
インドのラクナウにある「Multi Cuisine」を謳うレストランにて。
なんとこれは「タイ式ヌードル」とのこと。(笑)
食べたことない人が存在しない料理を想像力で創出。
いや、これぞ「創造力」だろうか?


インドのラクナウにある「Multi Cuisine」を謳うレストランにて。
なんとこれは「タイ式ヌードル」とのこと。(笑)
食べたことない人が存在しない料理を想像力で創出。
いや、これぞ「創造力」だろうか?


感染予防のため、「social distancing」「do gaj ki duri」等々、人と人との取るべき距離について言われているのはインドも同じだが、コロナ後のインドで「インド式行列」が改まる未来はあるのだろうか。
ご存知のとおり、列に並ぶ人たちが身体前部と後部を密接させる、極めてコンパクトな並びかたのことである。列の長さがさほどではなきように見えても油断してはいけない。密度がたいへん高いため、なかなか先頭に出ることができないのだ。
なぜこういう暑苦しいことにになるのかといえば、理由は明快で、「割り込みを防ぐ」ためである。それでもわずかな隙間からねじ込もうとしたり、列の人に話しかけてドサクサで入り込もうとか、「☓☓で超急いでいる」などとウソをついて入り込もうとする輩もいれば、こともあろうに行列全体を無視して、「先頭に割り込もう」とする厚顔無恥な者も少なくないからだ。
このあたりの突破力というのは、明らかに人口過多な超競争社会で揉まれてきたインド人の中でも選りすぐりの猛者はめげることすらない。それらに対して「あんまり猛者ではないタイプ」の普通の人たちが対抗するには、人の鎖を形成して、つけいる隙を与えないに限るのだ。かくして「インド式行列」が形成される。列に並ぶ人たちの「割込みは許さない」という決意と覚悟に満ちた表情をご覧いただきたい。
これが解消されるには、人口過多が解消されたり、人々のマナーが向上したりしていかないと、なかなかむずかしいことかと思う。同様にバスや通勤電車などの激混み状態も器のキャパの問題があるため、こういうところはコロナ禍にあって、さらにはコロナ後になっても、あまり変わりがないことだろうと思ったりする。

南インドを離れると、マサラドーサは当たりハズレが大きい。こちらはデリーのサライロヒラー駅前で列車待ちの時間潰しのために入った店での「ハズレ」のドーサ。
やはりこれを日常的に食べる食文化圏ではなく、厨房の料理人も北インドやネパールの人で「あまり食べた記憶はないし、この店で働くまでドーサを作ったことさえなかった」となると、インドにおける多くの「中華料理」のごとく、キビシイものがある。。
それはともかく、ドーサは「小腹が空いたときにちょうど良い」「おやつにぴったり」と思う方は多いようだが、実はヘビー級カロリーのひと皿。「ふたつで1日分のカロリーが補給できる」とのことだ。栄養補給には、たいへん効率が良過ぎる。

リンク先の記事だが、書いてあることは驚くべきことでも何でもなく、ごく当然のことだろう。イスラーム教徒とユダヤ教徒の対立の歴史は浅い・・・と書くと、いろいろ反論されるかもしれないが、イスラエル建国運動が現実の動きとなり、イスラエルが建国される前は、そんな「対立」はなかったわけで、イスラーム教とユダヤ教の長い長い共存共栄の歴史の中では、「ごく最近の現象」であると言える。
アラビア世界各地にユダヤ人地区があり、彼らはイスラーム教徒たちと共存していた・・・というよりも、それぞれの現地で、ユダヤ教徒たちは「ユダヤ教を信仰するアラビア人」であった。
インドにおける、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれるアラビア方面から渡ってきたユダヤ教徒たちもそうで、当初は自らも「アラビア人」として、アラビア式の生活様式、アラビア式の装いをして、インドで商業活動を広げた。やがて彼らの上層部を形成する層は、英国植民地当局の買弁としての活動が広がり、急速に植民地支配者側の体制の人たちとなっていく中で「欧風化」していった。商業活動、とりわけ貿易業に携わるバグダディーが住み着いた地域は、ムンバイ、カルカッタ、ラングーン(現ヤンゴン)などの港町が多かったが、いずれもムスリム地区にある。それほどイスラーム教徒の取引のネットワークとユダヤ教徒のそれは、深い繋がりがあったのだ。
