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カテゴリー: society

  • エボラの脅威は対岸の火事ではない

    西アフリカでエボラ出血熱がこれまでにない規模で流行している。

    致死率が90%以上と非常に高いこと、発病後の症状が劇的に激しく、治療方法が確立していないことなどから、大変危険な病気であるということは誰もが認識していたものの、これまでは農村部の限られた人口の間で散発的に小規模な感染が伝えられるという具合であったため、この地域における風土病というような認識がなされていたのではないだろうか。

    だが今回、ギニアで発生したエボラ出血熱が隣国のシエラレオネとリベリアにも及び、ギニアでは首都のコナクリにまで広がるという事態を迎えており、空前の規模での流行となっている。以下のリンク先記事によれば、感染者は635名に及んでいるという。

    史上最悪、西アフリカでエボラ感染拡大(毎日新聞)

    今回、これほどまでに感染が拡大したこと、農村の限られた地域での流行と異なる部分などについてはいろいろ指摘されているが、首都での流行については、これが旅客機等により、地続きではない国々にまで飛び火する可能性を秘めていることをも示している。

    コナクリからフランス、ベルギーといった欧州の国々、ダカールやモロッコ等の周辺国へのフライトがあり、それらの到着地から接続便で北米やアジア方面にも接続することができる。

    そんなわけで、地球のどこの国に暮らしていても、とりわけ今回の流行については、対岸の火事と傍観しているわけにはいかないという危惧を抱かせるものがある。

    あまり想像したくないことだが、これが人口稠密で、インドをはじめとする南アジア地域に飛び火するようなことがあったら、あるいは同様に人口密度の高い日本で発生するようなことがあったら、一体どのような大惨事になることだろうか。だがこれは絵空事ではなく、前述のとおり、ごく短時間で世界のどこにでも移動できる現代では、充分にあり得る話である。

    流行地からは、このようなニュースもある。エボラ出血熱を発症したものの、完治して生還した事例だ。

    エボラ完治「奇跡」の妊婦、喜び語る シエラレオネ(時事ドットコム)

    流行の抑え込みとともに、ぜひとも期待したいのは病理学的な解明と治療法の確立である。今はただ、今回の大流行が一刻も早く収束を迎えることを祈るとともに、医療現場で命を賭して患者たちへの対応に当たっている医師たちに敬意と大きな感謝を捧げたい。

  • ひと続きの土地、ふたつの国

    今年もまたラダック地方に中国軍による侵入の試みがあった。

    Chinese troops try to enter Indian waters in Ladakh (The Indian Express)

    ほぼ時を同じくして、中国でラダックの一部とアルナーチャル・プラデーシュ州全域を自国領として描いた地図を出版している。

    Leh residents object to China’s claim over Ladakh in new map (india.com)

    繰り返しこのような行為を繰り返すことにより、これらの地域がインドに帰属するものではなく、中国の一部であると内外に主張することにより、これらの地域が係争地であることを風化させることなく、機が熟して何らかの大きな行動を起こした場合にそれを正当化させるための企みであることは明白だ。

    このような動きがある限り、J&K州に広く展開する軍備を削減することはできず、財政的に大きな負担を抱える現状は変わることはない。観光以外にこれといった産業のないこの地域において、駐屯する軍に依存する構造も変わることはないだろう。

    また、この地域が事実上、地の果ての辺境であるということも変化することはない。もし中国とインドとの間で領土問題が存在せず、国境の両側が経済的に相互依存する関係にあったらならば、地元の人々に対して大いに利することになるはずなのだが。

    両国の間に設けられた国境という壁は、ふたつの世界を分断し、相互不信の関係をさらに醸成させていくことになる。北京とデリーという、どちらもこの国境地帯から遠く離れた政治の中心の意思が、地元に住む人々の間でひと続きの土地に引かれた国境の向こうにいる人々に対する敵意を焚き付けて反目させる。

    不条理ではあるが、これが現実。さりとてこれが現実とはいえ、はなはだしく不条理なことである。

  • インドの老夫婦のワールドカップ観戦

    7月13日に三位決定戦、そして続く14日に決勝戦を迎えるブラジルで開催されているワールドカップ。

    下記リンク先の記事に取り上げられているインドのサッカー好きな老夫婦は、これまで幾度となく開催国に足を運んで観戦しており、今度で9大会目だという。

    サッカーW杯観戦に情熱、インド人夫妻9大会目のブラジル(dot.asahi.com)

    記事によると、夫妻は決して裕福とはいえないようだが、それでも四年毎に巡ってくるこの大会のためにコツコツと貯蓄に励んでいるとのこと。

    一般的な人から見ると、失礼ながら経済的な「バランス感覚がない」ということになってしまうのかもしれないが、好きなことにこれほど入れ込むことができるということ、そして夫婦揃って同じ目的のために頑張っていけるということは羨ましくもあり、また素敵なことだと私は思う。

    夫妻はワールドカップでどの試合を観戦したのだろうか。記事には「FIFAが宿泊場所を無料で提供、ブラジルのテレビ局は観戦チケットを用意した」とあるが、ひょっとして7月14日の決勝戦をスタンドから観る幸運に恵まれていたりしたら、これまた嬉しい話である。

  • ネパールからやってくる人たちが増えた

    近ごろ、首都圏でネパール人の姿を見かけることがとても多くなった、とりわけ若い人たちがよく目に付く・・・と感じている人は少なくないことだろう。

    それもそのはず、ここ数年来、日本留学の入口となる日本語学校に入るために来日するネパール人が急増しているのである。

    こちらの資料(一般財団法人日本語教育振興協会による「日本語教育機関実態調査」P5)をご参照願いたい。

    ここに示されているのは、平成21年度から25年度までの日本語教育機関の学生数とその国別内訳だが、従前から日本への留学生出身国のベスト3といえば、中国、韓国、台湾の「御三家」であったのだが、すでに平成21年度において、それ以前は留学生の中ではマイノリティであったベトナム、ネパールが急伸しており、トップの三国に迫るところに来ている。

