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カテゴリー: society

  • ミャンマー初の世界遺産登録

    このほどユネスコの世界遺産として、ミャンマー中部のエーヤーワディ河流域の「ピュー古代都市群」が登録されることとなった。同国の経済関係以外の文化面における国際社会への復帰を象徴するかのような出来事といえるだろう。

    ビルマ族最初の王朝であるバガン王朝以前に、ミャンマーの先住民族であるピュー族が建設した古代都市遺跡で、みっつの都市の遺構に宮殿、要塞、埋葬所、産業地域、仏塔、灌漑施設等が残っている。

    他にも文化的遺産が豊富な同国で、ちょっと専門的な知識がなければ見物してもよく判らないような遺跡がなぜ一番最初に登録されることになったのか不思議に思う向きもあるかもしれないが、敢えてビルマ族による文化遺産ではなく、先住民族が創り上げた都市国家遺跡を登録することによlり、従前はビルマ族の民族主義をゴリ押ししつつ、国内に暮らすその他の民族のナシュナリズムの高揚を圧殺してきた同国政府が、国内外に自国における多民族・多文化の共存をアピールする政治的な意味があるのではないだろうか。しかもピュー族自体はすでに消滅してしまっているがゆえに、現在ミャンマーに暮らしている少数民族たちのナショナリズムを刺激することもないため、政府にとって「安心」でもある。

    世界三大仏教遺跡に数えられるバガンの遺跡群については1996年に当時の軍事政権が申請を提出したものの、保全計画の不備を理由(ならびに軍事政権に対する圧力?)により、却下されてしまった経緯がある。今後はバガンの世界遺産登録に向けての最申請の準備が進められているようである。観光業振興にも大いに役立つ看板にもなるため、他にもこの国から世界遺産登録申請はいくつか続くことと思われる。

    Myanmar’s first site inscribed to World Heritage List (UNESCO)

  • イラクのインド人

    サッダーム・フセインがイラクの大統領であったころで、イラク軍がクウェートに侵攻した、いわゆる「湾岸危機」が発生する前、つまりずいぶん昔のことになるが、イラクを訪れたことがある。

    ヨルダンのアンマンからイラクのバグダードまで直行するバスがあり、これを利用したのだが、友好関係にあった両国とはいえ、かたや預言者ムハンマドの血筋に当たるロイヤルファミリーのハーシム家を擁する前者と、自国の王家を倒して政権を奪取した汎アラブ主義を標榜するバアス党のイラクとでは、表向きの友好的な姿勢とは裏腹に、非常に根深い不信感が渦巻いていたであろうことは、ヨルダン側のチェックポストからイラク側のチェックポストまでの間に、約50kmに及ぶ異常なまでに広大な緩衝地帯があったことから容易に想像がつくようでもあった。

    ヨルダンからイラクに入ると、それまであちこちに見られた温和そうな紳士といった風情の当時のフセイン国王の肖像画から野心的な風貌のサッダーム・フセイン大統領の肖像画に変わることで、「イラクに来た」という感じがしたものの、景色にはさほど大きな違いはないように見受けられた。それでも非産油国である前者と石油による莫大な収入がある後者とでは、道路の整備具合はもちろんのこと、市街地に入ると家屋の規模が大きく、商業地域ではビルの規模も大きく、電動のエスカレーター付きの歩道橋などもあったりすることに、国力の差を感じたりもした。

    ヨルダンでも酒を飲むことができる場所は多かったが、イラクではその酒類が非常に安価で、首都バグダード市内にいくつもある繁華街では、当時バックパッカーであった私が懐の心配をすることなく、旅先で出会った他の旅行者たちと、そうした店で気持ち良く酔うことができた。

    もともとイラクは宗教色が薄く、世俗的な国であった。社会主義的な政策を進めるイラクのバアス党を率いていたサッダーム・フセインも公式の場に出るときや街中に掲げられたポスターなどではたいていスーツ姿であったことは、アラビアの伝統的な衣装をまとった湾岸諸国の王族たちの姿とは対照的だった。バアス党の治世下にあっては、宗教や民族をベースにした分離主義的な活動は厳しく弾圧されるとともに、イスラーム原理主義者やそうした中に含まれる過激派にも活動の場はなかった。

    そんな具合であったので、サッダーム・フセインがアラビアの民族衣装で現れたり、国旗にアラビア語で「アッラー・アクバル」という文字が入ったりしたのは、1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻したことに始まる湾岸危機をきっかけに始まった湾岸戦争以降のことだ。

    それはともかく、現在のイラクのように市民生活に対して宗教が強い干渉力を持つ社会ではなかったため、洋装の女性が普通に行き来しており、社会進出も特に盛んであったようだ。また男性社会では飲酒もポピュラーであったようで、先述のとおり酒が安価にふんだんに供給されており、繁華街では酔っ払いたちが路上で寝込んでいたりするのは、夏の時期の週末の東京と同じであった。

    当時、イラクに入国した外国人は指定された病院にて、一定期間のうちに血液検査を受けなければならないことになっていた。エイズの蔓延に警鐘が鳴らされ始めた時期であったため、インドでも半年以上の査証で入国する外国人たちについては、そのような措置があったことを記憶している。おそらく他にもそのような国は多くあったことだろう。

    イラク政府による指定病院のひとつ、名前は忘れたがバグダード市内の大きくて近代的な医療施設を訪れて血液検査を受けたのだが、対応した看護婦も医師もインド人であった。彼らの話によると、技師として働いているインド人も相当数あるとのことだった。

