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カテゴリー: life

  • 遠からずミャンマーでクレジットカード、ATMの利用が可能に

    経済制裁のため、クレジットカード(ヤンゴンの外資系の一部のホテルを除く)もATMも使用することができず、トラベラーズチェックを使うこともできないため、頼りになるのは米ドル紙幣のみといった具合が長く続いていたミャンマーだが、そうした不便は遠からずに過去のものとなりそうだ。

    欧米先進国による制裁緩和(一部解除、期限付き停止等)が順調に進む中、もっぱら経済面で注目を集めている同国だが、当然のごとく金融・外国為替の方面での大幅な改善が見込まれている。

    少し前に、ヤンゴン在住の方がFacebookでリンクをシェアしておられたが、近いうちにクレジットカードが利用できるようになったり、外貨送金も可能となる見込みのようだ。

    Visa, Mastercard on the way, says banker (THE MYANMAR TIMES)

    三井住友銀、ミャンマーに営業拠点 外国の銀行として初(日本経済新聞)

    当然、トラベラーズチェックの換金も出来るようになるはずなので、滞在中の資金として持ち込むのが米ドル現金のみという不安も解消できることになる。

    同様に、ミャンマーの人たちが海外に出る際にも利するところが大きい。少しまとまった金額の外貨となると、国外への持ち出しに制限がかかる現状は変わらないのかもしれないが、少なくとも正規の送金ルートが出来るということで、外国に留学する際などにも大変便利になることだろう。

    ミャンマー在住の親御さんの支弁による日本留学はあり得ず(いかに裕福な両親であったとしても)、国外ないしは日本に住む身内が経費を支払うという前提でないと、ヴィザ取得不可という現状の不便さは解消されることになるはずだ。

  • ストクの村のホームステイ

    ストクの村のホームステイ

    伝統的古民家 にゃむしゃんの館
    レーからバスないしはタクシーで40分ほどのところにあるストクの村で、ホームステイを受け入れているお宅がある。ラダック人のご主人スタンジン・ワンボさん、奥さんの池田悦子さん、可愛い娘さんのかりんちゃんが、ここで暮らしている。庭には季節の野菜が青々と茂り、その一角には自家製の日干し煉瓦が積まれていた。
    この家屋は、かなり傷んだ状態にあったものだそうだが、ご夫妻が丁寧に修復して、昨年11月からホームステイを受け入れておられるとのこと。そこに至るまでの経緯は、ご夫妻のブログ NEO-LADAKH / ネォ・ラダックにて、ラダックでの近況とともに綴られている。
    近ごろは新しい建物が増えて、街並みも広がったレーとは異なり、ストクの村にはまだまだ伝統的な家屋が沢山残っている。川から引いた水路が村の中を流れ、サワサワと涼しげな音を立てながら、生活用水を各世帯や畑に供給している。村のあちこちで、洗濯や水汲みをしている女性たちの姿も目にする。
    村の中で家々の間を縫うように流れる水路
    豊かに咲き乱れるアブラナの花
    水に潤されている土地の鮮やかな緑と、そうでない場所の月面のような荒涼とした景色が実に対照的だ。そこに水があり、これを利する人々がいるがゆえに、日々の生活が営まれ、地域の文化が育まれていくということを実感する。冬季には川は凍結して水路も止まってしまい、ハンドポンプ式の井戸まで水を汲みに行くことになるというから、夏とはまったく異なる景色となるのだろう。厳しい冬の時期に備えて、夏のうちから干し野菜を作って準備しておくとのことだ。
    村の中の豊かな緑は、水を巧みに利用する人々の勤労の証。お見事です。
    ご夫妻のお宅の裏手にある大きなチョルテンは、13世紀くらいのものではないかとされる由緒あるものだそうで、中に入ってみると色彩鮮やかな壁画が描かれているのを目にすることができる。この村に人々が住み着いたのも相当古い時代まで遡ることができるに違いない。
    チョルテン内部の壁画
    ご夫妻のお宅からしばらく下ったところにある王宮
    日中、旧王宮を見物してみたり、川の上流のほうに歩いてみたりしたが、見どころや風景もさることながら、村の中にめぐらされた水路には非常に関心した。川から引いた水の流れを直角に曲げたり、盛り土をした上を流したり、石垣の上を流したりと、自由自在な創意工夫に富んでいる。まさに「水道」である。
    川は村の豊かな緑の源泉
    石垣の上を流れる水路
    直角に曲げてある水路
    夕方近くなってから夫妻のお宅に戻る。家屋の1階は家畜用スペース、2階が住居で3階が客室となっている。2階にあるキッチンの周辺は、ご夫妻と娘さんのくつろぎの空間であり、接客スペースともなっている。ここで奥さんの手作りの美味しい地元料理をいただき、ラダックやストックの村のことなどについて、様々な話を聞くことができて大変興味深い。
    歴史を感じさせる立派なかまど
    家の中では、子犬の「ユキト」と「ヤマト」が2匹飼われていて、かりんちゃんが子犬たちと時にはケンカしながらも、仲良く遊んでいる様子が微笑ましい。ときおりご主人の実家の方や近所の方も顔を出されるので、そこでまた会話をすることができるのもアットホームな感じで嬉しい。私は時間がなくて一泊しかできなかったのは残念に思う。
    夜遅くなってきた。午後11時で電気が止まってしまうので客室がある3階に上る。ユキトとヤマトもトコトコ付いてきて、「遊んで!」という表情でこちらを見つめている。しばらくテラスで2匹の相手をしながら夜空を見上げると、思わずハッと息を呑む。こぼれ落ちてくるのではないかと思うほど沢山の、色彩豊かな星々が天空いっぱいにきらめいているのだ。
    高度のためか、あるいは乾燥のためなのか、早朝や夕方に大空が紅に染まることなく、東の空から淡々と日が昇り、これまた西の彼方に淡々と日が沈んでいくのだが、それとは裏腹に、星空の眺めは低地の都会からは想像もつかないほど豪華絢爛なものであった。
    翌朝目覚めて部屋の外に出ると、子犬のユキトが待ち構えていてくれた。
    レーからストクまでは、朝8時に直行のバスが出ている。あるいは途中にあるチョグラムサルの町を通過するバスは頻繁に出ているのでこれを利用し、そこからはタクシーで向かってもいいだろう。ただし、ストックの村までと言うと、村の中の大きな集落になっている部分か古い王宮の前で降ろされてしまい、30分くらい上り坂を歩くことになるため、「トレッキングポイントまで行く」と伝えたほうがいい。
    トレッキングポイントとは、ストク・カングリー方面に向かうルートの出発地点であり、そのあたりにはいくつかの商店、レストラン、宿などがある。すぐ目の前を川が流れており、橋を渡ってしばらく坂を上ると、お二人が運営する「伝統的古民家 にゃむしゃんの館 (Nyamshan Old House)」に着く。宿泊の際には、前もって電話で予約をすること。
    ご夫妻は、NEO-LADAKH travel & livingという旅行会社も営んでおられる。次回、ラダックを訪れる際には、ぜひともトレッキングやジープでのツアーのアレンジなどもお願いしたいと思っている。
    部屋の扉を開けると、朝日が差し込んできて気持ちがいい。早起きは三文の得なり。
  • 携帯電話SIM 「J&K州 only」

