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カテゴリー: society

  • ダーラーヴィー 4

    このツアーをオーガナイズしている旅行会社と対で運営されているNGOが設立した小学校を訪れる。授業が進行中であった。近ごろでは、スラムでも教育の大切さを理解する人たちが増えていて、かなり無理をしても子供を学校になんとか通わせよう、より高い学歴を与えようと頑張る傾向があるとのこと。
    他のより恵まれた家庭の子供たちに較べてハードルは高いものの、ダーラーヴィー出身で苦学しながら高等教育を受けて、弁護士になった人、医者になった人は少なからずあるといい、公務員やその他のホワイトカラーの職を得ることは決して珍しいことではないとガイドは話す。
    学校を後にしてしばらく歩いて通りに出ると、そこはタミル人地区になっていた。南インド式のヒンドゥー寺院があり、看板や貼紙等も大半がタミル語だ。往々にしてデーヴァナガリでも併記されているのは本場(?)と異なるものの、人々の装いも景観も、タミルナードゥの田舎町のバーザールに来たかのような感じがしなくもない。
    この地区内のメインストリートのひとつであるようで、食堂も甘いもの屋もきちんとした構えの店が多く、大手銀行の支店も複数あるともに、マイクロクレジットの類の金融機関らしきものも見かけた。このあたりは居住地域にもなっているようで、裏手の路地を進むと、いくつもの開け放たれた扉から中の様子をチラリと目にするとができた。
    テレビ番組の音、子供たちが遊ぶ声、母親が息子を叱り付けている様子、近所に暮らす主婦たちが戸口で井戸端会議を開いていたり。さきほど見学した作業場とは裏腹に、どこの世帯も家の中はずいぶんきれいにしているようだ。狭いスペースに多人数暮らしているためであろう、家財道具や衣類などが山と積まれている様子も見かけたが。 ガイドの話だと、スラムからコールセンター、会社、役所などに通勤している人、あるいは家庭の使用人として働きに出ている人たちも少なくないという。
    そういう『住宅地』では、いったいどういう立場にある人なのかよくわからないが、パリッとした都会的な格好(そもそもダーラーヴィーは大都会の真っ只中に位置しているが・・・)で、ミドルクラス風のいでたちと雰囲気を漂わせる人の姿も見かけた。タミル人地区の端には、別の私立学校があった。立派な構えで、建物も新しい。イングリッシュ・ミディアムの学校だという。子供たちの制服姿を目にしていると、どこか裕福な家庭の子弟が通う学校であるかのような気がしてしまい、思わず目を疑う。
    この学校が面する公道を渡ったところは、グジャラーティーの陶工コミュニティの地区。目に付く看板や貼紙の大部分はグジャラーティーで書かれている。女性たちは、いかにもグジャラート人らしく、カラフルな装いをしている。陶工という社会通念上は、地位的の低いコミュティであるが、彼らグジャラーティーたちの住環境は、それまでに見た他のエリアよりも少し良好であるように見えた。
    グジャラート人陶工地区を後にしてしばらく歩くと、ツアー会社と運営母体を同じくするNGOによる幼稚園があった。インドの縮図であるかのように、様々なコミュニティの人々が混住ないしは集住するダーラーヴィーで、様々な異なる出自を持つ園児たちに対し、まずは英語とヒンディー語を自由に使いこなせるようにすることが狙いだそうだ。英語はもとより、ヒンディーについては、本人が住むコミュニティが非ヒンディー語圏のものであると、成長してからもうまくそれを使えないことが少なくないらしい。訪れたときには幼児たちの姿は目にしなかったが、スタッフたちが何やらミーティングを開いていた。
    再び公道に出て、最後の目的地コミュニティー・センターは、たった今訪れた幼稚園や陶工コミュニティがある一角から見て道路反対側。そのすぐ手前には、6階建ての真新しい総ガラス張りの見事な商業ビルがそびえている。まだ出来たばかりで、テナントは入居していないようだった。ガイドによれば、規模のごく小さなモールのようなものになるようだ。
    ここに買い物に来る人は、ダーラーヴィーの外からわざわざやってくることはないと思うので、スラムの住む『富裕層』が顧客となるのか?ボロボロの建物やバラックが延々と続いているものの、さきほどから時折こうした立派な建物を目にすると、本当にここがスラムなのか?と疑ってしまうくらいだ。
    その新築物件の背後にあるコミュニティー・センターは、このツアー会社と同一の運営母体によるNGOが運営している。成人のための英語学習コースとパソコン教室を実施している様子をしばし見学してから、この日のツアー代金の支払いを済ませる。あとはコラバまでクルマで送ってもらい、今朝集合した地点で解散である。

  • ムンバイー タクシー業界仰天

    拾ったタクシーの運転手がたまたまお喋りな人で『あなたどこの人?』と尋ねてくる。『Tokyoだ』と答えると、『トゥルキー(トルコ)の人かい。てっきり日本人かと思ったよ』などと言っているが、またどこかで会う人ではないので、こちらは特に否定しない。

    『あなたの田舎はどこだい?』と振ってみると、『ラクナウーの近く』との返事。『ラクナウーからどちらの方向かい?』『ゴーラクプルのほうに120キロくらいかなぁ』『じゃあファイザーバードのあたりだな』『おぉ、まさにそこさ!よく知ってるねぇ』なんていう話になった。

    かれこれムンバイーで運転手家業を始めて16年になること、数ヶ月前に数年ぶりに帰郷してみて楽しかったこと、ごくたまにしか会うことのできない子供たちが、父親不在でもしっかりと成長して、特に長男が学校で親の期待以上に頑張って良い成績を上げていることなど、いろいろ話してくれた。

    こうした人に限らず、ムンバイーのタクシーを運転しているのは、たいていU.P.かビハールの出身者たちだ。郷里に家族を置いて、懸命に稼いでは送金している人が多い。家は遠く離れているし、そう実入りのいい仕事ともいえないが、家族はそれをアテにして暮らしているため、一緒に生活したくてもそうしょっちゅう帰ることもできない。

    このほど地元マハーラーシュトラ政府は、そんなタクシー運転手たちが仰天する発表を行なった。
    Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)
    その内容とは『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』が必須条件になるとのこと。

    ヒンディーと近縁の関係にあるマラーティーを覚えることはヒンディー語圏の人たちには決して難しいことではない。ヒンディーと歴史的な兄弟関係にあるウルドゥー語を話すアジマール・カサーブ、2008年11月26日にこの街で起きた大規模なテロ事件犯人で唯一生け捕りとなり、現在ムンバイーの留置所に収監されている彼でさえも、周囲の人たちとの会話を通じ、すでに相当程度のマラーティーの語学力を身に付けていることは広く知られているとおりだ。

    ムンバイーのタクシー・ユニオンも『運転手たちはヒンディーに加えて、多くの者はマラーティーだって理解するし、英語の知識のある者だって少なくない。何を今さらそんなことを言い出すのか』と、即座にこれを非難する声明を出している。

    もっとも『マラーティー語学力を義務付ける』という動きはこれが初めてではなく、1995年の州議会選挙で、それまで国民会議派の確固たる地盤であったマハーラーシュトラ州に、マラーター民族主義政党のシヴ・セーナーが、BJPと手を組んで過半数を獲得することによって風穴を開けたときにも同様の主張がなされていたことがあった。

    そもそも義務としての『マラーティー語学力』それ以前の1989年から営業許可の条件のひとつにはなっていたようである。それが今回、これを厳格化するとともに、最低15年以上の州内での居住歴を加えて、州外からの運転手の数を制限し、地元の雇用を増やそうという動きである。タクシー運転手家業の大半が州外出身者で占められているのは、そもそも地元州民でその仕事をやりたがる人が少ないことの裏返しでもあるのだが。

