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カテゴリー: society

  • ビカネール3  National Research Centre on Camels

    ビカネール3 National Research Centre on Camels

    食事を終えてから、オートでNational Research Center on Camelに向かう。市街地からかなり離れたところにある。午後2時から午後6時までという短い公開時間。うっかり午前中に出向いたらアウトである。着いたときにはまだ10分ほど早かったので少し待たされた。

    広い敷地内は、大きく分けてみっつのエリア、事務棟、研究施設、飼育施設で構成されており、私たち外部の人間が見学することができるのは、事務棟の脇にある小さな博物館を除けば、当然のことながら飼育施設のみである。

    小さな博物館、餌場、えさの時間以外に入れておく柵などがある。また餌置き場、そして餌のペレットの工場などもあるようだが、後者については公開されていない。博物館内の表示から、ラクダには4種類あることがわかるが、実物を眺めてもどれがどれなのかさっぱりわからない。

    せっかく来たのだが、正直なところあまり面白くなかった。内容はさておき、農業省の関連施設なのに、外国人料金があるのも癪である。

    入口
    券バイカウンターの横でラクダミルク製品を販売
    事務棟
    研修施設
    飼育施設

    ラクダの診療所
    ラクダの寄生虫に関する説明
    この地域のラクダはどれも同じに見えるが、実はいろいろ種類があるらしい。

  • アミターブ・バッチャンの告白

    インドのヒンディー語映画界の重鎮、ビッグBことアミターブ・バッチャンが、彼自身の深刻な健康状態について発表した。
    1982年に映画「Coolie」の撮影中に起きた事故(アクションシーン撮影中に受けたパンチにより体内で出血、ムンバイー市内の病院に入院)の治療で大量の輸血を受けたのだが、血液のドナーの中に感染者がいたらしい。2000年になってから、B型肝炎に罹っていることが判り、その後現在に至るまで治療中であるとのこと。すでに肝硬変に進行しており、肝臓が25%程度しか機能していないという。
    罹患していることが判ってから15年経過した今になってから発表することについては、おそらく当時はまだ出演作も多くて忙しかったことなどもあったのではないだろうか。B型肝炎の危険や予防について社会の関心を高めるという目的もあるそうだが、アミターブ・バッチャン自身の健康状態も大変気になるところだ。

    I have liver cirrhosis and am surviving on just 25 per cent of my liver: Amitabh Bachchan (INDIA TODAY)

    BACHCHAN BOL (Amitabh Bachchan’s Official Blog)

    ※ビカネール3は後日掲載します。

  • ビカネール2 旧藩営鉄道

    ビカネール2 旧藩営鉄道

    宿から見て、鉄道駅がすぐ裏手なので、列車の汽笛がよく聞こえてきて風情がある。英領期には旧藩王国でも藩王国立の鉄道が敷設されたりなどしていた。開明的な君主が先端技術を導入したということもあろうが、これらの路線がイギリス当局により、藩王国の大きな負担により建設させたという部分も多いにあると思う。

    こうした鉄道の多くはメーターゲージであり、各地にあった鉄道会社が独立後に統合されてインド国鉄となった後、ブロードゲージの幹線と軌道幅の相違から直接乗り入れできない不便を長いこと甘受してきたわけだが、同時に着々と全国路線のブロードゲージ化の事業は進行していき、近年はほぼ完成したといえる。ジャイサルメール、ビカネール、シェーカーワティーなどにもデリーからブロードゲージの直通列車が走るようになっている。シェーカーワティー地域においては、デリーからメーターゲージでジュンジュヌー経由でジャイプルに走っていたものだが、この路線も近年ブロードゲージ化された。ジュンジュヌーはまだメーターゲージのため、路線から外れることとなり、各駅停車の路線のみが残っている。

    統合といえば国鉄だけではない。藩王国が割拠し、イギリスが間接統治を行なった旧ラージプータナ地域だが、インド独立後は行政組織も新生のインド共和国と統合させられることになったことから、旧藩王国により役人たちの明暗は分かれたのではないだろうか。有力な旧藩の役人たちはどんどん上のポストを占領して、そのラインで人事が進んでいく、あるいは冷や飯を食わされることになった旧藩の役人たちは不満たらたら・・・。そんな今の会社社会でもよくある悲喜こもごもが、ここでも展開されていったりしたのではなかろうか、と想像している。

