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カテゴリー: life

  • インドでアーディワースィー(先住民)の大統領誕生なるか?

    次期のインド大統領選について、ちょっとビックリするニュースが入ってきた。先住民の女性がインド大統領、つまり形式上は英領時代の「インド総督」の立場に相当する存在であり、国家元首である。

    インドの先住民族のひとつであるサンタル族出身の女性が、そういう立場に就く可能性が高いのだ。BJPを中心とするNDA(National Democratic Alliance)と国民会議派が率いるUPA(United Progressive Alliance)がそれぞれ候補を立てて、国会の上院と下院、連邦直轄地の立法議会の議員及び各州の立法議会の議員による投票により選出される。

    出馬することが決まったのはBJP所属の先住民女性、ドラウパデイ・ムルムー氏。政治に関わるようになったのは出身のオリッサ州でBJPに加入し、同党のオリッサ州組織の先住民部族部会の長を務めるまでになった。

    BJPが駆け出しの頃には都市部の中間層をコアな支持基盤としていたが、その後急速に都市部では国民会議派や左派政党の地盤、地方でも国民会議派や地方政党の票田を切り崩しながら支持を広げていった背景には、こうした地元の人々をも囲い込み、そうした人々を登用したうえで、先頭に立って働いてもらったことも背景にある。

    反ムスリム、反クリスチャン的な行動で、社会の亀裂を深めているいっぽうで、社会の底辺にいたり、容易に社会から差別される存在になり得る低いカーストの人たち、先住民などを広い懐で包み込んで、機会を与えていることについては、正当に評価されるべきだろう。現在首相のモーディーだって、先住民やアウトカーストではないが、テーリー(油絞り)という低いカーストの出だ。

    ブラーフマン、カーヤスタ、ラージプートといった高いカーストの人たちが政界を牛耳る時代はずいぶん昔に終わり、80年代後半以降はヤーダヴを始めとする「その他後進諸階級(OBCs)」が台頭した。90年代のビハール州は、そうした「成り上がり」を抑え込もうとするタークルその他、古くからの在地支配層と急伸するOBCsの間で暴力的な衝突、誘拐、報復などが相次ぎ、「カースト戦争」とまで揶揄された時代があった。

    90年代以降のビハール州の政界のリーダーシップは、OBCsとダリットの三つ巴、四つ巴の戦いの場となり、今後もずっとアッバーカーストの人たちが牛耳ることはないだろう。

    どこの州でも多かれ少なかれ、そういう流れになっており、政治の分野ではカーストの上下ではなく、カーストをベースとするコミュニティーの人口規模の多寡が政治力を左右するようになっていると言ってもよい。そうした背景がヤーダヴを筆頭とする後進階級出身の政治家たちが持つ、汲めども尽きぬパワーの源泉だ。

    ビハールから部族地域が分離してできたジャールカンド州のように、マジョリテイーが先住民部族の人々の州となると、もう政界上層部、中層部を牛耳るのは部族の人々、州政府の閣僚も普通は部族という、政界ではあたかも部族でなければ人ではない、というような感じにすらなっている。

    さて、このムルムー氏だが、その後はオリッサ州政府の大臣職を歴任。そしてジャールカンド州では知事にもなった人。対するNDAからの候補者は、現在トリナムール・コングレス所属のヤシュワント・スィンハー氏。この人は以前はBJP所属で党副総裁を務めていた頃もあったし、ヴァジペイー政権で財務相、外務相を歴任したこともあった大物政治家だったが、党と袂を分かちNDAとは対立関係にあるUPAにあるトリナムール・コングレスに加入。

    どちらが大統領職に就くことになるか判明するのは7月20日過ぎになるが、やはり全国的に数で優勢なNDAの擁立するムルムー氏が勝利する可能性のほうが高いのだろう。

    大統領職は名目上の立場であり、実権は首相が率いる内閣の手にあるため、シンボル的にマイノリティーであるムスリムが擁立されたり、スィク教徒が就任したり、女性がその職に就くといったことはこれまでもあった。

