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カテゴリー: society

  • 「フェリーチェ・ベアトの東洋」 東京都写真美術館にて

    19世紀を代表する偉大な写真家、フェリーチェ・ベアトーの作品群が日本に上陸する。

    アメリカのロサンゼルスにあるJ.Paul Getty Museumによるフェリーチェ・ベアトー(1832-1909)の作品の国際巡回展の一環として、日本では東京都目黒区の東京都写真美術館での公開である。

    2年ほど前に、『時代の目撃者 ベアトー』と題して、写真家ベアトーについて取り上げてみた。今の残されている幕末の江戸の風景の秀作の中には、彼の手による作品が多いことは、日本でよく知られているが、1853年に勃発したクリミア戦争、そして1857年に始まるインドのセポイの反乱を撮影したことにより、戦争写真家の先駆けでもある。

    当時の交通事情はもちろんのこと、その時代の写真機材自体が後世のものとは大きく異なるため、彼が撮影したのは戦闘行為が終了した直後であるとはいえ、戦火の爪痕生々しい北インド各地の様子や処刑される反乱兵の姿などを伝えるとともに、当時の街中の様子なども活写しており、貴重な歴史画像を私たちに残してくれている。

    ベアトーの生涯を概観する日本発の回顧展という位置付けがなされており、アジアの東西で多くの風景を撮影した彼の青年期から晩年までの軌跡をたどることができる。写真芸術としての高い価値はもちろんのことながら、歴史的な重要性も極めて高い。

    今から180年前に生まれ、103年前にこの世を去ったベアトーが後世に残してくれた風景の中にじっくりと浸ることができる稀有な機会だ。

    会期は、3月6日から5月6日までの2か月間。

    フェリーチェ・ベアトの東洋 (J・ポール・ゲティ美術館コレクション) 東京都写真美術館

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • ハジョーとスアルクシー

    ハジョーとスアルクシー

    ポビットラ国立公園を後にして、ハジョーとスアルクシーに向かう。国立公園から見て、グワーハーティーを挟んだ反対側にこれらの地域があるため、一旦ゴミゴミした都会に戻ってから向かうことになる。

    市内を抜けて、ブラフマプトラ河にかかる大きな橋を渡り、グワーハーティー北部、つまりブラフマプトラ河の北側の市街地を通り、ハジョーに向かう。途中、片側二車線の見事な道路がある。高速道路並みにスピード上げたクルマがグングン流れていく。

    グワーハーティー出てから1時間くらいでハジョーに着く。ここにはヒンドゥーと仏教徒の巡礼が崇める五つの古い寺がある。その中で最も代表的なものはハイグリヴ・マーダヴ 寺だ。本堂への階段の下方にあるタラーブとその向こうの緑豊かな景色が美しい。扉を閉め切ったお堂からは、ドンドンドンと鳴り物の音が響いてくる。建物の造りとしては、さほど魅力を感じないが、本尊は6,000年もの歴史がある(?)ということになっているらしい。

    小高い丘の上にあるハイグリヴ・マーダヴ 寺から周囲を見渡す。
    建物自体はあまり興味を抱かせるものではなかった。
     
    スヤスヤと眠る仔犬3兄弟。ナガランドではなくて良かった・・・と思う。

    続いてスアルクシーに向かう。ここはムガーシルクと呼ばれる野蚕の織物生産で有名な町。どこに織物作業場があるのかと、通りかかった壮年男性に尋ねてみると「どこの家にもある」との返事。その男性、シャルマー氏は、自らの家の中に招き入れてくれた。彼は8人の職人を雇い織物を作らせているとのこと。機織機には、木で作られた沢山の穴が開いたプレートが上のほうに付いている。これはデザインのパターンのプログラムだ。こうした機織りの作業場はどこも同じように見える。基本的には彼と同じように小規模な家内工業として生産しているのが普通のようだが、大きなところでは100人ほど使って生産しているところもあるとのことだ。

    シャルマー氏自宅敷地内の機織り機

    シャルマー氏の家の作業場では、すでに職人たちは仕事を終えて帰宅しており、作業そのものを見ることはできなかった。すでに午後遅い時間帯に入ろうとしているため、近所にも作業をしているところはないようだ。ここでは午後3時くらいには、その日の仕事は終わり、みんな家路に着くのだともいう。朝は何時から働いているのか知らないが、まだ日が高いうちに家族との時間が充分持てることについては、ちょっと羨ましい気がする。

    『定時は午後3時』のスアルクシーの町

    ちょうどこの日の新聞記事に出ていたが、アッサムのムガーシルクの生産を機械化する試験プロジェクトが開始されたとのことだ。今のところ、昔ながらの手作業の機織機でギッコンバッタンと作業しているのだが、これを機械化するとどういうことになるのか。生産性の向上、そこからくる収入の向上は図られることはずだが、これまで育まれてきた匠の技は失われてしまうだろう。また現在生産に関わっている職工たちが、そのまま機械化された職場に雇用してもらえるのかどうかも疑問だ。利するのは生産手段を持つ立場にあり、かつ機械化に伴う投資をするだけの財力を持つ者だけということになりそうだ。