    〈続く〉

  • ビカネール1  旧藩王国最後の宰相の屋敷

    ビカネール1 旧藩王国最後の宰相の屋敷

    バスはシェーカーワティーを出てしばらく細い道を進むと、やがて舗装が非常に良質で道幅が広い国道11号線に出た。スピードが出る分、運転席真後ろの狭いスペースにいると怖い。片側三車線区間が一部、あとは片側二車線が大半。ときどき一車線になったりもする。

    昔のように「道路に穴が空いているのか、穴が空いているところに道路が通っているのかわからない」と首相在職時(1998年3月~2004年5月)のヴァジぺーイー氏が発言したようにひどい時代があったが、もはやそれは遠い過去のことになっている。インド各地の主要幹線道路はとても良くなった。

    そのいっぽう、沿道の動物たちには危険なようで、30分に1回以上は、轢かれて死んでしまった野犬や牛などの哀れな姿を目にする。誰も処理しないのでそのままになっているのだが、ゾッとする光景だ。

    シェーカーワティー地方を出てしまったことは、ハヴェーリーや塔のついた井戸が風景からなくなることでよくわかる。デリーやハリヤーナーに近く、ラージャスターンの他の地域にも囲まれているのに、どうしてこういう独自の伝統がここに残ったのか、それでいてなぜ他の地域にも広がることはなかったのかと不思議に思う。それとは反対に、ごく狭いところから周辺部に伝播した範囲で、シェーカーワティーの文化が形成されたのかもしれない。

    やがてビカネール(正確に書くとビーカーネールだが、字面があまりに冗長になってしまうため、今後はビカネールと表記)までの距離表示が、すでに20キロを切った。道路の状態が良いので、もう目と鼻の先だ。

    プライベートのバスであったためか、本来のバススタンドではない空き地に停車して、「ここが終点」とのこと。鉄道駅近くの宿まではずいぶん遠かった。

    本日の宿は、Hotel Jaswant Bhawan。駅の北口近くとはわかっていたが、鉄道用地のゲート出たところであった。

    ビカネール藩王国最後の首相であったラオ・バハードゥル・ジャスワント・スィンが暮らした家がホテルとなっている。築200年というこの屋敷だが、現在もオーナーであるファミリーの居間に通されて食事が出来るのを待つ。

    ここは運営を外部に委託しているわけではなく、ここの家族、特に奥さんと主人の若夫婦が対応してくれる。アットホームな雰囲気で、食事の場所や居間スペースが家族のところなので、ホームステイに近い感覚だ。部屋もまずまずで、ちゃんと蛍光灯が入っているので日記を書いたりする際にとても助かる。

    料理のメニューは、同じ並びのすぐ隣にあるジャスワントという名のレストランのもの。中は薄暗く、バーと兼用なのであまり雰囲気の良い店ではなく、上品な家族の所有らしからぬ感じがするが、尋ねてみるとやはりそこも家族で所有しているとのこと。この宿で供される料理はレストランから運んでくるのではなく、ここの家のキッチンで作っていた。奥さんが使用人たちを指揮して、出来上がるとせっせと運ばせてくれる。

    居間には勲章なども飾ってあり、藩最後の宰相が受けたものであったり、この家から出た軍人が与えられたものであったりするようだ。最近はWi-Fiを用意している宿が多くなったが、ここのホテルも同様だ。宿泊先に必ずWi-Fiがあれば、インドの携帯電話がなくてもなんとかなる部分はあるのだが、やはり移動中に観光地を調べたり、観光中に検索したり、そして電話も使いたいので、やはり今の時代は旅行中でも地元のSIMは必需品である。

    〈続く〉

  • チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない

    チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない


    旅先で、食後にチャーイを啜りながら、この日はあと何をしようか?どこに行こうか?と考える。

    お茶やコーヒーがなかった時代、私たち人類は、何を手にして思考していたのだろうか。19世紀以降に急激に加速した社会の進展、技術の進化には、茶、コーヒーの普及と深い繋がりがあるにちがいない。 欧州の有産階級が、茶、コーヒー出現以前にランチで嗜むのはアルコール類だったそうではないか。それはそれでいい時代だったのかもしれないが。