    その後、湾岸戦争開戦となるにあたり、イラク政府は在住外国人たちを重要施設に連行・監禁するなどして、「人間の盾」として扱うことになったのだが、その時期のインドのメディアはこうした形で出国・帰国できなくなったインド人たちのことを伝える記事を流していた。

    湾岸戦争後、経済制裁下の停滞を経てイラク戦争により、サッダーム・フセイン政権の崩壊を経た後のイラクは各国による利権の分捕りあいと新たな経済秩序の形成の場になったわけだが、再び途上国からの出稼ぎの人たちに稼ぎの場を供給する場所にもなっている。治安機構の崩壊した戦後のイラクでインド人、ネパール人等のトラック運転手が街道上で誘拐されたり、殺害されたりというニュースをしばしば見るようになった。

    それからもう何年も経過したが、現在も内戦に近い状態が続き、スンニー派の武装過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の実効支配地域の拡大が伝えられている中、インド人労働者たちに対する大規模な誘拐事件が発生して、世間の耳目を集めるようになっている。

    政治的にも経済的にも、まぎれもない大国となっているインドだが、こうして外国での就労に活路を求めなくてはならない人々が多いことは今も変わらない。しかしながら、こうしたマンパワーの宝庫であるということも、インドの強みのひとつでもある。

    One of the 40 Indians kidnapped in Iraq escapes, 16 others moved out (THE TIMES OF INDIA)

    40 Indian Construction Workers Kidnapped in Iraq (abc NEWS)

     

  • サイクルリクシャーあれこれ

    サイクルリクシャーあれこれ

    Rickshawの発祥の地といえば横浜(東京の日本橋という説もある)で、日本発祥の乗り物はアジア各地に伝播して、それぞれの土地で発展していき現在に至っている。

    リクシャー、つまり力車こと人力車を文字通り人がテクテク走って引いていたころのものは、日本から輸出した車両とそれを模倣したものが幅を利かせていたため、どこの国も白黒写真に残るそれらの姿は、これらの復刻版が行楽客向けに走る横浜、浅草、鎌倉などの観光地で見られるものとほとんど同じ形をしている。現在、唯一カルカッタの残るこうしたオリジナルの様式のリクシャーは、江戸東京博物館に展示されている人力車にほぼ忠実なコピーと言って差し支えないだろう。

    この人力車の発展形がサイクルリクシャーであり、日本でもリンタクとして一時期走っていた。江戸東京博物館のウェブサイトによれば、信じられないことにこれが1988年まで東京で走っていたということだ。今はイベント等で営業している業者がいるのだが。また、Velo Taxiはサイクルリクシャーの最新型ということになる。

    しかしながら、このサイクルリクシャーについては、動力の効率や操作性の観点からは、南アジアの引き手の後部に座席が備わっているものが一番良いのではないかと思うのだが、ベトナムやカンボジアのように乗客の座席が前に付いているもの、ミャンマーのようにサイドカーとなっているものなど、いろいろなバリエーションを生んだ。

    インド
    ベトナム
    ミャンマー

    座席が前だと眺めは良いし、乗り心地も優れているのだが、自動車やバイクその他の乗り物が忙しく行き来する現代においては、混雑している交差点などではちょっとスリリングである。右折しようとしているところで、腰かけている乗客のところに他の車両が突っ込むという事故を目にした際には「やはり」という気がした。サイドカーのタイプだと、運転手との会話が容易であるところが好ましくも思える。後部が座席となっているものの場合、往々にして乗客が座る部分はかなり高い位置となるので、見晴しは良かったりするし、多少の雨ならば蛇腹式の傘部分である程度防ぐことができる。もちろん運転手はずぶ濡れになるしかないのだが。

    サイクルリクシャーの駆動部分の自動化を進めたものがオートリクシャーであり、このエンジンの環境負荷を取り除く目的で開発されたのが、サファー・テンポーであり、e-rickshawでもある。

    これまでサイクルリクシャーが活躍してきた地域でも、都市の過密化と住民たちの自前の交通手段の普及による交通渋滞、市街地の拡大による生活権の拡大等により、利用者の減少、乗り入れ地域の制限などにより、先細りの稼業であることは間違いない。先進国におけるVelo Taxiにしてみても、これが実用的な交通手段として機能するかといえば、そうであるとは全く言えないだろう。いずれは各地で消えゆく運命にあるとはいえ、中進国や途上国においては小規模な町での需要はまだまだ高い。

    先進国においても環境意識の高まりや都市部以外での若年層人口の流出などによる高齢者の日常の足としての可能性も否定できるものではなく、サイクルリクシャー営業を試みたら、一定の評価を得るのではないかと思ったりもする。

  • ミャウー 3

    ミャウー 3

    ミャンマーで洋式の朝食はインドと同様だ。インドのものとサイズのトースト、バターとジャム、そして目玉焼きかオムレツ、紅茶である。これは旧英領の国、またその他の国でも往々にして同様なのだが、ベンガルみたいな周囲の景観と合わせて、ちょっとインドに来ているかのような気分になる。

    歴史的遺産の保存としてはいかがなものかと思うが、新旧ごちゃまぜの空間はそれはそれで興味深い。

    まずは外に出て、昨日の店でレンタサイクルを借りて、これでお寺巡りとなる。歴史的な寺院遺跡群なのだが、現代も信仰されている寺となっているところも多いため、寺の中に古い部分とそれと隣接したり上に新たな建造物が加えられていたりして、原状の保存という具合にはなっていないところも多々あるのはミャンマーらしいところかもしれない。遺跡の修復具合はあまり良好とはいえない。バガンでも国外からいろいろ批判もあるようだが、ミャウーのそれも安易でチープな修復に留まっているように思われる。

