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カテゴリー: society

  • アーグラーで爆発

    9月7日に起きたデリー高等裁判所での爆弾テロの記憶も新しい中、昨日9月17日夕方にアーグラーのジャイ・ホスピタルのレセプション付近で爆発が起き、15名が負傷、うち3名が重体と伝えられている。

    現在までのところ犯行声明等は出ていない。また爆発物や犯行手段が特定されていないためテロと断定されてはいないものの、状況に鑑みて事故ではなく事件としての捜査が続いている。

    Agra blast: City had specific intelligence alert (Rediff.com)

    元々、地域の社会構成等から『センシティヴなエリア』でもあり、20日ほど前から治安当局が警戒していたということではあるが、テロに関わる可能性がある小さなグループが点在しており、そこに出入りする者たちが爆発物を製造していた可能性がある・・・等の噂ともつかない情報と合わせて錯綜している。

    爆発の規模は小さく、混雑したバーザールで起きたわけでもないため、被害の規模は決して大きなものではなかったが、こうした事件が起きるごとに「また彼らが・・・」「たぶんあの人たちが・・・」といった具合に、決して事件には関係のない特定のコミュニティに対する不信感、猜疑心は深まっていくことは否定できない。

    日本の主要メディアでも報じられたアンナー・ハザーレーの汚職運動と合わせて、国民会議派を中心とする連立政権にとって不利な状況が続いている。ローク・サバー選挙で2度の敗北、サング・パリワール内での不協和音、BJP党内でのパワーゲーム等の関係もあり、しばらく雌伏を余儀なくされているサフラン勢力が、力を盛り返しつつある様子もうかがえる。こうした中で、ひとつひとつの出来事の積み重ねが近い将来の政局に与える影響は決して小さくないだろう。

    同じ9月17日に、グジャラート州首相のナレーンドラ・モーディーは61歳の誕生日を迎えている。彼の就任前、2001年1月にカッチ地方を襲った大地震からの復興、グジャラートの高い経済成長等、彼の行政手腕は高い評価を得て再選され在任2期目にある。

    彼は、極右的なスタンスの政治家の中で最も人気の高い人物のひとりである。彼の州首相就任後間もない2002年にアヨーディヤーからサバルマティ・エクスプレスで帰還途中のヒンドゥー右翼活動家たちが大勢乗り合わせていた車両が州内のゴードラー駅に停止していたとき、地元のガーンチーと呼ばれるコミュニティのムスリムたちが襲撃し、車両に火を放ったことに端を発したグジャラートの大暴動を抑えることができなかったばかりか、これを陰で大いに煽っていたと信じている人々は今も多い。

    この暴動の際、地元選出の元国会議員でムスリムのエヘサーン・ジャフリーも命を落としている。グジャラート州の国民会議派組織の重鎮であった人物であるのにもかかわらず、本人の度々の要請にもかかわらず警察が動かず、自宅に押し寄せた暴徒に殺害されることとなった。

    余談になるが、ゴードラー駅での列車襲撃事件の際、乗り合わせたほとんどの人たちが亡くなったのは、国鉄の客車車両前後のドア以外からは出入りすることのできない構造が原因であったため、その後はノンACクラス、ACクラスともに車両真ん中の窓からは緊急時に脱出できる造りに改められることとなった。

    グジャラートの大暴動から10年近い歳月が経過し、昨日彼の61歳の誕生日に合わせて開かれた政治集会では、インドのニュース番組でも取り上げられていた。同州の複数のムスリムコミュニテイの代表たちも招待され、ステージでナレーンドラ・モーディーの誕生日を祝福するシーンもあり、彼らとの融和を演出する試みがなされていた。 加えて、彼は昨日から『人々の友愛と融和のため』と称して3日間の断食を実行中である。

    グジャラート州での行政手腕の実績を背景に、上げ潮の勢いのナレーンドラ・モーディーは、イメージチェンジを図るとともに、国政への進出に意欲を見せており、グジャラート州外でも将来のインド首相として期待する層も多い。このところ相次ぐテロと合わせて、何か不安なものを感じずにはいられない9月17日であった。

  • ラージ・タークレー ヒンディーで答える2

    さて、ラージ・タークレーはシヴ・セーナーから飛び出した後も、バール・タークレーに対する敬慕の念を表明しており、自分こそが彼の思想の正当な後継者であると主張していることからも明らかであるように、MNSの政党としてのスタンスはシヴ・セーナーと根本的には大差ないし、支持層の厚い地域もムンバイー市内及び沿岸部という点で共通している。