    平成23年度に入ると、すでにベトナムは台湾からの留学生数を抜いて3位に食い込み、4位の台湾とほぼ同じレベルにまで達しているのがネパールだ。ベトナムとネパールは平成25年度には韓国を抜いて、それぞれ2位、3位となり、首位の中国からの留学生の規模には遠く及ばないものの、現在では御三家といえば、中国、ベトナム、ネパールとなっている。

    留学生たちの実数で見ると、平成21年度にはベトナム847名、ネパール839名であったものが、4年後の平成25年度には前者が8,436名、後者が3,095名となっている。伸び率はそれぞれ9.96倍、3.69倍である。

    その間に、元御三家の韓国は8,360名から2,386名、台湾は2,304名から1,425名へと、それぞれ元の数の0.29倍、0.62倍へと激減しているという背景もある。不動の首位の中国にしてみても、26,632名から18,250名へと、0.68倍という急激な減少がある。

    留学生総数にしてみても、平成21年度の42,651名から平成24年度の29.235名という0.69倍という激しい落ち込みから平成25名は37,918名へと持ち直しているものの、それでも平成21年度と比較すると0.89倍という芳しくない数字である。

    こういう具合になったことにはいくつかの要素があるので簡単に解説しておきたい。平成18年から19年にかけて、中国からの留学希望者に対する入国管理局や在外公館での審査が厳重となったため、多数の留学予定者対する在留資格認定証が不交付となったり、在外公館で査証が発行されなかったりという事態が多数発生し、日本語学校によっては中国からの入学予定者の半数前後が来日できず、留学をキャンセルというケースが生じた。

    もともと零細な規模のものが多い日本語学校の世界では、送り出し数の多い国にパイプを持ち、そこから安定的に学生を供給してもらおうという傾向が強かったのだが、そうした中で、とりわけ中国への依存度が高かった学校の多くは、これを死活問題と捉え、他なる留学希望者送り出し国の開拓に乗り出さなくてはならなくなり、そうした学校にとってそれまでは視野に入っていなかった地域に精力的に働きかけることとなった。

    その努力の結果、とりわけ新規来日学生の大規模な招致に繋がったのがベトナムとネパールであった。どちらも移民圧力の高い国であり、その当時までは日本における不法残留率も高くはなかったため、比較的順調に導入することができたといえるのだろう。

    その後、来日数が安定的に増えてくるにつれて、すでに来日している者と自国との繋がり、日本語学校による更なる努力による留学需要の掘り起し、送り出し国側のそうした斡旋機関もそうした渡日熱の高まりにアテ込んで、これに加担したということもある。やはりそこは商売である。

    異常が、ベトナムとネパールから来日して日本語学校に入る者が急増している背景についての簡単な説明であるが、いっぽうで今も御三家ながらも人数が大幅に減っている中国、元御三家から転落した韓国と台湾の落ち込み具合にはどのような理由があるのかについてもざっと述べておくことにしよう。

    まず中国、韓国、台湾いずれについても共通して言えることは、自国経済の順調な成長ぶりと日本の長引く不況から、相対的に日本に対する魅力が薄れてきていることがある。これまで高く見上げていた対象が、相対的にその背丈が自分たちの居る場所から見て、さほど上のほうにあるように感じられなくなってくる。

    日本語学校に入るということは、その中のマジョリティは大学や大学院への進学、そして日本での就職、将来的には日本のそのまま定住するという、移民のステップとして捉えている部分は決して少なくない。日本での留学の目的といえば、日本という国そのもの、日本の文化を学ぶというよりも、経済、金融、理工学、その他ハイテク分野といった、いわゆる「実学」を志向する割合が非常に高く、学業を終えた後での定着先としての日本についての期待があまり持てなくなってきているであろうことは、誰も否定できない。

    とりわけ韓国については、グローバル市場における自国の一流企業の隆盛と、それに対する日本企業の地盤沈下を目の当たりにして、日本に対する興味・関心が急速に萎んでいくのは仕方のないことであったのだろう。

    もちろん中国や台湾と日本の間にある尖閣諸島問題、韓国と日本の間の竹島問題その他の領土に関する論争、はてまた今なおくすぶり続けている歴史問題等々の政治的な事柄による日本に対する政治的なイメージの低下という面も無視できないものがあるにしても、やはり大半は私費で来日する留学生たちにとって、そうした思想的な要因よりも、実利的な要因が大きく作用するのは当然のことだ。

    平成20年代に入るあたりから、上で述べた事柄を背景とする留学生数の頭打ち傾向があったのだが、これをさらに決定付けたのは平成23年の春に起きた東日本大震災、いわゆる3.11という大きな出来事であった。

    「落ち目だった日本もこれで終わりだ」とまで言うわけではないが、地震、津波よりもむしろ原発事故による影響が大きかった。日本では大変センセーショナルながらも、極力抑えた調子で報道されていたのに対して、海外とりわけ近隣国での報道に抑制を期待できるわけもなく、日本に対する期待値は非常に低くなってしまった。

    そうでなくても、これらの国々から人気の留学先としては、アメリカその他の欧米先進国がまず一番手にあり、二番手以降に日本という選択肢があったわけだが、その地位が大きく後退してしまっているのが現状である。

    ベトナム、ネパールからの留学生の急増については、もともと需要の高くなかった地域であるだけに、勉学意欲の面でも経費支弁能力の面についても疑問符の付くケースが少なくなく、実際に来日してから雲隠れという事例も多いため、入国管理局による審査も非常に厳格そなものとなっていることは、元御三家の韓国と台湾とは大きく異なる。

