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カテゴリー: society

  • バングラデシュ祭 2010

    10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

    上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

    在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

    後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

    どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

    日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • 憎悪の連鎖

    世界を震撼させたアメリカの同時多発テロから9年になる。不幸にも被害に遭われた方々やその遺族の方々は言うまでもなく、『9/11』がその他の私たちに与えたインパクトは大きかった。まさにあの時を境に『世界は変わった』と言えるだろう。 

    被害者といえば、また事件直後のアメリカでは、外見から中東あるいは南アジア系と見られる人々に対する襲撃事件が相次ぎ命を落とした例も少なくないし、事件後アメリカが取り巻きの国々とともに直ちに取った『テロとの闘い』の名の元に展開させた報復行動により、この世から葬り去られたアフガニスタンとイラクというふたつの国(の政権)とそれと命運を共にした当時の体制側の人々やその巻き添えになった無辜の一般市民たちも同様だ。 

    サッダーム・フセイン政権が崩壊直後、それまで厳しく社会を律してきた治安機構そのものが不在となったイラクでは、それまでこの国で長らく弾圧の対象となっていた思想や信条を抱く集団が大挙して周辺国・地域から流入して、強力なリーダーシップで国を率いてきた独裁者のいなくなった『新天地』に地歩を固めることとなり、イラクの社会に混乱と暴力を、人々に怖れと生命への不安をもたらすこととなった。 

    アメリカは『イラクに民主主義をもたらした』と言う。確かに野心と才覚を持ち合わせた個人が策略を弄して上へ上へとのし上がることのできる自由は与えられたかもしれない。だがそれよりもずっと沢山の人々が、上昇しようにも見えない天井があるものの、彼らの社会に課せられた規範を踏み外さない限りは、生命や財産の心配をすることなく日々安心して暮らしていくことのできる社会とどちらが大切だろうか。 

    ご存知のとおり、イラクは確認されている原油埋蔵量は、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の1,120億バレル。しかも埋蔵量の9割は未開発であるとされ、本来ならば非常に豊かな国である。人口およそ3,000万人のイラクでは豊富な石油関係の収入を背景に、1990年8月2日に起きたイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸危機とこれに続く国連による経済制裁や湾岸戦争以前には、それなりに豊かで安定した市民生活が営まれていた。市民や外国人が過激派に誘拐されて殺害されるようなことなど想像もつかない、極めて良好な治安が保たれてもいた。 

    『9/11』やその後の一連の動きの中で被害に遭った人々たちの住む地域や社会的な背景は様々であり、思想や信条による色分けはない。たまたま犯人たちが特定の宗教を信仰することになっている人々であった。だがその事件とこれに対する報復劇の最中には、関連地域に生活するキリスト教徒であれ、イスラーム教徒であれ、あるいはユダヤ教徒も大きな被害を受けてきた。事件そのものが政治化されたがゆえの未曾有の『災害』だ。 

    この災害はイラクに先立ち、1978年以来続いてきた内戦の復興からほど遠いアフガニスタンをも呑み込んでしまった。こうした『政治的災害』は、今なおそのエネルギーは衰えることなく、地殻のすぐ下で不気味な響きを立てているその奔流は今後どこへと向かうことになるのか。 

    こうした災害をもたらした『政治屋』たちの謀略をよそに、アメリカで『未知なる人々への憎悪』という市民の間からも火の手が上がりつつあることについては、これまでとはまた違った注意が必要なのではないかと思う。 

    あるキリスト教系の団体が、今年の9月11日をイスラーム教の聖典であるクラーンを集めて、これらの焚書を実行すると宣言している。 

    9月11日にコーラン焼却集会を計画 フロリダの教会 (CNN.co.jp)

    彼らは嫌イスラームの姿勢で広く知られており、同教団のウェブサイトでは、反イスラームのメッセージを伝えるTシャツや書籍の販売も行なっている。 同サイトには、この教団による『クラーンを燃やす10の理由』『クラーンを燃やすあと5つの理由』といった主張も書かれている。 

    他者に対するこれほどの過激な姿勢については、まさに『カルト』と表現するほかなく、彼らの主張がアメリカや他国の大衆や世論をどれほど感化するのかといえば、その影響力はごくわずかなものであると信じたい。それでもイスラーム社会全体を敵とみなすこうした団体の存在は大変センセーショナルであることから、メディアによる取材・報道の格好の材料となる。ゆえに国内外に与える社会的なインパクトは大きい。 

    彼らの行動は、イスラーム原理主義過激派により反米感情を煽る格好の材料として使われる。イスラーム社会に暮らす大衆の間で『反米・反キリスト教』感情をかきたて、彼らの側でも『未知なる人々への憎悪』の炎を燃え上がらせることになる。今後もアメリカ政府機関や多くの罪なきアメリカ国籍の一般人たちがテロや誘拐といった暴力行為の標的となる理由づけに利用されることは想像に難くない。多くは直接出会ったこともないし、声を交わしたこともない未だ見ぬ人々同士の間での憎悪の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのだろうか。 

    交通や通信手段の発達により、世界は狭くなったとはよく言われることだが、地域・信条・思想を越えての人々の距離はそう簡単には狭まることないようだ。むしろコミュニケーション手段の進化とともに、疑いや憎悪といったネガテイヴな感情がいとも簡単に国境を越えて人々の間でこれまでにない速度で伝わることが可能となっていることについて、大きな不安を抱かずにはいられない。

  • 受難の地

    5年ほど前に、『デリーの古城で』と題して、第二次大戦中に当時は英領であった各地に在住していた日本の民間人たちがインドまで連行されたうえで抑留生活を送ったことについて書かれた以下の書籍について取り上げてみた。 

    書名:インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった

    著者:峰 敏朗

    出版社:朝日ソノラマ

    ISBN-13: 978-4257034384   

    収容施設は当初デリーのプラーナー・キラーにあり、後にラージャスターンのデーウリーに移されている。

    今年8月中旬、産経新聞のウェブサイトにて、当事の日本人抑留にかかわる次の記事を見かけた。ここで取り上げられている『収容所』とは、ラージャスターンのデーウリーのことである。

    「憎めない人たちだった」インド西部の日本人収容所を訪ねて (産経ニュース)

    インドにおける日本の民間人抑留の事実については以下のウェブサイトをご覧いただきたい。

    インドに抑留された日本人民間抑留者 (日本の現代史と戦争責任についてのホームページ)