    茶、コーヒーで思い出したのだが、茶葉の大産地インドで、喫茶の習慣が地元の人たちに普及し始めたのは1920年代末から1930年代にかけてのことらしい。かつて貴重で大変カネになる作物であった茶も、このあたりになるとインド・スリランカでの算出量増大、この地域外においてもマレーシア、ケニア等々の英領各国での生産が広がったことから、価格が下落していくとともに、在庫がだぶつくようになってくる。

    そこで当時のインド紅茶局が全国で喫茶習慣普及推進の旗振りを始めて、各地でデモンストレーションを始めたとのこと。それまではマーケットになっていなかった茶葉生産のお膝元での需要拡大を図ることになった。当初は英国式の飲み方を導入しようとしたらしいが、地元の人々の嗜好から現在のチャーイの形で広まることになって現在に至る。

    その背景には、欧州ではすでに値崩れして買い手が少ない低級品の大量処分という狙いがあったとともに、当時の庶民の購買力の関係もあったはず。お茶はお茶でも、本当に下のクラスのものは、カフェイン入りの色付きのお湯でしかないがゆえに、マサーラーで香りを付けるとともに、ミルクと砂糖で味付けする必要があったということにもなるのかもしれない。

    西欧では、カフェ文化の浸透により、様々な市民が集まり議論を交わすようになったことが、民主主義運動を拡大させるとともに、労働組合活動を盛んにしていったと言われているように、インドでもチャーイの文化が広がる中で、反英独立運動が勢いを増していったということもあるかもしれない。

    チャーイを啜りながら、そんなことをぼんやり想ったりする。

  • 田舎町の悩殺

    田舎町の悩殺

    ラージャスターン州の片田舎の町で、しばらく待っているとバスはやってきたが、すでに満員状態。なんとかぐいぐい押し込んで、ようやく乗車するとともに、運転手のキャビン内でなんとか居場所を確保できた。ちゃんとした席ではないため、実に苦しい体勢だ。

    キャビンのすぐ後ろにガラス窓、そのすぐ背後に立って窮屈そうにしている豊満な若い奥さんが、胸元からガラケーを取り出して通話を始めた。取り出すときにムニュムニュ、ボヨヨーンという、大きなバストの元気良い動きに胸が高鳴ってしまう。

    キャビンの中、私の隣に陣取っていた乗客がひとり下車していくと、私がそうしたのと同じく、彼女もまた無理矢理周囲の人たちを押しのけてこちらに入ってきて、私に密着して腰を下ろした。やがて車掌が乗車賃を集金に来ると、豊かな胸をプルプルと震わせて、深い谷間からお札を取り出すので、ちょっとドギマギしてしまう。「釣銭がない」と断られると、また同じ動きで胸の違う場所から小額紙幣を取り出す。別に見ようとは思わないのだが、とにかく狭い車内スペースで視界に入ってきてしまうのだ。

    一度そういう所作が目に付いてしまうと、また次に何か取り出すらしきときには、ついつい視線が泳いでしまったりする。田舎では今でも胸元にお金とかいろいろ入れている人が多いが、とりわけグラマラスな感じの人がこうしていると、もう大変な悩殺シーンである。もっとも、地元の男性たちにしてみると、田舎の女性の粗野な振る舞いに過ぎないようだが。

    しばらくすると、再び携帯電話が鳴り、彼女が乳房の左側から取り出す際に、引っ張られた豊かな部分がプルプル、ドサッと弾み、どうもいたたまれない。

    ※画像は文中に登場する人物とは無関係です。

  • シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    シェーカーワティー地方へ 7 〈ラームガル〉

    ファテープルで、鉄の欄干のある屋敷に面した四つ角からバスをつかまえて、ラームガルへと向かう。ふたたび30分くらいの道のりである。

    ラームガルへバスで移動

    ラームガルはファテーブルよりも活気のあるところで、人々の行き来も多い。ここでは内部見学できる屋敷は見当たらなかったのだが、大変規模が壮大なものが多い。いくつかの寺を見学してみる。シェーカーワティー地方のどこの町でも感じるのだが、タウンシップの広がりや人口規模に対して、ハヴェーリーの壮大さもさることながら、これらが建ち並ぶ地域のしっかりとした区画と直線的で幅広い道路には、やはり驚かされる。片田舎でながらも、こういう地区でだけは都市的な雰囲気さえ感じる。