    先述の90年代から伸張したシヴ・セーナーは、幹部のナーラーヤン・ラーネーが脱党して国民会議派に移籍、党創設者であるバール・タークレーの甥であるラージ・タークレーがこれまた脱退して新たな政党MNS(マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)という、本家シヴ・セーナーとはやや路線の違う地域民族主義政党を立ち上げた。

    そのため総体としての地域至上主義は、やや影が薄くなった感は否めないものの、このふたつの政党は、やはり今でも一定の存在感を示しているがゆえに、やはり今でもコングレスは安定感を欠く、というのが現状である。

    そうしたシヴ・セーナー/MNSの土俵に自ら乗り込み、ライバルの支持層を切り崩し、自らのより強固な基盤を築こうというのが、今回のタクシー運転手の語学力や在住歴に関しての動きということになるようだが、当然の如く、運転手たちの多くの出身地である北部州の政治家等からもこれを非難する声が上がっている。

    州首相アショーク・チャウハーンにとっては、そうした反応はすでに織り込み済みのようで、既存の営業許可に影響はなく、新規の給付についてのものであると発言するとともに、将来的にはタクシー車両へのAC、GPS、無線機器、電子メーターと領収書印刷装置等の搭載を義務付けることを示唆するなど、議論をすりかえるための隠し玉はいくつか用意しているようだ。

    これまでことあるごとに地域主義政党のターゲットとなってきた北部州出身タクシー運転手たちだが、それと対極にある国民会議派は彼らの力強い味方であるはずであったため、今回の動きについては、まさに『裏切られた』と感じていることだろう。

    たまたま街中で目立つ存在であるがゆえにスケープゴートになってしまうのだが、タクシー運転手に限らず、ムンバイーをはじめとするマハーラーシュトラ州内に居住する他州出身者は多い。現在同州与党の座にあるコングレスにとって、これまで地域主義政党が手にしてきた、いわゆる『マラーティー・カード』を自ら引いてしまうことは、かなり危険な賭けであることは間違いない。

    この『タクシー問題』が、今後どういう展開を見せていくことになるのか、かなり興味深いものがある。

    ※『ダーラーヴィー?』は、後日掲載します。

  • ダーラーヴィー 3

    スラムといっても、ダーラーヴィーで私たちが訪れた部分は、1995年以降、政府との合意のもとで住民たちがここで暮らすことが合法化されているとのことで、ちゃんと水道も引かれている。土地は政府のものだが、各地区の建物自体は個々のオーナーの資産であり、ここで賃貸生活をする人々は家主たちに家賃を払うことになる。
    ところで、スラムとはいうものの、ダーラーヴィー地区の政治力というのも決して無視できるようなものではないようだ。州議会選挙におけるダーラーヴィー選挙区の有権者は20万人を数える。これまで幾度も再開発計画が持ち上がったものの、いずれも実現することなく頓挫しているというのは、最大で見積もって100万人にも及ぶという説もある巨大な人口のリロケーションをどうするのかという難問に加えて、そうした背景とも無縁ではなかろう。
    いよいよ道路反対側のダーラーヴィーに足を踏み入れる。トタンの壁のバラックがどこまでも続いている。前に踏み出すたびにホコリが舞い立つ。他地区からダーラーヴィーを横切る公道は舗装されているものの、それ以外はほとんど未舗装である。
    スラムの住人といっても、これまたいろいろあるそうで、この場所で生まれ育ち、そこで再び自分の世帯を構えている人もあれば、季節労働者として農閑期に仕事を求めてやってくる人もあるという。後者の場合は通常男性が単身でやってくるという。そのため、ダーラーヴィーの人口の流動性はかなり高いのだそうだ。
    最初に訪れた地区では、プラスチック製品のリサイクルをしていた。集めたプラスチック製品を選別し、溶解して、その後細かいチップとして再生する。これが工業原料として業界に還流していくことになる。後に見学する他の業種もそうだが、同業や関連する業種は同じ地区に固まっており、工 程ごとに隣接している他の作業場が担っている。
    裏手に小路にある屋内のスペースでは、溶かしたプラスチックを、まるでパスタを作る機械のようなもので、麺状に長く出していく。これは蓋のない水槽の中を通過、この過程で冷却されてから、裁断機にかけられて細かいチップが出来上がる。チップが沢山出てくるところではまだ湿っているため、作業員たちがそれを手で広げる。強い扇風機の風により、これはすぐに乾燥されていく。
    今にも崩れそうな建物、材木とトタンで出来た非常に安普請なものだ。出入り口以外に窓はなく、薄暗い屋内で裸電球が灯っている。ここの2階、日本式に言えば3階にあたるところからハシゴを上ってトタン屋根の屋上へ。
    周囲の他の建物もだいたい同じくらいの高さなので、遠くまで見渡すことができる。 すぐそばには携帯電話の電波のタワーがあった。そういえばさっきの作業場で働いている人も携帯電話で話をしていた。少し離れたところには、スラムにあるとは思えない立派なコンクリートの高層階の建物がいくつか見られる。それらは政府による公営の病院や公立学校であったり、あるいはコンドミニアムのようなタイプのモダンな民間住宅であったりする。
    西のほうに目をやると、これまた周囲の風景にそぐわない立派な造りの大きなモスクもある。建設資金や運営費などは、一体どこから捻出されるのだろうか。病院や学校が政府によって設置されるのと同じように、おそらくスラムの外のどこからか資金が流入していることと思う。
    公道の電柱から大量の電線がぐちゃぐちゃと引き込まれている。もちろん盗電であるが、都会の只中にあることから、送電にインフラは整備されているため、結果としてスラム内はほぼ完全に電気が普及しているとのこと。またテレビも9割以上の世帯に普及しているとのこと。
    アルミ缶をリサイクルする作業場もあった。炉でアルミ缶を溶解されて、ちょうど金塊を大きくしたようなタブレット状のアルミ塊を作っている。作業場の傍らに何やら高く積んであるものがあり、布がかぶさっていたが、その下にあるのはアルミ塊の山である。染物の工場もあった。田舎でやっているのと同じように、ただその作業をこのスラムで行なっているというだけのことである。
    唐突に香ばしい匂いが漂ってきた。ビスケットの工場である。小路から中が丸見えなので、どうやって作っているのか、その工程が全て見える。材料の小麦粉は、路地端に袋ごとドカドカと置いてあった。まるでセメント袋であるかのように。出来上がったビスケットは、ビニールでパックされて市内各所の店で販売されるという。そういえば、ああいうタイプのものを、私はけっこう好きでよく食べている。雑貨屋の店頭や鉄道駅の売店などでも目にする類のものである。
    どこからか、食用油のような匂いがするな、と思ったら今度は食用油の金属缶のリサイクル場である。長年油が浸み込んで、ツルツルするがアスファルトのように固くなった広い土間の上に、おびただしい量の四角い缶が詰まれている。左手にあるものは、穴が開いたり潰れたりしているもので、修理が必要なもの、右手に積んであるのは、ラベルを剥がして洗浄してから再び食用油工場へと出荷するものだという。これは割合慣れが必要な仕事であるそうで、作業は歩合制で、熟練した作業員とそうでない者との間で、手取りがかなり違ってくるそうだ。
    脂臭い匂いが漂う。食用油の残りが原料になるのかどうかは知らないが、近くには石鹸工場があった。ブランドなどない簡素な粗い感じの大きな石鹸塊、よく街中の雑貨屋店頭で見かけるのと同じようなものをせっせと作っていた。
    食べ物を作ることを生業にしているところはけっこうあるようだ。ダッバーワーラーといえば、ムンバイー名物。金属製の段付きの容器に入った各家庭で奥さんが調理した昼ご飯を、市内各地で働く夫に届ける役目をしているものとして知られているが、弁当の中身そのものを外注できる『レディー・メイド』があるとは知らなかった。
    訪れたとき、調理空間は閑散としていた。本日分の昼ご飯はすでに容器に詰められて出荷済み。現在各仕事場に配送されているところだそうだ。付近には、パパッド造りの作業場がある。ごく薄い煎餅状に伸ばされ、ひっくり返した大きな籠の上で天日干しされている。乾季が稼ぎ時で、雨季になると屋根のある限られたスペースでしか乾燥作業ができなくなるとのこと。ここの担い手はほぼ全員が女性たちである。
    ムスリムの人々が集住する地区に出た。ヒンドゥーの祠をひたすら作っている作業場があった。ガイドが言うには、ヒンドゥーとムスリムが互いに支えあって生きていることのひとつの例なのだという。皮なめし工場もあった。この作業で使用する薬剤等は、環境に悪影響を及ぼすため、本来この作業をここで行なうことは禁じられているとのことだが。作業場手前のちょっとしたスペースでは、水牛や羊などから出来上がった革材が積み上げられている。ダーラーヴィーの皮なめし業は、インド第二の規模であるとのことで、国内各地はもとより、外国にも輸出されているそうだ。
    作業場の多くでは、仕事をするのと同じ場所の片隅で食事を作ったり寝起きしているそうだ。同じ場所で食事、睡眠、仕事のサイクルが日々進んでいく。いろいろな業種にたずさわる人々がいるが、こうした労働者たちの賃金は、日給にして概ね200ルピーくらいだという。農村部で同じような仕事をするとその四分の一ということも往々にしてあるので、そうしたところからの出稼ぎ志望者たちにとっては魅力的な金額であるそうだ。
    作業場で火を使うところは多い。木材とトタンで出来ている建物から出火したらどうなるのか、想像してみるだけで恐ろしい。周囲の建物もみんなそうした造りであることから、火は一気に燃え広がる大惨事になってしまうだろう。
    これらの作業場に限らず、後で見た他業種の作業場についても、事業主はスラムの外に住むかなり裕福な人であるケースが多いそうだ。土地自体は政府の所有なので、主といっても建物と作業器具類という、金銭的にはさほど価値のないものを所有しているだけに過ぎないが。
    ガイドを先頭にして、細い細い路地を歩く。排水設備などなさそうなので、雨が降ったら即泥沼にでもなりそうな地面。人の幅くらいしかない道、人の頭くらいの高さに幾重もの電線が垂れ下がっている。怖いので参加者たちは思い切り身体を縮めて前へと進む。
    ところどころコンクリート板を敷いたり、レンガで石畳状にしてあるところもあるが、大部分は裸の土のままだ。家屋や作業場の床が地面よりも高くなっているわけでもない。作業場の床の大半もまた裸の土のままだ。外の道路と建物の中との間に仕切りがあったとしても、モンスーンの際には水浸しになって大変だろう。
    スラムであることから、環境は劣悪であるが、特に衛生環境がまったくなっていない。スラムの家の多くにはトイレは設置されておらず、そのあたりの物陰で済ませる以外は、公共のトイレということになる。各世帯にほとんどトイレが普及していないがゆえか、公衆トイレは比較的多く設置されているようであった。
    ふと見上げると、そこには高層でなかなか住み心地の良さそうなフラットが見える。周囲の劣悪な環境の中で、郊外のちょっといい住宅地にでもありそうな高級感ある建物。何とも不思議な感じがする。いったいどういう人が、敢えてこんなところに高級フラットを求めるのだろうか?
    ここはちょうどダーラーヴィーのスラムの端であるという。背の高い壁があり、そこから先は同じ形をしたコンクリートの建物が並ぶ団地になっていた。公道に出る手前のところにパーキングがあり、スラムでの生産品を外の世界に運ぶため、また外からスラムに生活物資等を運んでくるトラックから人々が積み下ろし作業をしており、ここはまぎれもなくムンバイーの市街地の一部であることを実感させてくれる。

