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カテゴリー: travel

  • スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー

    スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー




    ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー(Dargah Hazrat Khwaja Dana)に参拝。あまり建物としては取り立てて素晴らしいということもないのだが、やはり佇まいであったり、隣に広い墓地があったりするのがダルガーらしいところだ。
    不思議だったのはその墓地だが、もっと沢山ぎっしりと墓があってもおかしくないのだが、かなりまばらなことだ。こういうところに埋葬できる期限でもあるのだろうか。またここに埋葬した場合、定期的に徴収されるお金はあるかと思うが、どういう名目でいくらくらい支払うのだろうか。

    〈続く〉

  • スーラト1  モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    スーラト1 モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    濁った海水の上のさざ波と黒々とした砂州というか干潟というか・・・が大きく広がっている。その黒い砂州には塩田もあり、砂鉄分ともヘドロともつかない土壌の上で作られる塩のミネラル分だか有機分を思うと、工場でケミカルに作られたもののほうがちょっとはマシかねぇ?などとぼんやり思っているうちに、飛行機はスーラト空港のランウェイに滑り込む。

    スーラトの空港に到着

    スーラトの街は想像以上の大都会だった。しかも豊かで華やか。街自体や建物の造りも大きく、まるでムンバイあたりに来たかのような気さえする。先進的だ。

    94年にペストが発生して50名以上が亡くなったり、700名にも及ぶ人々が感染したりするという出来事が起きたのはこの街だったため、なんとなく「物凄く不潔な街」という先入観が刷り込まれていたのだが、このパリッとした清潔感は一体なんだ?とひっくり返りそうになる。

    スーラトの宿泊先

    宿からオートでモーディー・アーターシュ・ベヘラームへ。オートの運転手は、パールスィーの人たちが礼拝から戻るときの姿を見て、ムスリムだかパールスィーだかよくわからないようで、「ありゃ、これはマスジッドかな?いやアーターシュ・ベヘラームと書いてあるからパールスィー寺院だ。」などといっている。確かに装いは見た目似ているし、これがオールドデリーなどだったら、この姿を見るとムスリムであると認識されるだろう。

    ちょうど着いたところでバールスィーの参拝客の人たちが出てくるところであったので、少し話をしてみる。パールスィーの女性たちの中には信じられないくらい美しい人がいる。今日の女性もそうだった。パールスィーでない相手と結婚するとパールスィーではなくなってしまうため、物理的にパールスィーの人たちにはイラン系の形質が引き継がれていくことになる。そのためとりわけ数人集まっていると、パールスィーであることがまちがいないことが見てとれる。ここもまたパールスィーでないと入ることはできないのだが、敷地入口のところまでは入れるので、そこから首を伸ばして敷地内を覗いてみる。

    〈続く〉

  • バスタル観光の今後

    その後もいくつかのハートを回ってみた。どのハートも曜日を違えて週1回の割合で開催されているため、毎日違うハートを見学することは可能だし、品物を売りに行く人たちもそのように複数のハートに出入りしていることは多いようだ。例の青空バーの美人ママも毎週いくつかのハートをかけ持ちしていると聞いた。

    ハートにやってくる独自の装いの部族の人たち。装身具は独特のものが多いが、衣類については、まとい方や着衣の色の傾向は部族独自のものがあるものの、その衣自体は大量生産されて、特に安くマーケットに出回っているポリエステル製のサーリーを使って独自のまとい方をしたり、一部加工して着たりしているようだ。

    昔は部族がそれぞれの村で衣類を作っていたようですが、やはり工業化が進むと安い化繊がたくさん出回るようになるため、部族が手間暇かけて作っていたものは駆逐されてしまうのだろう。これは部族に限ったことではない。