    携帯電話SIM 「J&K州 only」

    インドのどの州で携帯電話のSIMを入手しても、基本的にはこれを全国で利用することができる。SIMを購入した州外で使うと「ローミング」扱いとなり、通話料は若干高くなったり、同じ携帯電話会社でもキャンペーン内容も少し異なったりするものの、通話もスマートフォンの場合でのインターネットも問題なく用いることができる。多くの機種では、これを介して自前のパソコンをネット接続するテザリングも利用できるはずだ。また、大半の州で3G回線での接続となっているため、あまりストレスなくネットの利用ができる。インドでは3G環境下でSkypeの通話を利用できるのもありがたく、料金を気にすることなく国際通話ができる

    プリペイドのプランのユーザーが非常に多いこと、携帯のハンドセットの中古市場もさることながら、新品でも手頃なアンドロイドのスマートフォンが出回っており、micromaxなどのものでは、5千ルピー台くらいからあるので、スマートフォンによって得られる利便性、加えてSIMフリーでインド国外の第三国でも利用できることなどからも、決して悪い投資ではないだろう。外国語版アンドロイドを日本語化する方法は、ウェブでいろいろと公開されており、ごく簡単に日本語でのメールのやりとりも可能となる。

    携帯電話会社はいろいろあるが、SIM購入の容易さやネットワークの広さなどを考え合わせて、airtelあるいはvodafoneを選択しておけば間違いないだろう。SIMそのものの代金は100ルピーもしないし、現在のインドの携帯電話の国内通話料金は世界最安レベルである。たとえ旅行中であっても自前の携帯電話回線があると何かと便利だ。

    インド中、どこに行っても、そこに電波が届いている限り、全国縦横無尽に活用できるインドの携帯電話のプリペイドSIMだが、ひとつ例外的な地域がある。J&K州だ。同じく政情に不安があったり、国境地帯であったりもするナガランド、ミゾラムその他の北東州では問題なくとも、J&K州だけは「別格」で、基本的に他州で購入したプリペイドSIMは利用できず、反対にJ&K州で入手したSIMも州外では用いることができない。もちろん通話だけではなく、インターネット接続も同様だ。