    違いといえば、党としての規模が小さいことと、それなりに歴史のある『本家』シヴ・セーナーに比べて、幹部や支持者は若年層が多いこと、そして地域主義に加えて『サフラン色』のイメージが濃いシヴ・セーナーに比べるとかなり宗教色が薄いことだ。地元のマラーティーを母語にするムスリムコミュニティの一部からの支持も取り付けていることは特筆すべきだろう。今のところは、マハーラーシュトラ州外に影響力を及ぼすという野心は希薄であるようだ。ゆえに地元『マラーティー主義』に全力を注ぐことができるという強みはある。

    昔は風刺漫画家としても知られていた叔父のバール・タークレー同様、ラージ・タークレー本人も画才には自信があるようで、MNSのウェブサイトで彼の作品を閲覧することができる。

    話は冒頭に戻る。昨日取り上げてみたラージ・タークレーのインタヴューである。

    मोदी के गढ़ में हिंदी भाषी बने राज ठाकरे (AAJTAK)

    彼は、メディアの取材にはたいていマラーティーのみで応じることで知られているだが、8月上旬にグジャラート訪問の際にヒンディーによるかなり長いインタヴューに答えた模様がニュースで流れていた。

    「ラージ・タークレーがヒンディーによる取材に応じています」とリポーターが喋り、彼は最初少々はにかみながらテレビカメラの前に姿を現す。

    彼は、ヒンディーという言葉に対する敵愾心はない。マラーティーを母語とする地元ではマラーティーを使うべきだ。私はグジャラートに来ているが、グジャラーティーは出来ないのでヒンディーを使うことにしているetc.といった具合に、ヒンディーで応じている理由に触れた後、州都ムンバイーを初めとするマハーラーシュトラ各地に労働者たちを送り込んでいる北部州に対する批判を展開している。

    リポーターが「ムンバイーの経済を支えているのは北部の労働者たちではないですか?」と水を向けると『彼らが大挙してやってくるのは、彼らの州に仕事がないからだ。州の経済がまるでなっていないからだ』と応じ、彼らの流入が地元の雇用に悪影響を与えているという従来からの主張に繋がっていく。

    インタヴューの中で、ラージ・タークレーが『ヒンディーは美しい言葉だ』と持ち上げたことを除けば、MNSの従来からの主義主張に照らして目新しいものは特になかったが、それでも『ヒンディーでインタヴューに応じた』こと自体が、地元のマハーラーシュトラではちょっとした波紋を投げかけることになったようだ。 先述のリンク先の放送局以外のメディアに対しても同様にヒンディーで質疑に応じている。

    その結果、ライヴァル関係にあるシヴ・セーナーには『我が党が真のマラーティー主義擁護者である』というアピールをさせる機会を作ってしまった。ラージ・タークレーがヒンディーでメディアのインタヴューに応じたのは、決してこれが初めてではないのだが、比較的最近、州政府の要職に就いた人物が就任式にてヒンディーで宣誓を行なったことに対する激しい批判を行なったこともあり、ちょっとタイミングが悪かったのかもしれない。

    ともあれ、彼がメディアに対して『ヒンディーで答える』こと自体が一種のサプライズであり、他方ではスキャンダルにもなり得るというのが彼の立場である。

    彼自身にとっては、こうした形で必要に応じて、マラーティーを理解しない他州の大衆に対してヒンディーによるMNSの主張を発信していくことは、長期的には決して損なことではないだろう。

    マハーラーシュトラの暴れん坊、ラージ・タークレーは、中央政界に強いインパクトを与えることができるような人物ではないし、地元マハーラーシュトラにおいても今後檜舞台に躍り出る政治家であるとも思えないのだが、これまで同様に決して無視することのできない一定の影響力を行使していくはずだ。たとえ本家シヴ・セーナーと決別しても、根強い支持層を持つマラーティー主義を掲げた極右政党の親分である。

    こうした空気の中、昨年1月に『ムンバイー タクシー業界仰天』と題して取り上げてみたように、デモクラティック・フロント(コングレスおよび1999年にコングレスから枝分かれしたナショナリスト・コングレス)政権下のマハーラーシュトラで、タクシーの営業許可に対する条件として『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』などという、シヴ・セーナー/MNSばりのマラーティー優遇策を打ち出したりするようなことが起きる。

    Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)

    現在のマハーラーシュトラ州政界は、コングレス+ナショナリスト・コングレスとこれに対抗するシヴ・セーナー+BJPの対立軸で展開しているため、中道の政権にあってもちょっと右寄りのポーズを取る場合もあるのは仕方ない。

    マハーラーシュトラ州政治のメインストリームの中で、本家シヴ・セーナーに対するMNSの居場所はないのかといえば、そうともいえない。上記の二大勢力の次に左翼とダリット勢力があるが、MNSは単独でそれに次ぐ位置にあるからだ。今後の風向き次第では、上位ふたつのどちらかと協調することも考えられる。

    グローバル化が進展していく中でそれに対する地域民族主義が今後どうやってこれに抗っていくのか、どのように折り合いを付けていくのかという点から、とても興味深いものを感じている。

    今後も事あるごとに注目していきたい政治家の一人である。

    <完>

  • ラージ・タークレー ヒンディーで答える1

    ラージ・タークレー ヒンディーで答える1

    デリーのラームリーラー・マイダーンにおいて、社会活動家アンナー・ハザーレーの断食が11日目に入っている。ジャンロークパール法案をめぐる一連の動きが予断を許さない状況になっている中、インド政治がらみながらもこれとは全く関係の無い事柄について触れるのはいささか気が引けるのだが、こちらも個人的にとても気になる人物である。

    ナレーンドラ・モーディーの招きでグジャラート訪問した際のラージ・タークレー

    今月初めのことであったが、マハーラーシュトラ州のMNS (マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)の党首、ラージ・タークレーがグジャラート州首相のナレーンドラ・モーディーの招きにより9日間グジャラート州を訪れた際、メディアの取材に応じているが、その中でヒンディーによるインタヴューが放送されたこと自体が話題になっていた。

    मोदी के गढ़ में हिंदी भाषी बने राज ठाकरे (AAJTAK)

    元々、彼は極端な地元のマラーティー主義と、州外からやってきて就労する人たち、とりわけ北インドのヒンディー・ベルト地帯から来た人たちに対する排斥を主張し、暴力的な示威行動等も辞さない政党、シヴ・セーナーの幹部で、党創設者であるバール・タークレーの甥であり、バール・タークレーの息子で現在は党を率いているウッダヴ・タークレーのいとこである。シヴ・セーナーの中核にあった人物だ。

    しかしバール・タークレーの高齢化とそれに伴う健康不安から、指導部の世代交代が行なわれる中での党内のお家騒動の中で、一時期州与党にあった時期にマハーラーシュトラ州首相まで務めたことがある大物ナーラーヤン・ラーネーが党を追われて国民会議派に加わるというサプライズな出来事があったが、その年末にはウッダヴ・タークレーとほぼ同格の立場にあったラージ・タークレー自身が同党と袂を分かつという大きな出来事があった。

    翌年3月にラージ・タークレーは、シヴ・セーナー時代の取り巻きを引き連れて現在のMNSを結党している。党がシヴ・セーナーとその分家に当たるMNSに分かれたことにより、相対的にシヴ・セーナーの社会的影響力が減じることに繋がったようだ。

    2003年7月下旬にムンバイー市内で起きた市バスの爆破テロに抗議して実施したムンバイー・バンドの際にはちょうどムンバイーに居合わせて、彼らの実行力(強制力)の凄まじさに驚かされたものだ。その模様については以下をご参照願いたい。

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 1

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 2

    MUMBAI BANDH !! 大都会ムンバイーがフリーズした日 3

    だがその3年後、2006年7月にムンバイーでシヴ・セーナーが再度試みたバンドは失敗に終わったのは、党が割れたことによる弱体化の表れだろう。その後彼らの地元であるインド最大の商都で、こうした規模のバンドは実行されていない。

    ただし地域主義とともに反共産主義(地元ムンバイーの財界の支援を受けて、60年代後半から70年代にかけて共産党勢力と激しく対立し、共産党傘下の労働運動の影響力を弱体化させた経緯がある)を掲げて1966年に発足したシヴ・セーナーは、時代が下るとともに、マハーラーシュトラ州という地域を越えて大衆にアピールできるヒンドゥー至上主義に傾向してきた経緯がある。

    シヴ・セーナーのシンボルマーク 咆哮するトラ

    中央政界やいくつかの他州の議会にも議席を持ち、国内各地に咆哮するトラのシンボルマークを掲げた支部が存在する。国外においても、彼らの支部というわけではないが、1999年にネパール・シヴ・セーナーという友党が発足している。

