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カテゴリー: travel

  • チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない

    チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない


    旅先で、食後にチャーイを啜りながら、この日はあと何をしようか?どこに行こうか?と考える。

    お茶やコーヒーがなかった時代、私たち人類は、何を手にして思考していたのだろうか。19世紀以降に急激に加速した社会の進展、技術の進化には、茶、コーヒーの普及と深い繋がりがあるにちがいない。 欧州の有産階級が、茶、コーヒー出現以前にランチで嗜むのはアルコール類だったそうではないか。それはそれでいい時代だったのかもしれないが。

    茶、コーヒーで思い出したのだが、茶葉の大産地インドで、喫茶の習慣が地元の人たちに普及し始めたのは1920年代末から1930年代にかけてのことらしい。かつて貴重で大変カネになる作物であった茶も、このあたりになるとインド・スリランカでの算出量増大、この地域外においてもマレーシア、ケニア等々の英領各国での生産が広がったことから、価格が下落していくとともに、在庫がだぶつくようになってくる。

    そこで当時のインド紅茶局が全国で喫茶習慣普及推進の旗振りを始めて、各地でデモンストレーションを始めたとのこと。それまではマーケットになっていなかった茶葉生産のお膝元での需要拡大を図ることになった。当初は英国式の飲み方を導入しようとしたらしいが、地元の人々の嗜好から現在のチャーイの形で広まることになって現在に至る。

    その背景には、欧州ではすでに値崩れして買い手が少ない低級品の大量処分という狙いがあったとともに、当時の庶民の購買力の関係もあったはず。お茶はお茶でも、本当に下のクラスのものは、カフェイン入りの色付きのお湯でしかないがゆえに、マサーラーで香りを付けるとともに、ミルクと砂糖で味付けする必要があったということにもなるのかもしれない。

    西欧では、カフェ文化の浸透により、様々な市民が集まり議論を交わすようになったことが、民主主義運動を拡大させるとともに、労働組合活動を盛んにしていったと言われているように、インドでもチャーイの文化が広がる中で、反英独立運動が勢いを増していったということもあるかもしれない。

    チャーイを啜りながら、そんなことをぼんやり想ったりする。

  • 田舎町の悩殺

    田舎町の悩殺

    ラージャスターン州の片田舎の町で、しばらく待っているとバスはやってきたが、すでに満員状態。なんとかぐいぐい押し込んで、ようやく乗車するとともに、運転手のキャビン内でなんとか居場所を確保できた。ちゃんとした席ではないため、実に苦しい体勢だ。

    キャビンのすぐ後ろにガラス窓、そのすぐ背後に立って窮屈そうにしている豊満な若い奥さんが、胸元からガラケーを取り出して通話を始めた。取り出すときにムニュムニュ、ボヨヨーンという、大きなバストの元気良い動きに胸が高鳴ってしまう。

    キャビンの中、私の隣に陣取っていた乗客がひとり下車していくと、私がそうしたのと同じく、彼女もまた無理矢理周囲の人たちを押しのけてこちらに入ってきて、私に密着して腰を下ろした。やがて車掌が乗車賃を集金に来ると、豊かな胸をプルプルと震わせて、深い谷間からお札を取り出すので、ちょっとドギマギしてしまう。「釣銭がない」と断られると、また同じ動きで胸の違う場所から小額紙幣を取り出す。別に見ようとは思わないのだが、とにかく狭い車内スペースで視界に入ってきてしまうのだ。

    一度そういう所作が目に付いてしまうと、また次に何か取り出すらしきときには、ついつい視線が泳いでしまったりする。田舎では今でも胸元にお金とかいろいろ入れている人が多いが、とりわけグラマラスな感じの人がこうしていると、もう大変な悩殺シーンである。もっとも、地元の男性たちにしてみると、田舎の女性の粗野な振る舞いに過ぎないようだが。

    しばらくすると、再び携帯電話が鳴り、彼女が乳房の左側から取り出す際に、引っ張られた豊かな部分がプルプル、ドサッと弾み、どうもいたたまれない。

    ※画像は文中に登場する人物とは無関係です。

  • シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    ファテープルで、鉄の欄干のある屋敷に面した四つ角からバスをつかまえて、ラームガルへと向かう。ふたたび30分くらいの道のりである。

