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カテゴリー: society

  • サダル・ストリートの「ホテルチェーン」

    コールカーターのサダル・ストリート。英領期に元々は欧州人地区。20世紀に入ってしばらくするとユダヤ人地区、ベトナム戦争時には赤線地帯、それ以降は安旅行者地区と、変遷を続けてきた。

    近ごろはかなりキレイな宿も出てきており、スィク資本でムンバイーを本拠地に、いくつかのホテルを展開するBAWAグループがホテルを開いたりしたのにはちょっと驚いたが、サダル・ストリートの地元資本?によるホテルグループもいくつか宿泊施設を展開している。

    オーナーがムスリムのそのグループが運営するHotel Golden Appleが開業して間もないあたりで利用してみたことがあったが、とってもスタイリッシュな内装と施設にビックリした。ウロ覚えだが、2010年か2011年あたりではなかっただろうか。おまけに料金が確か1,200Rsとずいぶんお得なことにも感心したものだ。現在の料金は、2,500Rsくらいからのようだ。

    ただし、スタッフの態度はやはり界隈の安宿と同じで、部屋に置いてあるルームサービスのメニューが「ブルースカイカフェ」のものであるのには笑えた。注文すると出前しに来るのだろう。
    元々が安宿のオヤジとその取り巻きがやっている?と思うので、手入れもせず、すぐに汚くなって、周囲のボロ宿と同化してしまう「標準化現象」を見せてくれるのではないか?と予想していたが、案外そうでもないらしい。

    大都市の割には、カルカッタは中級クラスのホテル料金が安めなので、2,500Rsとか3,000Rsくらいのレンジならば、もっといい地区がある。わざわざサダル・ストリートに宿泊する必要はないように思うのだが、まあ、何かと便利な地区ではある。

  • インド国鉄客車のクラス分け

    宿泊を伴わないチェアカー車両のみを利用する近距離移動(それでも大きな国なので、8時間とか9時間とかザラだが)のShatabdi Express(「世紀急行」の意)から派生したJan Shatabdi Expressの運行が定着してからずいぶん経つ。

    Shatabdi Expressのような停車駅が少なく、他の急行列車よりも格段に迅速な移動を可能にした特別急行は、空調付き車両のみで、クラスの位置づけが高いため、当然、運賃もそれに応じて上がる。

    普通の急行列車と違い、乗車中にお茶、スナック、食事などが提供されるため、飛行機内でのサービスを思い浮かべてもらえばよい。これは乗車券代金に含まれる。

    さて、先述のJan Shatabdi ExpressのJanについては、一般庶民のことを指しているので、より経済的に余裕のない層でも利用出来るようにしたものだ。車内サービスは有料となり、AC無しの車両も連結されている。

    基本的には普通車とグリーン車しかない日本と異なり、インドの鉄道のクラスは8区分程度となり、かなり複雑だ。

    「8区分程度」としたのは、寝台クラス(長距離列車)と座席クラス(短・中距離列車)は、通常、同じ列車に連結することはない。用途が異なるため、一概に上下に分けることはできないものがあるからだ。

    また、同じ最上級クラスの1Aというカテゴリーでも、通常の急行列車と、運行に優先権を持つ特別急行とでは、使用する車両も違うことがあるので、これもまた同一のものとして扱うのは適当ではないだろう。

    最上級の1Aの下には、2A、3A(どれもAC付き)と続き、事実上のAC1等、AC2等、AC3等となるが、その下に近距離のACチェアカーなどを挟んで、「1等車」があることに釈然としない人もいるかもしれない。(現在、これが使われる機会は減っているが、要はACなしの一等車だ。)

    これほどにクラスが多いことは、植民地時代からの伝統により、国家予算とは別枠の「鉄道予算」を持ち、(確か、現在でも発表となるタイミングさえ、一般の予算と異なる)鉄道大臣が首相、内務大臣に次ぐナンバー3の位置づけとなっているインドの事情がある。

