どちらも嗜む人口が減ったので、あまり姿を見かけなくなった。
この商いは先行きが暗いので、店の人は年配者が多くなった。街中でビーディーの匂いが漂ってくるシーンも珍しくなった。かつてのインドの街中といえば、ビーディーの匂いとは切り離せないものであったが。
カテゴリー: travel
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カルカッタ・バンガロー
カルカッタのコロニアルな建物が多く残る市街地のオンボロ屋敷をカッコ良くリニューアルしてオープンした「カルカッタ・バンガロー」。
1泊7千5百ルピーから9千ルピー(およそ1.6かけると日本円価格)もするのだが、いかにもインドらしいホテルだと思う。
そう、インドらしいホテルといえば宮殿ホテルの類も知られるが、こうした都市部で年代ものの屋敷をリフォームしたホテルというのも、まさにインドならではだ。カルカッタで素敵な宿をという方にはとても良い選択肢になるはずだ。ロケーションもシャームバーザールなのでほぼ中心地にあり、交通至便。
郊外にはラージバーリー(大地主の舘)がホテル化されたものもあるが、それとは性格が異なる建物だ。この「カルカッタ・バンガロー」の建物の由来については知らないが、おそらく商取引で成功した人の屋敷だったはず。
今度カルカッタに行ったら見学するとともに、写真撮影させてもらおうと思う。 -

HUAWEI P30 Pro

HUAWEI P30 Pro 9月26日に発売(日本での発売は未定)となったMate30 Proを、やや価格の下がった来年1月か2月以降に買うというようなことも考えていた。
しかし米中貿易摩擦に端を発したアンドロイド問題により、いろいろ不都合なことがあること、先行きが見えないこともある。つい先日まではグーグルのストアが利用できなくても、実は抜け道があり、ストアから入手できるあらゆるアプリをインストールできてしまうため、実質これまでと環境は変わらないと報じるメディアもあったが、この方法はグーグル側でふさいでしまったらしく、やはり大きな支障が出るようになったという。
とりあえずトラブルなく使える現行機、つまりP30 Proがベターな選択肢らしい。実際、制裁回避のためHUAWEIは現行モデルをマイナーチェンジして販売を継続するということもメディアで伝えられている。しばらく迷った挙句、またバンコクの複数アウトレットで実機に触れてみて、やはりこのモデルのカメラ性能は突出しているということが確認できた。
カメラ機能が著しく向上している昨今のスマホだが、ちょっとしたコンデジを凌ぐ画質で、広角から光学ズームで27mm~135mmまで、普通に使えるスマホとなると、選択肢は実に少なくなる。加えて18mm前後の超広角アングルも備えたものとなると、おそらく2, 3年後にはそうしたものがけっこう出回っているかもしれないか、現時点ではHUAWEIのP20 Pro以降の一連のモデルの中から「新しいモデルか古いモデルか」を選択するしかないと言ってよい。
スマホで、ハイエンドなコンデジに匹敵するカメラ性能を持つモデルあればと常々思っていた。コンデジ以上の機動力(デジカメだと取り出すことに気後れするようなケース、スマホならば撮影が許容されているようなシーンは少なくない)がゆえということもあるし、旅行の際の荷物を減らしたい(コンデジとその周辺機器でもかなり邪魔に思う)ということもある。
残念ながらP30 ProのSIMロックフリーのモデルは日本国内で発売されていない。ドコモで通信契約と抱き合わせで販売されているもののみである。海外版は、故障等の際に日本での保証やサポートは得られないため、取り扱いには注意が必要だ。だが良い部分として、撮影時のシャッター音を消すことができることがある。しかもデフォルトで消音モードになっている。日本では法令により?シャッター音が鳴ることになっているようだが、そんなことをしなくてはならないほど、日本には盗撮しようという変態が多いのだろうか?またドコモ版ではストレージ容量128GBモデルしか用意されていないのに対して、海外版で256GB、516GBも選択可能だ。
それはともかく、とりあえずこれがあればコンデジは要らないのかどうかは、人それぞれかと思うが、私自身としてはこれで代用できると考えている。
「インドでどうだろう?このカメラ」というテーマで書くのは本当に久しぶりとなったが、スマホというよりも、「ハイエンドな薄型コンデジにハイエンドなスマホ機能付き」として、P30 Proを挙げてみたい。