    ラームガルへバスで移動

    ラームガルはファテーブルよりも活気のあるところで、人々の行き来も多い。ここでは内部見学できる屋敷は見当たらなかったのだが、大変規模が壮大なものが多い。いくつかの寺を見学してみる。シェーカーワティー地方のどこの町でも感じるのだが、タウンシップの広がりや人口規模に対して、ハヴェーリーの壮大さもさることながら、これらが建ち並ぶ地域のしっかりとした区画と直線的で幅広い道路には、やはり驚かされる。片田舎でながらも、こういう地区でだけは都市的な雰囲気さえ感じる。



    シェーカーワティー地方で特徴的な塔に囲まれた井戸

    井戸そのものはこんな具合

    こちらはヒンドゥー寺院

    これもまたヒンドゥー寺院




    通常、こうした小さな町では国道に面した部分以外では、細い道がクネクネと続いているものなので、それだけこうした屋敷の主たちは実行力があり、いかに開明的でもあったということにもなるのだろう。

    18世紀や19世紀、シェーカーワティーが陸上交易で栄えていた時代、荒地や貧しい耕作地に囲まれたこの地に、周囲の眺めとはまったく不釣合いな豪壮な屋敷群、あまりに立派な寺院などがそこここにあることについて、当時の訪問者たちはさぞ驚いたに違いない。すっかり衰退してしまっているとはいえ、過去に築かれたそれらのものは今でも人々を圧倒するものがある。

    〈完〉

  • シェーカーワティー地方へ 6〈ファテープルのHAVELI NADINE LE PRINCE〉

    シェーカーワティー地方へ 6〈ファテープルのHAVELI NADINE LE PRINCE〉

    マンダーワーからバスで30分少々進んだところに、ファテープルという小さな町がある。この町のバススタンドに着いたところで、早速シェーカーワティー式の見事な塔がしつらえられた井戸がある。

    ここでの目的地はNADINE LE PRINCE HAVELI。「NADINE LE PRINCE」という、奇妙な名前が付けられているのには理由がある。

    1840年に建てられたこの屋敷の主はDevraという名前の一族であった。綿花以外にオピウムの取り引き(往時はごく当たり前の商品作物。インド産のオピウムは東南アジアや中国などに大量に輸出された)で財を為したファミリーで、1950年代までここに暮らしていたものの、その後は時間の経過とともに荒れるに任せる状態であったらしい。

    1998年にシェーカーワティー地方を訪れたフランス人女性、画家でもあるNadine氏は、この地域のハヴェーリーに魅せられ、一念発起してこの屋敷を購入し、自身の名前でもってHAVELI NADINE LE PRINCEと命名することとなった。

    中庭を中心としたパティオ的な構造の家屋は、地中海沿岸からイランやアフガンを経てインドにまで至る広大なエリアに広がった建築文化・生活様式と言えるが、ここシェーカーワティーのハヴェリーの特徴は、色鮮やかなフレスコ画が家の内外を埋め尽くしているところにある。

    購入後は、地元の職人たちを雇って地道に修復を続けて現在に至っている。私も同時期の1998年に初めてシェーカーワティー地方を旅行して、この地域特有の建築文化にいたく感激するとともに、打ち捨てられたような状況の屋敷群を目にして、何かできないものか?と思ったりしたものだが、その後特に何か行動したわけではなく、ブログに「こういう素晴らしいところがあるが、現状はとても残念・・・」とつぶやいただけだ。ハヴェーリーのひとつを買い取り、総力上げて家族とともに実行に移したNadineさんの行動力に敬服せずにはいられない。

    ハヴェーリーを買い取る財力があったとしても、縁もツテもない土地で文化財の修復を手掛けるのは容易なことではないが、同氏は地域の有力者を協力者に得て、これに関わる基金を設立したうえで、ハヴェーリーの復旧と啓蒙活動を進めているとともに、自身の創作活動の拠点をこの地に定めて精力的に活動している。写真家である息子さんも、このファテープルに腰を据えて頑張っていることから、家族ぐるみのサポートを得てのことであることが窺える。首都圏から比較的近いエリアであるとはいえ、外国人の個人による文化財保護活動としては、かなり稀有な例であると言えるだろう。

    屋敷を案内してくれたのは、インターンシップでファテープルに滞在しているフランス人の大学院生の女性。専攻はインドとまったく関係ないのだが屋敷について習ったことを丁寧に説明してくれた。

    正面の大きなゲートは、通常は閉められており、大きなドアの中にしつらえられた小さな扉から出入りしていたという。そういう形にしたのはセキュリティ面での配慮、そして屋敷に入る人が狭くて低いドアをくぐることにより、屋敷の主に頭を下げる形になることを企図したものでもあるのだとか。

