラスに置かれた専用チェアーに着席する。

    足腰は弱っているものの、艶やかにメイクをした彼女は、宿泊客たちに実にしっかりと、そして堂々と応対しており風格がある。中高年の西洋人の滞在者が多いこともあり、彼女はすぐさま彼らに取り囲まれて、和やかな会話が始まる。こんなところが、この宿の人気が長く続いている理由のひとつだろう。今のインドにおいては存在しない、旧植民地の「欧州人クラブ」のような雰囲気があり、しかしながら欧州系ではなくても宿泊客は何の遠慮もなくその会話に加わることができるのは、現在の社会において当然のことであり、私たち日本人ももちろんその雰囲気を楽しむことができる。

    非常に社交的ながらも下世話なトピックにも長けて、「下宿屋のおばさん」的な風情も漂わせるヴァイオレットさんがだが、家族経営ながらもこのホテルのスタッフがキビキビと宿泊客にスキのない対応をしているのは、人の出入りが多いこの時間帯に目を光らせているからであることは言うまでもない。

    まさにそれがゆえに、そう遠くない将来に彼女がこのように存在感を示すことができなくなったときに、このホテルのありかたが大きく変わるのではないかという危惧を抱かせるものがある。やはりここに宿泊するならば、女主人のヴァイオレットさんが元気なうちに、ということになるだろう。

    〈完〉

  • フェアローン・ホテル 1

    フェアローン・ホテル 1

    外観は凡庸

    コールカーターでフェアローン・ホテルを利用してみた。

    幾度か朝食を摂りに行ったことはあるものの、宿泊してみたことはなかった。フロントで訪ねてみると満室であったりしたためということもあるが、「ヘリテージ・ホテル」と呼ぶには、ちょっと乱雑で俗っぽい感じがしたということもあるし、他の大都市で景気の良い街に比較して宿泊費が総体的に安めのコールカーターでは、同じ程度かそれよりも安い料金で、もっと快適なホテルがあるためでもある。

    それでもやっぱり一度は泊まってみたいという思いもあった。建物自体は18世紀に建てられた植民地建築そのものであり、南パークストリート墓地とサー・スチュワート・ホッグ・マーケット(現ニューマーケット)の間に位置するエリアは現在でこそ下町化しているものの、英領期には白人地区であったことは、この地域に古くからある建築物の佇まいや政府関連施設等の存在からも容易に察することができるだろう。

    19世紀から20世紀はじめにかけては、周辺地域を含めて商業地化したため、ユダヤ人が多く住むエリアとなるとともに、サダル・ストリートからフリースクール・ストリートに入ったあたりに現在もアルメニア人学校があることからも判るとおり、アルメニア人たちも多く居住する地域となった。

    そんな時代の終わり近く、1936年にアルメニア人家族が取得したのがこの建物で、以来ホテルとしての営業がなされているとのことだ。

    アットホームな雰囲気の共用スペース

    ユダヤ人、アルメニア人ともに、植民地期には、往々にして当時の行政機構や支配層側との取引で財を成した例が多かったことから、独立運動盛んな時期には買弁とみなされ、独立達成後には、なおさらのこと不利な立場に置かれたことから、国外に活路を求めた例が多い。

    現在においても、施設の所有ならびに経営自体が、植民地期と同じ外来のファミリーによるものであるという点で、特筆すべき存在である。「ヘリテージ・ホテル」が非常に多いインドであるが、そうした形で知られているものの多くは、由緒ある建物を宿泊施設として運営する企業(民間ならびに政府系企業)が取得あるいはリースにより運営しているもの、地元の旧領主による所有で経営はそうした企業に委託しているものが大半であるからだ。

    〈続く〉

  • ヤンゴンのホテル代に思うこと

    ヤンゴンを訪問する際、国内線であれ国際線であれ、そこからの出発が早朝の場合、前日はいつも空港目の前にあるSeasons of Yangonというホテルを利用することにしている。