    部族以外、一般の人たちの間でも、かつてはサーリーの柄や模様で地域やカーストが判ってしまう(ラージャスターンやグジャラートなどでは特に)ものであったのが、今は地域やコミュニティーの特色を排したニュートラルな柄が大手メーカーから大量に市場に投入されているため、サーリーを見て「この人は××地域の××コミュニティーの人だ」と言うことはまずできなくなっている。

    またそのサーリーにしてみたところで、今は洋装や「パンジャービー」と俗称されるシャルワール・カミーズ(元々はこれを着る習慣のなかった地域にも広く普及してしまっています)に取って変わられているので、サーリーを着た女性を見かける機会さえも、とても減っている。

    そんなわけで、かつては「着るものはその人の出自を示す」と言われていたインドにおける装いだが、今はあまりそういう意味合いがかなり薄くなっている。

    アーディワースィーの人たちの衣装が前述のようになっている以上、彼らが洋装やパンジャービーを着てハートに出てくる日はそう遠くないだろう。とりわけ若い人たちについては。

    その一方で、今後バスタルが観光で注目されるようになってくると、敢えて伝統的な装いでハートにやってきて、お金を取って写真を取らせて収入の足しにするというようなケースも出てくるだろう。まさにそのために伝統的衣装が復活するという皮肉なことが起きるかもしれない。

    すくなくとも今回私がハートをいくつか回ってみた中では、外国人はもちろんインド人観光客の姿さえ見かけない。ごく当たり前に村から出てきた先住民たちが必要な日用品を得るための場であり村の産物で現金収入を得るための機会、その他の住民にとっては定期市に来る先住民相手に収入を得るチャンス以外の何物でもなく、そこに観光の要素が入る余地さえないように見える。そういう意味では、現在までのところのバスタルのハートは大変貴重なものだ。

    でもこの状況は、今後バスタルが観光化されていく中で、避けられない近未来のこととなると予想される。インドは他にも観光地がたくさんあり、バスタルは「マオイスト」の活動でイメージが良くないため、一気に観光化されることはないにしても、そういう危惧があることは間違いない。

    先住民が占める人口が4割近いこと、インフラの整備が遅れているため、村々でこうした定期市(ハート)の開催が必要であることは今後も変わらないはず。そこに観光化の進展が与えるインパクトは大きなものになるだろう。竹を収穫して加工して裁断して組み上げるという大きな手間をかけて30Rsにしかならないが、伝統的衣装を若い娘さんに着せて、それで写真撮らせればそれくらいの金額が数秒で手にできるわけだが、である。
    また、足にはめるニッケルの輪は、ただ付けていても何の現金収入ももたらしませんが、観光客に売れば、気前の良い人なら500ルピー、1000ルピーくれるかもしれない。

    まぁ、今のところはハートで売り買いする先住民と彼らを相手にする地元の小さな行商人以外は来ていないようで、私たち外国人は、ただの闖入者に過ぎないのだが。

    外国人観光客の訪問が増えてきたら、私が部族の村人であれば「今どきの娘たちは昔のアクセサリー付けたがらないからなあ。家で寝かせていても仕方がないから、ハートにやってくる外人来ていたら声かけてみようか?いくら払ってくれるかなぁ?」とか、「嫁さんのネックレス、売り払うわけにはいかないけど、似たようなのを作れば外人さん買ってくれないかなぁ?今度村の鍛冶屋に安手のやつを頼んでみよう」などと、いろいろ考えることだろう。

  • 部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    通常のインドのマーケットと異なり、品物をドカッと積んで量り売りするのではなく、小さな山にして並べている。先住民の人たちの間で度量衡の感覚がないため、「ひと山でいくら」とするのがわかり易いためとのこと。
    稀にハカリでキロ売りしている人もいるが、それは近年出てきた「新しいやり方」とのことで、まだまだ一般的ではないそうだ。








