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  • ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

    ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

    ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

    ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

    植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

    ヒンディーのクラスについての貼紙

    寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

    サティヤナーラーヤン寺

    「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

    ・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

    「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

    今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

    南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。
  • 再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルの墓

    5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

    場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

    ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

    ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

    礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

    また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

    やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

    金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

    1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

    金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

     

  • 電子書籍

    英文出版大国インド。自国インドの様々な分野における興味深い書籍が大変多いのだが、流通面ではいつでもどこでも手軽に何でも手に入るという具合になっているとは言い難い。

    大都市の大きな書店に行けば、いろいろと購入したくなるものがあるとはいえ、やはり特定の対象についてドカッとまとめ買いするには、各出版社のショールームに足を運んで見繕ったり、スタッフにあれこれ尋ねて引っ張り出してもらうのが一番だ。

    とはいえ、自分自身の状況から、随時そうしたところに出向いて購入するわけにもいかず、さりとて自宅のスペースの問題もあり、関心を引かれるが果たしていつ扉を開くかもわからない本を狭い自室にどしどし放り込むわけにもいかない。

    そんなわけで、これまで購入してきた図書類を、自己利用目的で日々少しずつスキャンしてPDF化、いわゆる『自炊』なる行為を続けている。もちろん紙媒体で読むのが一番だとは思うものの、生活との折り合いがあるので、こればかりは仕方ない。他方で、そうした書籍をブックリーダー、タブレットPC、あるいはDropboxにでも保存して、いつでもどこでも時間の空いたときに読みまくるという利便性については私自身非常に重宝している。

    どうせならば、最初から電子書籍版も販売されていればいいのに・・・と思う。だが特定のアウトレットやデバイスに依存するフォーマットではありがたさも半減なので、より汎用性の高いフォーマットだと助かる。取り扱いについてはPDFが楽なのだが、やはり違法コピーや著作権の問題もあるので、なかなかそうはいかないのだろう。

    そうした面で、比較的汎用性の高い形で電子書籍を販売している業者の中で、イギリスのTaylor & Francisがあり、インド関係の書籍もある程度は扱っているようだ。インド国内でも、電子書籍を販売しているサイトはいくつもあるが、今のところ特に興味を引かれるようなところは見当たらない。電子書籍の分野は、まさにこれからという段階にあるので、今後の進展に期待したいと思う。

    ところで著作権といえば、書籍とは関係ないのだが、先日ある方がfacebookで話題にされていた、こんな記事がある。

    音楽は発売後3カ月で使い放題に 中国が著作権法“改正”案検討 (Sankei Digital)

    上記リンク先記事に書かれている『著作権法改正案』が実現すれば、発売から3カ月後には、海賊行為が政府のお墨付きを得ることになる。こんな感覚なので、国内利用のみに限るという前提で日本や欧州から供与された鉄道技術を、いとも簡単に輸出してしまうようなことになるのだろう。

    中国高速鉄道“見切り発車”の初輸出 特許問題で日欧と国際摩擦に発展も(フジサンケイ ビジネスアイ)

    作り手側が叡智を集めて作り上げたものの利用については、まさにその受け手側のモラルが問われる。ゆえにそう易々と再頒布される可能性のある形で供与することができないことについては充分理解できるところだ。

  • The Lady

    The Lady

    The Lady

    今年7月21日(土)から、映画The Ladyがi日本で公開される。

    母国ミャンマー(ビルマ)の民主化を目指して長い闘いを続けているアウンサンスーチー氏とその家族愛を描いた作品だ。

    英語によるインタビュー映像しか見たことがない(私はビルマ語はわからないので・・・)が、上品な物腰とウィットに富んだ受け答えには誰もが魅了される。スレンダーな外見からは想像できない闘志と粘り強さを発揮して民主化運動を率いてきたスーチー氏の努力がようやく報われようという動きになってきている今、ミャンマーが今後本当に良い方向に動いていくことを願わずにはいられない。