    国際線ターミナルの正面、国内線ターミナルはそのすぐ脇なので、寝坊してもまったく心配ない。歩いても目と鼻の先なのだが、頼むまでもなくクルマで送ってくれる。

    90年代前半に撤退した米資本のラマダグループのホテルであったが、その後豪州資本のホテルグループに買収されて現在に至っている。

    これについて昨年も書いたとおり、建物や施設はくたびれているものの、空港目の前というロケーションと廉価な宿泊費を考え合わせると、かなりお得感のあるホテルであった。

    「・・・であった。」と過去形なのは、25米ドル、30米ドル程度で宿泊できた数年前と違い、昨年は50米ドルにまで上がり、現在は70米ドルにまでなっているからだ。

    もちろん昨今のミャンマーブームにより、最大の商都ヤンゴンの宿代の急騰ぶりは様々なメディアでも報じられており、市内のどのホテルも2倍どころか3倍以上も吊り上がっており、これはホテルの格を問わず、安宿でも同様にずいぶん高くなってしまっている。

    そんな具合なので、以前から宿泊施設を運営しているような場所では「景気が良くなった」と実感していることだろうが、便利な立地のところはどこも地価の上昇著しく、安宿から中級程度のホテルといったリーズナブルな料金の宿を新たに建築するには、ちょっと敷居が高くなってしまっているようだ。そんな状態なのに需要はどんどん伸びているがゆえに、ますます宿泊費がうなぎのぼりに上がっていく。

    それでもやはりそこに商機があれば、積極的に参入する者が増えるのは当然のことであるため、まさに建築ブームとなっている市内では、新たに建築されるホテルの類もまた多い。

    ミャンマーブームはしばらくの間冷めることはなさそうなので、こうした供給の側が追い付いてくるようにならない限り、ホテル代の上昇は今後も続くであろうことは言うまでもない。

    ダウンタウン在住で、ちょっと目端の利く人は、このブームを見越して、旧首都のもともと価格の高かった地域の物件を手放して得た資金でまだ価格が手ごろだった郊外で、しかも良好な環境で家屋を入手したりもしていたようだ。もちろんそうした動きもまた今後も引き続き続いていくはずだ。

    ただし、そうした地価上昇とともに、そうした利ザヤ目当てで売買できる立場ならば良いが、ダウンタウンで賃貸暮らしをしている人たちにとっては、昨今の状況は「収入はそうでもないのに家賃ばかりがガンガン上がっていく」という憂慮すべきことかもしれない。

    加えて、景気が良くなれば苔むしたような建物が並ぶダウンタウン地区に再開発という話が出るのもそう遠くない将来のことではないかと思う。大規模な開発がなくても、大きな建物がまるごと次々に取り壊されて新しくなるということも続いている。

    あちこちに植民地時代の面影を色濃く残すダウンタウンのインド人地区、中国人地区といった趣のあるタウンシップも、街並みの保存という概念が広まる前に、凄まじい勢いで追憶の彼方に消え去ってしまうかもしれないし、経済的な理由でそのあたりからの人口流出と新たな流入により、地域の個性も失われてしまうのではないかと少々気になったりもするこのごろである。

  • Namaste Bollywood #38

    Namaste Bollywood #38

    Namaste Bollywood #38

    今号の巻頭の特集はChallo Dilliである。2011年に公開された作品で、昨年の東京で開催されたIFFJ(Indian Film Festival Japan)でも上映されていたが、今年2月15日からはオーディトリウム渋谷を皮切りに順次全国劇場公開される。

    ラーラー・ダッターとヴィナイ・パータクが演じるロードムーヴィー。エリートのビジネスウーマンがムンバイーからデリーへ空路でひとっ飛びしようとしたところが、ひょんなことから陸路で移動することになる。次から次へと降りかかるトラブルの中で、たまたま同じデリーに向かうことから道連れとなった下町のちょっと品がないけれども、機転に富みサバイバル本能にも長けたオジサンと繰り広げるドキドキ、ハラハラの珍道中。

    内容についてあまり云々するとネタバレになってしまうので、このあたりまでにしておくが、商業映画としてはかなり低予算で製作されているようだが、ストーリーと演技、つまり中身で勝負して『結果を出した』秀作で、インド映画好きという括りではなく、世の中すべての映画ファンに鑑賞をお勧めしたい。

    これに先立ち、サイーフ・アリー・カーン主演のエージェント・ヴィノードもシネマート六本木で公開されているが、こちらは2週間限定とのことなので、上映の残り期間はすでに秒読みに入っているので、観たいと思ったらまさに今、足を運ぶべきだろう。

    その他もいろいろ大変興味深い記事が掲載されている。カタックの巨匠ビルジュー・マハーラージ師の来日、マードゥリーのボリウッド復帰作、日本版新発売のDVDその他いろいろ今回も貴重な情報が満載だ。なお、3月には「ボリウッド映画講座」の開講が予定されているとのことで、Namaste Bollywoodのホームページは常時要チェックだ。

