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カテゴリー: society

  • ご当地仕様のホテル

    ご当地仕様のホテル

    夕方のそぞろ歩き
    Tシャツに描く絵描きさん。なかなか丁寧な仕事をしていらっしゃる。
    「死んだ家畜があったらお電話を」とある。そういう仕事もあるようだ。
    久しぶりにプシュカルを訪れてみた。ラージャスターン州の他地域同様、ここでもやはり古いハヴェーリー(屋敷)を改築したホテルが人気のようである。多くはカジュアルな宿泊施設で、手頃な料金でこの土地ならではの雰囲気を楽しむことができて楽しい。
    宮殿から転用されたホテルは昔からあるが、ラージャスターン州でハヴェーリーを改装した宿泊施設が一般的になったのは、2000年代に入ってからである。それまでは、ほとんど顧みられることもなく荒れ放題であったり、テナントに部屋ごとに細分化して賃貸していたりといった具合で、往時の面影はほとんど残されていないことが多かった。
    中世から近世にかけて、商売で成功した人たちが豪奢なハヴェーリーをラージャスターン各地に建築した時代があった。当時とは産業構造が異なり、多くは都市部に居を構えるようになっていたり、一族が肩を寄せ合って暮らすジョイント・ファミリーのような生活形態も過去のものとなっていたりするなど、ライフスタイルも変化している。大家族が暮らしていたハヴェーリーは、往々にして「賃貸物件」として部屋ごとに貸し出され、そこからの収入は大きな街に住むオーナーが受け取り、現地では縁もゆかりもない間借り人たちが住む「アパート」と化している。そこに暮らしているわけではないオーナーも、間借りしているに過ぎない借家人たちも、建物に対する愛着などないので、このコンディションに頓着するはずもない。ゆえにボロボロになってしまうのはやむを得ない。
    こんな建物をよく見かけるが、往時はさぞ立派であったことだろう。
    上の画像は、プシュカルの隣町アジメールのバーザールで撮影したものだが、ラージャスターン各地の商業地域でこのようなハヴェーリーは数多い。もしこれが宿泊施設に転用されたならば、かなり良い収入を見込めるだろう。
    だが観光地やその周辺にあるハヴェーリーについては、その資産的価値が見直されているようだ。建物の規模からホテルに充分転用できる可能性があること、一族とはいえ複数の世帯が暮らすように造られていたこともプラスに作用する。商家のハヴェーリーは賑やかで交通の便も良い商業地域にあることが多く、ロケーションの面からも観光客にとって都合が良い。
    ラージャスターンらしい意匠や装飾などが外国人客はもとより、インドの他地域から訪れる人々にとってもエキゾチックでアピールするものがある。これらについては、昨年の今ごろ「旧くて新しいホテル1234」でも取り上げてみた。
    好立地にある物件ほど、従前より賃借人に部屋ごとに貸し出しているケースが多く、建物の規模が大きいほど、既存のテナントに立ち退いてもらってホテルに転用することが容易ではなかったりするものの、こうした宿泊施設は今後も増加していくものと思われる。
    夕暮れ時の湖
    ガートへの入口
    さて、話はブラフマーの聖地とされるプシュカルに戻る。小さな湖周辺に町並みが広がり、幾つものガートが並ぶ。ガートにも幾つものスピーカーがあり、様々なことがアナウンスされている。「そこの人、サンダルを脱ぎなさい。外国人はちゃんと靴を脱いでいるのに、インド人のあなたは恥ずかしくないのか?」「汚い衣類をガートで洗濯するのはやめなさい」といった具合だ。ガートの様子を逐一監視できるように、監視カメラが設置されているようだ。
    ガートに多数出ている看板で、外国人用に英語で書かれているものには、「写真撮影禁止」「禁煙」といった事柄が書かれているのに対して、ヒンディーでインド人用に書いてあるものには、「ここで洗濯するな」とか、「トラストへの寄付は所得税の控除の対象になります。領収書を受領してください」などと書かれている。これら二種類のものは、並んでいるだけに、書いてある内容の相違がさらに際立つ。
    こうしたエリアに隣接するラクシュミー・マーケットの裏手に、Inn Seventh
    Heaven
    という宿がある。かなり建て増しがなされているようではあるものの、入り口の狭いドアをくぐった先にある広々とした中庭を中心に広がる洒落た光景には思わず息を呑む。料金帯の割にはプロフェッショナルなサービスが提供されており、マネジメントもしっかりしていることが窺える。今後長く繁盛するだろう。
    Inn Seventh Heaven
    最上階のレストランから階下を眺める
    ロビー周辺
    客室ごとに異なるテーマで装飾等がなされており、それぞれの部屋の前にもソファ、長椅子、ブランコ等々がしつらえてあるのだが、さりとて雑然とした感じにはならずに、上手に統一感を持たせたコーディネートがなされているあたりのセンスの良さからして、経営の主導は在外(インドの都会に暮らす人か、はてまた外国在住者か?)の人の手中にあるのかもしれない。
    あまりの人気のため、オフシーズンでも予約は一杯になりがちなので、宿泊の予定が決まれば数日前には電話等で予約しておくべきだ。西洋人の家族連れの利用も多く、子供たちと一緒に快適そうに過ごしている姿が見られる。最上階にしつらえてあるレストランもなかなかいいムードで、気の利いたメニューを提供している。グラウンド・フロアーにあるキッチンから上階に料理を運ぶために、凝った造りの木製の小さなリフトが使用されているのも、見る人の目を楽しませてくれる。
    実はすぐ隣にも似たような感じでハヴェーリーを改装してオープンしたホテルがあり、設備等悪くないのだが、同じような料金帯のInn Seventh Heavenかなり見劣りする。やはり内装のセンスの差であり、ランニング姿のオヤジが「いらっしゃい」と出てくるあたりやスタッフというよりも普通の「使用人」然とした従業員など、非プロフェッショナル的で典型的な家族経営のごく普通の宿であるだけに仕方がない。真横にあるホテルが満室でもこちらはガラガラに空いている。
    空いているお隣の宿。正直なところ、ここもなかなかいいのだが、どうしてもInn Seventh Heavenと比較してしまう。
    それでもプシュカルにはちょっといいホテルが増えた。かつては安旅行者向けの小さなゲストハウスばかりが点在していて、ややアップマーケットな宿泊施設といえば、ラージャスターン州政府観光公社RTDCのHotel Sarovarくらいしかなかったのだが、いまやLonely Planetのガイドブックにも掲載されなくなっているほど「無視された」存在となっている。
    RTDCのホテル
    ここに限ったことではないが、90年代以降、各地で様々なレベルの宿泊施設に民間資本が参入している。とりわけ宿泊施設については、地域の観光産業振興を牽引する役割は終えているといっていいだろう。事実、インド全土を見渡せば、かつては公営であったホテルが民間に売却された例は少なくない。とりわけ州都規模の街などは、民間大手ホテルグループにとって買収の手を挙げやすいようだ。
    さて、今後どのような面白い宿泊施設が出てくることになるのか予想もつかないが、東西南北それぞれの地域で歴史的な資産には事欠かないインドだけに、今後もご当地色豊かなホテルが出現してくるのを待つことにしたい。
    このあたりではホシガメか生息している。
  • バーングラーデーシュでドラえもん