    朝の時間帯は曇っているように見えていたが、日が高くなるにつれてどんどん明るくなってくる。おそらく雲の厚みは同じなのだろうが、日差しが強くなるためそうなるのだろう。ちょうど雨季に移行しようという時期であるため、薄曇りの天気となるようだ。それでも日中の最も暑い時間帯には40℃を少し超えるくらいとなる。

    町の北東にあるコー・タウン・パヤーを手始めに、行ける範囲にあるお寺をいくつか訪れてから、船着場のほうまで足を延ばしてみる。自転車で自由にのんびりと行き来できるのはよい。バガンでもそうであった。もっともあちらはここの暑さの比ではなかったが。

    行き交う人々で賑わうマーケット
    旬な果物ライチー
    料理に使われるフィッシュペースト。日本で言えば味噌のようなもの。
    様々な干し魚類
    ゼンマイの類
    自炊したくなってくる。
    ビンロウジュの実。インドほどではないがこの国にもこれを愛好する人たちは多い。
    強い日差しのもと、こうした帽子は必需品

    昨日は訪れた時間帯が遅すぎてほぼ誰もいなくなっていた市場だが、昼間の早い時間帯に行くとにぎわっていた。今が旬のライチー購入。食べてみるとあまり甘くなくて酸っぱい。だが海や川の産物が豊富で、干し魚には様々な種類がある。また黒くて味噌のようなものがあったが、これは魚の発酵させたもののペースト。料理に使うダシというか、まさに味噌のようなものでもある。

    本日の午後、暑い中を自転車で町中を走っていると、マーケットから少し進んだ静かな住宅地で民家の前の道路にテントを張りだして、数人の人たちが席に座っているのを見た。何か結婚式でもあるのか、それにしてはテントが小さいと思いきや、お通夜であった。小さなベッドの上に洋式のズボンとシャツを着た壮年男性の遺体があり、口には黒いマスクがかけられている。ベッドには蚊帳が張ってあり、小さな電飾が光っている。この気候の中でどのくらいの間そうしていられるのかわからないが。

    気温が高いため、夕方になるとさすがにヘトヘトになってくる。宿近くの食堂では生ビールを出していたので二杯ほど引っかけるとちょうどいい具合になってきた。

    〈完〉

  • ミャウー 1

    ミャウー 1

    ミャンマーのMPTのレンタルSIMを入れたスマホは、ヤンゴンを出てからまったくネット接続が出来ておらず通話専用となっていたのだが、朝早く起きて操作してみると、かなり不安定ながらも3Gで繋がることが判った。おそらくユーザー数に対する回線の容量が常時不足する状態にあり、利用者が少ない時間帯のみ通じるという具合になるのだろう。

    ミャウー行きの船からの眺め
    船内はこんな具合

     

    これからスィットウェからミャウー(Mrauk-U)に行く船に乗る。政府系の公社を含めて複数の船会社が運航しており、どれも毎日出ているわけではない。それぞれ往路・復路(往路の翌日が復路)の曜日が決まっているのだが、概ね毎日どこかしらの会社が船を出しているようだ。

    午前6時前に船着き場に到着、カラーダーン河に繋がる運河に係留してある船に乗船したあたりで朝日が昇ってきた。もっと小さな船を想像していたが、荷物とともに大量の貨物も運搬することができる大きな船である。

    出発!
    カラーダーン河に繋がる水路を進む
    ようやく河に出る。

     

    午前7時の定刻に船は出発。少し進んだ先でカラーダーン河に出る。ちょうどここは河口部に位置しているため、河というよりも海の眺めといったほうがいい。停泊しているいくつかの大型船の姿があり、中小の船影が目の前を行き来している。

    向こうの船は巡視艇のようである。
    竹を組んだ筏
    魚を獲るための仕掛け?

     

    筏に編まれた大量の竹材が河下に向かう様子、魚を採るための仕掛け、岸部で孝之式住居が並ぶ村落やお寺の眺めなどを楽しみながら船上のゆったりとした時間を楽しむことができる。水量豊富な平地を流れる河だけに、海原のような景色を眺めているのも束の間、遡上していくにつれて、次から次へと他の河川との合流点があり、これらを通過するたびに河幅は見る見るうちに細くなっていく。水面と陸地の高さにほとんど差がないため、雨季の眺めは今とはずいぶん違うことだろう。

    水面と大地に高低差がほとんどない。

     

    昼寝中の乗客

    モンスーン期には河幅はもっと広くなっているであろうし、もともとあった土地が削られたり、他の土地が新しく形成されたりという具合に、岸部の形状も継続して変化していくはずだ。河の流れも少しずつコースを変えていることと思う。そして氾濫しては流れを変えているのだろう。ときにサイクロンが来たりすると、流域は劇的に変化するはず。

    集落
    大きな建物も見える。
    途中の村から乗船する人々
    川面の風景

    しばらくうとうとして目を覚ますと、もはや同じサイズの船が行き違いできるような幅ではなくなっている。このあたりまで来ると、同じ大きさの船が擦れ違うことはできない。蛇行しながら流れる川筋の先はブラインドコーナーになっていて、船は汽笛をけたたましく鳴らしながら航行を続けていく。向こうから船が来たら衝突してしまうからだ。

    観光客が増えるにつれて船は増便していくのだろうが、すぐに限界が来ることは目に見えている。やがては陸路でのバスも外国人に許可する日が来るのではなかろうか。スィットウェとミャウーの間はバスも走っているものの、外国人は乗車することが許されていない。しかしながら、こういう場所に来て、水際の様子を水面から眺めることなしでいるのはもったいないので、陸路での移動が可能となっても、やはりここは船旅を選びたいものだ。