    そうは言っても、生産技術は時代とともに進化しなくてはならないということも事実。現在、職工たちが日々行なっている作業にしても、ある時代までは物凄い先端技術であったはずだ。今も使用されている機織機が広まる前の時代には、もっと古いやり方で布を織っていたはずなのである。伝統の維持と近代化はしばしば相反するものがある。

    小さな町なのに、ムガーシルクを販売する店舗は、大きなものから小さなものまでいろいろあり、この産業によって町の経済が成り立っていることが感じられる。どれも小売りと卸を兼ねているようだ。

    この町の『定時』らしい午後3時を回っているため多くは店を閉じていた。せっかくムガーシルクの産地として有名な町に来たので、記念にハンカチでも買おうとわずかに開いているいくつかの店で探してみるが、どこにもなかった。どこもアッサムで消費するサーリーその他のための品揃えをしてあり、私のような外国人が欲しがるようなものはないということに好感を覚える。今後、機械化される方向にあるとしても、観光客におもねる変な商品を手がけることなく、今後とも質実剛健な商いを続けて欲しいと思う。

  • 春の足音

    長い冬の間、屋外で大きな催し物があまり行われない北国日本の首都東京だが、3月の声を聞くと、ようやくイベント広場に賑わいが戻ってくる。

    東京渋谷区の代々木公園イベント広場にて、3月24日(土)・25日(日)の午前10時から午後7時半まで、『パキスタン・バザール2012』が開催される。

    同じく代々木公園のけやき並木で開催の『ソンクランフェスティバル2012』と場所を分け合っての催しとのことである。

    そのあたりの時期は、季節の変わり目ということもあり、大荒れの天気に見舞われることも多く、そうした意味では大博打ともいえる屋外イベントだ。主催者、出展者その他関係者の方々の尽力が報われるべく、穏やかなポカポカ陽気のもとでの開催となることを願いたい。

  • ナガランド6 ディマープルへ

    ナガランド6 ディマープルへ

    午前6時半に宿を出て、コヒマのバススタンド前にあるディマープル行きシェアタクシースタンドから乗車。山間の道を下っていき、少しずつ高度が下がってくる。途中でパイナップル畑が沢山あった。

    新鮮なパイナップル

    沿道ではあちこちでそれらを販売する売り子たちの姿がある。私たちは停車してひとつ購入。ディマープルに着いてから、ホテルのレストランで朝食の際に切ってもらったが、とても甘く、かつ酸味も強い濃厚な味であった。

    ディマープル近郊に入ってくると、もはやナガランドという雰囲気ではなく、普通のインドの街みたいになってくる。州都は人口10万人弱のコヒマだが、州内最大の都市ディマープルは人口は17万人近い。午前8時頃、街の郊外にあるNiathu Resortに到着。 スイミングプールやテニスコートなどもあり、いくつものコテージからなる、いかにもといった感じのリゾートホテルだ。 私たちが利用したのは、バルコニーがある2階。部屋は広いしきれいで快適だ。まだ出来たばかりで新しいのもよい。

    Niathu Resort

    ただ難点は、街からずいぶん遠いことだ。所在地が「7th Mile」と書かれているだけあり、市街地からずいぶん離れている。乗り合いテンポやオートリクシャーで、ディマープル中心地にある鉄道駅から30分くらいかかる。

    ここを選んだのは、WiFiを利用できるからだ。一緒に旅行しているL君が抱えている仕事の大詰めを迎えており、是が非でもネット環境がなくてはならない。コールカーターで購入したvodofoneの3G接続は、平地に降りてきてもあまり良い状態ではなく、ほとんど使いものにならない。ナガランドではどうもダメなようだ。

    しばらく部屋でのんびり過ごしてから、昼前くらいになって観光に出発。宿の敷地前の国道から乗合テンポで、終点のディマープル駅前の道路の立体交差下、通称レールゲートと呼ばれるエリアまで行く。そこからオートにてハイスクール・コロニーのサーキット・ハウスまで行く。

    カチャリー王国の遺跡

    ここの正面がカチャリー王国の遺跡だが、あまり見るべきものが残っているとは言えない。複数のピラーが固まっている部分とタラーブがある。ピラーの周囲は柵で囲ってある。いろいろいたずら書きや勝手に掘りこんだ跡などがあることから、遺跡保護のためにそうしたのではないだろうか。この遺跡やカチャリー王国のことはよく知らないこともあるが、よほど想像力たくましくないと、あまり楽しめない遺跡であった。

    しばらく歩いた先にあるSaramati Hotelという州政府系のホテルがあるあたりは賑やかな商業地になっており、ナガ民族関係のグッズを売る店がいくつもある。ショールやマフラーであったり、ナガの槍を模した工芸品であったりする。ナガの刀の模造品もあった。その他の工芸品といえば、竹を利用したものが多い。

    竹細工

    しばらく歩くと駅前の道路の立体交差に出た。さきほどはここでテンポを降りて、オートに乗り換えたあたりの場所だ。立体交差も駅舎もごく新しく、駅のすぐ南にはバススタンドがある。このエリアは、相当数の商店や家屋を取り壊して建設したものと思われる。ディマープル市街地はほとんど『インドの街』である。ナガランドの他地域ではほとんどみかけないヒンドゥー寺院がいくつもあり、ムスリムの墓地もあった。入口のゲートには、1930年に出来たことが記されている。かなり前から他地域から流入してきた人たちが多く住み着いていたのだろう。その墓地の隣にはアッサムライフルズの連隊の駐屯地があり、周囲では兵士たちが物々しい警備をしている。装甲車に乗った重装備の兵士達もしじゅう出入りしている。