  • ダーラーヴィー 2

    ダーラーヴィーへのツアーに参加するかどうか思案する際、これをオーガナイズしている会社のウェブサイトを閲覧してみたところ、実は普通の旅行会社とはかなり違う部分があることに気がついた。
    この会社と母体を同じくするNGOが、当のダーラーヴィーで幼稚園、学校、成人教育などを手がけているとのことである。ツアーの利益の8割はそのNGOの活動資金となるということであり、旅行会社自体が彼らの社会活動の中の収益部門という性格があるらしい。
    そのツアー自体が、ダーラーヴィーという地域、そこで働いたり生活したりしている人々に対する先入観や偏見に意義を唱えるという趣旨のものであることも理解できた。またダーラーヴィー訪問最中は、場所を問わず写真撮影は禁止であるとのこと。ちなみにこの会社は、農村を訪問するなど、スタディーツアー的なものも多く取り扱っているようで、スラム見学はその部類に入るようである。
    そんなわけで、姑息ながらも、自分自身の心の中で、あまり肯定的に捉えることができなかったツアーに参加する口実のようなものができたことになる。
    ツアー開始は午前8時半。コラバ地区のレオポルドカフェ脇の路地を少し入ったところが集合場所であった。そこに着いてみると、まだ誰もいなかったので時間を間違えたかと思ったが、イギリス人男性が声をかけてきた。彼もこれに参加するのだそうだ。間もなくツアー会社のスタッフが来た。本日の参加者はあと3名、すぐにガイドを載せたクルマがやってくるとのこと。
    大型のRV車に、運転手とガイド、そしてツアー参加者が、イギリス人男性が2名、南アフリカからきた白人カップル、そして日本人である私の計5名である。これらの参加者たちは、インドの農村で活動するNGOで働いてきた人、自国で学校の教員をしている人などがあった。
    マリンドライヴを北上しながら、ガイドは途切れる間もなくスラムについて、ストリート・チルドレンについて、また通過するエリアについていろいろ説明をしている。まだ若いが、いかにもプロフェッショナルで頭脳明晰な感じのする男性だ。
    北へと向かう郊外電車の線路脇に、いくつも路上生活者たちの小屋があるのを横目に見ながら、そうした環境で育つ子供たちの問題、とりわけ彼らが陥りがちなドラッグの問題等々についていろいろ説明があった。
    やがてクルマは右手に曲がり、赤線地帯として有名なカーマーティプラーへ向かう。『このあたりからが有名な赤線地帯です』との説明がある。派手な看板が出ていたりするわけではなく、食堂があったり、パーンやタバコの店、雑貨屋等があったりといった具合で、一見、他の地域と変わらない商業地区のようにも見えたりもする。
    だが娼婦たちはどこの国でも似たような表情、雰囲気を醸し出しているため、歩道に出ていたり、脇に腰掛けていたりする彼女たちの存在でそれとわかる。よくよく見ると、明らかに置屋の入口と思われる狭い戸口がいくつも見える。
    この地域が忙しいのは午後5時から午前5時くらいまでだという。かといって他の時間は閉まっているというわけでもなく、基本的に24時間稼業しているそうだ。彼女たちは、インド全国からやってくるといい、多くは仕事を斡旋するなどといった言葉を信じた結果、ここに行き着く者が多いという。
    ガイドによれば、ビハールやネパールから来ている女性も多いが、特に人数が多いのはアーンドラ・プラデーシュ州出身者だという。もちろんインドの法律では売春は禁止されているものの、そうした施設の経営者たちは警察との繋がりを持っているため、半ば公認されているかのような状態にあるというのは、他国でもよくある話ではある。しかしながらそのカーマーティプラーの東側の出口にあたる部分に、立派な建物の警察署があるのは何とも皮肉なことである。
    クルマは、カーマーティプラーから東にあるチョール・バーザールへと抜けてから、再び北上したあたりには、かつて主に繊維関係の工場が沢山あったのだそうだ。しかし都心であるということから、大企業のオフィスや高級コンドミニアムといった形での不動産需要が高く、多くは他のエリアに移転していっており、このあたりに家を構えていた人たちもまた、それを手放してもっと住環境の良い郊外に移転したり、さらには手元に残るお金で起業したりといったことがトレンドなのだという。都市の表情は、時代ととももに遷ろうものである。
    次にマハーラクシュミー駅脇のドービーガートに行く。ムンバイー最大かつインド最大の露天の洗濯場であり、無数に仕切られたコンクリート台が続き、衣類を叩きつけての洗濯作業が日々続く。相当なハードワークであろう。
    この場所を所有しているのは政府で、ここを仕事場とする洗濯人たちは、毎月賃料を払っているとのこと。雨季には屋外で乾かすことは難しいので、屋根の下で乾燥作業をするとのこと。目下、乾季ではあるものの、線路を横切る陸橋の上から見える屋根の下には大きな乾燥機があり、そこから出る風を利用して乾燥作業が進行中であった。
    1枚いくらという形で収入があり、衣類を紛失するとペナルティーがそこから差し引かれてしまうものの、そこは伝来の出来上がったシステムがあり、おいそれと洗濯物がなくなってしまうことはないとのこと。一見原始的な作業に見えるものの、中ではかなり高度なネットワークがあるらしい。線路の反対側には競馬場があり、おそらく馬の訓練をしているのだろう。騎手が乗って走らされている馬の姿があった。
    そして再び北の方角に向かい、マヒムにもあるやや小規模なスラムを横目に見ながら、着いたのがダーラーヴィーのスラムである。道路の左側には巨大な送水管が見える。ここでスラムドッグの撮影の一部が行なわれたということで、スクリーンの中で目にしたような記憶がある。ただし実際にスラムで撮影したのはごく一部で、他の大部分はフィルムシティで撮ったということだが。

