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カテゴリー: society

  • バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    ヤンゴンを訪れる際には必ず訪問することにしており、このindo.toでも取り上げたことがあるムガル最後の皇帝のダルガー。

    最後のムガル皇帝、ここに眠る(indo.to)

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー(indo.to)

    シュエダゴォン・パヤーの近くあるのだが、徒歩ですぐというわけではなく、やや離れているため、タクシーの運転手にこの場所の名前を伝えても、あるいは写真を見せたとしても、なかなか判ってもらえないことが多いこので、ここに出向くためにはダウンタウンあたりで年配のインド系ムスリム男性にこの場所について簡単な説明をビルマ語で書いてもらうのが良いようだ。

    昨今の「ミャンマー・ブーム」により、ダルガーも資金の回りが良くなってきたのか知らないが、今回訪れてみると上階の三つの墓(バハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石。これらはオリジナルではなく、3人を追悼する意図で再建されたもの)が並ぶ場所はきれいに改装されていたし、地下のザファルの本物の墓石がある場所にはガラスの扉が付けられていた。

    今後、観光やビジネス等でヤンゴンを訪れる人々がますます増えるにつれて、ムガル最後の皇帝が埋葬されている地であるということに加えて、ダウンタウンやシュエダゴォン・パヤーに近いという至便なロケーションからも、ここが本格的な観光スポットとして注目されるようになることは間違いないように思われる。今は周囲に何もなく、ダルガーの敷地内に簡素な茶屋が入っているだけなのだが、そうした様子も数年のうちにすいぶん変わることとなるかもしれない。

  • ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンを訪れるたびに、ダウンタウン地区では大きくまとまった土地が更地になっていたり、そうしたところで忙しい工事が進行中であったりする。もちろんダウンタウンに限ったことではないのだが、やはり商業活動が盛んな地域であるがゆえに、そうした再開発の波をまともに受けることになるし、この地域に多く存在してきた植民地期の伝統ある建物がその数を減らしていくのはなんとも惜しい気がする。

    思えば、タイを除いて欧州列強の植民地であった過去を持つ東南アジア諸国において、独立、近代化と経済成長は、そうした過去の残滓と決別する過程という側面もあった。しかしながら、彼らにとって外来の支配者であった帝国主義勢力による統治の時代も、やはりそれぞれの国々の歴史の一部であることは否定できるものではなく、そうした歴史的な価値、文化的な価値が大きなものであるという認識とともに、それらに対する保護に取り掛かるのが手遅れになる前に手立てをしようと動き出すのは当然の帰結であった。ゆえに、時代が下るとともに、そうした建物や街並みの保護や修復等がなされるようになったのである。もちろん観光資源としての価値が認識されたという背景もある。

    そうした国々に大きく遅れて、植民地時代の遺産が危機を迎えることになったミャンマーだが、それでもヤンゴンには今でも英領自体の貴重な建物が沢山残されており、その規模たるや「東南アジア最大」とも形容されるのは、ヤンゴン、当時のラングーンが、少なくとも東南アジア地域における植民地時代末期における経済・文化の最先進地といえる立場にあったからに他ならない。

    現在もヤンゴン市内に残る数々のコロニアル建築については、以下に挙げるいくつかのサイトをご参照願いたい。

    Colonial Buildings of Yangon (myanmars.net)

    The Yangon Heritage Walking Tour : See old Rangoon, before too much is lost (Myanmar Insider)

    The way the old capital crumbles (The Economist)

    さて、そうしたコロニアルな建物が取り壊されて、オフィスビル、その他の商業ビル、コンドミニアム等に建て変わっている現状は、とりわけ「ミャンマー・ブーム」到来以降、地価がうなぎ上りとなっているヤンゴンにおいて、土地の有効活用をしない手はないわけであるので、今度その勢いが加速することはあっても、スローダウンすることはなさそうだ。

    そもそもコロニアルな建物を長年愛おしく思って大切に保護してきたわけではなく、それ以前からあるから利用してきたがゆえのことであり、建て替えるお金もなかったから今まで使われてきただけのことでもある。