    今回、ナガランド観光のハイライトのひとつである北部のモンと呼ばれる地域は訪れなかったが、ごく最近まで自由に訪れることができない州であったため情報がとても少なく、また滞在中に他の外国人にもほとんど会わなかった。だがRAP免除措置がこのまま続けば、より多くの人たちが訪れて、様々な魅力を発見していくことだろう。治安面での不安がなければ、タイ北部のように山岳部に住む少数民族の村を訪れるトレッキングがブームになる可能性も秘めており、そのあたりが今後のナガランドにおける観光振興のカギになることは容易に予測できる。

    他の魅力あるエリアから距離があり、バーングラーデーシュを跨いだ反対側に位置するため交通の便の面からも、今後もそう大きな人気を呼ぶことはないように思われるのだが、人口が希薄で丘陵地の眺めも良いことから、のんびり過ごすにはもってこいだ。

    まだ知られていないところが多く自分で探る楽しみがあることからも、個人的にはナガランドはなかなかオススメである。

    <完>

  • ナガランド5 市場

    ナガランド5 市場

    食品市場
     干物だがどれも川魚である。
    ウナギの干物。どんな味がするのだろうか?
    ナガランドといえば、他の土地では通常食用とされない様々な物が食されていることが知られているが、やはり市場に行くといろんなものが売られていた。 

    本日の記事については、人によってはとてもグロテスクに感じたり、不愉快に感じたりするかもしれない画像が含まれることをあらかじめ申し上げたい。加えて、これらの写真の多くは、私自身の主観に照らして『珍しい』と判断したがゆえに取り上げているが、市場で売られている大多数の品々は、私たちが日常的に食べている食肉、野菜、果物類と大差ないことをお断りしておく。また、こうした『珍品』については、同じ『動物性蛋白源』であっても、大量生産が可能な鶏肉やマトンなどと比べて高価なこともあり、個々の家庭で日常的に消費されているという訳ではないと思われることも言い添えておく。

    野蚕の幼虫
    野蚕のサナギ

    さて、ナガランドの市場において最も特徴的なのは、いろんな種類のイモ虫やサナギが売られていることだろう。多くは野蚕の種類である。私はそれらを見て大いに引いてしまったのだが、韓国人のL君は「何だ、ポンデギじゃないか。」と事もなげに言う。そういえば韓国の街角では屋台料理のサナギをよく見かける。昆虫類では、他にはイナゴ、ヤゴなどが売られており、虫以外ではタニシやカエルを商う売り子が多い。

    イナゴ
    ヤゴ
    タニシ
    蜂の子
    ハニーコーム。これは飛びきり美味しそうだった。

    やけに赤身の色が濃い肉が売られており、尋ねてみると犬肉であるとのことであった。ボウルに入った臓物も販売されていた。その脇では、噛み付かないように口をヒモで結ばれた犬たちが、首から下を麻袋に包まれた状態で置かれている。すっかり観念した様子でゴロリとなっているが、ときどき頭を起こして周囲を見渡したりしている。こちらと視線が合うと、慌てて目をそらして反対側を向いて寝そべる。頭の良い動物なので、おそらく自分の運命がだいたい判っているのではないだろうか。気の毒に思うが、地元の食文化なので仕方ない。ナガランドで野良犬が少ない理由はこれだろう。しかも他の食肉よりも値の張る『高級食材』でもある。

    食品として売られる犬たち。
    カゴに入れられたネズミたち

    だが、『食肉』の元となる動物たちについて思えば、きれいにパックされて、あたかも工業製品であるかのように、無機的な感じで販売されているのが良いとは一概に言えないだろう。そうした環境下では、『生けるもの貴重な命をいただいている』という謙虚な気持ちが生じることはない。例えば、マーケットで『シメたて』の鶏の肉を手渡されて、ビニール袋越しにさきほどまで生きていた鶏の体温を感じつつ家路につくのと、冷蔵あるいは冷凍で『規格製品』然としたパッケージをレジ袋に放り込んで帰宅するのとでは、相当な違いがある。

    昆虫類など、あまり好奇心に満ちた表情で見て回るのは失礼かと思い、幾人かに「あなたの国でも食べるのか?」と質問されたが、「そう、ウチの村ではよく食べているんだよ。」など適当に答えておく。市場では、こうした『食品類』を販売する地元の売り子たちと肩を並べて、平地から来たインド人たちも商っているが、慣れないうちはずいぶカルチャーショックを受けていたに違いない。

    食品ではないがヒョウタンも売られていた。日本のそれと同じ。

    インドの露店商たちは、隣合わせているナガ族の同業者たちと親しげに会話しているが、ナガの言葉を理解するインド人はほとんどないようで、ヒンディーが使われている。文化的にも民族的にも『インド』とは大きく異なり、長らく民族独立闘争が続いてきたナガランドではあるものの、意外なまでにヒンディーの通用度は高い。もちろん在住のインド人がナガの言葉を多少は覚えたりもすることもあろうが、ナガ族の間でのヒンディーの普及度のほうが、はるかに高いはずである。