    ・・・とはいえ、かつてインドを支配した総督の立場に、独立後のインドでも引き続き社会の底辺にいた先住部族民出身の女性が就任するかもしれない、ということは、インド社会が大きく変化したことをダイナミックに象徴しているようで興味深い。

    7月後半、この人が本当にインド大統領となることが決まったら、日本のメディアでもおそらく取り上げられることだろう。ドラウパデイ・ムルムーという彼女の名前は記憶しておくと良いかもしれない。

    Teacher, MLA, Jharkhand Governor: Meet Droupadi Murmu, First Adivasi Woman To Become Presidential Candidate (Outlook)

    蛇足ながら、こちらの動画は大統領候補となったムルムー氏を祝福するために彼女の自宅に集まる支援者たちとそれを迎えるムルムー氏の姿を伝えるもの。偉ぶらない人柄と謙虚な態度が感じられるようだ。

    People Gather To Greet Draupadi Murmu At Her Residence (Kanak News)

  • ついにゴアでも「復興運動」を展開へ

    ヒンドゥー右翼たちにより、デリー、アーグラー、マトゥラー、バナーラス等において、イスラーム教関係の施設や遺跡などに対して、「元はヒンドゥー教の寺であったものを、イスラーム教徒侵略者たちが破壊してモスクその他のムスリムの施設などに変えた」として、いろいろな運動が展開されているのはご存知のとおり。

    そうした中で同時多発的に裁判も進行中で、「ヒンドゥー教徒による礼拝を認めろ」だの「ヒンドゥー教寺院であった証拠はこのリンガム状の物体だ」などとして、専門の学者ではなく、裁判所に認定を迫るかのような姿勢で、既成事実化して、しまいにはそれらの施設や遺跡を乗っ取りそうなムードだ。

    これらは少なくとも表向きはBJPその他のサングパリワールと呼ばれる一連の関係団体によるものではなく、ごく普通の市民が縦横の連帯すらなく、自発的に始めた運動のようになっている。しかしたとえばバナーラスやデリーの事例のように、普通の主婦たちがわざわざそんなことに血道を上げるだろうか。いかにも怪しい。

    こうした上げ潮の勢いが先日のBJPの広報担当者による預言者モハンマドを侮辱したとされる発言が出るまでに至ったのだろう。こうした動きはこれまで北部が中心であったが、イスラーム教徒ではなく「クリスチャンに侵略されたゴア」でも始まった。かつて存在したヒンドゥー教寺院、ポルトガル当局に破壊されたお寺を復興しようという動きだ。

    ポルトガル時代に9割を越えたクリスチャン人口は、ポルトガル当局による苛烈なヒンドゥー教への弾圧に加えて、改宗すれば人種の違いに寛容なポルトガル植民地社会というインセンティブもあり、多くの人々がヒンドゥー教から離れてカトリックを受け入れたことが背景にある。

    そんなゴアだが1961年のインドによる軍事侵攻により陥落し、強制的にインドに併合された後、当然のことながら相互で人口の大きな移動があり、現在はゴア人口の7割近くがヒンドゥー教徒となり、カトリックはマイノリティーに転落して久しい。

    インドによる脅しと侵略への恐怖が現実化していた1950年代後半には、ゴア市民はこうなる事態、すでに「ゴアン」としてのアイデンティティーを確立していた人々は、インド人の大海に呑み込まれてしまうことを危惧していたのだ。当時のゴアはインドに対して比較的裕福で、インドはとても貧しかったこともそうした嫌インドの背景にあった。

    インドがポルトガル領ゴアに経済封鎖を実施していた頃は、ポルトガルが支配するところのゴアとパキスタンは蜜月状態にあり、生活物資、食料その他の必需品がカラーチーの港からパナジの港へと大量に運ばれたという。

    これまでゴアでクリスチャンとヒンドゥーの関係は悪くなかったが、こうした右翼の動きが浸透していくようなことがあれば、すでに多数派となっているヒンドゥー社会からクリスチャンが次第に排除されていく未来もあるのかもしれないし、今の時代を生きるカトリックのゴアンの人々の間から嫌インドという動きも出てくるかもしれない。