    船内の売店で買った袋菓子はバーングラーデーシュ製

    ミャウーの近くまで来ると川幅はとても狭くなる。

    すっかり川幅は狭くなり、こんな大きな船が航行して座礁しないのか?と思うほどになってきたあたりで集落が見えてきた。そこがミャウーの船着場であった。ちょうど正午であったので、スィットウェから5時間ほどの船旅であった。

    ミャウーの船着場

    〈続く〉

  • スィットウェへ3

    スィットウェへ3

    この町で少々気になったことがある。ヤカイン州といえばロヒンギャー問題で海外にもよく知られているところだ。ロヒンギャーとは、ベンガル系のチッタゴン方言に近い言葉を母語とするムスリム集団のことだが、すでにこの国に数世代に渡って生活しているにもかかわらず、「ベンガル人の不法移民」「外国人」とされており、この国で市民権を与えられていない宙に浮いた存在である。

    近年は、ムスリムに対する暴動が発生して、モスクやムスリムの家屋に対する破壊行為が起きたこと、多数の死傷者が出るとともに、避難民を数多く発生させたこともメディアで伝えられていたのを目にした人も多いだろう。

    ミャンマーの中ではとりわけイギリスによる植民地史の中で早い時期からインド系の移民の波にさらされた土地であること、港町として南アジアとの往来も盛んであったことから、インド系の人々の姿が非常に多いであろうことを予想していたのだが、意外にも港湾エリアを中心とする繁華街ではインド系の人々、ムスリムの人々の姿が非常に少ない。

    繁華街の目抜き通り(Main Rd.)には、ジャマーマスジッドという名で、立派なムガル風建築のモスクがあり、おそらくこのあたりには相当数のムスリムが住んでいたのではないかと思われるが、周囲のマーケットはそのような雰囲気ではない。モスクそのものも現在は使われていないようで、入口につながる小道にはバリケードがあり、武装した治安要員が警備に当たっており、足を踏み入れるまでもなく、その前に立ち止まるだけで追い払われてしまう。

    ヤンゴンから飛行機で到着した際の空港から市内への道筋にも、小ぶりながらも由緒ありそうな凝った建築のモスクがいくつかあったのだが、どれもそうした制服の男たちが入口を塞いでいた。


    市内中心部でも繁華街の目抜き通り(Main Rd.)から西に進んだエリアに行くと、ところどころでインド系の人々を目にした。そんな中に、いくつかのヒンドゥー寺院があった。おそらく最も大きなものが、マハーデーヴ・バーリーという、名前からしていかにもといったシヴァ寺院だ。

    入口の鉄扉を開けて中に入ると、若い男性が「何か用か?」といった不審そうな面持ちで出てきたが、インド系の人々のお寺に関心があること、ぜひ神殿で拝ませて頂きたいという来意を伝えると、快く迎えてくれた。


    お堂の中は簡素で、祭壇にはシヴァの絵と小さなリンガムが祀られているというシンプルなもの。だがその反対側の壁にはシヴァの連れ合いであるドゥルガーの立派な神像があり、本尊は実は後者なのではないかと思われるくらいにアンバランスである。ドゥルガーやカーリーへの信仰の厚いベンガル系の信者から寄進されたものではないかと思う。


    ミトゥン・チャクラボルティーという、ヒンディー語映画のベテラン俳優みたいな名前のこの男性はこのお寺のプージャーリー。快活な感じのする男性で、ヒンディー語もなかなか上手い。名前の示すとおりのベンガル系で、20代後半で昨年結婚したばかりだが、来月初めての子供が生まれる予定であるとのことで、境内には身重の奥さんもいたが、彼女はヒンディーを話すことはできないようであった。

    現在、母親とお嫁さんとの3人暮らしであるそうだ。父親は20年ほど前にカルカッタに行ったきり、消息を絶っているとのこと。「父が先代のプージャーリーで、私がこうして継ぐまでしばらく空いているんです。私が幼いときに仕事を求めてカルカッタに行ったのですが、それっきりどうしているのかも判りません。もちろん私たちはベンガル人ですが、父はカルカッタに何かツテがあったのかどうかは判りません。そんな具合であったので、母は大変苦労したようです。」

    特に身の上話を尋ねたわけではないのだが、いろいろと聞かせてくれるのはインド系の人らしいところかもしれない。しばらく世間話をした後、「少々お待ちいただけますか。」と言い残してどこかに姿を消した彼は、サフラン色のローブを纏って現れて、私のためにプージャーをしてくれた。

    彼の家族は曽祖父の代にベンガルから移民してきたというが、今でもベンガル語とヒンディー語は使えるということから、この地のインド系のコミュニティの絆はもちろんのこと、人口規模も決して小さなものではないことが窺える。


    そこからごく近いところに、ダシャー・プージャー・バーリーというヒンドゥー寺院もあり、ここもまたプージャーリーの男性に挨拶すると、非常に愛想よく迎え入れてくれた。こちらはカーリーとドゥルガーを祀った寺であり、プージャーリーはさきほどのマハーデーヴ・バーリーのプージャーリーと同じ苗字を持つベンガル系のブラフマンの50代男性だが、親戚ではないそうだが、年代が上であるだけに、さきほどの男性よりもヒンディーが流暢で、彼らのコミュニティに関する知識も豊かなようである。

    彼によると、この町に暮らすヒンドゥーの人々はおよそ3,000人程度。インド系という括りで言えば、ムスリムがマジョリティで彼らは少数派だそうだ。かつてはもっと多くのヒンドゥー(およびインド系ムスリム)が暮らしていたそうだが、1962年のネ・ウィン将軍によるクーデター以降、多くは国外に移住したとのことだ。

