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カテゴリー: life

  • アンコールパス

    アンコール遺跡の入場料は遺跡ごとに定められているわけではなく、アンコールパスという共通チケットによる入場となる。(一部例外あり、「アンコールパス」でカバーされず、独自に料金徴収する遺跡もある)

    入場といっても、各遺跡でのチケット確認以外に、道路途中に検問があり、アンコールパスの有無の確認がなされるため、アンコール地域の入域料金のような性格がある。この「エリア方式」は、私が前回訪問した1992年当時も同様で、各遺跡にはチケット売場はなかったし、今と違って係員もいなかったように思う。(アンコールワットなどいくつかのメジャーな遺跡では、管理の職員は配置されていたはず。)

    チケットは当時は数少なかったホテル(グランドホテルだったか?)で販売されているはずだったが、もちろんバックパッカーたちはそんなものは購入せずに観て回っていた。

    とにかく情報が少なかった当時だが、私はアンコールワット見学の後はベトナムに行き、そこからバンコクへ飛び(バンコクでサイゴン往復のチケットを買っていた)、そこからすぐに帰国する予定であったこと、当時のカンボジアの幹線道路ですら非常に悪路で、自転車ほどの速度でしか進めず、その悪路がゆえに道中絶え間ない激しい振動により胃下垂になって辛かったので、シェムレアプからプノンペンまでのフライトを予約していた。

    同宿の「命の恩人」(理由は後述する)カナダ人がどこからか「陸路でシェムレアプを出るには問題ないが、空路で出るとアンコール遺跡入場のチケットを見せないと、料金を支払わずに遺跡見物をしたということでベナルティーが課せられる」という余計な情報を仕入れてきた。

    彼と一緒に航空券を買いに行ったのだが、決して無視できない情報だ。彼曰く、その話は当時国連の選挙監視組織UNTACへの派遣で来ていたフランス軍の人から聞いたとのこと。幸いにもその人が「必要があれば言ってくれ。助けてあげるから」と言ってくれたとのことで、その所属先とやらに2人で出向いた。

    今から思えば、15ドルとか20ドルとかの話だったはずなので、なんとまあセコいことを!と思うのだが、当時若者だった彼も私も真剣だった。そんなどうでもいいことに付き合ってくれたフランス軍の人も奇特な人だが、実際のところ特にするべきこともあまりなくて暇だったのかもしれない。

    フライト当日、私たちは「UN」と黒字で大書きされた白い四駆に乗せてもらい空港へ。チェックインカウンターでは、情報どおりにアンコール遺跡のチケットを要求されたが。空港まで運転してきてくれたフランス軍兵士が、「彼らは観光目的ではありません。ボランティアとして私たちのところで働いてくれていたのです」という嘘をカウンター係員に告げるとボーディングパスが出てきた。

    それでも気になるところがあったのか、彼は「こういう国なので、何かあるといけないので、フライトが離陸するまで私はここに居ます。もし何かあれば、チェックインカウンター前に待機している私の所属と名前を言って下さい」と言う姿がカッコ良く、頼もしかった。もっともアジア人の私が単独で頼んでいたら、こういう展開はなかったのだろうなぁとも思った。同行のカナダ人はケベック州の人でフランス語も堪能なのだ。

    同行のカナダ人は「命の恩人」と書いたが、アンコール遺跡を訪れる前に滞在していた雨の日のプノンペンで、彼の瞬時の対応が無ければ、私はおそらく「享年25歳」で遺骨もなく葬られるところであった。

    プノンペンで道路が冠水していたその晩、彼と食事に行こうと歩いていたとき、道路脇の民家から何事か叫ぶおばさんがいて、私たちは「???」であったが。その数秒後、私は予期せぬ深みに落ち込みそうになった。

    まるでプールで息継ぎに失敗したかのようにお水を飲み込んでしまったが、視界が水面下に消えた瞬間、その彼が私を引き上げてくれたのだ。落ち込みそうになったのは蓋の開いたマンホールで、彼が居なければ今の私はなかった。落ち込む際に臑を強く打ったり、膝や踵を擦りむいたりしたし、全身びしょ濡れで一度宿に引き返してから消毒したり、着替えなくてはならなかった。