    扉左側下の小さなドアが通用門。どうしても頭を下げてくぐることになる。
    入口天井の装飾

    入ってすぐのところにある中庭、そして夏のつまり北向きの壁側の居間、その反対には派手な装飾が施された商売の客人のための応接間となっている。これにはそれだけ資産があることを相手に示すためのものであったとのこと。

    その中庭のさらに奥には入口から一度折れて進んだところにもうひとつの中庭があり、そこは女性たちが日常を過ごす場所であったとのことだ。パルダーの伝統のためである。入口から一度折れることになっているのは、中を直視できないようにするためだそうだ。

    ハヴェーリーのカラフルなフレスコ画を書く職人たちに大きく分けてふたとおりあるとのこと。ムスリムの職人は幾何学模様と花模様だけを描写し、ヒンドゥーの職人たちは人物や動物といった偶像的なものを描いていく。また工程には鶏卵を使う場面もあり、それについてはすべてムスリム職人が取り行うとのことだ。こうした分業は、シェーカーワティー地方のハヴェーリーに限らず、ラージャスターン州各地の藩王国の王宮においても同様であったことは言うまでもなく、ムスリムとヒンドゥーの職人たちが相互補完する働きをすることにより、幾多の大作を完成させてきたわけで、決して対立すべき関係ではなかったことの証でもある。

    しかしながら、ふと思ったりもするのだが、こうしたハヴェーリーでムスリムが建てたものは目にした記憶がない。人物や動物を描かずに幾何学模様と花模様だけのものがあっても良さそうに思われるし、この地域で成功したムスリム商人も少なからずあったことと想像されるが、こうしたハヴェーリーを建築することはなかったようだ。

    こういうハヴェーリーを借りたり、買い取ったりする例はあるそうだが、ムスリムの富裕層がこういうタイプのものを建てたという例はないらしい。こうしたハヴェーリーを築いた人々の大半が、ヒンドゥー教徒たちの中でもマールワーリー商人たちという限定されたコミュニティーの人々であったということもあり、それぞれのコミュニティー内での文化の相違ということもあるし、ましてや生活文化や習慣で大きな隔たりがあるムスリムの人々の間で、同様の嗜好が見られなかったということがあるとすれば、やはり信仰の違いというものは、相当大きな文化的な障壁であるということが感じられたりもする。

    敷地の一部はギャラリーになっており、Nadineさんの絵、息子さんの写真以外にシェーカーワティー地方を題材にしたインド人アーティストの作品などが展示されている。そのギャラリーのあたりは、かつてキャラバンサライとなっていて、牛やラクダなどが繋がれていたとのことだ。今ではすっかりこうした屋敷群が地域の貴重な文化財という認識が広がっていることは喜ばしい。

    オーナーの絵画や息子さんの写真が展示されているギャラリー

    このHAVELI NADINE LE PRINCEでは、ゲストルームも用意されており、事前に予約すれば、宿泊することが可能だ。

    ゲストルーム内はこんな具合

    このハヴェーリーに触発されてのことか、近隣にもいくつかキレイに修復して公開しているハヴェーリーがあるのだが、あまりにモダン過ぎる仕上がりになっていたり、フレスコ画の細部がかなりデフォルメされたように感じられるものであったりして、あまり自然な感じではないものも目に付く。文化財の修復活動にも善し悪しがあることは言うまでもない。

    パッと見た感じはキレイだが不自然な仕上がり

    バススタンド方向に戻る際、鉄の変わった意匠の鉄で出来た欄干を持つ屋敷があった。こちらは公開されているわけではなく、庶民の集合住宅として供されている。

    こうした屋敷が立地しているところはたいてい地域の中心やそれに近いところにあり、街区はきっちりと整理されていて道路も広く取ってある。往時、ハヴェーリーを建設させた人々は、ただの成金というわけではなく、生活文化についても先進的な感覚を持っていたのだろう。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ5〈マンダーワーの風景〉

    シェーカーワティー地方へ5〈マンダーワーの風景〉

    規模は小さくてもなかなか凝った装飾

    マンダーワーに限ったことではないのだが、シェーカーワティー地方のどこに行っても特徴的な風景はいくつもある。規模は様々ながらも、どれも華麗なハヴェーリー。中庭を中心に「ロ」の字型のプランを持つのが基本だが、ときにその枠にはまらない独創的な姿の屋敷も見かけることがある。

    門の上に乗っかる形になっているハヴェーリー
    こちらはその背面

    かなり複雑な構造のハヴェーリー

    大きなハヴェーリーが建ち並ぶ地域は道路が広く取ってあり、徒歩ですぐに抜けられてしまうほどの規模の小さな町にしては、やけにきちんと区画されている印象を受ける。

    富を築いた豪商たちが地域の社会貢献のためにいくつもの井戸を造ったが、遠くからでもそれとわかる2本ないしは4本のミナレット状の塔が建ち、この地域以外では見かけることはない。