    しかしながら、こうした建物の保全を訴える声もそれなりにあるわけで、30 Heritage Buildings of Yangon (Association of Myanmar Architects)のような、ヤンゴン市内のヘリテージな建物を取り上げた書籍はいくつも出ているし、WHERE CHINA MEETS INDIA (邦題:ビルマハイウェイ)の著者であるビルマ系アメリカ人の歴史家、タン・ミン・ウーが設立して会長を務めるYANGON HERITAGE TRUSTのように、歴史的建造物の保護を訴える他団体とも協力して、すでにいくつものプロジェクトを進めている組織もある。

    こうした活動について、AL JAZEERAが興味深い記事と動画を提供している。

    Restoring Rangoon (AL JAZEERA)

    私自身も、手遅れになる前にこうした歴史的な景観の保存に対する動きと社会の認識が本格化することを願いたいが、上記のリンク先のAL JAZEERAの動画でタン・ミン・ウーが述べているように、ミャンマー政府にはこれからやらなくてはならないことが山ほどあり、こうした歴史遺産に対する手間をかける余裕がない。また彼ら民間による保護活動にも資金的に大きな壁があることなどから、なかなか難しいようだ。

    そうした中でも、建物そのものの存続を可能とするためのホテルとしての転用であったり、その他の商業的な活用であったりというアイデアもいろいろ出てきているようだ。たとえ出資者の目的が純粋に伝統的なもの、歴史的な遺産の保護ではないにしても、その建物自体が後世に残ること、存在そのものが持続的に維持できるものであるとするならば、大いに歓迎すべきことであろう。

  • 1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    英領期の建物もどんどん姿を消しつつあるヤンゴンだが、上の写真の建築物の左隣とそのまた隣はずいぶん前に取り壊されて、モダンな高層ビルが建つようになっている。この建物もすっかり空き家になっているようで、窓が壊れていたり、荒れ放題なので、もうじきこの世から姿を消すのだろう。

    かつて、この建物には外国人が宿泊できるゲストハウスが入っていた。そして建物右手の地上階には国営の旅行会社のオフィスが入居していた。初めてミャンマー(当時はビルマと呼ばれていた)を訪問した際、そこに宿泊したことがある。当時は強制両替というのがあり、ひどく割の悪いレートで一定金額の外貨をビルマのチャットに交換させられたものだ。その対策(?)として、バンコクの空港免税店で、ジョニ赤と555の1カートンを購入して、ヤンゴンの繁華街で売ると、それらの品物の購入金額相当の米ドルを闇で両替するよりも割のいいレートでチャットが手に入る、という手段もあった。

    まずこのゲストハウスに宿泊し、その近隣でウィスキーとタバコを売り、それから閉店前までに国営旅行会社(外国人を相手にするのはここだけだった)で列車チケットを予約してマンダレーとバガンを駆け足で回るのが、当時のお決まりのコースだった。なにしろヴィザの滞在期間がわずか一週間しかなかったし、当時はまだ内戦も各地で行われていたため、確実に訪れることができるところはごく限られていたのだ。そんなことを思い出しながら、この建物の前でたたずんでいると、ヤンゴン、はるか昔、当時のラングーン到着の最初の日のことをふと思い出した。

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    そう、あれは1988年のことだった。 午後のフライトでバンコクから到着。ウイスキーとタバコを免税で買って入国。聞いたとおり強制両替があって、市内のこの宿に着いてから、階下にウロウロしていた商売人に売却。国営旅行社に行って、マンダレー行きのチケットを購入しようとしていると、順番待っているうちに営業時間終わりとなって閉店。困った。翌日は週末で旅行社は休みだ。駅で当日券あるかな?と仕方なく、隣の食堂で麺をかきこんで、旅行社が面しているパゴダを見物。地元の同年代の当時の若者たちとしばらく世間話していると時間が遅くなった。

    宿に戻り、私が宿泊するドミトリー(沢山のベッドが置かれた大部屋)に足を踏み入れて、このときはじめて気が付いたのだが、20近くもぎっしり詰め込んだベッドのうち、他の宿泊客はみんな西洋人の若い女性ばかり。しかも暑い国で室温は40℃近いはず。クーラーもないので、当然のごとく小さなパンティー以外何も身に着けていない。ヌードグラビアから出てきたかのような女性たちの美しい姿にドギマギした。