    バーングラーデーシュでも往々にして隣国インドのテレビ番組を観ることができる。同じベンガル語のエンターテインメント番組はなかなか人気のようだし、お隣りの国で何か大きな出来事があったときなど、ニュース番組を点けてみる人も少なくないだろう。そうした意味では、国境を接するインドの西ベンガル州と同じコトバを話しているということにより、愉しみや情報を共有できるということ自体は、決して悪いことではないだろう。

    世の常として、経済的により高い位置にあるところから、それよりも低いところへは容易に受け入れられる。だが相対的に自分たちが上であると感じている側が、自分たちよりも低いところにあると考えている側のものを積極的に取り入れることはあまりないため、バーングラーデーシュ出身でもない限り、インドの西ベンガル州の住民が嬉々として国境の向こう側の番組を観るということはあまり多くないのではないかと思う。もちろんそれでも人気のドラマなどはあったりするのかもしれないが。

    ケーブルテレビに加入していれば、ベンガル語に限らず、ヒンディー語や英語の番組などもいろいろ観ることができるのだが、子供たちにはヒンディーのアニメ番組が人気で、とりわけ日本のドラえもんのヒンディー語吹き替え版が好評なのだとか。 その背景には、自国で子供たちが好むプログラムがあまり充実していないという現状があるそうだ。やはりそこは経済面でも人口面でも圧倒的に大きなインドのほうが優位にあるのは無理もない。

    ベンガル語自体が、ヒンディー語とあまりに大きくかけ離れた言語という訳ではないためか、テレビ番組を観ながら自然と隣国の最大言語を覚えてしまう子供たちは少ないないらしい。それはそれで結構なことではないかとも思うのだが、これについていろいろと懸念する向きは少ないないらしい。もちろん労せず身に付くのが英語であればそんなことを言う人はいないのだろうが。

    そもそも『インドではない国』として、東パーキスターンとしてインドから分離独立した国だ。しかし皮肉なことにパーキスターンと袂を分かってバーングラーデーシュとして再スタートするにあたり、同国の独立闘争に介入する形で発生した第三次印パ戦争でインドが勝利することにより出来上がった。つまりバーングラーデーシュの生みの親は、パーキスターンからの独立を求めて闘った人民であるとともに、それを工作と武力で支えたインドでもある。