    一度購入すると、SIMがその後他人の手に渡ってもわからないプリペイド(ときおり携帯電話会社から利用者の本人確認の問い合わせ電話がかかってくることはあるが・・・)の場合と違い、継続的に毎月利用者が料金を支払い続けるポストペイドのプランの場合は大丈夫なのだが。

    J&K州では、州外で購入したプリペイドSIMができないとなると、同州で購入すれば済む話ではあるものの、他州の場合と異なり、この州に居住している必要があるとされるのが厄介だ。ラダック地方でのサービスを実施している携帯電話会社は3社しかない。国営のBSNL、民間会社のaircelとairtelである。前者ふたつは地域内での居住者であるという条件に厳格でダメだったのだが、airtelは、州内在住者が保証人となる(選挙民登録証または運転免許証の写しが必要)ことにより、非居住者でもSIMの購入が可能と言われた。とはいえ、一介の訪問者に過ぎない私が地元の保証人を用意しろというのは無理な話だ。

    ただし、かようにしてガードが甘そうなので「滞在期間が限られているのだから」ということでお願いしてみると、案外簡単に「いいでしょう!」との回答を得ることができた。写真は5枚も必要であった(通常、他の州では1枚のみ必要)が、SIMを購入することが出来た。ただし、購入してからすぐに利用できる他州と異なり、SIMを手にしたものの、「アクティヴェートできるのは明後日の午後4時以降から」とのことで、携帯電話が開通するまでに2日間の時間を要することになった。これは地元の人が購入しても同じことらしい。

    2日後、所定の操作により、アクティヴェートを完了。通話は問題なく利用できるようになったのだが、ネット接続がうまくいかなかったが、ハンドセットの問題ではなく、地元の通信事情が原因であった。まだ2Gでのサービスしか行なわれていないことに加えて、回線そのものの容量がとても小さいため、人口が少ないこの地域では利用者の数も知れたものだが、それでも日中はほとんどパンク状態にあるらしい。日中は電気の供給がなく、午後7時から午後11時までしか電気が来ないという事情も、携帯のネット環境への負荷が大きくなることのひとつの要因ではないかとも思う。

    通話は大丈夫だが、インターネットの利用ができないため、てっきり私のギャラクシータブの設定がおかしいのではないかと思ったくらいだ。日中はエラー表示が出ることが少なくなかったが、深夜近くや明け方に操作してみると、速度はかなり遅いものの、メール等のチェックをすることはできた。

    ただし、通話やネット利用できる圏内は広くない。レー周辺やある程度大きな町があるエリアでは利用できるものの、それ以外ではダメなようだ。ラダック地域で最もカバーしているエリアが広いのは、国営のBSNLらしい。地域内各地を行き来する運転手たちの多くが利用しているからだ。vodafoneその他、サービスを展開してみても、さほど旨みがあるとは思えないこの地域への進出を尻込みしている民間の携帯電話会社も少なくない中、行政の見地からこうしたインフラを提供できるのは、やはり政府系の会社ということになるのだろう。

    蛇足ながら、宿泊先での会話の中で知ったのだが、airtelのプリペイドの通話分のバランスについて、他のairtelのプリペイドユーザーとの間でシェアできるサービスがあることを知った。5Rsから始まり, 10Rs, 20Rs, 30Rsまでの間の任意の金額で相手に譲ったり、反対に貰い受けたりすることができる。

    わずかな手数料分は差し引かれるものの、付近にバランスをチャージできる店がなかったり、緊急の場合などで役に立つのはもちろんのこと、J&K州で購入したSIM(J&K州の外では使用できない)の通話分のバランスを使い残してしまったりする場合、デリーその他で購入したairtelのSIMのほうに移行する(州外のSIMにバランスの移行することは可能なようだ)ことができる。また、インドから出国する場合も同様に、未使用のバランスを他のユーザーにあげてしまうこともできることができる(あるいは出国する人から譲ってもらうこともできる)ことは、覚えておいて損はないだろう。

  • 東京ジャーミイ

    東京ジャーミイ

    1938年に完成し、老朽化のため1986年に解体された代々木モスクを前身とする、現在の東京ジャーミィが落成したのは2000年のことだ。代々木モスクに先駆けて、1935年に出来た神戸ムスリムモスクと並び、日本で最も伝統あるモスクのひとつということになる。