画角135mm 
画角135mm 
画角16mm 
画角27mm 
画角27mm 
画角16mm 
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画角27mm 
画角27mm 
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画角135mm 
画角16mm 
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画角16mm -

ダーダルのパールスィーコロニー
初めて訪れたが別天地のようだった。清潔で良く整備された公園、パールスィーと思しき表札や屋号を掲げた屋敷やマンション。裕福な空間である。美しい豪邸が建ち並び、ここにあるゾロアスター教寺院も見るからに立派だ。平日の昼間なのに働き盛りと思われる男性の参拝客も少なくないようだ。
特にみるべきものはないのだが、Five Gardensという5つの公園があるエリアを中心に高級住宅地が広がっている。
ゴミひとつ見当たらないキレイな通りが印象的だ。
街路樹は伸び放題になっているかのように見えるかもしれないが、強い日差しを避ける目的があるため、日本における「街路樹かくあるべし」という基準のようなものとは違った存在目的がある。 -
パールスィーのおばあさん
宿の前からタクシーに乗る際、運転手がやや遠慮がちに「途中まで連れて行かなくてはならない人がいるけどいいか?」と言うので、「ああ、構わんよ」と言うと、やってきたのは高齢のおばあさん。
見るからにパールスィー(洋装で西洋人のおばあさんに見える)だったが、自身が取り仕切っているビジネスがあるとかで、毎朝この運転手のクルマで出勤し、終業後は同様に帰宅しているとのこと。この方、なんと90歳。
少し背中は曲がっているものの、実によくしゃべるし、耳も遠くないようだ。
「そう、日本に行ったときにね、小さい子どもたちまで、みーんな礼儀正しくてね。1983年のことよ。ずいぶん昔のことだから街並みとか変わったんだろうけどね。あなたはどこから?新宿とか今も変わらず賑やかよね。」とマシンガントークにこちらがすっかり圧倒されてしまう。おばあさんが降りて行ってから運転手は言う。
「あの人はね、これまでず〜っと独身なんだ。一度も結婚してないらしい。」
現在のターター・グループ総裁のラタン・ターターもそうだ。もうかなりの老齢なので生きている限りそうだろう。パールスィーの人たちは一般的に高学歴なこともあり、結婚は遅いし、一生独身の人も多い。パールスィー以外の人と結婚すると破門となるとはいえ、実はそういう例も少なくはないこともあり、大いに繁栄しつつも、人口規模は減少しているコミュニテイーということでも知られる。
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ダブルデッカーでムンバイへ
ダマンからヴァーピー駅までの道のりは、オートリクシャーで30分程度。

列車は10分ほどの遅れで到着した12932 BOMBAY CENTAL DOUBLE DECKER。ホレボレするような構えのイン鉄ダブルデッカー車両。牽引するのはフツーの機関車なので、編成の正面から撮るといまひとつ絵にならないが。
始発駅はアーメダーバード、終着駅はムンバイ・セントラル。ダブルデッカーなのだが、私が与えられているのは1階座席なので、ちょっとさえない。
通常の列車よりも景色が低くなるし、通過駅などでよくわかるのだが、顔の位置がほぼプラットフォームの高さになってしまうのだ。

ともあれ、ムンバイ・セントラル駅までの約2時間半をゆったりとした気分で過ごすことができた。


ムンバイの郊外電車の姿が見えてきた。終着駅はそう遠くない。 -

ウドワーダーへ
せっかく近くまで来たので、パールスィー最大の聖地ウドワーダーまで足を延ばす。

ウドワーダー・アーターシュ・ベヘラーム ここにあるウドワーダー・アーターシュ・ベヘラームは、ゾロアスター教最大の聖なる寺院ということになっている。本場イランにおけるゾロアスター教徒の立場は、インドにおける豊かなパールスィーコミュニティの比にならないため、やはりインドにおけるゾロアスター教徒の寺院のほうが格上ということになるのだろうか。私たち異教徒は寺院に入ることはできないが、周辺にある神具屋などを冷やかして歩く。