  • ダーラーヴィー 1

    映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったムンバイーのスラム。ダーラーヴィー地区、アジア最大のスラムと称されるダーラーヴィー地区だが、近ごろ人口において隣国パーキスターンのカラーチーにあるオーランギー地区に抜かれたという話もある。
    Dharavi not Asia’slargest slum: Report (The Financial Express)
    もちろん、アジア最大であろうが、2位であろうが、決して誇ることのできるものではない。ダーラーヴィーにしてみたところで、人口は600万強から100万人前後くらいと推定されており、すっきりとした数字を提示できないのはオーランギー地区も同様であろう。
    またオーランギー地区には、印パ分離時にビハールから移住したムスリム住民たちが多く居住しているとされることは、亜大陸の近代史の暗部を示しているかのようでもある。スラムドッグ・ミリオネアに触発されたというわけではないようだが、ムンバイーのある旅行代理店が主催するダーラーヴィーを訪れるツアーがある。
    こうした類の企画ものについて、『貧困を売りにするのか』『スラムで物見遊山をするのか』という批判が多いことは承知している。また私自身としても、モラルとしてこういうのはいかがなものか、と思っていた。
    しかし同時に、このダーラーヴィーという地区について、そこがスラムであるということが理由ではなく、ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たないのにもかかわらず、ロケーションのみ見れば交通至便な都心の一等地となり得る地域であることに関心を抱いていた。
    またこの地域が、通常考えるところの開発から取り残されていること、しかしながらここに住まう膨大な人口はこの商都の活力たる労働力の供給に貢献しており、この地域で展開される各種工業もまた6億6千万ドル規模と大きなものであることからも、私たちの想像するスラムのありかたとはちょっと異なる性格があるのではないかとも考えていた。
    年を追うごとに市街地が拡張していくデリーなどの内陸部の都市と違い、『海に囲まれているため周囲に広がる郊外を持ち難い』という点がカギになるのではないかとも思う。現在のムンバイーの市街地となっているエリアの大半は埋立地である。これについては後日別の機会を設けて記してみようと思う。
    内陸部の都市であれば、地形や用途上の障害(開発制限地域や国立公園など)がない限りは、概ね放射状に広がっていき、周辺の町や村を郊外地域に併合し、ときには州境を越えての大都市圏を形成することもある。 こちらの地図を参照していただきたいが、ムンバイーの場合は三方を海が囲んでいるため、拡張できる余地がほとんど残されていないといってよいだろう。
    マハーラーシュトラ本土との境をクリークや河が隔てているが、まさにその部分に蓋をするような形で、サンジャイ・ガーンディー国立公園が横たわっている。大都会のすぐそばに豊かな自然が残されるということは素晴らしいことである半面、半島北部へ郊外地域が広がることに対する大きな阻害要因でもある。
    そのいっぽう、都心部の首都機能が集中する部分は、半島南部の先細る部分に位置しており、周囲に広がるのは大地ではなく海原であるため、この部分へのアクセスが良好な『郊外』というのは、地理的に非常に限られてしまう。
    もちろんムンバイーには、世界最大級の人工都市であるナヴィー・ムンバイーという衛星都市がある。相互補完的な関係にはあっても、水域で隔たれており、橋というごく限られた接点を持つふたつの異なる都市であるため、ムンバイー都心からシームレスに繋がる郊外とは言えないだろう。
    こういう表現をすると、多分に誤解を受けてしまうのではないかとは思うが、ダーラーヴィーとは、社会の隅に置かれた人たちが呻吟するスラムというだけではなく、実はある意味『郊外』という性格も持ち合わせているのではないだろうか。
    都市が必要としており、また人々も必要としている郊外が、本来ならば都市の外縁部に形成されるはずのところ、ムンバイー独自の地理的な制約から、都心部にある政府所有の土地を占拠する形で、しかも高度に凝縮して出現してしまったと見方もできるのではなかろうか、とも思うのである。