    総体的には、中国、韓国、台湾からの留学生の落ち込みを補うという点において、数の面からも質の部分からも決して充分なものとは言えないのが現状であるとともに、他にも様々な問題を抱えていることは否めない。

    しかしながら、視点を変えれば、これらの国々と新たに緊密な関係を構築する良い機会であるということもあり、とりわけITの分野で地味ながらもそれなりに着実な成長を続けているベトナムから日本に留学する人が急増している中で、様々な問題はあれども、知日家が倍増していくという状況は将来的にプラスに作用することを期待したい。

    ネパールについては、すでに日本で実業界その他で活躍している人たちがNRN(Non-Resident Nepalis)として様々な活動をしていることは一部で知られているが、とりわけ著名な存在として、今のネパールからの留学生たちよりもずいぶん早い時期に来日して学び、飲食業界での起業を手始めにネパールからインド、中東の産油国方面へのフライトを飛ばす航空会社を設立するまでに至るとともに、日本からネパールへの空の便の開設を企図しているB.B. Airwaysの代表のヴァッタ・ヴァバン氏が挙げられる。

    様々な背景や動機により、日本を必要としてくれている若いネパール人たちの中から、将来の日本が必要とする人材が輩出し、新たな絆が築かれていくこともまた大いに期待したいものである。

  • ETIM パーキスターンと中国

    ETIM パーキスターンと中国

    このところ中国ではイスラーム主義者によるものであるとされるテロが相次いでいる。中国の新疆ウイグル自治区の分離独立を訴える集団による犯行であるとされるが、中国に対するジハードを唱え、中国から民族自決を要求する運動から、中国をイスラーム教徒の敵であると主張するものに変質してきている。

    この組織、ETIM(East Turkestan Islamic Movement)は現在パーキスターンのFATA (Federally Administered Tribal Areas ※連邦直轄部族地域)に活動拠点を置いており、中国の手が及ばないところで軍事訓練、武器や資金の供与などを受けているとされる。

    この地域はインドが英領であった時代に遡る歴史的な経緯から、パーキスターン領内でありながらも、同国の立法権限が及ぶのは「国道上のみ」という形になっている。同国政府による行政ではなく、ここに暮らす部族による統治がなされる特殊なエリアである。中央政府の権限が及ばない「無法地帯」であることに加えて、部族民たちの尚武の気風もあり、同じイスラーム教徒の反政府組織やテロ組織等に対しては格好の潜伏場所を提供しているとも言える。

    常々、「テロ組織を隠匿している」と名指しでインドから非難されてきたパーキスターンだが、これまで地域の最大の友邦として同国を厚遇してきた中国にとって、自国でテロを展開するETIMの活動がエスカレートしていくにつれて、この集団が潜伏しているパーキスターンに対して、強い態度に出る日も遠くはないものと思われる。パーキスターンの港湾や道路等々のインフラ整備に手を尽くすほかに、地域最大の友好国として厚遇を与えてきた中国も、そろそろ考えを改める必要性を検討しているかもしれない。

    もちろん中国だけではなく、同地域に潜り込んでいるテロ組織に対する強い懸念を抱く国は少なくないため、パーキスターンに対する外圧は相当なものであるため、ときおりこの地域への軍事作戦がなされている。

    ETIM operatives among 50 killed in Pakistan airstrikes (INTER AKSYON)

    しかしながら、このような行動は根本的な解決からほど遠いことは誰の目にも明らかであり、パーキスターン政府にとっての「一応、出来ることはやっている」というアリバイ作りに過ぎない。各国が望みたいのは、このような無法地帯の存在を許す現在のシステムの変更であるが、パーキスターンにとってはそのような「暴挙」は自国北西部の安定と秩序を破壊するものであり、隣国アフガニスタンにもまたがって暮らす部族民たちとの信頼関係を根底から崩すことにより、内戦に突入する危険をも覚悟しなくてはならない一大事となる。

    最も大きな問題は、当のパーキスターンが自国領内のFATA地域のこうした問題を解決する能力も意思も持たないことだ。FATAのありかたは、今まで以上に地域の安定と秩序に及ぼす影響は非常に大きなものとなる可能性があり、今後目を離すわけにはいかない。

    標的にされる中国 「全イスラム教徒の敵」(asahi.com)

    ジハード呼びかける動画、狙いはウイグル族 (THE WALL STREET JOURNAL)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 1 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 2 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 3 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 4(CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 5 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 6 (CCTV)

  • ミャンマー初の世界遺産登録

    このほどユネスコの世界遺産として、ミャンマー中部のエーヤーワディ河流域の「ピュー古代都市群」が登録されることとなった。同国の経済関係以外の文化面における国際社会への復帰を象徴するかのような出来事といえるだろう。

    ビルマ族最初の王朝であるバガン王朝以前に、ミャンマーの先住民族であるピュー族が建設した古代都市遺跡で、みっつの都市の遺構に宮殿、要塞、埋葬所、産業地域、仏塔、灌漑施設等が残っている。

    他にも文化的遺産が豊富な同国で、ちょっと専門的な知識がなければ見物してもよく判らないような遺跡がなぜ一番最初に登録されることになったのか不思議に思う向きもあるかもしれないが、敢えてビルマ族による文化遺産ではなく、先住民族が創り上げた都市国家遺跡を登録することによlり、従前はビルマ族の民族主義をゴリ押ししつつ、国内に暮らすその他の民族のナシュナリズムの高揚を圧殺してきた同国政府が、国内外に自国における多民族・多文化の共存をアピールする政治的な意味があるのではないだろうか。しかもピュー族自体はすでに消滅してしまっているがゆえに、現在ミャンマーに暮らしている少数民族たちのナショナリズムを刺激することもないため、政府にとって「安心」でもある。