    建国の父、アウンサン将軍の娘であることによるカリスマと責任感はもちろんのこと、彼女自身の持つ人間的な魅力とこれまでの行動により示してきたリーダーシップと高潔さについて、誰もが称賛を惜しまない。ミャンマーの人々の間での支持とともに、遠く離れた家族との絆と信頼もまた、彼女を力強く支えてきたのだろう。

    この夏、より多くの方々と感動を分かち合いたい。

  • ミャンマーのE visa

    近ごろ何かとニュースで取り上げられることが多くなったミャンマー。『上からの民主化』の進展により、経済制裁の緩和が近いことが予想されるため、経済面からの注目を浴びるようになっているからであることは言うまでもない。

    国際社会からの孤立が長く続いてきたことによる経済や各方面インフラの立ち遅れの中で、今まさにどん底にあるにもかかわらず、初等・中等教育は広く普及しているため、識字率は約90%と意外なまでに高い。加えて一大農業国であるとともに、地下資源大国としても広く知られている。石油・天然ガスなどに加えて、鉄、錫、銅その他の鉱物資源にも恵まれている。

    それらと合わせて、人口6千万を抱える大国であり、先述のとおり一定水準の教育が行き届いた人材豊富な国家でもあることから、多くの国々にとって将来有望なマーケットであるとともに、製品加工基地としての役割も期待されることになる。

    大きな潜在力を抱えつつも、政治的理由によって、これまで極めて低い水準にあっただけに、経済制裁が緩和ないしは解かれることになれば、今後急激な成長が見込まれるだけでなく、その伸びシロは限りなく大きい。

    従前から、そうした将来性を見込んで同国に投資している企業や個人等はあったものの、長く続いてきた軍事政権による圧政と、これに対する先進諸国等による経済制裁下での先の見えない停滞が続く中、一部のASEAN諸国やインドによる投資や交易、加えて海外進出意欲旺盛な韓国の企業や個人による進出を除けば、同国での外資といえば、ほぼ中国による寡占状態にあった。

    たとえ旅行者として同国を訪れても、アメリカやEUによる経済制裁の影響はごく身近に感じられるものである。古色蒼然とした街並みや市内を走るあまりに旧式の自動車の姿はもとより、ヤンゴン市内の一部の高級ホテル(自前のルートによりシンガポールなど海外で決済)を除いて、トラベラーズチェックもクレジットカードも使用できず、基本的に米ドル現金を持ち込んで使うしかないという状態は、初めて訪れる人の目には、あまりに奇異に映ることだろう。経済制裁により、海外との金融ネットワークから遮断されているがゆえのことである。また同国自身の厳格な外貨管理により、基本的に『普通に店を構えた両替商』は存在しなかった。そのため主に宝石、貴金属類、みやげもの等を扱う店を回り、交渉のうえでミャンマー通貨に両替するのが普通であった。

    そうした状況も近々変わっていくようだ。ヤンゴンの国際空港等にちゃんとした市中レートで両替カウンターが出来ていると聞く。おそらく市内の繁華街や国内のメジャーなスポット等に、今後『ちゃんと店を構えた両替屋』が続々出てくることだろう。

    それにミャンマー国内から正規のルートによる海外送金サービスが開始されるという話も耳にする。商取引はもとより、同国から海外留学を希望している若者たちにはとっては朗報だ。たとえば日本に留学しようとする場合、現在までのところミャンマーから日本へ正式な送金ルートが不在であったため、ミャンマー国外つまり日本ないしは第三国に留学経費を支弁することが可能な立場(経済的に裕福な近親者)がなければ、たとえ若者自身の親がミャンマーでそれなりに高い経済力を持っていても門前払いであったからだ。

    インドでは、経済政策の大きな転換により、1990年代から2000年代にかけて、とりわけ都市部が大きく様変わりし、その動きは衰えることなく続いているが、自国内での規制その他のみならず、経済制裁という大きな足枷をはめられてきたミャンマーにおいてはおそらくそれ以上の速度で多くの物事が変化していくことだろう。もちろん人口がインドの足元にも及ばない程度のものであり、人口密度もあまり高くない。『スピード感』ではこちらのほうが勝ることになると思われる。またASEANというひとつの大きな経済圏の枠組みの中にあることも有利に働くことだろう。あくまでも経済制裁の大幅な緩和あっての話ではあるが。