    さて、今年は日本在住のボリウッドファンにとって、これからどのような作品を観る機会が待ち受けているのか楽しみである。

  • ディブルーガル5

    ディブルーガル5

    ディブルーガル大学のキャンパスの一角

    田舎町ではあるものの、ディブルーガル大学という大きな総合大学がある。緑豊かで広大なキャンパスの中に様々な学部や研究施設などが点在しており、羨ましい環境である。

    案山子はどこの国も同じような感じ

    キャンパスの端まで歩くと、小さな出入口があり、外には農地が広がっていた。いくつかの集落を通って、宿へと続く道に出たところに地元の茶園直営の販売店があったので、茶葉を購入。ヒマそうにしていた女性の店長さんは陽気な人で、温かい紅茶をいただきながらしばらく楽しいおしゃべりの時間を過ごさせていただいた。90年代からの「旅行ブーム」は、このあたりの人々の間にもしっかりと定着しているようで、この人も家族でアッサム州内や近隣州に足を延ばしたりするそうだ。

    茶葉のアウトレットの店長さん

    「でも最近訪れてみた中で一番楽しかったのはアルナーチャル・プラデーシュ州よ。寒くなり始める時期だったから。雪なんて初めて見たし、ずいぶん高い峠を通ってチベット仏教寺院があるタワンにも行ったわよ。アッサム州と違って、公共交通があまりないみたいなの。それで家族でクルマをチャーターして回ったわよ。」

    ディブルーガル地域には小さなものも含めて280もの茶園があるという。ダージリンの茶木とここのものとは少し種類が異なるらしい。ダージリンには中国の苗木を移植したわけだが、アッサムには元々土着の茶樹があったことに起因するようだ。その茶の原木の存在があったがゆえに、アッサム地方での茶業が開始されることに繋がったわけである。

    中国由来の茶樹と違い、アッサム種は放っておくと、とても背の高い木になってしまうという。現在は中国種との交配が進み、純粋なアッサム種は稀で、茶園で栽培されているのはもちろん両者をかけ合わせたものだそうだ。茶樹の寿命は100年以上に及ぶが、商業的に利用できるのは60年前後であるとのことだ。

    この道路をしばらく進んだところに紅茶局が事務所を構えている。たまたま縁あって、ここに勤務している人の話を聞く機会を得たのだが、紅茶小規模農園には補助金を出して、茶業の振興を図っているとのこと。茶園オーナーはアッサムの資本家、他地域のインド人資本家あるいは外資だが、どこも事務系の職員たちはほとんどがアッサムの人たちであるそうだ。畑で作業している人たちのマジョリティはアッサム人ではなく、この地で19世紀に茶業が始まったときに、オリッサから労働者として移住してきた人たちの子孫だという。いろいろ棲み分けがあるようだし、植民地時代からのそうした特色が今も残っているのは興味深い。

    物産展が開催されていた。入場料10ルピー支払って入場して、簡単な昼食を取る。アッサム各地の製品を扱う業者たちが出展しているが、この地域の織物や衣類は地味なのであまり見栄えはしないように思う。漬物の店を覗いてみると、やはり見かけたのはタケノコのアチャール。北東インドではよく食材となっているが、私にとっても好みである。

    タケノコのアチャール

    商店街はそれなりに賑わっているだけでなく、クルマのディーラーや家電製品の大きな店なども多く、消費活動がかなり盛んであることが感じられる。

    商店街の少し先には、アッサムの比較的伝統的な手法と様式建築を組み合わせたような、かなり傷んではいるものの、植民地時代に多かったのではないかと思われる家屋群が左手にあった。付近の人によると、ここには誰ももう住んでいないとのことだが、「もともとは警察の官舎であったが、頻繁に幽霊が出て、憑依されて殺される者が二人出たので、全員ここを引き払うことになった。」とのこと。本当かどうかよく判らないが、幽霊が頻出するというのはちょっと怖い。

    神像の作業場は休みであったが、中を見学させてもらうと、なかなか楽しかった。木で組んだ骨組みに藁をヒモで巻きつけて肉付けしていく。それを上から粘土を塗りつけて、最後に色付けして仕上がる。置いてある神像は工程がそれぞれバラバラであったので、おおまかな手順が判る。