    神戸ムスリムモスクは、建立時から神戸在住ないしは商用等で出入りしていたインド系ムスリムの人々との関わりが深かったのに対して、代々木モスクのほうはトルコとの繋がりが強かった。これを引き継いだ東京ジャーミイのウェブサイトが日本語・英語・トルコ語の三言語による構成となっていることからもわかるとおり、現在もその様相は変わらない。

    それもそのはず、建立時の一部の寄付を除けば、外国政府の影響を受けていない神戸ムスリムモスクと異なり、こちらは在日トルコ大使館の管轄下にある施設である。ゆえにトルコ文化センターとしての機能も兼ねており、観光その他の資料等も配布されている。

    その他、首都圏では東武伊勢崎線沿いに点在する簡素な礼拝所、加えて小田急線沿線にもいくつかあるそうした施設には、南アジアと縁が深いタブリーギー・ジャマアト関係のものが多いこととも対照的だ。

    日本国内で、東京・神戸以外の地域に目を向けてみると、名古屋にある「名古屋モスク」愛媛県の「新居浜マスジド」、福岡の「福岡マスジド」といったあたりが広く知られているが、やはり資金力の関係から視覚面でのアピール度といえば、小ぶりながらも壮麗なオスマン様式の建物で観る者の眼を楽しませてくれる東京ジャーミイの右に出るものは今までのところない。

    首都圏ご在住で、まだ訪れてみたことがないという方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思うが、遠方にお住まいでそういう機会はないという方も、東京ジャーミイのウェブサイトで公開されているパノラマ画像を楽しむことができる。

    蛇足ながら、先に挙げたいくつかのモスクのように日本国外からやってきたムスリムならびに日本国内のイスラーム改宗者のための礼拝施設、修養の場とは異なり、日本社会そのものを対象とするイスラーム文化の広報活動の最も活発な一例としては、サウジアラビア王国大使館付属の文化機関で、東京都港区元麻布にあるアラブ イスラーム学院が挙げられる。リヤドにある国立イマーム・ムハンマド・イブン・サウード大学の東京分校という位置付けになっている。豊富な資金を背景に、こうした機関を通じて、日本人に対するアラビア語その他の教育に加えて、出版・啓蒙活動を展開している。

    日本は、イスラームという宗教やその文化背景と縁が薄いため、一般の人々の関心がなかなか向かない反面、歴史の中でこうしたコミュニティとの衝突や軋轢をまったく経験したことがない土壌。警戒心も反感もないという点は、こうした活動を行なう側にとっても私たちにとっても幸いなことかもしれない。

  • ジープ島

    インドと全く関係のない話題で恐縮なのだが、ミクロネシア連邦トラック環礁のジープ島という場所が気になっている。

    サンゴ礁のラグーンの上にポツンと存在する直径34m、外周110mというとても小さな島だが、人が定住(リゾートなのでスタッフが常駐)している島の中では最小の部類に入ることだろう。

    四方を海原に囲まれて、水平線から昇る太陽も、同じく海の向こうに沈む夕陽も眺めることができるという稀有なロケーション。

    海上のちっぽけな孤島であるため、陸地の生態系との関係はないようで、南海のビーチながらも蚊がいないという。

    島のオーナーは日本人であるとのこと。船で40分ほどのところにあるトラック本島にあるホテルBLRという宿泊施設もこの方の経営だそうだ。

    海に潜って大いに楽しみ、そして小さな陸地で地球の大きさを感じながら、昼寝をしながらのんびり過ごしてみたい。

    ぜひ、いつか訪れてみたいものだ。

    ジープ島紹介ビデオ (ジープ島)

  • 携帯電話 若者たちにプライバシー革命

    あまり昔のことと較べても仕方ないのだが、インドの街中でデートする若者たちの姿が増えた・・・と思うのは、ライフスタイルや価値観の変化という外的な要因、洒落たカフェ、モール、シネコンその他のインフラ面の充実といったものもあるが、そうした変化と歩調を合わせるようにして普及した携帯電話を各自が持っているという内的な要因が大きく作用しているはずだ。

    昔、インドでは地方から出てきている学生や就職したばかりの者が自前の電話を持つということはまず無理だった(費用はともかく、固定電話回線を得るのはとても時間がかかるものだった)ため、近所の電話屋に出向いて自分から相手にかけるのみで、向こうからの連絡を受けることはできないという一方通行状態。双方が実家から通学・通勤している場合には双方向で連絡を取り合うことができるものの、ともに家族の反応を気にしながらということもあったし、非常識な時間にかけるわけにはいかないし、ともに在宅しているときのみ可能な通信手段であった。

    個々が専用に所持する携帯電話が普及してからというもの、どこの誰からかかってきているのか、父母等に知られることなく、心置きなく会話することができるし、すでに相手の家人が寝静まっている時間帯でも、こっそり通話することができる。あるいはSMS等を送信しあったり。