    前置きが長くなったが、ミャンマーで観光客向けにE visaというシステムが月内にも導入されるという。事前にインターネット上で所定の手続きとクレジットカードによる査証代金の支払いを行ない、それと引き換えに数日以内にメールで送られてくるレターをプリントアウトして、入国時にパスポートとともにイミグレーションに提示し、その場でヴィザを発行してもらうというシステムだ。

    MYANMAR E Visa “How To Apply” (myanmarevisa.gov.mm)

    本日4月10日現在、まだ運用は開始されていないようだが、申請手続きはこちらの画面で行なうことになるらしい。証明写真のデータをアップロードするかカメラ付きのPCあるいはウェブカメラにてその場で撮影することもできるのだろう。

    現在、東南アジアの中で私たちが観光による査証取得必要なラオス、カンボジア等で国境到着時に簡単なフォームを記入して現金で代金を支払えば即座にヴィザが発行されるような具合になると良いのだが、まだまだ『敵が多い』国であるだけに、このあたりが最大限の譲歩なのだろう。それでもこうした動きは大いに歓迎したい。

    今後10年、15年の間に、ずいぶん旅行しやすい国になっていくことだろう。道路その他交通網の整備に多額の投資がなされるはずだし、観光という分野も主要な産業の柱のひとつとして位置づけられることは間違いないので、宿泊施設その他の面でも大きく改善されていくことと思われる。

    そうした中で、まだわずかに残っている、かつて『英領インド』の一部であったことの面影や残り香も急速に失われていくことも必至だ。人々の暮らしが向上し、今よりも自由に物を言える社会になること、民意が反映される国になっていくことについて、諸手を挙げて応援したいことは言うまでもないが、他のどこにもないこの国であるからこその味わいに関心がある向きには、まさに今が旬なのかもしれない。

    もうひとつ期待したいことがある。各地で民族運動が盛んであることから、まだまだ外国人が入域できなかったり、自由に立ち入ることができなかったりする地域が多いミャンマーだが、このところ各反政府勢力との和解が進んできているため、陸路で入国して他の地点から陸路にて出国という旅行も、やがて容易にできるようになってくるのではないだろうか。

    とりわけインドとの間については、インドのナガランド州のMorehからミャンマーのチン州のTamuのルートが外国人に対して開放されるようになるとありがたい。現在、インドのナガランドは私たち外国人がパーミット無しで入域できるようになっているが、ミャンマー側はそうではないようだ。

    南アジアと東南アジアの境目の地域が広く自由に旅行できるようになれば、いろいろ新たな発見があることと思われる。また、これまで隅に置かれてきたエリアの文化・伝統の価値やこれまで影で果たしてきた歴史的な役割が人々に再認識されることにもなるのではないかと思っている。

  • 先入観を疑うべし

    バーングラーデーシュでのグラーミーン・バンクによる取り組みから世界的に注目されるようになったマイクロ・クレジット。通常、商業銀行から融資の利用ができず担保も持たない人々のグループに対する少額融資であり、返済についてはそのグループ全体が責任を負うという仕組みだ。経済的に困窮している層、とりわけ女性たちの経済・社会的地位向上のための役割が評価されている。

    マイクロ・クレジットの代表格と言えるグラーミーン・バンクがアメリカに進出し、グラーミーン・アメリカを設立したのは2008年。当初はいろいろ不利な予想もあったが、現在までの4年間で着実に実績を上げているようだ。

    Grameen America

    滝川クリステル×ムハマド・ユヌス(ウェブゲーテ)