    ただし、次の会計年度から通常の国家予算と統合されることになったため、92年間続いた措置はついに終焉を迎えることとなった。

    Separate Railway Budget scrapped: How will it impact fiscal management and what is the political fallout? (DAILY NEWS & ANALYSIS)

    往々にして官業というのは、とりわけ強大な権限を持つところは、「これでもか!」と増殖を重ねていくもの。植民地時代は1等、2等、3等というクラス分けであったが、今のようにクラスが乱立するようになったのは、概ね90年代以降の現象のようだ。エアコン付きの客車が増加したことに起因する。

    さて、こうしたクラス分けについて、利用者の側にとっては、経済事情に応じて、安いものを選択できるということもあるが、払う余裕のある人については、車内のアメニティの差に金を払うというよりも、混雑を避けたり、同乗したくない層の人たち(階級社会らしいところだ)を避けたりすることが出来るという需要がある。それにしても客車のクラス分けが多いことについては、効率の観点から整理しなくてはならない時がやがて来るだろう。

    乗車クラスの違いによる料金差ははなはだしい。下記リンク先の記事は、2004年の内容なので、料金自体が現在のものとは異なるが、どの程度の差があるのか把握するための参考にはなるだろう。

    天国か地獄か、インド列車のしくみ(2) (indo.to)

    また、急行列車の種類についても、鉄道旅客輸送の高速化とともに、サービスと利便性向上の両方の観点から、従前の停車駅が少なく、走行に優先権を持つSuper Fastのステイタスを持つ急行とそれ以外、加えてSuper Fastの上を行くRajdhani Express(長距離列車)とShatabdi Express(短距離・中距離)といった構成であったものに加えて、先述のJan Shatabdi以外に、エアコンクラスを安価に提供するGarib Rath Express、停車駅が極端に少ないDoronto Express等といった新しいカテゴリーの急行列車も導入されて多様化が進んでいる。このあたりについても、整理しなくてはならない時期がいつかやって来るかもしれない。

    Super Fastの上のカテゴリー名が、急行列車の名前になったり、単に出発駅と終着駅が休校列車の名前になったりすることが多くなっている現在、英領時代から続いたSuper Fastのカテゴリーの「Frontier Mail」(ボンベイから現在のパキスタンのペーシャーワルまでを結んでいた。印パ分離後はアムリトサルが終点)のような伝統ある急行列車の名前が、「Golden Temple mail」と改称されたりしたのは寂しい気がする。

    これよりも歴史が古く、1世紀以上も運行されており、かつてはボンベイからペーシャーワルまでを結んだ「Punjab Mail」の方は今も健在だ。この急行列車の終着駅はパンジャーブ州のフィローズプルとなっている。

  • 「英雄」 バガット・スィン

    「英雄」 バガット・スィン

    デリーからパンジャーブ方面に向かう列車に乗る。

    途中のクルクシェートラ駅には、バガット・スィンの大きな胸像があった。町には、彼を記念したバガット・スィン公園などもある。

    Bhagat Singh

    パンジャーブ出身(現在パキスタン領となっているファイサラーバード近郊の村)で、スィク教徒の両親のもとに生まれた。社会主義に傾倒した革命家であり、1920年代に要人殺害や議事堂爆破事件などで拘束され、1931年に処刑台の露と消えた人だが、独立後のインドでは、誰もがよく知る憂国の志士、独立運動家ということになっており、彼を主人公とする映画もいくつか作られている。

    彼について書かれた本を読んでみたことはあるが、若気の至りで暴走した人物としというのが正直な感想。インド人には言えないが、今でいうところのテロリストでは?思う。

    政治主導の後付けで、英雄化されてしまうと、いろいろ齟齬が生じることもある。生地のパキスタンでは、彼の反英活動について、どのような評価がなされているのかは知らない。

    政治主導の英雄化といえば、さらに時代を遡った1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」とするのも奇妙で、反乱時に英国への忠誠揺るがず、鎮圧に大きな功績を残したスィク教徒たちの部隊、英国を強力に支持したスィクの藩王国は、国賊みたいなことになってしまうので、非常に収まりが悪くなる。

