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カテゴリー: security

  • インドの現状

    甚だ残念なことであるが、インドを含めた全世界が大変な状況にある。もちろん日本も大変危険な具合になっていて、今後がまったく予測すらできなくなっている。

    ここひと月半くらいに起きたことについて、旅行に関連する事柄を中心に簡単にまとめみると、以下のような具合になる。

    2月5日以前に中国で発行されたヴィザは無効となり、1月15日以降に中国への渡航歴がある人の入国が禁止されることになったのは2月20日過ぎ。

    2月26日になると、インド保健・家庭福祉省は,韓国,イラン,イタリアからのインドへの渡航者及び2月10日以降に韓国,イラン,イタリアへの渡航歴がある人は,インド到着後に14日間にわたり停留措置の対象となる可能性があることが伝えられた。

    2月27日には、日本国籍者による新規のe-Visaの申請受付が停止された。3月3日,インド国外にいるイタリア,イラン,韓国,日本の国籍者に対して3月3日以前に発給された全てのヴィザは無効となった。

    3月5日になると、スィッキム州が外国人の入域許可発行を停止した。同州住民を除き、インド人さえも入ることができなくなり、その後アルナーチャル・プラデーシュ州、連邦直轄地ラダックもこれに続いた。

    そして3月9日前後になると、デリーやバンガロールなどを始めとして、学校が休校となるところが出てきて、他地域もこれに追従する。

    3月10日にマニプルとミャンマーの国境が閉鎖となった。

    3月11日には、インド国外にいるフランス,ドイツ,スペイン国籍者に対して,3月11日以前に発給した全てのヴィザが無効となった。すでにこの時点でインドと世界各地を結ぶ国際線は大幅に減便となっている。

    3月12日には、外交,公用,国際連合及び国際機関,就労,プロジェクト査証を除く全ての査証の効力を4月15日まで停止との発表。ヴィザの種類を問わず、新規の発行は史実上停止されているため、新たに入国することは大変困難なものとなった

    インドに在住・滞在中の者については、引き続きヴィザは有効で、出国した時点で無効となる。そのため在住者たちは、急な用事があってもインドを出ることができない状態にある。新たなヴィザ取得も現在のところ望み薄なので、インドに進出している企業は、大きな人事異動の時期なのに、交代が実施できない状態に。

    3月19日,国際民間旅客航空便のインドへの着陸を3月22日から一週間停止すると発表した。(その後4月15日まで延長することが決定) 同日、モーディー首相は新型コロナウイルスに関して国民向けの演説を行い,その中で今後数週間の決意と自制を呼びかけるとともに,3月22日の午前7時から午後9時まで外出を禁止するJanata curfewを発表。

    3月22日のJanata curfewの解除に引き続き、23日に日付が切り替わる深夜から、インドにおける主要な商業地域を含む各地で3月末までのロックダウンを発表。

    3月24日,モーディー首相は新型コロナウイルスに関する演説を行い,25日0時から21日間,インド全土においてロックダウンを行うことを発表し,インドに居る全ての人々に対し,自宅又は滞在先に留まるよう呼びかけた。

    国鉄は貨物列車を除く全ての列車の運行を停止。長距離バスも同様。市内交通もバス、メトロ等も操業を停止。

    そうした状況下で、地方から都市部に出てきた出稼ぎの人たちは仕事がなくなり、かといって故郷に帰る手段もなくなった。住処を追い出された人もあり、食事を手に入れる現金もない人たちも。

    そんな状況下で、都市部の行政、NGO、宗教団体による炊き出し等が実施されるとともに、閉鎖中の学校施設をナイトシェルターとして彼らを収容する動きも。難民化した労働者たちの扱いに手を焼いたデリー政府は、特別バスを仕立てて、彼らをUP州やビハール州などの故郷に送還しようとするが、そうした動きの中でのクラスター発生と自州での感染拡大を恐れる地元政府の反発も。

    このような具合であるため、私自身は現在インドに滞在しているわけではないし、旅行しているわけでもない。目下、インドは旅行できる環境にはなく、「ロックダウンがどんな具合か」と興味本位で訪問するべきではないし、インドに居住してなすべき業務、そこで守るべき家庭があるのでなければ、逗留すべきでもない。