    もちろんインドに限ったことではなく、日本その他どこの国でもこうした自由を今ではごく当たり前のものとして、青春時代の若者たちが享受している。私が高校生や大学生くらいの頃には、まだそうしたものはなかったので、付き合っていたガールフレンドに電話する際には、いささかの緊張感があったものである。とりわけ電話口に出たのが相手の父親であった場合にはなおさらのことだった。

    当時のインドでは、若い男女がデートしている場面といえば、広い公園の木陰のような人目に付かないところというのが典型(今でも田舎ではそんな感じだが)であったが、今のインドの都会では、若い男女が出かける先には事欠かなくなっている。携帯電話という自前の通信手段があれば、家族に知られることなく都合のつく時間帯や場所を決めて落ち合うのはとても簡単になった。若者たちの日常生活において、それこそ「プライバシー革命」とでも表現すべき出来事となる。

    そんな時代なので、恋愛や結婚といったものに対する考え方について、それ以前の時代に育った親世代とはかなり齟齬が生じているのかもしれない。親の監視下にあるのが当然の状態で青春期を送った人たちと、それを回避できるのが当たり前の時代に成長した人たちとの違いだ。

    親しい間柄にある人で、最近結婚に失敗してしまった人がいる。結婚自体は双方の両親のアレンジによるもので、当初はうまくいっているものとばかり思っていたのだが、実はそうではなかった。相手の女性は、結婚前から親しかった人物との関係が続いており、それが破局の原因となってしまった。もちろんそういうケースは従前もしばしばあり得たものだが、携帯電話やSNS等といった通信手段により、よほど遠く離れた場所に嫁いでしまわない限りは、そうした婚外恋愛(extra marital affairs)、不倫といったものが容易になることは言うまでもない。

    それはともかく、恋愛観、結婚観といったものについて、「ケータイ時代以降」に青春期を過ごした世代と、それ以前の親世代との間での不協和音は続くことかと思うが、今の若者たちが親となる時代には、そのあたりの事情は大きく変わっているのではなかろうか。中年世代に差し掛かった「かつての若者たち」が『最近の若い奴らは・・・』などと愚痴っていたりすることもあるのだろうが。

  • Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    今回で第33号となるNamaste Bollywood。特集記事『ボリウッドのBはビューティーの』と題して、ミスコン出身女優たちが取り上げられている。

    さすがに美の大国だけあり、神々しいまでに麗しい女優たちが多いボリウッドの世界だが、その中でミス・ワールド、ミス・ユニヴァースといったトップレベルのミスコンでの受冠経験を持つ女優は多い。

    だがミスコンの肩書は、映画界入りの際の看板にはなるものの、ただ美しいだけで成功できるわけではない。演技者しての高い技量、内面的からにじみ出る魅力、そしてカリスマ性といった要素に加えて、苛烈な競争の映画界で巧みに生き抜く「営業力」や「政治力(のようなもの)」を備えてこそ、スターとして輝くことができるのだ。

    嬉しいニュースも掲載されている。Ra. Oneの日本公開のお知らせだ。ボリウッド好きの人たち以外の間での関心度は今のところ無に等しいかもしれないが、公開が始まってから口コミその他で注目度が急上昇しそうな気がする。夏休みの映画の最大の目玉のひとつとなるのではないかと予想している。

    今号の「ボリウッド千夜一夜」は怪談仕立て。内容についてここで触れるわけにはいかないが、ぜひとも本誌を手に取って楽しんでいただきたい。

    社会問題をテーマにしたANTAR DWANDのDVDについても触れられている。TIRAKITAにてレンタル・サービスが行われているとのことで、こちらもぜひ利用したい。

    Namaste Bollywoodと同じくスタジオ・サードアイによるJ-one第3号もすでに発行されている。「ライフワーク企画 福島と生きる」「相馬高校放送局 今伝えたいこと」「劣化ウラン弾と内部被曝」等々、見出しを眺めただけでも中身の濃い内容が目白押しであることがうかがえるだろう。

    大飯原発の再稼働をめぐる政府のスタンスを見ていると、あたかも福島第一原発の事故後しばらく続いた「脱原発」の方向にあるかのように見えた一連の対応は、あくまでも世論を宥めるためのパフォーマンスに過ぎなかったのかと、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。世界を震撼させる大事故であったにもかかわらず、そこから有益な教訓を得て変革を図ることなく、旧態に戻そうとするこんな政府に、この国の将来を託してよいのだろうか。