    だが国体としては、バーングラーデーシュはインドの一部ではなく、あくまでもオリジナルなひとつの国でなくてはならず、ときに為政者がインドに接近することはあっても、ときにインドに激しく反発することもあり、相応の距離を置いて付き合ってきた。

    稠密な人口のはけ口もなく、インドとの分離前には生産地と市場とを分け合う補完的な関係にあった周辺地域(つまり現在のインドの西ベンガルやアッサム等)との関係やブラフマプトラ河の水運の便はもとより、水利の調整もふたつの国が別々になっていることによる不都合は多い。

    歴史に「もし・・・」という仮定はあり得ないが、かつてこの地域が東パーキスターンとして分離することがなければ、今の世の中でヒンディー語のアニメに懸念を抱く親たちはいなかったことだろう。もちろん社会や経済のありかたそのものが現在のそれとは大きく異なり、文字どおり「ベンガル人の国」としてのバーングラーデーシュではなくなっていたことであろう。『巨大な隣国インド』がなく、それが『自国』であったとすれば、国防費用が浮くだけではなく、そこで育まれる国家観や民族意識といったものもまた大きく違ったものとなる。

    視点を旧西パーキスターン、つまり現在のパーキスターンに移してみると、かつて自国の東側をインドによって失わされた経験は、インドに対する不信感を抱くひとつの大きな要因でもあるだろう。それがゆえに隣の大国インドに対して常に危機感を持つのは無理もない、ということにもなるのだ。

    ‘डोरेमॉन’ से डरे बांग्लादेशी मां-बाप (BBC Hindi)

     

  • LEH 1990 & 2012

    LEH 1990 & 2012

    手元に1990年の2月に撮影したレーの町並みの写真が2枚ある。そしてもう2枚は2012年の夏に撮ったもの。季節はもちろんのこと、レンズの画角やアングルは少し違うのだが、どちらもレーの町を見降ろす王宮脇からの眺めである。王宮は、1990年当時は廃墟といった状態で、内部はあちこち崩落していたため公開されていなかった。撮影したネガは紛失しており、すっかり退色してしまったポジをスキャンしたものだ。
    レーの町 1990年
    レーの町 2012年
    レーの町の東端 1990年
    レーの町の東端 2012年
    レーの王宮入口 1990年
    レーの王宮入口 2012年

    レーの町の中心を成すメイン・バーザール界隈の大きな建物や政府機関等を除けば、大半の家屋は伝統的なラダック式の日干しレンガを積み上げた構造のものが大半であった。宿もそのような家屋に手を入れたようなものが多かったように記憶している。

    レーのメイン・バーザール 1990年
    レーのメイン・バーザール 2012年

    レーの市内も主だった通りを除けば、大半は未舗装であったため、やたらと埃っぽかった記憶がある。他にもいろいろ撮っておけば良かったと思うのだが、フィルム時代であったため、低予算のバックパッカーにとっては、コスト面から一枚一枚がなかなか貴重であったため、今のように枚数を気にせずに撮りまくるようなことはできなかった。加えて、愛用していたニコンの機械式のカメラが故障したため、撮影数が少なかったということもある。

    当時のティクセの寺院の画像もある。かなり荒廃した感じに写っているが、その頃は実際そういう具合であった。僧侶たちの多くが携帯電話を所持していたり、その中の若い人たちの中にはスマートフォンを手にしていたりするような時代が来るとは想像もできなかった。

    ティクセ 1990年
    ティクセ 2012年

    今回のラダック訪問で、20年もの歳月が過ぎているので当然のことではあるが、レーや周辺の町並みの整備が進んだこと、主だった寺院その他の建築物が非常にいい状態にあることが印象的であった。やはりインドという国の経済が継続的に右肩上がりで推移していること、観光業もまた順調に振興していること等々の効果もあるのだろう。加えて、1990年当時には、外国人にとって完全に地域が、ILPを取得することにより訪問可能になっていることについて驚かされるとともに、大変嬉しく思った。電気を使えるのは午後7時から午後11時までというのは相変わらずであるし、夏季以外は陸路が閉ざされるという状況は変えようもないのだが。

    電気はともかく、まさに夏季以外の厳しい気候やアクセスの面での不都合があるがゆえに、外部からの人口流入も限られていることも、ラダックらしさが保たれているひとつの要因に違いない。とりわけ北東インドのアッサム州やトリプラー州のように、隣接するベンガル州はもとより、ヒンディー・ベルト地帯からの移住者が多い地域と比較すると、その差は歴然としている。経済的な理由により、ラダック地域内での人口の移動は相当あるのかもしれないが。

