石材や石積みに歪みが生じたり、建物自体が沈下したりして崩壊してくるのだろうけど、新築当時のピッチリした状態でのアンコールトムは、さぞ見事だったことだろう。






アンコールワットもアンコールトムが素晴らし過ぎて、朝早いうちから観ているのにもう午後2時を回ってしまった。
今日はこれから周辺の他の遺跡をいくつか回ろう。














石材や石積みに歪みが生じたり、建物自体が沈下したりして崩壊してくるのだろうけど、新築当時のピッチリした状態でのアンコールトムは、さぞ見事だったことだろう。






アンコールワットもアンコールトムが素晴らし過ぎて、朝早いうちから観ているのにもう午後2時を回ってしまった。
今日はこれから周辺の他の遺跡をいくつか回ろう。













「ミャンマーは英領だったので英語が通じる」という人がいたり、これとは反対に「ミャンマーは英領だったのに英語がなかなか通じない」という人がいたりする。これは後者が正しい。
たしかに昔は英領だったという地域では、今も英語の通用度が高くなる可能性は高い。例えばマレー系の国でも旧英領のマレーシアとオランダ領だったインドネシアでは英語の通用度が天地の差であるように。
だが「かつてイギリス領だった」からと言って、それがすべてではない。
ミャンマーのように外国人相手のビジネスや観光関係の仕事をしている人、留学などの目的があって英語を自ら学んだ人たちを除けば、普通はなかなか通じない人たちばかりだ。その一方で、旧英領ではなかったのに広く通じるネパールやブータンのような例もある。
旧英領といっても独立後に教育仲介言語としての英語、行政や法務等々における公用語としての英語のレガシーを引き継いだ国々もあれば、それらを植民地時代の残滓として一掃し、地元言語に置き換えてしまった国もある。インドやマレーシアなどは前者で、ミャンマーやバングラデシュなどは後者に当たるだろう。
同様に、旧英領でなかった地域においても、英領地域と隣接していたため、近代的な教育システム導入の際に大いに影響を受けた過去があったり、現在も隣の大国の動向が影響したりする国々、ネパールやブータンのような例もある。
ブータンについては1970年代以降、学校教育の仲介言語を英語に変更している。これはイングリッシュミディアムに通う生徒たちの割合が、地域によるが20数%程度とされるインドと較べて非常に高い数字だ。(ブータンでは100%と言える)
旧英領だったということは、その後同地で引き続き英語が広く使われるようになるための大きなインフラではあるが、必ずしもそれが活用されるとは限らない。また英領ではなかったのにこれが公用語として採用されて深く定着する例もある。
また英領期において果たして英語が広く浸透していたのかどうか?という疑問もある。インドやパキスタンなどで、学校教育が行き届くようになったのは独立後現在に至るまでの努力の結果であり、人々が地方から都市へ、地方から他の地方へと大勢移動するようになったのは、公共交通機関が発展してからだ。
それ以前は、ほぼ村落や地域内で生業が完結していた(ゆえにカーストによる分業が生きていた)時代、そうした地域社会で英語が通用していたとはとても思えないし、都市化が進む前には人口の大半がそうした農村等を生業とする地域に暮らしていたわけだ。
つまり旧英領の国々においても、広く英語が普及するようになったのは独立後であり、さらには厳しい貧困から抜け出すことが出来つつあった70年代、80年代以降という例も少なくないだろう。
「英語が第1言語」などと言うインド人家庭は都市部に珍しくはない。家の方針がそうであったり、親子ともにイングリッシュミディアムの教育を受けてきたりしたわけだが、新聞や読書も当然英語。ヒンディーその他の現地語は普通に話すが、文字になったものは読みにくくて内容も俗っぽいので縁がないという人たちだ。彼らは英領時代からそうなのではなく、やはりそう遠くない昔に富裕層化ないしは中間層に入った人たちであり、英領のレガシーなどではない。
かつて「○☓領だったから○☓語が通じる」というのならば、「ゴアは旧ポルトガル領だったのでポルトガル語が通じる」「インドネシアは旧オランダ領だったのでオランダ語が通じる」のかといえばそうではない。かつて旧宗主国時代にそれらである程度までの教育を受けた人たちがまだ大勢いた頃には、そうした言葉を理解する人たちはいたはずではあるが。
つまり何を言いたいかと言えば、土着ではない特定の言語が通じるかどうかについては、旧宗主国の言葉云々ではなく、独立後の現地の社会・政治状況次第で決まっていくということだ。
またグローバル化の進展により人々の移動が煩雑、広範囲かつ大規模なものとなり、さらにはインターネットの普及によりコミュニケーションの手段として英語の占める地位や割合がたとえば90年代よりもはるかに高くなっているのが現在。
昔からあちこちをよく旅行している人たちの間で「昔よりもずいぶん英語が通じるようになった」と耳にすることは珍しくない。そういう時代なのだろう。
今の時代のインドにおいて、英語がどのくらい広く通じるのか?については、実は私はよく知らない。インドを旅行してヒンディー以外で話すことはまず無いからだ。
ただ久々に年始とGWにヒンディー語受容度が極めて低いタミルナード州を訪問した際には、英語で話しそうな相手を見た目で選ばないといけないので不便だなとは思ったものの、人により程度の差はあってもかなり広く英語が理解されていることを感じた。
こういう環境は、英領であったから当たり前なのではなく、同じように多民族・多文化の国ミャンマーにあっては真逆なのは、1962年のクーデター以降に全権掌握したネ・ウィンによる「ビルマ語化政策」により、英語が一掃されたためだ。
旧仏領のインドシナで、現在はフランス語は用いられないのも同様に教育や行政の仲介言語の現地化あり、学校教育における外国語をフランス語から英語に切り替えたりといったことが背景にある。
もちろん西アフリカ地域のようの旧仏領で現在も広くフランス語が用いられるエリア、ラテンアメリカのように旧スペイン領、旧ポルトガルであったため、今もそれらが日常の言語という地域も多いのだが、「旧〇×領であったから現在も〇×語が通じる」という理解は安易過ぎると言える。
「旧〇×領であり、独立後も旧宗主国の言語が必要とされ、引き続き多民族・多文化の現地社会を繋ぐ共通言語としての役割が求められ、行政、司法、経済、教育その他のあらゆる分野でその言語が引き続き使用される公用語としての地位を確立したから通じる」のである。
その地域が他の宗主国を戴いていた地域に吸収される(ゴア、ポンディチェリー等)、民族構成がシンプルで地元のひとつの言語で用足りる(韓国、台湾、ベトナム等)、あるいは多民族地域でもその中でマジョリティを占める民族の言語が英語に取って代わる(ミャンマー)といった具合であれば、旧宗主国の言語は即、用済みとなるものだ。