独立後、ユダヤ教徒は海外流出により、ごくわずかなものとなっているが、どこの街でもシナゴーグなどの保守に当たるのは、現地のユダヤ教徒世話人から託されたイスラーム教徒たちである。イスラエル建国により、国レベルでは、イスラーム教の国々や様々な国々に暮らすイスラーム教徒との間で感情の軋轢が新しく生まれてしまったが、もともとはイスラーム世界の一部を成すユダヤ社会であったわけだし、今に至るもそれは継続している。
UAEとイスラエル国交樹立により、前者の経済活動にイスラエルから多数参画するようになったのは、今の時代にあっては新しい現象ではあるものの、実は「大昔からそうであった、あるべき姿に戻った」といえるのだ。リンク先記事で、このあたりを押さえておかないと、あたかもイスラーム教徒とユダヤ教徒が何百年も千年も長きに渡って対立してきたかのような誤解を読者に与えてしまいかねないと気になるのだが、これが杞憂であれば幸いである。
いやはや、「30万人超え」とは恐れ入る。
1日の感染者10万人を上回るかと危惧された9月のピーク以来、感染者数は漸減していき、1月から2月にかけては1万人前後で推移して、落ち着きを見せていた新型コロナ感染症の広まり具合であったのだが、3月から再び再燃している。インドにおいては第1波が長期間に渡ったため、現在の流行の波は「第2波」と呼ばれている。
前回のピークでは、超えそうになりながらも、少し手前で踏み留まることができた10万人の壁を突破してしまったことが報じられたのは4月5日。そして20万人を超えたのは4月15日であったが、そこから1週間余りのうちに30万人を超過してしまったニュースが流れたのは4月22日。まだまだピークが見えない今の状況は言うまでもなく、第4波の感染規模がこれまでの比ではなくなっている日本と並べてみても、インドのそれは非常に突出しているのが大変気になる。この「30万人」という数字、人口比から日本に当てはめると、1日の新規感染者が3万人という規模に等しいことになる。大変なことだ。
デリーなど部分的にロックダウンが実施されているが、4月21日のモーディー首相の演説では全国的なロックダウンを示唆する部分もあった。分母が大きく拡大したことにより、死者数もこれまでの最多となっている。死亡率はほぼ変わらないのはまだ幸いではあるが、当然、重症者も増えるため、デリーや西ベンガル州の他から医療用酸素ボンベの不足も伝えられている。本日は、空軍がインドの様々な州に酸素ボンベを輸送機で運搬を開始したとか、その輸送先で強奪されることがないようにと、運搬車両に警護が付いているなどといったことも報じられている。
今後の成り行きを見守るしかない。
India posts world’s highest daily COVID-19 surge with over 314,000 new cases (Global News)
デリーのコンノート・プレイスにこんな迫力のパーン屋さんがあるそうだ。私はパーンはやらないので縁がないのだが、これはちょっと怖い。
B級グルメ紹介のDil Se Foodieの映像から。
Fire Paan At Yamu’s Panchayat, Connaught Place (Dil Se Foodie)
インド人ならば誰でも知っているフリーダム・ファイター(独立の志士)であり、独立前のインドで国民会議派総裁を務めたこともある。またジャミア・ミリヤ・イスラーミヤー大学創設者のひとりでもあったムクタール・エヘマド・アンサーリー。その孫であるムクタール・アンサーリー。父親は共産党所属の代議士であったし、副大統領だったハーミド・アンサーリーも身内。それでいて、このムクタールはUP州きっての大ヤクザのひとり。しかも州議会議員でもあるのだが。
大変な名家に生まれて、なぜヤクザになるのか。ヤクザになったのに、政治家にもなるのは、やはりその血がなせる業か。ただ、祖父や親戚は国に奉仕した偉人として知られているのに対して、バラマキと脅しで議員の椅子を複数期得てきた人。誘拐、ゆすりなど以外にも、不動産、採鉱(石炭)、酒造販売その他を非合法に営むグループの棟梁で、何億ルピーも稼ぎ出す「企業家」としても知られる。こういう人ならば、ちゃんと合法的な稼ぎもできるだろうに。
