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カテゴリー: society

  • インドヴィザのオンライン申請

    今年4月からインドヴィザのオンライン申請が開始されている。

    オンラインビザ申請について(インドビザ申請センター東京)

    これにより、申請手続きに出向く手間が省けるのかと思いきや、実はそうではない。

    ウェブ上で必要事項を入力、申請日を確定してからプリントアウト、その申請日に窓口まで出かけてパスポートその他必要物とともに提出する必要がある。受け取りに出向く手間と合わせて、申請者側にとっては利するものは特にない。ウェブ上で確定した申請日は、基本的に変更できないようなので、かえって面倒になったといえる。

    『オンライン化したといっても、ちっとも便利ではないじゃないか!』と思うかもしれないが、もともと申請者の便宜を図るためのものではないのだろう。従前の紙媒体による申請と異なり、申請者の情報を効率的にデータベース化して、出入国管理に役立てようという、当局の便宜を念頭に置いたものであることは明らかだ。

    これによって、申請者個々のパスポート番号や発行日等が変更となっても、はてまた二重国籍を有する個人が複数のパスポートで出入国していたとしても、特定の個人の申請・出入国状況を把握することが容易になることから、テロ等の治安対策はもとより、不法入国等、当局側にとって好ましくない人物でないかどうかをスクリーニングすることが可能となる・・・のだと思う。

    オンライン申請ページを開き、先に進んでみると、申請者名入力の部分のすぐ下の「性別」ところには、male,female以外に「transgender」という区分があるのにはちょっとびっくりさせられる。

    それはともかく、この措置が開始されたばかりであるため、システムそのものに多少の問題があったり、申請センターのウェブサイトでの説明が足りない部分もあったりするのか、申請に出向いたもののオンラインでの入力内容に不備があるとされて、再度出向かなくてはならなくなったという話も耳にする。

    常々感じていることだが、インドにとって通常は特に問題のない日本その他国籍の人々について、こうした手続きの簡素化を進めてもらえないものだろうか。短期の滞在の場合、アライバルヴィザという措置はあるのだが、空港での手続きはスムースとはいえず、どうにかならないものかと思う。

     

  • ヤンゴンの往来にて

    ヤンゴンの往来にて

    往来にバイクの姿がないヤンゴンの街

    訪れるといつも「通りがずいぶんすっきりしている」と思っていた。渋滞がないわけではないが、アジアの大都市の中ではクルマがかなり少ないほうだ。だが交通の密度ではなく、何かが決定的に違うような気がしていた。

    他の旧英領の国々でよくあるように、路肩がゼブラに塗られていたり、コロニアルな建築物が多かったり、ダウンタウンから北に向かうと道路の両側に緑が多かったりして美しいのだが、マレーシアやシンガポールなどでも、そのあたりは似たような感じだし、それらの国々のほうが、ここよりよっぽどキレイに整備されている。

    夕方、ビールを飲みながらロンリープラネットの最新版ガイドブックのヤンゴンのチャプターを開いていて目に入ったのが「Motorcycle free」という見出しの短い記述。何年か前に、軍の高官を乗せたクルマがバイクに乗った者に攻撃されたのがきっかけにより、市内へのバイクの乗り入れが禁止されたとある。

    ミャンマーに限ったことではないが、言うまでもなくアジアの多くの地域でバイクは実用の足である。この国でも、ヤンゴンから出るとバイクは沢山走っているし、バス以外の公共の交通手段がバイクタクシーしかない土地も多い。

    所得水準が向上するにつれて、乗用車を購入するようになったり、あるいは趣味としてのバイクに乗ったりするようにもなるのだが、やはり自動二輪は市民の貴重な交通手段だ。

    バイクが走ることができない分、市バス網が発達しているという部分で埋め合わせされていると考えることはできるが、田舎町と違って格段に広がりのあるミャンマー最大の都市で、自前の交通手段があるかないかで、日々の利便性は比較にならないくらい違うだろう。