    今後の推移を見守っていきたい。

    Goa’s Own Gyanvapis: Govt To Reconstruct Temples Destroyed During Portuguese Regime? (Outlook)

  • AGNI PATH

    17歳から21歳までの期間限定 インド軍のAGNI PATHという新たなリクルートのスキームがニュースになっている。AGNI PATH(アーグニ・パト=炎の道)という、昔のアミターブ・バッチャンの映画にあったようなタイトルだが、17歳から21歳まで4年間のみ限定のリクルートの形だという。

    軍というものは、若くてフレッシュなマンパワーを大量に必要とし、年齢が上がってくるとそうした下のランクの兵士たちは不要になってしまう。そんなわけで、インド軍ではこのような形で毎年4万人程度の新兵を期間限定で採用し、22歳に至ったら除隊して社会に戻ってもらうというもの。その代わり、在籍する間の給与は思っていたよりも良さげな感じだ。

    ただし、兵士といっても中途半端な期間と熟練度で、4年後に社会に放り出されても何もできない若者が毎年4万人も発生するとして、退役軍人からも批判があるようだ。アメリカのいわゆるGI BILLのように、一定期間従軍後、大学進学のための奨学金を払ってくれる(ゆえに「GI BILL」と通称される)ような制度であれば良かったかもしれない。

    Agnipath scheme for four-year military tour of duty unveiled (India Today)

  • 最大級の舌禍と放送局のスタンス

    BJPの広報担当のヌールプル・シャルマー。コロナ禍以降、私たちの社会でZoom、webexその他によるオンライン会議が定着した。

    同様に、報道番組等テレビプログラムの中でも同様にオンラインでコメントを取ったり、スタジオと参加者自宅や仕事場を結んでの討論会が当たり前になった。結果として、政党関係者、宗教関係者、学者その他が目の前でしゃべっている様子を目にする機会が増えた。

    すると、やはり寄稿したりなど、文字で意見を表明するのはうまくても、対話とりわけ討論には強くない人もあれば、弁舌が立ち見た目も良い人もあり、喋りは上手くてもあまりに慇懃無礼で、司会から退場を命じられて番組進行中にスタジオからオンラインを切られてしまう出演者もたまにいるなど、向き不向きもかなりあることがわかる。そんなことから番組ごとに討論番組に出てくる参加者、特に政党から出てくる人となると、党の方針から踏み外すことなく主張できる人物となるため、だいたい固定化されている。

    それはそれで構わないのだが、こうした機会のある人でもときに踏み外して大変なことになるケースも出てくる。このヌールプル・シャルマーがその典型。BJPの広報担当の人物だ。イスラーム教の預言書について、テレビでたいへん不適切な発言をした結果、国内外で大きな波紋を呼び、さすがの反響の大きさにBJPからは除名され、彼女のもとには脅迫が相次いだことから、警察による庇護を求めている。

    国外ではイスラーム教の国々、インドネシア、マレーシアそして湾岸諸国などでインド大使が現地政府に呼び出されて叱責を受けるという異例の事態になっている。またこうした地域の過激派組織からも激しい非難が表明されている。

    政治関係者による舌禍としては最大級のもののひとつに見える。この人が出た件の番組は見ていないのでなんとも言えないのだが、およそ民放の討論会というものは、5、6人から10人前後の出演者たちが司会とともに行うのだが、敢えて討論が炎上するように両極端なキャラを揃えたり、司会も火に油を注ぐような進行をするので、そうした環境の中で意図的に引き出された発言だったのかもしれない。

    そういうヘイト発言と感情が衝突する場を「討論番組」として連日垂れ流している放送局にも自制を求めたいところだ。

    Nupur Sharma: The Indian woman behind offensive Prophet Muhammad comments (BBC NEWS)