同時にムスリムの貧困層に対して、気前のよい救貧活動をしていることでも知られており、彼らにとって脅威でもあるヒンドゥー右翼政党BJPは、ムクタールの仇敵でもある。そんなわけで「人情に厚く、頼りになるオヤジ」的な立ち位置もあるのだろう。やはりヤクザとはいえ、そのあたりは高名な「フリーダム・ファイター」の孫らしいところか。
それでも殺人、誘拐その他の容疑を多いときは46件(今は10件)も抱えていた「州議会議員」というのは尋常ではない。インド政界にはヤクザ者も多いが、この人はちょっと別格。この人の伝記みたいなのがあったら読んでみたい。まんま映画の主人公みたいなワルなのだ。
それで、このニュース。UP州のムクタールだが、現在収監されているのはパンジヤーブ州の刑務所だが、UP州が働きかけて自州の刑務所に移送されることについて。同州の刑務所に放り込まれていたこともある彼だが、今回の収監先は敵対勢力、BJPやムクタールと血を血で洗う抗争を続けてきたライバル勢力の影響下にある場所となるようだ。彼の悪運もここまでか?という評もある。
しかし、このムクタール、人望も能力もあり、カリスマと任侠心も持ち合わせていて、しかも人々から尊敬される一族の出身。ちゃんとまともなことをやっていれば、本当に皆から尊敬される人物になれたはずなのに、と思うのは私だけではないだろう。
Mukhtar Ansari may lose his UP Assembly membership, Yogi Adityanath govt’s action soon (INDIA TV)


1780年に刊行されたBENGAL GAZETTEは「インド最初の新聞」とされる。
こちらは、その発行人のジェイムス・アグストゥス・ヒッキーの生き様について書かれた本。カルカッタで不動産投資に熱を上げて私財を増やす欧州から来たキリスト教団の不正を暴き、不条理な言いがかりと攻撃により土豪を取り潰して得た財を仲間内で分け合う東インド会社軍内部の闇を糾弾し、暴走する権力となったワレン・ヘイスティングス総督をも告発。(ヘイスティングス総督は弾劾を経て罷免される。)
言論の自由という理念さえもなかった時代に、巨悪を暴いて鉄槌を下そうという心意気。植民地支配者側の社会の人間であったにもかかわらず、反戦・反植民地主義のヒッキーの姿勢は、いったいどこからもたらされたのか?
もっとも妥協のない直情的な彼のスタンスにより、投獄されたことすらかったが、肝心の新聞を発行できたのは5年間にも及ばず、東インド会社との取引で彼に支払われるべき巨額の債権も反故にされ、金欠の中で失意の老後を送ったらしい。
東インド会社による植民地体制下のインドで、ずいぶん型破りな男がいたものである。
書 名:HICKY’S BENGAL GAZETTE
著 者:ANDREW OTIS
出版社:TRANQUEBAR
ISBN-10 : 9789386850911
ISBN-13 : 978-9386850911
インドで宗教を異にする同士での結婚は、都市部のリベラルな層ではけっこう少なくない。しかしながら、それは容易なものではなく、多くは大変な困難を伴うものであることは「Interfaith marriage」という言葉が存在することからも見て取れることだろう。日本で漢字で「異宗教間結婚」と書くと「そうか」と分かるが、もともとそんなことを気にかけることさえないので、私たちの語彙にはそういう言葉は存在しない。
インド人の誰もが信仰熱心というわけではなく、お寺などに行くのは私たちがそうであるように年に一度あるかないか、という人たちも少なくない。ただし大きく違うのは、特定のコミュニティーが長い歴史の中で担ってきた信仰上の役割があったり、通過儀礼でそうしたものが数多くある層もあったり、カーストや氏族の紐帯と深く結合していたり、古い村落社会生活において、ほぼその地域で完結していた経済・社会活動においての役割分担、現代の社会においてもカーストの繋がりで結ばれた同業コミュニティーが現存しているところもけっこうあることだ。
