
マハーラーシュトラ州のアフマドナガルは陸軍駐屯地の町だけあり、こんな博物館があった。主に第二次世界大戦時期の戦車や装甲車、加えて1970年代までインド陸軍が使っていた車両が展示されている。













あのロールスロイスが戦闘車両も製造していたとは、ここを訪問するまで知らなかった。


地雷除去車両、橋架車両などといったあまり取り上げられることのないものもあった。

それにしてもこういう殺人道具の開発と発展に血眼の人間社会というのは実に業が深い。


マハーラーシュトラ州のアフマドナガルは陸軍駐屯地の町だけあり、こんな博物館があった。主に第二次世界大戦時期の戦車や装甲車、加えて1970年代までインド陸軍が使っていた車両が展示されている。













あのロールスロイスが戦闘車両も製造していたとは、ここを訪問するまで知らなかった。


地雷除去車両、橋架車両などといったあまり取り上げられることのないものもあった。

それにしてもこういう殺人道具の開発と発展に血眼の人間社会というのは実に業が深い。
ムンバイがまだ7つの島だった頃、今のマズガオンが「インド最高のマンゴーの産地」としてムガル朝からは評価されていたという。シーズンにははるばるデリーの皇帝まで、そのマンゴーを急送するシステムまであったとのこと。
マズガオンはサンスクリットでMatsya Grama、現代のヒンディーで言えばMachch Gramという意味となり「魚の村」である。ここはコーリーの人たちが暮らす漁村だったところでMachch Gavとマラーティーで呼ばれていたものが、Mazagon、そしてMazgaonとなっていったようだ。
島と島の浅瀬からどんどん埋め立てていき、やがて7つの島は繋がり、今の半島の形のムンバイとなっていく。マヒムもマラーバールヒルもそれぞれ島であったわけで、コラバコーズウェイもかつては島と島を結ぶ土手道だった。今で言えばシンガポールとマレーシアのジョーホールバルーを結ぶコーズウェイのようなイメージか。
ポルトガル時代まではのどかな7つの島だったムンバイだが、ポルトガルのカタリナ王女が英国王室に輿入れする際のダウリーの一部として英国に割譲されからは、スーラトに代わるイギリス東インド会社の欧州や中東に向けたメインの港町となるべく、埋め立てと開発がどんどん進められて行った。
英国のものとなって以降のマズガオンは港湾地域となり、「最高のマンゴー」の生産地としての名声は歴史の中に刻まれた過去の話となった。

Verma姓をよく「ヴェルマ」「ベルマ」とする表記をよく見かける。インド人の名前のローマ字による表記には揺れ珍しくなく、「Verma」は「Varma」姓のローマ字表記の別バージョン。日本語で表記する場合「ヴァルマー」となるはずだが、ヒンディー語を始めとする北インドでは「ヴァ」と「ワ」を区別しないため、「ワルマー」でもよい。あるいは「ヴァ」が「バ」となる和式表記で「バルマー」でも可かもしれない。
(地名「Varanasi」を日本で「バラナシ」と書くこと、インド人はこの「Varanasi」を「ヴァーラーナスィー」ではなく、「ワーラーナスィー」と発音するなど、「ヴァ」はたいてい「ワ」となる。)
それはともかく「Verma」は「ヴァルマー」もしくは「ワルマー」なのである。
※「ヴァルマー」はカーヤスタに多い姓。