    また以下のサイトならびにPDFファイルにも関連する記述がある。

    インド抑留中の川内先生の記憶 (川内光治先生の記憶)

    シンガポールにおける日本人社会と学校教育の歴史(福岡大学研究推進部)

    『日本人被収容者』の中には、日本人たちが居住していたマレー半島などで結婚した現地の人々で日本国籍を取得していたケースも含まれる。また当時日本の支配下にあった台湾や韓半島の人々も少なからず含まれていることについて、当事の世の中を考えるうえで留意が必要だ。

    またデーウリーの収容所は、日本人被抑留者たちが去った後、インドがイギリスから独立を得た後も『活用』されている。1962年の中印紛争により、中国とインドの敵対関係が鮮明になった時代である。

    最盛期には華人人口2万人を擁したコールカーターを中心にインド全国で5万人もの華人が暮らしていたとされるが、これにともない『敵国人』として逮捕状もなしに拘束されて収容所送りになった人は少なくない。

    祖国とインドの関係の険悪化による不安、インド政府や国民による華人への敵対姿勢等により、経済活動や市民生活への支障をきたすことから、その後多くの華人たちが海外に新天地を求めることとなった。

    冒頭で取り上げた産経ニュースの中にあるとおり、現在この施設は国や公共の重要施設等の警備を担当するCISF (Central Industrial Security Force)の訓練施設となっているため、ここを一般人が見学することはできないが、日印交流史の中でそういう厳しい時代もあったということは、今の時代を生きる私たちも記憶しておくべきだろう。

  • 奪われてきた婿

    しばらく前の話である。インディア・トゥデイ誌4月7日号のある記事に目が止まった。ビハール州で、身代金目的ではない誘拐が頻発しているのだという。目的は略奪婚・・・といっても、さらわれて来るのは女性ではなく男性。まだ幼い娘の結婚相手を獲得するために、少年がさらわれて来るのだという。
    同誌ウェブサイトには、英語版にて同じ内容のものが掲載されている。
    Bihar’s shotgun weddings (India Today)
    同記事によると、ビハール州では伝統的に上層カーストの間で略奪婚は珍しくなかったそうだ。しかしその他の層でも、近年は娘を結婚させる際のダウリーの負担が大きくなってきていることが、外出中の男の子を銃器などで脅しての略奪婚が発生する背景にあるとのこと。
    記事中にあるラームプルという土地では、90%の結婚はこうした手段によるものであり、地域の人々の多くはこうしたやりかたについて肯定的であり、婚礼を取り仕切る司祭も協力的であり、関係者たちも様子をビデオに収めるなどの証拠作りが行なわれるというから、地域社会ぐるみで行なわれているようだ。
    2009年、ビハール州では届出のあっただけでも3,124件の誘拐事件が発生し、そのうち1,336件は略奪婚目的であったという。
    今年に入ってからは、1月に限ってみれば、224件の誘拐事件中、87件はこうした理由によるものであり、それに較べて身代金目的のものはわずか8件であったというから、いかに結婚というテーマが誘拐を引き起こす動機として大きなものであるかということが窺われる。
    ビハール州でこうしたケースが多発しているとはいえ、2007年にインド全国で発生した27,561件の誘拐事件のうち、47%は結婚目的であったとのことで、略奪婚自体は州外にも広く分布しているようだ。
    ただしその中で男子の誘拐は5,174件であったということである。つまり嫁よりも婿獲得のために誘拐するケースのほうが多いということが、ビハール州における略奪婚の特徴となるとのことで、ダウリーに起因する殺人事件が発生する割合が全国平均の倍という事情を反映しているらしい。
    もちろん圧倒的多数の家庭では、ごく平和裏に結婚という人生の通過儀礼が行なわれており、ショッキングなニュースとして報道されている略奪婚は総体として見れば、ごくごく例外的なものである。両家が合意のうえで取り行なわれた婚礼であっても、結婚した当人たちにとっては非常に不本意なもので、心情的には略奪婚同様に強制されたものであるというようなケースも決して珍しくはないとしても。
    略奪婚というきっかけはさておき、多くはその後子供をもうけて新たな家庭を築くことになるわけだが、強制的に婿入りさせられた男子の立場は、その家庭内でどういうものになるのだろうか。
    農村部であることから、都会の核家族暮らしのように、親類縁者との関係が希薄な生活ではない。嫁側の父母その他目上の『親類縁者』たちに対して日常的に従属する立場になるのは、婿入りした場合どこも共通であるとしても、同年代の『身内』との関係でも、少なくとも『婿入り』当初は一段下に置かれると考えるのが自然で、相当器用に立ち回ることが求められることだろう。
    スペースの都合もあろうが、記事は略奪婚という手段のみに焦点が当てられており、その後の家庭生活や周囲の人々との関係についての記述はなかった。
    決して略奪婚を肯定するわけではないが、通常の結婚できっかけが恋愛であれ、見合いや親が決めたもの(国や社会によっては非常に大掛かりで経済的な負担が非常に大きなものであったとしても)であったとしても、婚礼という通過儀礼を行なうことよりも、縁あって結ばれた相手との結婚生活を長年続けていくことのほうが、より多くの努力や忍耐を必要とするものだ。
    夫婦間の仲がどうこうというものではなく、生まれながらの親兄弟姉妹と違い、もともと他人であった相手である。ゆえに、ひとつ屋根の下で暮らしていくには、相応の歩み寄りと寛容さが求められる。
    極めて野次馬的な関心かもしれないが、略奪婚によって始まった新しい家庭が年月を経ての『その後』が気になる。