    よって、今後しばらくは、私がこのindo.toで取り上げるインドは、新型コロナウイルス感染症が広まる前のものであり、今の状況のインドへの訪問や滞在を勧めるものではない。

    あくまでも平常時のインドの魅力、興味深さ、楽しさなどを伝えたいがゆえの内容である。

    インドの人たちにとっても、私たちインドの外の人たちも、今は未知の新型ウイルスという共通の相手と闘っている。

    しばらく時間がかかるだろう。どのくらいの期間が必要とされるのか、想像もつかない。だがみんなが心を合わせて感染拡大に努めていれば、きっと私たち人間がウイルスを克服することができるだろう。そう信じたい。

    そしてすっかり事態が終息して、世界中で人々の往来がまた自由になったとき、まず最初にインドを訪問して旧交を温め、美味しいものをたくさん食べて、存分にインドを愉しみたいものだと思う。その時は必ずやってくる。夜の闇がどんなに暗くとも、朝は必ずやってくるのだから。

  • デリーの暴動

    新型コロナ騒動に影に隠れて、あまり国際的に報じられていないが、1985年以来、デリーにおける最大規模と言われる暴動が起きた。先月下旬のことである。

    1985年の暴動とは、言うまでもないが当時のインディラー・ガーンディーが自宅でスィク教徒の護衛に射殺された事件への反応として発生した大規模な反スィク教徒暴動のこと。犠牲者を沢山出したスィクコミュニティの中で、この事件をきっかけとして「信仰はスィクだが散髪し、ひげも剃る」という人たちが増えたとも言う。

    デリー北東部、主にヤムナー河の東側にあるカジューリー・カース、ゴーグルプリー、マウジプル、ジョーティ・ナガル、カルダムプリーといったあたりが、その暴力の吹きすさぶ地となった。暴徒により、居住しているムスリムの人々への大がかりな攻撃が行われた。
    CAA(改定市民法)、NRC(国民登録簿)の問題と反対運動は、当初ヒンドゥー至上主義的な政策vs世俗主義の対立であったが、いつの間にかヒンドゥーvsムスリムというコミュナルな対立にすり替えられてしまったかのようだ。

    この暴動の際、先のデリー準州議会選挙勝利により、2期続いて政権を担うことになった庶民党(AAP)のイスラーム教徒の活動家が、ムスリム側の暴徒の一味として、自宅にたくさんの武器を隠匿していたとして逮捕された。

    これに対して党主のアルヴィンド・ケージリーワル他の指導部は関与を否定するとともに対応に追われたが、この「活動家」とは、比較的最近になってから庶民党に加わったらしく、対立する陣営から送り込まれた工作活動家では?という疑惑がある。

    こうした暴動の際、「事前にターゲットとなるムスリム所有の建物に目印が記されていた」とか「暴徒を率いるリーダーらしき者に地元の協力者が『この店はムスリム』、『こちらの店はヒンドゥー』」と案内していたとかいう話がまことしやかに流れるが、真偽のほどはよくわからない。

    個々の民家の場合は掲げられている標札の名前で居住者の信仰は判るし、地域的な属性さえも明らか(主にUPからパンジャーブにかけてのジャート、ベンガーリーのムスリム、ヒマーチャルのブラーフマン等々)なことが少なくないが、ビルや商店となると必ずしもそうではない。

    そのため、明らかに特定のコミュニティがターゲットとするため事前工作や協力者による誘導があったとすれば、そうした選別は可能となるだろう。

    リンク先記事中の一番下に掲載されている写真を見ていただきたい。
    卍の印がついたヒンドゥーの家は無事であるらしいことを示しているのは、報道者の意図だろう。おそらくこの現場では、明白な選別が行われていたことを伝えたいのだと推測できる。

    こうした暴動の最中にも、襲撃されそうになっていたムスリムの人たちを大勢、安全なエリアに避難させたというスィクの若者、近隣のムスリム家族を自宅にかくまったというヒンドゥー紳士などの話もテレビニュースで伝えられていたのは幸いではあった。

    今回の暴動について、政治の関与についても言われているが、思い出すのはちょうど18年前の同じ時期に起きたグジャラート州での暴動。当時、同州のトップとその右腕は今の中央政府のそれとまったく同じコンビであった。これは単なる偶然か、それとも・・・。