    近年においては、この地における反ムスリムの動きが、彼らヒンドゥーの立場をも悪くしているという。「このあたりでは、インド系といえばムスリムのほうが多いでしょう。ロヒンギャーの問題もあるし、私らヒンドゥーも同じように見られてしまう部分がある。とりわけムスリムに対する攻撃が始まってからは、私らも必要なとき以外はなるべく外に出ないようにしています。この地域に暮らすということはリスクと不便があまりに多い。」とのこと。あれほどインド本国では圧倒的な重みを持つインド文化も、この地にあってはその輝きほとんどなく、まるで隠れキリシタンのような趣さえある。

    「私の祖父がインドからやってきました。ここのヒンドゥーの間ではベンガル人が多いですが、U.P.やビハールからの移民もいれば、マールワーリーもいるし、グジャラーティーもいます。でも私らの間では正直なところ、先祖がやってきた地域の区別はあまりないんです。結局、同じヒンドゥーでしょう?」

    この界隈には、他にゴーランガー・マハー・プージャー・バーリー、ハリ・マンディル、ラーダー・クリシュナー・マンディルといったヒンドゥー寺院がある。

    翌日にはこの地域のインド系の人の結婚式があるので、ぜひ出席しないかと誘われた。ぜひともよろしくお願いしますと言いたいところであったが、タイトなスケジュールでのミャンマー訪問で、その日にはすでに移動する予定であったので、後ろ髪を引かれる思いながらも辞退せざるを得なかった。寺院を出て、しばらく進んだ先では着飾ったヒンドゥー女性たちが乗合自動車から降りてどこかに向かうところであったので、この婚礼と関連するものが行われていたのではないかと思う。

    寺の外でも、インド系の人々は総じてフレンドリーな印象を受けたが、この「インド系タウンシップ」を徘徊するのはなかなか面倒なことでもあった。というのは、辻のそこここに警察のバリケードがあり、POLICEと大書きした車両が行き交う中で、そうした地域に足を向けようとすると、往々にして「こちらに立ち入るな」と追い返されたり、職務質問を受けたりするからだ。

    中には非常にガードが堅い路地もあり、一体その先には何があるのかと興味をそそられるものの、路地の反対側から進入することを目指しても、迂回路を探してみても入ることができなかったりする。

    ときに多少の英語ができる警官もおり、「ロヒンギャーたちがいる地域であるから危険なので入らないこと。」とのこと。ロヒンギャーの人々が危険であるのかどうかはともかく、このように常に監視の対象になっているということ、それが州都であることを思えば、その他の地域では一体どんな扱いをされているのかと思う。

    こうした中で、ヒンドゥーたちが監視の対象になっているのか、保護の対象になっているのかわからないが、やはりインド系の人々全体がロヒンギャーと同義に扱われているかのような印象を受けるとともに、こうしたインド系が住むエリアそのものが警備の対象となっているようにも感じられた。

    英領期に、ここに移住してきたインド系の人々の多くは、当時のヒンドゥスターンの新天地として入植してきたはずだが、結局こうしたやってきた大地はいつの間にかヒンドゥスターンの一部ではなくなり、彼らの父祖の故地もひとつのインドからインドとバングラデシュに分かれてしまい、コミュニティとしては大きなものであったインド系の人々自体がいつの間にかマイノリティとなり、しかも監視の対象にさえなってしまったことになる。

    かつてイギリス領であったこと、隣接しているインド亜大陸からの移民が多いことから、しばしばインドの北東部にいるかのような気にさせられることもあるミャンマーの中でも、地理的に最もインド世界に近い場所にある地域だ。

    インドの北東部でモンゴロイド系の住民がマジョリティを占めるエリアを訪れると、「インドの中にあってインドでない」といった印象を受けるが、それでもインド共和国という政治システムの中の一地方であるがゆえに、インドという存在は至高のものであるとともに、圧倒的な存在感をもってその地に君臨している印象を受けるものだ。しかし、その法的・軍事的な強制力が及ぶ圏外であるここでは、インドという国が非常に遠く感じられるとともに、インド系の住民なり文化なりが非常に無力なものに感じられる。

    もしインドの北東部が本土から分離するようなことがあったりすると、まさにこのような感じになるのではないかと思ったりもする。


    〈完〉

     

  • スィットウェへ2

    スィットウェへ2

    ミャンマー・ブームでヤンゴンの宿泊費が高騰しているのはよく知られているところだが、地方の観光地もまた同様の傾向がある。国際的にも有名なバガンやマンダレーはそれでも元々の客室数のキャパがあるので急騰するというほどのことはないのかもしれないが、よりマイナーで訪れるお客が少なかったところでは、存在する宿の数が限られているため、ヤンゴンのようなビジネスや投資関係での需要はほとんどなくても、観光客がこれまでよりも少し多く訪れるようになるだけで、ずいぶん影響が出るようだ。

    スィットウェで、エアコンが付いているちょっと小奇麗なシングルルームが40ドル前後もするというのは明らかにおかしい。経営者たちの間でそういう密約があるのかどうかは知らないが、宿の数自体が数えるほどしかないため、そのようなことが可能となってしまう。これについては外国人料金が設定されているため、地元の人たちが同額を支払っているわけではないようだ。

    たいていの宿では外国人料金がいくらで、地元料金がいくらであるかは教えてくれなかったりするのだが、ごく新しく出来た比較的安めの一軒ではその料金が前者はドル建て、後者についてはチャット建てで表記されていた。チラリと見ただけだが倍以上の開きがあるようだ。

