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カテゴリー: life

  • デリーの宿

    乗り換えのために必ず立ち寄らなければならない街というものがある。利用する国際線フライトが発着するようなところで、そこから旅行が開始されることになる。もちろんあちこち出歩いたりすることはあり、知己を訪れたり、グルメを楽しんだり、新しい注目スポットを訪れてみたりすることはあっても、すでに繰り返し訪問したことがあったり、かつて住んでいたことがある街となると、もはや好奇心を満たすよりも、旅行を始めるにあたって必要なものを調達する場所としての比重のほうが高くなる。

    するとなるべく短い時間で用事を済ますことができるようにするため、滞在するエリアへのアクセス、鉄道駅までの距離、ATMあるいは両替所、携帯電話のSIM購入に手間がかからず販売する店の営業時間も長いなどといった、効率よく立ち回ることができる環境が大切になってくる。当然、その環境の中に宿そのものの利便性も加わってくる。

    ロケーション、部屋の質に対して料金が財布に優しいかどうか、利用する時期に空室があり、予約も容易であるかどうかということがまず頭に浮かぶ。人気の宿で、混み合う時期にはなかなか空きがないとか、常に予約なしで宿泊希望者が次々にやってくるので、メールで問い合わせてもなかなか返信してくれないようなところはけっこうある。

    ここ数年、デリーで常宿にしているCottage Yes Pleaseは、特に部屋がキレイなわけではなく、料金が飛び切り安いわけでもなく、同程度の宿はいくらでもあるのだが、私はよく利用している。スタッフの入れ替わりはあまりなく、いつも同じ顔ぶれなのでこちらのことをよく覚えてくれている。

    まずはメールで問い合わせると、即時回答してくれること。夜にメールを出しておくと、翌日の午前中には回答してくれるし、予約の管理もしっかりしている。

    そしてどんな時間帯にチェックイン、チェックアウトするにしても、きちんとした対応をしてくれることだ。ちゃんとしたホテル並みに、どんな時間帯でもスタッフがカウンターで執務しており、日中と変わらない応対をしてくれるため、「アテにできる」という安心感がある。

    通常、エコノミーな宿の弱い部分として、深夜あたりから未明の時間帯に到着あるいは出発しようとする場合の対応がある。ロビーの床などでごろ寝しているスタッフを大声で起こすと、眠そうな目をこすりながら嫌々手続きをしたり、あるいは到着したこちらが予約客であることを確認もせずに「満室だ」と、追い返そうとしたりすることが往々にしてあるのが普通だ。

    さらには料金面での事柄もある。人を見て料金を変えるようなことはしない。タクシーなどを頼んだ場合も同様で、まともな金額による定額サービスを実施しており、明朗会計である点も好印象だ。

    加えて、ロビーには、客が自由に座って新聞を読んだり、Wifiでネット接続をしたりなどして過ごすことができるスペースがあり、他の宿泊客たちと気楽に会話を楽しめる環境であることだ。

    西洋人客も多く、閑散期には周囲の宿はガラガラでも、ここはいつもそれなりに宿泊客が出入りしているのだが、それとは逆に繁忙期でもエコノミーな宿の割には客室数が多いこと、周囲に同程度の料金の宿が数多いため、ピーク時期でも数日前にメールしておけば、深夜過ぎに到着する場合でも部屋を確保できることが多い。

    ここは、とりわけ日本人客の間で人気が高いようだが、ロビーで営業しているシゲタトラベルのおかげという部分もあるように思われる。日本語が流暢なラジェンドラ氏が切り盛りしている。彼の元には日本人スタッフも常駐しており、メールによる問い合わせにはこの方が対応されているらしい。

    ニューデリー駅前地域のワサワサした立地だが、個人的にはなかなか好印象な宿である。

  • GoAir ムンバイー・レー便、バンガロール・ポートブレア便就航  3月27日から

    GoAir ムンバイー・レー便、バンガロール・ポートブレア便就航 3月27日から

    このところ好調なGoAirがさらに新たな路線を追加する。今年の3月27日からムンバイーからレー(レーからムンバイーへのフライトはスリナガル経由)への便、そしてバンガロールからポートブレアへのフライトが就航する。いずれも毎日一往復となる。