    米国市民の間での経済格差について、よく「米国の黒人の寿命はスリランカと同程度である」ということが言われる。国民皆保険制度がなく、医療費が私たちから見れば法外なまでに高額なものとなりがちなことから、定収入のある勤め人でも大病を患った結果、自己破産という例はよくあるようだ。ましてや経済的に不利な境遇下にあるマイノリティの人たちともなれば、必要なときに充分な診療を受ける機会を逃してしまうということは決して想像に難くない。

    だが、具体的な数字を提示することなく「スリランカ並み」という表現には、かなり恣意的なものを感じずにはいられない。このあたりの事情をあまり知らない人がそれを耳にすると、『とんでもなく短命』であるような印象を受けることを画策しているはずだからである。国連の統計によると、2005年から2010年の間のスリランカの平均寿命(74.25歳)は突出して高く、南アジア地域の平均の64.48歳を10歳近く上回る。ちなみにインド(64.19歳)は、ちょうどその平均値あたりにいる。

    世界の平均寿命 (United Nations Population Division)

    平均寿命73~74歳程度の国々はといえば、中東やアジアでは、サウジアラビア(73.13歳)、バハレーン(74.60歳)、タイ(73.56歳)、欧州ではルーマニア(73.16歳)、ハンガリー(73.64歳)、エストニア(73.91歳)あたりが挙げられる。日本では何故か長寿のイメージがあるブルガリア(72.71歳)、経済成長著しい中国(72.71歳)と比較しても、実はスリランカの数字はなかなか立派だ。豊かな産油国、東ヨーロッパと同水準なのだ。

    予備知識無しで、「アメリカの黒人の寿命はスリランカ並みだ」と言われると、いささかショックを受けるかもしれないが、これを「金満の産油国並みだ」と言い換えたら、どんな印象を受けるだろうか。

    国情の異なる国々の寿命を平たく慣らした世界平均(67.88歳)はあまり意味のないものかもしれない。だが、あらゆる面においてはるか前を邁進しているはずのアメリカ(77.97歳)の平均寿命が、自分たちの国との間のあまりに大きな経済格差のあるアメリカの平均寿命が、自分たちのそれとの差が3歳強しかないことについて、スリランカの人たちは不思議に思うだろう。

    アメリカにおけるバーングラーデーシュ発のマイクロクレジットの成功、アメリカの黒人がとりわけ短命であるという一種の都市伝説の類など、先進国と途上国という色分けを取り払って社会を眺めてみると、世の中でいろいろ興味深いものが見えてきそうだ。

  • サッカーボール Made in Pakistan

    サッカーボール Made in Pakistan

    ADIDAS、DIADORA、PUMA、NIKE等々、ブランドを問わず、サッカーボールに表示されている生産地は、パーキスターンとなっていることが多い。世界に出回っているこれらのボールのおよそ8割は同国で製造されているという。もちろんサッカー以外の種目においても、とりわけ縫いボールの場合はたいていそんな具合らしい。

    だがパーキスターン各地で広くこれらが生産されているわけではなく、パンジャーブ州のスィヤールコートに集中しているのは興味深い。縫いボールの工程が機械化されているところもあるらしいが、やはり主流は手縫いであるため、極めて労働集約的であることから、低賃金で作業する労働力が豊富にあるところということになる。するとパーキスターン全土はもとより、南アジア地域で普遍的にこの産業が盛んであってもいいように気がするのだが、そうではなく、一極集中しているのには何か理由があるに違いない。

    パーキスターン以外にも、サッカーボールを大量に生産している国は他にもいろいろある。中国製のボール、南米で作られたボールもあるし、価格帯は非常に高かったがかつては日本製も公式試合球(市場はほぼ日本国内に限られていたようだが)として販売されていた。

    パーキスターンでサッカーボールの生産が飛び抜けて多いことについて、歴史的な経緯という観点からは、サッカーの母国であるイギリスの海外領であり、家畜の屠殺が盛んであったということがある。ボールの外皮として使われる牛皮はもちろんのこと、現在使われているゴムチューブが普及する前までは、牛の膀胱が使用されていたため、ボール製造の材料の有力な供給地であった。