    地理・気候的に厳しい条件があるがゆえに、今後もラダックらしさが失われることはないのではないかと思われる。それとは表裏一体ということにもなるが、ラダックの今後については、「インドの中のJ&K州のラダック地域」としての位置付けではなく、ラダック独自の特別な扱いが必要ではないかと思うのである。それは、以前から要求のある州に格上げという行政区分上の事柄で片付くものではないように思う。

    外部から訪れる人々があってこそ成り立つ観光業を除き、いまだにこれといった産業があるわけではない。しかしながら戦略的な要衝にあるため軍施設は多いので、これに関連した雇用やビジネスのチャンスは少なくない。だが電力は圧倒的に不足しているため、これを必要とする産業の育成は難しく、人口密度も少ないためマーケットとしての魅力も薄い。それでいながらも、限られた条件の中で日々やりくりしながら過ごしていく余裕はあるというところが興味深い。他者に従属しない気高さが感じられる。

    蛇足ながら、個人的にはラダックでのヒンディーの通用度の高さには大変驚かされた。ヒンディー・ベルトとは、これほど地理的に離れた地域であり、民族的にも文化的にも大きな乖離があるにもかかわらず、農村のご婦人たちもごく当たり前に喋ることができる。J&K州の公用語がウルドゥーであるということもあるにしても、言語的にも文化的にも全く異質なコトバをこれほど広範囲に受容しているということは、ラダックの人々の柔軟さによるものであるとともに、中国を目の前にするインド最果ての地という地理条件によるものであろう。

    インドにあって、インドではないとも言えるラダックについては、あまり多くを知らないのだが、極めて独自性の高いこの地域で、将来に渡って持続可能な発展とは、どのような形のものなのだろうか。

  • パーキスターンの名門マリー・ビール復活へ

    気温も湿度も高いこの時期、幸せ気分にさせてくれるのは夕方のビール。休日であれば仲間や家族と昼間の一杯も心地よい。

    インドではいくつかの禁酒州(グジャラート州と北東部の一部の州)があり、その他のところでも聖地となっているような場所ではおおっぴらに酒が手に入らない場所もあるものの概ねどこに行っても幸福な黄金色の一杯が手に入るのはありがたい。

    さて、隣国パーキスターン。かねてより訪れてみたいと思っているのが、名門マリー・ブルワリーの醸造所。1860年創立で、ビール醸造所としてはアジアで最も歴史があるもののひとつで、「マリー・ビール」のブランドは昔から大変有名だ。同社ウェブサイトでは、創業から現在までに至る歴史を簡潔に紹介されている。

    この醸造所の様子については、ウェブ上でもいくつかの動画を見つけることができる。Hope in the hops (The Economist)

    The World: Inside Pakistan’s Murree Brewery (Youtube)

    5年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷と題して取り上げてみたインドのヒマーチャル・プラデーシュのヒルステーションのひとつ、カサウリーにある醸造所も起源は同じ。パンジャーブ地方(当時はヒマーチャルもパンジャーブの一部)で手広く商売をしていたイギリス出身のダイヤー一族が始めたものである。1919年にアムリトサルのジャリアンワーラー・バーグで起きた悪名高き虐殺事件の指揮を執ったレジナルド・ダイヤー准将も彼らの身内である。

    カサウリーではアジア最古のビール「ゴールデン・イーグル」が生産され、現在パーキスターンとなっているマリー地区のゴーラー・ガリーでは「マリー・ビール」が生まれた。現在はどちらも創業当時と経営母体は異なっているが、血を分けた兄弟の関係にあるといえる。

    現在、マリー・ビールの醸造所はパーキスターンの首都イスラマーバード近郊のラーワルピンディーにあり、ビール以外にもウイスキー、ジンなどの蒸留酒に加えて、ペットボトルのジュースなども生産している。

    1977年に、ズルフィカール・アリー・ブットー首相の政権が国内での酒類の流通を原則禁止しており、現在でもごく限られた場所で非ムスリムだけが入手できるという状況だ。同国の人口1億8千万人の中でムスリム以外の人々が占める割合は、わずか3%強(これらに加えて軍の将校からの需要)しかないことを思えば、あまりに小さなマーケットである。長らく日の目を見ることのなかったマリー・ブルワリーだが、最近、パーキスターン政府が自国からの酒類の外国への輸出を認める方向へと舵を切ったことは名門復活の好機到来といえるだろう。

    同社ホームページによれば、チェコの酒造会社との提携を締結したとのことで、やがてイギリスその他の欧州にも販路を広げることになるらしい。ダイヤー一族がイギリスから導入した醸造法で生産を開始したマリー・ビールが250年以上の時を経て「里帰り」することになる。

