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カテゴリー: society

  • 違いを越えて

     以下の動画は、デリーの地下鉄の女性専用車両に乗車している男性たちに対する取り締まりの様子だそうだ。 

    Men beaten off women’s train in India (YouTube)

    車両の中の男性たちが手荒に叩き出されている。なんとも哀れというか、みっともない有様ではある。後半の映像では、おそらく他の車両がひどく込み合っていて、ここにしか乗り込むことが出来なかったりしたのではないかと思うが、ずいぶん沢山の男性たちの姿がある。 

    しかしラッシュ時にこそ女性専用車両の価値があるため、このくらい思い切った手立てが必要なのだろう。ジェンダーの違いによって生じる著しい不都合や不利益がある場合、これを是正する手段は不可欠だと思う。 

    今やどこの国でも男女平等ということが言われているが、たとえばこの女性専用車両のように、ジェンダーによるこうした逆差別もときには必要であることは誰も否定しないだろう。 

    そんなことからふと思ったのが、何をもって平等とするかということだ。雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用均等法)が1999年に大幅改正された。これによって従前は努力規定であったものが禁止規定となった。 

    あれから10年以上経つが、求人の際に性別は当然書かれていなくても、業務内容の関係上から実際に採用されるのはほとんど男性ばかり、あるいは女性ばかりというケースはよく耳にするし、待遇や昇進について事実上差があるというケースは少なくないようだ。もちろんそれも職場によりけりではあるが。 

    しかし総体的には、これにより女性の社会参画が促進されたとされるし、反対にそれまで女性の職場とされていた分野への男性の参加も増えたことも間違いないようだ。法の下に働く人々の間のジェンダーの違いによる格差が、少なくとも建前上は否定されたことの意味は大きい。 

    だが人は社会人であるとともに家庭人でもあり、その中での役割の違いというものもある。何も女性が家事の大半を担うべきであるなどと言うわけではない。子供に対して父親だからこそできること、母親でこそ可能なことなどいろいろある。また子供たちから見て父親にしてもらいたいこと、母親に期待することなどもいろいろ違うこともある。私たちの幼い頃を思い起こせば胸に浮かぶことはいろいろあるだろう。 

    そのあたりも考え合わせると、1日24時間という限られた枠の中で、世の中の男女が同じ働き方をすると、しわ寄せが行くのは結局のところ家庭ということになってしまわないだろうか。そもそも結婚することさえ難しくなってしまうことはないのだろうか。 

    不況が続き、雇用や収入に不安があるとはいえ、今のところ日本は平和で衣食住事足りた社会である。それにもかかわらず少子化に歯止めがかからないということは、生物学的には非常に矛盾した状況だろう。 

    そんな中で、私たちから見て二世代くらい前の『人々の暮らし』から学ぶことも少なくないのではないかと思う。社会のありかたや仕事のやりかた等は時代とともに移ろうが、昔の人たちのやりかたが間違っていたわけではなく、今とは違った豊かさや温かみがあったはずだ。文化や伝統と同じく、世代を超えて受け継いでいくべき先人たちの『ワークライフバランス』の豊かな知恵があるのではないだろうか。 

    ジェンダーの違いを越えた本当の『平等』や『均等』とは、必ずしも今の私たちがそうであると受け止めているものとは少し違うものがあるような気がしてならない。

  • 日本でムスリム観光客増加の気配

    クレセント・レーティングをご存知だろうか。『Halal Friendly Travel』をモットーに、イスラーム教徒が利用しやすいホテル、レストラン、空港、パッケージツアー、医療等に関する情報を提供しているサイトだ。ホテルについてはハラールな食事を提供しているか、ムスリムの礼拝に対する配慮があるか等々の観点による格付けもなされている。 

    同サイト内ではイスラーム教徒向けの旅行書籍(?)の販売も行なっている。 スリランカ出身のムスリムのビジネスマンが立ち上げたサービスだが、その目新しさからちょっと注目されつつあるらしい。 

    ところで、もともと土地っ子の間でムスリム人口がほぼ皆無に近く、これまでムスリムの人々による訪問も少なかった日本では、当然のことながら食事その他さまざまな面において『ハラールな』環境を得がたいのは無理もない。 

    その日本では、2008年10月に設置された観光庁が、ビジット・ジャパンというキャンペーンを通じて、訪日外国人3,000万人という目標を掲げているところだが、訪日外国人旅行者数の多い15の国・地域(アメリカ、イギリス、インド、オーストラリア、カナダ、韓国、シンガポール、タイ、台湾、中国・香港、ドイツ、フランス、マレーシア、ロシア)を重点国と定めてプロモーションを展開している。 

    それらの中でもっとも効果が顕著なのは、中国大陸からの日本渡航者に対する査証取得条件の緩和による中国人観光客の急増だろう。このところ尖閣諸島を巡る政治問題によって訪日予定者の中から多数のキャンセルが出ることによりブレーキがかかった感はあるが。 

    しかし中国が安定した経済成長を続けている限り、地理的に至近で有利であること、元々中国人たちの中で日本に対する関心が高いことから、今後とも急カーヴを描いて訪日者数が増加していくことは間違いないだろう。 

    さらには来年度からサウジアラビアとアラブ首長国連邦もこの『重点国』に追加されることが予定されているという。両国とも豊かな産油国で可処分所得が高く、滞在中の客単価が高いであろうことが期待されているようだ。 

    ちなみにムスリム観光客による旅行市場は、全世界で再来年あたりには8.5兆円という巨大なものとなることが予測されており、日本もその流れに乗り遅れないようにと、手始めにこの2か国(サウジアラビアとアラブ首長国連邦)を重点国に指定したという経緯がある。 