    世界三大仏教遺跡に数えられるバガンの遺跡群については1996年に当時の軍事政権が申請を提出したものの、保全計画の不備を理由(ならびに軍事政権に対する圧力?)により、却下されてしまった経緯がある。今後はバガンの世界遺産登録に向けての最申請の準備が進められているようである。観光業振興にも大いに役立つ看板にもなるため、他にもこの国から世界遺産登録申請はいくつか続くことと思われる。

    Myanmar’s first site inscribed to World Heritage List (UNESCO)

  • イラクのインド人

    サッダーム・フセインがイラクの大統領であったころで、イラク軍がクウェートに侵攻した、いわゆる「湾岸危機」が発生する前、つまりずいぶん昔のことになるが、イラクを訪れたことがある。

    ヨルダンのアンマンからイラクのバグダードまで直行するバスがあり、これを利用したのだが、友好関係にあった両国とはいえ、かたや預言者ムハンマドの血筋に当たるロイヤルファミリーのハーシム家を擁する前者と、自国の王家を倒して政権を奪取した汎アラブ主義を標榜するバアス党のイラクとでは、表向きの友好的な姿勢とは裏腹に、非常に根深い不信感が渦巻いていたであろうことは、ヨルダン側のチェックポストからイラク側のチェックポストまでの間に、約50kmに及ぶ異常なまでに広大な緩衝地帯があったことから容易に想像がつくようでもあった。

    ヨルダンからイラクに入ると、それまであちこちに見られた温和そうな紳士といった風情の当時のフセイン国王の肖像画から野心的な風貌のサッダーム・フセイン大統領の肖像画に変わることで、「イラクに来た」という感じがしたものの、景色にはさほど大きな違いはないように見受けられた。それでも非産油国である前者と石油による莫大な収入がある後者とでは、道路の整備具合はもちろんのこと、市街地に入ると家屋の規模が大きく、商業地域ではビルの規模も大きく、電動のエスカレーター付きの歩道橋などもあったりすることに、国力の差を感じたりもした。

    ヨルダンでも酒を飲むことができる場所は多かったが、イラクではその酒類が非常に安価で、首都バグダード市内にいくつもある繁華街では、当時バックパッカーであった私が懐の心配をすることなく、旅先で出会った他の旅行者たちと、そうした店で気持ち良く酔うことができた。

    もともとイラクは宗教色が薄く、世俗的な国であった。社会主義的な政策を進めるイラクのバアス党を率いていたサッダーム・フセインも公式の場に出るときや街中に掲げられたポスターなどではたいていスーツ姿であったことは、アラビアの伝統的な衣装をまとった湾岸諸国の王族たちの姿とは対照的だった。バアス党の治世下にあっては、宗教や民族をベースにした分離主義的な活動は厳しく弾圧されるとともに、イスラーム原理主義者やそうした中に含まれる過激派にも活動の場はなかった。

    そんな具合であったので、サッダーム・フセインがアラビアの民族衣装で現れたり、国旗にアラビア語で「アッラー・アクバル」という文字が入ったりしたのは、1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻したことに始まる湾岸危機をきっかけに始まった湾岸戦争以降のことだ。

    それはともかく、現在のイラクのように市民生活に対して宗教が強い干渉力を持つ社会ではなかったため、洋装の女性が普通に行き来しており、社会進出も特に盛んであったようだ。また男性社会では飲酒もポピュラーであったようで、先述のとおり酒が安価にふんだんに供給されており、繁華街では酔っ払いたちが路上で寝込んでいたりするのは、夏の時期の週末の東京と同じであった。

    当時、イラクに入国した外国人は指定された病院にて、一定期間のうちに血液検査を受けなければならないことになっていた。エイズの蔓延に警鐘が鳴らされ始めた時期であったため、インドでも半年以上の査証で入国する外国人たちについては、そのような措置があったことを記憶している。おそらく他にもそのような国は多くあったことだろう。

    イラク政府による指定病院のひとつ、名前は忘れたがバグダード市内の大きくて近代的な医療施設を訪れて血液検査を受けたのだが、対応した看護婦も医師もインド人であった。彼らの話によると、技師として働いているインド人も相当数あるとのことだった。

    その後、湾岸戦争開戦となるにあたり、イラク政府は在住外国人たちを重要施設に連行・監禁するなどして、「人間の盾」として扱うことになったのだが、その時期のインドのメディアはこうした形で出国・帰国できなくなったインド人たちのことを伝える記事を流していた。

    湾岸戦争後、経済制裁下の停滞を経てイラク戦争により、サッダーム・フセイン政権の崩壊を経た後のイラクは各国による利権の分捕りあいと新たな経済秩序の形成の場になったわけだが、再び途上国からの出稼ぎの人たちに稼ぎの場を供給する場所にもなっている。治安機構の崩壊した戦後のイラクでインド人、ネパール人等のトラック運転手が街道上で誘拐されたり、殺害されたりというニュースをしばしば見るようになった。

    それからもう何年も経過したが、現在も内戦に近い状態が続き、スンニー派の武装過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の実効支配地域の拡大が伝えられている中、インド人労働者たちに対する大規模な誘拐事件が発生して、世間の耳目を集めるようになっている。

    政治的にも経済的にも、まぎれもない大国となっているインドだが、こうして外国での就労に活路を求めなくてはならない人々が多いことは今も変わらない。しかしながら、こうしたマンパワーの宝庫であるということも、インドの強みのひとつでもある。

    One of the 40 Indians kidnapped in Iraq escapes, 16 others moved out (THE TIMES OF INDIA)

    40 Indian Construction Workers Kidnapped in Iraq (abc NEWS)

     