  • ムンバイーのシナゴーグ

    『Padmini Premierのある風景』で少し言及したように、商都として発展してきたムンバイーにはいろんな様式の植民地期の建築物がある。とりわけ19世紀にネオ・ゴシック建築については、フォート地区を中心に数多く残されており、これらを見て歩くだけでも楽しいものだ。
    これらを目的としての街歩きのためにちょうど良い本がムンバイーの出版社から出ている。
    書名:BOMBAY GOTHIC
    著者:CHRISTOPHER W. LONDON
    出版社:INDIA BOOK HOUSE PVT. LTD.
    ISBN : 81-7508-329-8
    ただ漠然と通りから眺めて『あぁ、でっかいなあ』『ずいぶん立派だなあ』と感じるしかない建物群が、これを手にすることにより、その背景にある歴史やゆかりの人物等と結びつき、頭の中でそれなりに意味のあるものへと変容していく。
    こうした数々の建物の中に、デイヴィッド・サッスーン・ライブラリーがある。1873年に完成したこの図書館は、当時ムンバイーの豪商であった在印ユダヤ人、アルバート・サッスーンによるものである。この人物は、同じくムンバイーのサッスーン・ドックを築いたことでも知られている。
    デイヴィッド・サッスーン・ライブラリー
    ベネ・イスラエルと呼ばれるコミュニティとともに、インドのユダヤ人社会の中核を成すバグダーディー・ジューのコミュニティを代表する名門サッスーン一族だが、20世紀の前半の上海や香港の経済を牛耳ったことで有名なサッスーン家も同じ一門である。
    また、今ではほぼ消滅に近い状態にあるものの、かつては隆盛を極めたヤンゴンのユダヤ人コミュニティにおいても、ほとんどがこのムンバイーから移住した人々であったことから、その中に占めるバグダーディー・ジューの人々の割合も相当高かったそうで、当時のムンバイー、コールカーター、上海、香港などとの間にもネットワークを形成していたとされる。
    そんな彼らの存在の痕跡は、今でも残るヤンゴン市内のシナゴーグや墓地などに見ることができるのは、昨年5月に『インドの東? シナゴーグとユダヤ人墓地』で触れてみたとおりだ。
    話はムンバイーに戻る。ちょうど休日であったので、フォート地区で植民地期の壮大な建物が並ぶの風景を眺めながら街歩きをするのはとても楽だ。なぜならば、平日と違ってクルマの交通量が格段に少ないからである。
    インドにおける証券取引の中心地であるBSE (Bombay Stock Exchange)の建物があるダラール・ストリートの入口には警察の検問があり、一般車両は進入できなくなっている。日々、この国の経済の中心地といえる。1875年に始まった、アジア最古の証券取引所であるとともに、今や世界第12位に数えられる有力な株式市場である。
    それが立地するダラール・ストリートを歩いたことはなかったので、どんなところか?と歩を進めてみた。だがBSEの建物の中では日々どんな巨額な取引が展開されていても、そこに面した通りにお金がバラ撒かれるわけではないため、意外なほど簡素な横丁であった。
    休日のためストリートの主役であるBSEは閉まっていても、通り沿いの商店の大半は営業していた。コピー屋や文具屋をはじめとする事務用品関係、エコノミーな食堂、簡単なスナックの店、ジュース・スタンド、雑貨屋といった店が立ち並ぶ。
    ダラール・ストリート入口から来た道に戻り、少し南に向かうと右手の脇道に青い建物がある。ケネーセト・エリャフー・シナゴーグである。これもまたサッスーン一族ゆかりのものであり、建設者は前述のアルバート・サッスーンの甥、ヤークブ・サッスーンである。この街に八つあるとされるシナゴーグの中で最も良く保存されているものであるらしい。ここでも複数の警官たちが周囲に目を光らせていた。
    ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ
    2008年11月26日にムンバイーで発生したテロ事件からすでに1年以上が経過しているが、ムンバイーCST駅、タージマハル・ホテル、トライデント・ホテル等とともに、テロリストたちの標的となったユダヤ教施設『ナリーマン・ハウス』のことを記憶している方も多いだろう。
    別名チャダード・ハウスとも呼ばれるが、シナゴーグ、宗教教育施設とホステルを内包するユダヤ教徒のコミュニティ施設である。イスラエル生まれでニューヨーク育ちの司祭が奥さんとともに運営していたが、テロ実行犯たちが立て籠もっている間、夫妻は居合わせた他の4人(ホステルの宿泊者たちであったらしい)ととも殺害され、当時2歳の息子だけが助かるという凄惨な事件であった。
    ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ周囲で警戒が続いているのは、ここも同様にユダヤ教施設であるというだけではなく、あのナリーマン・ハウスとかなり深い縁のある場所でもある。2008年11月のテロが起きるまで、このシナゴーグで礼拝を取り仕切っていたのは、ナリーマン・ハウスで殺害されたガヴリエル・ホルツバーグ司祭である。
    内部は世界各地のシナゴーグと同様のスタイルだ。天井が高く、中央に祭壇がある。上階は吹き抜けになっており、階下を見下ろすテラスとなっている。このシナゴーグが出来てから125年になるそうだ。
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    なかなか人気の観光スポットでもあるようで、入場料はないものの、内部を撮影する許可として100ルピーが徴収される。売店コーナーも併設されており、本が数点置かれていた。、特に以下の書籍は写真やイラスト入りで彼らの歴史、伝統、コミュニティなどが綴られており、インドのユダヤ人社会を概観するのになかなか良さそうだった。
    書名:INDIA’S JEWISH HERITAGE
    編者:SHALVA WELL
    出版社:MARG PUBLICATIONS
    ISBN : 81-85026-58-0
    英領時代にはムンバイー、コーチン、コールカーターなどで隆盛を極めたユダヤ人たちであるが、インド国内では民族主義の台頭と独立、独立後のインドにおける金融や基幹産業の国有化等々といった流れは、インド在住のユダヤ人資本家たちにとって望ましいものではなかった。加えて、国外ではイスラエルの建国という歴史的な快挙もあったことなどから、国外に新天地を求めた人々が多いとはいうが、それでもムンバイーには今なお4千人以上のユダヤ系市民が暮らしている。
    総体で眺めれば、人口比では大海の中の一滴にしかすぎない彼らではある。しかしながら、かつてはムンバイー他のインドの港湾都市を中心に活躍し、国外にも広く影響力を及ぼしたユダヤ人たちの存在は、インドを代表するコスモポリタンな大都会ムンバイーの歴史の中の奥行きの深さの一端を象徴しているかのようである。
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  • NyayaBhoomiのオートリクシャー

    以前、オートリクシャー・スター・クラブ? デリーの路上の星たちならびにオートリクシャー・スター・クラブ? 頑張る路上の星たちで『オートリクシャー・スター・クラブ』を取り上げてみた。
    Autorickshaw Star Clubとは、NyayaBhoomiというNGOによるオートリクシャーのサービスの改善を目指す試みで、乗客の利益、運転手の待遇改善と生活向上、業界の社会的なステイタス向上などを目指しての社会的運動といえる。
    具体的には、適正運賃、つまり乗客に吹っかけるのでもなく、オートリクシャー営業のコストに見合わない安すぎる料金でもなく、走行距離に従って双方にとって合理的な金額を適用、運転手の身元や走行地点が逐一明らかになるとともに、乗客側についても車載カメラでモニターすることにより、両者ともに安心して走行できること、適正な営業とサービスの向上により、業界そのものの認知度を高めて、社会的な立場や発言力を高めることなどを企図している。
    通常は経済力の向上とともに交通機関も近代化し、オート三輪タクシーは消え行く運命にあるのが世の常ではある。だがインドにおいてはまだその兆候もないが、変わりゆく世の中で、来年開催を控えているコモンウェルス大会に合わせてということではないが、首都のタクシーやオートリクシャー、とりわけ主要駅や繁華街近辺などで客待ちしている運転手たちの態度や仕事ぶりについては、なんとかして向上すべきだと思う。
    以下、NyayaBhoomiのウェブサイトにも掲載されている彼らの取り組みを紹介するビデオである。

    以下、ビデオの内容の要約である。
    鉄道でチェンナイから上京してきた男性ムットウーが、駅舎を出てからオートリクシャーをつかまえようとする。コテコテのタミル訛りのヒンディーで運転手に話しかけると、ずいぶん高いことを言われて往生する場面から始まる。運転手とトラブルになった後、声をかけてきたオートリクシャー・スター・クラブの運転手からデリーのオートリクシャー業界の抱える基本的な問題点を彼に説明する。
    時はかわって2010年。デリー市内在住の姉のところに滞在中の男性は、用事先までのバスについて尋ねると『オートリクシャーで行けばいいのに・・・』と言われる。デリーのオートは嫌なのだと答えると『今はずいぶん事情が変わった』と告げられる。ムットゥーは再びオートリクシャーに乗ってみることにする。
    電話連絡してから、ほどなくやってきたオートリクシャーを運転するのは、かつてデリーの駅前で吹っかけてきた相手。しかし今ではすっかりマジメなドライバーになっている。オートリクシャーにはGPSシステムによる自動運賃計算、走行位置や車載カメラによる乗客の様子などは逐一警察にモニターされており、料金は適正、女性一人での利用も安心。料金は、現金以外にクレジットカード、デリー・トラベル・スマートカード等でも支払うことができる。
    かつては休日なしでコキ使われていた運転手も、今では定期的に休日が与えられ、家族との時間を大切にできるようになった。運転手自身の生命保険、その家族の健康保険等の福利厚生も導入された。運賃は、かつての2割増になっているが、それでも乗客たちはとても満足。車両に貼りだされた広告収入もあり、運転手は収入増で生活も安定・・・といった近未来のオートリクシャーの描写。

