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カテゴリー: travel

  • コーラープト 3 社会活動に熱心なジャガンナート寺院

    コーラープト 3 社会活動に熱心なジャガンナート寺院

     町中にあるトライバル博物館を訪れた。この地域の様々な少数民族に関わる展示がなされている。各民族が民族衣装を着けている姿の写真、生活用具や家屋の一部の再現、生業についての紹介その他があり、なかなか参考になる。 

    コーラープット地域における稲作の歴史は長く、太古の野生種で原種の稲やその近隣種などが、今でもこの地域で栽培されているとのことだ。そうした原種なのかどうか、それらと関わりのある種類の稲なのかどうかは知らないが、現在部族の人々が村で栽培している稲の種類の展示もある。米の種類があまりに沢山あることに驚かされる。 

    この博物館は政府の施設ではなく、コーラープットのジャガンナート寺院が設立した団体による運営である。入場無料(代わりに若干の寄付を求められる)で写真撮影も自由。部族に関するワークショップやメーラーも時折開催されるようだ。 この寺院は近くに部族の子弟が学校に通うためのホステルも運営するなど、まるでキリスト教団体のように社会活動に力を入れている。

    学校に通う部族出身の子弟のためのホステル

    博物館のすぐ東側にそのジャガンナート寺院がある。建築自体はプリーにある同名の寺院を模して建てられたものである。プリーのそれよりもかなり規模は小さいが、ここは外国人でも入場することができる。

    寺院への階段の参道の両脇には、寺院が運営する宿泊施設もある。これらはいわゆるホテルである。収益事業としてやっているのだろうか。参道に向かって右側はアティテイ・バワン、左側はアティティ・ニワスという名の宿だ。前者のほうが規模が大きく、食堂もあるが、後者は宿泊のみである。前者の食堂には菜食ターリーしかないが、これはジャガンナート寺院の本殿境内の脇でプラサードとして参拝客たちに出しているターリーと同じ内容だ。 

    これらの宿はなかなか人気のようで、団体だか家族連れだかの客たちが次々に到着している。他にこのクラスの宿がないこと、私が利用した宿は昨年オープンであまり知られていないことなどから、現在競合しているのは近くで州観光公社が運営するヤートリー・ニワースくらいしかないということもあるだろう。 

    コーラープトへは、オリッサ州都のブバネーシュワルはもとより、西ベンガル州都のコールカーターからも直通列車が運行している。この町自体にも部族の人々は多く出入りしており、周囲は基本的に部族エリアであることから、今後部族の人々のマーケット等を見学するといった形の観光が盛んになってくると、ここをその拠点として訪れる人々が増えると思われる。 

    <完>

  • コーラープト 2 北インドと南インドの境目?

    コーラープト 2 北インドと南インドの境目?

     町中では、マーケットその他の路上で野菜や生薬を売っている人々の中に部族の人々の姿がとても多い。周辺の村からバスや徒歩で町まで出てきてこうやって商売しているらしい。

     そうした人々の多くは自家製とおぼしき、通常よりも小ぶりな野菜類を扱っていることが多い。並べている量も総じて少ないことが多く、こんなので商売になるのだろうか?と気になってしまうような人も少なくなかった。自家消費から剰余が出た分を現金と交換するために行商しているというケースもあるのかもしれない。 

    むしろの上で石の細かい破片のような鉱物を 広げている年配女性もいた。このあたりの部族の人々はたいていそうだが、自身の言葉以外にオリヤー語しか理解しないので仕方ない。

    そうした中に男性も女性もいるのだが、特に女性のほうが目立つのは、特徴的な民族衣装を着ているからだろう。サーリーよりも丈の短い布を身体に纏っている。ペチコート類は下に着けておらず、太古の壁画に出てくる女性の姿のようでもある。

     この国では指定部族に対する留保制度があるため、おそらく政府関係の仕事に就く人は少なくないことと想像できる。また商業的に成功して、町で店を構えたり、家を建てている人もけっこうあるのかもしれない。もともとのスタート地点が低いことから、そうした形での社会進出は決して易しくはなかろう。それでも都市化して暮らしている人たちも少なからずあることだろう。 

     宿泊先のHotel Raj Residencyは、まだ新しいから快適というだけのことで、時間とともに『標準化』していくようなので特にコメントすべきものはないのだが、ここのグラウンド・フロアーのレストランはなかなか面白かった。