    シェーカーワティー地方で特徴的な塔に囲まれた井戸

    井戸そのものはこんな具合

    こちらはヒンドゥー寺院

    これもまたヒンドゥー寺院




    通常、こうした小さな町では国道に面した部分以外では、細い道がクネクネと続いているものなので、それだけこうした屋敷の主たちは実行力があり、いかに開明的でもあったということにもなるのだろう。

    18世紀や19世紀、シェーカーワティーが陸上交易で栄えていた時代、荒地や貧しい耕作地に囲まれたこの地に、周囲の眺めとはまったく不釣合いな豪壮な屋敷群、あまりに立派な寺院などがそこここにあることについて、当時の訪問者たちはさぞ驚いたに違いない。すっかり衰退してしまっているとはいえ、過去に築かれたそれらのものは今でも人々を圧倒するものがある。

    〈完〉

  • シェーカーワティー地方へ 6〈ファテープルのHAVELI NADINE LE PRINCE〉

    シェーカーワティー地方へ 6〈ファテープルのHAVELI NADINE LE PRINCE〉

    マンダーワーからバスで30分少々進んだところに、ファテープルという小さな町がある。この町のバススタンドに着いたところで、早速シェーカーワティー式の見事な塔がしつらえられた井戸がある。

    ここでの目的地はNADINE LE PRINCE HAVELI。「NADINE LE PRINCE」という、奇妙な名前が付けられているのには理由がある。

    1840年に建てられたこの屋敷の主はDevraという名前の一族であった。綿花以外にオピウムの取り引き(往時はごく当たり前の商品作物。インド産のオピウムは東南アジアや中国などに大量に輸出された)で財を為したファミリーで、1950年代までここに暮らしていたものの、その後は時間の経過とともに荒れるに任せる状態であったらしい。

    1998年にシェーカーワティー地方を訪れたフランス人女性、画家でもあるNadine氏は、この地域のハヴェーリーに魅せられ、一念発起してこの屋敷を購入し、自身の名前でもってHAVELI NADINE LE PRINCEと命名することとなった。

    中庭を中心としたパティオ的な構造の家屋は、地中海沿岸からイランやアフガンを経てインドにまで至る広大なエリアに広がった建築文化・生活様式と言えるが、ここシェーカーワティーのハヴェリーの特徴は、色鮮やかなフレスコ画が家の内外を埋め尽くしているところにある。

    購入後は、地元の職人たちを雇って地道に修復を続けて現在に至っている。私も同時期の1998年に初めてシェーカーワティー地方を旅行して、この地域特有の建築文化にいたく感激するとともに、打ち捨てられたような状況の屋敷群を目にして、何かできないものか?と思ったりしたものだが、その後特に何か行動したわけではなく、ブログに「こういう素晴らしいところがあるが、現状はとても残念・・・」とつぶやいただけだ。ハヴェーリーのひとつを買い取り、総力上げて家族とともに実行に移したNadineさんの行動力に敬服せずにはいられない。

    ハヴェーリーを買い取る財力があったとしても、縁もツテもない土地で文化財の修復を手掛けるのは容易なことではないが、同氏は地域の有力者を協力者に得て、これに関わる基金を設立したうえで、ハヴェーリーの復旧と啓蒙活動を進めているとともに、自身の創作活動の拠点をこの地に定めて精力的に活動している。写真家である息子さんも、このファテープルに腰を据えて頑張っていることから、家族ぐるみのサポートを得てのことであることが窺える。首都圏から比較的近いエリアであるとはいえ、外国人の個人による文化財保護活動としては、かなり稀有な例であると言えるだろう。

    屋敷を案内してくれたのは、インターンシップでファテープルに滞在しているフランス人の大学院生の女性。専攻はインドとまったく関係ないのだが屋敷について習ったことを丁寧に説明してくれた。

    正面の大きなゲートは、通常は閉められており、大きなドアの中にしつらえられた小さな扉から出入りしていたという。そういう形にしたのはセキュリティ面での配慮、そして屋敷に入る人が狭くて低いドアをくぐることにより、屋敷の主に頭を下げる形になることを企図したものでもあるのだとか。

    扉左側下の小さなドアが通用門。どうしても頭を下げてくぐることになる。
    入口天井の装飾

    入ってすぐのところにある中庭、そして夏のつまり北向きの壁側の居間、その反対には派手な装飾が施された商売の客人のための応接間となっている。これにはそれだけ資産があることを相手に示すためのものであったとのこと。