  • ダーラーヴィー 5

    ダーラーヴィーのツアーで訪れた場所では、想像していたとおりの風景があった。例えばgoogleの画像検索でキーワードを『Dharavi』と入れると出てくる画像に見られるような景観などはその典型だろう。
    だが同時に、やはりここは地理的な条件からやむなく都会の真ん中にみすぼらしい姿で出現せざるを得なかった『郊外』という部分もあるのかもしれないという思いも強くした。
    ムンバイーといえば、インド有数の大都会であり、様々な就業機会を、より高い賃金とともに人々に提供する街だ。その魅力に惹かれてやってくる人たちは、同時に世界でも指折りの不動産価格の高い都市であるという現実にも直面しなくてはならない。そうした就業機会と住宅難が衝突した結果、落ち着いた先はこのスラム、ということもあるのではなかろうか。
    同時に、亜大陸随一の商都では、そこから生じる廃棄物の処理を行なったり、リサイクルできるものは再生したりといった事柄を含めた社会的ニーズを満たす機能を必要としている。それらの活動はもとより、その他様々な産業、社会的サービスに従事する相応の労働人口も欠かすことはできない。
    そこにきて、ダーラーヴィー?で述べたとおり、『ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たない』というボトルネックがある。それがゆえに、今のムンバイーで一等地となり得るロケーションでありながらも、かつては漁村が点在するだけで、低湿地帯であったことに由来する排水の悪さ等から正式に開発されることなく、スラムとして『発展』するままに放置されてきた。そのダーラーヴィーが、結果的に『郊外としての機能』を担うことになっているとしても決して不思議ではないだろう。
    ここから先は、あくまでも私の想像に過ぎないが、ダーラーヴィーの再開発がこれまで幾度も頓挫してきたことの理由のひとつに、ダーラーヴィーに代わってこの都市の『郊外機能』を担うことができるエリアが見つからないという点もあるのではないかとも思うのだ。
    このスラムを訪れるツアーには参加したが、それでこの地域のことが判るなどとはもちろん思わない。そこに居住しているわけではないし、日常的に出入りしているわけでもない。案内人とともに、ただ数時間歩いてみただけで理解できることなどタカが知れている。
    そもそも4時間半のツアーで、行き帰りにかかる時間、加えてカーマーティプラー、ドービーガートなど他の見学先での時間を差し引くと、ダーラーヴィーを見学したのは正味3時間くらいでしかなかった。
    NGOをも運営する組織の収益部門としての旅行会社が、『参加者に見せたい部分』をピックアップしていることも了解しなくてはならない。当然のことながら、彼らが安全面での確信が持て、かつ人々が懸命に働いている現場で外国人を見物させるだけの顔が効くエリアということになる。
    しかしながら、そういう部分を差し引いてみても、いろいろ思うところはある。確かに人口密度がやたらと高く、職住環境は劣悪であることは間違いないにしても、訪れた範囲では意外にごく普通の人々が働いており、これまたごく普通の暮らしがあり、スラムの外の世界と同じくごく普遍的な空間があることはわかった。最初は、何か仕込みでも用意されているのかと思ったくらいだ。忙しい雑踏の中で、物乞いの姿を見かけないのもちょっと意外であった。
    このツアーは、参加希望者があれば毎日催しているとのことだが、ガイドによれば休日には作業場の大半が閉まっているため、日曜日や祝日は避けたほうが良いとのことである。
    行きの車内やツアーの行程中は、ガイドの説明に対して、私を含めて様々な質問を投げかけていた参加者たちだったが、帰りはそれとは打って変わって、静まり返っている。各自ダーラーヴィーで見たものを各々反芻しているかのようである。
    このツアーで何か判ったわけではないが、これまで以上にこの地域に関心を抱くきっかけにはなりそうだ。今後、ダーラーヴィーに関わる報道や書籍などを見かけたら、マメにチェックしていくことにしたいと思う。

    <完>

  • ダーラーヴィー 4

    このツアーをオーガナイズしている旅行会社と対で運営されているNGOが設立した小学校を訪れる。授業が進行中であった。近ごろでは、スラムでも教育の大切さを理解する人たちが増えていて、かなり無理をしても子供を学校になんとか通わせよう、より高い学歴を与えようと頑張る傾向があるとのこと。
    他のより恵まれた家庭の子供たちに較べてハードルは高いものの、ダーラーヴィー出身で苦学しながら高等教育を受けて、弁護士になった人、医者になった人は少なからずあるといい、公務員やその他のホワイトカラーの職を得ることは決して珍しいことではないとガイドは話す。
    学校を後にしてしばらく歩いて通りに出ると、そこはタミル人地区になっていた。南インド式のヒンドゥー寺院があり、看板や貼紙等も大半がタミル語だ。往々にしてデーヴァナガリでも併記されているのは本場(?)と異なるものの、人々の装いも景観も、タミルナードゥの田舎町のバーザールに来たかのような感じがしなくもない。
    この地区内のメインストリートのひとつであるようで、食堂も甘いもの屋もきちんとした構えの店が多く、大手銀行の支店も複数あるともに、マイクロクレジットの類の金融機関らしきものも見かけた。このあたりは居住地域にもなっているようで、裏手の路地を進むと、いくつもの開け放たれた扉から中の様子をチラリと目にするとができた。
    テレビ番組の音、子供たちが遊ぶ声、母親が息子を叱り付けている様子、近所に暮らす主婦たちが戸口で井戸端会議を開いていたり。さきほど見学した作業場とは裏腹に、どこの世帯も家の中はずいぶんきれいにしているようだ。狭いスペースに多人数暮らしているためであろう、家財道具や衣類などが山と積まれている様子も見かけたが。 ガイドの話だと、スラムからコールセンター、会社、役所などに通勤している人、あるいは家庭の使用人として働きに出ている人たちも少なくないという。
    そういう『住宅地』では、いったいどういう立場にある人なのかよくわからないが、パリッとした都会的な格好(そもそもダーラーヴィーは大都会の真っ只中に位置しているが・・・)で、ミドルクラス風のいでたちと雰囲気を漂わせる人の姿も見かけた。タミル人地区の端には、別の私立学校があった。立派な構えで、建物も新しい。イングリッシュ・ミディアムの学校だという。子供たちの制服姿を目にしていると、どこか裕福な家庭の子弟が通う学校であるかのような気がしてしまい、思わず目を疑う。
    この学校が面する公道を渡ったところは、グジャラーティーの陶工コミュニティの地区。目に付く看板や貼紙の大部分はグジャラーティーで書かれている。女性たちは、いかにもグジャラート人らしく、カラフルな装いをしている。陶工という社会通念上は、地位的の低いコミュティであるが、彼らグジャラーティーたちの住環境は、それまでに見た他のエリアよりも少し良好であるように見えた。
    グジャラート人陶工地区を後にしてしばらく歩くと、ツアー会社と運営母体を同じくするNGOによる幼稚園があった。インドの縮図であるかのように、様々なコミュニティの人々が混住ないしは集住するダーラーヴィーで、様々な異なる出自を持つ園児たちに対し、まずは英語とヒンディー語を自由に使いこなせるようにすることが狙いだそうだ。英語はもとより、ヒンディーについては、本人が住むコミュニティが非ヒンディー語圏のものであると、成長してからもうまくそれを使えないことが少なくないらしい。訪れたときには幼児たちの姿は目にしなかったが、スタッフたちが何やらミーティングを開いていた。
    再び公道に出て、最後の目的地コミュニティー・センターは、たった今訪れた幼稚園や陶工コミュニティがある一角から見て道路反対側。そのすぐ手前には、6階建ての真新しい総ガラス張りの見事な商業ビルがそびえている。まだ出来たばかりで、テナントは入居していないようだった。ガイドによれば、規模のごく小さなモールのようなものになるようだ。
    ここに買い物に来る人は、ダーラーヴィーの外からわざわざやってくることはないと思うので、スラムの住む『富裕層』が顧客となるのか?ボロボロの建物やバラックが延々と続いているものの、さきほどから時折こうした立派な建物を目にすると、本当にここがスラムなのか?と疑ってしまうくらいだ。
    その新築物件の背後にあるコミュニティー・センターは、このツアー会社と同一の運営母体によるNGOが運営している。成人のための英語学習コースとパソコン教室を実施している様子をしばし見学してから、この日のツアー代金の支払いを済ませる。あとはコラバまでクルマで送ってもらい、今朝集合した地点で解散である。