    双方ともに観光需要に特化した便であるといえる。商用でのニーズが占める割合が高い都市間のフライトに較べて、休暇時期や季節によって需要が大きく変動するので、チケット価格の上げ下げの幅も相当広くなるはずだ。
    今後の運行スケジュールについては、座席の埋まり具合を見極めたうえで、ダイヤ改正の時期にシーズンによる増便・減便といった調整がなされていくことだろう。

    どちらにしても、これらの目的地への直行便がなかった都市からの就航となるため、新たな需要を掘り起こすことになる。それぞれの出発地である都市、その周辺地域に住んでいる人たちの場合、乗り換えなしで行くことができるという気楽さから、「行ってみようか!」という気になることは往々にしてあるだろう。

    費用面でも従前のようにムンバイーからデリーに飛び、デリーからレー行きのフライトに乗るとか、バンガロールからチャンナイ、コールカーターあるいはムンバイーまでの飛行機を利用して、さらにそこからポートブレアに向かうよりも安くなるであろうことから、こうした気分を後押しすることになりそうだ。「愉しみのための旅行」においては、「簡単で価格も安い」という要件が作用する部分は大きい。

    また、厳冬期のレーについては、デリーの濃霧によりダイヤの乱れが頻発したり、ときにはデリーの空港自体が閉鎖されてしまうこともある。とりわけレー行きの便のスケジュールは、たいてい早朝出発となっているので、テリー首都圏やその近くに住んでいる場合を除けば、デリーからよりも距離があり当然運賃も割高になるとはいえ、この時期の天候が安定しているムンバイーから出発したいと思うことだろう。

    冬季は陸路による外界への交通手段がなくなってしまうので、デリーの気象条件によりフライトがキャンセルとなってしまった場合の次善の策として、ムンバイーに出ることが可能となることはありがたい。とりあえずムンバイーに出てしまえば、インドのどの方面にも乗り換えてアクセスすることができる。

    もっともレーを中心とするラダック地方を訪れる観光客は夏季に極端に集中し、インドの他の地域とはケタ違いに寒さが厳しい冬季にわざわざ訪れる人はとても少ない。前述のとおり外界への陸路が閉ざされてしまうだけではなく、ラダック地域内でも道が閉ざされてアクセスできなくなるところが多いためでもある。そんな具合なので、ムンバイー便が就航しても冬季の観光客が増えることにはならないかもしれない。そもそもムンバイー・レー便は冬季も運行されるかどうかについては、今のところよくわからない。

    ラダック地方やアンダマン・ニコバール地域の人々にとっても、フライトで直接結ばれる都市が増えることにより、これらの土地における最大の産業である観光業のマーケットが拡大するという点からも好ましく、同時に自身が外界に出る際の選択肢が増えることにもなる。

    ただし、どちらにおいても、外からやってくる人々が増えるということが地元に与えるインパクトは大きい。土地の人々が先祖伝来の文化や美しい自然の保護に働きかけるとともに、そうした場所を訪れるよそ者である私たちも、こうした部分を尊重し、共存共栄していくことができるよう努めたいものだ。

  • デリー到着

    デリー到着

    列車の終着駅はデリーではないので、朝5時20分にセットしていた目覚ましが鳴る前に目が覚めた。 スマホで、しばらくメールのチェックをしてから現在地を調べてみると、もうデリーはすぐそこだ。ヤムナ河の東側を走行しており、じきにこれを越えるところまで来ている。

    車両のアテンダントが「デリーに着くよ」と声をかけにくると、他の人々は起き出して荷物をまとめたりしている。ほぼ定刻の午前6時にニューデリー駅到着。

    ニューデリー駅到着

    あまり早く (午前4時とか) に宿に着くと、まだ部屋がなかったり、前日分まで払えなどと言われたりするが、もうこの時間ならば大丈夫だろう。腹が減ったので食堂開いているところはないかと思って探すが、駅前に面したところに以外ではまだ開いていない。

    歩いて宿のほうに進んでいくと、宿の斜向かいのチャーイ屋は開いていたので、ここで温かいコーヒーを頼む。最近のインドでは都会でも田舎でも、「砂糖少な目で」と注文する中高年をしばしば見かける。そういう時代なのだろう。