    なかなか面白い内容だったので、せひ皆さんにもご覧いただきたいのだが、ビデオで使用されているヒンディー語がわからない人には理解できないと思うので、NyayaBhoomiに英語版のビデオは作成していないのか夜半に質問をメールで送信してみると、なんと早朝には回答が届いていた。
    残念なことにビデオはヒンディー語によるもののみで、英語版は特に製作していないとのこと。ただし非ヒンディー語話者に対するアピールの必要性は認識しているとのことで、英文字幕入りのものを作ることを予定しているとのことである。
    NyayaBhoomiの担当者から届いたメールには、2ヵ月以内に『Radio Auto』のサービスを開始するとも書かれていた。おそらく上記のビデオにあるような近未来的なシステムを装備したオートが登場するのではないだろうか。
    こうした試みがスムースに浸透していくのかといえば、そうではないだろう。例え利用者たちは歓迎しても、大多数を占める従来のオートリクシャー運転手や組合等にとって、自分たちの商慣習を否定する彼らの存在は疎ましいだろう。
    デリーのオートリクシャー業界の新参者であるオートリクシャー・スタークラブの運転者たちは、路上で様々な嫌がらせを受けるかもしれないし、これを運営する団体NyayaBhoomi自体も、すでに同業者や関係者たちから妨害を受けているのかもしれない。
    変な言い方かもしれないが、現状のレベルが低いがゆえに、ちょっと努力すればその『伸びシロ』はとても大きなものであるはず。前途に待ち構えているであろう、いくつもの困難を乗り越えて、着実に歩みを前へ前へと進めて欲しいものである。
    同様に、彼らの取り組みが首都デリーのみならず、将来的には広く全国に波及していくことを願いたい。

  • 人はいくつまで生きるのか?

    ムンバイーといえば、垢抜けた都会的なイメージと、湾岸諸国や西洋に大きく開けた玄関口という印象がある。また世界各国から先進医療を、往々にして自国よりも低コストで受けるために人々を引き寄せるメディカルツーリズムの都ということからも、レベルはピンキリでも、医療へのアクセスが容易そうであることから、人々は割合長生きなのではないかと思っていた。
    ところが以下のリンク先の記事を見ると、どうやらそうではないようだ。
    Maximum city, minimum life — Mumbaikars dying young (msn News)
    ムンバイーの男性の平均寿命が 52.6 歳、女性が58.1歳で、インド全国平均の 63.7歳に較べてずいぶん見劣りがするとのことだ。またマハーラーシュトラ州の平均と較べてみても12年ほど短いとのこと。
    スラムに暮らす人々の生活条件が厳しく早くして亡くなる人が少なくないことが、全体の数値を下げてしまうということもあるようだが、経済的にゆとりのある層にいたっても、日々のストレス、運動不足、栄養過多な食生活等、いろいろ問題があるのだそうだ。
    ところで、広大なインドの人々はいくつまで生きるのか?と問うのはナンセンスだろう。個々の経済水準、生活習慣、職業等によって大きく異なってくるのはどこの国も同じだ。だが大まかな傾向をつかむことは、それなりに意味のあることではないかと思う。
    データは1995から1999年のものとのことでやや古く、チャッティースガル、ジャールカンド、ウッタラーカンドといった州が成立する前のものではあるが、インド各地の平均寿命は以下のようになっている。
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    先ほどの記事中のムンバイー市とこれを州都とするマハーラーシュトラ州の平均寿命に大きな乖離があったように、これらの州でも地域差は大きいのではないかと思う。過密な都市部とそれ以外といった条件以外にも、ヒマーチャル・プラデーシュ州や西ベンガル州のように、州内で地理的・気候的条件に差異が大きなところも数値はかなり異なることだろう。
    この表の中では、ケーララ州の男女ともに平均寿命が70歳を超えていることは特筆すべきだろう。突出して高い識字率とともに、平均して良好な生活水準であることがうかがえる。
    それとは反対に、オリッサ州の低水準、加えてビハール州とU.P.州では、女性の平均寿命が男性のそれを下回っていることが注目される。
    これら平均寿命の背景には、地域の行政、生活や医療等の水準、文化的・地理的背景等々が複雑に絡み合っているはずなので、とても興味深いものがある。また別の機会を設けてじっくり考えてみたいと思う。

  • インド人100万人

    一説によると、UAEに在住するインド人労働者の数は100万人にも及ぶのだとか。総人口567万人(人口統計に在住外国人も含まれている)中、UAE国籍を持つ人々は20%ほどで、あとは外国籍の人々だ。
    UAE以外のアラブ諸国とりわけ非産油国の人々が15%, アラブ圏外ではイラン人が8%とかなり多いものの、なんと南アジア諸国の人々が50%を占めていることから『インド人100万人』という数字は驚くに値しないかもしれない。あるいはパーキスターン、バーングラーデーシュといった両隣の国々から渡っている人々も含めた『インド系人口』とした場合、とてもその数で収まるものではないだろう。
    経済的な重要度に比較して、人口規模が小さく、様々な分野における労働人口が不足している湾岸産油国と、経済成長目覚しいとはいえ、世界第2の人口大国であるうえに、まだまだ失業率が高く、需要があればそれこそ無尽蔵ともいえるマンパワーを供給できるインドとの相性は、中東湾岸地域と南アジアという隣接する地理条件とともに、極めて良好だ。
    歴史的につながりも深く、人々の行き来が頻繁であったことから、仕事や住居といった紹介・斡旋というベーシックなニーズにおけるインフラも備わっている。同時にこれは労働者たちに対する搾取の構造ということも言えなくもないにしても、出稼ぎに行くにあたってのハードルもそう高くないことになる。
    インド人労働者といっても、エンジニアや金融関係者といった頭脳労働者から工場や建築現場の作業員までいろいろあるが、肉体労働者たちに対する待遇、とりわけ賃金契約、住環境、作業現場の安全性確保等々にかかわる問題点が指摘されることは多い。
    また相当の危険を覚悟のうえで、あるいは騙されるような形でリスクの高い仕事を担わされる者も少なくない。数年前に、イラクでインド人、ネパール人などのトラック運転手が武装グループに拉致されて殺害される事件が続いたことを記憶している方も多いだろう。
    このあたりの産油国ではどこもインド在住者は多いが、特に観光客の目につきやすいサービス産業に従事する者も多いためか、UAEの東隣の国オマーンについて、JTBの『オマーン情報』に、同国で使用されている言語について『アラビア語、ウルドゥー語、ヒンディー語』という記載があるくらいだ。
    オマーン情報 (JTB)
    おそらくタクシー運転手、ホテルやレストランを含むレジャー施設の従業員等にインドやパーキスターンの人々が占める割合が高いこともあるのだろう。
    オマーンについては、位置的に南アジアに近いがゆえに、現在の出稼ぎの人々以前にやってきた移民の子孫が多いことでも知られている。南アジア西端にあるパーキスターンのバローチスターン地方から多数のバローチーの人々による移住の歴史もあることなどから、インド地域からの移民史という観点からも、ペルシャ湾を挟んでイランの南側に位置する湾岸地域は興味深いエリアである。