     

    目のやり場に困り、とりあえずシャワーでも浴びようと共同の浴室に向かうと、ドアがバァンと開いて、私の胸元にぶつかりそうになったのは、浴びた水がまだ髪の毛からしたたる全裸の女性。思わず鼻血がほとばしるかと思った。思わず目を下に逸らすと、彼女のつつみ隠さぬ股間が目に入り、頭に血が上って、こめかみあたりでドクドクと鼓動を感じてしまう。

    どうしてこういうことになっているのか頭の中が整理できない私は、とりあえずシャワーをザーザーと浴びて頭を冷やすことにした。「大部屋・私以外みんな女性でグラマー・しかもほぼ裸」という空間に入っていくのかと思うと、非常に得をしたような気分ではあったものの、その反面大変に気が重いことでもあった。

    バンコクからの飛行機は同じながらも、隣室のドミトリーをあてがわれていた日本人男性は、私のドミトリーの入り口で「すげぇ、アマゾネスの部屋やんか!?」なんて小声で呟いて私の顔を見てニタニタ笑っている。

    彼と外にタバコを吸いに出てから部屋に戻り、隣のベッドの女性と少し話をするものの、豊かな胸元から視線を外すと、今度は素敵な腰の曲線部が気になって仕方なくなるし、そこから目を逸らすと、今度はその背後ではこれまたグラマーな女性が衣服を脱いで、見事なまでに豊かなバストがどさっとこぼれ落ちるところであった。もはやどうしようもないので、早々に寝ることにした。幸いなことに、翌日早く出発する人たちが多いようで、まもなくドミトリーは消灯。

    だが困るのは、ほとんど間隔もなくぎっしりと並べられたベッドに横たわるほぼ裸体の女性たちの魅力的な肢体が月明かりに煌々と照らし出されていて、実によく見えてしまうのだ。脱水症状になりそうな蒸し暑さの中、手を伸ばせばすぐに届く距離に、たわわなバストが、尻が、脚が・・・。右にも、左にも、頭上にも、足元にも・・・。まるでこれは拷問のようだ。

    夜になっても生温かく澱んだ暑い空気の中で、天井で回るファンだけがカタカタと音を立てている。頭の中を様々な煩悩が行き来して、それらをなんとか振り払おうと試みるものの、新たな煩悩がその行く手を遮る。少しウトウトするも、その淫靡な妄想がそのまま形になった夢になって現れては、目が覚めてしまう。

    そんなこんなで、大変困った状態でまんじりともせずにいると、いつしか東の空が少し明るくなってくる。心なしか風も少し涼しくなってきたかのような気がする。

    ところどころで、誰かのバックパックの中から「プププ」「ジリジリジリ」という目覚まし時計のアラーム音が聞こえてくる。早朝の列車だかバスだかで出発するのだろう。

    そのあたりで、煩悩やら妄想やらに振り回されてクタクタに疲れている自分に気が付き、どど~んと眠りの深みに落ちていった。

    ハッと気が付くと、すでに朝10時過ぎ。宿の使用人が「おーい、チェックアウトの時間で過ぎてますぞ!」と私を起こす。もはや早朝に駅で当日券買ってマンダレー行きなんていうタイミングではなくなっていた。 周りのベッドには女性たちの姿も彼女らの荷物もなく、すべてもぬけの殻となっていた。滞在可能な日数がとても短かった当時、時間を無駄にする者はいない。

    昨夜ずっと悩まされた光景は、夢か幻かと反芻しつつ、すでに気温が急上昇している街中へと繰り出した。

    ※画像はイメージであり、文中の女性たちとは何ら関係ありません。

  • 無神論者センター

    「信仰の大地」という表現がよくなされるインド。確かに社会生活や政治における宗教の果たす役割が大きいことは間違いない。いろんな宗教が混在し、それぞれ大小様々な教団や施設を運営していたりするし、日常的に人々の宗教生活を目にすることも多いだろう。