    おそらく行政区分によって「ここからバイク進入禁止」などと定められているのだろうが、その境界のすぐ外に住んでいて、バイクを所有している場合、目の前に広がる都市部に乗り入れることができないことにジレンマを感じずにはいられないだろう。「職場までバイクなら10分なのに、通勤時間帯のバスはひどく込み合っているし、回り道するから30分以上かかってしまう・・・」とかいうこともあるだろうし、禁止区域に入ってすぐのところに暮らしている場合など、それとは反対に自宅までバイクで戻ることができないので所有できないなどということもあるかもしれない。

    歩行者としては、クルマの間を縫うようにして飛び出してくるバイクがいないだけで、大通りはずいぶん渡りやすくなるのだが・・・。

    「通りがすっきりしている」と感じたのは、まさにそれゆえのことであったようだ。

     

  • 再会ならず

    初めてヤンゴンの街を訪れたのは、1988年2月のことであった。

    当時は入国するにあたり、空港で100米ドルの強制両替があった。実勢と大きくかけ離れた馬鹿らしくなるようなレートによる現地通貨チャットと等価ということになっていた外貨兌換券(FEC)への換金である。

    当時、この国では家電製品や贅沢な品々は、闇ルートで細々と入ってくるものが主であった。ダウンタウンのスーレー・パゴダのすぐ北には、国営の外貨デパートがあった。そこでは外貨を持つ人のみが買い物をすることができた。

    そんな具合であったので、ブラック・マーケットで米ドルを地元通貨チャットに替えるよりも、空港の免税店で購入したブランドものの洋酒やタバコを持ち込んで、声をかけてくる商売人たちに売り渡すと割が良かった。私も、バンコクの空港で買ったジョニー・ウォーカーとカートン入りのタバコでチャットを手に入れた記憶がある。

    そんな具合ではあったものの、この街で出会った人々の印象はすこぶる良かった。市内のレストラン等で食事をしていると、隣り合わせてしばらく話をした相手がいつの間にか私の分まで払ってくれていたりすることが何度もあった。

    また、当時同年代であった若者たちと街で知り合い、彼らの家々を訪問させてもらったり、ごちそうになったり、市内を案内してもらったりと、とても楽しく過ごさせてもらった。その頃、みんな地元の大学の学生たちであった。

    その半年後、1988年8月8日に始まった民主化運動が高揚していった末に待ち構えていたクーデターとそれに続く強権による弾圧が伝えられていた中、あの人たちはどうしているのだろうか、と非常に気にかかったものだ。

    中にはタイに逃れた者もあったし、日本に来てそのまま今まで住み続けている人もある。当時の状況下で、しばらくの間は大学そのものが閉鎖されていたため、そのまま学業を放棄したという人は少なくなかったようだ。その中のひとりで、ずいぶん長く東京に暮らしている人と、しばらく前に久々に再会することができた。当時の彼の仲間のうち、一人は病気で亡くなり、もう一人はタイに亡命中に死亡したという話を聞き、とてもショックであった。

    だが、近々ヤンゴンを訪れるのだと言うと、今も同じエリアに住んでいる仲間、F君がいるので会ってみたら?と、住所を教えてくれた。F君とは、1988年にこの街を訪問した際に知り合った当時の大学生たちの中のひとりである。親切でにこやかな好青年の顔が脳裏に蘇ってきた。

    そのヤンゴンに来たので、ぜひとも再会してみようと、当時の写真を手にして彼の家に向かうことにした。平日は忙しいだろうからと思い、日曜の昼過ぎにそのストリートに行ってみた。

    当時の風景についての記憶はあまりないが、たぶんその頃からあまり変わっていないのではないかと思う。河沿いのダウンタウンの整然とした造りの街並みにマッチした古くからある集合住宅が立ち並んでいる。

    「このあたりだろうか?」と見当を付けて、年配男性に声をかけてみた。なんともうまい具合に、彼はF君の兄だという。それにしては年齢が高すぎる気がしたが、ムスリムなので大家族であるとすれば、親子といっていいほど年が離れた兄弟がしてもおかしくはない。

    だがその兄だという人の反応がどうも妙な具合だった。私が見せたF君の写真をまじまじと眺めて、「そう、私の弟だ。ずいぶん昔の写真だね・・・」と言ったきり、口を閉ざしてしまった。そうこうしているうちに、物見高く、しかし親切な人たちが集まってきて、その写真の中にある数人の中から、現在東京に住んでいるS君の姿を見つけた人が、その兄を連れてきてくれた。