  • スーチー氏とNLD

    先のミャンマー総選挙で勝利し、平和裏な政権交代により、与党となるNLD (National League for Democracy)。本来ならば党首のアウンサンスーチー氏が大統領に就任すべきところ、ご存知のとおり不条理な憲法規定により、子息が英国籍であるため資格がないことになるため、「代役」として腹心が大統領候補となった。

    ミャンマー スー・チー氏側近が大統領就任か (NHK)

    期待値があまりに大きいこと、同様に国外からのそれもまた過大であることから、スタートからかなり厳しいものがあるように思われる。軍政を継いだ前政権が経済、外交、民生の各分野で、予想外にいい仕事をしてしまったことも更にハードルを上げている。

    政権への批判者として高い支持を集めた人物が必ずしも為政者として有能なのかいえば、必ずしもそうではない例が多い。また、現在の彼女の年齢も気にかかる。

    加えて、私たちを含めて、およそ大衆というものは、短期間で目に見える効果を期待しがちであり、野党もそのあたりを攻撃してくることはもちろんのことで、大衆はそれにうまく乗せられてしまうのが世の常。

    「スーチー氏」という「ブランド」には、なかば神格化されたといってよいほどのイメージがあり、政治の世界の泥仕合や合従連衡のかじ取りが求められる政権党のリーダーとして、これまでの批判者という立場から為政者にスイッチした瞬間から、内外からのブーイングや痛烈な批判を受け止めなくてはならない。

    当然のことながら、華々しい実績もあり、キレ者が多い前政権、つまり軍服を脱いだ新世代(旧軍政期から見ての)実力者たちは、強烈なカウンターパンチを用意していることだろう。

    「スーチー氏に任せれば大丈夫」というムードと期待感こそが、スーチー氏にとってウィークポイントなのではないかと思う。

    また、ビルマ族以外の少数民族が暮らす「州」(概ねビルマ族がマジョリティの地域は「管区」、少数民族の占める割合が高い地域は「州」という区分になっている。概ね前者は英国時代に直接統治した地域、後者は割拠していた藩王国を通じて間接統治していた地域ということになる)については、今後「民主化」の中で、州の自治権強化を求めることになるのが筋だが、大胆な行政改革が求められる。

    軍政時代には民族運動を武力で押さえつけていたが、これに対してスーチー政権はどのような対応に出るのか?というところで、注目していきたい。インドやネパールのように、「民族のモザイク」の土壌だけに、叡智が試されるところである。彼女がこれまで選挙戦での協力関係以外に経験のないこの部分は、NLD政権にとって相当な危険を秘めているということになるだろう。

  • ゴーラクプル2

    ゴーラクプル2

    鉄道駅のクロークルームに荷物預けてから駅を出る。サイクルリクシャーで向かう先は、ゴーラクナート寺院である。おそらくこれがこの街の名前の由来となっているのだろう。⒒世紀のシヴァ派の聖者を祀る寺院だ。ゴーラクプルはやはりかなり貧しい街という気がする。駅前は中心でありながらも、かなり空き地が多く、隙間だらけという感じがする。また高い大きな建物が少なく、フラットな印象。昔のインドという感じだ。途中で踏切を越えるが、遮断機が下りていてもズンズンくぐって進んでいくのがインド流だ。また列車が来てもすぐ目前まで進んでいく。どうしてそんなに急ぐのか。

    ゴーラクナート寺院到着。なかなか見応えのある寺で、本殿以外に複数の参拝できる施設があり、そのひとつの大きなホールには、様々な神々の像がならぶ、いわば神々の博物館のようになっていた。

    ゴーラクナート寺院

    寺院の聖池
    寺院敷地のすぐ外で見かけた露店の食べ物。旨そうなんだか、まったくそうではないんだか・・・。

    その後向かったのは鉄道博物館。ジャンクション駅よりも少し先にあり、19世紀終わりごろに建てられて、鉄道幹部の住居として使用されていた建物の中に入っている。建物もさることながら、中には鉄道導入期の装備や備品なども展示されており、これらはたいていイングランド製。鉄道敷設のころの写真、まだ橋梁が出来る前で、河を鉄道スチーマー(Railway Steamer)という外輪船が結んでいた時期などの写真などもある。またこの時期から独立後あたりまでの写真も飾られている。