    部族の女性たちのアンクレットが面白い。ニッケルコインを溶かして作るのだそうです。まだ子供のうちからはめるそうで、当然成長していくと外れなくなる。

    テラコッタの鍋、かまど、炊飯用の釜などを売る部族の女性たち。今のようにアルミやステンレスの厨房用品が出回るまでは、すべてこうした調理器具であったとのこと。そして皿も木の葉を編んだものが使われていたとのことで、身の回りのものすべてが「すぐに、あるいはやがて土に還る」ものであったそうだ。


    こちらは、マフア(という名前の木の花)の蒸留酒を作るための道具。

    謎の干物状のものはタバコとのこと。

    特大のカゴは穀類の貯蔵のために使われる。




    村から何十キロも歩いてハートに到着したおばちゃんたち。こうした部族の人たちは20kmとか30km以上離れたところからも徒歩で荷物を持って来ているとのこと。強靭な肉体を持つ人たちだ。

    この地域の部族の人たちのハートで特徴的なことのひとつに、チャープラーと呼ばれる赤アリとその卵が食用にされることがある。どこのハートに出かけても、葉っぱの皿の上に山盛りになっているのを目にすることができる。


    またドークラー(ロストワックス鋳造)の神や動物の像も地域の特産品のひとつだ。

    2000年11月にマディヤ・プラデーシュ州から分離したチャッティースガル州だが、その南部に位置するバスタル地方は、隣接するオリッサ州西部とともに、部族の人々が占める割合が高く、独自のカラーが強い地域だ。
    〈完〉

  • 部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール

    部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール


    バスタルは、ヒンディー語圏であるチャッティースガル州にあるため、部族の人たちは身内ではそれぞれの部族語で会話しているとはいえ、ハートに出てきている人たちの間で個人差は大きいものの、ヒンディー語でコミュニケーションするのに困ることはあまりない。

    部族の人たちの装身具

    ガイドのAさんと私はヒンディー語で話している(Aさんは流暢な英語も話す)が、彼がいてありがたいのは、ゴンディーその他の部族語への通訳という意味ではなく、地元の文化や習慣に通じているがゆえに、私ひとりで訪れていると、「フレンドリーだった」「カラフルだった」で終わってしまい、気付かなかったであろうことについて、細かくレクチャーを受けられることだ。それにより、不思議かつエキゾチックに感じられたものが、合理的かつ現実的なものとして理解できるようになることだ。
    サゴヤシの樹液の発酵酒サルフィーが入っている。


    ハートに来ている人たちの部族名、居住地域なども教えてもらうことにより、具体的にどういう分布をしているのか、どういう傾向を持つ人たちなのか、なんとなくイメージできるようにもなる。

    例えばこういう眺めである。どこのハート(定期市)にも必ずいるこういう人たち。

    普段、村では手に入らないモノをハートで買うわけなので、現金が必要となるわけだが、地べたに野菜やカゴを並べて販売する人たち以外に、穀類、野蚕の繭などを持参して、こうした仲買人に販売して現金を得るケースも多い。ちょうど私たちが日本から外国に渡航して、とりあえず到着した国の通貨を両替するのに近いイメージだろうか。ハートにおいて、穀類や野蚕の繭は相場が決まっていることから、通貨に近い性格を持つようだ。部族の人たちがハートで買う日用品として大切なものとして、工業製品以外に塩があるとのこと。村では採れないからだ。
    野蚕の繭


    ナングールのハートで、誰かが私のことを呼んでいる。ガイドのAさん以外は私のことを知っている人はいないはずなのだが、振り向いてみると、先日ダルバーのハートの青空バーにいた美人ママさんであった。ご主人は運転手で三児の母だが、週に幾度かハートで酒を売っているとのことだ。

    マーケットはすでに始まっている時間帯だが、まだまだ品物を運び込んでいる部族の人たちは多い。縦に長く行列してハートの広場に入ってくる女性たちがいた。軍隊的に規律正しく見えるのだが、そういう訳ではなく、居住地としているジャングルの中の小道を通るときの動きがそのまま習慣となっているとのことで、確かに横に広がることなく縦一列で移動している人たちは少なくなかった。この人たちを含めて、インドらしからぬ装いと風貌の部族の人たちは多い。