  • ムンバイー タクシー業界仰天

    拾ったタクシーの運転手がたまたまお喋りな人で『あなたどこの人?』と尋ねてくる。『Tokyoだ』と答えると、『トゥルキー(トルコ)の人かい。てっきり日本人かと思ったよ』などと言っているが、またどこかで会う人ではないので、こちらは特に否定しない。

    『あなたの田舎はどこだい?』と振ってみると、『ラクナウーの近く』との返事。『ラクナウーからどちらの方向かい?』『ゴーラクプルのほうに120キロくらいかなぁ』『じゃあファイザーバードのあたりだな』『おぉ、まさにそこさ!よく知ってるねぇ』なんていう話になった。

    かれこれムンバイーで運転手家業を始めて16年になること、数ヶ月前に数年ぶりに帰郷してみて楽しかったこと、ごくたまにしか会うことのできない子供たちが、父親不在でもしっかりと成長して、特に長男が学校で親の期待以上に頑張って良い成績を上げていることなど、いろいろ話してくれた。

    こうした人に限らず、ムンバイーのタクシーを運転しているのは、たいていU.P.かビハールの出身者たちだ。郷里に家族を置いて、懸命に稼いでは送金している人が多い。家は遠く離れているし、そう実入りのいい仕事ともいえないが、家族はそれをアテにして暮らしているため、一緒に生活したくてもそうしょっちゅう帰ることもできない。

    このほど地元マハーラーシュトラ政府は、そんなタクシー運転手たちが仰天する発表を行なった。
    Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)
    その内容とは『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』が必須条件になるとのこと。

    ヒンディーと近縁の関係にあるマラーティーを覚えることはヒンディー語圏の人たちには決して難しいことではない。ヒンディーと歴史的な兄弟関係にあるウルドゥー語を話すアジマール・カサーブ、2008年11月26日にこの街で起きた大規模なテロ事件犯人で唯一生け捕りとなり、現在ムンバイーの留置所に収監されている彼でさえも、周囲の人たちとの会話を通じ、すでに相当程度のマラーティーの語学力を身に付けていることは広く知られているとおりだ。

    ムンバイーのタクシー・ユニオンも『運転手たちはヒンディーに加えて、多くの者はマラーティーだって理解するし、英語の知識のある者だって少なくない。何を今さらそんなことを言い出すのか』と、即座にこれを非難する声明を出している。

    もっとも『マラーティー語学力を義務付ける』という動きはこれが初めてではなく、1995年の州議会選挙で、それまで国民会議派の確固たる地盤であったマハーラーシュトラ州に、マラーター民族主義政党のシヴ・セーナーが、BJPと手を組んで過半数を獲得することによって風穴を開けたときにも同様の主張がなされていたことがあった。

    そもそも義務としての『マラーティー語学力』それ以前の1989年から営業許可の条件のひとつにはなっていたようである。それが今回、これを厳格化するとともに、最低15年以上の州内での居住歴を加えて、州外からの運転手の数を制限し、地元の雇用を増やそうという動きである。タクシー運転手家業の大半が州外出身者で占められているのは、そもそも地元州民でその仕事をやりたがる人が少ないことの裏返しでもあるのだが。

    先述の90年代から伸張したシヴ・セーナーは、幹部のナーラーヤン・ラーネーが脱党して国民会議派に移籍、党創設者であるバール・タークレーの甥であるラージ・タークレーがこれまた脱退して新たな政党MNS(マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)という、本家シヴ・セーナーとはやや路線の違う地域民族主義政党を立ち上げた。

    そのため総体としての地域至上主義は、やや影が薄くなった感は否めないものの、このふたつの政党は、やはり今でも一定の存在感を示しているがゆえに、やはり今でもコングレスは安定感を欠く、というのが現状である。

    そうしたシヴ・セーナー/MNSの土俵に自ら乗り込み、ライバルの支持層を切り崩し、自らのより強固な基盤を築こうというのが、今回のタクシー運転手の語学力や在住歴に関しての動きということになるようだが、当然の如く、運転手たちの多くの出身地である北部州の政治家等からもこれを非難する声が上がっている。

    州首相アショーク・チャウハーンにとっては、そうした反応はすでに織り込み済みのようで、既存の営業許可に影響はなく、新規の給付についてのものであると発言するとともに、将来的にはタクシー車両へのAC、GPS、無線機器、電子メーターと領収書印刷装置等の搭載を義務付けることを示唆するなど、議論をすりかえるための隠し玉はいくつか用意しているようだ。

    これまでことあるごとに地域主義政党のターゲットとなってきた北部州出身タクシー運転手たちだが、それと対極にある国民会議派は彼らの力強い味方であるはずであったため、今回の動きについては、まさに『裏切られた』と感じていることだろう。

    たまたま街中で目立つ存在であるがゆえにスケープゴートになってしまうのだが、タクシー運転手に限らず、ムンバイーをはじめとするマハーラーシュトラ州内に居住する他州出身者は多い。現在同州与党の座にあるコングレスにとって、これまで地域主義政党が手にしてきた、いわゆる『マラーティー・カード』を自ら引いてしまうことは、かなり危険な賭けであることは間違いない。