    彼とはベトナムに戻った後、一緒にニャチャンに行き、そこで私はデング熱に罹り、大変便利苦しかったが、再び彼の世話になった。医者を呼んできてくれたり、朝・夕の食事と水を私の枕元に運んでくれたりと、いろいろお世話になりっぱなしであった。

  • 東バライと西バライ

    東バライと西バライ

    巨大な湖のような東バライ。西側には西バライがある。人造の貯水池でアンコール時代のクメール帝国によるものだが、今でもここから水田に水が引かれるという灌漑施設の超傑作。アンコール遺跡はこの国に外貨収入と雇用創出をもたらし、バライは大昔も今も農民に水をもたらす。

    今は遺跡となっている寺院で、年中行事や人々の通過儀礼も行われ、周囲には門前町が形成されていたり、たくさんの民家からなる町が構成されていたりしたのだろう。

    お寺のすぐ外の敷地では界隈の子供たちが遊び、長じてはそのお寺で出家したり、お寺の世話を引き受けたり、子供が生まれてお坊さんから名前をもらい、お布施を差し上げたりと、様々な関わりがあったはず。

    お寺の石組みだけはこうして今の時代にも残っているが、そのあたりの人々の生の関わりや僧院内外の生活感というものを想像してみるのも楽しい。

    東バライ

    西バライ
  • ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ポアン寺院

    ネアク・ボアンは、東バライの中の島にある珍しい水上寺院。アンコール遺跡で面白いのは、建築のデザインや意匠は統一されているのだが、それぞれの寺院に異なるレイアウトがなされていたり、高台にあるノッポな建物の寺院ものもあれば平地で平べったく広がるものもある。千差万別で面白いのだが、こちらのような島の中の島になっているようなものは、おそらく唯一無二。

    前回訪れた1992年当時、ここには行くことが出来なかっはず。ちゃんとした道路がなかったし、バライの中の島へ渡る橋などもなかった。今でこそ日本と変わらないスムースな路面を全速力で駆け抜けることができるが、当時はガタピシの道路をこれまたオンボロの昔の中国自転車でここまで来るのは相当キツかったはず。

    そしてここまで来ると治安的に危険でもあった。シエムレアップ郊外にはまだクメール・ルージュの兵士たちが出没していたし、警備に当たっている政府軍兵士から旅行者がカツアゲされたという話もよく耳にした。遺跡自体の敷地内でも地雷撤去がまだであった。

    当時はアンコールワット周辺でさえも、道路と遺跡の石組みの上以外の地面には降りるなと言われていたし、事故防止のためにドクロマークの「地雷あります」という標識がそこここにあった。観光客が多い主要な遺跡でこそ、そのような標識があったわけで、それ以外は一体どこに何が埋まっているのかは神のみぞ知るであった。

    当時はとにかくカンボジアに行ける、アンコール遺跡に行けるというだけで、バックパッカーたちにとっては新鮮なフロンティアであったわけだけれども、今みたいに快適に楽しく見物できるようなる時代がやってくるというのはまだ想像も出来なかった。

  • 機関車の前に無蓋貨車

    ふと思い出したが、前回カンボジアを旅行したとき、今となっては大昔の1992年だったのだが、カンボジア国鉄は客車を牽引する機関車の前に無蓋貨車を付けて走らせていた。ちょうど以下リンク先の写真がまさにその頃の鉄道の様子だ。

    Cambodian Refugees Return Home (UN Photo 1 June 1992)

    今では考えられないことだが、当時はまだ活動していたクメールルージュにより線路上に置かれた爆発物で、機関車が修理不可能なダメージを受けることを避けるためというもの。そんな具合で走っていたのだから、実際にそういう攻撃が時々あったのだろう。

    もちろん無蓋貨車は客車ではないため、それ用の乗車券などありはしない。さりとて当時のカンボジアはたいへん貧しく、移動するために敢えて機関車の前の無蓋貨車に乗る人たちがいた。事実上、タダだったからだ。

    「無料」ということでバックパッカーたちの利用も少なくなかったらしい。運が悪ければ爆発で吹っ飛ぶかもしれないし、そこまで運が悪くなくても、雨で荷物ごとびしょ濡れになることは多々ありそうだった。