     何が楽しいかといえば、通常ドーサ類といえばヴェジタリアンだが、ここでは『ノンヴェジ・ドーサ』がいろいろあるのだ。

    エッグ・ドーサ、チキンキーマ・ドーサ、マトン・ドーサetc.といった具合で、要はマサラー・ドーサーを注文すると中にマサラーで味付けしたポテトが入ってくるが、ノンヴェジではこれが卵であったり肉類であったりするわけだ。いろいろ試してみたが、どれもビールによく合う感じだ。 

    他にも変り種で甘いドーサ類があり、コーヒー・ドーサにはネスカフェが入っているらしい。こちらは残念ながら試していないが、こうした『邪道』なB級グルメ的なアイテムがいくつもあり、食に対するこだわりも関心も特になく、日々クルマやバイクにガソリンを補給するような感覚で食事=作業をしている私でさえも、思わずニヤリとしてしまうような料理がいろいろあるのが良かった。 

    それはさておき、オリッサ州南部で、アーンドラ・プラデーシュに近いためだろう、町中の食堂で用意している食事にはかなり南インド的なアイテムが多く見られるうえに、北インド料理にも南のテイストが加わっている。たとえばチキン・モグライを注文すると、ココナツで仕上げてあったりするなどといった具合だ。 

    町中に貼られたポスター等の中で、アーンドラ・プラデーシュをはじめとする南インドを本拠地とする聖者たちの姿も数多く見受けられる。プッタパールティのサッティャ・サイババの関係施設もあった。

     

    このあたりは、ちょうど北インドと南インドの境あたりという気がする。 

    <続く>

  • コーラープト 1 近郊のコートパドへ

    コーラープト 1 近郊のコートパドへ

     列車内で目が覚めた。窓の外は起伏のある緑豊かな大地。ところどころに川が流れる田園風景が美しい。 

    ダマンジョーリーという駅では沢山のタンク車両が線路上に停車している。どれもNALCOと書かれている。National Aluminium Company Ltd.という政府系企業の略称である。 

    地域で採れるボーキサイトを原料とするアルミの生産を行なう拠点となっており、ここは丸ごと『NALOの町』であるらしい。 

    朝9時半にコーラープット着。町は駅から少し離れており、乗り合いオートを利用する。このあたりは海抜870 m前後。高原というほどでもないが、お茶の栽培ができそうな丘陵地帯である。 

    ここでの宿泊はRaj Residencyという2009年開業のホテル。まだ新しいので部屋等はきれいだが、ちゃんと手入れされているわけではない。そのため順調に『標準化』が進んでいるため、今後ずっと快適であるという保証はない。 

    客室内の照明が明るいのは助かる。日記を書く習慣があるため、机があるとないとでは効率も疲労度もずいぶん違う。だがエコノミーな宿で、室内に机があるところは案外少ないものだ。何かしら書く習慣のある人以外にはほとんど無用のものであるからだろう。 

    昼からクルマでコーターパドという町に行く。ここの町外れにある職人たちが暮らしている一角では、多くの家庭で手作りの布地を作っている。糸をつむぐところから仕事が始まり、染色から機織まですべての工程が手作業である。 

    多くは綿地だが、タサルつまり野蚕を紡いだ糸で織ったショールもあった。タサルといえば、ビハールやジャールカンドで採れるものがよく知られているが、ここオリッサでも産出しており、アーディワースィーの人たちが収穫してくるとのことだ。 

    コーラープトからジャイプルを経由して行ったが、ところどころ道がかなり悪い部分がある。ジャイプルはローマ字では新聞等でしばしばJaipurと書かれることがあるものの、概ねJeyporeと植民地時代風の綴りで書かれる、 

    <続く>

  • ヒマラヤのドン・キホーテ

    ヒマラヤのドン・キホーテ

     ネパールに帰化し、自らNNDP (Nepal National Development Party)という政党を率いてネパール政界への挑戦を続けている宮原巍氏について書かれた本である。 

    氏がヒマラヤ観光開発株式会社の創業者であること、ネパールのシャンボチェにホテル・エベレスト・ビューを建設した人物であることは以前から知っていたが、どういう経緯でネパールに根付くことになったのかについては、ほとんど知識がなかったこともあり、この本を見かけた途端とても興味が引かれた。 

    もともと登山を通じて、このヒマラヤの国との縁が出来たそうだが、その後再びネパールに渡り、当初は工業の振興を志したが、この国の現状を踏まえたうえで観光業振興に力を注ぐことになったということらしい。 