    この『タクシー問題』が、今後どういう展開を見せていくことになるのか、かなり興味深いものがある。

    ※『ダーラーヴィー?』は、後日掲載します。

  • ダーラーヴィー 3

    スラムといっても、ダーラーヴィーで私たちが訪れた部分は、1995年以降、政府との合意のもとで住民たちがここで暮らすことが合法化されているとのことで、ちゃんと水道も引かれている。土地は政府のものだが、各地区の建物自体は個々のオーナーの資産であり、ここで賃貸生活をする人々は家主たちに家賃を払うことになる。
    ところで、スラムとはいうものの、ダーラーヴィー地区の政治力というのも決して無視できるようなものではないようだ。州議会選挙におけるダーラーヴィー選挙区の有権者は20万人を数える。これまで幾度も再開発計画が持ち上がったものの、いずれも実現することなく頓挫しているというのは、最大で見積もって100万人にも及ぶという説もある巨大な人口のリロケーションをどうするのかという難問に加えて、そうした背景とも無縁ではなかろう。
    いよいよ道路反対側のダーラーヴィーに足を踏み入れる。トタンの壁のバラックがどこまでも続いている。前に踏み出すたびにホコリが舞い立つ。他地区からダーラーヴィーを横切る公道は舗装されているものの、それ以外はほとんど未舗装である。
    スラムの住人といっても、これまたいろいろあるそうで、この場所で生まれ育ち、そこで再び自分の世帯を構えている人もあれば、季節労働者として農閑期に仕事を求めてやってくる人もあるという。後者の場合は通常男性が単身でやってくるという。そのため、ダーラーヴィーの人口の流動性はかなり高いのだそうだ。
    最初に訪れた地区では、プラスチック製品のリサイクルをしていた。集めたプラスチック製品を選別し、溶解して、その後細かいチップとして再生する。これが工業原料として業界に還流していくことになる。後に見学する他の業種もそうだが、同業や関連する業種は同じ地区に固まっており、工 程ごとに隣接している他の作業場が担っている。
    裏手に小路にある屋内のスペースでは、溶かしたプラスチックを、まるでパスタを作る機械のようなもので、麺状に長く出していく。これは蓋のない水槽の中を通過、この過程で冷却されてから、裁断機にかけられて細かいチップが出来上がる。チップが沢山出てくるところではまだ湿っているため、作業員たちがそれを手で広げる。強い扇風機の風により、これはすぐに乾燥されていく。
    今にも崩れそうな建物、材木とトタンで出来た非常に安普請なものだ。出入り口以外に窓はなく、薄暗い屋内で裸電球が灯っている。ここの2階、日本式に言えば3階にあたるところからハシゴを上ってトタン屋根の屋上へ。
    周囲の他の建物もだいたい同じくらいの高さなので、遠くまで見渡すことができる。 すぐそばには携帯電話の電波のタワーがあった。そういえばさっきの作業場で働いている人も携帯電話で話をしていた。少し離れたところには、スラムにあるとは思えない立派なコンクリートの高層階の建物がいくつか見られる。それらは政府による公営の病院や公立学校であったり、あるいはコンドミニアムのようなタイプのモダンな民間住宅であったりする。
    西のほうに目をやると、これまた周囲の風景にそぐわない立派な造りの大きなモスクもある。建設資金や運営費などは、一体どこから捻出されるのだろうか。病院や学校が政府によって設置されるのと同じように、おそらくスラムの外のどこからか資金が流入していることと思う。
    公道の電柱から大量の電線がぐちゃぐちゃと引き込まれている。もちろん盗電であるが、都会の只中にあることから、送電にインフラは整備されているため、結果としてスラム内はほぼ完全に電気が普及しているとのこと。またテレビも9割以上の世帯に普及しているとのこと。
    アルミ缶をリサイクルする作業場もあった。炉でアルミ缶を溶解されて、ちょうど金塊を大きくしたようなタブレット状のアルミ塊を作っている。作業場の傍らに何やら高く積んであるものがあり、布がかぶさっていたが、その下にあるのはアルミ塊の山である。染物の工場もあった。田舎でやっているのと同じように、ただその作業をこのスラムで行なっているというだけのことである。
    唐突に香ばしい匂いが漂ってきた。ビスケットの工場である。小路から中が丸見えなので、どうやって作っているのか、その工程が全て見える。材料の小麦粉は、路地端に袋ごとドカドカと置いてあった。まるでセメント袋であるかのように。出来上がったビスケットは、ビニールでパックされて市内各所の店で販売されるという。そういえば、ああいうタイプのものを、私はけっこう好きでよく食べている。雑貨屋の店頭や鉄道駅の売店などでも目にする類のものである。
    どこからか、食用油のような匂いがするな、と思ったら今度は食用油の金属缶のリサイクル場である。長年油が浸み込んで、ツルツルするがアスファルトのように固くなった広い土間の上に、おびただしい量の四角い缶が詰まれている。左手にあるものは、穴が開いたり潰れたりしているもので、修理が必要なもの、右手に積んであるのは、ラベルを剥がして洗浄してから再び食用油工場へと出荷するものだという。これは割合慣れが必要な仕事であるそうで、作業は歩合制で、熟練した作業員とそうでない者との間で、手取りがかなり違ってくるそうだ。
    脂臭い匂いが漂う。食用油の残りが原料になるのかどうかは知らないが、近くには石鹸工場があった。ブランドなどない簡素な粗い感じの大きな石鹸塊、よく街中の雑貨屋店頭で見かけるのと同じようなものをせっせと作っていた。
    食べ物を作ることを生業にしているところはけっこうあるようだ。ダッバーワーラーといえば、ムンバイー名物。金属製の段付きの容器に入った各家庭で奥さんが調理した昼ご飯を、市内各地で働く夫に届ける役目をしているものとして知られているが、弁当の中身そのものを外注できる『レディー・メイド』があるとは知らなかった。
    訪れたとき、調理空間は閑散としていた。本日分の昼ご飯はすでに容器に詰められて出荷済み。現在各仕事場に配送されているところだそうだ。付近には、パパッド造りの作業場がある。ごく薄い煎餅状に伸ばされ、ひっくり返した大きな籠の上で天日干しされている。乾季が稼ぎ時で、雨季になると屋根のある限られたスペースでしか乾燥作業ができなくなるとのこと。ここの担い手はほぼ全員が女性たちである。
    ムスリムの人々が集住する地区に出た。ヒンドゥーの祠をひたすら作っている作業場があった。ガイドが言うには、ヒンドゥーとムスリムが互いに支えあって生きていることのひとつの例なのだという。皮なめし工場もあった。この作業で使用する薬剤等は、環境に悪影響を及ぼすため、本来この作業をここで行なうことは禁じられているとのことだが。作業場手前のちょっとしたスペースでは、水牛や羊などから出来上がった革材が積み上げられている。ダーラーヴィーの皮なめし業は、インド第二の規模であるとのことで、国内各地はもとより、外国にも輸出されているそうだ。
    作業場の多くでは、仕事をするのと同じ場所の片隅で食事を作ったり寝起きしているそうだ。同じ場所で食事、睡眠、仕事のサイクルが日々進んでいく。いろいろな業種にたずさわる人々がいるが、こうした労働者たちの賃金は、日給にして概ね200ルピーくらいだという。農村部で同じような仕事をするとその四分の一ということも往々にしてあるので、そうしたところからの出稼ぎ志望者たちにとっては魅力的な金額であるそうだ。
    作業場で火を使うところは多い。木材とトタンで出来ている建物から出火したらどうなるのか、想像してみるだけで恐ろしい。周囲の建物もみんなそうした造りであることから、火は一気に燃え広がる大惨事になってしまうだろう。
    これらの作業場に限らず、後で見た他業種の作業場についても、事業主はスラムの外に住むかなり裕福な人であるケースが多いそうだ。土地自体は政府の所有なので、主といっても建物と作業器具類という、金銭的にはさほど価値のないものを所有しているだけに過ぎないが。
    ガイドを先頭にして、細い細い路地を歩く。排水設備などなさそうなので、雨が降ったら即泥沼にでもなりそうな地面。人の幅くらいしかない道、人の頭くらいの高さに幾重もの電線が垂れ下がっている。怖いので参加者たちは思い切り身体を縮めて前へと進む。
    ところどころコンクリート板を敷いたり、レンガで石畳状にしてあるところもあるが、大部分は裸の土のままだ。家屋や作業場の床が地面よりも高くなっているわけでもない。作業場の床の大半もまた裸の土のままだ。外の道路と建物の中との間に仕切りがあったとしても、モンスーンの際には水浸しになって大変だろう。
    スラムであることから、環境は劣悪であるが、特に衛生環境がまったくなっていない。スラムの家の多くにはトイレは設置されておらず、そのあたりの物陰で済ませる以外は、公共のトイレということになる。各世帯にほとんどトイレが普及していないがゆえか、公衆トイレは比較的多く設置されているようであった。
    ふと見上げると、そこには高層でなかなか住み心地の良さそうなフラットが見える。周囲の劣悪な環境の中で、郊外のちょっといい住宅地にでもありそうな高級感ある建物。何とも不思議な感じがする。いったいどういう人が、敢えてこんなところに高級フラットを求めるのだろうか?
    ここはちょうどダーラーヴィーのスラムの端であるという。背の高い壁があり、そこから先は同じ形をしたコンクリートの建物が並ぶ団地になっていた。公道に出る手前のところにパーキングがあり、スラムでの生産品を外の世界に運ぶため、また外からスラムに生活物資等を運んでくるトラックから人々が積み下ろし作業をしており、ここはまぎれもなくムンバイーの市街地の一部であることを実感させてくれる。