    <続く>

  • ムンバイーでモノレール試験走行

    本日から、ムンバイーで建設中のモノレールの試験走行が実施されている。営業運転が開始されるまで、あと8~9か月ほどかかる見込みであるとのことだ。

    Mumbai: Monorail trial begins today (India Today)

    同じく、ムンバイーではメトロも計画されており、近い将来市内交通の利便性が格段に向上することが見込まれる。 またメトロのネットワークが広がったデリーでもモノレール建設計画がある。

    Monorail in Delhi by 2017 (India Today)

    継続的に高い経済成長を続けているインドだけに、長らく不況にあえぐ日本の現状を思うと、明るい話題に事欠かない躍進ぶりは非常にまぶしく見える。現状では都市交通のインフラのレベルが高くないだけに、今後の伸びしろが大きいということもあり、社会層間や地域間の大きな隔たりはあっても、総体的には着実に向上していることは間違いない。

    経済成長やそれに伴う社会や環境の変化には、同時にネガティヴな面も同居していることは否定しないが、それでも『よりより明日』を期待できることは羨ましくもある。とりわけ人口構成が若年層に厚く、高齢化問題とも当分縁がないことも、その成長を着実に後押ししているといえる。

    ムンバイーのモノレールが開業したら、すぐにでも乗り込んで『世界で一番元気な国のひとつ』の勢いを体感してみたい。

    ※ナガランド5は後日掲載します。

  • ナガランド 4 コノマ村

    ナガランド 4 コノマ村

    山の上の街州都コヒマから平地にあるナガランド最大の街ディマープルへと続く国道39号線を途中で逸れると未舗装のひどい悪路となる。モンスーン期には小型車での走行は不可能となり、バスかスモウ(大型の四輪駆動自家用車)のようなクルマでなければ通行できなくなるという運転手の言葉に頷くしかない。

    ターター社の小型車インディカにて、文字通りバンバン跳ねながらの走行。幾度も車内天井に頭をぶつけてしまう。こういうタイプの車両で移動するような道ではない。クルマが壊れるのではないかと思うくらいだ。窓を閉めているものの、車内はどこからか侵入してきた土埃でたちまち一杯になる。 ジャングルの中のダートのようなひどい道を進んで1時半半くらいでコノマの村が見えてきた。縦に長く、斜面に広がるこの村は、両面の斜面に家々が張り付いている。まるでコヒマをそのまま小さくしたかのようだ。どこまでも丘陵地が続くナガランドでは、町や集落はたいてい小高いところに造るもののようだ。

    ナガランドの村は小高いところにというのが定石らしい。
    日中は人々の姿が見えない村

    ずいぶん静かな村であった。そもそも村の主であるはずの人々の姿がなく、突如として蒸発してしまったかのようで気味が悪い。まったく人気のない村の中を進んでいくと、ようやく幼い子を遊ばせる母親の姿があってホッとする。

    村の中には伝統的なナガの家屋は一軒もないようで、コヒマ郊外にあるような感じのごく普遍的な木造の家屋が大半で、これらに加えてインドの他の地域にあるような普遍的なレンガ積みの建物が少々といった具合。村のあちこちに展望台のようなものがあり、そこがちょっとしたスペースや広場のようになっている。焚き火の跡もあり、夕方そのあたりに人々が集ったりするのだろう。

    共同の水場がいくつもあり、近隣のより小さな村から出てきた学齢期の子供たちを住まわせるホステルもあることに加えて、村の中の細い路地のかしこに小さなゴミ箱が設置されており、チリひとつない清潔な環境であることにびっくりした。想像していたよりもずっと文化的だ。それぞれに政府のプロジェクトで作ったことを示す記号らしきものが書かれていることから、活発な反政府活動が続いてきたナガランドだけに、政府が民生の向上に対する貢献をアピールするためのプロパガンダ的な要素があるのかもしれない。

    広場を中心にいくつかの家屋が集合しているものもある。一族で暮らしているのだろうか。そうしたひとつで、少年、青年がいた。こういう村でもちゃんと英語を話す人がいるのはナガランドらしいところだ。食事中であった彼が言うには、人々は朝早くから田畑に出て仕事をしているため、日中の村の中には幼い子供を持つ母親くらいしかいないとのことだ。

    比較的大きな村ではあるものの、店らしいものは見当たらない。村人たちは日用品をどうやって調達しているのだろうか。衣類などは町に出て購入するにしても、石鹸、洗剤、調味料といった毎日使うようなのは、どこかでまとめ買いしておくのだろう。

    村は細い丘の上にある。真ん中を縦貫する階段の通路があり、周囲をぐるりと回る道路が囲んでいる。インドのどこでもそうだが、村を訪問する際に嫌なのは犬だ。町中に住んでいる犬たちと違って、ヨソ者に慣れていないため盛んに吠え付いてくるし、これまたしつこい。太陽が高いうちのコノマの村はほとんど無人状態だ。野犬たちの群に囲まれたら、素手だとちょっと危険かもしれないと思い、カバンから折り畳み傘を出しておいたが、一匹の野犬もいないのが意外であった。州都コヒマでも妙に野犬が少なく、人を見かけると逃げるように迂回してしまう姿を目にして、ちょっと不思議に思っていたが、そのあたりについては、後日触れることにする。