    ブラフマプトラ河沿いには、裁判所、刑務所、警察署等々の行政機関が建ち並んでいる。重要機関が水際に集まっているのは、水上交通の拠点として発達した街に共通する事象だ。

    岸辺には陶工たちの作業場兼住まいが並んでいる。一日の早い時間帯に仕事を済ませてしまうようで、形成した後に日干しにして火入れに備えてあるものは沢山みかけるものの、何か作業している人たちは見かけなかった。

    ディブルーガルは、隣接するアルナーチャル・プラデーシュ州への玄関口のひとつでもあり、ここからシェア・スモウなどの乗合が発着している。今回はそちらまで足を延ばすことはないが、またいつか機会を得てアルナーチャル・プラデーシュ州も訪問してみたいと思う。

    アルナーチャル・プラデーシュ州行きの乗合の広告看板

    〈完〉

  • ディブルーガル4

    ディブルーガル4

    普段、宿泊する場所へのこだわりはなく頓着しない私だが、植民地時代の英国人のバンガローを独占できるという環境(たまたま他の宿泊客がいなかったからであるが)は、とても快適かつ気持ちの良いものである。

    窓のカーテン越しに漏れてくる陽光で、朝が来たことを知る。起き出してしばらくの間、ノートパソコンを開いて、メールのチェックをしたり日記を書いたりする。しばらくするとドアがノックされて「朝食の準備が出来ました」と声がかかる。

    食事をしながら、今日は何をして過ごそうかと考える。宿のマネージャーをしている若い女性もキッチンその他の仕事をしているネパール人スタッフたちも礼儀正しく、かつフレンドリーだ。

    宿を出たところで、オートリクシャーをつかまえる。最近はオートの運転手もスマホを持っていて、facebookなどを楽しんでいるのにはびっくりする。やはり安いプランが選択できて、毎月の定額基本料がなく、ただしプリペイドのクレジットには使用期限があるとはいえ、そのくらいは普通に使ってしまうだろう。

    回線契約時にハンドセットの抱き合わせ販売ではないのもいい。もちろんそういうプランもあるようだが、SIMと携帯電話機は個別に購入するのが一般的だ。携帯電話機は、中国製等で非常に安価なものが出回っているし、様々な機種がよりどりみどりの中古市場もあるのがいい。スマホ環境では、日本よりもインドのほうが、ユーザーフレンドリー度と自由度が高いというパラドックスである。

    宿を出たすぐのところから茶園が広がる

    〈続く〉

     

  • ディブルーガル3

    ディブルーガル3

    この町での滞在先、Chowkidinghee Chang Bangalowは、植民地時代にイギリス人ティー・プランターの屋敷であったものが宿泊施設に転用されている。その名の示すとおり、ディブルーガルのチョーキディンギー地区にある。宿の周辺は茶園が広がっており、静かで雰囲気もいいのだが、歩いてすぐのところにマーケットもあり、とても便利なロケーションでもある。

    塀の外は茶畑
    英領期にタイムスリップしたかのよう

    建物はきれいに手入れされているが、古い時代の雰囲気を損なうようなものではなく、往時のたたずまいをよく残しているのではないだろうか。英国時代からのコロニアル邸宅、イギリス人が暮らしていた住宅といったものは、ダージリンやシムラーなどのヒルステーションでも見られるが、このような建物にイギリス人がノルタルジアを感じたり、格別な興味を持ったりするものなのかどうかは知らない。

    だがイギリスがインドを去ってから時代が下るとともに、こうした建物は確実にその数を減らしていったり、朽ち果てていったりしていることが多いことから、いいコンディションでオリジナルの状態に可能な限り忠実に保存していることには、歴史的・文化的な価値も高まっていると言えるだろう。

    宿で食事を注文することもできる。メニューは用意されておらず、日替わりの「おまかせ料理」となるが素晴らしいものであった。トマトのスープから始まり、ひょっとしてイギリス式の食事が出てくるのかと思ったら、出てきたのはインド料理であったが、ズィーラーのご飯、ピーマンのスタッフ、チキンカレー、野菜、ダールで、どれも良く出来ていた。デザートは温かい果物のプディング、そしてチャーイ。

    2階にある広々とした応接間は居心地がいい。他の宿泊客もなく占領してしまうことができるのはなんと贅沢なことであろうか。階下で宿帳をめくってみると、私の前に宿泊した人はイングランド人で、しかも20日ほど前の利用客であった。