    2008年の選挙の結果は残念なものであったが、70歳を越えても決して立ち止まることなく、長らく暮らして来たネパールの国政に打って出るというダイナミック行動力には脱帽である。 この本によると、ネパールで政党がマニフェストを作成するのは、彼のNNDPが初めてのことであるとのこと。同党のウェブサイト上で、2006年の結党時に示したマニフェストが公開されている。 

    マニフェスト Part 1

    マニフェスト Part 2 

    ところで、ヒマラヤ観光開発株式会社のウェブサイトからは氏のブログにリンクされている。同じくこのサイト上にある≪世界最高峰・エベレストの見えるホテルへ!≫というタイトルの下の山岳の画像をクリックすると、ホテル・エベレスト・ビューの紹介ページに飛ぶ。 

    海抜3,880mに位置する日系ホテル。掲載されている写真も魅力的だが、サンプルビデオを再生してみても、そこが絶景の地であることがうかがえる。高いところは苦手なのだが、いつか宿泊してみたいと思っている。 

    書名:ヒマラヤのドン・キホーテ

    著書:根深 誠

    出版社:中央公論新社

    ISBN-10: 4120041719

    ISBN-13: 978-4120041716

  • プリー 4   ラグラージプルへ

    プリー 4   ラグラージプルへ

     プリーからブバネーシュワル方面に向かって15キロくらいのところにあるラグラージプルという村へ。元々手工芸が盛んであったところだが、Dedicated to PeopleというNGOが活動を始めてからはその度合いがさらに高くなっているらしい。 

    アジトという30代の男性の運営による村の女性たちの地位と経済力向上を目指す団体である。彼自身はこの村の出身でプリーで大学を出た後、しばらくデリーで会計士の仕事をしていたのだという。 彼にとって都会での生活も悪くなかったが、思うところあって里帰りして2004年から開始したのがこのNGOである。

    この団体が運営するワークショップで地元の女性たちに手工芸製作技術を教えるとともに、彼女たちが生産したものを買い取っているという。運営資金の大半は、女性たちから購入した手工芸品を大口の契約先へ納入することによって得ているという。 

    同時にエコツーリズム振興のための構想も練っており、文化遺産等とはまた違った村の人々の生活を理解するためのスタディーツアーのようなもの、また環境と両立するツーリズムの創出を構想しているところだと語っていた。 

    しかしながらそうしてみると、結局普通のビジネスとしての手工芸生産と観光業といったものと何が違うのかよくわからないのだが。このラグラージプルでは似たような形で手工芸品を生産して各地に卸している業者はいくつもあるようで、実際のところ同じようなことをしているようだ。 

    ともあれ村にとっても、そこで生きる女性たちにしてみても、就労機会と現金収入の手段が増えるのは喜ばしいことであることは間違いないだろう。 

    ただしこうした「手工芸生産」基地はこの地域にとても多い。もともとそんなに良い収入になるものではなかろうし、それらの生産が増えたところで需要がそれに比例して増えていくとも思えないため、これでもって村おこしというのならば、今後かなり軌道修正が求められるのではないかと思う。

    <完>

  • プリー 3 悲しい浜辺

    プリー 3 悲しい浜辺

     浜辺を散策する。海の広々とした眺めが気持ちいい。だが水平線ばかり眺めて歩くわけにもいかない。すぐ裏手が漁村になっており、このあたりの住民たちのトイレも兼ねているからである。 

    そんな海岸だが、ある思いもかけない生き物の姿を見つけたときには嬉しくて飛び上がりそうになった。 

    「おぉ、海亀じゃないか!」

    ドキドキしながら近寄って眺めていると、通りがかりの観光客とおぼしきインド人グループも立ち止まってそれを見ている。

    3、4人が立ち止まっていると、さらに4、5人、さらに数人・・・と人が増えてくる。

     

    「動かないね・・・」

    その中のひとりが恐る恐る近づいて、つま先で軽く突いてみるが反応なし。

    「死んでるのかな?」と他の者が近づいて覗き込む。寿命の尽きたカメが波に打ち上げられたのであろうか。特に大きな外傷なども見当たらない。

    だが浜辺を北に向かって進んでいくと、さらに幾つかの海亀たちの遺骸を見つけた。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・全部で10匹は見かけただろうか。それらを仔細に調べてみるまでもなく、なぜ彼らが死んでいるかがわかった。多くは漁師の網が絡みついていたからだ。ちょうど産卵期に当たることもあり、海亀たちは沿岸を回遊している。そのためこうして仕掛けにかかってしまうのだ。