    そんなことから、ときに彼らの地元のマハーラーシュトラ州の外で徹底したバンドを決行することもある。2006年7月下旬にはウッタラーカンドの州都デヘラドゥーンでもシヴ・セーナーによる『ラージダーニー・バンド』が決行された。

    事の良し悪しはさておき、デヘラドゥーンの街の規模はムンバイーとは比較にならないほど小さいとはいえ、彼らのホームグラウンドから遠く離れたところにありながらも、見事な(・・・という言葉は適切ではないものの、パーフェクトなバンドであった)統率力で州都の機能を丸一日停止させていた。この日もたまたまその場に居合わせたため、『達人たちのバンド1』及び『達人たちのバンド2』と題した記事をアップしたことがある。

    <続く>

  • ブルキニって何だ?

    ドイツで開催された女子サッカーのW杯で、なでしこジャパンが優勝したことは記憶に新しい。これまで欧米の選手たちのスピードやパワーといった身体能力に押される部分が多かった(女子サッカーは特にそうした傾向が強い)のとは裏腹に、華麗なパスワークと巧みな戦術で相手をかき回した。これを『女性版バルセロナだ』と評したのは英国メディア。

    単に『アジアの国が優勝した』ということには留まらず、女子サッカーの戦術そのものに与えるインパクトが大きいようだ。おそらく今後、各強豪国では、なでしこジャパンが見せた華麗なサッカーを目指すところが増えることと思われる。

    大きな脚光を浴びた日本の女子サッカーだが、それでも男性の同種目の場合と比べると、プレー環境や選手としての立場等々、著しく不利な部分が多い。またそれ以前の問題として子供から学生くらいのレベルでサッカーを続けようとしても、なかなか女子のクラブがないため学校と両立できずに断念する例も多いと聞く。クラブチームでも、学校の部活動としても上から下まで環境が揃っている男子の場合と雲泥の差だ。

    だが今回のなでしこジャパンの活躍により、女性のスポーツとしてのサッカーが定着する動機になることと思う。頂点を目指す人も楽しみとしてプレーしたい人も、誰でもサッカーが好きでさえあれば、自分に合ったレベルで手近に参加できる環境が充実することを願いたい。

    サッカー以外でも、バレーボール、バスケットボール、テニスや陸上競技等々、スポーツの世界で活躍する女性は多いのだが、同時にまだまだ女性の進出が盛んではない種目は少なくない。そうした競技の場合、女性から見てあまり魅力を感じない、始めてみようという動機に欠けるといったこともあるかもしれないが、そもそもプレーできる環境がなかなかないということもあるのだろう。

    また慣習的に参加することが容易でない場合もあるだろう。たとえばボクシングなどがそうだ。格闘技の中でも『拳で殴り合うなんて・・・』というところで、ちょっとハードルが高い。現在、日本ではアマチュアの大会は開催されているし、プロ選手もいるとはいうものの、社会的に定着しているとは言い難いものがある。

    またスポーツ全般として、文化的な障壁が存在する場合もある。イスラーム圏でも女性のスポーツが盛んな国々は少なくないものの、とりわけ保守的な地域ではスポーツの分野への進出が少なかったり、肌を大きく露出するような種目ともなると国際大会でほとんど参加する選手の姿を目にしない国々もある。例えば水泳などがその例に挙げられるだろう。2008年の北京オリンピックでは、シンクロナイズドスイミングにエジプトの選手たちが参加していたが、国際的な水泳競技でアラビアの女子選手を見かけた記憶はほとんどない。

    またテニスでも国際レベルで活躍する選手の中でイスラーム教徒といえば、インドのサーニャ・ミルザー選手以外あまり見かけないのは、この競技に参加するイスラーム教徒女性の層が限られているのだろう。女子バドミントンの場合は、インドネシアが強豪国として知られているのだが。

    イスラーム圏の女子スポーツ大会としては、1993年から4年ごとにイランでIslamic Countries’ Women Sports Gamesが開催されているものの、初回大会からずっとホスト国はイランであることから、政治的な色彩が強いようである。

    そうした中、イスラーム教徒の女性(国や地域によって環境は千差万別だが)がスポーツに参加しやすいようにと、スポーツ用ヒジャーブが開発されている。

    イスラーム教徒の女性向け「スポーツ・ヒジャブ」に世界から注目 (MODE PRESS)