    同時に日本での観光客としてはあまり馴染みのなかった人々で、受け入れ側としてもムスリム客誘致のノウハウがほとんどないこともあり、訪問者を送り出す側の国では訪日関連、また受け入れ側となる日本のほうでもムスリム客誘致関係といった、新たな商機が生まれることが期待されている。 

    同時に、これまで日本国内では、ハラール食材、映画等の娯楽関連、安い国際電話カード等といった、主に在日の南アジアや東南アジアのムスリムたちの日常生活に必要なものをまかなう程度で、ごくごくニッチなマーケットであった『ムスリム関係市場』が、豊かな産油国からやってくる観光客という新たな顧客を得て、価格帯や品揃え等もこれまでとは異なる次元のものへと発展していく可能性も秘めている。

  • ミャンマーはどうなるのか?②

     さて投票日が11月7日に予定されているミャンマーの総選挙だが、同国最大の野党NLD (National League for Democracy 国民民主連盟)を率いていたアウンサンスーチー氏をはじめとする民主化運動指導者たちを排除(そしてNLDは今年6月に解党)することにに成功した軍事政権は、自らの翼賛団体であるUSDA (Union Solidarity and Development Association 連邦団結発展協会)から衣替えしたUSDP (Union Solidarity and Development Party連邦団結発展党)にて選挙戦に臨む。 

    今回行われる選挙により、国政レベルの連邦議会と管区・州レベルの地方議会の議員が選出される。連邦議会は二院制で合わせて664議席、地方議会は合計888議席となる。 

    無政党が選挙に参加するには1,000人以上の登録された党員数が必要とされる。無所属で立候補することはできない。また各候補者ひとりあたり約500ドルという同国としては高額な登録料が課せられている。また日頃から政治活動に対する当局による監視の目も厳しいこともあり、志ある市民が政治の道を目指すことは難しいようだ。 

    それでもこのたびの総選挙に参加するのは37政党と、なかなか賑やかなものとなる。だがトータルで3,000人ほどとされる候補者の内訳で見ると、1,000人超の候補者を擁する最大政党USDPと同じく1,000人規模の候補者を持つNUP (National Unity Party)が突出している。 

    NUPとは、1988年8月8日に始まった大規模な民主化要求運動を抑えきれず、同年9月に軍のクーデターにより政権を追われるまで、1962年から22年間の長期に渡り、ビルマ式社会主義を標榜する政治を運営してきたBSPP (Burma Socialist Programme Partyビルマ社会主義計画党)がその前身である。 

    1988年7月まで同党のトップである議長の座にあったネ・ウィン将軍は、国防大臣であった1962年にクーデターに成功して政権を握った直後、自ら創立させた軍人主体のビルマ社会主義計画党に政権を横滑りさせている。ゆえにBSPP時代からして国軍の間接統治による独裁政治であり、それに対する国民の不満がついに噴出したのが1988年に大きな民主化要求運動であったといえる。この出来事により、ネ・ウィン氏は事実上失脚した。 

    1990年に軍事政権の意志決定最高機関であるSLORC (State Law and Order Restoration Council)の元で総選挙にて、同機関と旧BSPPによって設立し、当然政権を継承するものと体制側が目論んでいたNUPだが、獲得したのはわずか10議席という惨澹たるもので、対するアウンサンスーチー氏がトップを務めるNLDは392議席と誰の目にも明らかな結果となり、ついにこの国が民主的な体制に移行するものと内外からの期待を集めた。 

    しかし、与党となるべきNLDへの政権の委譲が行われず、軍事政権側に批判的な活動家たちに対する弾圧が行なわれ、国民議会も招集されていない状態が続き、現在に至っている。SLORCは、1997年にSPDC (State Peace and Development Council)へとその名称を改めている。 

    そうした経緯もあり、現在の軍政の翼賛団体から衣替えしたUSDPとNUPは、どちらも国軍と非常に縁が深い。ただし現在の軍事政権と一心同体の存在であるUSDPに対して、1988年に政権を追われた後、1990年の総選挙では軍事政権を代表する政党として再登場したもの、まったく話にならない大敗北を喫してからは、隅に置かれてしまい存在感を失っている旧BSPPことNUPは、現在では前者並びに国軍とは少々スタンスを置いた立場であるらしい。 

    今回ようやく実施される総選挙について、USDPとNUPというふたつの大政党があまりに突出していること、さらには総議席の四分の一が軍人に留保されることなど問題は多く、極めて軍の影響力を留保させた政権が誕生することは間違いないようだ。 1990年総選挙におけるNUPの大敗北の苦い記憶のある軍政側は、実に長い時間をかけて民主化運動を冷却させるとともに、こうした勢力の影響力を排除していった。そしてついにNLDを解党に追い込み、満を持しての選挙戦となる。

    NLD解体以降のリベラル勢力は小規模なものが割拠している状態であるのに対して、軍政側には、選挙によらず軍が指名する四分の一の軍人議席という、いわばセーフティ・ネットがあるため、USDPとNUP合わせて最悪でも総議席数の四分の一をわずかに超える程度確保すれば政権に就くことができるという極めて有利な状況にある。 

    つまり『体制側(現在の軍政) vs民主化勢力』 という構図ではなく、大方は現体制側の立場の候補者の中から『人物を選出する』ものとなる。今回の選挙に向けて、慎重かつ周到に準備を重ねてきた軍事政権側は、USDPの候補者に軍や政府関係者以外にも、ビジネス界その他で名前の知られた有名人たちも多く擁立しているようだ。規模の上でも資金力の上からも同党が圧倒的に有利である。