    「おぉ、君のことは東京に住んでいる弟から聞いているよ。ウチに寄らないかい?ところで誰を探しているのかな?」

    写真の中のF君を指すと、少々困惑したような表情を見せて「この人については知らないなあ。会ったこともない」と言う。写真の中のS君、F君その他は非常に仲の良い友人たちで、足繁く行き来していたはずだが、S君自身がずいぶん長く国を離れているため、もう忘れてしまったのかと思ったら、どうやらそうではないらしいことが、その後知ることとなった。

    S君に書いてもらった簡単な地図には、F君の家のある建物の一階が帽子屋と書かれており、それらしき店を見つけた。三階がF君の家とは聞いていたものの、確かめもしないでいきなり訪問するのも気が引けるし、まったく見当違いの家であったらなお困るので、この店で尋ねてみることにした。店内の姉妹らしき女性たちはおそらく私と同年代、つまりS君とも同じくらいの年ごろだろう。

    写真を見せると、彼女たちは懐かしそうな面持ちでそれを眺めている。

    「ああ、ずいぶん昔の写真ねえ。みんなこの辺りに住んでいたわよ。引っ越してしまった人たちもいるけど・・・」

    この人は昔からこの通りに住んでいるらしい。

    「F君は今もここに居ますか?」と尋ねると、「彼の家族は住んでいるけれども・・・」と言葉を濁す。「彼はどこか別の街で働いているんですか?」と再び質問すると、今度は返事がなかったが、姉妹の年かさのほうの女性は、ちょっと思い切った様子で口を開いた。

    「彼はお尋ね者になっているの、窃盗を繰り返してね。家族の人たちとの縁も切れているのよ」

    何ということだ。どういう事情があったのか知らないが、この通りではF君は誰もが触れたがらない人物になってしまっているらしいことがわかった。道理で、F君自身の兄だと自称する人物の反応、そしてS君の兄の困った表情も合点がいく。

    余所者が根掘り葉掘り聞きだすわけにはいかないし、F君について質問された相手が迷惑していることも判ったので、ここで切り上げて退散することにした。残念ながらF君との再会はならなかった。

    人それぞれに、様々な人生があるものだ。

  • インパールからマンダレー行きのバス

    5月27日から本日29日まで、ミャンマーを訪問したインドのマンモーハン・スィン首相は、首都ネーピードーにて同国のテイン・セイン大統領との間で、二国間関係の強化、とりわけ貿易や投資といった分野に加えて資源開発等に関する話し合いを持った。この場において、インドにからミャンマーに対する5億ドルの借款供与も決定している。首相の訪緬に合わせて、インドの産業界の代表団も同国を訪問するなど、今やブームとなったミャンマー進出について、まさに「乗り遅れるな!」というムードなのだろう。

    両国間を結ぶフライトの増便その他交通の整備も予定されているのだが、とりわけ注目すべきはインドのマニプル州都インパールと、ミャンマーのマンダレーを繋ぐバス路線の開設。当然のことながら、旅客の行き来だけではなく、様々な物資の往来のための陸路交通網の整備も下敷きにあると見るべきであるからだ。インドにしてみれば、自国の経済圏のミャンマーへの拡大はもとより、その他のアセアン諸国へと繋がる物流ルートの足掛かりともなる壮大な構想が可能となる。

    同時に、現在までのところあまり注目されていないが、ミャンマーとのリンクにより、これまでインドがなかなか活路を見出すことができなかった自国の北東州の経済振興にも大きな役割を果たすであろうことは誰の目にも明らかだろう。長らく内乱状態を抱えてきた地域だが、近年ようやく沈静化しつつあるが、特に期待できる産業もなく、中央政府にとっては何かと負担の大きな地域であったが、ここにきてようやく自力で離陸させることができるようになるかもしれない。

    インドとアセアンという、ふたつの巨大な成長の核となっている地域の狭間にあるミャンマーは、これまで置かれてきた状態があまりに低かっただけに、今後の伸びシロは非常に大きなものであることが期待できる。