  • ダーラーヴィー 2

    ダーラーヴィーへのツアーに参加するかどうか思案する際、これをオーガナイズしている会社のウェブサイトを閲覧してみたところ、実は普通の旅行会社とはかなり違う部分があることに気がついた。
    この会社と母体を同じくするNGOが、当のダーラーヴィーで幼稚園、学校、成人教育などを手がけているとのことである。ツアーの利益の8割はそのNGOの活動資金となるということであり、旅行会社自体が彼らの社会活動の中の収益部門という性格があるらしい。
    そのツアー自体が、ダーラーヴィーという地域、そこで働いたり生活したりしている人々に対する先入観や偏見に意義を唱えるという趣旨のものであることも理解できた。またダーラーヴィー訪問最中は、場所を問わず写真撮影は禁止であるとのこと。ちなみにこの会社は、農村を訪問するなど、スタディーツアー的なものも多く取り扱っているようで、スラム見学はその部類に入るようである。
    そんなわけで、姑息ながらも、自分自身の心の中で、あまり肯定的に捉えることができなかったツアーに参加する口実のようなものができたことになる。
    ツアー開始は午前8時半。コラバ地区のレオポルドカフェ脇の路地を少し入ったところが集合場所であった。そこに着いてみると、まだ誰もいなかったので時間を間違えたかと思ったが、イギリス人男性が声をかけてきた。彼もこれに参加するのだそうだ。間もなくツアー会社のスタッフが来た。本日の参加者はあと3名、すぐにガイドを載せたクルマがやってくるとのこと。
    大型のRV車に、運転手とガイド、そしてツアー参加者が、イギリス人男性が2名、南アフリカからきた白人カップル、そして日本人である私の計5名である。これらの参加者たちは、インドの農村で活動するNGOで働いてきた人、自国で学校の教員をしている人などがあった。
    マリンドライヴを北上しながら、ガイドは途切れる間もなくスラムについて、ストリート・チルドレンについて、また通過するエリアについていろいろ説明をしている。まだ若いが、いかにもプロフェッショナルで頭脳明晰な感じのする男性だ。
    北へと向かう郊外電車の線路脇に、いくつも路上生活者たちの小屋があるのを横目に見ながら、そうした環境で育つ子供たちの問題、とりわけ彼らが陥りがちなドラッグの問題等々についていろいろ説明があった。
    やがてクルマは右手に曲がり、赤線地帯として有名なカーマーティプラーへ向かう。『このあたりからが有名な赤線地帯です』との説明がある。派手な看板が出ていたりするわけではなく、食堂があったり、パーンやタバコの店、雑貨屋等があったりといった具合で、一見、他の地域と変わらない商業地区のようにも見えたりもする。
    だが娼婦たちはどこの国でも似たような表情、雰囲気を醸し出しているため、歩道に出ていたり、脇に腰掛けていたりする彼女たちの存在でそれとわかる。よくよく見ると、明らかに置屋の入口と思われる狭い戸口がいくつも見える。
    この地域が忙しいのは午後5時から午前5時くらいまでだという。かといって他の時間は閉まっているというわけでもなく、基本的に24時間稼業しているそうだ。彼女たちは、インド全国からやってくるといい、多くは仕事を斡旋するなどといった言葉を信じた結果、ここに行き着く者が多いという。
    ガイドによれば、ビハールやネパールから来ている女性も多いが、特に人数が多いのはアーンドラ・プラデーシュ州出身者だという。もちろんインドの法律では売春は禁止されているものの、そうした施設の経営者たちは警察との繋がりを持っているため、半ば公認されているかのような状態にあるというのは、他国でもよくある話ではある。しかしながらそのカーマーティプラーの東側の出口にあたる部分に、立派な建物の警察署があるのは何とも皮肉なことである。
    クルマは、カーマーティプラーから東にあるチョール・バーザールへと抜けてから、再び北上したあたりには、かつて主に繊維関係の工場が沢山あったのだそうだ。しかし都心であるということから、大企業のオフィスや高級コンドミニアムといった形での不動産需要が高く、多くは他のエリアに移転していっており、このあたりに家を構えていた人たちもまた、それを手放してもっと住環境の良い郊外に移転したり、さらには手元に残るお金で起業したりといったことがトレンドなのだという。都市の表情は、時代ととももに遷ろうものである。
    次にマハーラクシュミー駅脇のドービーガートに行く。ムンバイー最大かつインド最大の露天の洗濯場であり、無数に仕切られたコンクリート台が続き、衣類を叩きつけての洗濯作業が日々続く。相当なハードワークであろう。
    この場所を所有しているのは政府で、ここを仕事場とする洗濯人たちは、毎月賃料を払っているとのこと。雨季には屋外で乾かすことは難しいので、屋根の下で乾燥作業をするとのこと。目下、乾季ではあるものの、線路を横切る陸橋の上から見える屋根の下には大きな乾燥機があり、そこから出る風を利用して乾燥作業が進行中であった。
    1枚いくらという形で収入があり、衣類を紛失するとペナルティーがそこから差し引かれてしまうものの、そこは伝来の出来上がったシステムがあり、おいそれと洗濯物がなくなってしまうことはないとのこと。一見原始的な作業に見えるものの、中ではかなり高度なネットワークがあるらしい。線路の反対側には競馬場があり、おそらく馬の訓練をしているのだろう。騎手が乗って走らされている馬の姿があった。
    そして再び北の方角に向かい、マヒムにもあるやや小規模なスラムを横目に見ながら、着いたのがダーラーヴィーのスラムである。道路の左側には巨大な送水管が見える。ここでスラムドッグの撮影の一部が行なわれたということで、スクリーンの中で目にしたような記憶がある。ただし実際にスラムで撮影したのはごく一部で、他の大部分はフィルムシティで撮ったということだが。