    変化を求める民心を惹きつけて政権交代を実現させた民主党だが、肝心の民意は彼らに届かない。党の迷走ぶりと合わせて、今から思えば、あれは一体何のための総選挙だったのかと思う。

  • マウラミャイン

    マウラミャイン

    先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

    モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

    ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
    深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

    深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

    外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

    午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

    こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

    ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

    まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

    目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

    この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

    乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

    マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

    確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

    ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

    だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

    KALADAN MASJID

    礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

    SURTEE SUNNI JAMA MASJID

    植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

    西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

    もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

    そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

    それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

    MOGHUL SHIAH MASJID

     

  • ヤンゴンの往来にて

    ヤンゴンの往来にて

    往来にバイクの姿がないヤンゴンの街

    訪れるといつも「通りがずいぶんすっきりしている」と思っていた。渋滞がないわけではないが、アジアの大都市の中ではクルマがかなり少ないほうだ。だが交通の密度ではなく、何かが決定的に違うような気がしていた。

    他の旧英領の国々でよくあるように、路肩がゼブラに塗られていたり、コロニアルな建築物が多かったり、ダウンタウンから北に向かうと道路の両側に緑が多かったりして美しいのだが、マレーシアやシンガポールなどでも、そのあたりは似たような感じだし、それらの国々のほうが、ここよりよっぽどキレイに整備されている。

    夕方、ビールを飲みながらロンリープラネットの最新版ガイドブックのヤンゴンのチャプターを開いていて目に入ったのが「Motorcycle free」という見出しの短い記述。何年か前に、軍の高官を乗せたクルマがバイクに乗った者に攻撃されたのがきっかけにより、市内へのバイクの乗り入れが禁止されたとある。

    ミャンマーに限ったことではないが、言うまでもなくアジアの多くの地域でバイクは実用の足である。この国でも、ヤンゴンから出るとバイクは沢山走っているし、バス以外の公共の交通手段がバイクタクシーしかない土地も多い。

    所得水準が向上するにつれて、乗用車を購入するようになったり、あるいは趣味としてのバイクに乗ったりするようにもなるのだが、やはり自動二輪は市民の貴重な交通手段だ。

    バイクが走ることができない分、市バス網が発達しているという部分で埋め合わせされていると考えることはできるが、田舎町と違って格段に広がりのあるミャンマー最大の都市で、自前の交通手段があるかないかで、日々の利便性は比較にならないくらい違うだろう。

    おそらく行政区分によって「ここからバイク進入禁止」などと定められているのだろうが、その境界のすぐ外に住んでいて、バイクを所有している場合、目の前に広がる都市部に乗り入れることができないことにジレンマを感じずにはいられないだろう。「職場までバイクなら10分なのに、通勤時間帯のバスはひどく込み合っているし、回り道するから30分以上かかってしまう・・・」とかいうこともあるだろうし、禁止区域に入ってすぐのところに暮らしている場合など、それとは反対に自宅までバイクで戻ることができないので所有できないなどということもあるかもしれない。

    歩行者としては、クルマの間を縫うようにして飛び出してくるバイクがいないだけで、大通りはずいぶん渡りやすくなるのだが・・・。

    「通りがすっきりしている」と感じたのは、まさにそれゆえのことであったようだ。

     

  • 再会ならず

    初めてヤンゴンの街を訪れたのは、1988年2月のことであった。

    当時は入国するにあたり、空港で100米ドルの強制両替があった。実勢と大きくかけ離れた馬鹿らしくなるようなレートによる現地通貨チャットと等価ということになっていた外貨兌換券(FEC)への換金である。

    当時、この国では家電製品や贅沢な品々は、闇ルートで細々と入ってくるものが主であった。ダウンタウンのスーレー・パゴダのすぐ北には、国営の外貨デパートがあった。そこでは外貨を持つ人のみが買い物をすることができた。

    そんな具合であったので、ブラック・マーケットで米ドルを地元通貨チャットに替えるよりも、空港の免税店で購入したブランドものの洋酒やタバコを持ち込んで、声をかけてくる商売人たちに売り渡すと割が良かった。私も、バンコクの空港で買ったジョニー・ウォーカーとカートン入りのタバコでチャットを手に入れた記憶がある。

    そんな具合ではあったものの、この街で出会った人々の印象はすこぶる良かった。市内のレストラン等で食事をしていると、隣り合わせてしばらく話をした相手がいつの間にか私の分まで払ってくれていたりすることが何度もあった。

    また、当時同年代であった若者たちと街で知り合い、彼らの家々を訪問させてもらったり、ごちそうになったり、市内を案内してもらったりと、とても楽しく過ごさせてもらった。その頃、みんな地元の大学の学生たちであった。