    先進国による経済制裁が長く続いてきたミャンマーに対する諸外国の直接投資の中で、中国によるものがおよそ半分を占めていたが、隣接するもうひとつの大国インドが急接近することによって、ミャンマーは漁夫の利を得ることになるのだろうか。

    ヒマラヤを挟んで、印・中両国がせめぎ合うネパールと異なり、自らが所属するアセアンという存在があることも、ミャンマーにとっては心強い限りだろう。今後、経済制裁の大幅な緩和、いずれは解除へと向かうであろう欧米諸国のことも考え合わせれば、地理的な面でもミャンマーは大変恵まれている。

    本日、5月29日には、ヤンゴンにて野党NLDを率いるアウンサン・スーチー氏とも会談している。スーチー氏は、学生時代に母親がインド大使を務めていたため、デリーに在住していたことがあり、デリー大学の卒業生でもある。当時、インドの首相であったネルー家とも親交があった。彼女自身の政治思想に対してインドが与えた影響は少なくないとされる。

    印・緬両国の接近は、双方にとって得るものが大きく、周辺地域に対するこれまた良好なインパクトも同様であろう。今後末永く良い関係を築き上げていくことを期待したい。インパールからマンダレーへ、マンダレーからインパールへ、バスは人々の大きな夢と明るい未来を乗せて出発しようとしている。

  • SHOLAYが3Dで蘇る

    1975年に公開されたラメーシュ・スィッピー監督による映画SHOLAYといえば、インド映画史上最大のヒット作のひとつ。今も燦然と輝く金字塔的な存在だ。

    若き日のアミターブ・バッチャン、ダルメーンドラが出演し、この映画の制作を通して、前者とジャヤー・バッチャン、後者とヘーマー・マーリニーというビッグなカップルが二組も誕生した。

    ダルメーンドラについては、当時すでに妻子持ちであったのだが、最初の結婚を解消することなく、ヘーマー・マーリニーを娶るという離れ業?を遂げている。おそらく家庭内では大変な騒動になっていたのではないだろうか。

    ダルメーンドラと同じく俳優のサニー・デーオールとボービー・デーオールは最初の結婚で出来た息子たち。女優として活動しているイーシャー・デーオールは、彼らの異母妹にあたる。

    アミターブ・バッチャンとダルメーンドラという、当時の若きヒーローたちの存在に加えて、SHOLAYを歴史的な大作の地位にまで押し上げたのは、二人が演じる主役との対立軸に、悪役の中でも迫力に抜きんでた名優アムジャド・カーンがいたからだろう。彼が演じた役柄「ガッバル・スィン」は、名前そのものが悪漢、盗賊の代名詞のようになったほどだ。

    SHOLAYのリメークとして、近年はラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のAAGが話題になったが、1991年にはパロディ作品でRamgarh Ke Sholayというコミカルなもの(低予算な映画だが面白かった)もあった。隣国パーキスターンでも、似たような映画が制作されていたようだし、インド国内でも、地方映画でこれに触発された作品があったのではないかと思う。

    今年8月には、本物のSHOLAYが3D化されて公開予定。封切りは、8月15日。インドの独立記念日である。老若男女、誰もがよく知っている映画ではあるが、再度大きなヒットを期待したい。

    Gabbar Singh set to return on screen, this time in 3D (India Today)

     

  • ヤンゴンのジャイナ教寺院

    ヤンゴンのジャイナ教寺院

    

    コロニアルな建物のジャイナ教寺院。

    先日述べたサティヤナーラーヤン寺と同じく29th Streetにジャイナ教寺院もある。こちらは信徒である年配のご兄弟が管理人をしている。一人はこの寺院を管理するトラストのプレジデント、もう一人はセクレタリーという形だが、同時にここのプージャーリーでもある

    お二人の話によると、ヤンゴンにて最盛期にはジャイナ教徒の人口は5千人を数えたという。だが今残っているのは二家族だけで、彼らはそのうちの一つであるとのことだ。寺院はコロニアルな建物に入っており、地上階はトラストの事務所、セカンド・フロアーが寺となっている。ファースト・フロアーも昔は祭壇があったとのことだが、今では使われていない。