    開館は正午と遅いが、夕方7時半まで開いているのはちょっと意外

    客車を改造した食堂

    その中には詩会に出席して何か話をしているハリヴァンシュ・ラーイ・バッチャンの写真もあり、これまた興味深かった。敷地内には、子供たちのためのトイトレイン、使わなくなった客車を利用したカフェテリアなどもあり、これまたいい感じである。どこも手入れが行き届いているのも好印象。田舎の博物館では、どのような分野のものであったとしても、荒れ果てた中にゴミのように打ち捨てられているということが大変多いからだ。屋内展示部分は撮影禁止となっているため、それらについてここで画像で紹介できないのは少々残念である。

    この鉄道博物館の後にはCity Mallモールへ。近年のインドでは、この程度の規模の街にも当たり前のようにモールがある。出来た当初はかなり良かったのではないかと思うが、エスカレーターは片側しか動作しないし、まだ比較的新しいと思われるにも限らず、かなり煤けている。それでも最上階にはシネコンが入っており、グラウンドフロアー外の券売所が混雑していたところを見ると、それなりに繁盛してはいるのだろう。すくなくともシネコンについては。

    モールで昼食

    食事を終えてから、サイクルリクシャーで鉄道駅に向かう。

  • スイス 最低収入保障制度導入なるか?

    本日は、インドとはまったく関係のない話題で恐縮である。

    今年、スイスで導入されようかというBasic Incomeと呼ばれる最低収入保証制度。このBasic Incomeというアイデアはかなり古くからあるようで、それ歴史についてはこちらをご参照願いたい。

    さて、仕事の有無に関係なく支給されるBasic Incomeだが、スイスにおいて給付されようとしている金額は、毎月成人には2500米ドル相当、子供には625米ドル相当のものなので、これは大きな金額だ。

    Switzerland Will Hold The World’s First Universal Basic Income Referendum (fastcoexist.com)

    右派は労働意欲の減退、左派は福祉政策の後退を懸念しているのだとか。最終的には国民投票で成否が決まる。

    財源大丈夫なのか?と不思議ではあるものの、夫婦と子供二人で、毎月6250米ドル相当が支給されるとなると、あまりに魅力的だ。

    だが、もし導入されたらさっさと仕事を辞める人が激増・・・ということにはならないようで、そういう人たちはわずか約2%という予測が出ている。

    SWITZERLAND: Only 2% of people would stop working if they had a basic income (BIEN)

    日本円で30万円の月収が保障されたとしても、日本よりもかなり物価が高く生活費(ただし教育にかかる費用は政府が手厚く支出しているので個人の負担はとても小さい)がかかること、導入されても、いつまで続くかわからないし、みんなが仕事をやめてしまうと、維持出来ないシステムなので、大半の人々はこれまで通りに仕事を続けるらしい。それでこそこのシステムが維持できるという訳でもある。

    よく、「欧米では・・・」などという下りを見かけるが、言うまでもなく、「欧」と「米」とでは、社会制度、とりわけ福祉や社会保障のありかた、労働者の権利擁護といった部分が大きく違う。両者が似ているのは「人の顔」くらいのものだろう。

    収入保証の考え方はともかく、欧州では手厚く、取得率も非常に高い勤労者への有給休暇制度も、なんと米国では法定ではなく、各事業所の判断。民業への政府による介入を極端に嫌うのは、市場の見えざる手により、適切に調整されるという思想というか幻想によるものだ。

    わずか800万人強という少ない人口の割には、旅行先で見かけるスイス人は多く、インドでもよく出会うのだが、とりわけ若いバックパッカーたちにとっては、このBasic Incomeという制度は大変魅力的かもしれない。

    これを頼りに旅を続ける?ということが可能であるかどうか(自国に居住していなくても受給出来るのかどうかは不明)はさておき、長旅を終えてから帰国後に直面することになる暮らしについて、経済的な不安を抱えることなく再スタートを切ることができる。

    人口が少ないながらも勤勉かつ着実に経済成長を続けている富裕な国であるがゆえに可能なことではあるが、貧富の格差拡大が社会問題になっている日本においては実現可能ではなくても、Basic Incomeという考え方については、私たちも学ぶべきではないかと思う。