    家屋の中には、英語で売りに出しているということを書いた紙が貼られているものがあった。こういうところで、つまりアンガミー・ナガの村であるがゆえに、他所から関係のない人が移住してくることはないだろう。だが、もしこの村が観光化されていくことがあれば、マナーリーのヴァシシュトのようになるのではないだろうか。

    最初は地元の人々がゲストハウスや食堂などを始めて、外国人その他の観光客の出入りが増えてくると、地元の人々もこなれてきて、他所からの商売人も入ってくる。そうしたところで雇われて働く人々にはナガ以外の人たちも入ってくる。そうしたプロセスを経て、いつしか他所の人々も含めた小さなコスモポリタン的な集落になり、観光客たちが「沈没する」場所になっていくようなこともあるかもしれない。RAPが恒久的に不要となれば、インド長期滞在旅行者たちが集う場所となることが予想できる。彼らは何か特別なものが、何か特に見るものがなくても、こうした牧歌的な風景の中でゆったりと時間を過ごすのが好きだからだ。

    村の周囲には段々畑や棚田が広がる。インド人たちの姿はない。見かけるのはナガの人々だけである。インド人たちと違い、外国人が来てもチラチラと見てはいるものの、好奇心剥き出しに近づいてくることはない。大人も子供も、こちらが声をかけると、はにかみながら返事をしてくれる。

    村の中心部にあるバプティスト教会前の広場には、戦争で亡くなった人たちに対する慰霊塔がある。この戦争とは、旧日本軍の侵攻ではなく、ナガの独立戦争のことである。石碑には死者の名前が刻まれており、上部には青地に星と虹を描いた「ナガランド国旗」が描かれている。

    内戦による戦死者たちへの記念碑

    政府の様々なプロジェクトが実施されているこの村の玄関口に、こうした記念碑が建立されていることにいささか驚いた。だが、こうした村の中にあるこうした石碑は、たいていナガの言葉で書かれているもののようだが、これは英語で記されている。ひょっとすると、和解を演出するために行政側が建てたのでは?と疑いたくなる余地もある。

    それでも、コノマの村も内戦とは無縁ではなかったこと、ここから多くの戦士を出していることがわかる。内戦時代にはとても危なくて近づくことはできなかった場所なのかもしれない。内戦が激しかった時代には、州内を走るトラックやバスは前後に軍用車の護衛をつけてコンボイを組んで山道を走っていたという。それも上り坂で速度が落ちたところを襲撃されていたという話を聞いたことがある。

    ナガランドは、総体として和平への方向にあり、それが進展してきたがゆえに、こうしてRAP無しで入域できるようになっているわけだが、これが恒久的なものであって欲しいと願いたい。

    <続く>

  • ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    War Cemeteryからコヒマ市街地を望む

    坂道の街、コヒマの街並みを眺めるのに絶好のロケーションにコヒマ戦争墓地がある。インパールのものと同様、ここも第二次大戦時の日本軍によるインパール作戦により亡くなった兵士たちを埋葬してある墓地だ。英連邦戦争墓地委員会(CWGC:Commonwealth War Graves Commission)が管理しているという点も同じならば、墓標のタイプも同一である。

    ただ違うのは、インパールでは死亡日ごとに固めて埋葬されていたが、ここでは所属連隊ごとになっている点だ。それでも亡くなった日はたいてい特定の日付に集中していることから、それらの日に大きな戦闘があったものと理解できる。

    インパールの墓地同様に、ここでも地元の連隊以外に、亜大陸各地の連隊所属の兵士たちはもちろんのこと、当時の英領インド以外のイギリス植民地から派遣された兵士も多かったことが墓標からわかる。カナダから来た兵士の名前もあった。無理を承知で作戦を敢行した旧日本軍兵士だけではなく、防衛する側にとっても非常に重要かつ困難な戦いであったことを示している。

    インド兵の墓標はほとんどがムスリムだが、一部にグルカ兵の名前もある。スィクやヒンドゥーのインド兵死者については、墓地の最も奥にある石碑に所属連隊ごとに氏名が刻まれている。彼らが火葬されたことも記されている。兵士以外にも軍医、運転手、その他軍属の仕事をしていた人たちも墓標や石碑に名前が刻まれている。

    欧州系の兵士とともにインドのムスリム兵士の墓標も多い。
    当時英領であったマレー半島の連隊から派遣されて亡くなった英兵の墓標。
    墓を作る習慣のないヒンドゥー兵士、スィク兵士については、個々の名前を記した記念碑がしつらえてある。

    墓地の出口付近に掲げられていた一文が胸を打つ。

    WHEN YOU GO HOME

    TELL THEM OF US AND SAY

    FOR YOUR TOMORROW

    WE GAVE OUR TODAY

    無為な戦争のために命を落とさなくてはならなかった当時の若者たちはさぞ無念であったことだろう。攻撃を仕掛けた側の兵士も、防衛していた側の兵士も。

    第二次大戦に従軍した世代の人々がとうの昔に社会の第一線から退き、しかも大半が鬼籍に入りつつある今、あの戦争のことを一人称で語る人は身の回りにほぼいなくなっている。残酷な事実も血生臭い現実も、時間の経過とともにリアリティーが失われていき、過去の歴史の中のひとつの叙事詩のようになりつつある現在、NHKアーカイブスのような映像・音声による記録は貴重なものとなっている。