    工業化と大量生産された衣類の低廉化の流れの中、インド各地の衣類の民族色が薄れているのは、チャッティースガルの部族の人たちも同じ。マーケットで安く入手できるサーリーの布を自分たちのやり方で身にまとっている。こういう時代になる前には、もっと異なるいでたちであったことだろう。




    本日もうひとつの訪問先のハートが開かれるナンガルナール村近くの光景。巨大な製鉄所がある。先住民たちの土地をほぼ強制的に収容して得た広大な土地に、民間企業であるターター製鉄に安く譲渡して建てさせたそうで、同義上も手続き上もかなり問題の施設なのだとか。
    民間大資本による製鉄所

    このナンガルナール村は、バトラー(Bhatra)族が主体の村。この若い女性もバトラー族だが、25kmくらい離れたところから重い荷物を持って山道を30kmくらい歩いて定期市(ハート)までやってきたそうだ。


    バトラー族の男性はやや大柄で精悍な顔立ちの人が多く、頭の被り物がなかなかいなせだ。女性もまた豹を思わせるような強靭な感じがする人が少なくない。彼らの装いもまたインドらしくない。ノーズリングは左右両側につけるのがバトラー族の流儀とのこと。











    〈続く〉

  • 部族の村とハート(2) デーヴ・グリー

    部族の村とハート(2) デーヴ・グリー

    一見、何の変哲もない村であっても、寺や礼拝施設に相当するものが、一般のインド社会と大きくかけ離れているものであることに大変驚いた。家の壁などにはヒンドゥーの神が飾られていたり、女性が額にビンディーを付けていたりしていても、実は彼らはヒンドゥーではないのだ。

    結婚観もインド社会とは異なっており、結婚という形式へのこだわりがないのもここの部族社会の特徴らしい。基本的に恋愛は自由で、インドの世間でいうところの不倫で、そのまま子供たちをもうけて家庭を持ってしまったりしても、村落社会で不利益を受けたりすることさえないらしい。

    そんなわけで、村で思春期を迎えた少年少女が親に何も言わずに突然家から姿を消して、どうしているのかと思ったら、離れた村で新婚生活を送っているということは不思議でもなんでもないとのこと。

    こちらはマーウリーパダル村集会所の壁の絵。パッと眺めた感じではヒンドゥー教の神々が村人たちや動物を交えて描かれているように見えるが、題材はヒンドゥー教とはまったく関係ないとのこと。

    だが本来はヒンドゥーとは無関係の地場の神が、地元のヒンドゥー社会の中に取り込まれて、特定のカースト等の間で信仰されるというケースは各地で見られる。

    ドゥルワー族のお寺というか祠というか。要は礼拝・祭祀施設。デーウ・グリー(DEV GUDI)と呼ばれる。こちらはお寺の本殿に相当するもの。屋根がないのは、彼らの神が天界との間が遮られるのを好まないからなのだという。

    続くこちらの画像はふたつの柱の間にブランコがかけられるのだそうだ。祭のときに限られるらしいが。

    そして、ここは催し事が開催される際に、村人たちが酒や料理とともに会合を持つ場所。
    マフア、サルフィーなどの酒は神性を持つものとして、こうした場で提供されるそうだ。なんとなく日本の神社のお神酒が頭に浮かぶ。ビール、ウイスキーなど、バスタルの部族の伝統的な酒とは異なるアルコール類については、神性のある飲み物であるとは見なされないとのこと。これもお神酒と重ねてみると、そういう理屈はわかるような気がする。

    デーヴ・グリーには、コンクリートで作られたモダンなものもある。
    獅子の背後の柱にシヴァ神を象徴するトリシュール(三又の槍)のようなものが描かれているが、これはトリシュールではなく、神の頭と両手を象徴しているとのこと。ヒンドゥー教発生以前からあるものとの説、こうした部族の神のシンボルがヒンドゥー教に吸収されていったというような説もあるそうだ。