    牛皮といえば、今では本革のサッカーボールはほとんど見かけなくなった。かつてはサッカーボールといえば、当然のごとく革製品であった。皮革という性質上、同じメーカーの同一品番の製品であっても、かなりバラつきがあった。同じように使用していても、かなり寿命が異なった。動物の皮である以上、部位により厚みや硬軟にどうしても差異が出てくるため、ボールに空気が充満して表面が緊張した状態で放置すると、ゆがみが生じてくる。そのため、練習や試合で使う際にポンプで空気を入れて、使い終わったら空気を抜いて保存するというのが常識であった。これを怠ると、とりわけ安価なボールの場合、楕円形になってしまったり、縫い目が広がってチューブが外にはみ出してきたりすることがよくあった。

    主流であった本革から人工皮革へと素材が切り替わる大きな転換期は、1986年メキシコで開催されたワールドカップであった。サッカー選手としてピークにあったマラドーナが大活躍して母国アルゼンチンを優勝に導いた「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」として広く記憶されている大会だ。彼の「神の手」によるゴール、伝説の5人抜きなど、後々に語り継がれるプレーを連発した大会だった。この大会で公式球として採用されたのは、ADIDAS社のAZTECAというモデル。ワールドカップ初の人工皮革製のボールだった。

    人工皮革のボールが普及し始めた当初、高級品を除けばまだまだ本革製品と質感が異なり、あまり積極的に手を出す気にはならなかったものの、クオリティの向上には目覚ましいものがあり、耐久性の面はもちろんのこと、サッカーの全天候型競技という性格からも、雨天でも水を吸収して重くなって反発性が失われるという本革特有の欠点とは無縁で、濡れた後の手入れの面倒もなく、素材の普及とともに高級品が低価格化していくという非常に喜ばしい展開が進んでいく。その結果、本革製品を市場からほぼ駆逐することになった。

    サッカーボールの人工皮革化は、テニスコートほどの広さのコート(体育館あるいは人工芝)で行う5人制の競技、フットサルの普及にもつながっている。もともと「サロンフットボール」ないしは「インドアサッカー」として知られていたものだ。これのラテン式名称の略語フットサルが定着した結果、競技の正式名称として採用されるようになった。このスポーツで使用されるボールのサイズは、成人のサッカーで使用される五号球であるのに対して、四号球とひと回り小さいだけでなく、外皮には低反発素材を含む人工皮革が使用されており、狭い場所での競技に適した反発性に仕上げてある。人工皮革素材の発展と普及なくして、この競技が現在のように広まることはなかっただろう。

    話はスィヤールコートのボール生産に戻る。3月24日(土)と25日(日)に東京渋谷区の代々木公園で開催された「パキスタン・バザール」に、日本の外務省招聘により、スィヤールコートの工場関係者たちが出展していた。ブースには工場の経営者とともに工員2名が詰めており、サッカーボールの手縫い作業を実演していた。初めて外国を訪れたという工員たちとも少し話をしたのだが、作業はなかなか時間がかかるもののようで、一個縫い上げるのに2時間くらいかかるとのこと。そのため1人が丸1日かけても、せいぜい4個か5個程度しか作ることができないらしい。世界の生産量の8割を担うというスィヤールコートで、どのくらいの人々がこうした作業に従事しているのか、ちょっと想像できない。

    一針一針丁寧に縫い上げていく慣れた手さばきはお見事!

    スィヤールコートという街自体は、人々の平均年収が1,370米ドルと高く、パーキスターン全土の平均値の倍ほどの収入を上げていることから、地域経済におけるボール生産業の貢献度は非常に高いものと思われる。

    とはいえ、こうした製品はMade in Pakistanとして消費者からの需要があるわけではなく、あくまでも生産委託元の外国ブランドの名前で輸出されるがゆえのことであり、内外の市場で通用する地場ブランドが存在していないことについては憂慮すべきものがある。同様に、スィヤールコートなくしてサッカーという世界的な競技が成り立たなくなっている現状にもかかわらず、相も変わらずパーキスターンはサッカー不毛の地であることについても、なんだかお寒い限り・・・としか言いようがない。