    私にとっては水族館以外で初めて目にする野生の海亀であったのだが、こういう形で対面することになったのは残念だ。もちろんこのあたりでも保護動物に指定されている生き物であるとはいえ、海で生計を立てる人々が生業のために活動するエリアと重なるがゆえの悲劇である。

    死んでしまった亀たちはどうなるのかといえば、どこかの国なら食肉として売りに出されそうなものだが、ここでは砂地に埋められてしまう。浜辺を歩いていると、そうした亀の身体の一部が砂地から露出している様子もいくつか目にした。

    波打ち際にそのまま放置される個体もある。それらはどこからともなく集まってくるカラスその他についばまれることになる。

    オリッサ沿岸ではオリーヴ・リドレー(日本語ではヒメウミガメと呼ばれる)という種類の海亀が多く棲息していることで知られているが、同時にこうした漁業関係による事故、港湾建設や内陸の都市化からくる環境の変化や汚染等により、今後が懸念されているということだ。

    Endangered Olive Ridley Turtles (The Wild Foundation) 

    ちょっと歩いてみただけでずいぶん多くの海亀たちの死を目にしてかなり気になったが、その反面この地域の自然がまだまだ豊かであることの裏返しかもしれない。

    また、こうした状況は放置されているわけでもないようだ。NGO等の努力により、オリッサ州総体としては亀たちの死亡数はかなり減っているともいう。 

    Huge drop in sea turtle mortality at Orissa rookery (express india)

    もちろん行政としても、海亀をはじめとする野生動物の保護活動に取り組んでいることはよく知られている。

     Sea Turtle Conservation (Forest & Environment Department, Govt. of Orissa)

    環境保護といえば何でもそうだが、人々の活動と環境をいかにうまく両立させるか、私たち人間が環境に与えるネガティヴな影響をいかにミニマイズするかという試みである。

    プリーの海岸に限ってみても、これは漁師たちだけの問題ではなく、彼らの獲った魚を食べている私たちはもちろんのこと、地域全体で漁民たちの生活や魚という食材の供給と海亀の棲息をいかに両立させることができるかという観点も大切だ。

    漁村近くのあちこちに海亀の遺骸が散在しているほど、この海に棲む大型爬虫類の棲息数に恵まれている今のうちに、私たちが取り組まなくてはならないことであろう。

    <続く>

  • プリー 2  ジャガンナート寺院

    プリー 2  ジャガンナート寺院

     プリー市内を散策する。プリーのジャガンナート寺院はヒンドゥー以外の者が入場することができないのは残念であるものの仕方ない。   

    少し前のニュースでこういうのがあった。

    American student detained in Jagannath temple (NDTV) 

    Jagannath Temple Purified After American Woman Enters Shrine (allovoices.com) 

    アメリカ人の女子大学生がクラスメイトでインドからの留学生でもある男友達と一緒にこの寺に入ってしまったというもの。女子学生はインド系でもヒンドゥーでもないのだが、サルワール・カミーズを着ていたため、咎められることなく入場したものの、寺の内部で周囲の人たちに気付かれて捕まったというもの。   

    ヒンドゥー以外は入ることができないことを知らなかったということで、しばらく尋問された後に放免となったそうだが、お寺側としては進行中の儀式は中止しなくてはならないし、浄めも実施しなくてはならないなど、大変だったらしい。   

    非ヒンドゥーが入ることができない寺というのはしばしばあるが、そういうのはあくまでも慣習だと思っていたのだが、警察沙汰になるところを見ると、条例その他の法的な裏付けもあるのかもしれないがよくわからない。   

    それにしても『知らなかった』というのは本当だろうか?確か入口にヒンドゥー以外は入場できないといった旨が記されていたと思うし、彼女自身も『Lonely Planet』のガイドブックくらい持っているだろう。 