    上の画像の2頭の獅子の間の柱に見えるトリシュール状のもの

    デーヴ・グリーのバリエーションでこういうのもある。法輪があるし、スワスティカが描かれており、建物後部にはシカラも建っている。どう見てもヒンドゥー寺院にしか見えないのだが、実はこれもデーヴ・グリーなのだ。本当の祭壇は、この建物の中ではなく、建物脇にあるテラコッタの人形みたいなのが置かれている簡素な基壇。つまりこれが「本堂」ということになる。

    法輪やシカーラーも見られ、ヒンドゥー寺院に見えるのだが・・・。
    上画像の建物の脇にある屋根のない基壇。実はこれが「本殿」である。
    「本殿」のすぐ手前にある木のたもとにある小さな石柱。これもまた神聖の高い重要なものであるとされる。

    30年ほど前までは、ジャグダルプル市内にもデーヴ・グリーがいくつかあったそうだが、今もデーヴ・グリーとして機能しているものはないとのこと。要はこういう感じに寺院化が進展し、今ではすっかりヒンドゥー寺院に化けてしまっているらしい。

    デーヴ・グリーそのものについては、ヒンドゥー寺院と異なり、毎日お参りするようなことはなく、年にほんの数回程度、祭りの際に礼拝施設として使われる程度なのだという。

    〈続く〉

  • 部族の村とハート(1) ドゥルワー族の村

    部族の村とハート(1) ドゥルワー族の村

    この日は地元で長年、主に部族の村やハート(定期市)に関するガイドをしているAさんに案内を依頼した。

    朝9時にホテルを出発してマルヴィーパダル(Mavlipadar)村に行く。ここにはドゥルワー(Dhulva)族の村で、Aさんの昔からの家族同然の付き合いだという人の家に立ち寄る。

    家の外壁は石積みであることが多い。

    Aさんはムスリムでジャグダルプルの育ちだが、いろいろな部族の言葉で会話することができ、訪れる先の村やハートに品物を出している人たちの中にも彼の知己が多い。彼の父親の仕事の関係で、さまざまなアーディワースィーの人たちとの交流が幼少時から多かったことが背景にあるそうだ。

    この地域の部族民たちの言葉はいろいろあるのだが、その中で優勢で広く通用するゴンディー語の挨拶「ジョーハール(Johar)」というのを覚えた。「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」など、いろいろ使えて便利なようだ。

    その「家族同然」という人は、Aさんよりも一世代上の人なのだが、彼は夫と子のある女性と恋に落ちて、そのまま結婚することなく所帯を持ったとのこと。そういうケースはここの先住民の中では珍しいことではなく、それで色眼鏡で見られたり人付き合いに支障をきたしたりということもないそうだ。男女の関係についてはオープンであり、男女間の上下もないとのこと。そういう社会がインドのヒンドゥー教徒の大海に囲まれた中にあるというのは興味深い。

    当人はせっせとカゴを作っていたが実にうまいもので、見ている前でどんどん仕上げていく。ハートで売ると、ひとつ30Rsの収入となるのだそうだ。家の前は畑になっており野菜を栽培しているが自家消費用。現金収入はとても少ないが、かといって生活に困ることはないらしい。

    器用にカゴを編み上げていく。
    カゴを作るための下準備
    家の前は畑

    村の中ではサゴヤシが生えている家があり、上のほうに樹液を取るための壺がかかっている。採取してから数時間で発酵して弱い酒ができるのだそうだ。これもまたハートでよく売られている。この酒をサルフィーと呼ぶ。

    ここの部族の村で不思議なのは乳製品を摂取する習慣がないとのこと。それでチャーイもブラックティーとなる。理由は動物の乳は、牛でもヤギでも、それぞれ牛やヤギの赤ん坊が飲むべきもので人間が飲むものではないという考えとのことだそうだ。