    またイスラーム教徒女性向けの水着もデザインされている。こちらは競技用とはいえず、あくまでも海水浴やプールに出かけるといったことが目的のようだ。

    オーストラリアの「ブルキニ」がイスラム教徒の女性をビーチへ – オーストラリア(MODE PRESS)

    『ブルキニ』という言葉は初めて目にしたが、女性がスポーツに興じる習慣がないことに加えて装いの関係もあるため、保守的な地域では参加可能な種目が限られるのは、いたしかたないのだろう。

  • 旧くて新しいホテル3

    旧くて新しいホテル3

    メヘラーンガルを仰ぐ絶好のロケーション

    このほど、そうしたハヴェーリーから転用されたホテルに宿泊する機会を得た。場所はジョードプルである。Krishna Prakash Heritage Haveliというそのホテルは、マールワール藩王国時代の1902年に警察幹部が自宅として建築した屋敷。後にその身内で藩王国の内務大臣の職を務め、インド独立後は国会議員を務めた人物の居宅でもあった。

    この大きな建物の中には身内の複数の世帯の人々が暮らしていたに違いない。中庭を核にして周囲にいくつかの部屋が並ぶ形になっているセクションが複数あり、それなりのプライバシーは保たれていたものと考えられる。

    今のオーナーはこの屋敷をホテルに転用して現在に至っている。部屋はいくつものタイプがあり、その手前に小さな中庭があるものもある。ひとつひとつ違うので最初に見せてもらうといいかもしない。暑い時期には敷地内にある小さなプールで涼む宿泊客も多い。

    メヘラーンガルの城壁を間近に仰ぎ見るロケーション。夕方から午後9時くらいにかけて美しくライトアップされた雄大な城砦を眺めながらの夕食は実にロマンチックだ。

    最初からホテルとして建てられた施設の場合、部屋間のグレードの差はあれ、ある程度標準化されているのに比べて、ハヴェーリーの個人の屋敷であったがゆえに、部屋のサイズや居心地は様々だ。館の主やその直近の家族が寝起きしたところもあれば、どちらかといえば隅に置かれていた身内もいたかもしれない。もちろん使用人部屋だっていくつかあったはずなので、部屋に荷物を置く前にいくつか部屋を見せてもらったほうがいいだろう。

    同じ旧市街で付近にはHeritage Kuchman HaveliやPal Haveli等、古いハヴェーリーを転用したヘリテージホテルがいくつかある。ちょっと覗いてみると、きっと宿泊してみたくなることだろう。

    <続く>

  • 旧くて新しいホテル2

    そうした中、古いハヴェーリー、地域の伝統的な屋敷がホテルに転用される例が相次いでいるようだ。今からだいぶ前にシェーカーワティー地方を訪れたことがある。この記事を書いたのは2005年であったが、初めて訪問したのはそこからさらに4年前なので、今から10年くらい前のことになる。

    かつてその地方が陸上交易で栄えた時代に富を築き上げた商人たちによって建てられたハヴェーリー(屋敷)が沢山残っていることで知られている。家の内外を問わず、壁のあらゆるところがカラフルな絵や模様で飾られているため、『オープンエア・ギャラリー』として知られている。

    訪問時、地元の土豪の洋風の館の他に、ごく新しい宿泊施設で内部をハヴェーリー風に仕上げたものを見かけた。旧商家のハヴェーリーについては、博物館となっているものをひとつ見学したが、あとは今でも間借人たちが屋敷内を細分化して賃借しており、ほとんどは内部を見学できるような状態ではなかった。

    そうした現在でも人々が暮らしている住居については、『ハヴェーリーに興味がある』と話した相手がたまたまそうした家屋の賃借人だったため好意で連れて行ってくれたり、あるいは道端で少し話をした子供に『君の家はどこ?』と尋ねると連れて行ってくれて、大人の家族たちの困惑したような表情を横目に、内部をチラリと見せてもらったくらいである。

    どちらにしても、現在間借している人たちは、たいていの場合、これらを建てた人たちの子孫でもなければ身内でもない。陸上交易の時代が終わってからは商家の人々は都会に出てしまっており、血縁でもなんでもない人々が賃借しているのが普通だ。