    応接間のテレビを点けてみると、ちょうどZサラームというウルドゥー番組で素晴らしいカッワーリーをやっていた。ムシャーイラーもやっており、文化的でよろしい。こういうイスラミックな番組では、ムスリム向けのCМもやっているのでこれまた興味深かったりする。アッラーの名が刻まれた金のロケットで、アメリカのストーンがはめられているとかいうものが2499ルピーという。今から30分以内に注文すると、ひとつ注文してもうひとつついてくるのだとか。なんだか日本のテレビショッピングと並みのレベルの怪しさである。

    このバンガロー、イギリス人のティー・プランターが住んでいたころには、とりわけ茶園業の開拓時代には、海千山千の強者たちが集い、徒党を組んだり敵対したりしながら、様々な人生を切り開いていったことだろう。志半ばにして事業に失敗したり、病没してしまったりした人も少なくないだろう。そんな舞台が今でも残っていること、そこに宿泊できるということは、英領期について、あるいは紅茶の歴史について多少なりとも関心のある人には嬉しいことだろう。まさにインドならではのヘリテージな宿である。

    鉄道の汽笛が聞こえてくる。遠く海を渡ってきて、茶にまつわる生業を営んでいた人たちもこの汽笛を耳にして「そろそろ夕食の時間だな」とか「さて、寝るとするか」などと思いながら暮らしていたのだろうか。

    〈続く〉

  • ディブルーガル2

    ディブルーガル2

    どこもかしこも茶園でいっぱい

    ディブルーガルの市街地に入ったあたりで、「さて、どのあたりだろうか?」とスマートフォンで地図を見てみる。近年はこうした機器やネットワークの普及により、以前は考えられなかったことが容易に可能となった。Googleの地図に出ている情報はかなり散漫であったりもするが、町歩きに「地図」(ガイドブックに掲載されているものであれ、購入したものであれ)は不要となったと言える。3Gネットワークが届いていない小さな町ではそもそも地図がなくてもいいわけであるし。

    インドでは、しばしば「この土地ならではの宿」というものがあるが、アッサム茶の生産と集積の一大拠点で、茶業の歴史も長いディブルーガルでの特色ある宿といえば、英領時代のイギリス人茶園業者のバンガローである。こういうバンガローが市街地に一軒、郊外に一軒あり、私は市街地にある施設に宿泊することにした。

    これらの宿は、プールヴィー・ディスカバリーという旅行代理店が運営しており、宿に直接出向くのではなく、市内のジャラール寺院近くにあるオフィスが予約等の業務を取り扱うことになっている。

    ディブルーガルで面白いのは、市街地の中に茶園があったり、商業地のすぐ脇にも茶園が広がっていたりすることだ。もともとの市街地はもっと小さくて、茶園の部分にも市街地が広がった結果、このようになったのかもしれない。

    お茶で有名なアッサムであるが、12月から2月までは茶園と茶工場ともに休業中である。休みの時期であるとのこと。冬季に茶園の仕事を見学したければ、南インドに行くことになるだろう。

    ツヤツヤとした茶葉

    〈続く〉

  • マジューリー島4

    マジューリー島4

    ガラムールのマーケット近くのサッカーグラウンドで、インド軍のアッサム連隊のサッカー部とマジューリー島のチームの対戦があるとのことを宿の人から聞いた。新聞にも出ていたそうだ。地元で例年開催されるサッカーのトーナメントの決勝戦であるとのことだ。

    グラウンドに出向いてみると、すでにゲームは開始されていて、前半戦の中盤であった。入場料は10ルピー。沢山の人々が詰めかけていた。会場入口周辺は、駐輪されているバイクと自転車で一杯だ。会場警備はボランティアではなく、兵士たちが詰めていた。しかも持っているのは機関銃。いくらなんでも警備としては過剰過ぎる装備ではある。

    インド東北部ではサッカーが盛んである。このようにして楽しんでいる姿を見るのは嬉しい。会場には貴賓席まであったから、地元政府のおエライさんとか、もしかすると地元政治家くらいは来ているかもしれない。優勝チームには立派なトロフィーが準備されている。

    試合内容は正直なところまったく面白くなかった。正直なところ、このレベルであれば私が出場しても大活躍できる程度である。しかしここに詰めかけている人々を見物するのは楽しいし、サッカーが好きで人々が集まっているというのも嬉しい。

    夕方になり宿に戻る。貧しいながらも落ち着いた感じで、争いごともあまりなさそうな島である。宿の人が「外国とか、インド国内でもテロがあったり、騒動があったりしているけど、どうしてそんなことになるのか、この田舎に暮らしていると想像もできない。いや、この州内でもいろいろあるんだけれども、ここにいる分にはまったく関係ないね。」と言う。金銭的には豊かでなくても、ここに暮らしている満足度は案外低くはないのかもしれない。安心感のありそうな島である。

    〈完〉

     

  • 新年快楽!心想事成!!