    [証言記録 兵士たちの戦争]インパール作戦 (NHK 戦争証言アーカイブス)

    http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000

    戦争という過ちについて、私たちの世代はもちろんのこと、更に後世の人たちもこれを美化することは決してあってはならない。

    <続く>

  • ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    コヒマの早朝

    朝早く6時くらいに目覚めても、すでに陽はすっかり上っている。さすがインド最東端エリアだけのことはある。まず外出して、この街で一番高いホテルということになっているジャプフー・ホテルに行く。もともとはジャプフー・アショークと呼ばれていたアショカグループのホテルであったが、5年くらい前にナガランド政府系の会社に売却されたとのこと。公営の施設が民間に売却という例はどこの国でも近年多いが、反対に民間施設を公営企業に売却というのはあまりないように思う。

    ホテルへの道すがら、あるエリアでインドの平地から来たとおぼしき人々が道路脇に大勢立っている様子が目に入る。やがて一台、また一台とトラックがやってきて、彼らを乗せて出て行く。おそらく工事現場等で雇われている人たちだろう。見るからに経済活動が低調で、地元の人々に就業機会があまりなさそうなコヒマだが、3K的な仕事場で下働きをする人々は他州から来た人々が多いようだ。他州とは北東インドの外の地域、大概はビハール、UPの両州のことである。

    クリスチャンが多いナガランドでは、トラックもそれらしい仕様になっている。
    トラックが頭上に頂くのはジーザス。

    同行のL君は、目下抱えている仕事の関係があり、私と同じくコールカーターで契約したプリペイドのvodafoneのネット接続プランが、コヒマではまともに使えないことがわかったため、Wi-Fiが利用できることになっているジャプフー・ホテルのネット接続環境の検証のために訪れた。ロケーションとしてはベストだ。街中で最も標高の高いところに鎮座するナガランド警察本部の真正面にある。周囲の眺めはもちろんのこと、給電の優先度も高いはずだ。だがレセプションその他の従業員の緩慢な動きは、やはり政府系のホテルという感じがする。とりあえずここのレストランで朝食を取ることにした。

    仕事の締め切りが迫っている関係で一日中ホテルに缶詰めになるL君には申し訳ないのだが、私は一人で観光に出かける。本日向かうのは、キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村だ。どちらもコヒマから南下してマニプル州境に向かう道路沿いにある。

    キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジは、文字通りナガランドの生活文化を再現したテーマパークである。ナガランド州の主要民族であるナガ族には、アンガミー、アオ、コニャク、レングマー、ローター等々、様々な支族があるのだが、そうしたコミュニティの様々な家屋がしつらえてある。屋根の材料がよしずであったり、石板であったりといろいろある。壁材も竹、木材、竹のようなものを編んだもの等、いろいろなバリエーションがあることがわかった。だが残念なのは、部族ごとの特徴や生活文化の違い等を説明する案内文や博物館のようなものもないことだ。それぞれの家屋には部族名の表示はしてあるのだが。そのあたりがある程度把握できるようにしてもらいたいものだ。

    ちょっとイマイチのキサマ・ヘリテージ・ヴィレッジを後にして、キグウェマ―の村に行く。さきほどのヘリテージ・ヴィレッジで見たような伝統的な家屋があることを期待していたが、そうではなかった。道路に面したところに垣根のようにして薪が積んであることを除けば、インドの山間のどこにでもあるような感じの村である。ただ家屋のたたずまいはこのあたりらしく、東アジアをも彷彿させるような感じではある。

    さほど人口が多いとは思えない村だがいくつもの教会がある。人々の家屋のたたずまいに比して、教会の建物は外から見る限りではなかなか立派だ。ナガランドでは、バプティスト系の教会がとても多いようだが、国外からの資金流入もあるのではなかろうか。村から遠くコヒマの街を望むことができる。村の周囲には段々畑が広がる。

    村では工事をしているインド人(北インド人)労働者たちの姿があり、声をかけてみるとビハールからとのこと。ナガランドでは地元の人たちに仕事がないが、こうして外から来る人たちの姿は多いようだ。だからといって地元の雇用機会を奪っているとは言えないのかもしれない。インド各地で共通していることだが、ビハールから来た労働者たちは、地元の人々がやりたがらない汚れ仕事等を低賃金で引き受けてくれていることを忘れてはいけない。

    夕方、コヒマに戻る。宿泊先のホテルがある地域は、コヒマの街そのものの起源のコヒマ・ヴィレッジと呼ばれるエリアであり、こんなゲートがしつらえてある。

    コヒマ・ヴィレッジのゲート

    坂道を上った先のほうには、T – Khelなるものがある。元々、コヒマ・ヴィレッジには、D (Dapfütsumia) Khel、L ( Lhisemia) Khel、P ( Pfüchatsumia) Khel 、T (Tsütuonuomia) Khelと四つのKHELがあり、住民たちはその四つのKHELのいずれかに所属することになっており、現在でもその活動は盛んであるそうだ。Khelとは、町内会的な役割加えて、同属会とか結社のような性格もあるようだ。