核家族化が進み、生計を単一世代で営み、公務員、会社員といった形の就業をしている層、あるいは都会でクリエイティブな仕事をしている層においては、障壁は格段に低くなり、そうした今どきのカップル、夫婦を目にする機会は決して珍しくなくなる。
そんな背景がある中で、BJP政権下にあるUP、MP、グジャラートなどの州では、いわゆる「ラブ・ジハード」(恋愛による布教・改宗活動 ※というのものがあると主張している)なるものを禁じる法律が成立し、「本人の意志によらない改宗の強制」を罰するものとなっている。これは恣意的に運用されることが多いようで、異宗教間での恋愛そのものが身の危険を招くこととなっているようだ。
ここで言う「異宗教」とは、ターゲットになっているのは、ムスリムであり、主にムスリム男性とヒンドゥー女性という組み合わせがその焦点にある。異宗教といえば、「スィク教」と「ヒンドゥー教」はたいへん垣根が低く、親が決めた「Arranged marriage」によって、ヒンドゥー男性とスィク女性、あるいはその逆が結婚する例は昔から現在に至るまで多い。結婚してヒンドゥー教徒になっている女性で「実家ではスィクだったのよ」という人は少なくない。これはもともとスィク教がヒンドゥー教から派生した一派であると認識されているからなのだろう。特に総本山のお膝元のパンジャーブ州やその周辺ではよくあることだ。
そのいっぽうで、近年のインドにおけるイスラーム教徒への冷たい対応は、近年の欧州におけるイスラーム教徒への不信感とは大きく異なるものがある。欧州において戦後の復興後に多くのイスラーム教徒たちが流入したという歴史の浅さ、多くは社会の底辺を構成する者が多いという社会層から来る馴染みの浅さと近寄りがたい感覚があるようだが、インドにおいては、イスラーム教徒と共存してきた歴史が長く、社会上層部を構成していた時代も長かった。
人文科学、建築、経済、通商、さらには生活習慣その他の様々な分野で、イスラーム世界からもたらされた知識や知見が、インド社会を豊かにしてきた。そのため日常生活の中で常に身の回りにあるいろいろなモノや概念を表す語彙すら、アラビアやペルシャ起源のものがたくさん溢れているほどだ。たとえばメーズ(机)、ファルシュ(床)、カラム(ペン)、ザミーン(地面)、ドゥニャー(世界)等々、イスラーム世界からやってきた語彙なしには、簡単な会話さえも成り立たない。とにかくインドはイスラーム教世界、そしてムスリムの人たちから多大な影響を受けてきた。そのためヒンドゥーやジェインその他の人々の間で、イスラーム教、イスラーム教徒についての知見や造詣はたいへん深いものがある。
それなのに現状はこのような具合であるため、インドのマジョリティーとイスラーム教との相性はかなり難しいものがあると言える。もちろんそう仕向けているのはヒンドゥー至上主義のサフラン右翼であるわけだが、彼らを支持しているのはマジョリティーの大衆でもあるため、一概に扇動であるとも言い切れないのは、なんとも気味の悪いところだ。
1月から2月にかけては、新型コロナウイルス感染症流行の沈静化が見られていたインドだが、再び急激に増加して、1日の発生が10万人越え。これまでで最悪の数字となっている。一時期は2万人台くらいまで下がっていたのだが。
単純に言えば、日本の10倍の人口規模のインドなので、1日の新規罹患者数が2万数千人というのは、同じく2千人台の日本とちょうど同じくらいと言えた。これが10万人となると、日本で言えば1日の罹患者数が1万人となった場合と同等。
ワクチン接種も粛々と進んでいるインドとはいえ、13億超という膨大な人口の前では、ウイルスと太刀打ちするのはなかなか難しいのかもしれない。


21世紀に入るあたりから、インド各地でモールが普及するとともに、そうした施設には必須の「フードコート」がインドの外食文化を大きく変えたと言える。フードコートが屋台文化の延長であるとするならば、露店はあっても屋台文化は無かったインドでは画期的なことであったからだ。そのような場所が増えるとともに、カジュアルで照明の明るいレストランが増えることとなった。
インドにおいて、フードコートがなぜ画期的であったか。それは昔々のインド人家庭に食事に招待されて、家人は食べていないのに自分だけ、どんどんサーブされて食べさせられることを経験したことがある人は多いだろう。そしてグルドワラーでランガルが行われること、ある程度以上の高級レストランでは、メニューの文字が読めないほど照明が暗かったこと、インドでは安ホテルでもルームサービスはごく当たり前にあること等々と、深く繋がる食における文化背景がある。