     アウンサンスーチー氏は、支持政党がなければ選挙をボイコットすべきであると旧NLD支持者たちに呼びかけているが、同党を支持していた人たちがこぞって投票を控えた場合、小所帯のリベラル政党へ流れるべき票が失われてしまうため、かえってUSDPを利することになってしまうのが悩ましいところだ。 

    この選挙について『看板の架け替えに過ぎない』『軍政が軍服脱いで文民面するだけ』『軍政にお墨付きを与える手続きに過ぎない』といった批判は多く、本来1990年選挙の結果を受けて当時与党の座に就くべきであったNLDが参加できなくなったことにより、西側諸国の多くも今年11月の『総選挙』を正当なものとみなすかどうかは別の話である。おそらく選挙後に新たな政府が発足してからも先進諸国による経済制裁は続くことだろう。 

    しかし制裁が続いたところでミャンマーの新政権に与える打撃とは限定的なものとなることだろう。もとよりASEAN諸国はこの国の軍事独裁政権については黙認状態で経済交流は続いていたし、近年では中国の進出が著しい。欧米諸国企業が事実上ほぼ不在の中で、中国企業にとって、ミャンマーはまさに『草刈り場』といった具合である。ミャンマーは欧米諸国が考えているほど孤立してなどいない。ゆえに彼らによる経済制裁が政権を崩壊に追い込むなどと考えているとしたら、誤った思い上がりにすぎない。 

    今回の選挙により、次期政権にて軍人勢力が温存されることになるため、政府が喧伝しているような民主化にはつながらないだろう。しかしそれだからといって、何も変わらないと考えるのも間違いだろう。

    曲りなりにも複数の政党が参加して各選挙区で競合する候補者の中から有権者たちが選び出すというプロセスが実施されることの意味は大きいだろう。総議席中の軍人枠を除いた四分の三は、国軍系の政党候補者であろうと、その他政党から出馬した人物であろうと、選挙というプロセスを経て国民から直接信任されるという点が重要だ。

    またリベラル勢力や少数民族政党(こちらには軍政寄りのスタンスの党も含まれるが)からも当選する者が出てくることから、これまでの軍事独裁政権に賛同しない人々、常にビルマ族に圧倒されてきたその他の民族出身の人々が中央ないしは地方政治の舞台に参加できることの意義も無視できない。 

    軍政とイコールの関係にあるUSDPとこれに近い関係にあるNUPが政権を担うことになるであろうことは誰もが予見するところだが、前述のとおり前者と後者とでは、その立場に異なる部分があり一枚岩ではない。そのため現在、軍政の最高意思決定機関であるSPDCによる政権運営と比較して、かなり活発で多元的な政策論争が展開していくはずだ。 

    軍と政治のかかわりについても変わっていくだろう。軍籍から抜けて政治家に横滑りする国軍幹部が多数あるいっぽう、それらが軍で占めていたポストには下の世代の人たちが持ち上がってくる。同一人物がUSDPと軍双方の要職を占めることにはならないため、世代交代した軍幹部の意志がUSDPましてやNUPのそれとイコールという具合になるとは限らず、時に対立することもあるはずだ。 

    そもそも国軍に対する批判は多いが、北を中国、西をインド、東をインドシナに囲まれた文明の交差点とでも言うべき複雑な民族・文化背景を持つこの国で、まがりなりにも国土を今の形で維持できたのは彼らあってのことだ。イギリスが去り、主権を取り戻したこの国では長らく地方の反乱が続いてきた。それは国軍への反感というよりも、中央つまり支配民族であるビルマ族が彼らに対する抑圧者として映っていたからに他ならない。

    何かと問題は多いが、総選挙が実施されるということ自体は歓迎したい。一足飛びに大きな変革が起きることにはならないが、政治に多少なりとも国民の意志が反映されるようになることは間違いないだろう。リベラル勢力に対しては、与えられた枠組みの中で、今後粘り強く努力を続けていくことを期待したい。 ミャンマーはきっと変わる・・・と思う。時間はかかるはずだが。

    もちろん選挙管理の問題もある。果たして現在示されている枠組みの中での公正な選挙が実施されるのかどうか。選挙報道について、外国メディアを排除していることも気にかかる。とりあえずは行方を見守りたい。 

    1886年から1937年まで、英領インドの一部を成していたミャンマーは、西隣のインド同様に多民族・多文化から成る国ではあるが、多様性を有すると同時に国としての一体感があり、独立以来民主的な政治運営がなされているのとは実に対照的だ。 

    ミャンマーの将来が明るいものであることを願うとともに、インドという国の偉大さをも今さらながら感じずにはいられない。 

    <完>

  • ミャンマーはどうなるのか?①

    ミャンマーはどうなるのか?①

     つくづく不可思議な国である。軍政から民政移管を標榜する『総選挙』を11月7日に控えた今、また2008年に新憲法が公布されたがまだ発効されてもいないのに、なぜ10月21日に突然国名がミャンマー連邦がミャンマー連邦共和国へと改められるとともに、国旗、国歌が変更されることになったのか。 

    Myanmar gets new flag, official name, anthem (REUTERS CANADA)

     ミャンマー 国旗の変更を発表 (NHK)

    Cries of foul play as ‘new Burma’ is hoisted (Democratic Voice of Burma)

     従前の国旗の赤色は勇気、青色は平和を象徴しているとされる。社会主義時代の1974年に制定されたもので、社会主義的なシンボルを取り囲んでいる14の星は、この国を構成する7つの管区と7つの州、合計14の地域の統合の意味を有するとされる。