    だが同時に無信仰の人たちも決して少なくなく、とりわけ迷信やそれを煽るような活動に対して眼を光らせる無神論者センターのような組織もある。

    この組織はいわゆる迷信の類に限らず、聖者による「奇跡」の背後にあるトリックに対する検証を行っていることでも知られており、彼らの活動は各種メディアでも取り上げられていたりする。個人的には、そうした奇跡そのものは教えの本質ではないため、そう目くじら立てることもないのではないかとは思うのだが。

    無神論者ではなくとも、寺院や祭礼といったものに対して冷淡な人たちも少なくない。「神と人間は直接に交流すべきものであり、意味のない形式ばかり尊重する仲介者は不要」というスタンスであることから、私たち日本人の平均的な感覚とも近いと言えるかもしれない。もちろんこうした人たちはインドの主流派ではないのだが、インドの「信仰生活」の中における一側面ではある。

  • redbus.in

    redbus.in

    すでにcleartrip.comなどの旅行予約サイトで、インドのバスの予約も可能になっているが、飛行機や列車と較べると、長距離バスは民間会社が乱立しているので、どこの路線のバスがどれくらいの頻度で、どの発着時刻で運行しているかは現地に行かないとわからず、とりあえず出発地に着くまでは、前もって予約しておくことも容易ではなかった。もっとも人の行き来が盛んな場所では運行している会社も本数も多いので、そう困ることはないのだが。

    すでにご存知の方も多いかと思うが、インド国内のバス予約を専門に取り扱うredbus.inというサイトがある。地域間の移動はもとより、大都市の一日観光ツアーなどの予約も出来るようである。

    だがやはりこれで予約できるのはメジャーな路線ということになり、事前にスケジュールを知りたかったり、本数が少ないので予約しておきたかったりするようなルートは、これまでどおりその場所に着いてみないと判らない、というのが結論となるが、田舎のインフラ事情を考えるまでもなく、こればかりは仕方ない。

    だがこのサイトで取り扱う路線を利用する限りでは、発着時刻や所要時間等を調べて旅程を立てたり、前もって予約しておいたりということが出来るため、「とても助かる」ということも多々あるのではないだろうか。

    運転マナーや安全対策という部分に比べて、こうしたチケット手配のフィールドはやけに進んでいる感じがするインド。民間の豊かな創意工夫と旺盛な活力を象徴しているかのようで頼もしい思いもする。

  • エスニックフェスタStand Up for Your Rights

    今年2月の大雪で一度中止となったエスニックフェスタだが、日を改めて5月11日(日)に開催されることとなっている。時間は午後1時から午後8時まで、場所は東京都文京区の見樹院である。詳細についてはこちらをご覧いただきたい。

    エスニックフェスタ – Stand Up for Your Rights- 開催のお知らせ (特定非営利活動法人APLA)

    エスニックフェスタのイベントページ (facebook)

    これはAPLAジュレー・ラダックジュマネットが主催するイベントであり、他にも対象をインド地域とするものには、ナガ・ピース・ネットワークが参加する予定だ。

    日本のメディアでは取り上げられる機会が少ないマイノリティの人々を取り巻く問題について考えてみる良い機会となることだろう。

  • パーキスターンに味の素進出

    かつてアジアで「グルタミン酸を旨みと認識する食文化圏はヒマラヤの手前まで」と言われていたことがあった。

    確かに中国や東南アジアではそのような食文化が展開されていて、インドから西はといえば、異なる味覚の世界という捉え方がなされていたようだ。

    もちろんそれらの国々でも肉の旨みというのは誰もが判っていたこととは思うが、グルタミン酸調味料の大きな商圏といえば、やはりアジアの東側であったことは間違いない。

    だがここ数年は、エジプトで「行商スタイル」での営業活動を展開する味の素が売上を伸ばしていること、人口増加率が高くて若年層の人口が厚く、今後順調な所得増が見込まれるイスラーム圏(といってもあまりに広大だが)での販路を求めて様々な策を練っている様子が伝えられている。