    こちらは井戸

    もちろん寺院も小さな田舎町には似つかぬ大規模なものが多いとともに、ハヴェーリー同様に非常に派手に飾り立てられており、参拝するのはとても楽しい。

    こちらは寺院

    寺院内

    寺院から眺めた外の風景

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 4  〈タークルの屋敷〉

    シェーカーワティー地方へ 4  〈タークルの屋敷〉

    マンダーワーのタークルのハヴェーリーを見学。商家ではなく、小領主的な存在であったため、「城」を名乗っている。現在の当主はジャイプル在住とのことだ。

    ここは現在、Castle Mandawa Hotelという名前で、おそらくリゾート運営の会社が委託を受けて運営しているようだ。他にもマンダーワーにあとふたつ、ジャイプルにひとつ、チェーン展開している。
    建物内は自由に見学できるわけではなく、宿泊客以外はスタッフによるガイドツアーで見学することになっており、その料金は250RSもする。

    それはさておき、「宮殿」といっていい規模と内容のヘリテージホテルで、一泊6,000Rsほどのようだが、「オフシーズンなので5,000Rsにしますよ」とも言われた。一般的な感覚として、このくらいの料金でちゃんとしたヘリテージホテルに宿泊できるのならば、充分に価値がある。ラージャスターン州からグジャラート州にかけて、数々の藩王国が割拠したところでは、それこそ無数にといっていいほど沢山の宮殿ホテルがある。とても手の届かない料金のところもあるが、ここのようにそうでもないところも少なくない。ここはそうした中で比較的エコノミーな料金で楽しむことが出来る宿泊施設と言えるだろう。

    ただひとつ気に入らないのは、宿泊していない者が見学する際に250Rsという料金を取ること。その料金にはカフェテリアのメニュー内で250Rs分までの飲食が含まれているとのことであったが、実際にはソフトドリンクくらいしかその範囲で頼めるものはなく、結局はそれを大きく上回ることになる。そんな姑息なことをするくらいならば、「見学料金は250Rs」として欲しいものだ。

    このホテルをガイド付きで見学してみた。立派な制服を来た(ラージャスターンの伝統的なスタイルの衣装)スタッフが案内してくれるのだが、建物内の特に立派な部分をいくつか回ってくれる。やはり屋敷というよりも、これは事実上の城、あるいはパレスである。モダンなスイミングプールがあったり、おそらく音楽の演奏や結婚式にも使われるであろうマンダップのある中庭もあった。敷地内に立派なシェーカーワティー式のハヴェーリーもある。

    メインの建物の屋上からは町全体を見渡すことができる。ごく小さな町ではあるが、上から眺めてみると、大規模なハヴェーリーが多いことに改めて驚かされる。映画「PK」のマンダーワーでのロケの際、アーミルやサンジャイなどが宿泊したとのことだ。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    せっかくマンダ‐ワーに来たので、昨年公開されて今年の初めにかけて大ヒットした映画「PK」で、この町でのロケ地であった「チョウカーニー・ハヴェーリー・チョウク」という横丁であることはすぐにわかった。小さな町なのでどこに行くのもすぐだ。

    田舎町で、人気スターがやって来ることに大興奮したであろうことは、特にちょっと若い人たちに声かけると、期待を大きく上回る反応がかえってくることから見て取れる。
    「この路地の出口で、アーミルがサルマーンのクルマに(確かトラクターであったはず)にひかれた」
    「あの歌のダンスシーンで挿入された場面が撮影されたのはここ!」
    「映画の中でアーミルにサーモーサーを勧めたのはこの人!」と、わざわざその人物の仕事場まで連れていってくれる人までいた。

    映画の中でアーミル・カーンが轢かれたスポット

    ダンスシーンが撮影された場所はここなのだとか。



    映画「PK」の中でアーミルにサーモーサーを勧める役を務めた人

    「おーい、兄貴ィ、日本から記者があんたのことを取材に来たでぇ・・・。オレ、お茶注文してくる。よーく話聞いとってな!頼むでぇ!」なんて具合に早足でどこかに行ってしまった。私は記者ではないし、取材しに来たわけでもないのだが・・・。

    ちょっと尋ねると、芋づる式に次から次へとこの映画ゆかりのナントカカントカが出てくるレスポンスの速さ!
    「PK」の後は、「バジラン・バーイージャーン」というサルマーン・カーン主演の映画の撮影もなされたとのことで、今後もマンダーワーが他の映画作品のロケ地として使われることが幾度かあることだろう。