    Delhi’s shame (INDIA TODAY)

  • Nizam’s

    Nizam’s

    創業1932年の老舗レストラン
    チキン・チャープ
    フィッシュ・ティッカー・マサーラー

    フィルニー

    コールカーター中心部、ニューマーケットのすぐ北側にあるNizam’sで夕食。フイッシュティッカマサラー、チキンチャープ、ライス。そしてデザートにフィルニーで腹いっぱい。良質で美味な食事というものは、味わいに満足して腹が満ちるだけではなく、心地よい高揚感と陶酔をも与えてくれる。1932年創業。そしてコールカーターのストリートフードの代名詞のようにもなっているカティー・ロールは、この店が起源であるという。Nizam’sの美味しいケバーブが具材として作られて評判を呼び、市内各地でこれを真似たものが見られるようになった。

  • クラシックな消火器

    クラシックな消火器

    YMCAに限ったことではないのだが、インドの建物で消火器が置かれている場合、大変クラシックな外見のものであることが多い。中に入っている消化液は現代的なものなのか、それともこれまたクラシックなものであろうか?

  • 客室のカギは「マスターキー」

    客室のカギは「マスターキー」

    あるホテルにて、宿代に込みの朝食を摂るため階下へ。トースト、オムレツを食べてからチャーイを2回おかわり。そこに居たのは15分程度だっただろうか。

    部屋に戻ると、すでにベッドメイクがしてある。なんという早業!どこもかしこもキレイにしてある。こういう手際の良さは気持ちが良い。

    外出前にハミガキをと思い、カバン置きに目をやると・・・。
    ない!!!

    貴重品は入っていないが、デジカメ充電器、USBコード、インド式の三叉ソケット、着替えなどの必需品が入っている。これまた何たる早業か!実に困った。

    あ、スペアメガネも入っているし、上着類もその中であった。これは大変!
    とりあえずレセプションに言おうと部屋の外に出ると、目に入ったのはドアに付いている部屋番号。

    「206」

    ひとつ下の階の206号室であった。

    「あれ?」と思い、手元にあるカギに付いている金属プレートをあらためると「306」とある。異なる階の同じ位置の部屋なので作りが同一なのだ。

    私の部屋は306号室

    どうやらカギそのものが共通らしい。すべての部屋がそうなのかどうかは知らないが。管理上は楽に違いないが、大変よろしくない。宿泊の人たちみんながマスターキーを持ち歩いているようなものだ。

    206号室は幸い空室だったが、誰か宿泊している部屋に誤って入室、ちょうど本人が帰ってきて鉢合わせになったら大いに困るところであった。

    まあ、こういうのは初めてではない。
    インドのどこかで、部屋でテレビを観ていたら、ドアがガチャガチャと鳴って開き、男が「誰だ、アンタ?」と目を見張り、こちらも「そういうアンタこそ誰だ?」とのけ反る、なんてことはあった。

    とってもビックリしたのだが、306号室に戻ってみると、荷物はちゃんとあったので、これで良しとしておこう。

  • デリー空港で「女性専用タクシー」が利用可能に

    デリー空港で「女性専用タクシー」が利用可能に

    デリーの空港からタクシーを利用すると、いつもといっても良いほど、態度や感じの悪い運転手が多い。それだからといって、何か問題が起きたことはないが、とりわけ夜の時間帯に女性がひとりで利用することに不安を覚えるのは無理もないだろう。実際、空港からのタクシーで乱暴されたり、最悪の場合、殺害されたりというような事件もあった。

    今年1月10日からWOMEN WITH WHEELSというサービスが始まったとのとこと。SAKHA CONSULTING WINGSAZAD FOUNDATIONによる取り組みだ。

    現在までのところデリー、ジャイプル、コールカーター、インドールで操業しており、4時間あるいは8時間という単位でチャーターしての利用もできるようだ。
    利用された方があれば、ぜひ感想をお聞きしたいと思う。ちなみに私は男性なので、この「女性専用サービス」は女性同伴でないと利用できないため、なかなか縁がない。

    ‘Women With Wheels’ Cab Service Operated By Women For Women Has Started At Delhi’s IGI Airport (Youtube)