  • サイクルリクシャーあれこれ

    サイクルリクシャーあれこれ

    Rickshawの発祥の地といえば横浜(東京の日本橋という説もある)で、日本発祥の乗り物はアジア各地に伝播して、それぞれの土地で発展していき現在に至っている。

    リクシャー、つまり力車こと人力車を文字通り人がテクテク走って引いていたころのものは、日本から輸出した車両とそれを模倣したものが幅を利かせていたため、どこの国も白黒写真に残るそれらの姿は、これらの復刻版が行楽客向けに走る横浜、浅草、鎌倉などの観光地で見られるものとほとんど同じ形をしている。現在、唯一カルカッタの残るこうしたオリジナルの様式のリクシャーは、江戸東京博物館に展示されている人力車にほぼ忠実なコピーと言って差し支えないだろう。

    この人力車の発展形がサイクルリクシャーであり、日本でもリンタクとして一時期走っていた。江戸東京博物館のウェブサイトによれば、信じられないことにこれが1988年まで東京で走っていたということだ。今はイベント等で営業している業者がいるのだが。また、Velo Taxiはサイクルリクシャーの最新型ということになる。

    しかしながら、このサイクルリクシャーについては、動力の効率や操作性の観点からは、南アジアの引き手の後部に座席が備わっているものが一番良いのではないかと思うのだが、ベトナムやカンボジアのように乗客の座席が前に付いているもの、ミャンマーのようにサイドカーとなっているものなど、いろいろなバリエーションを生んだ。

    インド
    ベトナム
    ミャンマー

    座席が前だと眺めは良いし、乗り心地も優れているのだが、自動車やバイクその他の乗り物が忙しく行き来する現代においては、混雑している交差点などではちょっとスリリングである。右折しようとしているところで、腰かけている乗客のところに他の車両が突っ込むという事故を目にした際には「やはり」という気がした。サイドカーのタイプだと、運転手との会話が容易であるところが好ましくも思える。後部が座席となっているものの場合、往々にして乗客が座る部分はかなり高い位置となるので、見晴しは良かったりするし、多少の雨ならば蛇腹式の傘部分である程度防ぐことができる。もちろん運転手はずぶ濡れになるしかないのだが。

    サイクルリクシャーの駆動部分の自動化を進めたものがオートリクシャーであり、このエンジンの環境負荷を取り除く目的で開発されたのが、サファー・テンポーであり、e-rickshawでもある。

    これまでサイクルリクシャーが活躍してきた地域でも、都市の過密化と住民たちの自前の交通手段の普及による交通渋滞、市街地の拡大による生活権の拡大等により、利用者の減少、乗り入れ地域の制限などにより、先細りの稼業であることは間違いない。先進国におけるVelo Taxiにしてみても、これが実用的な交通手段として機能するかといえば、そうであるとは全く言えないだろう。いずれは各地で消えゆく運命にあるとはいえ、中進国や途上国においては小規模な町での需要はまだまだ高い。

    先進国においても環境意識の高まりや都市部以外での若年層人口の流出などによる高齢者の日常の足としての可能性も否定できるものではなく、サイクルリクシャー営業を試みたら、一定の評価を得るのではないかと思ったりもする。

  • ミャウー 3

    ミャウー 3

    ミャンマーで洋式の朝食はインドと同様だ。インドのものとサイズのトースト、バターとジャム、そして目玉焼きかオムレツ、紅茶である。これは旧英領の国、またその他の国でも往々にして同様なのだが、ベンガルみたいな周囲の景観と合わせて、ちょっとインドに来ているかのような気分になる。

    歴史的遺産の保存としてはいかがなものかと思うが、新旧ごちゃまぜの空間はそれはそれで興味深い。

    まずは外に出て、昨日の店でレンタサイクルを借りて、これでお寺巡りとなる。歴史的な寺院遺跡群なのだが、現代も信仰されている寺となっているところも多いため、寺の中に古い部分とそれと隣接したり上に新たな建造物が加えられていたりして、原状の保存という具合にはなっていないところも多々あるのはミャンマーらしいところかもしれない。遺跡の修復具合はあまり良好とはいえない。バガンでも国外からいろいろ批判もあるようだが、ミャウーのそれも安易でチープな修復に留まっているように思われる。

    朝の時間帯は曇っているように見えていたが、日が高くなるにつれてどんどん明るくなってくる。おそらく雲の厚みは同じなのだろうが、日差しが強くなるためそうなるのだろう。ちょうど雨季に移行しようという時期であるため、薄曇りの天気となるようだ。それでも日中の最も暑い時間帯には40℃を少し超えるくらいとなる。

    町の北東にあるコー・タウン・パヤーを手始めに、行ける範囲にあるお寺をいくつか訪れてから、船着場のほうまで足を延ばしてみる。自転車で自由にのんびりと行き来できるのはよい。バガンでもそうであった。もっともあちらはここの暑さの比ではなかったが。

    行き交う人々で賑わうマーケット
    旬な果物ライチー
    料理に使われるフィッシュペースト。日本で言えば味噌のようなもの。
    様々な干し魚類
    ゼンマイの類
    自炊したくなってくる。
    ビンロウジュの実。インドほどではないがこの国にもこれを愛好する人たちは多い。
    強い日差しのもと、こうした帽子は必需品

    昨日は訪れた時間帯が遅すぎてほぼ誰もいなくなっていた市場だが、昼間の早い時間帯に行くとにぎわっていた。今が旬のライチー購入。食べてみるとあまり甘くなくて酸っぱい。だが海や川の産物が豊富で、干し魚には様々な種類がある。また黒くて味噌のようなものがあったが、これは魚の発酵させたもののペースト。料理に使うダシというか、まさに味噌のようなものでもある。

    本日の午後、暑い中を自転車で町中を走っていると、マーケットから少し進んだ静かな住宅地で民家の前の道路にテントを張りだして、数人の人たちが席に座っているのを見た。何か結婚式でもあるのか、それにしてはテントが小さいと思いきや、お通夜であった。小さなベッドの上に洋式のズボンとシャツを着た壮年男性の遺体があり、口には黒いマスクがかけられている。ベッドには蚊帳が張ってあり、小さな電飾が光っている。この気候の中でどのくらいの間そうしていられるのかわからないが。