    それだけに建物の内外は荒れるに任せているといった具合で、もう少し文化的、歴史的な価値が見直されることがあってもいいのではないかと思っていた。それらを少しでも広く知ってもらうために、こうしたハヴェーリーのうちのいくつかが宿泊施設として転用されれば、その用を足すかもしれないし、シェーカーワティー地方の魅力の内外に広める役目も期待できるのではないかと思った。当時、この地方のマンダーワーという町のあるハヴェーリーでは大掛かりな改修作業が進行中だった。

    『これからホテルになるのだ』という話を聞いて、これからはシェーカーワティーの宿泊先の目玉はこういうタイプの施設になると確信したものだ。

    ロンリープラネットのガイドブックを開いてみると、シェーカーワティーの記事にはいくつものハヴェーリーを転用した宿泊施設の紹介がある。2000年及び2001年に私が訪れた際、ここ多いカラフルなハヴェーリーをホテルに転用したらどんなに良いことかと思ったものだが、今ではそれが実現されている。 ヘリテージホテルの新しい流れである。

    ラージャスターンの北東端に位置し、デリーやハリヤーナー州から週末を利用して訪問する家族連れ、友人連れなどが多い。距離的に近いのに、ずいぶん地域色の濃い地域である。こうした建物が比較的エコノミーな料金で利用できることも、かなり喜ばれているのではなかろうか。

    もちろん、見事なハヴェーリーが残っているのはシェーカーワティーに限らない。他のところにもそれぞれの地域のテイストの興味深い屋敷が沢山残っている。だがそれらの多くは今も個人の邸宅であるがゆえに、通常私たちがそれらの中を見物する機会はあまりないのである。

    <続く>

  • 旧くて新しいホテル1

    インドでホテルといっても様々なタイプがあるが、かつて中級クラス以上のところは一部の例外を除けば、概ね洋風の宿泊施設が一般的であった。料金帯により建物、室内、接客その他サービス等のグレードが変わっていき、個人所有から大きなホテルチェーンが運営するものまで、経営母体は様々ではあるものの、宿泊施設としてはあまり特徴のあるものは多くなかった。

    一部の例外的なタイプのホテルといえば、ヘリテージホテルということになるが、大別してふたつに分けられる。植民地時代から主にイギリス人を初めとする欧州系の顧客相手に営業を続けてきた由緒ある『コロニアルホテル』あるいはインド独立時に併合された旧藩王国の地域で、王族の宮殿を宿泊施設に改装した『宮殿ホテル』がそれらの代表格だろう。前者も後者もトップレベルのものは高級ホテルチェーンが運営を担っていることが多いが、それ以下は政府系の公社や小規模な民間業者が請け負っていたりといろいろで、前述の洋風の宿泊施設と運営形態は大差ない。

    『コロニアルホテル』には欧印折衷の植民地建築を後世になってから宿泊用に転用したものも含めてよいだろう。またダージリンやシムラーのようなヒルステーションでは、植民地期に欧州人クラブであった建物ないしは欧州人が建てさせた邸宅などが宿泊施設となっているものもある。だが『宮殿ホテル』においても、ほぼ洋館といった風情の建物も少なくないため、両者の境目は判然としない場合もあるだろう。

    細密画の手法が盛んであった時代には藩王その他の貴人たちの横顔が描かれていたものだが、インドにおいてイギリスの植民地化が進むに従い植民地当局の庇護下に入ると、写真技術が伝わったこともあり、近代に入ったあたりでは肖像画が正面から描かれるようになるなど、西洋の影響が大きくなった。建物や調度品等も同様で、ある時期以降は洋風のものが多くなっている。

    ともあれ、従前はこれら『コロニアルホテル』『宮殿ホテル』を除き、地域色を感じさせるものはあまり多くなかった。

    だが90年代からの高度経済成長とともに始まったインドの人々の間での『旅行ブーム』が起きた。以降、旅行という行動は一定以上の可処分所得のある人々の間で余暇の過ごし方のひとつとしてすっかり定着している。

    災害、テロなどが起きれば、たとえシーズンであってもサーッと潮が引くように姿を消してしまう外国人旅行客に比べて、景気の変動があったり、異常気象が続いても人出にあまり影響の出たりしない国内客が増えたことは、観光業の安定的な発展には好ましいことだ。そもそもベースとなる顧客数自体が大幅に増えたことは、観光関連産業の隆盛に大いに貢献し、ひいては旅行インフラの整備へと繋がったことは言うまでもない。

    宿泊施設の数は増え、訪れる人々のタイプや好みも多様化する中で、それぞれの土地ならではの『ご当地ホテル』が次々に出てくるのはごくもっともなことであり、今後もそうした流れは続くことだろう。