  • ラッパーの死

    5月29日に、パンジャービーのラッパー(パンジャーブ州議会議員でもある)のスィッドゥー・ムーセーワーラーがクルマで移動中に十数発の銃弾を撃ち込まれて殺害されるという凄惨な事件があった。関与が疑われているのは、パンジャーブ出身のギャング、ローレンス・ビシノーイーだが、現在デリーのティハール刑務所に収監中なのになぜか?と言えば、塀の中からスィッドゥーを脅迫していたローレンスは、彼の殺害を決めて、在カナダのパンジャービーギャング組織と連絡を取り、カナダからパンジャーブ現地の手下だか協力関係にある者たちがスパーリー(ヒットマン)として送り込まれたらしい。今どきのインドらしい国際間の連携とも言える。

    こうしたリスクを抱えている有名人たちには、先の州議会選挙で国民会議派が負けて庶民党政権となるまでは、手厚い警護が付いていたのだが、政権交代後は「セレブを特別扱いしない」という庶民党の方針から警護体制の簡略化が実施されており、まさにそれを突いての犯行であったとされる。

    それまでスィッドゥーは防弾処理を施された車両で複数のガードマンたちと往来していたとのことだが、この日は自家用車で、後続車両におそらくライフルを手にした護衛が付くのみであったといい、高性能銃器を手にしたプロの殺し屋による奇襲には対応できなかったようだ。

    サルマーン・カーン自身も、ローレンスからずいぶん前から脅迫されてきたひとりで、身の安全が危惧されているため、この事件後は警護が大幅に強化されることになったと聞く。

    インドの音楽関係者にしても映画人にしてもこの手の脅迫にかかる事案は昔から多く、かつてはグルシャン・クマールのような超大物さえも殺害されたことを記憶している人は多いだろう。

    Salman Khan’s security beefed-up outside his Mumbai apartment after Sidhu Moose Wala’s murder. Here’s why (THE ECONOMIC TIMES)

     

  • Tejo Mahalayaの本

    Tejo Mahalayaの本

    デリーのクトゥブ・ミーナール、バナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッドの論争と時を同じくして展開しているアーグラーのタージ・マハルが「ヒンドゥー寺院を改変して建てられたもの」という主張。

    「タージ・マハル」ではなく「テージョー・マハーラヤ」であるとする論争だが、元々ジャイプル藩王国所有の地所であったという主張等々のニュースが日々インドから流れる中、ヨタ話であってもネタ的には興味深い部分もある。インド雑学の見地からは、とうてい看過できないものがある。インドアマゾンのKindle本を検索すると、書籍の概要からしてドンピシャのものが見つかったので購入。今話題になっている「テージョー・マハーラヤ」の元ネタはだいたい網羅されていそうだ。

    正しい歴史認識が最も大切であることは言うまでもないし、ヨタ話を擁護するつもりももちろんないのだが、そうした言いがかりの根拠としているもの、でっち上げの内容と根拠とするものについて把握しておくことは大切だ。

    編集者兼著者のStephen Knappという人物は、インド(及びその他の国々)でヴェーダ関係の書籍をいくつも出しているなど、西欧人(たぶんオーストラリア人)ながらも、極右勢力とは親和性がとても高いように思われる。

    著者 : Stephen Knapp
    ASIN : B06ZZ6GXN5

  • ジョージアのタンドゥール

    ジョージアのタンドゥール

    ジョージアに滞在中の方のFB上で幾度もタンドゥールやそれで焼かれたパンの類の写真を見かけた。ググッてみると、やはりジョージアでは伝統的にこうした窯の利用が多いらしい。なんとなく欧州文化圏のような気がしていたが、同時に中央アジアとも接している地域でもある。文化圏を信仰面のみで区別することはナンセンスだということを感じる。

    生活文化に信仰が与える影響には、食のタブーであったり、祝祭等の内容やサイクルであったり、通過儀礼等々があったりするが、信仰を同じくする国々などへの心理的距離の近さ、それとは裏返しに信仰が異なる場合の距離感の遠さなどいろいろあるかもしれないが、それ以外の自然環境であったり、それぞれの信仰が浸透する前から地域で引き継がれている伝統であったり、信仰や人種を超えて地域で共有してきた文化や習慣といったものの深みは当然あるはず。