    さらに大きな話もある。隣国インドがパーキスターンからの直接投資を認める方向に動いていることから、マリー・ビールがインド企業との合弁で、インドでの生産を始めることになるというニュースが流れたのは今年5月のことだった。

    Pakistan and India start new era of trade co-operation with a beer (The Guardian)

    歴史的なブランドを引っ提げた古豪復活への期待はもちろんのこと、インドの飲兵衛たちにも高く評価されることになれば、なおのこと嬉しい。

  • ヌブラ渓谷へ 1

    ヌブラ渓谷へ 1

    ラダック最大の町レー市内に旅行代理店は多いが、旅行者が多いこの時期には店頭にて行先ごとにシェアジープ参加者を募る貼紙がいくつも掲示されている。ジープといっても、アメリカのJeep車の車両というわけではなく、最大6名までのお客を乗せる大型の四輪駆動車だ。かなり組織化されているらしく、複数の代理店が共同で集めている。コースごとにほぼ決まっている料金を参加者数で割るため、同乗する人数によって1人あたりが支払う料金は変わってくる。
  • ストクの村のホームステイ

    ストクの村のホームステイ

    伝統的古民家 にゃむしゃんの館
    レーからバスないしはタクシーで40分ほどのところにあるストクの村で、ホームステイを受け入れているお宅がある。ラダック人のご主人スタンジン・ワンボさん、奥さんの池田悦子さん、可愛い娘さんのかりんちゃんが、ここで暮らしている。庭には季節の野菜が青々と茂り、その一角には自家製の日干し煉瓦が積まれていた。
    この家屋は、かなり傷んだ状態にあったものだそうだが、ご夫妻が丁寧に修復して、昨年11月からホームステイを受け入れておられるとのこと。そこに至るまでの経緯は、ご夫妻のブログ NEO-LADAKH / ネォ・ラダックにて、ラダックでの近況とともに綴られている。
    近ごろは新しい建物が増えて、街並みも広がったレーとは異なり、ストクの村にはまだまだ伝統的な家屋が沢山残っている。川から引いた水路が村の中を流れ、サワサワと涼しげな音を立てながら、生活用水を各世帯や畑に供給している。村のあちこちで、洗濯や水汲みをしている女性たちの姿も目にする。
    村の中で家々の間を縫うように流れる水路
    豊かに咲き乱れるアブラナの花
    水に潤されている土地の鮮やかな緑と、そうでない場所の月面のような荒涼とした景色が実に対照的だ。そこに水があり、これを利する人々がいるがゆえに、日々の生活が営まれ、地域の文化が育まれていくということを実感する。冬季には川は凍結して水路も止まってしまい、ハンドポンプ式の井戸まで水を汲みに行くことになるというから、夏とはまったく異なる景色となるのだろう。厳しい冬の時期に備えて、夏のうちから干し野菜を作って準備しておくとのことだ。
    村の中の豊かな緑は、水を巧みに利用する人々の勤労の証。お見事です。
    ご夫妻のお宅の裏手にある大きなチョルテンは、13世紀くらいのものではないかとされる由緒あるものだそうで、中に入ってみると色彩鮮やかな壁画が描かれているのを目にすることができる。この村に人々が住み着いたのも相当古い時代まで遡ることができるに違いない。
    チョルテン内部の壁画
    ご夫妻のお宅からしばらく下ったところにある王宮
    日中、旧王宮を見物してみたり、川の上流のほうに歩いてみたりしたが、見どころや風景もさることながら、村の中にめぐらされた水路には非常に関心した。川から引いた水の流れを直角に曲げたり、盛り土をした上を流したり、石垣の上を流したりと、自由自在な創意工夫に富んでいる。まさに「水道」である。
    川は村の豊かな緑の源泉
    石垣の上を流れる水路
    直角に曲げてある水路
    夕方近くなってから夫妻のお宅に戻る。家屋の1階は家畜用スペース、2階が住居で3階が客室となっている。2階にあるキッチンの周辺は、ご夫妻と娘さんのくつろぎの空間であり、接客スペースともなっている。ここで奥さんの手作りの美味しい地元料理をいただき、ラダックやストックの村のことなどについて、様々な話を聞くことができて大変興味深い。
    歴史を感じさせる立派なかまど
    家の中では、子犬の「ユキト」と「ヤマト」が2匹飼われていて、かりんちゃんが子犬たちと時にはケンカしながらも、仲良く遊んでいる様子が微笑ましい。ときおりご主人の実家の方や近所の方も顔を出されるので、そこでまた会話をすることができるのもアットホームな感じで嬉しい。私は時間がなくて一泊しかできなかったのは残念に思う。
    夜遅くなってきた。午後11時で電気が止まってしまうので客室がある3階に上る。ユキトとヤマトもトコトコ付いてきて、「遊んで!」という表情でこちらを見つめている。しばらくテラスで2匹の相手をしながら夜空を見上げると、思わずハッと息を呑む。こぼれ落ちてくるのではないかと思うほど沢山の、色彩豊かな星々が天空いっぱいにきらめいているのだ。
    高度のためか、あるいは乾燥のためなのか、早朝や夕方に大空が紅に染まることなく、東の空から淡々と日が昇り、これまた西の彼方に淡々と日が沈んでいくのだが、それとは裏腹に、星空の眺めは低地の都会からは想像もつかないほど豪華絢爛なものであった。
    翌朝目覚めて部屋の外に出ると、子犬のユキトが待ち構えていてくれた。
    レーからストクまでは、朝8時に直行のバスが出ている。あるいは途中にあるチョグラムサルの町を通過するバスは頻繁に出ているのでこれを利用し、そこからはタクシーで向かってもいいだろう。ただし、ストックの村までと言うと、村の中の大きな集落になっている部分か古い王宮の前で降ろされてしまい、30分くらい上り坂を歩くことになるため、「トレッキングポイントまで行く」と伝えたほうがいい。
    トレッキングポイントとは、ストク・カングリー方面に向かうルートの出発地点であり、そのあたりにはいくつかの商店、レストラン、宿などがある。すぐ目の前を川が流れており、橋を渡ってしばらく坂を上ると、お二人が運営する「伝統的古民家 にゃむしゃんの館 (Nyamshan Old House)」に着く。宿泊の際には、前もって電話で予約をすること。
    ご夫妻は、NEO-LADAKH travel & livingという旅行会社も営んでおられる。次回、ラダックを訪れる際には、ぜひともトレッキングやジープでのツアーのアレンジなどもお願いしたいと思っている。
    部屋の扉を開けると、朝日が差し込んできて気持ちがいい。早起きは三文の得なり。
  • 東京ジャーミイ