    今後、ミャンマーの経済成長が進み、観光のインフラも整備されていくにつれて、国内の旅客の潜在的な需要も大きい。今後、宿泊費に関する内外格差が解消するのかどうかはよくわからないが、宿泊施設が増えていくことにより、相対的に料金が手頃になっていくことを期待したいものだ。


    結局、この町ではストランド・ロードにあるストランド・ホテルという名前のホテルに宿泊することにした。まるでヤンゴンにある東南アジアを代表する名門のひとつであったホテルのようなロケーションと名前だが、これとはまったく無関係の新築ホテルである。シングルルームで60ドルと、この田舎町にしてはずいぶん強気な設定だが、開業してからまだひと月とのことで、ロンリープラネットのようなガイドブックにもまだ取り上げられていないのだが、すっかりくたびれた感じの宿に40ドル、50ドル支払うよりも気持ちがいいので投宿することにした。やはり宿は新しいに限る。非常に清潔で、コテージタイプというのもいい。室内もスタイリッシュだし、スタッフもフレッシュな雰囲気でキビキビと働いている。

    水際に政府関係の大きな建物や市場などが並び、水運時代の植民地期に開かれた当時のたたずまいを残しているようだ。ここを軸にして背後に繁華街、そしてさらに裏手には住宅地が広がる。マウラミャインも似たような造りの町である。


    この時期、市場で外見はビワのような小型のマンゴーが売られている。上の画像の左側の小さなものがそのタイプである。姿形に似つかわしくなく、味はそのままマンゴーなのだが、水分が多くて酸味も強いジューシーな味わい。果実の量に比して種子の部分が大きいため、あまり食べられる部分は多くはないのだが。ひとくちにマンゴーといっても、実にいろんな種類があるものだ。


    河沿いのマーケットには米のマーケットもある。実にいろいろな種類のコメがあるもので、インディカ系のコメにもいろいろ粒が小さかったり、大きかったり、赤みを帯びていたり、もち米であったりといろいろある。もち米はやはりシャンのものであるという。輸入米もインドからの長粒種、タイ産のものもある。世界的な米の大産地であるこの国でも、外国から輸入もしているとは知らなかった。個々の嗜好によりいろいろな米を食べているのだろう。

    それはさておき、日中の気温は40℃くらいまで上がるので、夕方のビールが実に旨い!

    〈続く〉

  • バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    ヤンゴンを訪れる際には必ず訪問することにしており、このindo.toでも取り上げたことがあるムガル最後の皇帝のダルガー。

    最後のムガル皇帝、ここに眠る(indo.to)

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー(indo.to)

    シュエダゴォン・パヤーの近くあるのだが、徒歩ですぐというわけではなく、やや離れているため、タクシーの運転手にこの場所の名前を伝えても、あるいは写真を見せたとしても、なかなか判ってもらえないことが多いこので、ここに出向くためにはダウンタウンあたりで年配のインド系ムスリム男性にこの場所について簡単な説明をビルマ語で書いてもらうのが良いようだ。

    昨今の「ミャンマー・ブーム」により、ダルガーも資金の回りが良くなってきたのか知らないが、今回訪れてみると上階の三つの墓(バハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石。これらはオリジナルではなく、3人を追悼する意図で再建されたもの)が並ぶ場所はきれいに改装されていたし、地下のザファルの本物の墓石がある場所にはガラスの扉が付けられていた。

    今後、観光やビジネス等でヤンゴンを訪れる人々がますます増えるにつれて、ムガル最後の皇帝が埋葬されている地であるということに加えて、ダウンタウンやシュエダゴォン・パヤーに近いという至便なロケーションからも、ここが本格的な観光スポットとして注目されるようになることは間違いないように思われる。今は周囲に何もなく、ダルガーの敷地内に簡素な茶屋が入っているだけなのだが、そうした様子も数年のうちにすいぶん変わることとなるかもしれない。

  • ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンを訪れるたびに、ダウンタウン地区では大きくまとまった土地が更地になっていたり、そうしたところで忙しい工事が進行中であったりする。もちろんダウンタウンに限ったことではないのだが、やはり商業活動が盛んな地域であるがゆえに、そうした再開発の波をまともに受けることになるし、この地域に多く存在してきた植民地期の伝統ある建物がその数を減らしていくのはなんとも惜しい気がする。

    思えば、タイを除いて欧州列強の植民地であった過去を持つ東南アジア諸国において、独立、近代化と経済成長は、そうした過去の残滓と決別する過程という側面もあった。しかしながら、彼らにとって外来の支配者であった帝国主義勢力による統治の時代も、やはりそれぞれの国々の歴史の一部であることは否定できるものではなく、そうした歴史的な価値、文化的な価値が大きなものであるという認識とともに、それらに対する保護に取り掛かるのが手遅れになる前に手立てをしようと動き出すのは当然の帰結であった。ゆえに、時代が下るとともに、そうした建物や街並みの保護や修復等がなされるようになったのである。もちろん観光資源としての価値が認識されたという背景もある。

    そうした国々に大きく遅れて、植民地時代の遺産が危機を迎えることになったミャンマーだが、それでもヤンゴンには今でも英領自体の貴重な建物が沢山残されており、その規模たるや「東南アジア最大」とも形容されるのは、ヤンゴン、当時のラングーンが、少なくとも東南アジア地域における植民地時代末期における経済・文化の最先進地といえる立場にあったからに他ならない。

    現在もヤンゴン市内に残る数々のコロニアル建築については、以下に挙げるいくつかのサイトをご参照願いたい。

    Colonial Buildings of Yangon (myanmars.net)

    The Yangon Heritage Walking Tour : See old Rangoon, before too much is lost (Myanmar Insider)