    Delhi airport has an all-women cab service now (The Indian EXPRESS)

  • 映画館は不滅なり

    映画館は不滅なり

    ジェネレーターの燃料を保管していた場所で、漏電によるスパークのため引火して火災に。お粗末なアクシデントだが、上映中であったために多数の観客が亡くなる大惨事となった1997年6月13日。私はここでよく上映作品を観ていたため思い入れがある。
    あれから22年が経過した。それでも今なお建物が残っているとともに、オートに乗って「ウパパールシネマへ」と告げれば、これがわからない運転手はいない。火災事件による映画館閉館後に生まれたと思われる世代の者であっても。
    シネマホールとしての役割を終えたのは、もうふた昔以上の前であっても、「ランドマークとしての映画館」は不滅なのだ。

  • 映画「ホテル・ムンバイ」

    映画「ホテル・ムンバイ」

    現在日本で公開中の「ホテル・ムンバイ」を観た。2008年11月にムンバイで起きた同時多発テロ事件について、犯行現場となったいくつかのロケーションのうち、タージマハル・ホテルを舞台に主にホテルマンたちの視点からストーリーが展開していく。

    この作品は2018年に公開されたものだが、ホテルマンのひとりで主人公であるアルジュン役で出演しているのは、2008年公開の「スラムドッグ・ミリオネア」の少年ジャマール役だったデーヴ・パテールだと言えば、「ああ、彼ね」と覚えている人は多いだろう。
    大変重たい内容の作品であり、消化しきるにはしばらく時間がかかりそうだ。

    平日の昼間なのに満員であったことから、この作品への注目度はとても高いことがうかがえる。究極の危機の中で、これでもか!とハードなストーリーが展開していき、心臓への圧迫感が大変強いものであった。

    お客のために危険を省みず、これまで体験したこともない過酷な職務にあたるホテルマンたちのプロフェッショナリズムが描かれている素晴らしい作品だ。(ネタバレになるので詳述はしないが、事実に即したシナリオ)

    同時にこれを予備知識なしに観た人たち(事件背景はもとよりムスリムに関する予備知識も)の間で、コミュナルなヘイト感情を掻き立てるのではないかとも感じられるもので、こうした特定のコミュニティ、思想を背景とした事件に係る作品作りというのは、慎重な配慮(主人公に準じる配役で危機一髪のところで最後に命だけは助かったザーラはその名のとおりムスリム女性であることなど)をしても、なおかつ難しいものであると感じる。
    テロリストたちを送り込んだパキスタンを拠点とする過激派組織ラシュカレトイバの名前を聞いたことはあっても具体的にどういう組織なのかを知る人は、日本の観衆(欧米でも)少ないだろう。

    映画の中でも描かれていたが、進行中のテロ事件についてメディアが逐一報じるのもいろいろ問題があると指摘された当時を思い出した。当時、私は日本でもネットで動画配信されるインドのTvニュースで逐一観ていたが、同様にパキスタンでテロ組織もそれを見ながら携帯電話で犯行グループへ指示していたことが判明したためだ。

    このあたりについては、報道の自由との兼ね合いで難しい。事件から11年が経過し、通信環境やガジェットの性能なども飛躍的に向上している。この部分については当時よりも深刻な状況になっているとも言えるだろう。

    親子(同作品は15歳以上という指定がなされている)や恋人同士で観に行くような作品ではないが、ぜひとも鑑賞をお勧めしたい秀作だ。

  • ダマン2 飲酒ツーリズム

    ダマン2 飲酒ツーリズム

    海洋性気候で高温多湿のダマン。暑さでフッと気が遠くなりそうなのでバーに入ると、冷たく冷えたびーるが迎えてくれた。この時期、ふんだんに酒類があるダマンだったからよかったものの、うっかりグジャラート州海岸の町を訪れたら逃げ場がないことを実感。

    現在インド首相のモーディー氏の御膝元だけあり、制度を整えて外資誘致に積極的なグジャラート州だが、禁酒州なので自国社員の飲みニュケーション上の障害、そして福利厚生上の問題から二の足を踏む日系企業は少なくないと聞く。飲む、飲まないは個人の問題だが、州法で一律禁止とするのは人権にかかわる由々しき問題だと私は考えている。