    やはりどこに行っても映画をこよなく愛する気持ちは誰もが同じであることは、ボリウッド映画ファンの私としても嬉しい。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 2 〈Hotel Mandawa Haveli〉

    シェーカーワティー地方へ 2 〈Hotel Mandawa Haveli〉

    滞在先のマンダーワーで宿泊先としたのはHotel Mandawa Haveli。古いが立派な屋敷をホテルとして活用したものである。18世紀から20世紀初頭にかけて、最初は陸上交易、そこで蓄財した商人たちが都会に進出して稼いだ資金を故郷に送ったことから、豪壮で華麗なハヴェーリー (屋敷)が残されたことで知られるシェーカーワティー地方。そのハヴェーリーの内部・外部ともに美しい壁画による装飾が施されているのが特徴だ。

    だが、多くはオーナー家族が大都市に転出していったり、売却してしまったりということもあり、田舎町に似つかわしくない大規模な邸宅が間貸しでテナントを得るようになり、地上階は商店、ファーストフロアーから上は集合住宅というような形態になってしまっているところが多い。伝統的なジョイント・ファミリーの邸宅として、中庭を中心に「ロの字型」となっている屋敷に身内の複数世帯が起居するものであったため、間貸しするのにちょうど良いということもあるのだが。

    その結果、ハヴェーリーの内部は荒れ放題であったり、オリジナルの形態とは似ても似つかぬ安手の増改築がなされたり、ということになり、壁に精緻なタッチで描かれた絵に対する敬意が払われることもなく、危機的状況にあることは様々なメディア等で伝えられつつも、現地では相変わらずの無頓着という状況が続いていたのが1990年代までのこの地域であった。

    21世紀に入ってからは、こうしたハヴェーリー、それらを建てた豪商たちが寄与した建築物(ハヴェーリー以外に寺院や共同井戸など)が歴史的・文化的な価値が高いものであるとして認知されてきてはいる。しかしながら、細切れに賃貸に出されているハヴェーリーについては、長年賃貸で居住している世帯ないしは商店があることから、以前と同様の厳しい状態にある。

    ホテルに転用されたハヴェーリーについては、華麗な絵による装飾は見事に復元されていたりするものの、ここでもまたオリジナルの形態とはかなり異なる部分も生じるのは当然のことだが、少なくとも文化的な価値に焦点を当てて、ヘリテージな宿泊施設として供されるわけである。人々にそうした伝統を認知させること、こうした修復活動を通じて、技術が伝承されることなどから、決して悪いことではないだろう。















    現在、間借人たちが居住しているハヴェーリーは、そこに住む人との何かしらのコンタクトを取る機会でもないと、なかなか内部を見学することはできないし、オーナーがテナントに貸し出すことなく、ケアテイカーを置いて管理させているようなところでは、いくばくかの謝礼を渡して建物内を見せてもらうことも出来たりはするものの、そうのんびりと見学できるわけではない。そうした点からも、宿泊施設として転用されている場合、誰に遠慮することもなく、建物内を闊歩できるという大きな魅力がある。

    ホテルに転用されるところが次第に増えているのは、近年の傾向のようだ。1990年代に幾度か訪れた際に「こうしたハヴェーリーがホテルに生まれ変わっていたら、どんなに素敵な宿泊施設となることか」と思ったことを記憶している。地域の領主の館、豪商たちのハヴェーリー内部を模した装飾が施された宿泊施設はあったものの、このような形態のホテルはまだ存在していなかった。

    ただし、今回の宿泊先の近くで、ふたつ、みっつほど営業しているハヴェーリーから転用された宿泊施設については、内装の修復が素人目にも相当いい加減なものであったり、「コンクリート造りの別棟」に客室があったりと、あまり良い印象を受けなかった。伝統的なハヴェーリーを謳う宿泊施設の粗製乱造が懸念されるところである。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 1 〈デリー出発〉

    シェーカーワティー地方へ 1 〈デリー出発〉

    昼を少し回ったあたりで、デリーのサライ・カレー・カーンISBTからシェーカーワティー方面行きにバスに乗車。このバスの終着地ジュンジュヌーまで距離にして220km程度だが車掌は「6時間半かかる」と言う。かなり迂回しながら進んでいくということもあるが、とりわけラージャスターン州に入ってからの路面状況があまり良好ではないという部分もある。