「クルシード・ハウス」とあるが、一般的にはムスリム名となっている「クルシード」は、ペルシャではイスラーム化する前から一般的な名前。 パールスィーの屋敷には見事なものが多く、眺めているだけでも楽しめる。こうした建物に宿泊できるといいのだが。ちょっといい感じの伝統的パールスィー家屋のゲストハウスに尋ねてみたものの、異教徒はお断りとのことであった。世界中からパールスィーが参拝に来るので、ダラムサラ以外にホテルやゲストハウスなども多いのだが、それらの多くはやはりパールスィー専用とのこと。異教徒でも利用できる宿は2軒ほどあるらしいが、敢えてここに宿泊するよりも、酒のあるダマンに宿を取ったほうが良いように思う。何しろわずか12kmしか離れていないのだから。

ホテルの類は少なくないが、異教徒を泊めるところは少ない。事前に電話等で確認しておいたほうが良いかもしれない。パールスィーの祝祭の時期に当たる時期に宿泊したいならば、事前予約は必須だろう。 時代がかった屋敷が多い中で、モダンなアパートも見かけたが、オーナーはパールスィーであることを視覚的にも強く主張している。

パールスィーのアパートであることが一目瞭然 
ダマンからわずか12kmという距離ながらも、オートはグジャラート州/連邦直轄地ダマンの境で乗り換えなくてはならないことが多いようだ。 -

サンジャーン・スタンブ(サンジャーンの柱)

Sanjan Stambh ダマンから30kmほど南下したサンジャーンにある「サンジャーンの柱(Sanjan Stambh)」へ。
イスラーム化したペルシャからの難民の流れは決してひとつではなかったのだが、その中でもっとも初期に定住したと言われる人たちが上陸したのは現在のグジャラート州南部のサンジャーン。
当時の故事として伝えられるものとして有名なものにこういうのがある。
定住の希望を申し出たパールスィーの人たちの長にサンジャーンの王(支配者)は言った。
「すでにこの土地には多くの人々が住んでいる。残念ながら、あなたがたに分け与えられる場所はもう無い」
それを聞いた長は器になみなみと入ったミルクの中に砂糖を次々に入れながら王に申し上げた。
「かように、器からミルクが外にこぼれることはございません。私どもはあなた方の土地に溶け込んで生きてまいります。」
長の機知と誓いに心打たれた王は、彼らが王国に居を定めることを許した。さて、この柱が建立されたのは後世のパールスィーの人たちによるもので、20世紀初め。敷地内にはパールスィーの人たちのためのダラムサラもある。
このサンジャーンに今もわずかにパールスィーが暮らしている(20人前後)とのことだ。寂れた小さな町からは、おそらく外に出ていく一方で、新たに入ってくる人はないだろうから、前述の故事により定住した人たちの子孫であると思っても良いのかもしれない。

ダラムサラ。片田舎にあるため、パールスィーの巡礼宿としてはずいぶん簡素だ。 -

ダマン4 海岸
ナーニー・ダマンの市街地からしばらく北上したところにあるデーヴカー・ビーチ。日本風の松林の中にヤシの木が混じるエキゾ空間。ここは岩場が多いが松の木が生えているエリアと浜の間くらいに海の家みたいなのがいくつもあり、みんなそこで飲んでいる。ほとんど男性客ばかりだ。たいていラムやウイスキーなど、安価に酔える酒をあおっているため、もう昼近くになると、大声で騒いだり、へべれけでフラフラしながら小便に立つ男性たちの姿が見苦しい。平日でこうなのだから、週末はどんなことになっているのかと思うと情けない。酒はスマートに飲もう。
あまり雰囲気が良くなかったので、ダマンの海岸に戻ることにした。昔の記憶では、ボロボロの穴が開いたようなシャツを着ていかにも貧しげな男たちばかりだったオート運転手の中にも、一見ちょっとしたいいとこのボンボンみたいに見えなくもない身なりと風貌の男の子が、たまーにいたりする近年。特に都会ではそういうのは珍しくはない。それだけ豊かになりつつあるということなのだろう。
ダマンでは、ご覧のとおりの逆三角のボディービルダー運転手がいた。見た目の筋肉に時間とお金を投資する余裕があるわけだ。庶民の可処分所得の変遷を比較(どういうモノサシで測ればよいのかわからないが)すると、なかなかおもしろいことになりそうだ。お客が来ないのでフテ寝しているタトゥー屋。浜にはこういうのが多い。ひどく不衛生そうだし、病気がうつりそうだ。近ごろインドでも若い人たちで入れ墨しているのが増えてるけど、まったく感心しない。入れたら10年後どころか1週間後にでも覆いに後悔しそうなデザインサンプルを掲げている店もある。