    T – Khel入口

    <続く>

  • ナガランド1 コヒマ到着

    ナガランド1 コヒマ到着

    インパールのClassic Hotelにて、利用した部屋の二人利用での宿泊費は、種々の税金が加算されておよそ3,000Rs(約4,700円)なのだが、この価格帯のホテルとしてはあり得ないほど、サービスやマナーが優れていた。いくつかのタイプの部屋があり、料金はこちらをご参照願いたい。

    同行しているL君は「インパールで一番のホテルということは、政治家や実業家その他の要人の利用も多いんじゃないかな。だから従業員への教育がしっかりしているんだと思う。」と言う。まさにそのとおりなのだろう。宿泊、食事は言うに及ばず、立派な会議室や宴会場も用意されている。2009年開業と新しく、客室が快適であることはもちろんのこと、階下のレストランもリーズナブルかつ美味でとても良かった。今、私の記事を読んで下さっているあなたが、インパールを訪れることがあれば、ぜひこのホテルに投宿されることをお勧めしたい。辺鄙な地方ではあるものの、『州で随一』のホテルが、この程度の料金で利用できるというのも、あまりないことである。

    朝食を済ませてから、ホテルの界隈から出発するナガランド州都コヒマ行きのバスに乗り込む。バスは宿近くの交差点あたりから午前8時発の予定であったが、乗客が集まって発車したのは結局9時くらいになった。周囲を山に囲まれた盆地にあるインパール市内を出たところで、時間的には出発から20分ほどのところで、バスはいきなり休憩時間に入り、運転手や乗客たちが食事を始めてしまったので、ちょっとびっくりした。これは朝食ではなく、中途で食事できる場所がないため、これは昼食なのだという。この場所には二軒のレストランがある。

    市内を出たと思ったらいきなり昼食休憩

    この日、コヒマまで6時間ほどの行程の中で、他州と違って街道沿いにいくつか食堂が軒を並べているような場所はなかった。私とL君は、乗車前にインパールのホテルの朝食バフェでたらふく食べてきたばかりであったので、やけに早い昼食をパスした。

    40分くらい停止した後、バスは出発する。運転手が食事を終えて、チャーイをすすって、タバコに火を点けて紫煙を燻らせて満足したあたりで、運転席のドアをガチャリと開けて、クラクションを鳴らして『出発するぞ!』と乗客に招集をかける専制君主的な態度は、全インド共通のものである。

    今回、ひとつ気掛かりなのは、『専制君主』が手慣れた感じのオジサンではなく、そもそも免許取得年齢に届くかどうかといった外見の、非常に若い運転手であることだ。今日のバスは、インパール始発、コヒマ経由でディマープルまで行くものだ。

    この食事の場所から山地に入る。しばらくは上り坂だ。道路はかなり悪く、揺れが大きい。ときおり軍用車両を見かける。複数の車両が固まって走っており、兵士たちは防弾チョッキを着ている。また銃を背負うのではなく常に前に構えており、走行中の車両から複数の兵士が天井の窓から上半身を出して、銃を外に向けて警戒していることなどから、他州の軍駐屯地ののんびりした雰囲気とはまったく違う。

    どこまでも続く丘陵地

    山間の道をバスは進んでいく。ヒマーチャル・プラデーシュ州のような急峻な崖を想像していたが、もっとゆるやかな丘陵地であった。だが道路の交通量は、ヒマーチャルに比較して格段に少ない。途中の町々は、やや大きめのものはあったものの、相対的に発展から大きく取り残された貧しい地域であることは明らかだ。スィッキムやヒマーチャルと地理条件には少々似たものがあるとはいえ、ずいぶん遅れていることが見て取れる。沿道には、 長距離バスが停車して食事を取るような安食堂さえ見当たらない。

    どのあたりからナガランドなのかと思っていたが、マニプル州都のインパールからナガランド州都コヒマまでの全行程6時間のうち、ナガランドの州境を越えたのはコヒマ到着の1時間前であった。チェックポストがあり、「ナガランドへようこそ」と書かれたゲートがあった。そこからしばらく走るとコヒマの街が斜面に見えてきたのだが、コヒマ到着まで1時間近くかかった。山間部なので道路が大きく迂回しているためだ。

    コヒマはかなり大きな街だ。ここに来るまでの山間部では他のインドの地域とは異なる感じの家々があった。・・・と言っても、ナガ族独特のスタイルの家屋があったわけではなく、木造の三角屋根の建物という意味)が大半であった。だが街に入ってくると、シムラーやダージリン等、他のヒルステーション同様の街並みとなる。現代のインドの建材と工法で建てるので、結局そういうことになるのだろう。

    ホテルはRazhu Pruという、何と発音するのかよくわからないホテル。ナガの言葉はローマ字で表記されるが、ウムラウトが付いていたりすることから、発音はなかなか複雑なのかもしれない。68年前に建てられたというクラシカルな洋館である。

    ロビー周りはなかなかいい感じに飾ってある。

    チェックインしてから部屋に荷物を置いて外出。斜面を下るとマーケットがある。しばらく散策しているうちに日が沈み、辺りは暗くなってくる。そして周りはすっかり真っ暗になってくる。つまり街灯がないからだ。まだごくわずかに開いている店では蝋燭を点している。どこも行くところがないし、帰り道もわからなくなるので、そそくさと宿に戻る。