    タンドゥールが伝播した北限がどこなのかは知らないが、ジョージアのような「タンドゥール文化圏」の北周縁部の人たちが、その文化圏の南端とも言えるインドのパンジャーブ地方を訪れたならば、自分たちのものとは少し異なるけれども似たような用途で用いられるその土窯を見て、多少のエキゾ感はあっても、懐かしい思いにかられるのではないかと思う。その意味では正教徒である彼らが自国の食文化の延長線上にあるものをペーシャーワルであったり、オールドデリーであったりといったイスラーム教徒の料理屋の店先で目にすることになる。

    同時にタンドゥール文化圏外、例えばタミルナードゥ州の人たちがジョージアを訪問することがあったら、自分が暮らすバンガロールやマイソールなりの街で見かけるムグライやパンジャーブ料理店などで目にするタンドゥールと同じようなものがあり、ジョージアでもイスラーム文化圏起源であると思われるタイプのパンが焼かれているのを見て、母国インドが中央アジアを経て、このジョージアにまで食文化でゆるく繋がっている部分があることを感じ、主に米食の自分たちにとってアウェイ感のある北西インドのイスラーム系料理に対して、ますますの距離間を感じてしまうなどということもあるのかもしれない。

    人間が政治的な意図で引いた国境、民族や宗教を背景にする文化圏、急峻な山岳その他厳しい地形等条件などによる地理的な障害など、世界を区分するボーダーというものは重層的に存在しているが、その中にはこうした食文化の繋がりないしは断絶をベースにした食をベースにしたボーダーラインのようなものも存在する。もちろんその境界とは目に見えてきっぱりと区分されているわけではなく、ゆるく重なり合っていたり、融合しあっていたりするものだ。

    それだけではない。ときにはスペイン系の食文化が大きく飛んでラテンアメリカにも広がっていたり、中国起源の麺料理の影響がイタリアに飛んでいたり、その他の中華料理の手法なども東南アジアで華人移民たちを通じて伝播していたりなど、いきなり飛び地が存在していることもあるなど、食文化というものは文化、民族や地域を越えて縦横にクロスオーバーすることもある非常にダイナミックなものである。

    He Dives Into Ovens to Bake Bread (Youtube)

  • ムンバイのヒンディー語映画「ANEK」にナガランド出身のヒロイン

    ムンバイのヒンディー語映画「ANEK」にナガランド出身のヒロイン

    ナガランド出身でムンバイで活動するモデル、アンドレア・ケヴィチュサー。15歳の頃から時折モデルの仕事などもしていたとのことだが、メガーラヤ州都シローンで高校を卒業した2019年、ムンバイに拠点を移して本格的にモデルの仕事に従事するようになった。そしてこのほど封切となった作品「ANEK」で映画デビューを果たした21歳。

    私たちと同じモンゴロイドでボリウッド映画に出演する人は皆無ではないものの、ハードルの高い世界。今後も役柄に恵まれて活躍する場を持てるとよいと思う。北東部出身の人たちへの差別感情の解消にも繋がることを期待したい。

    こちらは映画デビューに際しての本人、アンドレア・ケヴィチュサーさんへのインタビュー動画。日本でJRに乗っていたら誰も「インド人」とは思うはずもない「和風顔」である。

    Andrea Kevichusa on Anek: ‘A day will come when actors will get cast not for their ethnicity, but for their talent’ (Firstpost)

    NAGALAND MODEL ANDREA KEVICHUSA’S FEATURE MOVIE ‘ANEK’ RECEIVES POSITIVE RESPONSE (Youtube)

  • リンガムか噴水か

    ギャーンヴァーピー・マスジッドで見つかったとされるシヴァリンガムの画像とのこと。右翼はリンガムであると主張し、彼らに同意しないものは噴水だとか。裁判所の仲介により、モスクに調査団を受け入れさせる前から、メディアではモスク内のヒンドゥー的な意匠、つまり建物内の持ち送りの梁や柱の構造であったり、壁面に掘られたヒンドゥー的なデザインを含む彫物であったりをも映し出しており、意図的にヒンドゥー寺院では?という視覚的な誘導を行うなどといったこともあった。