    禁酒のグジャラート州から中央政府直轄地ダマンに入った途端、酒屋やバーが沢山目につく。中央政府直轄地という扱いは旧仏領ポンディチェリーも同様で、ゴアも1987年に州に昇格するまでは、この扱いであった。

    英国以外の旧外国領であった地域について、背景となる法制度、文化習慣、教育など他の地域と異なるため、近隣州に編入するのではなく、中央政府が現地の特性を考慮したうえで柔軟な対応をしつつ面倒を見るというもの。

    1950年代にインドに返還されたポンディチェリー、1961年クリスマスに大規模な軍事作戦でゴアとともに奪還したダマンとディーウ。さすがにインド復帰後優に半世紀以上経過しているので、もういい加減こうした経過措置を外しても良いようなものだが、こうした措置がこれほど長く続くと独自の行政区としてのアイデンティティー、積み上げてきた歴史も出来上がってしまうので、近隣州への統合は今後もないだろう。

    そのダマンとディーウだが、1990年代以降、主にインド国内の保養地、とりわけ隣接するグジャラート州とマハーラーシュトラ州からの観光客を大きく引きつけて、それ以前はほとんど無に近かった観光業が振興した。負うところの大半は、税率が極端に低く、結果として安価な酒である。つまり飲酒ツーリズムだ。ダマンの繁華街の食堂、レストランの大半は飲み屋でもある状態の背景には、このようなことがある。そうした店がだいたい朝9時くらいにオープンするわけだが、「朝から酒場が開いている町」というのは、インドでは希少である。

    飲酒について、日本からは考えられないほど制約の多いインドでは考えられない環境だ。
    そのため週末にはグジャラート州からやってくる男性たちによる「飲み会」が朝食の時間帯から展開するのが特徴的だ。「一人飲み」の姿も多く、観光シーズンのピークには、訪れる家族連れも少なくないとはいえ、あまりファミリー向けの訪問先ではないように思える。
    けっこうキレイで快適なホテルであっても、いわゆる「バー」ないしは「パーミット・ルーム」があると「家族連れ向きではない」と言われてしまう。

    そんな呑み助天国でありながらも、風俗店が軒を並べるような環境ではないため、とても健全な雰囲気であるのはダマンとディーウの大きな特徴だろうか。しかしながら、やはりこういう場所なので、実は売春も盛んであるとは聞く。

    ダマンの繁華街。朝から晩まで酒を提供する店が多い。

    隣州で禁酒のグジャラートと異なり、酒の販売が出来るダマンとはいえ、生活文化や倫理観はグジャラート州と大きく変わるはずはない。ダマンっ子は日がな飲んだくれているわけではなく、朝から飲んでいるのは、近隣州からの訪問者たちなのだ。
    ダマンの飲み屋街といってもささやかな規模で、少し外れると普通の住宅地となる。そういうところには飲み屋はないし、酒屋も滅多に見かけない。

  • 野犬と治安

    安全性、治安の良さの指標のひとつとして、野犬の不在という点も加味して良いかと思う。
    深夜や早朝、そして自らの生活圏外のエリアの小路、田舎の村落などを歩いても、野犬たちに取り囲まれたり襲撃されたりするリスクが無いことへの安心感は高い。
    インドでは、ムンバイのような大都会のオフィス街でさえも、界隈の会社などが閉まっている休日ともなると、人気の少ない真っ昼間に犬集団に囲まれ、締め切られた商店の扉を背にして応戦(背後を取られると危ないので)しなくてはならないような事態がある。あるいは夜間早朝の野犬リスクを避けるため、宿泊先を決める際に細い小路をどんどん進んだ奥にある宿よりも、通りに面した宿を志向する必要があったりする場合もある。そんなことから、日本において野犬がいないことからくる安心感はとても大きい。
    徘徊する犬たちの存在は、それ自体が治安に関わるものだと私は考えている。

    世界一安全な都市は東京、大阪は3位 19年版ランキング(CNN)