    なぜエジプトで“味の素”が売れるのか?(東洋経済)

    味の素、東アフリカに進出へ ケニアに拠点、来年度から販売 (SankeiBiz)

    また、最近は日本初のハラールファンドが設立されて、日本の食品業界が本腰を入れてイスラーム圏へ進出を図りつつある様子もうかがえる。

    日本初のハラルファンド 地銀など50億円出資 (日本経済新聞)

    このあたりの動きが可能となったのは、やはり化学調味料メーカーの営業努力はもとより、昨今のグローバル化により、食の分野でも多様化が進んだことも背景にあるのだろう。

    同様に、日本国内の消費が長く頭打ちであること、中国や東南アジア方面でも競合相手が増えて、マーケットが飽和状態にあるため、これまでは「圏外」であった地域に活路を求めなくてはならなったという事情もある。

    そこにきて、4月に入ってから新聞紙上を賑わせていたこんな記事もあった。

    味の素、パキスタン進出 「ハラル」市場の攻略拠点に(日本経済新聞)

    これらの地域へのグルタミン酸を主原料とする調味料等の販売はネスレをはじめとする欧州勢が先行しており、日本企業はこれを追う形になるのだが、化学調味料の浸透とともに、地元の食の世界もジワリと変化を迎えつつあるのだろう。

    果たしてそれが良いことなのか、そうでないのかは定かではないものの、今後の行方に注目していきたい。

  • 第23回東京ダジャン

    今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

    こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

    もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

    その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

    とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

    多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

    当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

     

    第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

     

     

  • 著名人の政界への転身

    有名なスポーツ選手やタレントが選挙に出馬することが多いのは、社会で知名度が高いため広告塔としての効果が期待できること、そしてもちろんのこと有名であるがゆえに、たとえ新顔であっても個人的な人気により、浮動票を集めて当選する可能性が高いからでもある。

    もちろん政治活動を続けてきて政界に通じている人物、経済活動や社会活動を通して高い見識を身に付けて来たような候補者と異なるため、素人扱いされることも少なくないが、社会の様々な層の人たちの意見を代弁する議会という場で、他と背景がまったく異なる人たちが加わるのは悪いことではない。

    さて、そうしたスポーツ選手やタレントが選挙で候補者として登場することが少なくないのはインドも同様で、今回のローク・サバー選挙においては、俳優のパレーシュ・ラーワル、射撃選手でオリンピック銀メダリストのラージャワルダン・スィン・ラートール、クリケット選手として活躍したモハンマド・カイフ等々が出馬しているが、西ベンガル州だけを見てもサッカーの元インド代表のエース・ストライカーであったバイチュン・ブーティヤーとベンガル語、ヒンディー語映画等で活躍した女優、ムーン・ムーン・セーンが、マムター・バナルジー率いるTMC(トリナムール・コングレス)から立候補する。

    ベンガル人であり、ミドナプル地区から出馬するムーン・ムーン・セーンはともかくとして、スィッキム州出身のブーティヤー族であるバイチュン・ブーティヤーがダージリン地区から出馬していることについては、いろいろな波紋を投げかけることになっている。

    西ベンガル州のダージリン地区は、同州内の他の地域とは地理的、文化的、人種的な要素が大きく異なる。インドが英領であった時代に当時のスィッキム王国(現在のスィッキム州)から割譲された地域ということもあり、ブーティヤー族の住民も多い。それがゆえにダージリン地区においては盤石とは言えないTMCの有力候補として擁立されたわけである。

    TMC candidate Baichung Bhutia campaigns in Darjeeling (The Indian EXPRESS)

    だが同地区は長年、西ベンガル州からの分離活動が盛んであった地域であり、ネパール系の住民たちの利益を代表するGJM(ゴールカー・ジャンムクティ・モールチャー)がその流れを牽引している。TMCは、ネパール系ではないものの、サッカー人気の高いこの地域において、近隣地域であり、居住地域が重なることから民族的にも馴染みの深いブーティヤー族出身のバイチュン・ブーティヤーに期待をかけているはずだ。しかしながら地元のTMC活動家たちは、バイチュンのGJMとの融和的な姿勢について不満を隠さないという具合で、党内部でもいろいろ摩擦が生じていることがうかがえる。すでにひと月近く前の記事ではあるものの、参考までにリンクを掲載しておく。