    〈続く〉

  • Darbha村の定期市(ハート)

    Darbha村の定期市(ハート)

    村から品物を運んでくるアーディワースィーの人たち
    同じ村の人たちとジープをチャーターしたりもする。

    バスタル地方といえば、カラフルなハート(定期市)で知られるが、だいたい大きなスペースに屋根や幌が張られているところで工業製品、野菜、軽食などを商うのは町の人。

    そのまま何もないところにムシロを広げて野菜、竹のザルやカゴ、手作りのホウキ、酒、野蚕の繭など村の産品を売るのは先住民が多い。どちらも近くに集まって商っており、先住民とのその他の市民が隣り合って商売しているという図はなかなかないし、アーディワースィー(先住民)が屋根や幌の下で何かを売っているというのもないようだ。きちんとしたマーケットプレースの場所で商売するのが普通の市民、先住民はその脇や空き地で物を売るといった棲み分けになっているらしい。

    野蚕の繭

    生鮮食品でも町の人たちとアーディワースィーの人たちが売るものには違いがある。私たちに馴染み深く、大量に栽培・収穫できる野菜類などを沢山積み上げて売るのは町の人たち。商業作物としてあまり栽培されない野菜についてはアーディワースィーの人たちが扱っているようだ。

    町の人たちが売る野菜

    アーディワースィーの人たちが売る野菜

    魚類については、大きな鮮魚類は町の人たち、小魚などの干物はアーディワースィーといった具合だ。

    町の人たちは鮮魚を売る。

    アーディワースィーの人たちは小さな魚の干物を売る。

    マフアの花から造った地酒マフア、米から醸造したドブロクみたいなのを売っているのは女性たち。こうした「青空バー」は、地域の様々な村からやってきたアーディワースィーの男たちの社交場となる。ちょっとした美人ママのところにそうしたお客たちが集まるのは、いずこも変わらないようだ。

    青空バー
    米から造ったドブロク
    こちらはマフアーの花。これを使ってマフアーの酒が造られる。
    マフアーの酒を売る美人ママ
  • ティーラトガルの滝

    ティーラトガルの滝

    ジャグダルプルを出てからしばらくの間は良い道路が続く。昔ながらのインドの幹線道路では、これよりもっと大きく天を突くような大木が道路両側に等間隔で並んでおり、スケールの大きな景観を提供していた。中央アジア地域や中国の新疆でも道路両側に大きなポプラ並木が見られるが、樹木の種類は違えども、目的は同じだろう。緑のトンネルが遮光して往来する車両や人を強烈な日差しから守る、交通にかかる「インフラ」のひとつであった。

    英領期から計画的に植えられてきたものだが、モータリゼーションの大衆化、物流の大量化、高速化に伴い、全国各地で幹線道路が複数車線化していく中で、当然こうした国道沿いの緑のトンネルは急速に姿を消している。おそらくパキスタンやバングラデシュでも同様だろう。幹線道路脇の並木は伐採されて、道路幅が拡張されていくのだ。

    やがて周囲は森となり、勾配のある山道となってくる。こういう眺めを目の前にすると、マオイストが潜んでいるのはそういう地域なのだろうかと想像する。バスタルは「チャッティースガルのカシミール」などとも表現されることがあるが、高度がありスイスのような景観のカシミールとでは、美しさが異なる。

    マオイストたちはこんな具合の森に潜んでいるが、夏季にはマラリアに大変苦しめられるという。

    この地域ではやたらとサルが多い。ニホンザルの近縁のアカゲザルである。私には区別さえつかない。これほどたくさんいたら、このエリアを徒歩で行くのはかなり危険であろう。これは滝に着いても同様で、周囲にはサルがとても多かった。

    やたらとサルが多い。

    さて、そのティーラトガルの滝だが、天然の階段状になった小高い斜面を流れ落ちるという視覚的に面白いものはあるのだが、格別といえるような風情や眺めがあるわけではなかった。この日の目的地は他にあり、ここは途中で立ち寄っただけなのだが、もしここに期待して訪れていたら、かなりガックリきていたかもしれない。