    首都圏から遠く離れているわけではないのに、そのあたりのインフラが整っていないということに、「ゆえに地域特有のものが保存されてきた」という面もあり、近世以降のインド経済で現在に至るまで、重要な役割を担ってきたマールワーリー商人たちの主要な故地であるにもかかわらず、このような状況であるがゆえに、「すっかり見捨てられてしまった過去の繁栄の地」という印象も受ける。このシェーカーワティー地方については、私がずいぶん前にこのブログに掲載した記事があるのでご参照願いたい。

    シェーカーワティーに行こう1 華麗な屋敷町

    長距離バスに乗るときにしばしば思う。同じ街の始発点から乗車すれば座席を確保できるにもかかわらず、なぜそこまで行くことなく、途中の路上から乗車しようという人が多いのかと。自宅がよほどそこから遠かったり、荷物が多いので市内移動さえも困難というケースを除けば、そのわずかな労と時間を惜しまなければ、車内に入り切れずに次のバスを待たなくてはならないとか、何とか乗り込んだものの、物凄い混雑でにっちもさっちもいかない状況は回避できたりするのだが。とりわけバスターミナルを出て、わずか500mなり1kmなりの地点でバスを待ち構えてドカドカと乗車してくる人々を見るとそのように感じる。

    私が利用したバスもそんな具合であった。始発のISBTを出るあたりでは、乗客の誰もが着席している状態であったが、バスターミナル近くやデリー市内の経由地でバスが客集めしているうちに、出入口のドアから乗客があふれて、しがみつく状態となる。

    バスは、デリー首都圏を出てから、しばらくの間はハリヤーナー州内を進んでいく。人口稠密で、クルマの多い地域なので、工事中の場所やトールゲート手前などで、ひどい渋滞となる地点がいくつもある。ハリヤーナー州といっても、デリーと較べるとかなり田舎であったり、貧し気であったりする地域も少なくないようだ。バスはやがてレーワーリーという街に到着。ここは交通の要衝となっており、ラージャスターン州やUP州の各方面への乗り換えのために降りていく人たちは少なくない。

    だが、こちらとしては「まだレーワーリーか!」と大変ガッカリしたりする。デリー近郊のグルガオンからパタウディーを経て少々進んだあたりに過ぎないからだ。

    車内が一時空いたと思いきや、ここからまた大勢乗り込んでくるので、さきほどまでと変わらない満杯状態となる。

    やがてバスはラージャスターン州に入った。スマホが機能していれば、どのあたりを走っているのかわかるのだが、まだアクティベートされていないため、少し大きな町に差し掛かったときに地名を確認してguidebookの地図を見る。それでどのあたりまで来ているかわかる。すでに午後4時になっているが、先はまだまだ長い。車内でよく人々が電話しているが、それがなにやら羨ましく思える。やはり今の時代、旅行中でも携帯がないと不便に感じてしまう。

    シーズンではないので大丈夫かとは思うが、予定地到着が遅い時間になることがわかっている場合、やはり前もって宿に電話して空きを確認できると安心だ。とりわけ「ここに宿泊したい」というところがある場合には。
    ガタガタと走るバスの車窓から外を眺めていると、やがて陽は西に大きく傾き、大きな大地を朱に染めていく。こうした時間帯のインドはとりわけ美しいと思う。

    いつしかシェーカーワティー地域に入っているようで、この地域特有の2本ないしは4本のミナレット状の塔がある井戸がしばしばみられるようになってきた。私の近くに座っている青年はバンガロールから36時間かけて鉄道でやってきたというITエンジニア。ジュンジュヌーの近郊に実家があるとのことだが、家族や友人たちに幾度も携帯電話から連絡しては、通過している場所を伝えている。バイクで誰かが迎えに来てくれることになっているとのこと。久しぶりの帰省で大変嬉しいことは満面の笑みからもよくわかる。

    すでに陽はとっぷりと暮れてしまった。午後7時近くになったあたりで、ようやくジュンジュヌーのバススタンドに到着。下車してから今度はマンダ‐ワー行きのバスを探す。バスのチケットカウンターで、地元の学校で英語の教員をしている人と出会った。この人は実におしゃべりで、英語教員だけあって大変に流暢な英語を話す。インドで起業しているというネパール人にも会った。生まれもインドだそうだが、父母の祖国ネパールでの不安定な様子がいつも気がかりとのこと。

    ジュンジュヌーから1時間ほどでマンダーワーのバススタンドに到着。商店がいくつか並ぶ一角スバーシュ・チャンドラ・ボースの胸像があるところが「バススタンド」ということになっている。