    Baichung Bhutia draws ire of local TMC leaders after seeking GJM support (The Indian EXPRESS)

     

     

  • さくらフェスティバル2014

    インド大使館の改装前には「さくらチャリティーバザー」として親しまれてきたインド大使館の春のイベントだが、現在は「さくらフェスティバルと改名して現在に至っている。

    今年は4月2日(水)から6日(日)までの開催で、時間は午前11時から午後9時まで。3月25日に桜の開花宣言がなされた東京の花の盛りは過ぎてしまうことになりそうだ。最も盛大となるのはやはりその期間中の週末にあたる5日(土)と6日(日)ということになるのだろうが、すっかり暖かくなってきたこの時期、夕方以降に訪れてみるのもいいかもしれない。

    長かった冬も終わり、春めいた気候になってくると身も心もウキウキしてくる。まるで枯れてしまったかのような佇まいで寒い時期を過ごしてきた桜の木だが、暖かくなってくると一斉に花を咲かせて1年が始まるというのは実にドラマチックだ。

    年度末、そして年度初めと、仕事をしている人たちにとっては非常に多忙なこの時期ではあるものの、咲き誇る淡いピンク色の桜の花は、私たちみんなの心を和ませてくれて嬉しい。

  • ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッド

    ナコーダー・マスジッドのエントランス

    アーグラー郊外のスィカンドラーにあるアクバルの廟を模しているとされる、コールカーターのナコーダー・マスジッド。現在のグジャラート州西部のカッチ地方を起源とする商業コミュニティにより建造されたスンニー派のモスクで、1926年に完成している。

    この街のモスクを代表する存在であるといえるが、地元のコミュニティではなく、国内とはいえ現在のインドの西端からやってきたムスリムたちにより建造されたというのは、いかにもコスモポリタンなコールカーターらしい。同時にこのあたりにはグジャラート州などインド西部起源のムスリム住民が多いのではないかという推測もできるだろう。

    この地域は旧中華街、旧ユダヤ人地区等と交わる昔からの繁華街。元々、欧州人でも地元ベンガル人でもない外来の人々が多く定住したエリアなので、前述のグジャラートから移住したムスリムたちにも都合が良かったのかもしれない。

    1万人の礼拝者を収容できる大型モスクなのだが、狭小地に建てられているがゆえに、伝統的なムガル様式を踏襲した建物ながらも、礼拝堂が多層構造になっているのが特徴だ。

    エントランスのあるザカリア・ストリートからよりも、ラビンドラ・サラニからの側面の姿のほうが見事な造形を楽しむことができる。モスクが面している道路とキブラの方向とのズレを、建物が捻じれた構造にすることによって解決してあるため、ちょっとだまし絵のような印象も受ける。

    ラビンドラ・サラニから眺めるとこんな具合

    ユナーニー医学の腹薬

    周囲は門前町となっており、様々なイスラーム関係のグッズやその他の日用品などを商うイスラーム教徒の商売人たちの店や露店が所狭しと賑やかに並んでいる。モスクのエントランス正面にあるAMINIA HOTELという食堂は、このバーザールで最も早い時間帯から開く店のひとつのようだが、まだ辺りが薄暗いうちから店のスタッフたちが準備を開始して、通りを行き交う人々の姿が多少目に付くあたりには営業を開始している。ここのネハーリーは絶品なので、朝の時間帯にここを訪れる際にはぜひ味わっていただきたい。

    AMINIA HOTELでは、もちろんそれ以外の時間帯にも各種ケバーブ類その他、おいしいイスラーム系料理が沢山用意されている。いかにも下町の大衆的な料理屋さんといった風情で、エコノミーながらも味わいは本格的で、ナコーダー・マスジッドの向かいというロケーションも最高だ。夕方遅い時間帯になっても営業しているので、ぜひともナコーダー・マスジッド詣でとセットで訪れたい。