    新国旗については、緑色は平和、黄色は団結、赤色は勇気、中央の星は国家の永続性を示しているとのことだ。 

    国旗変更の背景について、各メディアによる様々な憶測が飛び交っているが、つまるところ国内外に向けて『国体が改まる』ことについて内外へのアピール、そして『国民の総意に基づく民主的国家』を創るための総選挙へのムード作りといったところなのだろうか。 

    この国は、1948年に独立した後、1974年に一度国旗を変更している。1973年以前は以下のものであった。青字の部分のデザインがそれ以前と異なる。

    ところで他人の空似、ということになるのだろうが、今回新しく制定される前までのミャンマー国旗は、中華民国(台湾)のそれとよく似ていた。

     新国旗も実はよく似たデザインのものがかつて存在していた。それは1943年から1945年までの日本による傀儡政権時代の国旗である。中央に配置されているのは星ではなくクジャクだが。1942年に日本軍とともに、その協力関係にあったアウンサン (アウンサンスーチー氏の父)率いるBIA (Burma Independence Army)が同国からイギリスを追い出すことに成功した。そして1943年8月に発足した日本の傀儡政権だが、前述のBIAから再編された国軍であるBNA (Burma National Army)が起こした1945年3月にのクーデターにより転覆し、再び英国支配下に戻ることになった。その後1948年にイギリスからの独立を達成した。

     

    クジャクといえば、1937年に英領インドから分離する際に制定された英領ビルマの旗にもこれが描かれている。このデザインは、ビルマ最後の王朝であったコンバウン朝の旗に描かれていたものであり、歴史的な図柄だ。 

    わずか1年半ほどしか持続できなかった傀儡政権が定めたものとよく似たカラーリングの新国旗は、この国の行方を暗示しているようである・・・などと言うつもりはないが、国旗変更のタイミングといい、新たに定められた図柄といい、決して幸先の良いものと感じられないのは私だけではないだろう。

     <続く>

  • 在日ムスリムの人々の墓地問題に思うこと

     日本で暮らすムスリムの人々の間の墓地不足が深刻であることから、栃木県足利市にて新たに用地を取得しようとの試みが難航している。その原因は埋葬方法が土葬であることにある。下記リンク先記事にあるとおり、日本に暮らす彼らの人口は、外国籍の人々が約10万人、日本人が約1万人と推定されるとのこと。 

    日本のイスラム教徒永眠の地は土葬の墓、住民ら反発 (asahi.com)

    『日本人が1万人』の部分ついては、外国人ムスリムの方と結婚した日本人でその多くは女性、その結婚相手で日本国籍を取得した南アジア諸国をはじめとする外国出身の人々で多くは男性、そして夫婦の間に生まれた子供たちといったところがかなりの部分を占めるものと思われる。 

    今日取り上げてみたasahi.comの記事によると、日本国内でイスラーム教徒向けの霊園は山梨県甲州市と北海道余市町の2か所だけであるとのことだ。アメリカによるアフガニスタン攻撃の際に同国の難民支援のための募金その他の運動を活発に行なった『大塚モスク』で知られる日本イスラム文化センターが墓地問題の解決に乗り出したところ、地元住民たちからの反発により、行政からの許可が下りずに足踏み状態が続いているということのようだ。 

    土葬に対する反発は、習慣上の相違と公衆衛生上での懸念によるもののようだが、日本で火葬が普及したのは近世以降のことであったようだ。それでも神道的な価値観からの反発もあったようで、火葬に対する禁止令が出された時期がある。 

    以降、火葬の技術が進歩したこと、人口の拡大と都市化の進展に伴い、衛生にかかわる問題はもとより埋葬地の取得も困難となることから、近代化とともに急速に火葬が一般化していくこととなった。 

    現在でも墓地埋葬法によって土葬が禁じられているわけではなく、各自治体の判断と墓地管理者の裁量に任されているのだが、ほぼ日本全国で火葬が一般的であるのはご存知のとおり。 

    イスラーム教徒やユダヤ教徒と同様に、キリスト教徒の間でも教義上の見地から土葬が行われてきたものの、国や地域にもよるが、日本同様に衛生面、用地取得、加えてコストの面から火葬を合理的な手段であると選択する人は決して少なくないようだ。保守的な価値観にはそぐわないものがあることは否めない。 

    在日ムスリム人口がどのように推移について詳細なデータは持ち合わせていないが、かつて存在がゼロに等しかった彼らが近年急増していることは街中の様子を眺めるだけで実感できる。この世に生きている人々すべてが、やがて人生の終末を迎えることから、墓地の問題は是が非でも解決していかなくてはならない問題であることは誰も否定できないだろう。 

    だが現地の反発にも理解できる部分がある。地元に縁もゆかりもない人たち、イスラームという、土地の人々にとってよくわからない信仰を持つ人たちの埋葬地を自分たちのところで引き受けるということを不条理だと感じる気持ちはごく自然なものであるともいえる。 

    『他者への寛容』を唱えるのは易しいが、何処からともなくやってきたよく知らない相手に『どうかご理解・ご協力を』と求められたところで『ああそうですか』と受け入れるのは残念ながらそう簡単なことではないのだ。 

    人の死に関する問題は墓地だけではない。過日、私の身近なところで、やがては自国に戻るはずであった西アジアのある国出身の若い男性が突然亡くなってしまった。人の死は老いてから訪れるものとは限らない。当然、彼の祖国の家族は遺体を故郷まで空輸することを希望した。それが可能な経済力のある人たちであったがゆえに遺体の運搬について特段問題はなかったのだが、もしそうした財力のない人であったとしたら、関係者たちにはどのような対応ができただろうか? 