    もうすっかり忘れていたことが、カンボジア再訪により頭の片隅から蘇ってきた。

  • アンコール遺跡を前にして

    アンコール遺跡を前にして

    今は遺跡となっている寺院では年中行事や人々の通過儀礼も行われ、周囲には門前町が形成されていたり、たくさんの民家からなる町が構成されていたりしたのだろう。
    お寺のすぐ外の敷地では界隈の子供たちが遊び、長じてはそのお寺で出家したり、お寺の世話を引き受けたり、子供が生まれてお坊さんから名前をもらい、お布施を差し上げたりと、様々な関わりがあったはず。

    お寺の石組みだけはこうして今の時代にも残っているが、そのあたりの人々の生の関わりや僧院内外の生活感というものを想像してみるのも楽しい。世界各地に「時代劇」の類はあるが、カンボジアにも「アンコール時代もの」みたいなドラマなどあるのだろうか。あればぜひとも観てみたいものだ。

    初めてカンボジアを訪れたのは1992年のことだった。当時は「情報ノート」と「宿のオヤジの手作りマップ」だけが頼りで、シェムレアプ周辺でも行くことが出来なかった遺跡(情報がなかったり、地雷除去がまだであったり等々)がたくさんあったと思う。

    長い年月を経た今、来てみて本当に驚いた。シェムレアプは何もかもとても便利になっているし、遺跡間を結ぶ道路はとにかく素晴らしい。30年以上もギャップがあるのだが、当時内戦がようやく終わったばかりの国だったのでこれほど変わるのは当然だろうけど、同時に戦争や政情不安というものが、いかに人々を苦しめてきたのかがちょっぴりわかったような気がした。平和になるとこれほどまで劇的に「別の国」に変身するのだ。

    それを思うと、人権問題やメディアの締め付け、縁故主義にリーダーシップの世襲と、国外とりわけ先進国からは評判の悪いフンセン政権だが、それでもカンボジアの国民の多くからは支持されるのは理解できるような気がする。とにかく戦争では、多くの人命や財産も奪われた。そんな厄介な政治はもうこりごりというわけで、今の成長路線が続くことが大事なのだ、きっと。

    何はともあれ今回、すっかり平和になり眺めも大きく変わったカンボジアを再訪してもて本当に良かった。

     

  • トイレが素晴らしくキレイなアンコール遺跡

    トイレが素晴らしくキレイなアンコール遺跡

    アンコールの主要な各遺跡やパーキングなどにはとても清潔なトイレが用意されている。これはかなり驚いた。利用は無料で非常に快適だ。

    アンコール遺跡群の見学料は1日券37ドル、3日券62ドル、7日券72ドルと高いが、遺跡修復や整備に利用されるのみならず、訪問者たちが利用するこうしたアメニティー関係にも還元されているわけである。

  • クメールの急階段

    クメールの急階段

    クメール建築において、特徴的なもののひとつとして「急階段」がある。とにかく傾斜角度にと大変厳しいものがある。しかもステップのひとつひとつの幅が非常に狭く、つま先しかかからない程度のものも多い。

    私たちの現代社会の建築において、建物の階段の傾斜角度は30~40度と言われるのに対して、クメール建築においてはこれが70度となる。しかも長い階段途中に踊り場はなく、滑落したらと思うと本当に恐ろしくなる。とりわけ雨天の場合にはどうなるのかと思う。実際に数少なくない事故が起きてきたようだ。

    そのため現在は、とりわけ高がある場合は、もともとの階段は立ち入り禁止となっており、その横あるいは上から木造等の仮設階段が取り付けられていることが多い。

    本来の階段があまりに急勾配で危険なため取り付けられている仮設階段

    この急階段の背景には諸説あるが、概ね以下の三つが広く受け入れられている理由のようだ。

    ・寺院は須弥山を象徴するものであり、階段は近づき難い神の領域に至るものであるがゆえ、階段を極端に急勾配にしてある。

    ・急な階段を上ること自体が俗界から天上へ至るための試練であった。

    ・下から見上げた際の視覚的効果。神々しさ、荘厳さを演出するものであった。

    アンコール遺跡群の中にいくつもの素晴らしい寺院がたくさんあるが、これらが新築で実際に使われていた時代、どんなに荘厳なものであったかと想像すると実に楽しくなる。

  • インドの国歌、国民歌、愛国歌

    インドの国歌、国民歌、愛国歌

    Vande Mataramを巡るインド政界の動きを見ていると、おそらく「インド国歌」は遠からずジャナガナマナからヴァンデー・マータラムに変更されるのではないかと思う。おそらく中央政権もそのつもりで動いているのではなかろうか。