    東京ジャーミイ

    1938年に完成し、老朽化のため1986年に解体された代々木モスクを前身とする、現在の東京ジャーミィが落成したのは2000年のことだ。代々木モスクに先駆けて、1935年に出来た神戸ムスリムモスクと並び、日本で最も伝統あるモスクのひとつということになる。

    神戸ムスリムモスクは、建立時から神戸在住ないしは商用等で出入りしていたインド系ムスリムの人々との関わりが深かったのに対して、代々木モスクのほうはトルコとの繋がりが強かった。これを引き継いだ東京ジャーミイのウェブサイトが日本語・英語・トルコ語の三言語による構成となっていることからもわかるとおり、現在もその様相は変わらない。

    それもそのはず、建立時の一部の寄付を除けば、外国政府の影響を受けていない神戸ムスリムモスクと異なり、こちらは在日トルコ大使館の管轄下にある施設である。ゆえにトルコ文化センターとしての機能も兼ねており、観光その他の資料等も配布されている。

    その他、首都圏では東武伊勢崎線沿いに点在する簡素な礼拝所、加えて小田急線沿線にもいくつかあるそうした施設には、南アジアと縁が深いタブリーギー・ジャマアト関係のものが多いこととも対照的だ。

    日本国内で、東京・神戸以外の地域に目を向けてみると、名古屋にある「名古屋モスク」愛媛県の「新居浜マスジド」、福岡の「福岡マスジド」といったあたりが広く知られているが、やはり資金力の関係から視覚面でのアピール度といえば、小ぶりながらも壮麗なオスマン様式の建物で観る者の眼を楽しませてくれる東京ジャーミイの右に出るものは今までのところない。

    首都圏ご在住で、まだ訪れてみたことがないという方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思うが、遠方にお住まいでそういう機会はないという方も、東京ジャーミイのウェブサイトで公開されているパノラマ画像を楽しむことができる。

    蛇足ながら、先に挙げたいくつかのモスクのように日本国外からやってきたムスリムならびに日本国内のイスラーム改宗者のための礼拝施設、修養の場とは異なり、日本社会そのものを対象とするイスラーム文化の広報活動の最も活発な一例としては、サウジアラビア王国大使館付属の文化機関で、東京都港区元麻布にあるアラブ イスラーム学院が挙げられる。リヤドにある国立イマーム・ムハンマド・イブン・サウード大学の東京分校という位置付けになっている。豊富な資金を背景に、こうした機関を通じて、日本人に対するアラビア語その他の教育に加えて、出版・啓蒙活動を展開している。

    日本は、イスラームという宗教やその文化背景と縁が薄いため、一般の人々の関心がなかなか向かない反面、歴史の中でこうしたコミュニティとの衝突や軋轢をまったく経験したことがない土壌。警戒心も反感もないという点は、こうした活動を行なう側にとっても私たちにとっても幸いなことかもしれない。