  • さくらフェスティバル 2012

    今年も東京都千代田区九段にあるインド大使館にて、さくらフェスティバルが開催される。

    さくらフェスティバル2012 (インド大使館)

    会期は3月31日(土)から4月8日(日)までと長いが、日によって開催時間が異なる。詳細については、上記リンク先のPDF文書をご参照願いたい。

    なお、先日『春の足音』と題して取り上げてみたとおり、今週末の3月24日(土)と25日(日)には、東京都渋谷区の代々木公園にて、『パキスタン・バザール2012』『ソンクランフェスティバル2012』が場所を分け合っての開催となる。

    今年もいよいよ屋外イベントの季節が始まろうとしている。

  • Grameen UNIQLO

    近年、新たな『世界の工場』として注目されてきているインドの隣国、バーングラーデーシュにて、UNIQLOを展開するファーストリテイリングが興味深い取り組みを行なっている。

    GRAMEEN BankグループのGrameen Healthcare Trustとの間に合弁会社を2011年8月に設立し、Grameen UNIQLOブランドでのソーシャルビジネスの展開だ。

    About the Social Business of Grameen UNIQLO (Grameen UNIQLO)

    同国への進出は、UNIQLO製品の生産地として依存度が非常に高い中国における高騰する人件費と頻発する労働問題に対するリスクヘッジという面が否定されるものではない。

    だが、上記リンク先を読んでみると、どうやら日本その他先進国等向けに販売する衣類の生産基地としての進出だけではなく、ソーシャルビジネスという位置付けにより、現地に根付いて、地元の人たち向けの製品を展開していることがわかる。また委託販売請負者となる『グラミンレディ』や『グラミンメンによる対面販売という点からも、また地場市場向けに、バーングラーデーシュ現地の素材を用いて、現地の縫製工場で仕上げた衣類は、これまで日本その他のUNIQLO店舗で販売されているものとは異なり、他国での展開の様子とはずいぶん違った形態での展開だ。

    男性の襟付きシャツ類、女性にはサーリーやその下に着るペチコート、加えてサニタリー用品まである。ウェブサイト(ベンガル語)には掲載されていないが、子供用のカラフルなプリントTシャツ類もある。

    取り組みが始まってからまだ日が浅く、紆余曲折もあるのではないかとも思うが、今後の展開にぜひ注目していきたい。

  • Sony Reader

    Sony Reader

    1年半ほど前に、『ドキュメント・スキャナー』と題して、書籍や雑誌記事類をどんどんPDF化させるために購入したスキャナについて取り上げてみた。

    『継続は力なり』という言葉を胸に、日々少しずつ、しかし欠かさずにスキャンを続けた結果、室内がスッキリ片付いて快適になってソファのひとつでも置くことになったかというと、なかなかそうはいかない。まだまだ山積みになっている書籍がある。 結局、電子化作業と並行して、いろいろ買い込んだりしているからそうなってしまうのだが、これでスキャナがなかったらと思うと恐ろしい。 だが、せっかく電子化した書籍類はパソコンに蓄積してあるため、もしこれが突然壊れたら・・・という恐怖もある。ゆえに毎週、外付けHDにせっせとバックアップをとるようにしている。

    何はともあれ、電子化は進んできたものの、パソコンやタブレットPCの画面でPDFを閲覧するというのは、通常のワードのその他のワープロ文書を書いたり読んだりするのと、あるいはウェブサイトを閲覧するのに比べて、非常に眼が疲れる気がしてならない。もちろん眼への影響は、それらと変わらないはずなのだが、書籍になっている活字を追うという行為は、これまでずっと紙面上で行なってきたため、どうしても紙の書籍を読むときの疲労具合と比較してしまうのかもしれない。

    そんなわけで、もっと楽に書籍を読みたいと思い、液晶画面ではなく、アメリカのE Ink社の電子ペーパーを画面に採用している電子書籍リーダーを購入してみることにした。