タトゥー屋 湖かと思うほど穏やかな水面のダマンの海岸。アラビア海に沈む夕陽が大変美しい海岸だ。浜から長く沖に突き出している砂洲があるのだが、潮が引くと仰天するほど遠くまでそれが伸びる。更にはそこから先もずいぶん遠浅なので、かなり遠くまで出た人がくるぶしまでしか水に浸っていなかったりする。満潮の際の水面からすると、潮流は強そうで海水浴には向かない感じであるが。砂は黒く、粒が小さな石のような感じの浜で、昼間はまったくパッとしない。水も茶色で見映えするようなことはないとはいえ、夕陽の時間帯となるとこれが絶景となるのだ。インド人はカナヅチが大半なので、海で遊んでいる人たちは大勢いても、泳いでいる姿はみかけない。

ダマンのビーチに面した素晴らしいロケーションを占めるサーキットハウス。つまり役人用の宿泊施設。 夕暮れ時のダマンの眺めは最高だったが、とても残念なことがひとつ。
ビール瓶の破片が散乱しており、散歩していてもそこここで飲んでいる人たちが平気で瓶を放置していくし、立ち去り際にわざわざガチャンガチャン割っていくグループもあった。飲み終えてから海に投げる奴もいた。
酒税の低さで、飲酒がダマン観光の主要な魅力のひとつになっているだが、その結果としてのこうしたゴミの散乱は、目に余るものがある。
浜を歩くと足元でガラス破片がギシギシ、バリバリ鳴る。とても裸足で歩いたり、寝そべったりして日光浴などという環境ではない。サンダル履きで歩くのさえ危険なくらいだ。
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ダマン3 ポルトガルの名残り
植民地時代の遺物沢山のモーティー・ダマン(大ダマン)と違って、ナーニー・ダマン(小ダマン)では、いくばくかの家屋と城塞以外はポルトガル時代の建築物があまり残っていないとはいえ、往時を感じさせるメルカード(マーケット)がある。ここでは、ポルトガル人やメスティソのお客相手にポルトガル語をおぼえた土地の物売りたちが商っていたことだろう。

MERCADO J. M. FALCAO DE CARVALHO CONSTRUIDO 1879とある。 こちらはナーニー・ダマンの要塞。ダマン・ガンガーがアラビア海に注ぐ河口近くにあり、高い壁に囲まれた敷地内には教会と墓地がある。1961年12月にゴアやディーウとともにインドが軍事力で奪還したダマンだが、ここの墓地を散策すると判るのだが、1980年代くらいまでは墓碑がポルトガル語で記されることが多かったようだ。その後はほぼ英語が使われるようになっている。かつては隣にあった古風なリーディングルームを持つ図書館は取り壊されており、新たに公園を建設中であった。

ナーニー・ダマンに残るポルトガルの要塞「ST. JEROME FORT」 
要塞内部 
要塞を囲む高い壁の上はこうした通路になっている。かつて歩哨が立っていたのだろう。 
要塞の中にある教会 
要塞内にある墓地 
ダマン・ガンガー河口付近 徒歩で橋を渡り、モーティー・ダマンへ。ゲートをくぐって通りを進んでみる。ラテンアメリカの街と同様、「セントロ」があり、公園を中心にして、主要な役所、大きな郵便局、立派な教会などが配置されている。
市役所、郵便局、銀行、教会などが四角い広場に面していて、そこが街の中心となっている・・・というパターンは南米と同じ。ローマンカトリックの聖堂がいくつもあり、インドではなくラテンアメリカに来ているような気にさえなる。ここには刑務所もあるが、立派な建物で歴史的な価値も大きい。

この公園の周囲に役所その他の大きな公共施設が配置され、「セントロ」が形成されている。 こちらは、ポルトガル領の1581年から続くダマン市役所。貴重な歴史的価値の高い文書なども保存されているのだろうか。そういう行政資料は当然保管されているべきものであるが、当時の体制が継続しているわけではないため、どこか別の場所に移管されているのかもしれないが、そこのところはわからない。

