進歩は人々を幸せにするのか?

 アダムとイブが禁断の果実を口にして楽園を追われて以来、「労働」とは神が人類に与えた最大にして永遠の罰なのだという。英語のLABOURの語源をさかのぼれば、「苦しみ、拷問」を意味するラテン語に行きつくのだという。我々は歳とって働くことができなくなるまで長い懲役刑に服しているということだろうか。もちろん「勤労」について人それぞれ異なる意識があることだろうが。
 思えば幼いころに読んだ子供向けの科学の本に明るい将来が描かれていた。未来には仕事はすべてロボットがやってくれて人間は何もしなくてよくなり、日々の仕事という重荷から解放されるというものだった。怠け者の私は「ボクが大人になるころには毎日遊んで暮らせるらしい!」と胸がときめいたものである。


 それから長い年月が過ぎた。機械が何でもかんでもやってくれるところまでは至ってないものの、子供のころとは比べようもないくらい、あらゆるものが便利になった。そして当時想像すらできなかったようなことさえたくさん可能になっている。たとえばSF映画の中に出てきたあらゆる情報を検索するコンピュータシステムは、いまではごく普遍的なパソコンとして定着しているし、いつでもどこでも通信できる小型無線は、携帯電話としてみんなの暮らしに欠かせないものになっている。
 でも人々は本当に楽になったのだろうか。テクノロジーの発達によって合理化された結果、「ああ楽になった」とくつろぐどころか、それをさらに越えることがノルマとなる。
 進化は競争を生み、その競争こそが発展をさらに推し進めていくから結局キリがないのだ。企業、そして業界というものは、常に余剰を削ぎ落としていくので働く人たちはいつまでたっても楽にならない。「人間の欲望には限りがないのだ」といってしまえばそれまでだが、私たちの生きる資本主義社会というシステムそのものが競争原理と利益の追求なしには成り立たない。こうしたいたちごっこが永遠に続くのは、やはりアダムとイブの原罪のためか。
 自身は「あくせくしたくない」「人より抜きん出なくてもいいじゃないか」と思っていても、刻々と変化していく周囲に歩調を合わせずにいるとクビになったり仕事が来なくなったりするので、やっぱり頑張らなくてはならない。だから身の回りに便利なモノは増えても生活はちっとも楽にならないのである。
 そうかといって「ええい、こんなモノいらない!」と放り出すわけにもいかない。すでに手にしているものを失うのは大きな苦痛である。便利な道具はすでに日常の必須アイテムになっているからだ。
 おそらくヒトの歴史がはじまって以来、人々の「幸福量」は変わらないのだと思う。もちろんその長い時間の中では、戦乱や天変地異が人々を絶望の淵へと追いやった時期もあるが、おおむね時代が下るにしたがい医療の進歩や生活水準も着実に向上してきた。人々はなかなか死ななくなって長生きするようになる。通信や交通が発展して広範囲な移動が可能になり、歴史とともに世界は着実に小さくなってきた。だからといって千年前の人たちよりも、百年前人々のほうが幸福で、現代人はさらにもっと大きく幸せだなどとは思わない。
 長く好景気が続くインド。あたかも先進国が一世紀近くかけて積み上げてきた成果をわずか20年ほどで達成してしまうかのような勢いである。物質的な充足度も消費生活に対する考え方も世代間のギャップは大きいだろうし、同じ時代に生きていても階級格差が大きいことから「進歩」のメリットの不均衡な配分も相当なものだ。それにまだまだ中世の雰囲気さえ残るへんぴな場所も珍しくないこの国では当然のごとく地域差も大きい。
 いろんなバラつきはあっても、全体的にかなりの速度で動いていることは間違いない。都市部に限れば日本のそれとは比較にさえならないほどの速度だ。もはや「悠久の国」ではない。今から10年後、20年後のインドの姿なんて想像できるだろうか。(それでも変わらないところは変わらないのだろうが)
 そのころには庶民の暮らし向きもかなり良くなっていることだろう。でも人々は今よりも幸せになっているのだろうか?

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