    例えばゴアのパナジでは、ポルトガル時代に建てられた南欧風建築が次々に壊されて味気ない今風の建物に置き換わっているのとは裏腹に、それらをホテルやペンションに転用する例もまた増えている。

    もっともこれは建物のタイプは異なるものの、旧植民地家屋という意味で、先に挙げたヒルステーションに点在する英国的な建築物から転用されたものと性格は共通するものがある。ゴアの外から来た人たちにとっては、ポルトガル風建築自体が普段馴染みのないエキゾチックなものであることは間違いないが、これとてコロニアルホテルの一種ではある。

    <続く>

  • 美しすぎる大臣の訪印

    美しすぎる大臣の訪印

    7/27にインドのクリシュナ外相と会談したパーキスターン外相ヒナー・ラッバーニー・カル氏

    今年2月に『美しすぎる大臣?』として取り上げたヒナー・ラッバーニー・カル氏。ちょうどその時に同国の内閣改造時にパーキスターンの外務副大臣に相当する職に抜擢されており、ひょっとしたら将来大化けするかも?と思ったのだが、意外にもその日は早くやってきた。

    しばらく空席になっていた外務大臣の職に任命されたのが7月19日。翌日20日には就任の宣誓を行なっている。同国初の女性の外務大臣であるとともに、34歳と最年少での就任だ。パーキスターンのリベラルな顔として、今後しばらく目にする機会が多いことだろう。

    就任直後に彼女はPTVの独占インタヴューに応じている。華やかな見た目に似合わず、落ち着いた低い声と自身に満ちた口調でシャープに応対している。演説もかなり上手いのではないかと思われる。

    PPP Hina Rabbani Khar Sworn In As Foreign Minister

    7月27日にデリーに到着し、45歳年上のインドのS.M.クリシュナ外相と会談。その後マンモーハン・スィン首相、ソーニアー・ガーンディー国民会議派総裁、BJPの重鎮L.K.アードヴァーニー、スシマー・スワラージ等とも会談している。

    また在デリーのパーキスターン・ハイコミッション(大使館に相当)では、インドのカシミール地方で分離活動をしている指導者たちとも面会をしている。

    今回のパーキスターン外相のインド訪問において、特に大きな成果があったわけではなく、かといって何か深刻な摩擦が発生したということもない。両国側とも粛々と日程をこなして、7月29日にはパーキスターンの指導者が訪印する際のお決まりのコースのひとつになっているアジメールのダルガーに参詣した後にパーキスターンに帰国している。

    インドのメディアでは、印パ外相会談について、あるいはインドの他の指導者等との会談についての報道はもとより、スタイリッシュで若くて美しく、身分の高いパーキスターン人としてセレブ的な扱いもしていたのがとりわけ新鮮であった。日刊紙を複数購入して関係記事目にしてみると、彼女の『美』に関するものがずいぶん多い。インターネット上にもそうした調子の記事等がいくつも出ている。ヒナー・ラッバーニー・カル氏には、『重厚なオジサン政治家』にはあり得ない、グラビア的な輝きとヴィジュアルな魅力がある。

    Hina Rabbani Khar’s date with India (NDTV Photos)

    彼女のファッションについての話題も沢山見受けられた。日刊紙上では、イギリスのケンブリッジ公爵夫人キャサリン(ウィリアム王子夫人)よりもセンスが上、などと書いている記事も見かけた。

    Hina Rabbani Khar fashion statement

    Meet Pak’s youngest and stylist foreign minister, Hina Rabbani Khar

    年齢的にも閣僚クラスとしては異例の抜擢であり、インド側としても彼女が突然、今年2月にパーキスターンの外務副大臣相当職にされてからようやく、『ヒナーってどんな人?』と云々されるようになった。これまで全くノーマークの人物である。

    これまでにない若い世代の大臣であることによるしがらみの無さ、類まれな美貌とファッションセンスと相まって、インドでは好意的に迎えられるとともに、隣国との間の友好的なムードを醸し出す効果があったといえるだろう。

    だが、出自が大地主層にして政治エリート家族の一員ということはあるものの、パーキスターン政界という、極めてマスキュリンな社会の中で若くしてめきめきと頭角を現してきたヒナー・ラッバーニー・カル氏は、ただのセレブではないし、無垢なお嬢様でもなければ、世間知らずのお姫様でもない。自分の父親かそれ以上の年齢の大物たちを相手に堂々と渡り合うことができる女傑なのだから、とりわけインドのメディアは鼻の下を伸ばしている場合ではない。