    だが電子ペーパー画面のモデルは案外多くないため、広く流通していて簡単に入手できるものとなると、やはりamazonのkindleかSonyのReaderあたりということになる。どちらもWi-Fiモデルがあり、簡単なウェブ閲覧やメールのチェックにも使えそうだ。

    SonyのReaderとKindle Touchを比較してみた。後者のほうに手頃感があるし、電子版書籍をネット上で購入するならば、Readerとは比較ならないほど膨大な量の書籍が用意されている。だが、私の購入目的は自前で電子化した書籍類を読むことであるし、ウェブ検索やメールチェックの際に日本語入力が不自由なくできるほうが良いと思い、しばらくあれこれ考えてみた結果、後者を購入することにした。Kindleは内蔵の4GBのスペースしか利用できないのに対して、Readerは、内蔵メモリーこそ半分の2GBしかないが、micro SD(最大32GB)を挿入して使うことができるため、電子書籍を保存できる容量は格段に大きくなる点でも有利だ。

    Eインク画面を利用するのは初めてだが、さすがに電子ペーパーと呼ばれているだけあり、紙のモノクロ印刷物を見ているのと変わらない感覚であるのが良い。これならば目が疲れやすいということはなさそうだ。液晶と異なり、画面が発光しているわけではないためだろう。もちろん太陽がさんさんと降り注ぐ屋外で見づらいということなく、周囲が暗くなるともちろん読めなくなってくる。紙と同じだ。

    少々残念なのは、そのサイズだろうか。6インチという画面はペーパーバックを電子化したものを読むにはまあ充分であっても、単行本をスキャンしたものを扱うには小さすぎる。もともと日本の文庫本や新書あたりのサイズを想定した大きさなのではないかと思う。画面を横表示にして読めば、表示される文字は大きくなるのだが、今度はスペースが狭く感じられる。

    ページをめくる際に生じる独特の挙動も液晶画面にはないものなので、最初はびっくりした。瞬間的にバラバラッと白黒反転するので、壊れたのかと思ったくらいだ。ページめくりはタブレットPCよりも遅いものの、じっくり読む本の場合は気にならない。だが辞書やリファレンス用の書籍(そういうものを電子化することはあまりないと思うが・・・)の類を閲覧するのには向かないだろうが、とりあえず私にとって当面は充分だと思っている。電源の持ちの良さは特筆すべきものがある。購入してから10日経つのだが、購入時にチャージしたバッテリーが上がる気配さえない。

    電子書籍を読むツールとしては、まだ発展途上という感じがするものの、もう少し大きな画面、そしてページめくりの反応がスムースで自然なものとなれば、100%満足のいくものとなることだろう。あるいは市中に出回るタブレットPCの液晶がもっと目に優しいものになっていき、電子書籍リーダー用として単機能(購入したモデルはWiFi接続してウェブサイトを閲覧可能)しか持たない、こうしたデバイスの存在価値が薄れていくのかもしれないが。

    とりあえずカバンの中に放り込んでおき、いつでもどこでもヒマさえあれば取り出して読書を楽しんでいる。

    画面はこんな具合
  • 2011年の地震の分布

    2011年の地震の分布

    2011年の世界の地震 分布図 (Youtube)

    本日、3月11日は東日本大震災からちょうど1周年ということになる。震災後、ずいぶん長く余震が続いた。ひところのような頻度ではないものの、今でも東日本を中心に頻発している地震は、やはり1年も前の大地震の余震なのか、それともあの日を境に地震の活動期に入ったためであるのか、様々なメディアを通じて流れる専門家たちの見解は様々である。

    日本は世界的に見ても地震が多い国のひとつであることは言うまでもないが、少なくとも2011年に限ってみれば、地震の頻発数ではどうやら世界一であったようだ。

    以下の動画は、昨年1年間に起きたマグニチュード4.5以上の地震の発生をまとめたものだ。2011年の元旦から大晦日までに、世界のどのあたりで地震が発生しているかを視覚的に把握することができるようになっている。