    過去の出来事は、現在のそれとは背景が違うため、「インド兵が英国兵と戦った」という一面だけで、反植民地闘争とするのは無理がある。

    歴史の再評価というものは、どうも胡散くさい。

    親族も反英活動で投獄された筋金入りの一族であったこと、当時としてはスマートなインテリ、非常に若くして処刑(享年23歳)されたことに加えて、イケメンでもあったため、ビジュアル的には持ち上げ易い要素もあったのだろう。

    ムスリムで同じような活動に従事していた人たちもいたはずなのだが、ここから時代が下るとパキスタン建国運動に収斂してしまうので、バガット・スィンの時代に「インド独立」を志向していたムスリムの「志士」たちは、現在のインドであまり名を残さないことになってしまう。

    2001年にパキスタンのテロ組織とともにデリーの国会襲撃事件に係わり、死刑となったカシミール分離活動家のアフザル・グルーなどは、彼の背景も事件への関与も、まさにバガット・スィンと同じにしか思えない。

    どこが違うかといえば、インドは独立したがカシミールはおそらく今後もインドから分離することはないと思われるので、彼が肯定的な評価をされることはない、というところだろうか。

    もちろん、こんなことはインド人に対して口には出来ないが。

  • チャーンドニー・チョウクのヘリテージ・ホテル

    デリーのチャーンドニー・チョウクといえば、今でこそ大変混雑した庶民のバーザールとして知られているが、元々はムガル王宮のお膝元のポッシュなエリア。大通りには水路と噴水があり、貴人たちが行き来する地域であったそうだ。ムガル帝都末期から「ムガル朝御用達」のミターイーの店として、伝説の老舗「ガンテーワーラー」が昨年まで営業していた。

    ムガル帝国滅亡後も、印パ分離独立でムスリム富裕層がここを離れるまでは、立派なハヴェーリー(屋敷)が建ち並ぶ美しいエリアであったという。インド独立後には、そうした建物の内部は細分化して間貸しされていたり、小さな商店等が入居したりといった具合で、元の姿を想像することさえ難しくなっていたりする。

    最近、そんなハヴェーリーのひとつを修復して開業したヘリテージ・ホテルがあるのだが、1泊およそ9,000~15,000Rsという高価格帯。こうした古いハヴェーリーは、まだいくつも残っている。こうした建物の利権関係はとても複雑なようだが、こうした類の宿泊施設が他にもいろいろ出てきたり、そうした中でエコノミーな施設もあったりすると、見どころも多い立地だけに、大変面白いことと思う。

    HAVELI DHARAMPURA

  • 北デリーのコロネーション・ダルバール

    北デリーのコロネーション・ダルバール

    Coronation Parkとして整備が進む

    ここは15年ほど前に訪れたことがある。当時は、子供たちがクリケットで遊ぶ広大な空き地であったが、現在は史跡公園として整備され、今もその工事は進行中。

    1877年、1903年、1911年にイギリス国王の「インド帝国皇帝としての戴冠式」が、まさにこの場所で行われている。もっとも最初のふたつは、イギリスから本人が渡航して儀礼を行うことはなく、来印して戴冠を行ったのは、1911年のジョージ5世が最初で最後。

    これが可能となったのは、1903年の即位時点ですでに高齢であったエドワードと異なり、1911年即位のジョージ5世は若かったのはもちろんのこと、1877年にはまだ建築中であったインドの鉄道ネットワークが完成の域に達していたことなどがある。このときジョージ5世は、ボンベイのインド門から上陸し、鉄道でデリーまで移動している。

    ジョージ5世の像

    この地でのダルバール開催について、英領時代から残る記念碑

    さて、ダルバールでは、内外の要人たちが集まるとともに、インド各地の藩王国からも王、王子、側近などが専用列車などを仕立てて参列し、この周辺には豪華なキャンプが設営されて、仮設ながらも文字どおりの華やかなダルバールが出現していた。