    ※ゴーラクプル2ば後日掲載します。

  • ゴーラクプル1

    ゴーラクプル1

    ベトナム寺院の宿坊で出発の準備。このお寺に起居する尼さん、坊さん、スタッフたちに挨拶をして、少し離れたところにあるメインストリートに出てバスを待つ。

    ほどなくゴーラクプル行きがやってきた。空席はなかったが、それでも押し合いへし合いするほどの混雑ではなかったのは幸いだ。クシーナガルから1時間15分ほどでゴーラクプルに到着。

    サイクルリクシャーでゴーラクプル駅へ。予約してある列車が夕方出発するまでしばらく時間がある。Eチケットに車両番号と座席番号が印字されていなくて、ただconfirmedと書かれているのみなので、念のため確認しておきたかった。駅長室隣にある事務所で尋ねてみると、午後1時くらいにチャートが作成されるまではコーチ番号も座席番号も出てこないとのこと。

    Gorakhpur Junction Station

    この人の名前からしてクリスチャンらしいというだけではなく、なかなか重厚で厳めしい英国風なので、ひょっとして?と思って尋ねてみると、やはりアングロインディアンであった。家の中では英語だけの環境で育ち、学校もイングリッシュ・ミディアムのところであったため、ちゃんとヒンディーを習ったことはないのだという。「もちろん土地の言葉なので、当然毎日しゃべっていますが、ヒンディーの読み書きは苦手です。」と言う。

    イギリスから渡ってきた曽祖父も鉄道員で、技術職であったとのことだ。軍と鉄道はいかにもアングロインディアン的な仕事だが、今でも就職の際の留保があるとのこと。同様に、国会に2議席留保されているよく知られた話だ。

    自宅で奥さんが作ったというブラウニーケーキを分けてくれたが、洋酒がしっかり効いている味は、いかにもアングロイディアン的である。通常、インド人のケーキならば洋酒は入らないのが普通だ。

    家の中では今でも「英国風」の暮らしをしていると言い、スマホに入っている写真をいろいろと見せてくれたが、家屋はインドの庶民そのものという感じで、裕福というわけではないようだ。身内には豪州その他に渡った人もいるというが、まだこのあたりにはかなり多くのアングロインディアンたちが暮らしているという。機会があれば、アングロインディアンの人たちのコミュニティの中で、彼らがどうやって生活しているのか、どういう仕事に就いているのかなどについて知りたいものだ。

    フェイスブックをやっているとのことで、その場でFB友達となった。これで何か質問があったらいつでも連絡できる。便利な時代になったものだ。

  • 中国大使館@劉暁波プラザ 米国大使館@スノーデン路・・・

    アメリカ政府がワシントンにある駐米中華人民共和国大使館のある通りの名前をLiu Xiaobo Plaza(劉暁波プラザ)と変更するゾとやれば、中国では在北京のアメリカ大使館の通りを「スノーデン路」と変えるゾ!と応酬。子供のケンカじゃあるまいし。


    US Senate passes bill to change Chinese Embassy’s address to 1 Liu Xiaobo Plaza, Beijing not pleased (shanghailist)

    ‘Snowden Street’ next? Beijing angered by US plan to name street outside embassy after dissident (rt.com)

    インドでもこのような事例はある。もう昔々のことで、中央政府が仕掛けたわけではないのだが、西ベンガル州政府でインド共産党マルクス主義派が政権党となって間もないころ、コールカーターの米国領事館があるストリートの名前をHo Chi Minh Sarani (ホーチミン・ストリート)と改称している。

    U.S. Consulate in Kolkata, India (U.S. Consulate in Kolkata, India)

    同党は、1977年から2011に至るまで、州政府与党として君臨し、インド州政府においてはこれまで最も長い年月に渡る政権党であった。

    ま、こんな程度の意地の張り合いなら、大いにやっていただきたい。

  • インドとミャンマーの国境交流本格化へ

    もう2か月近く前のことになるが、こんな記事を目にした。

    Cabinet Nod for 69 Bridges in Myanmar Highway (Northeast Today)

    ミャンマー西部の国道建設にかかる援助プロジェクトで、マニプル州からの越境地点となるモレー/タムー国境から東進するルートになる。これは同州の州都インパールからマンダレー間で計画されている直通バスが通るコースでもあり、旅客のみならず二国間の物流面でも期待されている。