  • 携帯電話 若者たちにプライバシー革命

    あまり昔のことと較べても仕方ないのだが、インドの街中でデートする若者たちの姿が増えた・・・と思うのは、ライフスタイルや価値観の変化という外的な要因、洒落たカフェ、モール、シネコンその他のインフラ面の充実といったものもあるが、そうした変化と歩調を合わせるようにして普及した携帯電話を各自が持っているという内的な要因が大きく作用しているはずだ。

    昔、インドでは地方から出てきている学生や就職したばかりの者が自前の電話を持つということはまず無理だった(費用はともかく、固定電話回線を得るのはとても時間がかかるものだった)ため、近所の電話屋に出向いて自分から相手にかけるのみで、向こうからの連絡を受けることはできないという一方通行状態。双方が実家から通学・通勤している場合には双方向で連絡を取り合うことができるものの、ともに家族の反応を気にしながらということもあったし、非常識な時間にかけるわけにはいかないし、ともに在宅しているときのみ可能な通信手段であった。

    個々が専用に所持する携帯電話が普及してからというもの、どこの誰からかかってきているのか、父母等に知られることなく、心置きなく会話することができるし、すでに相手の家人が寝静まっている時間帯でも、こっそり通話することができる。あるいはSMS等を送信しあったり。

    もちろんインドに限ったことではなく、日本その他どこの国でもこうした自由を今ではごく当たり前のものとして、青春時代の若者たちが享受している。私が高校生や大学生くらいの頃には、まだそうしたものはなかったので、付き合っていたガールフレンドに電話する際には、いささかの緊張感があったものである。とりわけ電話口に出たのが相手の父親であった場合にはなおさらのことだった。

    当時のインドでは、若い男女がデートしている場面といえば、広い公園の木陰のような人目に付かないところというのが典型(今でも田舎ではそんな感じだが)であったが、今のインドの都会では、若い男女が出かける先には事欠かなくなっている。携帯電話という自前の通信手段があれば、家族に知られることなく都合のつく時間帯や場所を決めて落ち合うのはとても簡単になった。若者たちの日常生活において、それこそ「プライバシー革命」とでも表現すべき出来事となる。

    そんな時代なので、恋愛や結婚といったものに対する考え方について、それ以前の時代に育った親世代とはかなり齟齬が生じているのかもしれない。親の監視下にあるのが当然の状態で青春期を送った人たちと、それを回避できるのが当たり前の時代に成長した人たちとの違いだ。

    親しい間柄にある人で、最近結婚に失敗してしまった人がいる。結婚自体は双方の両親のアレンジによるもので、当初はうまくいっているものとばかり思っていたのだが、実はそうではなかった。相手の女性は、結婚前から親しかった人物との関係が続いており、それが破局の原因となってしまった。もちろんそういうケースは従前もしばしばあり得たものだが、携帯電話やSNS等といった通信手段により、よほど遠く離れた場所に嫁いでしまわない限りは、そうした婚外恋愛(extra marital affairs)、不倫といったものが容易になることは言うまでもない。

    それはともかく、恋愛観、結婚観といったものについて、「ケータイ時代以降」に青春期を過ごした世代と、それ以前の親世代との間での不協和音は続くことかと思うが、今の若者たちが親となる時代には、そのあたりの事情は大きく変わっているのではなかろうか。中年世代に差し掛かった「かつての若者たち」が『最近の若い奴らは・・・』などと愚痴っていたりすることもあるのだろうが。

  • Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

    今回で第33号となるNamaste Bollywood。特集記事『ボリウッドのBはビューティーの』と題して、ミスコン出身女優たちが取り上げられている。

    さすがに美の大国だけあり、神々しいまでに麗しい女優たちが多いボリウッドの世界だが、その中でミス・ワールド、ミス・ユニヴァースといったトップレベルのミスコンでの受冠経験を持つ女優は多い。

    だがミスコンの肩書は、映画界入りの際の看板にはなるものの、ただ美しいだけで成功できるわけではない。演技者しての高い技量、内面的からにじみ出る魅力、そしてカリスマ性といった要素に加えて、苛烈な競争の映画界で巧みに生き抜く「営業力」や「政治力(のようなもの)」を備えてこそ、スターとして輝くことができるのだ。

    嬉しいニュースも掲載されている。Ra. Oneの日本公開のお知らせだ。ボリウッド好きの人たち以外の間での関心度は今のところ無に等しいかもしれないが、公開が始まってから口コミその他で注目度が急上昇しそうな気がする。夏休みの映画の最大の目玉のひとつとなるのではないかと予想している。