    大きな地図で見る
    1990年8月にイラクがクウェートに侵攻したことに始まった湾岸危機の際、当時のインドでは外貨準備高が枯渇(輸入決済2週間分の7億米ドル相当)することによる経済危機を迎えた。危機による原油の高騰、湾岸市場への輸出高の減少などに加えて、この地域の産油諸国で働く自国民からの送金が減少した影響も大きかった。
    1991年6月に首相に就任した故ナラスィマー・ラオは、著名なエコノミストであり、インド中央銀行総裁であったこともあるマンモーハン・スィン(現在インド首相)を財務大臣に任命した。当時のインドは、綱渡り的な経済運営を強いられながらも、これを機会に大胆な経済改革を断行した。
    その結果、『災い転じて福と成す』といった具合に、今の経済的繁栄につながる基礎を築くこととなった。そのため2004年12月に他界した彼の首相在任中の最大の功績は、マンモーハン・スィンを財務大臣に据えたことであるという評価は多い。
    もちろん今のインドは当時よりずっと豊かになり、経済規模も拡大したことから、湾岸諸国へ出稼ぎにいった人々による送金に頼る度合いも大幅に下がっているため、単純な比較はできない。
    しかし現在でもケーララ州のように失業率が高く、湾岸諸国への出稼ぎが多く、彼らの送金が内需拡大に貢献しているという地域もある。同州からは、こうした国々に職を求めて出向く医者や看護婦といった医療関係者が多数あることでも知られている。
    ドバイショックが、今後湾岸地域の経済ならびに世界経済にどれほどのインパクトを与えることになっていくのかは予断を許さない。堅調な伸びを維持するインド経済については、その波及を楽観視する声も多い。
    だが出稼ぎ者の送金という、ややミクロな視点からは、UAEのみでも100万人規模とされるインド人労働者たち自身や彼らが養う故郷の家族、ひいては彼らを多く送り出している地域の経済は、まさにショックな事態を迎えることにならないともいえず、今後の推移を見守りたいところである。
    Dubai crisis raises migrant worker fears (BBC NEWS Middle East)

  • 『水』商売

    ここ20年間ほどの間で、現地通貨であるルピーをベースに見れば、インドの物価は今とまったく比較にならないほど上がっている。しかしながら店頭で販売されているミネラルウォーターの類の値段はあまり変わっていないし、これらを製造しているメーカーやブランドもずいぶん増えた。
    店で飲料水を購入する層が大きく広がったことが、相対的な低価格化を推し進めることになっているのだ。もちろんその間に、価格や機能性にもいろいろあるようだが、浄水器を備え付ける家庭も増えた。飲み水の安全性に対する認識が上がったことが背景にある。
    かつて日本でエンジニアとして働いた経験があり、現在コールカーター郊外に暮らしている友達の家を初めて訪れた際、こんな話を聞いたことがある。
    ずいぶん昔のことだけれどもね、父の旧知の友人で、アメリカに移住した家族が我が家を訪れたことがあった。暑い夏の盛りだったけど、この部屋に彼らが入って来て、家の者が彼らに水を差し出したが、誰も口を付けなかった。
    これが父にとって非常にショックだったんだな。ウチでお客に出したものが受け入れられないなんて。そんな不名誉なことを受け入れることができなかった。
    当時は、父も私を含めた家族の他の者たちも、観念的な浄・不浄とは違う、今の私たちが言うところの衛生観念からくるものであることをよくわかっていなかった。
    何しろ普段私たちが何の問題もなく飲んでいた水だからね。安全だと思ってた。まさか外から来た人たちがそれを口にすると、下痢したり病気になったりすることがあるなんて想像もしなかったよ。
    それから浄水器を購入してね、もちろん幾度か買い換えたけれども。そのおかげでウチではいつも安全な水を飲むようになっているんだ。

    昔からの友人の家族であることにくわえて、ましてや彼の家柄はバラモンである。彼の父自身も、また家族の人々も、二度とそういうことのないようにと願ったのだという。
    同時に、それを機会に自分たちが日々口にしている飲料水のことを考えてみるきっかけにもなったそうだ。いくら慣れているからといっても、それまで家族や身内が水に起因する病気にかかることはしばしばあったようだ。
    しかしある程度生活にゆとりのある層を除けば、まだまだ安全とはいえない水を日々飲用している人々は多いことは言うまでもない。
    ところで、車両価格が10万ルピーほどという、これまでにない低価格が話題となったNANOが、これまでの自家用車の購買層の下に広がる大きな裾野をターゲットにしているのと同じく、あと一歩で安全な水に手が届かない膨大な人口に商機を見出したのが、やはりTATAグループである。
    新商品Swachを発表するターター財閥総帥ラタン・ターター氏
    TATA CHEMICALSから、従来よりも安価でランニングコストも低いとされる浄水器Swachが発表された。浄水器本体は、749ルピーと999ルピーの2種類。今後さらに4機種が新たに市場に投入されるということだ。米殻の灰などを材料として出来たフィルターは299ルピーとのこと。
    『世界で最も安価な浄水器』との触れ込みで、4、5人程度の世帯で月当たり30ルピーの支出で安全な水を得ることができるとされている。
    差し当たっては、年内にマハーラーシュトラ、カルナータカ、西ベンガルの各州で発売され、半年ほどの間にはその他全国で販売を開始する予定。
    Tata unveils Swach water purifier (new kerala.com)
    バクテリアや細菌などを除去し、飲み水に起因する疾病の80%を防ぐことができるということから、庶民の健康増進に貢献すること、とりわけ乳幼児死亡率を引き下げる効果も期待されている。
    もちろんインドに限ったことではなく、同様の生活環境にある第三世界の多くの国々での潜在的かつ巨大な需要も視野に入れているようで、同社の世界戦略商品であるともいえる。
    しかし南アジア各地で、井戸水を飲用している地域で問題となっている砒素を除去する機能は付いていないということだ。それでも同社は砒素対策の研究も並行して行なっているらしい。今後の進展を期待したい。

  • 史上最悪の産業事故から四半世紀

    昔からボーパールで生活している、ある一定の年齢層以上の人々にとって、12月3日という日付には特別な意味があるはずだ。
    今年もその日がやってきた。1984年の12月3日の零時過ぎに、マディヤ・プラデーシュ州ボーパール市のユニオン・カーバイド社の工場で起きた、史上最悪といわれる産業事故である。
    ONE NIGHT IN BHOPAL (BBC NEWS South Asia)
    その晩、同工場から有毒ガスが市内に流出した。イソシアン酸メチルと呼ばれる肺の組織を破壊する猛毒である。事故が起きた夜半のうちに50万人近くの人々が多かれ少なかれそのガスに晒され、2千人以上が命を落としたとされるとともに、その後これが原因となって死亡した人々の数は2万5千人に及ぶという。
    また命を落とすには至らなかったものの、深刻な健康被害を受けた人々の数は、20万人とも30万人とも言われているとともに、今なお引き摺る後遺症に悩んでいたり、精神を病んでいたりする人々もある。彼らの中でガンを発症する率が極めて高いことも指摘されているとともに、出生する赤ん坊たちの中に先天的な奇形が多く見られるという。
    1969年開業時には地元の工業化の進展と大きな雇用機会をもたらすものとして、またここで生産される有用な殺虫剤の普及は社会に貢献するものとされていたことなどもあり、歓迎されていた工場である。
    事故の原因については、今なおいろいろ議論のあるところだが、ユニオン・カーバイド社が主張していた『アメリカ本国と同じ安全基準』が実際には適用されておらず、ずさんな管理がなされていたことが背景にあるようだ。また従前より、工場内部からも事故の可能性を危惧する声が一部から上がっていたらしい。
    1989年に、事故の遺族たちとの示談が成立し、彼らに対する補償問題は解決したものとされているが、工場地の重度に汚染されている状態、そこから敷地外への有害物質の漏出が現在も続いており、今なお付近の人々に対する健康被害が継続しているとされるが、これについての責任の所在が確定していないため、何の対応策も取られていない。
    同工場は事件後閉鎖されているが、ボーパールの駅から北方面2キロ弱の地点にある。Google Earthなどで確認していただけるとよくわかるが、この工場自体が市街地内にあり、しかも人口稠密な地域にごく近いことも大きな被害を呼ぶことになった。