    しかし昔からヒンドゥーがマジョリティーであったインドの環境下でムスリムの建築物にヒンドゥー教徒の職人集団が関わることは、ごく当たり前のことで、ムガル全盛期の代表的な建築物郡群すべてにヒンドゥー的な要素は見られる。それは中東地域ではほとんど見られない庇であったり、インド起源のヒンドゥーや仏教の象徴でもあるハスの花の意匠であったり、ベンガル式のジョールバングラー型の屋根であったりと様々だ。もともとそうした多文化融合の造形がインドのイスラーム建築の特徴でもある。

    それにしても不思議なのは、このモスクの「ギャーンヴァーピー」という名称。普通はアラビア語やペルシャ語で、それらしい命名をするものだが、なぜサンスクリットで「知恵の泉」と名付けたのか。実に珍しい。

    まさにこれこそインドの多文化社会を象徴するようなもので、本来ならば内外に誇れるもののように思うのだが、その名前がゆえに標的になっているとすれば、なんと皮肉なことだろうか。

    Shivling or fountain in Gyanvapi mosque? Here’s what IIT-BHU experts say (INDIA TODAY)

  • アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン

    アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン

    インディア・トゥデイの今週号。特集は「アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン(今やらなければ金輪際あり得ない)」。

    内容は惨憺たる状態にあるインド最古かつ南アジアの最古の伝統ある政党、国民会議派。もういいかげん、ここで巻き直すことができなければ全国政党の座も危なくなる。表紙になっているのはまさにそれで、会議派のシンボルマークが今にも水の中に呑まれそうになっているという図。

    会議派のシンボルは、ただの3色の掌のイラストではない。この掌が示すのは、ヒンドゥー教、仏教などでおなじみのムドラー(手印)。つまり私たちにしてみれば仏様のハンドサイン。手印はインドのヒンドゥー、ジェインそして日本の仏教徒が共有している文化でもある。

    言うまでもなく、これは施無畏印。「おそれるな。私があなたを保護してあげる」という、日本でも仏像でよく目にするありがたいムドラー。

    そんな頼もしい手印を国民に示してきた国民会議派がこのまま沈んでいき、国政の表舞台から姿を消すのではないか?いくつかの地域でのみ存在感を示す地域政党へと転落するのではないか?と危惧される現状はあまりに哀しい。

    INDIA TODAY 2022年5月25日号
  • 34年前の過ち

    ナウジョート・スィン・スィッドゥー。元クリケット選手で、インド代表の花形選手として活躍もしていた。その後、テレビタレントとして数々の番組に出演。

    2004年からは政治家に転向してBJP選出のパンジャーブ州議会議員として活動を開始。その後2017年には国民会議派に鞍替え。州観光大臣であった2018年には、同じくクリケット選手で南アジアを代表する名選手だったパキスタンのイムラーン・カーン首相を相手に「クリケット外交」を演じ、アムリトサルからすぐ国境向こうにあるスィク教の名刹、カルタールプルのグルドワラー・ダルバール・サーヒブへ、インド側からヴィザ無し訪問のスキームを実現させて脚光を浴びた。その後、国民会議派のパンジャーブ支部のトップの座に就くなど、順風満帆の時期が続いていた。

    そんな中でパンジャーブ支部内での内紛、それに続いての州議会選挙敗北と、なかなか大変なことになっていたのだが、このたび1988年、つまり彼のクリケット選手現役時代に起こした危険運転のかどで、懲役1年の判決が下りたのは一昨日。実は危険運転というよりも、危険運転が生んだトラブルの中で、当時25歳だったスィッドゥーが65歳の男性を殴ったことにより、その男性の死を招いたという事件。本来ならば殺人事件あるいは暴行及び傷害致死として扱われるべきところ、一貫して「road rage」として報道も裁判も続いていた。