    今号の「ボリウッド千夜一夜」は怪談仕立て。内容についてここで触れるわけにはいかないが、ぜひとも本誌を手に取って楽しんでいただきたい。

    社会問題をテーマにしたANTAR DWANDのDVDについても触れられている。TIRAKITAにてレンタル・サービスが行われているとのことで、こちらもぜひ利用したい。

    Namaste Bollywoodと同じくスタジオ・サードアイによるJ-one第3号もすでに発行されている。「ライフワーク企画 福島と生きる」「相馬高校放送局 今伝えたいこと」「劣化ウラン弾と内部被曝」等々、見出しを眺めただけでも中身の濃い内容が目白押しであることがうかがえるだろう。

    大飯原発の再稼働をめぐる政府のスタンスを見ていると、あたかも福島第一原発の事故後しばらく続いた「脱原発」の方向にあるかのように見えた一連の対応は、あくまでも世論を宥めるためのパフォーマンスに過ぎなかったのかと、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。世界を震撼させる大事故であったにもかかわらず、そこから有益な教訓を得て変革を図ることなく、旧態に戻そうとするこんな政府に、この国の将来を託してよいのだろうか。

    変化を求める民心を惹きつけて政権交代を実現させた民主党だが、肝心の民意は彼らに届かない。党の迷走ぶりと合わせて、今から思えば、あれは一体何のための総選挙だったのかと思う。

  • ヴィラート・アンコール・ワット・ラーム

    だいぶ前のことだが、こんな報道があった。

    India starts Angkor Wat replica in Bihar (BBC NEWS INDIA)

    ビハール州のヴァイシャリー地区のハジプル近くに、カンボジアのアンコール・ワットのレプリカが建造されるというプロジェクトだ。

    10年がかりで完成されるというその建物は、アンコール・ワットを模したヒンドゥー寺院であり、カンボジアにある本物は元々シヴァ神の寺院として建立されたものが後に仏教寺院へと変遷していったのに対して、こちらはラーマ神を祀る寺となるとのことだ。その名もヴィラート・アンコール・ワット・ラーム。

    費用2千万米ドル相当の資金を注いで建築、本家アンコール・ワットを凌ぎ、世界最大規模のヒンドゥー寺院が出来上がるとされている。もちろんビハール州の建設現場における最大級の投資額ともなることだろう。

    だが気になるのは、その費用の出処。民間の資金によるものとのことだが、その大半はビハール州外からのものと見るのが妥当だろう。

    80年代末から90年代前半にかけて、ラーマの生誕地であったとされるところに立地していたムガル朝時代に建てられたバーブリー・マスジッドの存在とラーマ寺院の再建運動(結局、再建運動にかかわる活動家たちにより1992年に破壊されるが、その後寺院建立には至らず)により、コミュナル暴動の嵐が吹き荒れた隣州のウッタル・プラデーシュとは対照的に、政治面では宗教色が薄かったビハールに地殻変動をもたらそうという動きが水面下にあるように思われる。

    1990年代から今世紀に入るあたりまで、上げ潮の勢いがあったサフラン勢力の伸びが頭打ちになって久しいが、人口1億人を超える人口稠密なビハール州は、政治的にも治安面でも安定しているとは言い難い。

    それでも近年はインドという国自体の経済成長に引っ張られるように、あるいは長らく停滞と混乱をもたらしたラールー・プラサード・ヤーダヴ氏率いるRJD (Rashtriya Janata Dal)の時代とは打って変わり、2005年からJanata Dal党首のニティーシュ・クマールが州首相を務めて実績を上げている効果もあってか、他州を凌ぐ成長率が伝えられているビハール州だ。

    ヴィラート・アンコール・ワット・ラームの建立の背後に、新たな政治勢力の台頭の影がチラついているように感じるが、完成までの10年の歳月の間に、その姿が次第に明らかになってくるのではないだろうか。

  • マウラミャイン

    マウラミャイン

    先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

    モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

    ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
    深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

    深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

    外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

    午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

    こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

    ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

    まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

    目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

    この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

    乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

    マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

    確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

    ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

    だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

    KALADAN MASJID

    礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

    SURTEE SUNNI JAMA MASJID

    植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

    西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

    もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

    そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

    それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

    MOGHUL SHIAH MASJID

     

  • 泰緬鉄道終点

    泰緬鉄道終点

    ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

    混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

    このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

    それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

    タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

    だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

    町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

    C56蒸気機関車
    おそらく泰緬鉄道のレール

    タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

    タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

    建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

    この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

    タンビュザヤ駅

    市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

    ダウェイへと続く鉄路

    さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

    広大な連合軍墓地
    慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

    ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

    数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

    花が供えられていた

    タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

    この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

    1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。