    大きな地図で見る
    線路西側にかつての工場施設が錆び付き、荒れ果てた姿で亡霊のように姿を現す。かつて大事故を起こした建物が、当時そのまま放置されていることが示すように、事件は今なお続いている。
    この事故は、発生直後からマスコミやノンフィクションなどでいろいろ取り上げられてきたが、比較的近年になってからも映画や小説の題材となっている。
    1999年には、この事故を題材にしたヒンディー映画『Bhopal Express』がリリースされているので、観たことがある人も少なくないだろう。
    The City of JoyFreedom at Midnightなど、インドを題材にした作品も複数手がけてきたドミニク・ラピエールがハビエル・モローとともに著した作品『Five Past Midnight in Bhopal』を世に送り出したのは2002年。
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    日本で同書は『ボーパール午前零時五分』というタイトルで発売された。
    事故に関して、以下のようなビデオならびに写真のサイトもある。
    Twenty Years Without Justice : Bhopal Chemical Disaster (STRATEGIC VIDEO)
    Bhopal Gas Tragedy (Photos by Raghu Rai)
    汚染が継続していることを警告する住民側とこれを否定する行政の姿勢を伝える報道もある。
    Bhopal site ‘not leaking toxins’ (BBC NEWS South Asia)
    事故発生からすでに四半世紀が過ぎたことになるが、今なお健康被害等が続いていることについて目をつぶるべきではないし、彼らの救済や汚染状態の調査と適切な対策がないがしろにされてしまっているこの事件を風化させてしまってはならない。
    だが、事故の規模があまりに大きなものであったがゆえに『誰がその費用を負担するのか?』という問いに対して、『誰も負担できないし、負担しない』状態が続く限り、被害者たちの苦悩は続くことだろう。たまたまそこに居合わせたがゆえに事故に巻き込まれた罪無き人々に対するあまりに酷い仕打ちである。

  • 過去のイメージ

    最近、Google Earthで昔の衛星画像を閲覧する機能が付いていることに気がついた。
    メニューの『表示』から『過去のイメージ』をクリックすると、画面左上に画像の撮影時期を指定するツールバーが現れる。これを操作することにより、表示されている土地の過去の画像を見ることができるようになる。
    昔の画像、といったところで何十年も前のものが出てくるわけではない。せいぜい今世紀の始まりくらいか1990年代後半くらいまでしか遡ることができない。それでも、ここ10年くらいで急激に発展した街、新たに建設が始まった市街地等の進化や拡大の様子を把握することができるだろう。
    今世紀の始まりといえば、インドにおける歴史的な大地震のひとつに数えられる2001年1月26日発生のグジャラート大地震が思い出される。グジャラート州西部カッチ地方のブジを震源地とする強い地震により、死者20,000人、負傷者167,000人を出した。
    被害は同州最大の都市アーメダーバードや州東部にも及んだとはいえ、震源地かつ主たる被災地であるカッチ地方は人口密度の希薄な地域でありながらもこうした数字が記録されたことは特筆に価する。
    復興が進んでいることは耳にするものの『そういえば、ブジは今どうなっているのか』とGoogle Earthで旧市街の様子を表示してみると、以下のような画像が出てきた。
    20091123-bhuj1.jpg
    震災前は、もっと密度の濃い街区だったはずだが、かなり空白が目に付くことから、おそらく以前とはかなり違った風景になっていることがうかがえる。しかしGoogle Earthの過去画像で遡ることができるもっとも古い同地区の様子は以下のとおり。
    20091123-bhuj2.jpg
    2002年9月13日撮影ということになっているため、震災から1年9カ月後の様子だが、現在の様子よりもはるかに希薄な風景となっている。これらふたつの画像を拡大してみると次のような具合となる。上が現在、下が震災まもない時期のブジ旧市街の一角だ。
    20091123-bhuj3.jpg
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    おそらく地域の建物の大部分が建て替り、震災前とはまったく違った光景が広がっているであろうことは容易に想像がつく。
    市街地の建物の密度もさることながら、乾季でも満々たる水を湛えているはずのHamisar Tankだが、震災の後はどうしたわけか以下のように干上がっていることにも驚いた。
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    それが最近の画像では、ちゃんと水が再び戻ってきている。
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    大震災の後に池や湖から水が引いてしまうということがあるのかどうかわからないが、上の画像は何か人為的に水を他のところに引いていたのか、それとも地震に伴う自然現象であったのか?
    ブジという街はもちろんのこと、周囲にも面白いエリアが数多い。染物で有名なアンジャール、ダウの造船で知られるマンドビー、織物や刺繍といったテキスタイル関係を生業とする村々、ハラッパー文明の遺跡のドーラーヴィーラー等々、豊かな文化と歴史に恵まれている。
    カッチ地方には部族民が多く、かつて個性的な民族衣装でカッチの中心地ブジの町にも出入りしていたが、やはり商業化の進展とともに、より経済的で耐久性のある工業製品が普及するようになり、こうした人々が身に付ける衣類にも変化が顕著に現れてきていた。
    男性は洋服、女性はどこのマーケットでも普遍的に手に入るような工場製品のサーリーやパンジャービーといった具合である。従前は特色のある衣装をまとっていた人々も見た目は街に暮らす人たちとあまり区別がつかなくなってきていた。
    彼らの伝統的な衣装を仕立てていた職人たちは、買い手が減って生計が成り立たなくなってくる。そうした職業を辞める人が出てくれば、それらの衣装も手に入りにくくなり、敢えて買い求めようとすれば、かつてよりも高い対価を支払わなくてはならなくなってくる。
    そんなサイクルが繰り返されて、次第に日常の装いから縁遠いものになってきて、やがては『博物館で保存される民族の伝統』という具合になってくるのだろう。
    これはカッチ地方に限ったことではなく、インド全土で人々の装いのありかたは工業化の進展とともに、地方色が薄れてより『グローバルなインド』的な形に収斂されてきていることは言うまでもないし、私たちの日本も含めておよそ世界中で、程度の差異はあれども似たようなことが進行している。
    話は逸れたが、本題に戻ろう。
    もうひとつ、今世紀に入ってからの大災害といえば、2004年12月26日のスマトラ沖地震とそれに起因する津波がインド洋沿岸地域を襲ったことだろう。
    震源地であるインドネシアのスマトラ島はもちろんのこと、タイ、スリランカ、インド等でも記録的な被害を蒙ることとなった。特にタミルナードゥのナーガパットナムでの被害が甚大であったが、南インド東側沿岸を中心に広く死者や行方不明者が出た。
    当日の夕方、ニュース画像でチェンナイのマリーナー・ビーチに押し寄せる津波、多数の自動車がまるで紙でできた小さなオモチャであるかのように、波間に揉まれている様子が映し出されていて仰天した。
    もっとも震源の近く、津波の規模も最大であったインドネシアのスマトラ島北部のバンダ・アチェの現在の様子は以下のとおりである。2005年1月28日に撮影されたものだそうだ。
    20091123-banda1.jpg
    続いて津波がやってくる前の画像はこちらだ。2004年6月23日、つまり津波の半年ほど前の画像である。
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    画像が小さくて、違いがよくわからないかと思われるので、これらの拡大画像も付けておく。荒廃した土地が広がっているように見えるが、元々ここには大きな運動施設があり、その周囲は住宅地であった。痛ましい限りである。
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    Googleのサービスについては、画期的な利便性・有益性とともに、Google Earthにおいて国防施設等が丸見えになっていたり、ストリート・ヴュー画像が泥棒の下見に使われたりといった、国家ならびに個人のセキュリティに関わる事案が生じていること、書籍検索サービスにおける著作権の問題等々賛否両論ある。
    しかしながら書籍検索で、すでに手に入れることのできない貴重な資料や図書を自宅にいながらにして探し出すことも可能であることに加えて、Google Earthの『過去のイメージ』は、今後画像データが毎年蓄積されていくことにより、歴史的な資料としての価値が出てくることが期待できることと私は思う。
    これが一部の人々に独占されるのではなく、インターネットへのアクセスの手段がある限り、誰もがそれを共有できることにも大きな意義があることは言うまでもない。