  • 久美子ハウス

    四半世紀以上も前のことになるが、バナーラスの久美子ハウスに宿泊したことがある。日本人宿というものに特段の興味や関心があるわけではないのだが、当時は泊めてもらう前に「面接がある」だの、その面接で「落とされる人がいる」だのといった噂を耳にしていた。落とされた人というのは、当然そこに宿泊させてもらえず、他の宿を当たらなくてはならない。観光客の多い街で、界隈には他の宿泊施設も多いので困ることはないのだが、お客に対してそんなに居丈高な宿が本当にあるのかと不思議であった。

    当時大学生であった私は、友人と初めての海外旅行で訪れたインドであり、目にするものすべてが物珍しく、迷路のようなバナーラスの街はどこか異次元の世界のようでもあった、昼間はどこまでも人々でごった返している小路を進んでいき、ようやくたどり着いた先に「久美子ハウス」と日本語で書かれた看板が目に入るにあたり、ホッとした気分になった。

    「面接」といっても何を聞かれたのかは今となってはまったく記憶していないが、確かにそれらしきものはあった。久美子さんの夫でヒゲ面のシャーンティさんが流暢な日本語でいろいろと質問、といった具合であったのではないかと思う。

    料金はいくらであったかも記憶していないが、ドミトリーで朝晩の食事が付いていて、バックパッカーが利用する宿としても最安クラスであったはずだ。食事というのは、かすかに醤油の味がするようなしないような汁の中にブツ切りの人参と大根がプカプカ浮かんでいる鍋のようなもの?と大きな器にドカ盛りされたご飯を各自好きなだけ取り分けて食べるといった具合。

    思えばちょうどホーリーの時期であった。着替えが一揃いしかないので、衣服をダメにすると、なけなしの旅行資金から捻出して新しい服を買い求めなくてはならなくなるので、屋上から通りの下を眺めているだけであった。そういう日とは知らずにバナーラスの鉄道駅に降り立ったという人たちは、全身物凄い色になって宿に転がり込んできていた。

    安旅行者を相手にしている宿であるだけに、面倒な問題を起こす旅行者が少なくなく、中には警察沙汰になったり、時には行方不明になったりしてしまう滞在者もいるなど、なかなか大変であったようだ。それに加えて宿が多くて過当競争になっている地域にありながらも、客引きに頼むこともなくしじゅう宿泊客の日本人たちが出入りする、経営環境としては非常に恵まれた立場にあるだけに、周囲の同業者から妬まれるということも耳にしていた。そういう事情があったため、宿泊者への「面接」というのが行われていたのだろうと思う。

    こうした環境でもまれてきたからなのだろうが、久美子さんといえば、やたらと眼ヂカラのある豪放磊落な感じがする女性、肝っ玉母さんという印象がある。元来世話好きでもあるようで、ときには「口うるさいオバハン」と疎まれたりすることもありながらも、朝夕の料理のときには長期滞在者の誰かしらが手伝っていることが多かった記憶があるし、久美子さんもそうした人たちを気軽に「使い走り」に駆り出していたりもしていた。なかなか普通の宿ではありえないことだろう。

    数か月単位の長期で滞在している人たちも少なくなく、安ホテルというよりも、賑やかな下宿屋といった風情の久美子ハウスであった。ガートに面した建物の屋上からのガンジス河の景色は良かったし、月夜に照らし出された河面の眺めも最高だった。当時はまだ幼かった可愛い子供さんたちも、とうの昔に成人してコテコテのインド人になっていることだろう。

    その後、久美子ハウスに逗留したことはないのだが、幾度かバナーラスを訪れてガートを散歩中にこの宿のあたりを通りかかると、当時のことを思い出したものである。

    そうした記憶もすっかり遠くなってしまった今、FB上で複数の方々が久美子ハウスについての記事を取り上げられていて、とても懐かしい思いがする。久美子さんもお元気そうで何よりである。なんでも今では久美子ハウス2号館というのもあるとかで、商売繁盛のようである。

    -次期経営者募集?!-久美子さん(ウッタル・プラデーシュ州バラナシ在住)(LIVE INDIA)