    降りたところから宿が遠くて、途中の路地の暗がりに犬がいたりすると嫌だなと思ったが、ここからすぐ近くに目的の宿があったので良かった。

    この日の宿泊はHotel Madawa Haveli古いハヴェーリーをホテルに転用したもので、部屋によって広さや形、装飾等は異なり、料金設定も違う。照明が暗いのは難だが、きれいで快適な部屋だ。

    マンダーワー行きバスに乗り換える前、ジュンジュヌーに到着する少し前あたりで、スマホにシグナルが入っていることを確認していた。宿の屋上で食事を注文してから早速ボーダフォンに電話してSIMをアクティベートする。しばらくすると開通した。これだけでずいぶん気分が違う。宿のWi-Fi頼みは心もとないが、ネットが常時接続、そして電話がいつでもかけられる、受けられるという安心感は実にいい・・・というより、今やどこにいても必須である。

    〈続く〉

  • Lonely Planet INDIAの新版をKindleで購入

    Lonely Planet INDIAの新版をKindleで購入

    今年9月にLonely Planetのガイドブック「INDIA」の新版が発売となった。従前はPDF版を購入して、その都度必要部分だけプリントアウトしたり、スマホに入れて閲覧したりという具合だったが、今回はKindle版を購入してみた。

    スマホやタブレットのキンドルで使っている20代の欧州人は、「コレ、いいっすよ」と言っていたが、実際に使ってみると、ちょっと変なところに触れるとでたらめなところに飛んでしまうし、いろいろリンクが張られているので、知らず知らずにGoogleマップが立ち上がってしまったり、読んでいた誌面をふさいでしまったりと、不便なこと極まりない。

    普段、キンドルでよく読書しているが、ゆっくりと同一方向にページを進める読書と違い、あちこち参照するために行ったり戻ったりするガイドブック用にはまだよくこなれてない感じがする。多少慣れてきたら、Kindle版の使い勝手について誰かに質問されて、「ああ、なかなかいいよ」などと返事しているかもしれないが。少なくとも、荷物が多少なりとも減ること、複数のデバイスで閲覧できるということは間違いなく大きな利点だ。慣れるように努力するしかないか・・・。

  • デリーのアフガニスタン人地区

    デリーのアフガニスタン人地区

    ラージパトナガルⅡに出かけてみた。フェイスブックにて、ある方がここにあるアフガンレストランのことなどについて書かれていたので、せっかくデリーに来たので立ち寄ってみることにした。

    地下鉄のラージパトナガル駅で降りて、しばらく東に歩いたあたりで、アフガニスタンの人たちが歩いているのを見かけるようになってくる。アフガニスタンといっても様々な民族が住んでおり、見た目はインド人と同じような感じの人たちも少なくないのだが、タジク人やパシュトゥン人たちは、「やや日焼けした白人」といった風貌の人たちが多く、私が聞き取ることのできない美しい響きの言葉をしゃべっている。

    しばらく進むと、ペルシャ文字の看板が目立つようになり、そのエリアには、アフガニスタン人が経営している店あり、アフガン人顧客が多いインド人の店あり。そんな中にあったアフガンケバーブハウスというレストランに入ってみることにした。

    店内で働いているのはアフガニスタン人、出入りするお客も同国の人たちが多かった。店内に踏み入れたときにいたのは、すべて男性で、揃ってやたらと整ったイケメン揃いである。女性はさぞ美しかろうと思っていたら、ちょうどアフガン人カップルが入ってきて、ふたりともまさに眉目秀麗という感じ。一日中、ああいうキリリとした顔をしていてくたびれないのか?思うくらいだ。

    店主はタジク人。スタッフはタジク以外にもいろいろな民族の人たちが働いているそうだ。
    「カーブルのレストランで出しているようなものを用意していますよ」とのこと。注文したプラオもコフタも大変上品な味でおいしかった。メニューを眺めてみたところ、やはりペルシャ風のアイテムが多いようだ。インドのムスリム料理に取り入れられたアイテムの原型といった感じで興味深い。

    どれも美味であった。

    界隈には、アフガンによるアフガン式のナーンを焼いて売る店、アフガン食材屋、アフガンのスナック屋台、各国の通貨を扱う両替屋、航空券他を扱う旅行代理店が多く目に付く。Safi Airwaysというアフガニスタンの航空会社のオフィスまであり、それらはペルシャ文字の看板を掲げている。このあたりでアフガン客を相手にするインド人たちには、多少のダリー語(アフガニスタンで広く通用するペルシャ語)が出来る人も珍しくはないようだ。