  • ダーラーヴィー 1

    映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったムンバイーのスラム。ダーラーヴィー地区、アジア最大のスラムと称されるダーラーヴィー地区だが、近ごろ人口において隣国パーキスターンのカラーチーにあるオーランギー地区に抜かれたという話もある。
    Dharavi not Asia’slargest slum: Report (The Financial Express)
    もちろん、アジア最大であろうが、2位であろうが、決して誇ることのできるものではない。ダーラーヴィーにしてみたところで、人口は600万強から100万人前後くらいと推定されており、すっきりとした数字を提示できないのはオーランギー地区も同様であろう。
    またオーランギー地区には、印パ分離時にビハールから移住したムスリム住民たちが多く居住しているとされることは、亜大陸の近代史の暗部を示しているかのようでもある。スラムドッグ・ミリオネアに触発されたというわけではないようだが、ムンバイーのある旅行代理店が主催するダーラーヴィーを訪れるツアーがある。
    こうした類の企画ものについて、『貧困を売りにするのか』『スラムで物見遊山をするのか』という批判が多いことは承知している。また私自身としても、モラルとしてこういうのはいかがなものか、と思っていた。
    しかし同時に、このダーラーヴィーという地区について、そこがスラムであるということが理由ではなく、ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たないのにもかかわらず、ロケーションのみ見れば交通至便な都心の一等地となり得る地域であることに関心を抱いていた。
    またこの地域が、通常考えるところの開発から取り残されていること、しかしながらここに住まう膨大な人口はこの商都の活力たる労働力の供給に貢献しており、この地域で展開される各種工業もまた6億6千万ドル規模と大きなものであることからも、私たちの想像するスラムのありかたとはちょっと異なる性格があるのではないかとも考えていた。
    年を追うごとに市街地が拡張していくデリーなどの内陸部の都市と違い、『海に囲まれているため周囲に広がる郊外を持ち難い』という点がカギになるのではないかとも思う。現在のムンバイーの市街地となっているエリアの大半は埋立地である。これについては後日別の機会を設けて記してみようと思う。
    内陸部の都市であれば、地形や用途上の障害(開発制限地域や国立公園など)がない限りは、概ね放射状に広がっていき、周辺の町や村を郊外地域に併合し、ときには州境を越えての大都市圏を形成することもある。 こちらの地図を参照していただきたいが、ムンバイーの場合は三方を海が囲んでいるため、拡張できる余地がほとんど残されていないといってよいだろう。
    マハーラーシュトラ本土との境をクリークや河が隔てているが、まさにその部分に蓋をするような形で、サンジャイ・ガーンディー国立公園が横たわっている。大都会のすぐそばに豊かな自然が残されるということは素晴らしいことである半面、半島北部へ郊外地域が広がることに対する大きな阻害要因でもある。
    そのいっぽう、都心部の首都機能が集中する部分は、半島南部の先細る部分に位置しており、周囲に広がるのは大地ではなく海原であるため、この部分へのアクセスが良好な『郊外』というのは、地理的に非常に限られてしまう。
    もちろんムンバイーには、世界最大級の人工都市であるナヴィー・ムンバイーという衛星都市がある。相互補完的な関係にはあっても、水域で隔たれており、橋というごく限られた接点を持つふたつの異なる都市であるため、ムンバイー都心からシームレスに繋がる郊外とは言えないだろう。
    こういう表現をすると、多分に誤解を受けてしまうのではないかとは思うが、ダーラーヴィーとは、社会の隅に置かれた人たちが呻吟するスラムというだけではなく、実はある意味『郊外』という性格も持ち合わせているのではないだろうか。
    都市が必要としており、また人々も必要としている郊外が、本来ならば都市の外縁部に形成されるはずのところ、ムンバイー独自の地理的な制約から、都心部にある政府所有の土地を占拠する形で、しかも高度に凝縮して出現してしまったと見方もできるのではなかろうか、とも思うのである。