    気温が高いため、夕方になるとさすがにヘトヘトになってくる。宿近くの食堂では生ビールを出していたので二杯ほど引っかけるとちょうどいい具合になってきた。

    〈完〉

  • ミャウー 1

    ミャウー 1

    ミャンマーのMPTのレンタルSIMを入れたスマホは、ヤンゴンを出てからまったくネット接続が出来ておらず通話専用となっていたのだが、朝早く起きて操作してみると、かなり不安定ながらも3Gで繋がることが判った。おそらくユーザー数に対する回線の容量が常時不足する状態にあり、利用者が少ない時間帯のみ通じるという具合になるのだろう。

    ミャウー行きの船からの眺め
    船内はこんな具合

     

    これからスィットウェからミャウー(Mrauk-U)に行く船に乗る。政府系の公社を含めて複数の船会社が運航しており、どれも毎日出ているわけではない。それぞれ往路・復路(往路の翌日が復路)の曜日が決まっているのだが、概ね毎日どこかしらの会社が船を出しているようだ。

    午前6時前に船着き場に到着、カラーダーン河に繋がる運河に係留してある船に乗船したあたりで朝日が昇ってきた。もっと小さな船を想像していたが、荷物とともに大量の貨物も運搬することができる大きな船である。

    出発!
    カラーダーン河に繋がる水路を進む
    ようやく河に出る。

     

    午前7時の定刻に船は出発。少し進んだ先でカラーダーン河に出る。ちょうどここは河口部に位置しているため、河というよりも海の眺めといったほうがいい。停泊しているいくつかの大型船の姿があり、中小の船影が目の前を行き来している。

    向こうの船は巡視艇のようである。
    竹を組んだ筏
    魚を獲るための仕掛け?

     

    筏に編まれた大量の竹材が河下に向かう様子、魚を採るための仕掛け、岸部で孝之式住居が並ぶ村落やお寺の眺めなどを楽しみながら船上のゆったりとした時間を楽しむことができる。水量豊富な平地を流れる河だけに、海原のような景色を眺めているのも束の間、遡上していくにつれて、次から次へと他の河川との合流点があり、これらを通過するたびに河幅は見る見るうちに細くなっていく。水面と陸地の高さにほとんど差がないため、雨季の眺めは今とはずいぶん違うことだろう。

    水面と大地に高低差がほとんどない。

     

    昼寝中の乗客

    モンスーン期には河幅はもっと広くなっているであろうし、もともとあった土地が削られたり、他の土地が新しく形成されたりという具合に、岸部の形状も継続して変化していくはずだ。河の流れも少しずつコースを変えていることと思う。そして氾濫しては流れを変えているのだろう。ときにサイクロンが来たりすると、流域は劇的に変化するはず。

    集落
    大きな建物も見える。
    途中の村から乗船する人々
    川面の風景

    しばらくうとうとして目を覚ますと、もはや同じサイズの船が行き違いできるような幅ではなくなっている。このあたりまで来ると、同じ大きさの船が擦れ違うことはできない。蛇行しながら流れる川筋の先はブラインドコーナーになっていて、船は汽笛をけたたましく鳴らしながら航行を続けていく。向こうから船が来たら衝突してしまうからだ。

    観光客が増えるにつれて船は増便していくのだろうが、すぐに限界が来ることは目に見えている。やがては陸路でのバスも外国人に許可する日が来るのではなかろうか。スィットウェとミャウーの間はバスも走っているものの、外国人は乗車することが許されていない。しかしながら、こういう場所に来て、水際の様子を水面から眺めることなしでいるのはもったいないので、陸路での移動が可能となっても、やはりここは船旅を選びたいものだ。

    船内の売店で買った袋菓子はバーングラーデーシュ製

    ミャウーの近くまで来ると川幅はとても狭くなる。

    すっかり川幅は狭くなり、こんな大きな船が航行して座礁しないのか?と思うほどになってきたあたりで集落が見えてきた。そこがミャウーの船着場であった。ちょうど正午であったので、スィットウェから5時間ほどの船旅であった。

    ミャウーの船着場

    〈続く〉

  • スィットウェへ3

    スィットウェへ3

    この町で少々気になったことがある。ヤカイン州といえばロヒンギャー問題で海外にもよく知られているところだ。ロヒンギャーとは、ベンガル系のチッタゴン方言に近い言葉を母語とするムスリム集団のことだが、すでにこの国に数世代に渡って生活しているにもかかわらず、「ベンガル人の不法移民」「外国人」とされており、この国で市民権を与えられていない宙に浮いた存在である。

    近年は、ムスリムに対する暴動が発生して、モスクやムスリムの家屋に対する破壊行為が起きたこと、多数の死傷者が出るとともに、避難民を数多く発生させたこともメディアで伝えられていたのを目にした人も多いだろう。

    ミャンマーの中ではとりわけイギリスによる植民地史の中で早い時期からインド系の移民の波にさらされた土地であること、港町として南アジアとの往来も盛んであったことから、インド系の人々の姿が非常に多いであろうことを予想していたのだが、意外にも港湾エリアを中心とする繁華街ではインド系の人々、ムスリムの人々の姿が非常に少ない。

    繁華街の目抜き通り(Main Rd.)には、ジャマーマスジッドという名で、立派なムガル風建築のモスクがあり、おそらくこのあたりには相当数のムスリムが住んでいたのではないかと思われるが、周囲のマーケットはそのような雰囲気ではない。モスクそのものも現在は使われていないようで、入口につながる小道にはバリケードがあり、武装した治安要員が警備に当たっており、足を踏み入れるまでもなく、その前に立ち止まるだけで追い払われてしまう。