    すでにほとんどのジャイナ教徒がこの国を去っているため、参拝客はほとんどいないそうだが、ときおりプージャーに参加するネパール人があり、いたく感激してくれるとのこと。しばらく事務所で話を聞いていたが、「さて、そろそろプージャーの時間ですよ!」と上階にある寺院へと招かれた。

    祭壇

    長い白布を左肩から斜めがけに付けてもらい、神殿正面に立ち、真鍮のお盆に灯明を載せたもの(火の数が多いものと少ないものと二種類あり、プージャーの間の節目ごとにセクレタリー氏が取り替えてくれる)を抱えて時計回り動かす。セクレタリーの人が朗誦するマントラを耳にしながら、感激がこみ上げてくる。これまでインドの寺院ではプージャーを背後から見物したこことは幾多あっても、こうした形で主体的な形で参加させてもらったことはなかった。しかもジャイナ教寺院で!

    信徒が二家族しか残っていないという割には、非常に良い状態で保たれている。

    事務所があるグラウンドフロアーとこの階との中間階、つまりファースト・フロアーもかつて寺であったが、今では使われることもなく、備品はすべて処分してしまったとのことだ。それでも奥の壁のニッチには、マハーヴィールの足跡のイメージがあった。

    この地に残る信徒は二家族のみということからも、まさに風前の灯といった具合のようだ。ご兄弟には複数の子供たちがいるそうだが、特にこの寺に関わりを持ってはいないとのこと。「若い世代は物の考え方など違いますからねぇ・・・」と、少々諦めている様子。だがその割には、ずいぶん綺麗に保持されていることには驚いた。国外からの援助でもあるのだろうか。

    「私どもの寺には150年の歴史があります」というご兄弟の言葉が本当であれば、第二次英緬戦争により、イギリスがヤンゴンを含む下ビルマを占領してから10年ほど後には、この寺院が建立されたことになる。多少の誇張が含まれているであろうことを差し引いても、19世紀末近くにはすでに存在していたことと思われる。この寺院は、ヤンゴンにおける「インド人史」の変遷を、つぶさに目の当りにしてきたことだろう。

  • ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

    ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

    ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

    ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

    植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

    ヒンディーのクラスについての貼紙

    寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

    サティヤナーラーヤン寺

    「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

    ・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

    「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

    今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

    南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。
  • 再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルの墓

    5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

    場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

    ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

    ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

    礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

    また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

    やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

    金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

    1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

    金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

     

  • 携帯電話のレンタルSIM ヤンゴン空港にて

    ヤンゴンの国際空港に到着して、びっくりしたことがふたつ。

    ひとつは両替カウンターが出来ていたこと、もうひとつはレンタルSIMを扱う業者が出店していたことだ。

    どちらも話には聞いていたが、実際に目にしてみるとなんだか信じられない思いがする。空港に両替屋があるなんて当たり前ではないか、と思われる方も少なくないかと思うが、昨年のこの時期に訪問したときはまだなかった。実勢レートで両替する業者が合法的に店を構えることができなかったため、とりあえず市内まではドル現金払いでタクシーに乗るしかなかった。

    またSIMカードについては、インドやタイなどのように廉価で入手できる状態にはまだないため、レンタル業者があるのは助かる。レンタル料金は1日2ドルで、借りる際に50ドルのデポジットを預ける。通話料金は別払いとなる。

    国内通話分と国際通話分と別々になっており、国内用は1万チャットで通話3時間分だという。国際用は10ドルだが、こちらは9分しか通話できない。通話代のチャージは外の店の多くでできるとのこと。ただし残念なのは、データ通信に対応していないため、スマートフォンであっても、ネット接続はできないことである。ごく最近、携帯用の3Gデータ通信のサービスも開始されたようなので、しばらくするとレンタルでも利用できるようになることだろう。

    自前の電話から積極的かけまくるわけではないのだが、必要とあればいつでも電話を受けることができるのはありがたい。また用事があってこちらからかける場合も電話屋にいくことなく、手にしている携帯電話からかけることができるのは助かる。

    レンタルのSIMは、不特定多数の人たちに貸し出されているがゆえのデメリットもある。レンタル中に、幾度か間違い電話がかかってくる。かけているほうにとっては間違いではないのだが、正しくダイヤルした番号はすでに他の人が利用しているのを理解しないことが多い。