    その中庭のさらに奥には入口から一度折れて進んだところにもうひとつの中庭があり、そこは女性たちが日常を過ごす場所であったとのことだ。パルダーの伝統のためである。入口から一度折れることになっているのは、中を直視できないようにするためだそうだ。

    ハヴェーリーのカラフルなフレスコ画を書く職人たちに大きく分けてふたとおりあるとのこと。ムスリムの職人は幾何学模様と花模様だけを描写し、ヒンドゥーの職人たちは人物や動物といった偶像的なものを描いていく。また工程には鶏卵を使う場面もあり、それについてはすべてムスリム職人が取り行うとのことだ。こうした分業は、シェーカーワティー地方のハヴェーリーに限らず、ラージャスターン州各地の藩王国の王宮においても同様であったことは言うまでもなく、ムスリムとヒンドゥーの職人たちが相互補完する働きをすることにより、幾多の大作を完成させてきたわけで、決して対立すべき関係ではなかったことの証でもある。

    しかしながら、ふと思ったりもするのだが、こうしたハヴェーリーでムスリムが建てたものは目にした記憶がない。人物や動物を描かずに幾何学模様と花模様だけのものがあっても良さそうに思われるし、この地域で成功したムスリム商人も少なからずあったことと想像されるが、こうしたハヴェーリーを建築することはなかったようだ。

    こういうハヴェーリーを借りたり、買い取ったりする例はあるそうだが、ムスリムの富裕層がこういうタイプのものを建てたという例はないらしい。こうしたハヴェーリーを築いた人々の大半が、ヒンドゥー教徒たちの中でもマールワーリー商人たちという限定されたコミュニティーの人々であったということもあり、それぞれのコミュニティー内での文化の相違ということもあるし、ましてや生活文化や習慣で大きな隔たりがあるムスリムの人々の間で、同様の嗜好が見られなかったということがあるとすれば、やはり信仰の違いというものは、相当大きな文化的な障壁であるということが感じられたりもする。

    敷地の一部はギャラリーになっており、Nadineさんの絵、息子さんの写真以外にシェーカーワティー地方を題材にしたインド人アーティストの作品などが展示されている。そのギャラリーのあたりは、かつてキャラバンサライとなっていて、牛やラクダなどが繋がれていたとのことだ。今ではすっかりこうした屋敷群が地域の貴重な文化財という認識が広がっていることは喜ばしい。

    オーナーの絵画や息子さんの写真が展示されているギャラリー

    このHAVELI NADINE LE PRINCEでは、ゲストルームも用意されており、事前に予約すれば、宿泊することが可能だ。

    ゲストルーム内はこんな具合

    このハヴェーリーに触発されてのことか、近隣にもいくつかキレイに修復して公開しているハヴェーリーがあるのだが、あまりにモダン過ぎる仕上がりになっていたり、フレスコ画の細部がかなりデフォルメされたように感じられるものであったりして、あまり自然な感じではないものも目に付く。文化財の修復活動にも善し悪しがあることは言うまでもない。

    パッと見た感じはキレイだが不自然な仕上がり

    バススタンド方向に戻る際、鉄の変わった意匠の鉄で出来た欄干を持つ屋敷があった。こちらは公開されているわけではなく、庶民の集合住宅として供されている。

    こうした屋敷が立地しているところはたいてい地域の中心やそれに近いところにあり、街区はきっちりと整理されていて道路も広く取ってある。往時、ハヴェーリーを建設させた人々は、ただの成金というわけではなく、生活文化についても先進的な感覚を持っていたのだろう。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ5〈マンダーワーの風景〉

    シェーカーワティー地方へ5〈マンダーワーの風景〉

    規模は小さくてもなかなか凝った装飾

    マンダーワーに限ったことではないのだが、シェーカーワティー地方のどこに行っても特徴的な風景はいくつもある。規模は様々ながらも、どれも華麗なハヴェーリー。中庭を中心に「ロ」の字型のプランを持つのが基本だが、ときにその枠にはまらない独創的な姿の屋敷も見かけることがある。

    門の上に乗っかる形になっているハヴェーリー
    こちらはその背面

    かなり複雑な構造のハヴェーリー

    大きなハヴェーリーが建ち並ぶ地域は道路が広く取ってあり、徒歩ですぐに抜けられてしまうほどの規模の小さな町にしては、やけにきちんと区画されている印象を受ける。

    富を築いた豪商たちが地域の社会貢献のためにいくつもの井戸を造ったが、遠くからでもそれとわかる2本ないしは4本のミナレット状の塔が建ち、この地域以外では見かけることはない。