    1930年代には、英国国王はエドワード8世、ジョージ6世と2回変わっているが、インド独立運動の高まりで、大衆を動員して大規模なデモやストが頻発、加えて要人暗殺や爆破テロ事件なども頻繁するようになっていたため、ダルバールは開催されていない。

    1911年のダルバールの様子はyoutubeで閲覧することができる。

    長く打ち捨てられていた、植民地時代の旧宗主国の支配にまつわる場所で、独立以来、ことあるごとに英領時代の地名、英国の支配層にちなんだストリートの名前などが、改められてきたのだが、ここに来て「英国人のインド皇帝の戴冠式典」が行われたとして整備されるというのは注目に値する。

    しかしながら、コロネーション・ダルバールを整備しているのは、ASI(インド考古学局-考古学だけではなく文化財保護・研究などを包括的に行う政府機関)ではなくDDA(デリー開発公社)であることから、歴史や文化的な背景についての考察等はなされず、ただの公園建設となるのだろう。

    ちょっと残念だが、やっぱりという気もする。

    DDA管理下の公園であることを示す看板。(園内は禁煙、ゴミ捨て禁止、家畜進入禁止等々の注意が書かれている。)
  • The Church of St. James

    The Church of St. James

    The Church of St. James

    英印混血の風雲児、ジェイムス・スキナーが建てさせた英国国教会の教会。
    スコットランド人の父と同じく、軍人の道に進む。

    混血児への東インド会社軍での待遇の低さから、これに加わらず、マラーター王国の軍勢に外国人傭兵として参加してキャリアを築く。

    やがてマラーター王国が英国と対立(その後戦火を交える関係に)するにあたり、他の英国系の兵士とともに解放逐(インド各地にあった様々な王国で、英国その他欧州人の傭兵や顧問は少なくなかった)され、東インド会社軍へ。

    会社軍では、彼の名前を冠したSkinner’s Horse (Skinner’s Cavalry)という精鋭の騎馬連隊を創設して自ら率いる。輝かしい戦果を上げてきたこのSkinner’s Horseは、1857年の大反乱後、東インド会社が解体され、イギリスのインド省が統治を引き継いでからのインド軍、さらには独立後のインド陸軍にも連隊の名前を変えつつ引き継がれた。

    スコットランド出身のスキナー家は、ジェイムス以降も、インドに根を下ろし長らく軍に仕えている。1960年代には、伝統あるSkinner’s Horseを前身とする連隊を、なんとジェイムスの玄孫、ロバート・スキナーが率いるという歴史的な偶然(?)が実現しており、第二次印パ戦争で出陣している。ロバート自身は、1990年代に亡くなった。

    教会の中には、ジェイムス、Skinner’s Horse、ロバートその他のスキナー家や彼ゆかりの碑文、時代ごとのSkinner’s Horseの幹部の名前や階級などを記した石碑なども壁にはめ込まれており、非常に軍事色が濃く、しかも特定の連隊を記念するために建てられたかのような教会が他にあるのかどうかは知らない。

    教会の祭壇のすぐ手前には、「ジェイムス・スキナーここに眠る」と、彼が埋葬されている場所を示す大理石板もあるなど、まさにスキナーの独壇場といった風情で、実に風変わりな教会。スキナー自身の強烈な個性と自己主張を今の時代に伝えているかのようだ。
    これらをカメラに収めたかったが、あいにく敷地内も建物内も撮影禁止。

    この教会が面している通り、Lothian Roadを南下すると、British Magazine跡がある。イギリスの弾薬庫跡で、1857年の大反乱の際、ここに蓄えられた弾薬を巡り、イギリス側と反乱軍との間で激しい戦闘の舞台となった場所だ。ここが反乱軍の手に渡るのを防ぐため、爆破されたことから、現在残されているのは、当時の弾薬庫のごく一部のみ。