    2014年の春節は1月31日である。その前日30日は大晦日ということになるので、中国、台湾、加えてその他の中国系のたちが多く暮らしている地域はそれから一週間ほど正月の華やいだ雰囲気の中で休日を過ごすことになる。

    アセアン諸国には多くの華人たちが暮らしており、地域によって潮州人が多かったり、広東人が多かったりという特色があるが、それぞれのコミュニティにおける伝統にローカル色を織り交ぜて、様々な祝祭が展開される。

    中国系の人々にとって、たとえ大陸の人であれ、在外華人であれ、そうした自分の住んでいる国の外で同じ中国系の人々、とりわけ同じ客家系であったり、福建系であったりといった同一のコミュニティに属する人々の暮らしぶりやしきたりなどを目にするのは、なかなか興味深いことなのではないかと思う。

    自国の家庭内で使っている言葉が、まったく異なる国に定住した先祖の同郷の人々に通じるということはもとより、それぞれの土地に根付いて代々暮らしているだけに、生活様式もローカライズされ、普段使っている語彙も地元の言葉等の影響を強く受けていることに気付いたりもすることだろう。

    中国から国外への移民の初期は、ほとんどが男性ばかりであったため、同じ潮州人、広東人といっても、本土の人々とはかなり異なる風貌になっていることも少なくない。それでも民族としての中国人、あるいはもっと細かなコミュニティの出自であるというアイデンティティを持つことができるのは、同族としての絆の深さと自身が背負う文化や伝統への愛着とプライドゆえのことだろう。

    私自身は中国系の血を引かない、ごく普通の日本人であるため、そのような感情を抱くことはないのは少し残念な気がしないでもない。

    さて、アセアン諸国から見て西の方角にあるインド。かつてほどの人口規模はないとはいえ、今も決して少なくない数の華人たちが暮らすコールカーター。多くは広東系あるいは客家系であるが、先祖の出身は広東省の梅県が多い。通信手段の限られた時代であったため、中国から国外への移民の場合だけでなく、インドから東南アジア方面その他への移民たちの場合でも、同郷から非常に多くの人々が渡ったというケースは多い。人づてのネットワークがそうさせたともいえるだろう。

    コールカーターの華人社会について、地元で生まれ育った華人自身(現在はカナダに移住)によって書かれた本があり、インド人の大海の中の片隅で暮らす華人たちの暮らしぶりを活写している。描かれているのは、華人社会の中での濃密な人間関係であり、周囲のインド人たちとの関わりであり、1962年に勃発した中印紛争のあおりで苦渋を舐めることになった中華系の人々の悲哀でもある。

    書名 : The Last Dragon Dance

    著者 : Kwai – Yun Li

    発行 : Penguin Books India

    ほぼ同じコンテンツで「Palm Leaf Fan」という書名でも出版されており、こちらはamazon.co.jpでKindle版を購入することができるため、インド国外から購入の場合は手軽だろう。

    書名 : Palm Leaf Fan

    フォーマット : Kindle版

    A SIN : B009LAH84G

    同じ著者による論文「Deoli Camp: An Oral History of Chinese Indians from 1962 to 1966」は、ウェブ上からPDF文書でダウンロードできるが、こちらも必読である。ラージャスターン州のデーオーリー・キャンプといえば、第二次世界大戦時にアジアの英領地域に居住していた日本人たちが収容された場所として知られている。中印紛争により「敵性国民」とされることになった華人たち(インド国籍を取得していたものも含む)もまた、居住して商売を営んでいた土地から警察に連行されて、デーオーリー・キャンプに収容された時代があった。