    こちらは井戸

    もちろん寺院も小さな田舎町には似つかぬ大規模なものが多いとともに、ハヴェーリー同様に非常に派手に飾り立てられており、参拝するのはとても楽しい。

    こちらは寺院

    寺院内

    寺院から眺めた外の風景

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 4  〈タークルの屋敷〉

    シェーカーワティー地方へ 4  〈タークルの屋敷〉

    マンダーワーのタークルのハヴェーリーを見学。商家ではなく、小領主的な存在であったため、「城」を名乗っている。現在の当主はジャイプル在住とのことだ。

    ここは現在、Castle Mandawa Hotelという名前で、おそらくリゾート運営の会社が委託を受けて運営しているようだ。他にもマンダーワーにあとふたつ、ジャイプルにひとつ、チェーン展開している。
    建物内は自由に見学できるわけではなく、宿泊客以外はスタッフによるガイドツアーで見学することになっており、その料金は250RSもする。

    それはさておき、「宮殿」といっていい規模と内容のヘリテージホテルで、一泊6,000Rsほどのようだが、「オフシーズンなので5,000Rsにしますよ」とも言われた。一般的な感覚として、このくらいの料金でちゃんとしたヘリテージホテルに宿泊できるのならば、充分に価値がある。ラージャスターン州からグジャラート州にかけて、数々の藩王国が割拠したところでは、それこそ無数にといっていいほど沢山の宮殿ホテルがある。とても手の届かない料金のところもあるが、ここのようにそうでもないところも少なくない。ここはそうした中で比較的エコノミーな料金で楽しむことが出来る宿泊施設と言えるだろう。

    ただひとつ気に入らないのは、宿泊していない者が見学する際に250Rsという料金を取ること。その料金にはカフェテリアのメニュー内で250Rs分までの飲食が含まれているとのことであったが、実際にはソフトドリンクくらいしかその範囲で頼めるものはなく、結局はそれを大きく上回ることになる。そんな姑息なことをするくらいならば、「見学料金は250Rs」として欲しいものだ。

    このホテルをガイド付きで見学してみた。立派な制服を来た(ラージャスターンの伝統的なスタイルの衣装)スタッフが案内してくれるのだが、建物内の特に立派な部分をいくつか回ってくれる。やはり屋敷というよりも、これは事実上の城、あるいはパレスである。モダンなスイミングプールがあったり、おそらく音楽の演奏や結婚式にも使われるであろうマンダップのある中庭もあった。敷地内に立派なシェーカーワティー式のハヴェーリーもある。

    メインの建物の屋上からは町全体を見渡すことができる。ごく小さな町ではあるが、上から眺めてみると、大規模なハヴェーリーが多いことに改めて驚かされる。映画「PK」のマンダーワーでのロケの際、アーミルやサンジャイなどが宿泊したとのことだ。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    せっかくマンダ‐ワーに来たので、昨年公開されて今年の初めにかけて大ヒットした映画「PK」で、この町でのロケ地であった「チョウカーニー・ハヴェーリー・チョウク」という横丁であることはすぐにわかった。小さな町なのでどこに行くのもすぐだ。

    田舎町で、人気スターがやって来ることに大興奮したであろうことは、特にちょっと若い人たちに声かけると、期待を大きく上回る反応がかえってくることから見て取れる。
    「この路地の出口で、アーミルがサルマーンのクルマに(確かトラクターであったはず)にひかれた」
    「あの歌のダンスシーンで挿入された場面が撮影されたのはここ!」
    「映画の中でアーミルにサーモーサーを勧めたのはこの人!」と、わざわざその人物の仕事場まで連れていってくれる人までいた。

    映画の中でアーミル・カーンが轢かれたスポット

    ダンスシーンが撮影された場所はここなのだとか。



    映画「PK」の中でアーミルにサーモーサーを勧める役を務めた人

    「おーい、兄貴ィ、日本から記者があんたのことを取材に来たでぇ・・・。オレ、お茶注文してくる。よーく話聞いとってな!頼むでぇ!」なんて具合に早足でどこかに行ってしまった。私は記者ではないし、取材しに来たわけでもないのだが・・・。