    「ハロー、ラジヴさん?」「マルホトラさんでしょうか?」「おーい、元気かぁ?」「アショーク?」突然電話が鳴って、出てみると、異なる相手がいろいろな名前で呼びかけてくる。

    中には、わざわざこちらの番号を確認したり、前の借りていた人の番号を知っているかなどと尋ねたりする人もある。「間違いです」と切ってしまうと、また同じ人からかかってきて、「これはレンタルされている番号で、前の借主の所在等はまったく知らない」と説明しなくてはならなくなる。それでも食い下がってくる人がいるのにはホトホト呆れてしまう。

    なぜか、インドの国際電話が多かった。よほどインド人の借り手が多いものと思われる。迷惑だが、こればかりは仕方ない。

  • 自由の風

    自由の風

    1年振りに再訪したヤンゴン。路上の露店では、アウンサン・スーチーさんの姿や彼女が率いるNLD(National League for Democracy)の星とクジャクからなるシンボルマークが描かれたグッズを見かけるようになっていた。キーホルダー、ポスター、ハンカチにTシャツなどだ。以前ならば想像できなかったことだ。主に若年層だが、そうしたTシャツを着て歩いている姿もチラホラ見かける。やはり政治思想の「自由化」は着実に進展していることの証だろうか。お寺の境内の回廊にズラリと並ぶ仏具その他を販売する小さな店でも、同様にスーチーさんのポスターが並んでいたりもする。

    NLDの事務所でも、そうしたグッズを販売しているところがあると耳にしたので、ちょっと見に行ってみることにした。とりあえず本部に出向いてみた。高級住宅街の一角にある立派な建物で、赤字に白い星と黄色いクジャクの党旗がはためいているのに気が付かなければ、まるでどこか有力な国の大使館かと勘違いしてしまいそうだ。そこでは関連グッズの販売はしていないとのことで、シンガポール大使館の近くにある支部に行くようにと言われた。

    大通りに面した支部では、事務所の外のテントにて、マグカップにハンカチ、ポロシャツにTシャツ、バンダナにブロマイドといった、様々なアイテムが販売されており、お客もそこそこ入っているようだ。

    こうした身に付けるものを販売するというのは、なかなかいいアイデアだと思う。購入した人々が、こうしたモノを身に付けることにより、街中では視覚的にもNLDの存在感が感じられるだろう。地が赤色の党旗をベースにデザインされている点もいい。色彩的にも特に目につきやすい。

    ちょうど今のスーチーさんは、かつてインドの独立闘争時代のガーンディーのような存在だろうか。幾多の弾圧に耐え抜き、家庭生活を犠牲にしながらも、断固として意志を曲げることなく、闘い続けてきた。しかも武器によらず、言論の力によって。

    野党勢力の中に、スーチーさんに匹敵するカリスマを備えたリーダーはなく、政権vsスーチーさん率いるNLDという二極化した対立軸に見えるが、少なくとも今の時点においてはこれでいいのだろう。それであるがゆえに、反政権側では力を集結しやすく、反対に政権側にとっても、どのように動けば民心を取り込むことができるかわかりやすい。

    それがゆえに、一昨年の総選挙後から、現政権はこれまでのNLDの主張してきたことのお株を奪うかのように、数多くの改革を繰り出してきた。総選挙当時は『軍政の看板の掛け替え』と揶揄されたのがまるでウソのように、多くは軍服を脱いだ元軍人たちが主体であるにもかかわらず、「改革者」としての手腕を発揮するとともに、「政治の自由化」を演出して見せている。

    いたずらに国民の支持が分散して混乱を招くよりも、まずは旧政権から「看板を掛け替えたはず』の政権与党が、自ら改革の手本を示し、人々が「彼らもなかなかやるじゃないか」と、それなりの評価を得ることは決して悪くない。もとより、総議席数の4分の1は軍人枠という安全弁があるので、次回の選挙時に現政権は最悪でも総議席の4分の1をわずかに超える議席を確保できれば権力を維持できる。軍の意向に反することさえなければ、負けることはないだろうという強みがある。