    その半年後、1988年8月8日に始まった民主化運動が高揚していった末に待ち構えていたクーデターとそれに続く強権による弾圧が伝えられていた中、あの人たちはどうしているのだろうか、と非常に気にかかったものだ。

    中にはタイに逃れた者もあったし、日本に来てそのまま今まで住み続けている人もある。当時の状況下で、しばらくの間は大学そのものが閉鎖されていたため、そのまま学業を放棄したという人は少なくなかったようだ。その中のひとりで、ずいぶん長く東京に暮らしている人と、しばらく前に久々に再会することができた。当時の彼の仲間のうち、一人は病気で亡くなり、もう一人はタイに亡命中に死亡したという話を聞き、とてもショックであった。

    だが、近々ヤンゴンを訪れるのだと言うと、今も同じエリアに住んでいる仲間、F君がいるので会ってみたら?と、住所を教えてくれた。F君とは、1988年にこの街を訪問した際に知り合った当時の大学生たちの中のひとりである。親切でにこやかな好青年の顔が脳裏に蘇ってきた。

    そのヤンゴンに来たので、ぜひとも再会してみようと、当時の写真を手にして彼の家に向かうことにした。平日は忙しいだろうからと思い、日曜の昼過ぎにそのストリートに行ってみた。

    当時の風景についての記憶はあまりないが、たぶんその頃からあまり変わっていないのではないかと思う。河沿いのダウンタウンの整然とした造りの街並みにマッチした古くからある集合住宅が立ち並んでいる。

    「このあたりだろうか?」と見当を付けて、年配男性に声をかけてみた。なんともうまい具合に、彼はF君の兄だという。それにしては年齢が高すぎる気がしたが、ムスリムなので大家族であるとすれば、親子といっていいほど年が離れた兄弟がしてもおかしくはない。

    だがその兄だという人の反応がどうも妙な具合だった。私が見せたF君の写真をまじまじと眺めて、「そう、私の弟だ。ずいぶん昔の写真だね・・・」と言ったきり、口を閉ざしてしまった。そうこうしているうちに、物見高く、しかし親切な人たちが集まってきて、その写真の中にある数人の中から、現在東京に住んでいるS君の姿を見つけた人が、その兄を連れてきてくれた。

    「おぉ、君のことは東京に住んでいる弟から聞いているよ。ウチに寄らないかい?ところで誰を探しているのかな?」

    写真の中のF君を指すと、少々困惑したような表情を見せて「この人については知らないなあ。会ったこともない」と言う。写真の中のS君、F君その他は非常に仲の良い友人たちで、足繁く行き来していたはずだが、S君自身がずいぶん長く国を離れているため、もう忘れてしまったのかと思ったら、どうやらそうではないらしいことが、その後知ることとなった。

    S君に書いてもらった簡単な地図には、F君の家のある建物の一階が帽子屋と書かれており、それらしき店を見つけた。三階がF君の家とは聞いていたものの、確かめもしないでいきなり訪問するのも気が引けるし、まったく見当違いの家であったらなお困るので、この店で尋ねてみることにした。店内の姉妹らしき女性たちはおそらく私と同年代、つまりS君とも同じくらいの年ごろだろう。

    写真を見せると、彼女たちは懐かしそうな面持ちでそれを眺めている。

    「ああ、ずいぶん昔の写真ねえ。みんなこの辺りに住んでいたわよ。引っ越してしまった人たちもいるけど・・・」

    この人は昔からこの通りに住んでいるらしい。

    「F君は今もここに居ますか?」と尋ねると、「彼の家族は住んでいるけれども・・・」と言葉を濁す。「彼はどこか別の街で働いているんですか?」と再び質問すると、今度は返事がなかったが、姉妹の年かさのほうの女性は、ちょっと思い切った様子で口を開いた。

    「彼はお尋ね者になっているの、窃盗を繰り返してね。家族の人たちとの縁も切れているのよ」

    何ということだ。どういう事情があったのか知らないが、この通りではF君は誰もが触れたがらない人物になってしまっているらしいことがわかった。道理で、F君自身の兄だと自称する人物の反応、そしてS君の兄の困った表情も合点がいく。

    余所者が根掘り葉掘り聞きだすわけにはいかないし、F君について質問された相手が迷惑していることも判ったので、ここで切り上げて退散することにした。残念ながらF君との再会はならなかった。

    人それぞれに、様々な人生があるものだ。

  • SHOLAYが3Dで蘇る

    1975年に公開されたラメーシュ・スィッピー監督による映画SHOLAYといえば、インド映画史上最大のヒット作のひとつ。今も燦然と輝く金字塔的な存在だ。

    若き日のアミターブ・バッチャン、ダルメーンドラが出演し、この映画の制作を通して、前者とジャヤー・バッチャン、後者とヘーマー・マーリニーというビッグなカップルが二組も誕生した。