    このあたりは東南アジアと南アジアの境目であり、国境両側に様々な少数民族の豊かな生活文化が残されている地域でもあり、単なる通過点としてだけではなく、観光面からも期待されるものは決して少なくないことだろう。

    とりわけインドでは、近年になってから中央政府・北東各州政府ともに北東地域のツーリズム振興のために様々なキャンペーンを張っているものの、なかなかその効果は出ていないようだ。

    ひとつは、州によってはまだ治安情勢に不穏なものがあり、マニプル州もそうしたカテゴリーに含まれること、そして大きな遺跡や見栄えのする名所旧跡が数多く存在するわけではなく、どちらかといえば、地域の生活文化そのものが魅力という地味な地域であることがその主な理由であろう。

    さらには、ここを訪れてからどうするのかといえば、グワーハーティー、コールカーター等の大都市まで引き返してから、インド国内の他のところに向かう、あるいは周辺国に向かうということになる「地の果ての行き止まり」であったため、なおさらのこと、観光客が足を向けにくかったということがある。

    そんな状況もインパールからミャンマーのマンダレーへの直行バスが運行されるようになり、私たち外国人もそれを利用できるようになれば、ずいぶん違った具合になってくることと思われる。

    「ヤンゴンから入り、ミャンマー西部を訪れてから、インド北東州をあちこち見学、そしてコールカーターから帰国」といったルートがポピュラーになる日もそう遠くはないのかもしれない。

  • 第3回アフガニスタン凧揚げ大会

    アフガニスタン大使館主催の凧揚げ大会というのがあるのだそうだ。2014年から開催されており、今年で3回目とのこと。
    日時は2月28日(日)の午前10時から午後1時まで、場所は東急多摩川線の下丸子駅近くの多摩川河川敷。
    インド、パキスタン、バングラデシュなど南アジアの国々ではポピュラーな凧揚げだが、アフガニスタンでもまた同様に伝統的に人気がある。
    同国では、ターリバーン時代には禁じられていたようだが、その後また人々の間で親しまれているらしい。
    さて、この催しではアフガニスタン式の凧と和式の凧が用意されると告知されている。会場に出向いて凧揚げを楽しんでみたり、そこに集っている在日アフガニスタンの方々とおしゃべりに興じたりしてみると、素敵な休日となることだろう。

    第3回アフガニスタン凧揚げ大会 (在日アフガニスタン大使館)

    ※「クシーナガル滞在2」は、後日掲載します。

  • クシーナガル滞在1

    クシーナガル滞在1

    ネパール国境からゴーラクプルに到着。駅近くのバスの発着場クシーナガルまでは1時間半ほど。本日の宿泊先は、Linh–Son Vietnamese Chinese Templeというベトナム寺院の宿坊。

    ベトナム寺院のお堂

    寄進者の名前のようだ。
    寺院の広報用ポスター
    ベトナム寺院の宿坊

    ここの尼さんとしばらく話したが、すでに27年間もインドとネパールで修行を続けており、普段はルンビニーの同名のお寺にいることが多いのだとか。昨日まで滞在していたルンビニーで、そのお寺の前を通りかかってはいたのだが門が閉ざされていた。尼さんは、「声かければ開けてくれたのに」と言うが、現在ルンビニーを訪れる人が少ないため、あまり開けていないことが多いのだそうだが、そこでも宿泊は可能であるとのこと。

    隣には大きなストゥーパがそびえるミャンマー寺院があり、食べ物はパッとしないクシーナガルで、なかなか美味しいものにありつけるのはその脇にあるYama Caféというベンガル人が経営するお店。クシーナガルに着いたときにはすでに夕方になっていたので、ここで大変遅い昼食を取る。

    ベトナム寺院の隣にはミャンマー寺院がある。

    ミャンマー寺院入口脇にあるYama Cafe
    Yama Cafeで午後の大変遅い時間帯に「昼食」

    そのわずか2時間後にはベトナム寺で頼んだ夕食を僧侶や尼僧と一緒にいただく。ベトナム人ではない僧侶も一名いたが、この人はヒマーチャルのキンナウル地方から来たとのこと。キンナウルには色白で目鼻立ちのはっきりしたアーリア系の人々が暮らす地域もあるが、この人は欧州人のような風貌であった。