    この論文は、キャンプでの日々や解放されて居住地に戻ってからも続く差別や困難などについて、体験者たちにインタビューしてまとめたものである。これを読むと、ベンガル州北部のダージリン、メガーラヤ州のシローン、アッサム州の一部にも少なからず華人たちの居住地があったこともわかり、少なくとも中印関係が緊張する以前までは在印華人たちの社会にはかなりの奥行きがあったことがうかがえる。

    さて、話は華人たちの旧正月に戻る。今年のコールカーターでの華人の春節のことを取り上げた記事をみかけた。

    Chinatown in Kolkata, only one in India, to celebrate Chinese New Year amid plans for a facelift (dnaindia.com)

    ライターであり写真家でもあるランガン・ダッター氏も自身のウェブサイトで華人たちの新年を取り上げている。

    Chinese New Year, Calcutta (www.rangan-datta.info)

    短い動画だが、昨年のコールカーターでの華人たちの旧正月の模様を映したものもある。

    Chinese New Year in Kolkata India (Youtube)

    Youtubeの動画といえば、ムンバイー在住のドキュメンタリー映像作家のRafeeq Ellias氏がコールカーターの華人たちについて取り上げた作品「The Legend of Fat Mama」を観ることができる。

    こちらは旧正月の祝祭の映像ではないが、同地の華人社会をテーマにした秀作なので、ぜひ閲覧をお勧めしたい。

    ※「マジューリー島4」は後日掲載します。

  • マジューリー島3

    マジューリー島3

    本日は、朝早い時間帯から自転車を借りて島内を走る。起伏が少なく、クルマも少ないので快適に走行することができる。かなり霧が濃く、時間が進むと次第に晴れてくる。ときおり乗合のスモウやトラックなどが通りかかるが、それ以外はバイクか自転車だ。

    前にも書いたが、世界最大級の中洲であるマジューリー島。それがゆえに当然傾斜のないフラットな大地が続いているわけだが、外から運ばれてきた建築等の資材を除いて「石」というものが存在せず、どこもかしこもきめの細かいパウダー状の土壌である。地味は豊かで工作に適しているそうだが、河の水面からあまり高低差がないため、雨季の洪水と闘わなければならないという宿命がある。

    道路は高く盛土した上を走っている。インドでもバングラデシュでもよくある光景だが建設にかかる手間ヒマや費用は大変だろう。道路の脇には大木が並び、日陰を作ってくれているのが普通だが、ここではびっくりするほど背の高い竹が緑のトンネルを形づくっている。

    島にはクルマが少ないので快適に走ることができる。ときどき乗合のスモウやトラックなどが走っているが、それ以外はバイクか自転車だ。霧の中、まあ道路走るのに支障があるほどの霧ではないのだが、地平線まで見渡すことはできない程度に霞んでいる。そう、地平線が見えるほど島なのである、ここは。

    インドの朝の風景はすがすがしい。畑や池で作業している人たちの姿がある。豚が草を食んでいたり、歩き回っていたりする。民家を眺めていると、高床式家屋の床下部分で家畜を飼っているケースが少なくないようだ。ブタについては、アッサムではけっこう食用にしているようで、ブタの解体作業をしばしば目にする。

    最初に足を向けた先はサムガリー・サトラーである。この島にはサトラーと呼ばれる静謐な僧院が多く、その数22か所と言われる。それぞれ独自のカラーがあるようで、ここは仮面作りで知られている。サトラーで奉納する踊りに仕様するものであるが、ここの主は2003年に政府から表彰を受けており、室内には賞の授与式の際にデリーで当時の大統領のアブドゥル・カラム氏と一緒の写真が飾られている。

    マジューリー島では米が三期作できるのだそうだ。農家の人の話だと、時期によって栽培する種類を変えているのだそうだが、同じ水田で異なる品種の稲を栽培して、交雑してしまったりすることはないのだろうか?インドの米は品種が異なると、形もサイズも炊き上がりも違うので、いろんな種類の米を味わえるのはいい。

    島の村々では、昨夜私が宿泊したようなタイプの建物に人々が暮らしている。この時期は寒くてやりきれないことだろう。建物が外にいるのと同じような室温のはずだし、保温性の良い服や寝具があるとは思えない。極めて暑季に特化した造りである。この時期は農閑期のためか、溜池で水草取りをしている人たちは胸まで水に浸って作業している。そのかたわらで竹を編んだ道具で魚も捕まえているようだ。これまた寒くて大変そうだ。