    この件について、幾度も裁判を重ねており、選手時代、タレント時代、政治家となってからもつきまとう彼自身が抱えるリスクであったが、被害者の遺族による粘り強い闘いにより最高裁でまで争われ、ついに彼はその償いをすることになった。まさにその事件が起きてから34年後になった今になって、である。

    事件後で被害者は亡くなったが、いっぽうでスィッドゥーはさらにクリケット選手としてのキャリアを積み、タレント業でもスポットライトを浴びて、政治家としても活躍した。もう充分に華やかなキャリアと人生を謳歌しておいて、いまごろになって、わずか懲役1年の判決。やるせない話だ。

    ニュースによると、彼にはまだ法的に争うことができる余地は残されているものの、それがうまくいく可能性は限りなく低いとも言われている。

    SC sentences Navjot Singh Sidhu to one year in jail in 1988 road rage case (Hindustan Times)

  • 奇妙な捻じれ

    最高裁の命令により調査チームを受け入れさせたバナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッド。ヒンドゥー寺院であった確固たる証拠があったとして、ここでプージャーを行なうことを求めるヒンドゥーの原告側が「バーバーがおられた」とし、ムスリム側は「何も見つからなかった」。シヴァのリンガムらしきものの痕跡が見つかったとのことのようで、さらに確固たる証拠として、リンガムに向かい合わせるナンディの姿がないか調べるという方向らしい。

    ここにあったヒンドゥー寺院をモスクに転用したということは、もともと古くから伝えられてきた史実のようで、そのような例はここに限らず、とりわけインド北部や西部には多い。

    ここはムガル朝のアウラングゼーブ帝の時代に転用されたとのこと。1991年にアーヨーディヤーのバーブリー・マスジッド(ラーマの生誕地とされる場所にあった寺院で、やはりムガル帝国時代にモスクに転用された。1992年に右翼に率いられら暴徒たちが破壊。インド各地にコミュナルな暴動が連鎖)問題のとき、こちらもやり玉に上がっていた。

    現在はムスリム以外は立ち入り禁止の施設として現在に至っている。近年、右翼勢力はこうしたムガル時代に起きた賛ムスリム的な事象を反ヒンドゥー=反民族=反国家的な過去で、それを取り戻すことが愛国的な行いであるかのように煽る。同時に植民地時代の反政府テロリストたちを反英愛国者と持ち上げ、さらには1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」と位置づける。

    するとこの時代の歴史解釈の根本的な部分に、奇妙で大きな捻じれが出てくるのだが、これについてはどう辻褄をつけるつもりなのだろうか。

    多数はヒンドゥーのインド人傭兵たちの勢力がインド各地で当時の東インド会社軍に対して反乱を起こし、その勢力が合流しながら当時の統治の拠点を次々に陥落させていった。火の手がデリーに及んだときに彼らが集結して反乱のシンボルとして担ぎ出したのはムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル。

    それまで英国人指揮官の元で働いてきた無名のインド人兵士たちが求めた権威は、当時すでに権勢は衰えて威光の及ぶ範囲は「デリー周辺」でしかなかったムスリム王朝の当主であった。劣勢に継ぐ劣勢で追い込まれたイギリス側は、それでも内部の立て直しと反乱の及んでいなかった南部等からの援軍などで反攻に出たわけだが、その際に大きな力となったのはパンジャーブ及びその近隣地域のスィク教徒勢力。

    英国当局が比較的短期間に力を回復して、反乱勢力を退治して粛清、軍の再編、英国人社会の綱紀粛正、英国本国では東インド会社の解体とインド省による直接統治へと急転換していくことになる。現在も軍や警察などでスィク教徒のプレゼンスが高いのには、反乱平定後に親英・尚武の民として重用されたことが背景にある。つまりムガルこそが独立運動の先駆けの象徴であり、スィク教徒は親英の売国勢力であったことになってしまうため、極右勢力によるムガルを「侵略者」と位置付けと、極右勢力を含めたインドの広範囲での「1857年の大反乱はインド最初の独利運動」という定義は相反するものになるのだ。

    Decoded: What is the controversy over Varanasi’s Gyanvapi Masjid? (India Today)