1リットルのミネラルウォーターのガラス瓶で思い出したのだが、1980年代のインドではウイスキーの空瓶を水筒として使う人たちがけっこういた。
バーザールではちゃちなプラスチックの水筒は売られていたのだが、今のような堅牢で見てくれも良いものはまずみかけなかった。清涼飲料の類もガラス瓶で、ペットボトルが出回るようになったのは、そのずいぶん後のことだ。
80年代後半にはビスレリ等のミネラルウォーターは売られていたが、当時の価格で確か12Rsだったと思う。1ドルが13Rsとか14RS。当時あった闇両替で16Rsだか17Rsだかといったところ。現在の1ドル83Rsとかの時代に20Rsは当時よりもはるかに安い。インドの人たちの所得も大きく上がったが、当時はペットボトル入りの水は高級品だったのだ。そんなわけで鉄道やバスに乗ると、水を入れたウイスキー瓶を持った人たちが大勢いた。
そういう人たちが皆酒飲みだったわけではないだろう。当時は空いたガラス瓶だって売られていたのだ。用途は水筒にしたり、油をいれたり、はてまた燃料を入れたり。当時は大きな街を除けば食べるところと言えば粗末なダーバーが大半。大きな街で高いと頃といえば、多くはメニューの文字すらよく読めないくらい低照度の暗い暗いレストランだった。
今から思えば、その闇がパルダーの役を果たし、種種雑多な人々がごちゃりと揃って食事をしているわけではない、家族や仲間だけの孤食を演出する意味があったのかもしれない。
カフェらしいカフェもなかった。立ってすする道端のチャーエ屋、席は用意されているけど、せせこましく忙しいチャーエ屋しかなかった。カフェがあちこちに出来るようになったのは90年代後半以降だ。
この時代はメジャーな観光地の主役は外国人だったが、それでも外国人料金という概念がなく、タージマハル入場料はわずか50パイサ。何かと外国人料金の設定が多かった中国を旅行してからインドに来ると、「なんと良識とホスピタリティに満ちた国なのか!」と誤った感心をしたものだ。
そんな昔のインドが良かったかと言えば、全くそうは思わない。当時私が社会人であったならば、休暇でインド旅行というのはあり得なかった。
なぜならば鉄道予約は駅に出向かなくてはならず、まずは「ブッキング窓口」で目的地までの乗車券を買い、続いて「リジャルウェーシャン窓口」で予約をする必要があった。
大きな駅だとそれぞれ方面別となっており、間違えるとまた最初から並び直し。行列は長く、割り込みを防ぐために人々は密着し、それでも窓口前では、とにかく自分が先に窓に手を突っ込もうと熾烈な闘いが繰り広げる、そんな感じだった。列車予約ひとつで1日が軽く終わる、みたいな具合。
それも始発駅ではなく途中駅だと、「15日先まで寝台なし」「向こう20日間は満席」などと言われて途方に暮れる、そんな大変なインドであった。今のインドのほうがいろいろ便利ではるかにありがたい。
英連邦(Commonwealth of Nations)」なんて形式的なものに過ぎないし、その中で敵対関係にある国々もある。
それでも4年に一度、この「名目的な共同体」の中で「英連邦大会(Commonwealth Games)」が開催されているし、英連邦の国々同士で相手国に設置する在外公館も「大使館(embassy)」ではなく、「高等弁務官事務所(High Commission)」と呼ばれる。
名目上、同じ連邦内にある自治体としての「☓☓国」「☓☓共和国」であるからだ。なんか不思議な感じ。
中には英国と豪州のように、カナダも同様だが、名目上の国家元首として英国国王を戴く国々もあれば、英国/豪州間のように、あたかもEU加盟国同士の国々の如く、国民の相互への移動に対して査証の必要はないどころか就労も自由といった関係にある例を除けば、他はそんなことはまったくないのに。
たとえばインドやバングラデシュから英国に渡航しようとすれば厳しい査証審査があるし、英連邦市民てまあるからといって容易に就労できるなどといった措置もない。
昔、デリーで初めてパキスタンの査証を取得した際、出向いた先がパキスタンの「大使館」ではなく「高等弁務官事務所」を名乗っていることに、軽い目眩を感じた。「同じ『英連邦』内の国同士なのに、なぜ戦争までしたり、敵対関係にありいがみあっているのか?」と。
そんな名目上の「Commonwealth」なる連合体なのに、それでいて定期的な行事やイベントもあるなど、旧宗主国英国を中心とするしっかりした繋がりと緩いながらも確たる所属意識もある。
そのとき改めて「英国はすごい」と思った次第。
High Commission for Islamic Republic of Pakistan, New Delhi

一昨年の11月からインドのアマゾンでKindle書籍が購入できなくて困っていた。「インド国外発行のクレジットカードの利用は不可」となったためだ。インドの金融当局からの指示とのこと。インド国内の航空券も鉄道チケットも国外から日本発行のカードで買えるのに何で?と思ったが仕方ない。