    おそらくインド人の学生の男友達に「ドゥパッターで顔を覆えばバレないから入っちゃえ」などとそそのかされたのではないかと思うのだが。 

    ジャガンナート寺院の入口の界隈では、カージャーという菓子を売る店が沢山軒を連ねており、いい匂いが漂っている。幾層にも織り上げた生地をカラリと揚げて糖蜜に漬けたものだが、なかなか香ばしくて美味しい。他でも似たようなものは見かけるが、これだけ多くの店が同じものを膨大に作っているからには、競争も激しいはずだ。どこの店も見た目は同じものを作っているのだが、店頭の人だかりの具合が違う。 

    流行っているところの店先では、文字通り『飛ぶように』売れていく。眺めていると、小腹が空いてきたので少し買ってみる。歯ごたえ、風味、舌触り等も最高であった。ちょっと『かりんとう』を思い出させる食感である。

    <続く>

  • プリー 1 今や昔

    プリー 1 今や昔

     久しぶりにプリーを訪れてみた。 

    『広々とした浜にはいくつか海の家みたいな簡単な食堂があって、背後にはまた簡素な宿がいくつか。その裏手の道路向こうにはいくつか池があったっけ?』 

    『そんな宿の少し向こうから漁村になっていて、道沿いには小さく質素な店がいくつかあったなぁ。夕方、陽が暮れるとすっかり真っ暗になって、夜空に輝く満天の星がきれいだった・・・』 

    以前滞在したときの浜辺の閑散とした、しかしのんびりした様子を思い出していた。ブバネーシュワルの空港からプリーに向かうタクシーの車内でのことである。

    「プリーではどこに泊まるんですか?」と運転手。

    「海沿いの道で宿がいくつもあるところ。何て言ったっけ?」と私。

    「CTロードでしょう?どのホテルですか?」

    どこに泊まるか決めていないが、とりあえず浜辺の通りの真ん中あたりにある宿の名前を挙げておいた。すでに日が沈んですっかり暗くなっているので、どこを走っているのかわからないが、とりあえずプリーの街中に入っているようだ。  

    どこかでクルマは左折してしばらく直進。レストラン、両替屋、多くのホテル等が並ぶ賑やかな繁華街に出た。

     「CTロードに着きましたが、何というホテルでしたか?」と運転手がこちらを振り向く。

    「えっ?ここなの?」と驚く私。

    何かの間違いじゃないかと言いたいところだが、確かにそうなのだろう。

     「ずいぶん変わったんだね」と言葉が出かかるがやめておく。そもそも私が前回プリーに来たのはもう20年近く前のことだ。20歳そこそこと思われる運転手は、その頃生まれたばかりで母親の足元をヨチヨチ歩いていたはず。

     宿の部屋に荷物を置いてから外に出る。もうすっかり夜になっているが、人通りは多いし街灯や店などからの灯で明るい。かつて外国人バックパッカー以外が宿泊することがあまりなかったこの界隈だが、大小沢山のホテルが出来ていて行き交う観光客の大半はインドの人たち。家族連れや仲間連れといった人々が多い。 

    外国人客に人気だというベーカリーに行ってみる。店で焼いたパンや洋菓子類が売りで、その他洋食を中心とした食事なども出来るようだ。 通りから大きなガラス窓越しに見える店内の席は一杯のようだったが、裏手の元々庭だったらしいスペースにも席がしつらえてある。コンクリートの土間に座るようになっている。 

    テーブルひとつ向こうの席に座っているちょっと崩れた感じの西洋人カップルが紙巻きタバコをモゾモゾといじっている。ライターをカチッと鳴らす音からしばらく遅れて漂ってきたのは、やっぱりカナビスのにおい。 

    そういえば通りにはバーング・ショップと書かれた店も見かけた。ずいぶん賑やかになったが、こういうところは昔と変わらない。

    <続く>

  • ダイヤモンド・ハーバー

    ダイヤモンド・ハーバー

     その名に惹かれて訪れてみたくなった。 

    エスプラネードのバスターミナルに行きダイヤモンド・ハーバー行きを探す。幾度か訪れたことがあるというコールカーター在住の知人の話では『1時間半前後だよ』という話であったが、バスに乗り込んでみると乗客たちは『3時間はかかる』と言う。

     距離にして45キロほどしかないので、何かの間違いではないかと思ったが、事実きっかり3時間かかった。ずいぶん飛ばしていたのだが、1時間に15キロしか進んでいないことになる。かなり大きく迂回ルートで走るバスであったのかもしれない。市街地の渋滞を抜けて郊外に出てからは、のどかな田園風景を眺めながら走るので心地よかった。 