    The way the old capital crumbles (The Economist)

    さて、そうしたコロニアルな建物が取り壊されて、オフィスビル、その他の商業ビル、コンドミニアム等に建て変わっている現状は、とりわけ「ミャンマー・ブーム」到来以降、地価がうなぎ上りとなっているヤンゴンにおいて、土地の有効活用をしない手はないわけであるので、今度その勢いが加速することはあっても、スローダウンすることはなさそうだ。

    そもそもコロニアルな建物を長年愛おしく思って大切に保護してきたわけではなく、それ以前からあるから利用してきたがゆえのことであり、建て替えるお金もなかったから今まで使われてきただけのことでもある。

    しかしながら、こうした建物の保全を訴える声もそれなりにあるわけで、30 Heritage Buildings of Yangon (Association of Myanmar Architects)のような、ヤンゴン市内のヘリテージな建物を取り上げた書籍はいくつも出ているし、WHERE CHINA MEETS INDIA (邦題:ビルマハイウェイ)の著者であるビルマ系アメリカ人の歴史家、タン・ミン・ウーが設立して会長を務めるYANGON HERITAGE TRUSTのように、歴史的建造物の保護を訴える他団体とも協力して、すでにいくつものプロジェクトを進めている組織もある。

    こうした活動について、AL JAZEERAが興味深い記事と動画を提供している。

    Restoring Rangoon (AL JAZEERA)

    私自身も、手遅れになる前にこうした歴史的な景観の保存に対する動きと社会の認識が本格化することを願いたいが、上記のリンク先のAL JAZEERAの動画でタン・ミン・ウーが述べているように、ミャンマー政府にはこれからやらなくてはならないことが山ほどあり、こうした歴史遺産に対する手間をかける余裕がない。また彼ら民間による保護活動にも資金的に大きな壁があることなどから、なかなか難しいようだ。

    そうした中でも、建物そのものの存続を可能とするためのホテルとしての転用であったり、その他の商業的な活用であったりというアイデアもいろいろ出てきているようだ。たとえ出資者の目的が純粋に伝統的なもの、歴史的な遺産の保護ではないにしても、その建物自体が後世に残ること、存在そのものが持続的に維持できるものであるとするならば、大いに歓迎すべきことであろう。

  • 1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    英領期の建物もどんどん姿を消しつつあるヤンゴンだが、上の写真の建築物の左隣とそのまた隣はずいぶん前に取り壊されて、モダンな高層ビルが建つようになっている。この建物もすっかり空き家になっているようで、窓が壊れていたり、荒れ放題なので、もうじきこの世から姿を消すのだろう。

    かつて、この建物には外国人が宿泊できるゲストハウスが入っていた。そして建物右手の地上階には国営の旅行会社のオフィスが入居していた。初めてミャンマー(当時はビルマと呼ばれていた)を訪問した際、そこに宿泊したことがある。当時は強制両替というのがあり、ひどく割の悪いレートで一定金額の外貨をビルマのチャットに交換させられたものだ。その対策(?)として、バンコクの空港免税店で、ジョニ赤と555の1カートンを購入して、ヤンゴンの繁華街で売ると、それらの品物の購入金額相当の米ドルを闇で両替するよりも割のいいレートでチャットが手に入る、という手段もあった。

    まずこのゲストハウスに宿泊し、その近隣でウィスキーとタバコを売り、それから閉店前までに国営旅行会社(外国人を相手にするのはここだけだった)で列車チケットを予約してマンダレーとバガンを駆け足で回るのが、当時のお決まりのコースだった。なにしろヴィザの滞在期間がわずか一週間しかなかったし、当時はまだ内戦も各地で行われていたため、確実に訪れることができるところはごく限られていたのだ。そんなことを思い出しながら、この建物の前でたたずんでいると、ヤンゴン、はるか昔、当時のラングーン到着の最初の日のことをふと思い出した。

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    そう、あれは1988年のことだった。 午後のフライトでバンコクから到着。ウイスキーとタバコを免税で買って入国。聞いたとおり強制両替があって、市内のこの宿に着いてから、階下にウロウロしていた商売人に売却。国営旅行社に行って、マンダレー行きのチケットを購入しようとしていると、順番待っているうちに営業時間終わりとなって閉店。困った。翌日は週末で旅行社は休みだ。駅で当日券あるかな?と仕方なく、隣の食堂で麺をかきこんで、旅行社が面しているパゴダを見物。地元の同年代の当時の若者たちとしばらく世間話していると時間が遅くなった。

    宿に戻り、私が宿泊するドミトリー(沢山のベッドが置かれた大部屋)に足を踏み入れて、このときはじめて気が付いたのだが、20近くもぎっしり詰め込んだベッドのうち、他の宿泊客はみんな西洋人の若い女性ばかり。しかも暑い国で室温は40℃近いはず。クーラーもないので、当然のごとく小さなパンティー以外何も身に着けていない。ヌードグラビアから出てきたかのような女性たちの美しい姿にドギマギした。

     

    目のやり場に困り、とりあえずシャワーでも浴びようと共同の浴室に向かうと、ドアがバァンと開いて、私の胸元にぶつかりそうになったのは、浴びた水がまだ髪の毛からしたたる全裸の女性。思わず鼻血がほとばしるかと思った。思わず目を下に逸らすと、彼女のつつみ隠さぬ股間が目に入り、頭に血が上って、こめかみあたりでドクドクと鼓動を感じてしまう。

    どうしてこういうことになっているのか頭の中が整理できない私は、とりあえずシャワーをザーザーと浴びて頭を冷やすことにした。「大部屋・私以外みんな女性でグラマー・しかもほぼ裸」という空間に入っていくのかと思うと、非常に得をしたような気分ではあったものの、その反面大変に気が重いことでもあった。