それが先日、「今もそうなのだろうか?」と思い、「ゴアのコロニアルキッチン」なるKindle書籍を買えるかどうか試してみると、すんなり購入できた。
そうか、すでに禁が解けていたのか。
これはありがたい。これまでインド帰り買う本のうち、Kindle版があるものはインドアマゾンで手に入れることができる。
書店では、スマホ片手に良さげな書籍を検索して、無ければ店頭で紙媒体で買い、Kindle版があればインドアマゾンのカートに入れておき、宿に戻ってからまとめて買う。
私は雑貨や衣類などは買わないので、身軽なままで帰国できると嬉しい。本はとても重いものだし、自宅のスペースの関係もあるため、なるべく電子版で手に入れられるとありがたい。

アハマドナガルに到着して最初に訪問したのがここ。

アフマドナガル王国時代の宮殿のひとつ。形状からして居住や執務その他の実用的な目的ではなく催事などイベント用の場所だったのではなかろうか。広大なホール内に空いている大穴は噴水がしつらえられてあったスポットそうだ。今は遺跡だが往時は漆喰で美しく仕上げてあったはずなので、さぞかし雅な空間であったことと思われる。

昔のこうした宮殿に限らず、近世に建てられたインドのハヴェリー(屋敷)でも往々にしてそうなのだが、階下の広間で催される演奏や舞踊などを上階のテラスからも鑑賞出来るような構造になっているものがよくある。おそらく視界を遮らないようにという配慮からかと思うが、床面の終わるところに壁や柵もなかったりする。




往時は今のように強い調光による照明はなかつたし、近眼の人が視力を補正するメガネもない。うっかり踏み外して下方はるか彼方の床へ落下して絶命・・・というのがしばしば起きていたはず。あるいは宮中の陰謀により、そんな事故を装う事件もときどき起きていたかもしれない。




アウランガーバードのバススタンドからアハマドナガルに向かう。今の時代、目的地までの距離、見込時間などが手に取るようにわかるのはありがたい。
紛らわしいのだが、州内のさほど大きく離れていないところに同じ読みの「アハマドナガル」なる町がもうひとつある。バスチケット買う際に「プネー行く途中のこの街まで」とGoogleマップほ見せて確認できるし。
本当はこういうのをどちらか「改称」すると良いように思う。政治的な意図とともに、インド各地で様々な街の名前が変えられているが、近くにあって紛らわしいこのようなケースこそやったらいいのではないだろうか。
今回のインド訪問のテーマはアウラングゼーブ帝。アウランガーバード周辺には当地に居を移した彼ゆかりの史跡等が沢山あるとともに、数々のムガル建築が本来ならば「ムガル圏外」だったデカンのこの地に残されることとなった。
先代までの皇帝が少数派であるムスリムの自分たちが「ヒンドゥーの大海」の中で統治をしている現実を踏まえ、マジョリティに対して融和的な政策を取ってきたのとは裏腹に、今で言うところの「イスラーム主義者」であったアウラングゼーブは大きな対立と禍根を残したことでも知られている。
そうした意味では、アウラングゼーブはこの地にあって「災厄」でもあったわけで、はるか後世の人たちが地名から彼の痕跡を消して「サンバージー」と入れ替えたことは、当時彼の圧政で苦しんだ人たちへの供養と言えなくもないかもしれない。
いずれにしてもムガル最盛期を代表する皇帝のひとりで、タージ・マハルに葬られているムムターズの息子のひとり。数多くいた息子たちのうち、病気その他で亡くなることの多かった当時、無事成人できたのはアウラングゼーブを含めて4人。
ダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、そしてムラード・バクシュ。この4人は同じ父母から生まれ、おそらく母親ムムターズのもとで一緒に育った(一夫多妻のムスリム貴人たちの家庭で母親と自身が生んだ子供たちが直近の生活単位を構成する)彼らは跡目争いで激しく攻防を繰り広げることとなる。
最有力だったダーラー・シコーに対して、当時ベンガルの統治を任されていたシャー・シュジャーは皇位継承をかけて挑むも押し返され、なんとか講話を結ぶ。同時にアウラングゼーブとムラード・バクシュも共同で戦線を組み、強大なアウラングゼーブを攻略していき、苦戦を強いられるも、最後にこの長兄を殺害して除去に成功。
講話後はダーラー・シコーと協力関係にあったシャー・シュジャーは、進路を絶たれ、地盤であったベンガルをも後にしてアラカン地方(ビルマ西部)へ逃亡したが、そこに安住の地を得ることなく、その後の足取りはよく知られていない。
これで皇位継承有力候補のダーラー・シコー、そしてこれまたまともにやりあっては抗し難い強大な勢力の一角であったシャー・シュジャーは倒され、強い紐帯に結ばれたアウラングゼーブ、ムラード・バクシュの兄弟が天下をどう分け合うかというところにまできた。
しかし当時の各地のイスラーム王朝の多くでそうであったように、敵の敵は味方、昨日の友は今日の敵。宴会の席を利用したアウラングゼーブの策略にて、シャー・シュジャーは拘束されて幽閉されてしまう。当然、彼の手下たちも首尾よく処理されてしまったのだろう。
そして不運なシャー・シュジャーはアウラングゼーブの命令により処刑されてしまう。
同じ母親のもとに生まれて、母ムムターズの愛情をたっぷり注がれて仲良く健やかに育ったであろう4人の王子たちが血みどろの抗争を展開していく背景には、個人的な確執だけではなく、取り巻きの家臣たち自身の将来、しかもまさに「Dead or Alive」という、熾烈な生存競争による支援・支持、敵対や裏切りなどもあったはず。
あたかもカタツムリが新たな宿主を求める寄生虫にマインドコントロールされて、わざと目立つ行動をして鳥に食われてしまうように、彼ら王子たちも自らに寄生した家臣たちにより、操られていた側面もあったのではないかと想像する。取り巻きにちやほやされて長じた王子たちが、老練で手管に長けたタヌキオヤジ家臣たちにそそのかされて、いいように操られるという構図は想像に難くない。
古今東西、王家のお家騒動というのは、そうしたものであったというのはよくある話。皇位継承抗争の本当の主役たちは王子たちではなく、彼らの背後に控える腹黒タヌキたち同士で、現実にはそうした影の主役たちによるパワーゲームだったのかもしれない。