    島の中心地であるカマルバリやウッタル・カマルバリのあたりには、ちょっといい感じの家はあるが、それでもやはり総体的にずいぶん貧しい島である。人々は穏やかで感じのいい人たちが多いのだが。

    ウッタル・カマラバリー・サトラーで、サトラー自体は閉まっていたが、隣の広場で奉納の踊りの練習中であったので見学する。若い男性や男の子たちが楽器を鳴らし、若い女性たちが踊っている。指導者がしじゅうストップかけて指導しており、これがなかなか手厳しい。

    途中、指導者が女性たちの幾人かを指名して、踊りの歌をマイク持って歌わせると、態度は堂々としていてプロ並みに上手いので驚く。もちろん、中には指名されてもはにかんで断る女性もいる。

    サトラーの多くは簡素で、あまりきれいとは言えない環境にあるものが多いようであったが、オーニアティ・サトラーは他のサトラーとはかなり違う感じであった。見るからに財政的な余裕があるようで、とても清潔に整えてあり規模も最大らしい。出家生活を送る人たちが起居する建物の造りも立派なものであった。ここでは一切の世俗の事柄を放棄して隠遁生活をするのだそうだ。

    サトラーにはふたつのタイプがあり、ひとつはこういうタイプだが、もうひとつは妻帯して家族を持つことが許されているサトラーである。最初に訪れた仮面を作っているサムガリー・サトラーが後者のカテゴリーにあたる。

    〈続く〉

     

  • マジューリー島2

    マジューリー島2

    ガラムールの町のはずれにある宿は、簡素な竹造りの高床式の建物である。このあたりではこうした構造の家屋をよく見かけるが、そんなローカル色があるのは楽しい。部屋の中にしつらえてあるベッドも竹で出来ていた。周囲に池や水溜りは多く、宿の下の土地も雨季には水が張ってしまうような地形になっているため、1年の大半は蚊の大群がブンブン飛び回っているであろうことは想像に難くない。寒い時期に訪れたのは幸いであった。

    蚊はともかく、おそらく暑い時期には風通しが良くて涼しく過ごすことができるのだろう。夜、床に就いてから判ったのだが、あまりに風が通り過ぎて寒くてたまらなかった。寝袋を持っていてもこんななので、ちゃんとした防寒着や暖かい寝具を持たない庶民の家では、冬の時期を過ごすのはなかなか辛いことであるはずだ。

    午後5時近くなるとすっかり真っ暗だ。周りには電気が灯っているところはほとんどなく、電気そのものがほとんど来ないので、外に出ると降るような星空が堪能できるのが嬉しい。私の部屋がある高床式の建物からみて未舗装の小路を挟んで向かい側の母屋で食事を注文。

    母屋のキッチンで食事を作ってくれる。

    たまたま同じ宿に泊まっている西洋人夫婦はドイツの人たち。彼らは大学生時代にバブル前夜の日本を訪問したことがあるとのこと。ヒッチハイクをしたら、そのドライバーが彼らの次の行き先に向かうクルマをわざわざ探してくれたとか、沿道でヒッチハイクを試みていたら警官がやってきて、注意されるのかと思ったら、警官自身が通りがかりのクルマをいくつか止めてくれて、彼らの行き先を通過する人を見つけてくれたりして、大変感激したとのことだ。

    この宿を経営する人たちは、12世紀にチベットから移住してきたと考えられているミリという部族の人たちであるとのこと。別名、Missing Tribeとも呼ばれているとのこと。移住していった先で土地を失い続けているためそう呼ばれているそうだ。彼らの片割れはアルナーチャルにも暮らしていて、仏教徒であったり、クリスチャンであったりするそうだ。北東インドには様々な民族が暮らしているが、彼らの存在もその豊かな多様性の一部ということになる。

    バスルーム

    しばらく楽しい会話をしてから、離れにある自分の部屋に戻る。バスルームは扉がなく、井戸水。鉄の匂いがして冷たい。この水温では浴びる気にはならない。竹で出来た家屋に泊まるというのは風流でいいのだが、外の風がそのまま入ってくるのには閉口する。屋根が付いていて、この時期には珍しい雨が降っても濡れないことを除けば、屋外に寝ているのと何ら違いはない。ベッドも竹を編んで作ってあるため、通気性は抜群だが保温性はゼロであり、寝袋に入ってはいるものの、あたかも真冬に野宿しているようで寒くてツラい夜となった。

    風通しが良いということは、冬季は非常に寒いということ。

    〈続く〉