    彼女の姿に、故ベーナズィール・ブットー氏の面影が見える気がするのは私だけではないだろう。今後の大きなポテンシャルを感じる。

  • 古い写真の記憶

    写真やアルバムは本人や家族にとって大切なものだ。年月を重ねるにしたがってその価値や重みを増していく。 その画像に写っている『現実』がどんどん遠いものとなっていくからだ。

    大人になってから眺めてみる子供時代の写真、今では年取った親の若いころの写真、社会に出てからずいぶん経ってから、ふと開いてみる学生時代の卒業アルバム、そこには今とは違う自分や家族や友人たちの姿がある。

    どれも懐かしい思い出に満ちている。時間の経過とともに記憶の中で特に良かった部分が、非現実的なまでに増幅して思い起こされるものだ。 そうした昔の写真は、さらに時を経てそこに写っている個人やその家族のみならず、そこに記録された時代を知る貴重な手がかりとして、万人にとって価値あるものとなってくる。

    インドの古い写真をブログ的に取り上げているOld Indian Photosというサイトがある。1850年代から1970年代にかけての写真が取り上げられている。セピア色の画像の裏に繰り広げられていた当時の日常、そこに写っている人々はすでにこの世に無く、その個々を知る人さえない忘却の彼方に去って行った過去もある。今とはずいぶん違う景色、現代とは異なる装い人々の姿から当時の世相や習俗が伝わってくる。

    想像力たくましくして、色褪せたモノクロームの写真に『記憶された』風景の背後に思いを馳せたい。撮影者の目の前にあった当時の日常生活、彩り豊かな失われた昔日をゆったりと眺めてみたい。そこには人々が歩んできた歴史があり、それは言うまでもなく今の私たちの時代に繋がっている。

  • 暴力以外のアフガニスタン報道

    アフガニスタンに関するニュースといえば、戦争やテロといったネガティヴなニュースが大半を占めているが、なんだかホッとする記事を見かけた。

    Ten facts you may not know about Afghanistan (BBC NEWS SOUTH ASIA)

    ブズカシの競技の様子を伝えるビデオ、携帯電話の普及、マッチョな気質とは裏腹に詩をたしなむ文化と豊かな食の世界、世界最古の油絵が描かれた国・・・といった事柄が簡潔にまとめられている。

    インド世界のすぐ外側にありながらも、かつて西欧のバックパッカーたちがこぞって訪れた観光地としての過去とは裏腹に、ずいぶん距離感をおぼえる国だ。

    上記リンク先の記事の内容をカバーした番組が7月6日にBBCで放送されたようである。これからもまだまだ混乱は続くようではあるが、一日も早く市井に生きる普通の人々の顔が見える、もっと身近な国となることを祈りたい。

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • タイ 下院総選挙迫る

    タイ 下院総選挙迫る

    投票日を7月3日に控えたタイの下院総選挙。前評判では海外に滞在しているタクシン元首相が操るタイ貢献党が現在の与党の民主党をわずかにリードしているとのことで、再び政権交代ということになるのだろうか。辛くも民主党が持ちこたえたとしても、今後の政局はかなり苦しいものとなるとの見込み。

    2008年の黄色いシャツがシンボルの反タクシン派であるPAD(People’s Alliance for Democracy民主市民連合)によるバンコクの空港占拠、2010年に起きたそれと逆の立場の赤シャツがトレードマークのタクシン派UDD(National United Front of Democracy Against Dictatorship反独裁民主戦線)がバンコク市内で繰り広げた大規模なデモ活動とそれに対する政府側の弾圧といった非常に大きな出来事は記憶に新しいところだ。

    まさにそれらふたつの対立する勢力が真っ向から衝突するのが今回の選挙だが、結果はどうあれ国民和解への道のりは遠いものと思われる。

    カッコいいアピシット首相

    それはさておき、ハンサムな風貌で知られるアピシット首相はもとより、勝てばタイ初の女性首相となるインラック・チナワット氏(タクシン元首相の妹)もまた相当な美人。おかげでタイの政治にまったく興味関心のない筋からも注目されている今回の総選挙のようである。

    美貌のインラック・チナワット氏
    インラック氏(右)と並んで写る妹のピントンガ氏もまた大変な美人