  • ムンバイーのシナゴーグ

    『Padmini Premierのある風景』で少し言及したように、商都として発展してきたムンバイーにはいろんな様式の植民地期の建築物がある。とりわけ19世紀にネオ・ゴシック建築については、フォート地区を中心に数多く残されており、これらを見て歩くだけでも楽しいものだ。
    これらを目的としての街歩きのためにちょうど良い本がムンバイーの出版社から出ている。
    書名:BOMBAY GOTHIC
    著者:CHRISTOPHER W. LONDON
    出版社:INDIA BOOK HOUSE PVT. LTD.
    ISBN : 81-7508-329-8
    ただ漠然と通りから眺めて『あぁ、でっかいなあ』『ずいぶん立派だなあ』と感じるしかない建物群が、これを手にすることにより、その背景にある歴史やゆかりの人物等と結びつき、頭の中でそれなりに意味のあるものへと変容していく。
    こうした数々の建物の中に、デイヴィッド・サッスーン・ライブラリーがある。1873年に完成したこの図書館は、当時ムンバイーの豪商であった在印ユダヤ人、アルバート・サッスーンによるものである。この人物は、同じくムンバイーのサッスーン・ドックを築いたことでも知られている。
    デイヴィッド・サッスーン・ライブラリー
    ベネ・イスラエルと呼ばれるコミュニティとともに、インドのユダヤ人社会の中核を成すバグダーディー・ジューのコミュニティを代表する名門サッスーン一族だが、20世紀の前半の上海や香港の経済を牛耳ったことで有名なサッスーン家も同じ一門である。
    また、今ではほぼ消滅に近い状態にあるものの、かつては隆盛を極めたヤンゴンのユダヤ人コミュニティにおいても、ほとんどがこのムンバイーから移住した人々であったことから、その中に占めるバグダーディー・ジューの人々の割合も相当高かったそうで、当時のムンバイー、コールカーター、上海、香港などとの間にもネットワークを形成していたとされる。
    そんな彼らの存在の痕跡は、今でも残るヤンゴン市内のシナゴーグや墓地などに見ることができるのは、昨年5月に『インドの東? シナゴーグとユダヤ人墓地』で触れてみたとおりだ。
    話はムンバイーに戻る。ちょうど休日であったので、フォート地区で植民地期の壮大な建物が並ぶの風景を眺めながら街歩きをするのはとても楽だ。なぜならば、平日と違ってクルマの交通量が格段に少ないからである。
    インドにおける証券取引の中心地であるBSE (Bombay Stock Exchange)の建物があるダラール・ストリートの入口には警察の検問があり、一般車両は進入できなくなっている。日々、この国の経済の中心地といえる。1875年に始まった、アジア最古の証券取引所であるとともに、今や世界第12位に数えられる有力な株式市場である。
    それが立地するダラール・ストリートを歩いたことはなかったので、どんなところか?と歩を進めてみた。だがBSEの建物の中では日々どんな巨額な取引が展開されていても、そこに面した通りにお金がバラ撒かれるわけではないため、意外なほど簡素な横丁であった。
    休日のためストリートの主役であるBSEは閉まっていても、通り沿いの商店の大半は営業していた。コピー屋や文具屋をはじめとする事務用品関係、エコノミーな食堂、簡単なスナックの店、ジュース・スタンド、雑貨屋といった店が立ち並ぶ。
    ダラール・ストリート入口から来た道に戻り、少し南に向かうと右手の脇道に青い建物がある。ケネーセト・エリャフー・シナゴーグである。これもまたサッスーン一族ゆかりのものであり、建設者は前述のアルバート・サッスーンの甥、ヤークブ・サッスーンである。この街に八つあるとされるシナゴーグの中で最も良く保存されているものであるらしい。ここでも複数の警官たちが周囲に目を光らせていた。
    ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ
    2008年11月26日にムンバイーで発生したテロ事件からすでに1年以上が経過しているが、ムンバイーCST駅、タージマハル・ホテル、トライデント・ホテル等とともに、テロリストたちの標的となったユダヤ教施設『ナリーマン・ハウス』のことを記憶している方も多いだろう。
    別名チャダード・ハウスとも呼ばれるが、シナゴーグ、宗教教育施設とホステルを内包するユダヤ教徒のコミュニティ施設である。イスラエル生まれでニューヨーク育ちの司祭が奥さんとともに運営していたが、テロ実行犯たちが立て籠もっている間、夫妻は居合わせた他の4人(ホステルの宿泊者たちであったらしい)ととも殺害され、当時2歳の息子だけが助かるという凄惨な事件であった。
    ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ周囲で警戒が続いているのは、ここも同様にユダヤ教施設であるというだけではなく、あのナリーマン・ハウスとかなり深い縁のある場所でもある。2008年11月のテロが起きるまで、このシナゴーグで礼拝を取り仕切っていたのは、ナリーマン・ハウスで殺害されたガヴリエル・ホルツバーグ司祭である。
    内部は世界各地のシナゴーグと同様のスタイルだ。天井が高く、中央に祭壇がある。上階は吹き抜けになっており、階下を見下ろすテラスとなっている。このシナゴーグが出来てから125年になるそうだ。
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    なかなか人気の観光スポットでもあるようで、入場料はないものの、内部を撮影する許可として100ルピーが徴収される。売店コーナーも併設されており、本が数点置かれていた。、特に以下の書籍は写真やイラスト入りで彼らの歴史、伝統、コミュニティなどが綴られており、インドのユダヤ人社会を概観するのになかなか良さそうだった。
    書名:INDIA’S JEWISH HERITAGE
    編者:SHALVA WELL
    出版社:MARG PUBLICATIONS
    ISBN : 81-85026-58-0
    英領時代にはムンバイー、コーチン、コールカーターなどで隆盛を極めたユダヤ人たちであるが、インド国内では民族主義の台頭と独立、独立後のインドにおける金融や基幹産業の国有化等々といった流れは、インド在住のユダヤ人資本家たちにとって望ましいものではなかった。加えて、国外ではイスラエルの建国という歴史的な快挙もあったことなどから、国外に新天地を求めた人々が多いとはいうが、それでもムンバイーには今なお4千人以上のユダヤ系市民が暮らしている。
    総体で眺めれば、人口比では大海の中の一滴にしかすぎない彼らではある。しかしながら、かつてはムンバイー他のインドの港湾都市を中心に活躍し、国外にも広く影響力を及ぼしたユダヤ人たちの存在は、インドを代表するコスモポリタンな大都会ムンバイーの歴史の中の奥行きの深さの一端を象徴しているかのようである。
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