アウランガーバードのバススタンドからプネー行きバスに乗車。途中にあるアハマドナガルが本日の目的地。昨年2月下旬にアウランガーバードが「チャトラパティ・サンバージーナガル」に改称されることが決まった。
アウラングゼーブ帝の時代にムガル帝国の領域は最大となる(以降は衰退期に入った)とともに、デリーからこちらに居を移し、当地ゆかりの歴史的人物となった「アウラングゼーブ」の名前が消されて、この街で活躍したわけではないサンバージーが街の名前となった。
この改称には単に中央政府の反ムスリム志向だけでなく、まさにこの地域のマラーター民族主義がある。90年代、州のシヴセーナー政権時代に空港、鉄道駅、博物館などに「シヴァージー」の名前を冠せられ、街の名前もマラーティーでの「ムンバイー」と改称された。
実は、それまでヒンディーでは当時の「ボンベイ」を「バンバイー」と表記していた。「ムンバイー」への改称を機に、ヒンディーでの表記も次第にマラーティーでの表記に寄せて同じく「ムンバイー」となっていき、現在では「バンバイー」という表記は見かけなくないし、耳にもしなくなっており、「死語」と言って差し支えないだろう。
「バンバイー」から「ムンバイー」への変更は呼び方の地域性をシフトするのみで、鉄道駅の「VT(ヴィクトリア・ターミナス)」から「CST(チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス)」は象徴的なシンボルの植民地時代のからの現状変更だったため抵抗感はほとんどなかったものと思われる。
しかし「アウランガーバード」から「チャトラパティ・サンバージーナガル」については、先述のアンチムスリムの意図あってのことであることは誰もが知っているため、嫌悪感を抱く層はかなり多いかと思う。
歴史の書き換え現場のひとつを目にした気がする。