    脇道から、色白で大変見目麗しい三人連れの女性たち出てきた。洋装なのでどこの人たちかよくわからないが、サイクルリクシャーを呼び止めて、行き先と料金のことをやり取りしている声が、さきほどアフガンレストランで耳にしたような訛りのヒンディー。尋ねてみると、やはりアフガニスタン人たちであった。

    デリーではアフガンから来た人たちが多い(一説には1万人程度はいるとか)のは知ってはいたものの、ここに集住していることやレストランなどもあることは把握していなかったのは不覚であった。かなりアップマーケットな地域なので、レストラン等で雇われている人はともかく、ここで商売を営んでいるアフガニスタン人は、暮らし向きの良い層が多いようだ。ラージパトナガルⅡのアフガンレストラン出入りする人々の多くはアフガン人。けっこう可処分所得の高い人層が少なくないように見受けられる。

    界隈には立派な身なりのアフガン紳士の姿もあるし、金余りのボンボンみたいなのも少々。どんな仕事をして稼いでいるのかはよくわからないが、昔から母国での不都合が生じた富裕層や政治家などが、デリーに逃れてきていたことを思い出した。最たる大物関係では、社会主義政権最後の大統領、ムハンマド・ナジブッラーは、ターリバーンが首都カーブルを制圧してから逮捕、処刑されたが、それに先だって家族をデリーに送っている。主人が処刑されて歎き悲しむ遺族のことがインドの新聞に出ていたことを、ふと思い出した。

    インド人の不動産屋から「あの、お住まいはもうお決まりでしょうか?」と声をかけられる。モンゴル系のハザラ族アフガン人かと思ったとのこと。この人は、アフガン人が大切な顧客なのでこまめにチェックしているらしい。

    翌日にもう一度この地域を訪れてみて、他のレストランで食事をしてみた。メニュー下部に「マントゥー」とあるのは餃子。メンズ豆の煮物とヨーグルトがかけてある。上の写真左側。
    このマントゥーという名前だが、漢字の饅頭(韓国でいうところのマンドゥー。漢字で饅頭と書くが、日本の餃子のこと)と符号しているみたいなのは、何かの偶然なのだろうか、あるいは歴史的な背景が含まれているのか?それはともかく、まんま蒸し餃子であった。

    左側が「マントゥー」

    このアフガニスタン人地区、なかなか面白そうなエリアだ。今後もまた折を見つけて訪れて観察してみようと思う。

  • 映画「ルンタ」

    池谷薫監督による映画作品「ルンタ」が東京都中野区東中野のポレポレ東中野にて、11月13日まで公開されている。

    朝鮮戦争とほぼ同じ時期に始まる中国によるチベット侵攻以降、現在に至るまで続く占領下にあるチベットでは抵抗の歴史が続き、2000年代に入ってから市民や僧侶による焼身抗議がメディアで報じられることが多いが、そうした行為の背景にあるものを探っているのがこの作品。

    インドのダラムサラで、チベットにおける苛烈な弾圧から逃れてきた人々を支援する活動をしている中原一博氏に密着する形でストーリーが進んでいく。

    チベットにおける焼身抗議とは、中国による圧政に対して中国人を殺める暴力に訴えるものではなく、自らの身体を灯明として国や民族に捧げて覚醒を促す自己犠牲の行為であるとのこと。

    かつて、イギリスが植民地支配していたインドにおいて、ガーンディーが率いた活動もまた、大変な自己犠牲を要する実に「過激な」行動であったが、チベットにおいても展開される非暴力不服従の活動もまた、なんと激しいものだろうか。

    作品中でカメラが追っていく中原一博氏がチベットにおける人々の抵抗運動を伝えるブログ「チベットNOW@ルンタ」では、チベットの情勢、中国当局による様々な弾圧、焼身抗議を実行するに至った人々の背景、占領下チベットから逃れてきた人たちへのインタビュー記事などが刻々と綴られている。

    同ブログでは僧侶が町中で「一人デモ」を実行して公安に取り押さえられる現場の動画なども取り上げられており、その後本人が受けたであろう苛酷な拷問、長期に渡る獄中生活などを思うと、非暴力不服従運動という活動は大変大きな自己犠牲を必要とするものであることがひしひしと伝わってくる。

    私たちがごく当たり前のこととして享受しており、その大切ささえもすっかり忘れ去られているが如き自由と民主主義だが、これがいかに尊いものであるかを思い知らされるようだ。

    チベットは決して中国の一部ではない。焼身抗議を実行する人々が、自らを灯明として差し出して覚醒を促している相手は、中国当局やチベットの同胞だけではなく、中国による占領の継続を黙認している国際社会に向けられたものであることについて、私たちは自覚しなくてはならない。