    ヤンゴンから飛行機で到着した際の空港から市内への道筋にも、小ぶりながらも由緒ありそうな凝った建築のモスクがいくつかあったのだが、どれもそうした制服の男たちが入口を塞いでいた。


    市内中心部でも繁華街の目抜き通り(Main Rd.)から西に進んだエリアに行くと、ところどころでインド系の人々を目にした。そんな中に、いくつかのヒンドゥー寺院があった。おそらく最も大きなものが、マハーデーヴ・バーリーという、名前からしていかにもといったシヴァ寺院だ。

    入口の鉄扉を開けて中に入ると、若い男性が「何か用か?」といった不審そうな面持ちで出てきたが、インド系の人々のお寺に関心があること、ぜひ神殿で拝ませて頂きたいという来意を伝えると、快く迎えてくれた。


    お堂の中は簡素で、祭壇にはシヴァの絵と小さなリンガムが祀られているというシンプルなもの。だがその反対側の壁にはシヴァの連れ合いであるドゥルガーの立派な神像があり、本尊は実は後者なのではないかと思われるくらいにアンバランスである。ドゥルガーやカーリーへの信仰の厚いベンガル系の信者から寄進されたものではないかと思う。


    ミトゥン・チャクラボルティーという、ヒンディー語映画のベテラン俳優みたいな名前のこの男性はこのお寺のプージャーリー。快活な感じのする男性で、ヒンディー語もなかなか上手い。名前の示すとおりのベンガル系で、20代後半で昨年結婚したばかりだが、来月初めての子供が生まれる予定であるとのことで、境内には身重の奥さんもいたが、彼女はヒンディーを話すことはできないようであった。

    現在、母親とお嫁さんとの3人暮らしであるそうだ。父親は20年ほど前にカルカッタに行ったきり、消息を絶っているとのこと。「父が先代のプージャーリーで、私がこうして継ぐまでしばらく空いているんです。私が幼いときに仕事を求めてカルカッタに行ったのですが、それっきりどうしているのかも判りません。もちろん私たちはベンガル人ですが、父はカルカッタに何かツテがあったのかどうかは判りません。そんな具合であったので、母は大変苦労したようです。」

    特に身の上話を尋ねたわけではないのだが、いろいろと聞かせてくれるのはインド系の人らしいところかもしれない。しばらく世間話をした後、「少々お待ちいただけますか。」と言い残してどこかに姿を消した彼は、サフラン色のローブを纏って現れて、私のためにプージャーをしてくれた。

    彼の家族は曽祖父の代にベンガルから移民してきたというが、今でもベンガル語とヒンディー語は使えるということから、この地のインド系のコミュニティの絆はもちろんのこと、人口規模も決して小さなものではないことが窺える。


    そこからごく近いところに、ダシャー・プージャー・バーリーというヒンドゥー寺院もあり、ここもまたプージャーリーの男性に挨拶すると、非常に愛想よく迎え入れてくれた。こちらはカーリーとドゥルガーを祀った寺であり、プージャーリーはさきほどのマハーデーヴ・バーリーのプージャーリーと同じ苗字を持つベンガル系のブラフマンの50代男性だが、親戚ではないそうだが、年代が上であるだけに、さきほどの男性よりもヒンディーが流暢で、彼らのコミュニティに関する知識も豊かなようである。

    彼によると、この町に暮らすヒンドゥーの人々はおよそ3,000人程度。インド系という括りで言えば、ムスリムがマジョリティで彼らは少数派だそうだ。かつてはもっと多くのヒンドゥー(およびインド系ムスリム)が暮らしていたそうだが、1962年のネ・ウィン将軍によるクーデター以降、多くは国外に移住したとのことだ。

    近年においては、この地における反ムスリムの動きが、彼らヒンドゥーの立場をも悪くしているという。「このあたりでは、インド系といえばムスリムのほうが多いでしょう。ロヒンギャーの問題もあるし、私らヒンドゥーも同じように見られてしまう部分がある。とりわけムスリムに対する攻撃が始まってからは、私らも必要なとき以外はなるべく外に出ないようにしています。この地域に暮らすということはリスクと不便があまりに多い。」とのこと。あれほどインド本国では圧倒的な重みを持つインド文化も、この地にあってはその輝きほとんどなく、まるで隠れキリシタンのような趣さえある。

    「私の祖父がインドからやってきました。ここのヒンドゥーの間ではベンガル人が多いですが、U.P.やビハールからの移民もいれば、マールワーリーもいるし、グジャラーティーもいます。でも私らの間では正直なところ、先祖がやってきた地域の区別はあまりないんです。結局、同じヒンドゥーでしょう?」

    この界隈には、他にゴーランガー・マハー・プージャー・バーリー、ハリ・マンディル、ラーダー・クリシュナー・マンディルといったヒンドゥー寺院がある。

    翌日にはこの地域のインド系の人の結婚式があるので、ぜひ出席しないかと誘われた。ぜひともよろしくお願いしますと言いたいところであったが、タイトなスケジュールでのミャンマー訪問で、その日にはすでに移動する予定であったので、後ろ髪を引かれる思いながらも辞退せざるを得なかった。寺院を出て、しばらく進んだ先では着飾ったヒンドゥー女性たちが乗合自動車から降りてどこかに向かうところであったので、この婚礼と関連するものが行われていたのではないかと思う。

    寺の外でも、インド系の人々は総じてフレンドリーな印象を受けたが、この「インド系タウンシップ」を徘徊するのはなかなか面倒なことでもあった。というのは、辻のそこここに警察のバリケードがあり、POLICEと大書きした車両が行き交う中で、そうした地域に足を向けようとすると、往々にして「こちらに立ち入るな」と追い返されたり、職務質問を受けたりするからだ。