    これまで日本では馴染みがあまりに薄かったムスリム人口が一時滞在、定住ないしは永住を問わず増加していくにあたり、今後様々な摩擦が生じてくることは予想に難くない。現在報じられているこの問題は、まさに今後の日本社会に求められる在日ムスリムの人々をめぐる課題のはじまりであると思われる。

  • ニュース、報道、メディア・・・

     活字中毒・・・というわけでもないが、いつも手元に何かしら読み物がないと落ち着かない。小説でもノンフィクションでもいいのだが。加えて日々の出来事に目を通さないと何だかスッキリしない。日常の暮らしの中でも旅行先でも目覚めてから一番にすることといえば、新聞を広げながら朝食を取ること。 

    朝起きてすぐに手に入らなければ、近くのマーケットに散歩がてら出かけて新聞売りを見つける。あるいは早い時間帯から鉄道、バスその他で移動する際には、駅やバススタンドで、まず最初に買うのはスナック類ではなく新聞だ。                                                                                                          

    全国規模のメディアで広大なインドの政治、社会、経済等の様々なニュースを目にするとともに、ローカルな新聞も押さえておきたい。広域紙には出ない地元の出来事がいろいろ掲載されているので、数日間読み続けると今そこで話題になっているらしいことについておおよそ検討がつくようになってくる。 

    往々にして退屈な記事が多いことも事実だが、例えばモンスーン期に激しい雨が降り続いているときにヒマーラヤ地方を旅行する際、あるいは付近で洪水その他の天変地異が起きている場合など、参考になることはとても多い。 

    また政治関係も同様だ。アッサム等の北東州を訪れた際には、ULFA (United Liberation Front of Asom)やNNC(Naga National Council)をはじめとする各地の分離活動を行う組織にかかわる記事をいろいろ目にすることができて興味深いものがあった。北東州関係については、コールカーターあたりであっても、地理的に北東州に近いこともあり、そのあたりに関するニュースはその他の地域よりも格段に豊富だ。 

    南インド、とりわけタミルナードゥやケーララあたりでは、新聞をはじめとするヒンディーによる印刷物はほとんど見当たらないものの、都市圏以外でも英字紙が豊富なのはありがたい。だいぶ前のことになるが、2005年12月のスマトラ沖地震による津波災害の際にちょうど南インドの沿岸部にいたため、いろいろ参考になった。 

    各地でメディアの活動が盛んであることは言うまでもないが、報道の自由度が高く周辺各国とは大きな開きがある。人々の『知る権利』が尊重されているからこそ『読むに値する新聞』が豊富であることはありがたい。 

    もちろん新聞といっても様々なので、報道の質についてはいろいろあり、それは報じる側、読み手側の双方のスタンス、加えてこう言っては大変失礼かと思うが、それらの質の問題もあることは否定できないのだが。もちろんそれこれは読み手自身がメディアを選択すればいい。 

    報道の自由は必ずしも手放しで称賛できるものとは限らず、報道機関とて大きな資本によるいわば『営利事業』であるがゆえに、ニュースの『売り手』の事情が紙面に現れることがあってもおかしくない。また近年の民間放送局による視聴率を意識してのセンセーショナルな報道(興味本位の犯罪特集番組、ヤラセや捏造ニュース)や視聴者からの携帯電話のSMSによる人気投票的なマーケティング手法等、ちょっと良識を疑いたくなる面も否定できない。 

    これを玉石混淆とまで言うつもりはないが、そうした様々なソースから流れるニュースを人々が個々の意志と良識で取捨選択できる状況は健全であると私は思う。 

    ともかく新聞をはじめとするメディアにより、人々は国、地域や社会の動きを知り、自身の頭でそれを理解する。私たち外国人も同様にそれにあずかることができる。これはとても大切なことだ。ミャンマーや中国のようにメディアやネット環境にも大きな制約のある国々と比べるのは極端に過ぎるかもしれないが、インドという世界最大の民主主義システムの根幹にあるのは、活発で自由度がとても高い報道の存在であるといって間違いないだろう。 

    政府により、報道に関する制約が厳格な国々以外に、現地のアンダーワールドな部分からの圧力により、メディア自身が事前に『自己検閲』をしてしまう国もある。たとえばメキシコのように政府と拮抗する勢力である麻薬カルテルによる報復への恐れから、これらの組織に関する分野は報じられないようになっているようだ。既存のメディアでは伝えられない『空白地帯』を一人の匿名の大学生(・・・ということになっている)によるBLOG DEL NARCOというブログが情報を流しているという状況は決して肯定できるものではないだろう。 

    ブログ運営者のもとに、多数の発信者たちから連日大量の情報が写真や動画とともに届けられ、これらを編集したり裏を取ったりすることなく、そのまま掲載しているとのことだ。血なまぐさい内容が大半で、凄惨な画像も含まれている。 

    すべてスペイン語で書かれているが、ブラウザにGoogleツールバーがインストールしてあれば、日本語に自動翻訳したものを読むことができる。いささかぎこちない和文となるものの、おおよその内容を掴むことはできるだろう。 

    もちろんインドを含めた各国のメディアにおいても、報道する側の身の安全という点から世の中に伝えることが難しい事柄は存在するであろうことは否定できないし、もちろん日本もその例外ではないのだが、こうした出所のよくわからないソースによる情報を日々綴ったブログが、本来それらを伝えるべき報道機関に取って代わってしまうという状況はとても危うい。 

    話はインドに戻る。

    報道の本質にかかわる事柄ではないのだが、インドの外にある国々からしてみると、現地の各メディアによる各分野における英語によるニュース配信を大量に入手できることについても大きなメリットがある。とりわけインターネットが普及してからは、その感がさらに強まっている。 