    ちょっと尋ねると、芋づる式に次から次へとこの映画ゆかりのナントカカントカが出てくるレスポンスの速さ!
    「PK」の後は、「バジラン・バーイージャーン」というサルマーン・カーン主演の映画の撮影もなされたとのことで、今後もマンダーワーが他の映画作品のロケ地として使われることが幾度かあることだろう。

    やはりどこに行っても映画をこよなく愛する気持ちは誰もが同じであることは、ボリウッド映画ファンの私としても嬉しい。

    〈続く〉

  • シェーカーワティー地方へ 2 〈Hotel Mandawa Haveli〉

    シェーカーワティー地方へ 2 〈Hotel Mandawa Haveli〉

    滞在先のマンダーワーで宿泊先としたのはHotel Mandawa Haveli。古いが立派な屋敷をホテルとして活用したものである。18世紀から20世紀初頭にかけて、最初は陸上交易、そこで蓄財した商人たちが都会に進出して稼いだ資金を故郷に送ったことから、豪壮で華麗なハヴェーリー (屋敷)が残されたことで知られるシェーカーワティー地方。そのハヴェーリーの内部・外部ともに美しい壁画による装飾が施されているのが特徴だ。

    だが、多くはオーナー家族が大都市に転出していったり、売却してしまったりということもあり、田舎町に似つかわしくない大規模な邸宅が間貸しでテナントを得るようになり、地上階は商店、ファーストフロアーから上は集合住宅というような形態になってしまっているところが多い。伝統的なジョイント・ファミリーの邸宅として、中庭を中心に「ロの字型」となっている屋敷に身内の複数世帯が起居するものであったため、間貸しするのにちょうど良いということもあるのだが。

    その結果、ハヴェーリーの内部は荒れ放題であったり、オリジナルの形態とは似ても似つかぬ安手の増改築がなされたり、ということになり、壁に精緻なタッチで描かれた絵に対する敬意が払われることもなく、危機的状況にあることは様々なメディア等で伝えられつつも、現地では相変わらずの無頓着という状況が続いていたのが1990年代までのこの地域であった。

    21世紀に入ってからは、こうしたハヴェーリー、それらを建てた豪商たちが寄与した建築物(ハヴェーリー以外に寺院や共同井戸など)が歴史的・文化的な価値が高いものであるとして認知されてきてはいる。しかしながら、細切れに賃貸に出されているハヴェーリーについては、長年賃貸で居住している世帯ないしは商店があることから、以前と同様の厳しい状態にある。

    ホテルに転用されたハヴェーリーについては、華麗な絵による装飾は見事に復元されていたりするものの、ここでもまたオリジナルの形態とはかなり異なる部分も生じるのは当然のことだが、少なくとも文化的な価値に焦点を当てて、ヘリテージな宿泊施設として供されるわけである。人々にそうした伝統を認知させること、こうした修復活動を通じて、技術が伝承されることなどから、決して悪いことではないだろう。















    現在、間借人たちが居住しているハヴェーリーは、そこに住む人との何かしらのコンタクトを取る機会でもないと、なかなか内部を見学することはできないし、オーナーがテナントに貸し出すことなく、ケアテイカーを置いて管理させているようなところでは、いくばくかの謝礼を渡して建物内を見せてもらうことも出来たりはするものの、そうのんびりと見学できるわけではない。そうした点からも、宿泊施設として転用されている場合、誰に遠慮することもなく、建物内を闊歩できるという大きな魅力がある。

    ホテルに転用されるところが次第に増えているのは、近年の傾向のようだ。1990年代に幾度か訪れた際に「こうしたハヴェーリーがホテルに生まれ変わっていたら、どんなに素敵な宿泊施設となることか」と思ったことを記憶している。地域の領主の館、豪商たちのハヴェーリー内部を模した装飾が施された宿泊施設はあったものの、このような形態のホテルはまだ存在していなかった。

    ただし、今回の宿泊先の近くで、ふたつ、みっつほど営業しているハヴェーリーから転用された宿泊施設については、内装の修復が素人目にも相当いい加減なものであったり、「コンクリート造りの別棟」に客室があったりと、あまり良い印象を受けなかった。伝統的なハヴェーリーを謳う宿泊施設の粗製乱造が懸念されるところである。

    〈続く〉