    「民主化」の標榜は、経済制裁の解除ないしは緩和を狙った、国際社会復帰のために方便であったとしても、一度この方向に舵を切った以上は、この流れを止めることは誰にもできないだろう。ミャンマーの「上からの改革」とNLDを中心とする野党勢力による圧力が、この国をよりよい方向へ進んでいくことを願ってやまない。

    ただし、インド顔負けの多民族・多文化の国家であるミャンマー。各地方の反政府勢力との和解も進んでいるようではあるものの、中央におけるこうした動きがそのままこれらの地域にも及んでいくとは限らない。民主化とともに、国家の統合という部分でも様々な問題を抱えたこの国の前途は多難であることは否定できない。

  • 電子書籍

    英文出版大国インド。自国インドの様々な分野における興味深い書籍が大変多いのだが、流通面ではいつでもどこでも手軽に何でも手に入るという具合になっているとは言い難い。

    大都市の大きな書店に行けば、いろいろと購入したくなるものがあるとはいえ、やはり特定の対象についてドカッとまとめ買いするには、各出版社のショールームに足を運んで見繕ったり、スタッフにあれこれ尋ねて引っ張り出してもらうのが一番だ。

    とはいえ、自分自身の状況から、随時そうしたところに出向いて購入するわけにもいかず、さりとて自宅のスペースの問題もあり、関心を引かれるが果たしていつ扉を開くかもわからない本を狭い自室にどしどし放り込むわけにもいかない。

    そんなわけで、これまで購入してきた図書類を、自己利用目的で日々少しずつスキャンしてPDF化、いわゆる『自炊』なる行為を続けている。もちろん紙媒体で読むのが一番だとは思うものの、生活との折り合いがあるので、こればかりは仕方ない。他方で、そうした書籍をブックリーダー、タブレットPC、あるいはDropboxにでも保存して、いつでもどこでも時間の空いたときに読みまくるという利便性については私自身非常に重宝している。

    どうせならば、最初から電子書籍版も販売されていればいいのに・・・と思う。だが特定のアウトレットやデバイスに依存するフォーマットではありがたさも半減なので、より汎用性の高いフォーマットだと助かる。取り扱いについてはPDFが楽なのだが、やはり違法コピーや著作権の問題もあるので、なかなかそうはいかないのだろう。

    そうした面で、比較的汎用性の高い形で電子書籍を販売している業者の中で、イギリスのTaylor & Francisがあり、インド関係の書籍もある程度は扱っているようだ。インド国内でも、電子書籍を販売しているサイトはいくつもあるが、今のところ特に興味を引かれるようなところは見当たらない。電子書籍の分野は、まさにこれからという段階にあるので、今後の進展に期待したいと思う。

    ところで著作権といえば、書籍とは関係ないのだが、先日ある方がfacebookで話題にされていた、こんな記事がある。

    音楽は発売後3カ月で使い放題に 中国が著作権法“改正”案検討 (Sankei Digital)

    上記リンク先記事に書かれている『著作権法改正案』が実現すれば、発売から3カ月後には、海賊行為が政府のお墨付きを得ることになる。こんな感覚なので、国内利用のみに限るという前提で日本や欧州から供与された鉄道技術を、いとも簡単に輸出してしまうようなことになるのだろう。

    中国高速鉄道“見切り発車”の初輸出 特許問題で日欧と国際摩擦に発展も(フジサンケイ ビジネスアイ)

    作り手側が叡智を集めて作り上げたものの利用については、まさにその受け手側のモラルが問われる。ゆえにそう易々と再頒布される可能性のある形で供与することができないことについては充分理解できるところだ。

  • 「半インド製」三輪EV日本国内で組立・販売へ

    今年10月から、日本エレクトライクがインドから輸入したバジャージ・オートの三輪車両をベースにした三輪EVを、日本国内で組立・販売するとのこと。

    日本エレクトライク、 3輪EV 「エレクトライク」 投入-インド社製を改造(日刊工業新聞)

    エンジンを外してバッテリーモーターと交換した電動車両で、デリバリー用としての需要を見込んでいるとのこと。日本の狭い道路にはちょうどいいサイズかもしれない。

    機会があれば試乗してみたいものだ。