    全国ニュースからかなりローカルなものまで、各地のメディアによる立ち位置の異なるソースから手に入れることができるという点で、とりわけ非英語圏の国々に比べて非常に『オープンソースな国』という印象を与えることだろう。 

    世にいう『グローバル化』とともにインターネットによる情報通信の普及と進化の過程の中で、これまで以上に英語が突出した存在感を示すようになっていることから『英語支配』の趨勢に対して主に非英語圏から危惧する声が上がっているが、インド自身はその英語による豊富な情報発信量から得ているメリットについては計り知れないものがあると思われる。 

    もちろん英語による情報のみでインドという国を理解できるとは思えないし、カバーされる範囲にも限界がある。それでも英語という広く普遍性を持つ言語によるソースが非常に豊富であるという点から、私たち外国人にとっても非常に利するものは大きいといえるだろう。報道の自由度の高さと合わせて、インドのメディアは自国内のみならず国外に対しても、非常に公益性が高いとも言えるのではないだろうか。

  • バングラデシュ祭 2010

    10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

    上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

    在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

    後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

    どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

    日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • 憎悪の連鎖

    世界を震撼させたアメリカの同時多発テロから9年になる。不幸にも被害に遭われた方々やその遺族の方々は言うまでもなく、『9/11』がその他の私たちに与えたインパクトは大きかった。まさにあの時を境に『世界は変わった』と言えるだろう。 

    被害者といえば、また事件直後のアメリカでは、外見から中東あるいは南アジア系と見られる人々に対する襲撃事件が相次ぎ命を落とした例も少なくないし、事件後アメリカが取り巻きの国々とともに直ちに取った『テロとの闘い』の名の元に展開させた報復行動により、この世から葬り去られたアフガニスタンとイラクというふたつの国(の政権)とそれと命運を共にした当時の体制側の人々やその巻き添えになった無辜の一般市民たちも同様だ。 

    サッダーム・フセイン政権が崩壊直後、それまで厳しく社会を律してきた治安機構そのものが不在となったイラクでは、それまでこの国で長らく弾圧の対象となっていた思想や信条を抱く集団が大挙して周辺国・地域から流入して、強力なリーダーシップで国を率いてきた独裁者のいなくなった『新天地』に地歩を固めることとなり、イラクの社会に混乱と暴力を、人々に怖れと生命への不安をもたらすこととなった。 

    アメリカは『イラクに民主主義をもたらした』と言う。確かに野心と才覚を持ち合わせた個人が策略を弄して上へ上へとのし上がることのできる自由は与えられたかもしれない。だがそれよりもずっと沢山の人々が、上昇しようにも見えない天井があるものの、彼らの社会に課せられた規範を踏み外さない限りは、生命や財産の心配をすることなく日々安心して暮らしていくことのできる社会とどちらが大切だろうか。 

    ご存知のとおり、イラクは確認されている原油埋蔵量は、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の1,120億バレル。しかも埋蔵量の9割は未開発であるとされ、本来ならば非常に豊かな国である。人口およそ3,000万人のイラクでは豊富な石油関係の収入を背景に、1990年8月2日に起きたイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸危機とこれに続く国連による経済制裁や湾岸戦争以前には、それなりに豊かで安定した市民生活が営まれていた。市民や外国人が過激派に誘拐されて殺害されるようなことなど想像もつかない、極めて良好な治安が保たれてもいた。 

    『9/11』やその後の一連の動きの中で被害に遭った人々たちの住む地域や社会的な背景は様々であり、思想や信条による色分けはない。たまたま犯人たちが特定の宗教を信仰することになっている人々であった。だがその事件とこれに対する報復劇の最中には、関連地域に生活するキリスト教徒であれ、イスラーム教徒であれ、あるいはユダヤ教徒も大きな被害を受けてきた。事件そのものが政治化されたがゆえの未曾有の『災害』だ。 

    この災害はイラクに先立ち、1978年以来続いてきた内戦の復興からほど遠いアフガニスタンをも呑み込んでしまった。こうした『政治的災害』は、今なおそのエネルギーは衰えることなく、地殻のすぐ下で不気味な響きを立てているその奔流は今後どこへと向かうことになるのか。 

    こうした災害をもたらした『政治屋』たちの謀略をよそに、アメリカで『未知なる人々への憎悪』という市民の間からも火の手が上がりつつあることについては、これまでとはまた違った注意が必要なのではないかと思う。 

    あるキリスト教系の団体が、今年の9月11日をイスラーム教の聖典であるクラーンを集めて、これらの焚書を実行すると宣言している。 

    9月11日にコーラン焼却集会を計画 フロリダの教会 (CNN.co.jp)

    彼らは嫌イスラームの姿勢で広く知られており、同教団のウェブサイトでは、反イスラームのメッセージを伝えるTシャツや書籍の販売も行なっている。 同サイトには、この教団による『クラーンを燃やす10の理由』『クラーンを燃やすあと5つの理由』といった主張も書かれている。 

    他者に対するこれほどの過激な姿勢については、まさに『カルト』と表現するほかなく、彼らの主張がアメリカや他国の大衆や世論をどれほど感化するのかといえば、その影響力はごくわずかなものであると信じたい。それでもイスラーム社会全体を敵とみなすこうした団体の存在は大変センセーショナルであることから、メディアによる取材・報道の格好の材料となる。ゆえに国内外に与える社会的なインパクトは大きい。 