    British Magazine

    通りをさらに下ると、LothianCemeteryという、大反乱前の英国人墓地がある。あまりに崩壊ぶりがひどく、今後整備されることを望みたい。

    Lothian Cemetery
    墓碑
  • Trains at a Glance October 2015 – June 2016

    インド国鉄の最新版時刻表が更新された。インドの旅行予約サイトの普及により、あまり使い出はなくなったとはいえ、全国の急行以上の列車(および一部の各停)を参照出来る時刻表が、ネットで手軽にダウンロード出来るのはありがたい。本来ならば、毎年7月に発表されるべきものだが、近年は10月更新となっている。

    Trains at a Glance (Indian Railways)

  • Taj Mahal Tea

    Taj Mahal Tea

    Brooke BondのTaj Mahalティーバッグ。日本の南アジア系食材屋でも置いているほどポピュラーなティーバッグだが、本来はブルックボンドのインド市場専用ブランド。たくさん入っていて安く、インドの庶民の味方だ。
    うっかりティーバッグを3分くらいカップの中に入れたままにしていると、たちまち「紅茶のスープ」といった具合の濃縮茶というか紅茶エキスとなってしまうのは、アッサムの安価なダスト(ティー)を使用しているからだ。(一般的にアッサム茶は短時間で色も味も大変濃く出る)

    あまりに濃いためか、少しトロみがついたようにも感じられるくらいだ。それほど濃い。真っ黒な「紅茶スープ」といった風情で、からっぽのお腹に流し込むと、喫煙したときのように、てきめんに「シャキッとする」効果がある。たぶん胃にはあまり良くないのだろう。よって、ミルクは必須だ。

    しかしながら、これが美味しいかといえば、まったくそんなことはない。正直なところ、ただの紅茶として飲むのには非常に不味いので、私は決して買わない。ただし、紅茶入りのクッキーなど、製菓用に使用するならば、まあ使えるのではないかとも思ったりもする。

  • 宿のカギ

    宿のカギ

    インドの宿の客室のカギは、造りがかなりシンプルなものが少なくないが、こういう形のものは、たぶんこれ一本で、どの部屋も開いてしまうような気がする。(笑)

  • マジヌー・カー・ティーラーで食事

    マジヌー・カー・ティーラーで食事

    チベット関係グッズ、ダライラマ関係グッズ、坊さんの人形など、面白いものが目に付くのだが、モノが増えるのは困るし、縁起物は不要になって捨てるとバチでも当たりそうなので、とにかく買わないことにしている。

    書籍は増えてきたら、電子化してしまうという逃げ道があるため、この限りではない。せっかく来たのでチベット料理も食べておこう。昼過ぎから夕方前までの中途半端な時間帯は、どこの食堂もガラガラなのが常だが、いつ来てもDolma Houseは、ほぼ満席だ。たぶんここがトップクラスで美味いのだろうと、入ってしまうので、他の店のことはまったく知らない。

    まだ暑い外から店内に入り、まずはコーラを注文

    水牛のシャプタ(焼豚みたいなもの。豚じゃないけど)とギャトゥクを注文。どちらも大変美味だ。インドの中華は往々にしてひどいものであるため、中華料理の影響を強く受けたチベット料理を、インドで食べられる「正統中華料理」と言い換えてもいいくらいだ。

    水牛のシャプタ
    ギャトゥク

    このあたりには宿も多く、ATMや両替所にも事欠かないので、いつかこの界隈に投宿するのも悪くないな、と思う。ただし問題は、夜と朝方。つまり狭い路上と数多い野犬だ。しかもさらに細い路地に入ったところにある宿だと、人がひとりやっと通れるような幅の道では、昼間でも野犬のすぐ脇を行くのはいい気がしない。