    食事はベトナム風の野菜炒めと野菜スープ、そしてご飯、ダールとチーズ、チャパーティーという、越印折衷の菜食料理。地元のインド人の世話人が調理している。尼さんは長年のインド在住の間、これまで幾多の寺や寺関係施設の建設を手掛けたとのこと。小柄で笑みを絶やさないが、とても芯が強くて精力的な人なのだろう。

    この人が歩んできた人生については、マレーシアのメディアで取り上げられている。
    A Vietnamese nun lives out her dream to help the destitute in India (thestar.com)

    地縁もないところで大きなものを造り、それを維持発展させていく外国人僧侶たちには、無一物の行者が持ち合わせない、有能な営業マン的な感覚と政治的能力が求められる。尼さんがここに来た時には小さなお堂がひとつあるだけであったとのことで、「無の中から造り出さなければならなかった」とのことだが、それを自慢することなく、いついつにこの本堂が出来て、宿泊棟が完成したのは何年前のことで、と実に楽しそうに話してくれる。この寺院はクシーナガルで経済的に恵まれない家庭の子供たちのための学校も運営している。

    境内に漢字で書かれた中国人名の寄進者の名前があったり、寺院の英文名に「Linh–Son Vietnamese Chinese Temple」とあることから、ひょっとすると台湾に移住したベトナム華僑(ベトナム戦争中や南ベトナム陥落後に台湾に移住した華人は多い)と関連があるのかと思ったりしたのだが、そうではないとのこと。

    「香港の篤志家の方と知り合う機会を得てね、その方の寄進でお寺を建てることが出来たのよ。その後にも台湾の方とか中国系の方々とのご縁もあったから、Chineseという名前も付けているの。」

    インドで暮らしている人たちにもいろいろあり、仏教界の人々のそれはまた俗世の人たちのそれと違うようでいて、実際にはそうした社会生活、経済生活が必要であり、寺院の維持発展のためにも、俗世と仏門の間の境界は限りなく低いのかもしれない。

    上階には法要等を営むことの出来る広いスペースがあり、それと隣り合わせて尼さんの執務室があり、規模は大きくないが、きちんと整頓されていて、いかにもデキる人のオフィスという印象。

    尼さんよりもひと回り以上年下と思われる僧侶のほうは、ここに来て2年半とのことだが、その前はアメリカにいたとのこと。家族と一緒で、仕事をしていたということだが、それでなぜ今ここにいるのかについては、さすがに尋ねることはできない。

  • 再びネパール・インド国境へ

    再びネパール・インド国境へ

    このあたりの景色はまったくヒンドゥスターン平原と同じだ。霧が出ているのは前日の朝もそうであったが、薄いところもあればいきなり濃くなっているところもある。霧というものはいつもそうだが、かなり濃淡がある。ある地点では道路脇の様子さえもよく見えなかったり、しばらく見通しが良くなったりする。

    走るクルマのないガラガラの道をひた進む。ときたま通り過ぎるのはバイクのみ。中央政府が制定した新憲法が、マデースィー(平原部に暮らすインド系の人たちに不利な内容であることから、これに反対する地元政党がオーガナイズしたチャッカージャーム(交通封鎖)によるものである。

    バンド(ゼネスト)、ハルタール(組織的怠業)、チャッカージャーム(交通封鎖)といった抗議活動はインド譲りのものだが、イギリス植民地時代末期のインドにおける不服従運動で盛んに展開された手法。

    もう何カ月もバスの往来が停止しているため、バススタンドはただの広場にしか見えず、ここがそうだと言われなければ気付かないだろう。

    しばらく進むとトラックが何台か見えてきた。時間を限って、通行が許された工業地帯へ原料を運んだり、製品を搬出したりということがなされているとのこと。やがて無数のトラックの群れとなり、しばし渋滞。先のほうで検問でもあるらしい。なんとかある程度の供給と搬出を確保するほど「政治力」のある企業はまだいいが、そうでないところではもう4カ月も何もできないことになる。ひどい話である。

    通行が許される限られた時間に集中するトラックの群れ

    さらに進んでいくとバイラワに至る。これまでの閑散とした道路とはまったく異なり、クルマがかなり多く、「普通の世界に戻ってきた」という気がする。だが沿道では大きなポリタンでガソリンを商う人たちがいる。インドによるブロッケードによる影響だ。しかしながら、こうした物資の不足とネパール独自の会社の広告があることを除けば、ここがインドと言ってもわからないだろう。