    彼らの行動は、イスラーム原理主義過激派により反米感情を煽る格好の材料として使われる。イスラーム社会に暮らす大衆の間で『反米・反キリスト教』感情をかきたて、彼らの側でも『未知なる人々への憎悪』の炎を燃え上がらせることになる。今後もアメリカ政府機関や多くの罪なきアメリカ国籍の一般人たちがテロや誘拐といった暴力行為の標的となる理由づけに利用されることは想像に難くない。多くは直接出会ったこともないし、声を交わしたこともない未だ見ぬ人々同士の間での憎悪の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのだろうか。 

    交通や通信手段の発達により、世界は狭くなったとはよく言われることだが、地域・信条・思想を越えての人々の距離はそう簡単には狭まることないようだ。むしろコミュニケーション手段の進化とともに、疑いや憎悪といったネガテイヴな感情がいとも簡単に国境を越えて人々の間でこれまでにない速度で伝わることが可能となっていることについて、大きな不安を抱かずにはいられない。

  • 受難の地

    5年ほど前に、『デリーの古城で』と題して、第二次大戦中に当時は英領であった各地に在住していた日本の民間人たちがインドまで連行されたうえで抑留生活を送ったことについて書かれた以下の書籍について取り上げてみた。 

    書名:インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった

    著者:峰 敏朗

    出版社:朝日ソノラマ

    ISBN-13: 978-4257034384   

    収容施設は当初デリーのプラーナー・キラーにあり、後にラージャスターンのデーウリーに移されている。

    今年8月中旬、産経新聞のウェブサイトにて、当事の日本人抑留にかかわる次の記事を見かけた。ここで取り上げられている『収容所』とは、ラージャスターンのデーウリーのことである。

    「憎めない人たちだった」インド西部の日本人収容所を訪ねて (産経ニュース)

    インドにおける日本の民間人抑留の事実については以下のウェブサイトをご覧いただきたい。

    インドに抑留された日本人民間抑留者 (日本の現代史と戦争責任についてのホームページ)

    また以下のサイトならびにPDFファイルにも関連する記述がある。

    インド抑留中の川内先生の記憶 (川内光治先生の記憶)

    シンガポールにおける日本人社会と学校教育の歴史(福岡大学研究推進部)

    『日本人被収容者』の中には、日本人たちが居住していたマレー半島などで結婚した現地の人々で日本国籍を取得していたケースも含まれる。また当時日本の支配下にあった台湾や韓半島の人々も少なからず含まれていることについて、当事の世の中を考えるうえで留意が必要だ。

    またデーウリーの収容所は、日本人被抑留者たちが去った後、インドがイギリスから独立を得た後も『活用』されている。1962年の中印紛争により、中国とインドの敵対関係が鮮明になった時代である。

    最盛期には華人人口2万人を擁したコールカーターを中心にインド全国で5万人もの華人が暮らしていたとされるが、これにともない『敵国人』として逮捕状もなしに拘束されて収容所送りになった人は少なくない。

    祖国とインドの関係の険悪化による不安、インド政府や国民による華人への敵対姿勢等により、経済活動や市民生活への支障をきたすことから、その後多くの華人たちが海外に新天地を求めることとなった。

    冒頭で取り上げた産経ニュースの中にあるとおり、現在この施設は国や公共の重要施設等の警備を担当するCISF (Central Industrial Security Force)の訓練施設となっているため、ここを一般人が見学することはできないが、日印交流史の中でそういう厳しい時代もあったということは、今の時代を生きる私たちも記憶しておくべきだろう。

  • 奪われてきた婿

    しばらく前の話である。インディア・トゥデイ誌4月7日号のある記事に目が止まった。ビハール州で、身代金目的ではない誘拐が頻発しているのだという。目的は略奪婚・・・といっても、さらわれて来るのは女性ではなく男性。まだ幼い娘の結婚相手を獲得するために、少年がさらわれて来るのだという。
    同誌ウェブサイトには、英語版にて同じ内容のものが掲載されている。
    Bihar’s shotgun weddings (India Today)
    同記事によると、ビハール州では伝統的に上層カーストの間で略奪婚は珍しくなかったそうだ。しかしその他の層でも、近年は娘を結婚させる際のダウリーの負担が大きくなってきていることが、外出中の男の子を銃器などで脅しての略奪婚が発生する背景にあるとのこと。
    記事中にあるラームプルという土地では、90%の結婚はこうした手段によるものであり、地域の人々の多くはこうしたやりかたについて肯定的であり、婚礼を取り仕切る司祭も協力的であり、関係者たちも様子をビデオに収めるなどの証拠作りが行なわれるというから、地域社会ぐるみで行なわれているようだ。
    2009年、ビハール州では届出のあっただけでも3,124件の誘拐事件が発生し、そのうち1,336件は略奪婚目的であったという。
    今年に入ってからは、1月に限ってみれば、224件の誘拐事件中、87件はこうした理由によるものであり、それに較べて身代金目的のものはわずか8件であったというから、いかに結婚というテーマが誘拐を引き起こす動機として大きなものであるかということが窺われる。
    ビハール州でこうしたケースが多発しているとはいえ、2007年にインド全国で発生した27,561件の誘拐事件のうち、47%は結婚目的であったとのことで、略奪婚自体は州外にも広く分布しているようだ。
    ただしその中で男子の誘拐は5,174件であったということである。つまり嫁よりも婿獲得のために誘拐するケースのほうが多いということが、ビハール州における略奪婚の特徴となるとのことで、ダウリーに起因する殺人事件が発生する割合が全国平均の倍という事情を反映しているらしい。
    もちろん圧倒的多数の家庭では、ごく平和裏に結婚という人生の通過儀礼が行なわれており、ショッキングなニュースとして報道されている略奪婚は総体として見れば、ごくごく例外的なものである。両家が合意のうえで取り行なわれた婚礼であっても、結婚した当人たちにとっては非常に不本意なもので、心情的には略奪婚同様に強制されたものであるというようなケースも決して珍しくはないとしても。
    略奪婚というきっかけはさておき、多くはその後子供をもうけて新たな家庭を築くことになるわけだが、強制的に婿入りさせられた男子の立場は、その家庭内でどういうものになるのだろうか。
    農村部であることから、都会の核家族暮らしのように、親類縁者との関係が希薄な生活ではない。嫁側の父母その他目上の『親類縁者』たちに対して日常的に従属する立場になるのは、婿入りした場合どこも共通であるとしても、同年代の『身内』との関係でも、少なくとも『婿入り』当初は一段下に置かれると考えるのが自然で、相当器用に立ち回ることが求められることだろう。
    スペースの都合もあろうが、記事は略奪婚という手段のみに焦点が当てられており、その後の家庭生活や周囲の人々との関係についての記述はなかった。
    決して略奪婚を肯定するわけではないが、通常の結婚できっかけが恋愛であれ、見合いや親が決めたもの(国や社会によっては非常に大掛かりで経済的な負担が非常に大きなものであったとしても)であったとしても、婚礼という通過儀礼を行なうことよりも、縁あって結ばれた相手との結婚生活を長年続けていくことのほうが、より多くの努力や忍耐を必要とするものだ。
    夫婦間の仲がどうこうというものではなく、生まれながらの親兄弟姉妹と違い、もともと他人であった相手である。ゆえに、ひとつ屋根の下で暮らしていくには、相応の歩み寄りと寛容さが求められる。
    極めて野次馬的な関心かもしれないが、略奪婚によって始まった新しい家庭が年月を経ての『その後』が気になる。