  • スーラト3  墓場も面白いインド

    スーラト3 墓場も面白いインド

    これらの風景を目にして、何の遺跡と思われるだろうか。
    実は、「英国人墓地」なのだ。

    場所はスーラト。東インド会社が拠点とした港町のひとつ。私が確認できた、この墓地で最も新しい墓標が1850年のものであったので、まさに英国政府による統治に移行する前、東インド会社が支配した、いわゆる「カンパニー時代」の英国人墓地。墓標を見たところでは、大半は東インド会社軍の軍人とその家族たち。

    そのあたりまでは、英国人でも改宗してヒンドゥーになって、毎朝沐浴したり、プージャーをしたりする後の時代のヒッピー的な英国人も少なからずいたと聞く。
    もちろん、高級官僚やエリートコースに乗っている英国人は、その限りではなかったとはいえ、それ以外で何かしら縁あってインドに渡ることになった、あんまり堅苦しくなくてカジュアルな英国人たちの中には、自国と違う気候、文化、食事の中で戸惑いつつも、「インドってすげー!」と、すっかり感化されてしまう人たちが後を絶たなかったらしい。

    それはそうだろう。今の私たちでも「インドってすごい!」と感嘆しているのだから。当時、「ツイッター」「Facebook」等があったら、彼らのオドロキやインドへの憧憬が多々綴られていたはずだ。
    だが当時の人々は、相当な知識人でもない限り、いわゆる日記のようなものをしたためる習慣もなかったので、現代に生きる私たちが、当時のインドの市井の人たちの日常の喜怒哀楽を知るのは容易なことではない。

    「インドかぶれ」については、1857年の大反乱以降の英国当局による綱紀粛正により、いわゆる当時でいうところの「ネイティヴ(インド人)」と英国人の間の「けじめ」のようなものが徹底されることになった。そのため、墓地についても、その後のものは、このような墓地ではなく、英国人らしいものとなっている。19世紀と20世紀を境にして、「アングロ・インディアン」を示す意味が、「インドで生まれた英国人」から「英印混血の人」と変化していったのには、こうした背景もあるに違いない。

    インドという国は、ごく平凡に観光していても、実に興味深い事柄に満ちているのだ。こんな国は広い世界を見渡しても、他に無いだろう。各地の英国人墓地を巡るだけでも、実は大変面白いインドなのだ。

    〈続く〉

  • ティーラトガルの滝

    ティーラトガルの滝

    ジャグダルプルを出てからしばらくの間は良い道路が続く。昔ながらのインドの幹線道路では、これよりもっと大きく天を突くような大木が道路両側に等間隔で並んでおり、スケールの大きな景観を提供していた。中央アジア地域や中国の新疆でも道路両側に大きなポプラ並木が見られるが、樹木の種類は違えども、目的は同じだろう。緑のトンネルが遮光して往来する車両や人を強烈な日差しから守る、交通にかかる「インフラ」のひとつであった。

    英領期から計画的に植えられてきたものだが、モータリゼーションの大衆化、物流の大量化、高速化に伴い、全国各地で幹線道路が複数車線化していく中で、当然こうした国道沿いの緑のトンネルは急速に姿を消している。おそらくパキスタンやバングラデシュでも同様だろう。幹線道路脇の並木は伐採されて、道路幅が拡張されていくのだ。

    やがて周囲は森となり、勾配のある山道となってくる。こういう眺めを目の前にすると、マオイストが潜んでいるのはそういう地域なのだろうかと想像する。バスタルは「チャッティースガルのカシミール」などとも表現されることがあるが、高度がありスイスのような景観のカシミールとでは、美しさが異なる。

    マオイストたちはこんな具合の森に潜んでいるが、夏季にはマラリアに大変苦しめられるという。

    この地域ではやたらとサルが多い。ニホンザルの近縁のアカゲザルである。私には区別さえつかない。これほどたくさんいたら、このエリアを徒歩で行くのはかなり危険であろう。これは滝に着いても同様で、周囲にはサルがとても多かった。

    やたらとサルが多い。

    さて、そのティーラトガルの滝だが、天然の階段状になった小高い斜面を流れ落ちるという視覚的に面白いものはあるのだが、格別といえるような風情や眺めがあるわけではなかった。この日の目的地は他にあり、ここは途中で立ち寄っただけなのだが、もしここに期待して訪れていたら、かなりガックリきていたかもしれない。

    滝の近くのマーケットで売られていたみやげ類
    いまひとつパッとしない。