    ダルメーンドラについては、当時すでに妻子持ちであったのだが、最初の結婚を解消することなく、ヘーマー・マーリニーを娶るという離れ業?を遂げている。おそらく家庭内では大変な騒動になっていたのではないだろうか。

    ダルメーンドラと同じく俳優のサニー・デーオールとボービー・デーオールは最初の結婚で出来た息子たち。女優として活動しているイーシャー・デーオールは、彼らの異母妹にあたる。

    アミターブ・バッチャンとダルメーンドラという、当時の若きヒーローたちの存在に加えて、SHOLAYを歴史的な大作の地位にまで押し上げたのは、二人が演じる主役との対立軸に、悪役の中でも迫力に抜きんでた名優アムジャド・カーンがいたからだろう。彼が演じた役柄「ガッバル・スィン」は、名前そのものが悪漢、盗賊の代名詞のようになったほどだ。

    SHOLAYのリメークとして、近年はラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のAAGが話題になったが、1991年にはパロディ作品でRamgarh Ke Sholayというコミカルなもの(低予算な映画だが面白かった)もあった。隣国パーキスターンでも、似たような映画が制作されていたようだし、インド国内でも、地方映画でこれに触発された作品があったのではないかと思う。

    今年8月には、本物のSHOLAYが3D化されて公開予定。封切りは、8月15日。インドの独立記念日である。老若男女、誰もがよく知っている映画ではあるが、再度大きなヒットを期待したい。

    Gabbar Singh set to return on screen, this time in 3D (India Today)

     

  • ヤンゴンのジャイナ教寺院

    ヤンゴンのジャイナ教寺院

    

    コロニアルな建物のジャイナ教寺院。

    先日述べたサティヤナーラーヤン寺と同じく29th Streetにジャイナ教寺院もある。こちらは信徒である年配のご兄弟が管理人をしている。一人はこの寺院を管理するトラストのプレジデント、もう一人はセクレタリーという形だが、同時にここのプージャーリーでもある

    お二人の話によると、ヤンゴンにて最盛期にはジャイナ教徒の人口は5千人を数えたという。だが今残っているのは二家族だけで、彼らはそのうちの一つであるとのことだ。寺院はコロニアルな建物に入っており、地上階はトラストの事務所、セカンド・フロアーが寺となっている。ファースト・フロアーも昔は祭壇があったとのことだが、今では使われていない。

    すでにほとんどのジャイナ教徒がこの国を去っているため、参拝客はほとんどいないそうだが、ときおりプージャーに参加するネパール人があり、いたく感激してくれるとのこと。しばらく事務所で話を聞いていたが、「さて、そろそろプージャーの時間ですよ!」と上階にある寺院へと招かれた。

    祭壇

    長い白布を左肩から斜めがけに付けてもらい、神殿正面に立ち、真鍮のお盆に灯明を載せたもの(火の数が多いものと少ないものと二種類あり、プージャーの間の節目ごとにセクレタリー氏が取り替えてくれる)を抱えて時計回り動かす。セクレタリーの人が朗誦するマントラを耳にしながら、感激がこみ上げてくる。これまでインドの寺院ではプージャーを背後から見物したこことは幾多あっても、こうした形で主体的な形で参加させてもらったことはなかった。しかもジャイナ教寺院で!

    信徒が二家族しか残っていないという割には、非常に良い状態で保たれている。

    事務所があるグラウンドフロアーとこの階との中間階、つまりファースト・フロアーもかつて寺であったが、今では使われることもなく、備品はすべて処分してしまったとのことだ。それでも奥の壁のニッチには、マハーヴィールの足跡のイメージがあった。

    この地に残る信徒は二家族のみということからも、まさに風前の灯といった具合のようだ。ご兄弟には複数の子供たちがいるそうだが、特にこの寺に関わりを持ってはいないとのこと。「若い世代は物の考え方など違いますからねぇ・・・」と、少々諦めている様子。だがその割には、ずいぶん綺麗に保持されていることには驚いた。国外からの援助でもあるのだろうか。

    「私どもの寺には150年の歴史があります」というご兄弟の言葉が本当であれば、第二次英緬戦争により、イギリスがヤンゴンを含む下ビルマを占領してから10年ほど後には、この寺院が建立されたことになる。多少の誇張が含まれているであろうことを差し引いても、19世紀末近くにはすでに存在していたことと思われる。この寺院は、ヤンゴンにおける「インド人史」の変遷を、つぶさに目の当りにしてきたことだろう。