  • ダーラーヴィー 5

    ダーラーヴィーのツアーで訪れた場所では、想像していたとおりの風景があった。例えばgoogleの画像検索でキーワードを『Dharavi』と入れると出てくる画像に見られるような景観などはその典型だろう。
    だが同時に、やはりここは地理的な条件からやむなく都会の真ん中にみすぼらしい姿で出現せざるを得なかった『郊外』という部分もあるのかもしれないという思いも強くした。
    ムンバイーといえば、インド有数の大都会であり、様々な就業機会を、より高い賃金とともに人々に提供する街だ。その魅力に惹かれてやってくる人たちは、同時に世界でも指折りの不動産価格の高い都市であるという現実にも直面しなくてはならない。そうした就業機会と住宅難が衝突した結果、落ち着いた先はこのスラム、ということもあるのではなかろうか。
    同時に、亜大陸随一の商都では、そこから生じる廃棄物の処理を行なったり、リサイクルできるものは再生したりといった事柄を含めた社会的ニーズを満たす機能を必要としている。それらの活動はもとより、その他様々な産業、社会的サービスに従事する相応の労働人口も欠かすことはできない。
    そこにきて、ダーラーヴィー?で述べたとおり、『ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たない』というボトルネックがある。それがゆえに、今のムンバイーで一等地となり得るロケーションでありながらも、かつては漁村が点在するだけで、低湿地帯であったことに由来する排水の悪さ等から正式に開発されることなく、スラムとして『発展』するままに放置されてきた。そのダーラーヴィーが、結果的に『郊外としての機能』を担うことになっているとしても決して不思議ではないだろう。
    ここから先は、あくまでも私の想像に過ぎないが、ダーラーヴィーの再開発がこれまで幾度も頓挫してきたことの理由のひとつに、ダーラーヴィーに代わってこの都市の『郊外機能』を担うことができるエリアが見つからないという点もあるのではないかとも思うのだ。
    このスラムを訪れるツアーには参加したが、それでこの地域のことが判るなどとはもちろん思わない。そこに居住しているわけではないし、日常的に出入りしているわけでもない。案内人とともに、ただ数時間歩いてみただけで理解できることなどタカが知れている。
    そもそも4時間半のツアーで、行き帰りにかかる時間、加えてカーマーティプラー、ドービーガートなど他の見学先での時間を差し引くと、ダーラーヴィーを見学したのは正味3時間くらいでしかなかった。
    NGOをも運営する組織の収益部門としての旅行会社が、『参加者に見せたい部分』をピックアップしていることも了解しなくてはならない。当然のことながら、彼らが安全面での確信が持て、かつ人々が懸命に働いている現場で外国人を見物させるだけの顔が効くエリアということになる。
    しかしながら、そういう部分を差し引いてみても、いろいろ思うところはある。確かに人口密度がやたらと高く、職住環境は劣悪であることは間違いないにしても、訪れた範囲では意外にごく普通の人々が働いており、これまたごく普通の暮らしがあり、スラムの外の世界と同じくごく普遍的な空間があることはわかった。最初は、何か仕込みでも用意されているのかと思ったくらいだ。忙しい雑踏の中で、物乞いの姿を見かけないのもちょっと意外であった。
    このツアーは、参加希望者があれば毎日催しているとのことだが、ガイドによれば休日には作業場の大半が閉まっているため、日曜日や祝日は避けたほうが良いとのことである。
    行きの車内やツアーの行程中は、ガイドの説明に対して、私を含めて様々な質問を投げかけていた参加者たちだったが、帰りはそれとは打って変わって、静まり返っている。各自ダーラーヴィーで見たものを各々反芻しているかのようである。
    このツアーで何か判ったわけではないが、これまで以上にこの地域に関心を抱くきっかけにはなりそうだ。今後、ダーラーヴィーに関わる報道や書籍などを見かけたら、マメにチェックしていくことにしたいと思う。

    <完>