    2011年の世界の地震 分布図 World earthquakes 2011 (Youtube)

    3月11日の大地震発生とそれ以降の爆発的な激しい動きとともに、それ以降も大規模かつ非常に頻度の高い地震が繰り返されていることがよくわかる。

    ご存知のとおり、地震は特定の地域に集中して発生するものなので、日本、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニアから南太平洋西部、そして南米のチリ周辺での発生が非常に多いこと、それらとは対照的にイタリア、ギリシアを除く欧州とアフリカの大半の地域では、地震が発生していないことが見て取れる。地震がほとんど発生しない地域に生まれ育った人たちは、年老いてこの世を去るまで滅多に『大地が揺れる』という経験をすることなく過ごすことになる。

    場所にもよるが、地震が比較的多く発生し、大地震による災害も周期的に起きる地域として認識されているインドは、昨年9月18日のスィッキムの震災とその後幾度か起きた北部での地震を除き、ほぼ平穏であったことがわかるだろう。

    上記リンク先の関連で、昨年1年間に日本国内で起きた地震の分布を示す動画もある。

    2011年の日本の地震 分布図 (Youtube)

    今年1月には、4年以内にマグニチュード7級の首都直下型地震が発生する可能性が70%というショッキングな報道があった。

    M7級首都直下地震、4年内70%…東大地震研 (YOMIURI ONLINE)

    たとえそれが従前に言われていたような30年以内という想定であったにしても、まさにいつ起きてもおかしくない地域であるだけに、残念ながら世界一の地震大国の人間としては、避けようのない危機に対してどう対処するかという大きな問題に直面しているわけである。

    日本の東北地方太平洋沿岸で起きた大震災の教訓を糧に・・・とは言ってみても、個人が出来ることは、せいぜい自宅に最低限の食料や水の備蓄をすること、ガラスの飛散や大きな家具類が倒れないような防止策を施すこと、家族との連絡手段の確認くらいしかないだろう。

    普段、都会では『大自然の脅威』などという言葉さえ忘れてしまいそうだが、ひとたび事が起きれば、その大自然の力の前で、私たちはあまりに無力である。

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • 「フェリーチェ・ベアトの東洋」 東京都写真美術館にて

    19世紀を代表する偉大な写真家、フェリーチェ・ベアトーの作品群が日本に上陸する。

    アメリカのロサンゼルスにあるJ.Paul Getty Museumによるフェリーチェ・ベアトー(1832-1909)の作品の国際巡回展の一環として、日本では東京都目黒区の東京都写真美術館での公開である。

    2年ほど前に、『時代の目撃者 ベアトー』と題して、写真家ベアトーについて取り上げてみた。今の残されている幕末の江戸の風景の秀作の中には、彼の手による作品が多いことは、日本でよく知られているが、1853年に勃発したクリミア戦争、そして1857年に始まるインドのセポイの反乱を撮影したことにより、戦争写真家の先駆けでもある。

    当時の交通事情はもちろんのこと、その時代の写真機材自体が後世のものとは大きく異なるため、彼が撮影したのは戦闘行為が終了した直後であるとはいえ、戦火の爪痕生々しい北インド各地の様子や処刑される反乱兵の姿などを伝えるとともに、当時の街中の様子なども活写しており、貴重な歴史画像を私たちに残してくれている。

    ベアトーの生涯を概観する日本発の回顧展という位置付けがなされており、アジアの東西で多くの風景を撮影した彼の青年期から晩年までの軌跡をたどることができる。写真芸術としての高い価値はもちろんのことながら、歴史的な重要性も極めて高い。

    今から180年前に生まれ、103年前にこの世を去ったベアトーが後世に残してくれた風景の中にじっくりと浸ることができる稀有な機会だ。

    会期は、3月6日から5月6日までの2か月間。

    フェリーチェ・ベアトの東洋 (J・ポール・ゲティ美術館コレクション) 東京都写真美術館

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。