438年の歴史を持つダマン市役所 ゴアと同じく旧ポルトガル領のダマンだが、建物のどこかがゴアと大きく違うと思い、よくよく考えてみると、石材であった。コンカン地方にふんだんにあり、赤茶色のラテライト石。大きな気泡を含むが硬質で、ゴアの建築でふんだんに使用され、畳や建物外の階段のように剥き出しになっているところ、メンテナンスが悪くて漆喰が剥げ落ちているところなどに、その荒々しい石肌が姿を見せる。グジャラート界隈でその石は採れないため、ここでそれを目にすることはない。
ここの教会では、カメラによる写真撮影は禁止だが、スマホでならばOKと言われる。こういうケースはたまにあるのだが、カメラではダメでもスマホならば良いという論理がよくわからない。商業使用する場合には撮影両を徴収したいが、ケータイならば画質が大きく落ちるのでそういう利用には向かないであろうから可ということなのだろうか?もっとも最近のスマホは、ちょっとしたコンデジを凌ぐ写りのモデルが少なくないのだが。
教会のミサの時間帯等が貼り出されていた。このあたりのカトリックの人たちとなると、すべてグジャラート語で執り行なうことができるはずだが、他の言語でのミサもあったりするのは、その言葉がわかる、わからない以外の象徴的な意味とともに、そして参列者たち自身の選別の意味合いもあるはずだ。
意外だったのは、ポルトガル語でのミサの時間帯がけっこう多いことだ。ポルトガル語世代といえば、ダマンがインドに復帰した1960年代初頭以前に教育を受けた人たちで、今では相当な高齢者層だ。
教会の世話人に尋ねてみると、モーティー・ダマンのフォートの南側に暮らすコミュニティがあり、彼らは老いも若きもポルトガル語でのミサにやってくるとのこと。若い人たちについても「あの人たちは、普通にポルトガル語がわかりますよ」とのこと。
ちょっと興味がわき、そのポルトガル語での礼拝時間に潜り込み、終わったら突撃インタビューをしてみたいような気持ちになるが、今回の旅行の目的はそこではないし、時間もない。肝心のポルトガル語はまったく知らないので、ホントに通じるのか検証さえできない。
こちらはダマン解放記念碑。1961年12月のインドの陸海空三軍による電撃作戦(Operation.Vijay)により、ゴア、ダマン、ディーウはインドに復帰、450年間続いたポルトガルによる支配は終焉した。もっとも「復帰」といっても、今でいうところのひとつの国としてのまとまりの「インド」の概念が出来上がる前からポルトガル領であったがゆえに、軍事作戦敢行以前から高圧的に返還交渉を進めていたインドによる「侵略」に対して、ゴア等の市民は戦々恐々としていたらしい。「インドが侵略しようとしている!大変!!!」という具合に。文化も習慣も違う、しかも貧しいインドに征服されるという恐れのみならず、ポルトガル体制下で繁栄していたエリートや官吏などについては、財産や職を失う危機とも映ったようだ。

ダマン解放記念碑 軍事力で排除されたポルトガルだが、自国領インドの官吏に対しての面倒見は悪くなかったようで、希望者には当時まだポルトガル領だったモザンビークでの仕事を斡旋したそうだ。(だがこの後モザンビークは内戦に入り、移住したゴア人たちは散々な目にあっている。)
インド側にとっては輝かしい「解放」であったが、地元側にとっては侵略であり征服であったため、インド政府はこれらの土地を中央政府直下の連邦直轄地とし、情勢を細かくモニターしていくとともに、教宣活動にも取り組むこととなった。(連邦直轄地ゴア、ダマンとディーウからゴアが抜けてゴア州成立したのは1987年)
日々歴史は刻まれていくが、これを書き綴るのは、常に勝者の側である。蛇足ながら軍事作戦前、インドがポルトガル領ゴアの返還交渉がうまく進まない中、インド本土からポルトガル領インドへの物資の移送を禁じて兵糧攻めにしていたとき、ポルトガル領インドと当時のパキスタンとの間の蜜月期間があった。つまり食料等の物資不足に悩むポ料理インドへ、カラチからいろいろな品物が海路で輸送されたのだ。まさに敵の敵は味方という構図だ。



































