    バンコクからの飛行機は同じながらも、隣室のドミトリーをあてがわれていた日本人男性は、私のドミトリーの入り口で「すげぇ、アマゾネスの部屋やんか!?」なんて小声で呟いて私の顔を見てニタニタ笑っている。

    彼と外にタバコを吸いに出てから部屋に戻り、隣のベッドの女性と少し話をするものの、豊かな胸元から視線を外すと、今度は素敵な腰の曲線部が気になって仕方なくなるし、そこから目を逸らすと、今度はその背後ではこれまたグラマーな女性が衣服を脱いで、見事なまでに豊かなバストがどさっとこぼれ落ちるところであった。もはやどうしようもないので、早々に寝ることにした。幸いなことに、翌日早く出発する人たちが多いようで、まもなくドミトリーは消灯。

    だが困るのは、ほとんど間隔もなくぎっしりと並べられたベッドに横たわるほぼ裸体の女性たちの魅力的な肢体が月明かりに煌々と照らし出されていて、実によく見えてしまうのだ。脱水症状になりそうな蒸し暑さの中、手を伸ばせばすぐに届く距離に、たわわなバストが、尻が、脚が・・・。右にも、左にも、頭上にも、足元にも・・・。まるでこれは拷問のようだ。

    夜になっても生温かく澱んだ暑い空気の中で、天井で回るファンだけがカタカタと音を立てている。頭の中を様々な煩悩が行き来して、それらをなんとか振り払おうと試みるものの、新たな煩悩がその行く手を遮る。少しウトウトするも、その淫靡な妄想がそのまま形になった夢になって現れては、目が覚めてしまう。

    そんなこんなで、大変困った状態でまんじりともせずにいると、いつしか東の空が少し明るくなってくる。心なしか風も少し涼しくなってきたかのような気がする。

    ところどころで、誰かのバックパックの中から「プププ」「ジリジリジリ」という目覚まし時計のアラーム音が聞こえてくる。早朝の列車だかバスだかで出発するのだろう。

    そのあたりで、煩悩やら妄想やらに振り回されてクタクタに疲れている自分に気が付き、どど~んと眠りの深みに落ちていった。

    ハッと気が付くと、すでに朝10時過ぎ。宿の使用人が「おーい、チェックアウトの時間で過ぎてますぞ!」と私を起こす。もはや早朝に駅で当日券買ってマンダレー行きなんていうタイミングではなくなっていた。 周りのベッドには女性たちの姿も彼女らの荷物もなく、すべてもぬけの殻となっていた。滞在可能な日数がとても短かった当時、時間を無駄にする者はいない。

    昨夜ずっと悩まされた光景は、夢か幻かと反芻しつつ、すでに気温が急上昇している街中へと繰り出した。

    ※画像はイメージであり、文中の女性たちとは何ら関係ありません。

  • 無神論者センター

    「信仰の大地」という表現がよくなされるインド。確かに社会生活や政治における宗教の果たす役割が大きいことは間違いない。いろんな宗教が混在し、それぞれ大小様々な教団や施設を運営していたりするし、日常的に人々の宗教生活を目にすることも多いだろう。

    だが同時に無信仰の人たちも決して少なくなく、とりわけ迷信やそれを煽るような活動に対して眼を光らせる無神論者センターのような組織もある。

    この組織はいわゆる迷信の類に限らず、聖者による「奇跡」の背後にあるトリックに対する検証を行っていることでも知られており、彼らの活動は各種メディアでも取り上げられていたりする。個人的には、そうした奇跡そのものは教えの本質ではないため、そう目くじら立てることもないのではないかとは思うのだが。

    無神論者ではなくとも、寺院や祭礼といったものに対して冷淡な人たちも少なくない。「神と人間は直接に交流すべきものであり、意味のない形式ばかり尊重する仲介者は不要」というスタンスであることから、私たち日本人の平均的な感覚とも近いと言えるかもしれない。もちろんこうした人たちはインドの主流派ではないのだが、インドの「信仰生活」の中における一側面ではある。

  • redbus.in

    redbus.in

    すでにcleartrip.comなどの旅行予約サイトで、インドのバスの予約も可能になっているが、飛行機や列車と較べると、長距離バスは民間会社が乱立しているので、どこの路線のバスがどれくらいの頻度で、どの発着時刻で運行しているかは現地に行かないとわからず、とりあえず出発地に着くまでは、前もって予約しておくことも容易ではなかった。もっとも人の行き来が盛んな場所では運行している会社も本数も多いので、そう困ることはないのだが。

    すでにご存知の方も多いかと思うが、インド国内のバス予約を専門に取り扱うredbus.inというサイトがある。地域間の移動はもとより、大都市の一日観光ツアーなどの予約も出来るようである。

    だがやはりこれで予約できるのはメジャーな路線ということになり、事前にスケジュールを知りたかったり、本数が少ないので予約しておきたかったりするようなルートは、これまでどおりその場所に着いてみないと判らない、というのが結論となるが、田舎のインフラ事情を考えるまでもなく、こればかりは仕方ない。

    だがこのサイトで取り扱う路線を利用する限りでは、発着時刻や所要時間等を調べて旅程を立てたり、前もって予約しておいたりということが出来るため、「とても助かる」ということも多々あるのではないだろうか。

    運転マナーや安全対策という部分に比べて、こうしたチケット手配のフィールドはやけに進んでいる感じがするインド。民間の豊かな創意工夫と旺盛な活力を象徴しているかのようで頼もしい思いもする。