    インドにおいて前者はNational Anthem(国歌)として、後者はNational Song(国民歌)として認識されている。学校で朝歌うのもスポーツの試合の前で歌うのも、映画館で上映前に流れるのも前者だ。

    JANA GANA MANA (Youtube)

    ジャナガナマナは政治色はない。ご存知のとおりラビンドラナート・タゴールの1911年の作品。また世界にあまたある多民族国家において、マジョリティーのものではない言葉で歌われる国歌というのはかなり珍しいだろう。ベンガル語の歌詞である。Sanskritized Bengaliと呼ばれるサンスクリット語彙を多用したもの。
    しかしインド国歌として制定されるのに先んじて、独立前にチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が「国歌」として定めている。
    こちらの歌詞はヒンディー語で、「シュブ・スク・チェーン(Shubh Sukh Chain) 」として知られる。マレー半島からタイ、そしてミャンマーを経てインパールへと至る従軍の中で歌われていたのだろう。

    Shubh Sukh Chain (Youtube)

    1870年代にバンキム・チャンドラ・チャタルジーが創ったヴァンデー・マータラムも同じくSanskritized Bengaliで歌われる。ただこちらには宗教色があるため、敬遠するムスリムその他の人たちは少なくない。こちらが国歌になるとすると、インドの国是のはずの世俗性が大きく後退する感じだ。

    Vande Mataram (Youtube)

    またインドには「愛国歌」として知られる歌もある。
    1904年にムハンマド・イクバルが発表したウルドゥー語のサーレー・ジャハーン・セー・アッチャーだ。

    Sare Jahan Se Acchha (Youtube)

    独立記念日の式典や軍関係のイベントなどでもよく演奏されるお馴染みの曲。愛国軍事ものの映画でも挿入歌として出てくる。
    国歌、国民歌、愛国歌といろいろあるのがインドである。いずれも素敵な曲だ。

  • サナータンな寺院建築

    サナータンな寺院建築

    いにしえの王都アンコールの城市内を走ると、多くの寺院跡が点在している。石材による構造物なので、積年の風雨に耐えてきたのだろう。

    一方で人々が生活していた建物のほうは、王宮を含めて残されていない。それらは木造建築だったからだ。コストの関係もあるが、多湿な国なので、石造建築は生活には向かなかったはず。

    木造建築といえば、前々日に見た水上家屋の場合、目安7年前後で家屋の柱を入れ替えなくてはならないという。木材が腐敗して崩壊するためとのことだ。普通に陸地に建てる家屋はさすがにそこまで短命ではないにしても、往時の人々はどんな家に住んでいたのか、王族や貴族の宮殿、屋敷はどんな具合だったのか、ちょっと興味がそそられる。

    それにしても石造寺院建築の長寿命さ。インドで言うところの(ヒンドゥー教について)「サナータン・ダルム(永遠不朽の宗教)」という感じがする。もちろん石造建築といっても経年により構造自体が歪んだり、崩れたりするので、補修が必要なのだけれども。

    インドから遠く離れたカンボジアのアンコール遺跡でシヴァ、ヴィシュヌ、サラスワティその他お馴染みのヒンドゥーの神格にたくさん出会えるというのは実に楽しい。

    まさに時空を超える「サナータン・ダルム」である。

  • 欧州的な景観

    欧州的な景観

    アンコール遺跡観光の帰り道、シェムレアップの30 streetよりも少し手前のところで欧州みたいな公園と瀟洒な住宅がある。このアングルからだととてもカンボジアとは思えない。どんな人たちが暮らしているのだろうか?

  • カンボジアのレンガ

    カンボジアのレンガ

    カンボジアで一般的なレンガがある。四角柱の形で4本の穴が空いている。建築現場で見かけるのはこればかりだ。中空になっているため軽いのがメリットか。強度についてもあまり変わらないのではなかろうか。

  • 開かずの扉

    開かずの扉

    アンコール・トムでの「開かずの扉!」。こういうのはクメール建築にけっこう多い。石版を扉みたいに彫ってあり、永遠に開かない「なんちゃって扉」だ。実に精巧に造られている。内部はどうなっているのだろうか?