インドにおける食事は伝統的には「個食」だ。古い時代のインド映画で、夫に金属皿を渡した妻が、次々におかず、ローティーやご飯をサービスしていく。夫はそそくさとそれらを食べてサッサと立ち上がって去っていくような描写がなされていた。画面には出て来ないのだが、奥さんはその前か後に、やはりそそくさと食事は済ませているはずなのだ。
会食は儀礼的な意味合いを持ち、婚礼その他の社会的通過儀礼の際以外にも、たとえば何かあって所属するコミュニティー(カースト)から追放された個人が復帰する場合には、コミュニティの仲間が集まって彼の復帰を認める印として会食がなされていた。
グルドワラーでのランガルは、食べ物に事欠く人への慈善行為や食いしん坊へのサービスなどではない。カースト、コミュニティが異なる人と食事を共にしないというタブーを破る行為であり、そういうタブーをタブーとしない「我ら同じ人間」というコミュニティーの一員であることを確認する儀式的な行為なのだ。
とても暗かった高級レストランは、様々な出身の人たちが同じフロアーで食事をすることに対して、「闇」というパルダー(カーテン)を用意して個々の客それぞれに「専用空間」を演出していた。同じ場所で食事をしているように見えても、闇で仕切られている個の空間であったのだ。
エコノミーな食堂でも、保守的な地方では席ごとにキャビン状に仕切ってあったり、布のカーテンで個室的な空間を用意するところがよく見られたことも、同じ理由による。
こうした背景から、インドの宿泊施設では料金帯を問わずルームサービスが普及している。保守的な価値観ではやはり食事の基本は個食であるからだ。
90年代半ば、時の若手人気俳優、今でも盛んに活躍している人気スターだが、「レストランで食事している様子を写真に撮られた」とのことで、カメラマンを小突いた(実際には激しく殴ったらしい)ことで問題になりました。そのとき彼のメディアに対しての釈明はインド人ならば「なるほど」と理解できたものであっても、おおかたの外国人からするとその範囲ではないだろう。
「セックスや排泄と同じく、極めてプライベートな行為をしている最中を撮られた。こんなことが許せるのか?」というものであったからだ。この俳優の表現には、極端な誇張があるとはいえ、インドに屋台文化が無かったことには、このような文化背景がある。
そんなあり得なかったことが今は当然のものになってしまっている裏には、90年代後半以降の急激な経済成長とライフスタイルの変化がある。今のインドの中年期以降の人たちにとって、食事のありかたひとつ取っても、「僕らの子供の頃からは考えられない」今の時代だ。
そうそう、「家族連れの外食」についても、90年代後半のインド市民の間での「旅行ブーム」勃興以前には、大都市圏や当時のメジャー観光地を除けば例外的な行為であった。そのため80年代以前のインドには「フォーマルだが薄暗いアップマーケットなレストラン」や「とにかく減り腹を満たす安食堂」「通な旦那衆のための硬派なグルメの店」はあっても、「ファミレス的な明るいレストラン」は不在で、「家族連れも仲間同士も仲良くガヤガヤ」の屋台文化にも無縁であった。
リンク先は、ひと月以上前の記事なのだが、近年こういう報道をよく目にする。BJP政権により地名の変更だ。
同政権下にあるマッディヤ・プラデーシュの「ホーシャンガーバード」が「ナルマダープラム」に改名された。マルワー王国のスルターン・ホーシャング・シャーに因んだ地名だったが、近年インド各地でBJP主導で続く「地名浄化」の一環。イスラーム教、ムスリムの支配者等に因んだ地名、ヒンドゥー風ではない地名などが次々に「ヒンドゥー化」されて地図から消されていく。
あと数年して、首都デリーが神話に因む「インドラプラスタ」に改名されても、さほど仰天しない空気が醸成されつつあるといっても過言ではないだろう。
Rename Hoshangabad in MP to ‘Narmadapuram’, proposes CM Shivraj Singh Chouhan (India Today)