    ダイヤモンド・ハーバーに着いた。田舎町ではあるが、コールカーターから日帰りで訪れる人が多く、乗ってきたバスもそうであったが、降りてみるとそういう感じの人々の姿がよく目につく。 

    カルカッタでもそうだが、このあたりでも舗装道路の表面の大部分はコールタールといった感じで、砂利のザラザラ感に欠ける。滑り止めということだろうか、規則的に小さなレンガ片が埋め込まれている。道路脇にはレンガを砕いた砂利状のものが沢山あるので、道路の基礎はそれらで作っているのだろう。 

    ダイヤモンド・ハーバーの見所は、海かと思うほど幅の広い河の眺めと英国が残した商館跡。地元の人はキラー(城・城砦)と呼ぶが、コールカーター建設前の東インド会社が拠点としていた場所である。漢字で『商館』と書いてイメージするものとはかなり異なる、物々しい施設であったに違いない。 

    河の船着き場に出た。空気が霞んでいて対岸が見えない。波がほとんどないことで、ここは海ではなく河であることが実感できる。今、ディガー方面に向かう船が出るとのこと。見た目にはどこに行くとも知れないところに出航していくかのような船の様子は印象的である。私も乗り込んでみたくなったが、まだ商館跡を訪れていないし、今日中にコールカーターに戻らなくてはいけないのでやめておく。 

    この河の深さは相当あるようで、大洋から航行して来たと思われる巨大な貨物船が悠々と遡上していく。かなりの速度が出ているようだ。少なくとも道路を走るバスのスピードに近いものはあると思われる。 

    コールカーターから楽に日帰りできる距離ではあるが町中に宿泊施設は多く、簡単な食堂を併設しているところもある。適当に腹ごしらえしてから商館跡に向かうことにする。 

    幹線道路に貼り付く形で町が続いているが、通りから逸れて河岸の商館跡に至る小道に入るすぐ手前で5ルピーの入場料金が徴収される。岸辺では地元観光客相手にゴザやシートの上で料理を作る人たちがいる。頭上を見上げると、砂糖ヤシに素焼きのツボが取り付けられている。その樹液を集めてから、これを煮詰めて粗糖を作る人たちも何組かある。 

    商館の建物がきちんとした形で残っているわけではないことは知っていたが、現地を訪れてみてびっくりする。ごく一部の基礎部分は残っているものの、『ここが東インド会社の商館跡である』と感じさせるものはほとんどないからである。 

    こうなってしまった理由には、もちろん史跡として顧みられることがなかったということもさることながら、元々建物があった部分が大きく河に浸食されたこともあるようだ足元には大量の赤レンガ片があり、どれもすっかり角が丸くなっている。これらはかつてここに存在した建物の名残であろう。想像力を最大限に発揮して、往時の様子を想像してみる。 

    商館跡の見物後、サイクル・リクシャーで鉄道駅に向かう。コールカーターからのバスを降りたところのすぐ近くである。幸いすぐに次の電車が来るとのことであったし、想像していたほど込んでいるわけではなかった。シアルダー駅まで2時間ほどとのこと。 ダイヤモンド・ハーバー駅はこの支線の終着駅だ。

    電車は田園風景の只中を走る。大半は刈り入れが終わった殺風景なものだが、ごく一部では苗代があり、田植えの風景も見られる。時期外れの田植えの際の稲の種類は違うのだろうか、それとも夏に育成するものと同じだろうか?途中駅ではホームに籾を広げて乾燥させていたりする。のんびりしたものである。 

    カルカッタではいろいろな地域から来ている人たちが多いため、人々の顔立ちには様々なものがある。だがこの車内はほとんどベンガル人ばかりのようで、乗客たちの顔を眺めているとあたかもバーングラーデーシュに来たような気にもなる。 

    美しい田園風景はホータープルという駅でほぼ終わる。そこから先は田畑と市街地が入り混じり、そしてやがてカルカッタ郊外に出た。ほどなくバリーガンジ駅に着く。界隈で所用があるため、ここで下車する。

  • コールカーターのダヴィデの星 4

    コールカーターのダヴィデの星 4

     

    ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

    元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

    内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

    ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

    ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 3

    コールカーターのダヴィデの星 3

     

    先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

    同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

    実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

    そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

    そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

    Nahoom & Sons Private Limited

    Shop No. F20, New Market 

    リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

    『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

    そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

    私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

    ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

    ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

    それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

    外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

    <続く>

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>