    中には非常にガードが堅い路地もあり、一体その先には何があるのかと興味をそそられるものの、路地の反対側から進入することを目指しても、迂回路を探してみても入ることができなかったりする。

    ときに多少の英語ができる警官もおり、「ロヒンギャーたちがいる地域であるから危険なので入らないこと。」とのこと。ロヒンギャーの人々が危険であるのかどうかはともかく、このように常に監視の対象になっているということ、それが州都であることを思えば、その他の地域では一体どんな扱いをされているのかと思う。

    こうした中で、ヒンドゥーたちが監視の対象になっているのか、保護の対象になっているのかわからないが、やはりインド系の人々全体がロヒンギャーと同義に扱われているかのような印象を受けるとともに、こうしたインド系が住むエリアそのものが警備の対象となっているようにも感じられた。

    英領期に、ここに移住してきたインド系の人々の多くは、当時のヒンドゥスターンの新天地として入植してきたはずだが、結局こうしたやってきた大地はいつの間にかヒンドゥスターンの一部ではなくなり、彼らの父祖の故地もひとつのインドからインドとバングラデシュに分かれてしまい、コミュニティとしては大きなものであったインド系の人々自体がいつの間にかマイノリティとなり、しかも監視の対象にさえなってしまったことになる。

    かつてイギリス領であったこと、隣接しているインド亜大陸からの移民が多いことから、しばしばインドの北東部にいるかのような気にさせられることもあるミャンマーの中でも、地理的に最もインド世界に近い場所にある地域だ。

    インドの北東部でモンゴロイド系の住民がマジョリティを占めるエリアを訪れると、「インドの中にあってインドでない」といった印象を受けるが、それでもインド共和国という政治システムの中の一地方であるがゆえに、インドという存在は至高のものであるとともに、圧倒的な存在感をもってその地に君臨している印象を受けるものだ。しかし、その法的・軍事的な強制力が及ぶ圏外であるここでは、インドという国が非常に遠く感じられるとともに、インド系の住民なり文化なりが非常に無力なものに感じられる。

    もしインドの北東部が本土から分離するようなことがあったりすると、まさにこのような感じになるのではないかと思ったりもする。


    〈完〉

     

  • スィットウェへ2

    スィットウェへ2

    ミャンマー・ブームでヤンゴンの宿泊費が高騰しているのはよく知られているところだが、地方の観光地もまた同様の傾向がある。国際的にも有名なバガンやマンダレーはそれでも元々の客室数のキャパがあるので急騰するというほどのことはないのかもしれないが、よりマイナーで訪れるお客が少なかったところでは、存在する宿の数が限られているため、ヤンゴンのようなビジネスや投資関係での需要はほとんどなくても、観光客がこれまでよりも少し多く訪れるようになるだけで、ずいぶん影響が出るようだ。

    スィットウェで、エアコンが付いているちょっと小奇麗なシングルルームが40ドル前後もするというのは明らかにおかしい。経営者たちの間でそういう密約があるのかどうかは知らないが、宿の数自体が数えるほどしかないため、そのようなことが可能となってしまう。これについては外国人料金が設定されているため、地元の人たちが同額を支払っているわけではないようだ。

    たいていの宿では外国人料金がいくらで、地元料金がいくらであるかは教えてくれなかったりするのだが、ごく新しく出来た比較的安めの一軒ではその料金が前者はドル建て、後者についてはチャット建てで表記されていた。チラリと見ただけだが倍以上の開きがあるようだ。

    今後、ミャンマーの経済成長が進み、観光のインフラも整備されていくにつれて、国内の旅客の潜在的な需要も大きい。今後、宿泊費に関する内外格差が解消するのかどうかはよくわからないが、宿泊施設が増えていくことにより、相対的に料金が手頃になっていくことを期待したいものだ。


    結局、この町ではストランド・ロードにあるストランド・ホテルという名前のホテルに宿泊することにした。まるでヤンゴンにある東南アジアを代表する名門のひとつであったホテルのようなロケーションと名前だが、これとはまったく無関係の新築ホテルである。シングルルームで60ドルと、この田舎町にしてはずいぶん強気な設定だが、開業してからまだひと月とのことで、ロンリープラネットのようなガイドブックにもまだ取り上げられていないのだが、すっかりくたびれた感じの宿に40ドル、50ドル支払うよりも気持ちがいいので投宿することにした。やはり宿は新しいに限る。非常に清潔で、コテージタイプというのもいい。室内もスタイリッシュだし、スタッフもフレッシュな雰囲気でキビキビと働いている。

    水際に政府関係の大きな建物や市場などが並び、水運時代の植民地期に開かれた当時のたたずまいを残しているようだ。ここを軸にして背後に繁華街、そしてさらに裏手には住宅地が広がる。マウラミャインも似たような造りの町である。


    この時期、市場で外見はビワのような小型のマンゴーが売られている。上の画像の左側の小さなものがそのタイプである。姿形に似つかわしくなく、味はそのままマンゴーなのだが、水分が多くて酸味も強いジューシーな味わい。果実の量に比して種子の部分が大きいため、あまり食べられる部分は多くはないのだが。ひとくちにマンゴーといっても、実にいろんな種類があるものだ。


    河沿いのマーケットには米のマーケットもある。実にいろいろな種類のコメがあるもので、インディカ系のコメにもいろいろ粒が小さかったり、大きかったり、赤みを帯びていたり、もち米であったりといろいろある。もち米はやはりシャンのものであるという。輸入米もインドからの長粒種、タイ産のものもある。世界的な米の大産地であるこの国でも、外国から輸入もしているとは知らなかった。個々の嗜好によりいろいろな米を食べているのだろう。

    それはさておき、日中の気温は40℃くらいまで上がるので、夕方のビールが実に旨い!

    〈続く〉