    バイラワーに入った。早朝なので交通量は少ないが、ここまで来るとクルマは普通に走行している。

    国境の町、ベールヒヤーに到着した。ここで朝食のためにおそらくここで一番いい宿泊施設のホテル・アーカーシュ(といっても粗末なものだが)の食堂でトースト、オムレツとチャーイの朝食を頼む。併設されている両替所で、使い残したネパールルピーからインドルピーに交換する。

    国境の町ベールヒヤーで朝食

    ネパール側のイミグレーションには職員以外は誰もおらず、出国手続きは即座に完了。ネパール人とインド人はフリーパスなので、ここに立ち寄るのは私たちのような第三国の人間だけだ。

    国境のネパール側、ベールヒヤーの町

    もう四半世紀以上も前のことになるのだが、初めての海外旅行で、同行した二人の友人たちと、インド側からネパール側に越えたのはこの国境であった。少し町が大きくなったり、建物が増えたりしているのかもしれないが、当時もこんな感じのゴミゴミした町並みであったように思う。確か国境を越えてネパール側のイミグレーションのすぐ脇のゲストハウスに宿泊したと記憶している。翌日の朝に出発して午後にポカラに着いた。途中で見え始めたヒマラヤの雪を被った峰に心躍ったことを思いだす。

    ネパール側イミグレーションでの手続を終えた。ゲートの向こうはインド。

    閑散たる状況は、国境を徒歩で越えた先のインド側の町、スナウリーでも同様だ。シーズンなのにこの状態は異常だ。昨年の大地震、同じく昨年の雨季後半から続く憲法問題による政治問題で、ネパール最大の産業である観光業が、いかに大きな打撃を受けているかということは想像に難くない。

    インド側に入ると、これまた粗末な町並みだが、ネパール側よりも人が多いようだ。またネパール側のように近隣から出てきた山の民の姿がないので、やはり違う国に来たという思いがする。

    ネパール側でもヒンディーは通じるのだが、やはりそこの言葉ではないため、マデースィーの人たちを除けば、当たり前の顔をしてそれで話しかけるのはちょっと気が引けるような思いがする。インド人ではない、明らかに他国の私のような者が、ヒンディーで話しかけると、一瞬戸惑うような素振りを見せる人は少なくないようであった。もちろんそうした人たちでも、程度の差こそあれ、ちゃんと理解するし、にこやかに返事もしてくれるとはいえ。

    インド側に入ると、そういうムードはまったく無くなり、ごく当然のこととしてコミュニケーションできるのだから、やはり「そこに国境がある」だけで、その両側の雰囲気は自然と大きく異なるものとなる。

    国境のインド側に入ると、ブロッケードのため、長蛇の列となっているトラックの果てしない車列が続いている。

    インド側の町スナウリーでは、インドによるネパールに対する封鎖により留め置かれているトラックの長い車列を目にする。

    イミグレーションの少し先に進むと、バスの発着場がある。私が乗ったバスの終着地はバナーラス。私はゴーラクプルで途中下車する。州営のバスなので、時間になるとさっさと出発してくれる。私営のように一杯になるまで客集めするわけではないのがいい。

    バスの終着地はバナーラス。向かって右のヘッドライトの上の黄色地に赤文字の表示で「ワーラーナスィー(バナーラスとも言う)とある。

    前を走るのは、私の乗るバナーラス行きと同時に出発したバス。これもまたUP州営バスで、後部に「スナウリーからデリー行き」とヒンディーで書かれている。

    少々驚いたのだが、ここからデリーに向かうバスもある。これまたこの州の州営バスである。直角シートで窮屈な車内とオンボロ車両。これは20数年前とちっとも変わらないが、こんなバスでデリーまで行くのはさぞ疲れることだろう。

    インド側に入ると、景色も大きくなったように感じるが、これは気のせいに違いない。バスは出発してひた走る。途中一度休憩が入った。最終的にゴーラクプルまでは、3時間半。ゴーラクプル郊外に入ってから渋滞がひどかったり、道路がこれまたひどかったりで、1時間はそれで費やされている。乗合ジープだと2時間程度というので、それを利用するのがベターだろう。