    野犬さえいなければ、日没後と日の出前の街中はずいぶん歩きやすくなるのだが・・・。

  • 壮年ランボーとシェパードの散歩

    壮年ランボーとシェパードの散歩

    壮年ランボーとシェパード出現前のマジヌー・カー・ティーラーの街角

    マジヌー・カー・ティーラーで、野犬がどんどん集まってきて、盛んに吠えたてる。危ない予感がして、すぐさま近くの露店の軒先に入る。

    何があったかと思って目をやると、大きなシェパードが、飼い主かその使用人かよくわからないが、壮年男性と歩いてくるところであった。目の前で、沢山の犬たちが吠えているので、さすがに大型犬も怖じけて、男性の背後に隠れてしまっている。

    壮年男性のほうは落ち着いたもので、すぐそばまで接近してくる犬があれば、容赦なくバットくらいの長さと太さのコンボウを振り下ろし、強烈な打撃を与えて道切り開いていく。ランボーみたいで、こちらはなんだか壮観だ。

    野犬のバリケードを突破すると、男性はシェパードを自分の前方を歩かせて、背後からの攻撃者(野犬)たちから守っている。なかなかご立派!

    ブン殴られた仲間が悲鳴を上げると多少距離を空ける野犬たちもしつこく、彼らのエリア?を抜けてしまうまで、絶え間無く吠えたり、幾度も攻撃を試みたりする。やはりこいつらも狼の子孫だ。

    たかが飼い犬の散歩が、激しいコンバットみたいなことになっているが、勇ましい飼い主に連れられて、心臓を縮み上がらせながら毎日散歩する(たぶん・・・)シェパード君は、本当は外出しないで、お家でヌクヌクとしていたいのかもしれない。

    追撃をふりほどいたと思ったら、向こうの辻にも犬集団が集まってきた。シェパードを連れた壮年ランボーのバトル、第2ラウンドが始まる。(笑)

  • グルガオンの中華レストラン「如家」

    グルガオンの中華レストラン「如家」

    グルガオンの中華料理屋「如家」

    グルガオンにある中華料理屋(大陸から来た中国人が作る)に行ってみた。厨房から聞こえてくるパワフルでリズミカルな中華鍋捌きの音が食欲をそそる。ご存知のとおり、インド人が作るインド中華は、本場の中華料理とまったく別物だが、中国人コックによるちゃんとした中華料理は、「調理する音まで違う」ことをつくづく感じる。

    メニューの一部

    注文してみた料理

    かなり繁盛している店のようだが、ここで主たるものは宿泊施設で、そこのグラウンドフロアーに併設されているのが「如家」というレストラン。厨房で忙しく働くのは大陸からやってきた本場中国の料理人で、フロアーで注文取ったり、料理を運んだりするのはインド人スタッフ。果たしてチャレンジ精神旺盛な中国人商売人がデリーまで進出してきたのか、それとも目先の効くインド人が中国人料理人を招聘して開いたのかはよくわからない。

    しかし、どちらであったとしても、インドで本物の中華料理を楽しめるということが素晴らしい。だが、この場所への行き方についての詳しい記述はやめておく。なぜならば、9月末でグルガオンの店は閉めてしまい、10月15日前後からラージパトナガル2で営業を開始するからだ。

    ラージパトナガル2へ移転のお知らせ
    ホテルごと移転するようだ。

    ラージパトナガル2といえば、秀逸なアフガニスタン料理屋が多く、ここに中華料理屋「如家」が参入するとすれば、食道楽には大変嬉しいことになる。

    さて、「如家」はグルガオンのDLF Phase 1にあったのだが、これがラージパトナガル2に移転してしまうからといって、このエリアから本格中華料理の火が消えてしまうというわけではないようだ。「印度小四川火鍋」という、名前がそのまま示すとおりの火鍋専門店は、同じくグルガオンのPhase 2にあり、引き続き営業を続けるとのこと。最寄りのメトロ駅は、イエロー・ラインのSikanderpurあるいはMG Roadである。

    こちらは引き続きグルガオンで営業

    印度小四川火鍋 (Indian Xiao Sichuan)
    J/23, DLF Phase-2, Opposite Sahara Mall, Gurgaon
    電話(携帯)70655 85704