ムガルの旧都デリーからムガル第6代皇帝アウラングゼーブが愛し、ここで没したアウランガーバードへ飛んだ。宿泊先のすぐ隣になんと、あの「Karim’s 」の支店が!・・・と思ったら「デリーのとは関係ありません」とメニュー冒頭に書いてあった。


チキンビリヤーニーを注文したが期待を超える美味しさが嬉しい。 量が多く、ケバーブも注文しようかと思ったが、もう入らなそうなのでやめておく。デザートはシャーヒー・トゥクラー。甘い物は別腹なのできちんと収まる。これもまたたいへん心地よく堪能てきた。


ご存知の方も多いかと思うが、インドの学校の歴史の教科書中から「ムガル帝国」についての記述が消えている。理由は「インドが侵略・蹂躙された歴史」であるからとのこと。つまりイギリスがインドを侵略したようにムガルも外界からインドを侵略した勢力であったというスタンス。
そういう論理でいくと、ムグライ料理も侵略者たちが食べていたとされる料理であり、イギリス料理がインド料理ではないように、ムグライもインドの料理ではないというような言質が出てくるかもしれない。
一昨年(2022年)の8月15日のインドの独立75周年を軸に、2021年3月から2023年8月15日にかけて、「Azadi ka Amrit Mahotsav(自由の甘美な大祝祭)」というインド政府による官製キャンペーンが展開されていたが、その期間には様々なプログラムなどが期間中いろいろと実施された。
「インドがAzadi(アーザーディー)を達成した」と言う場合、これまではイギリスから独立して自由な立場になったことを指していたはすなのだが、いまや「歴代の様々なイスラーム勢力とその後にやってきたイギリスを合わせた外来勢力から解放された」という解釈に置き換わってしまっている、あるいは置き換えられようとしているような気がしてならない。
しかしサンスクリット起源の言葉「Amrit Mahotsav」と並ぶところの冒頭でペルシャ語から入った「アーザーディーآزادی」が付いているのはちぐはぐではあるが、もともとイギリスから独立した状態のことを「アーザーディー」といい習わしてきたためだろう。
この地を愛して居を定めたムガルの皇帝アウラングゼーブに因んで長らく「アウランガーバード」と呼ばれてきたこの街が、昨年から「チャトラパティ・サンバージーナガル」に改称された。改称されたと聞いて「あぁそうか」と思うわけにはいかない理由がある。
ムガルに対抗するヒンドゥーのマラーター勢力の王たちの中で、「チャトラパティ」つまり従者に指掛けられる傘の相手(つまり主(あるじ))という意味で、この称号が付けられた偉大な王たちが何人かいた中のひとりがサンバージーであった。
つまりムガルにゆかりの深い歴史的な経緯とともに様々な史跡旧跡が残り、コミュニティーも形成・継続してきたこの地の過去を否定する形で、「チャトラパティ・サンバージーナガル」と改称するのは、まさに歴史の舞台をちゃぶ台返しで破壊してしまうようなやりかただと思うのだが、これが単発的な事象ではなく、与党勢力を軸に計画的かつ組織的に着々と各地で進められていることは懸念される。
いつか「デリー改めインドラプラスタ」などということをやってしまいそうな気がしてならないのだが、10年後くらいにそうなっていないことを願うしかない。
「たかが名前」かもしれないが、「されど名前」である。そういうことが平気でなされるようになると、長い歴史の中で脈々と受け継がれてきた文化のうち「ヒンドゥー的でないもの」あるいは「インド起源でないもの」の文化伝統やコミュニティーが否定されることにもなるわけで、それを看過できないとする人たちも当然少なくないわけである。
まさにこのような背景もまた、先の総選挙で与党連合が大幅に議席を減らした原因かもしれない。2月にウッタルプラデーシュ州のアーヨーディヤーで「ラーマ寺院」の落成式を大々的に行い、多大な得点を稼いだように見えていたが、まさに同州における総選挙結果は与党にとって惨憺たるもの、野党連合にとっては大躍進であった。
美味しいムグライ料理は、紛れもなくインドの料理であり、ムガル朝はインド最後の王朝だ。そしてインドのイスラーム文化はまさにインドの歴史の中の重要な役割を果たしてきたものであり、ムスリムの人々はインドの大切な国民である。