    街の中心近くだが、街灯はほとんど無いため、陽が沈むとそのまま闇に包まれてしまうのが困る。

    宿ではナガ式の夕食を注文する。ブタとチキンの煮物、そして何か発酵調味料のはいっているスープ、ご飯とデザート。発酵した味の正体が何だかよくわからない分、旨いのか、そうでもないのか、ちょっと微妙な感じだ。

    ナガ料理の夕食

    夕食前にはネットが繋がっていたものの、その後はまったくダメになった。Vodafoneの3G通信のUSBスティックを持参のノートパソコンに挿しているのだが、州都でありながらもまったくもって不安定である。その後、長い停電があった。窓の外に見える向こうの斜面の街並みでは煌々と灯が点いている。翌日歩いてみてわかったのだが、政府機関、軍施設、有力政党の事務所等がある地域であった。

  • マニプルへ6  マニプリー・ターリー

    マニプルへ6  マニプリー・ターリー

    市内中心に戻り、カングラー・パレスに行く。1891年のアングロ・マニプリ戦争で破壊されるまでは、マニプルでマジョリティを占めるメイテイ族の王の宮殿であったのだが、今は特に見るべきものは残されていないようだ。

    背後はただの廃墟であった。

    民族文化の象徴的なものであるはずのこの場所だが、荒れ放題の宮殿跡地、近年造られたらしいコンクリート造の寺・・・。あまりの無頓着ぶりに、地元の歴史や文化に対する政府(中央政府も地元政府も同様に)の姿勢が垣間見えるような気がする。インドにしても、中国にしても、突出して巨大な文明圏の周辺地域の文化は、往々にしてかように軽視されていくことになるのだろうか。市井の人々にも、それらを保護して育てていく力も経済力があるはずはないので、仕方ないことかもしれない。

    マニプルに来るまで知らなかったのだが、メイテイ族独自の文字がある。私たちにとって見慣れない文字だ。インドにあっても、州外でこれらを目にする機会はまずないだろう。

    本日の観光とはあまり関係ないのだが、インパールではガソリン等の燃料の供給が不足しているらしく、ガソリンスタンドはどこも長蛇の列であった。

    ガソリンスタンドは長蛇の列

    夕方、ホテルのレストランでマニプリー・ターリーを食べた。通常の外食では、地方料理はあまり出していないようである。ここでも前日から注文しなくてはならなかった。どんな食事かといえば、結局は品数がターリーである。遠目にはインドでよくある料理風なのだが、近寄って眺めるとこの地方独自のアイテムが沢山あることに気が付く。汁物が竹の葉を折って作った容器に入って出てくるのも風雅な感じで良い。

    見た目美しく、味わいもまた美味なマニプリー・ターリー

    特徴的なのは、料理に使われている油の量が少ないこと、味付けに豆や魚を発酵させたものが使われていることである。乳製品はおそらくあまり使用されていないのではないかと思われる。インドらしからぬ味覚で、東南アジア的、あるいは東アジア的ともいえる臭みのある食事については、韓国人のL君と日本人の私にとっては判りやすい味であったが、地域外からやってきたインド人や西洋人は苦手かもしれない。ともあれ、私たちにとってはグルタミン酸たっぷりの素晴らしい味わいであった。

    あまりに美味であったので、これからインパールを訪問される方があれば、ぜひお試しいただきたい。レストランは、インパール一番高級、すなわちマニプル州でも最高級(それでも二人で宿泊して3,000Rs)と思われるHotel Classic内のClassic Caféというレストラン。サービスもとても良いが、午前中から夕方までの時間帯には、『ミス・ノースイースト』と形容したくなる絶世の美女がフロアに出ている。

    マニプル発のニュースは、インド国内でも州外ではほとんど見かけないので、日々どんな事柄がトピックになっているのか、なかなか知る機会がない。それでも、やはりインドなので英文メディアには事欠かず、インターネットでも日々発信している。

    以下、マニプルの英語メディアの代表的なものである。

    E-PAO

    The Sangai Express

    HUEIYEN LANPAO

    Imphal Free Press

    Kangla Online

    マニプル州に多少なりともご関心のある方は、時々覗いてみるといいかもしれない。

    <完>

  • マニプルへ5 インパール戦争墓地

    マニプルへ5 インパール戦争墓地

    インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。

    だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。

    強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。

    そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。

    アッサム連隊所属の兵士
    ガルワール連隊所属兵士
    パンジャーブ連隊所属の兵士
    ハイデラーバード連隊から来た兵士
    亡くなった兵士がヒンドゥーであったことを示すシンボルが彫られている。
    ユダヤ教徒の兵士
    マレーシアのカメロンハイランド連隊所属兵士
    ケニア連隊兵士
    東アフリカ出身の黒人技術者
    北ローデシア(現ザンビア)連隊の兵士
    イギリス本国兵士
    イギリス本国兵士

    墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?

    中国人の名前が刻まれている。
    無名戦士の墓標。クリスチャンであったことを示す十字架だけがアイデンティティだ。

    この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。

    <続く>