    滝の近くのマーケットで売られていたみやげ類
    いまひとつパッとしない。
  • チトラクート滝

    チトラクート滝

    ジャグダルプルから直行するミニバスがあり、1時間余りで到着した。
    「チャッティースガルのナイヤガラ」とも呼ばれるそうだが、増水する雨季にはもっと流れが大きいのだろう。
    太陽の角度の時間帯がドンピシャで、虹が見えて良かった。狙って行ったわけではないが、「虹がね・・・」という話を前日に聞いていたので。

  • ダンテーシュワリー寺院

    ダンテーシュワリー寺院

    バスタル地方のダンテーワーダーの町にあるダンテーシュワリー寺院。シャンキニー川とダンキニー川のサンガム(合流点)にあるこの名刹は、秋に全インドで祝われるダシェーラー祭の中でも、その盛大さと祝う期間の長さは格別であることで広く知られる「バスタルのダシェーラー」の中心地のひとつでもある。

    お寺によって外国人はお断り(全国的にところどころにある)とか、上半身裸で下は白のドーティーを着ないとダメ(ケララの某寺院)とか、女人禁制(カルナータカのサバリマラ寺院が代表的)いろいろローカルルールがあるお寺は珍しくはない。
    このダンテーシュワリー寺院は、男性は白のドーティーかサフラン色のルンギーを着用するようにというローカルルールがある。

    それを知らずに行列して、寺院最奥内陣の御本尊であるダンテーシュワリー女神の神像の前までたどり着き、手を合わせたところで、参拝客たちにプラサード(参拝者たちに手渡されるもの。通常コンペイトウ的な糖菓子少々であることが多い)を手渡しているプージャーリー(司祭)に、咎められ「履き替えて出直し」を命じられる。
    ドーティーあるいはルンギーについては、入口にある靴預けのところで借りることか出来るとのこと。

    他の地域からやってきたインド人たちの中にも、私のようなミスをしてしまった人たちがいた。ローカルルールというものは、よそ者にはなかなか判りづらいものがある。

  • ジャグダルプルの少数民族博物館

    ジャグダルプルの少数民族博物館

    少数民族博物館を訪れてみた。Anthropological Museum(文化人類学博物館)という名前になっているが、事実上の少数民族博物館である。

    ASI敷地内にあるが、そのASIとは、Archaeological Survey of India(インド考古学局)ではなく、Anthropological Survey of India(インド文化人類学局)だ。インドの田舎町によくある「シケた博物館」と違い、展示内容は大変示唆に富むものであり、しっかり時間を取って見学する価値がある。

    館内は撮影禁止であったが、各部族についてのわかりやすい説明と習俗や生活等に関する紹介などがなされており、これらをまとめたブックレットでもあればぜひ購入しておきたかったが、残念ながらそうしたものはなかった。屋外には主だったところの部族の家屋等が再現してある。

    同博物館では、インドの少数民族研究への功績に敬意を表し、イギリス人の文化人類学者ヴェリエール・エルウィンについての紹介もなされていた。私はこの人については知らなかったのだが、ウィキペディアからの受け売りになるが、このような人物であったらしい。

    ロンドン生まれで、宣教師として植民地インドでのキャリアをスタート。彼はインドにおける少数民族研究に大きな足跡を残すとともに、マハートマー・ガーンディーの独立運動にも関わっていたとのことで、「インド愛国者」としての評価も高いそうだ。

    ゴンドの女性と結婚、離婚、そしてまた別のゴンド女性と結婚、独立後のインドでは、そのまま少数民族関係の仕事のため残り、インド国籍を取得。そしてデリーで亡くなったそうだ。
    イギリス人としては、相当な変わり者であったようだが、少数民族研究において、大きな業績を達成した人物であるらしい。