1992年、私がこのアンコール遺跡を訪れていた時期にフランス人の女の子が地雷を踏んで亡くなっていた。急遽ご両親が駆けつけてきていてニュースになっていた。
彼女が不運にも落命してしまうことになってしまったのが、このプノムバケン。
クメール語で「中央の山」を意味するというプノムバケンだが、ここから広大なアンコール遺跡が広がるエリアを見下ろすことができる。ここから眺めるアンコールワットやアンコールトムの景観を期待して登ったと聞いていた。
今でも本来の参道は埋設された地雷の危険から立ち入り禁止となっている。道路からすぐ見えるここから登ろうとしたのではないかと私は思う。見るからに登りやすそうな、駆け上がってみたくなる斜面だ。

当時は今よりもはるかに埋設された地雷がたくさん残っており、「舗装路以外は歩くな」「小便、糞垂れるのに茂みに行くな」などと言われていたが、静まり返った木立の中の平和な眺めの中、どうしても小山の上からの景色を一目見たくて歩いて行ったのだろう。



危険と言われつつも、プノムバケンに登る人たちはいたようなので、「私も大丈夫だろう」という思いがあったのかもしれない。実際に登った人から「いい眺めだったよ」と話を聞いていたかもしれない。



小山の上の寺院からの景色はとても良かった。彼女はこの景色を目にした下りで亡くなってしまったのか、それとも下から登る最中で不幸にも地雷を踏んでしまったのかはわからない。

当時、彼女と同世代だった私は、そんなことを考えながらプノムバケンのてっぺんからのアンコールワットの遠景を眺めつつ、静かに手を合わせた。





アンコールワットではモデルさんの撮影中だった。カンボジアの伝統的衣装でいろんなポーズを取っていた。広告にでも使うのだろうか。


アンコール遺跡の階段は勾配がとても急なので、本殿に上る階段は使用禁止になっており、一箇所だけ補助階段がしつらえられて、そこから上ることができるようになっていた。





前回訪れた1992年には、訪問者たちはみんなこの階段からよじ登っていたが、たぶん事故もあったのだろう。私自身も怖かったし、雨で濡れたら滑って本当に危険だろうと思った。勾配が急であることに加えて、階段のステップ幅が成人男性の足裏の半分くらいしかないのだ。
クメール王国時代の坊さんもよく滑り落ちたのかもしれないが、このような造りであることには何か具体的な理由があったのだろうか。
それにしてもこの寺院内の意匠の豊富さと美しさには心動かされる。遺跡そのものが精緻なアートギャラリーのようでもある。遺跡となってからですらこうなのだから、ここが寺院として機能していたときにはどんなに素晴らしかったことか。










また思うのは、このような遺跡となってしまうと往時のことをなかなか想像し難いのだが、マンネリで平和な日常もあっただろうし、初めてこの寺院に務めることになった僧侶の高揚感と緊張感、様々な年中行事なども行われて、人々で賑わうときもあったわけだ。




アンコールワットを出てから遺跡地域に点在する露店の集合体とトイレ等の施設が揃ったビジターセンターのようなところで昼食にした。



ネットでアンコール遺跡の入場券を購入。代金は1日だと37ドル、3日有効だと62ドル、1週間有効なものは72ドルだ。
アンコール遺跡は沢山の寺院等の遺構から成るが、それぞれの遺跡で入場料を支払うのではなく、これが共通の入場券となっている。
宿からほど近いところで自転車を借りる。ここは旅行代理店になっていて、その一環としてバイクや自転車を貸している。1日4ドル。ほぼ新品なので気持ちが良い。

自転車を借りてからアンコールへと向かう。木立の中の道路を駆けていくわけだが、これがとても気持ちが良い。サイクリングロードが用意されているが、事実上はバイク用のレーンみたいになっている。

道路を進んでいくと検問所があり、そこでアンコール遺跡入場券を所持しているかどうかの確認がなされる。
ちなみに入場券を買わなくてはならないのは外国人だけで、カンボジア人は無料で見学することができる。


シェムレアップにはハードロックカフェがあるのでショップだけ覗いてみた。
Hard Rock Café Angkorであって、Hard Rock Café Siem Reapではない。販売されているグッズはいい感じだ。



宿の隣の食堂は家族経営だが、ご主人が作るのと奥さんが作るのとでかなり味付けが違う。席の背後で調理しているので、どちらが作っているかは一目瞭然なのだ。
ご主人だとニンニクたっぷり、奥さんだと糖分たっぷりの大甘になる。どちらが作ってもそこそこ美味しいのだが、いずれも何かが過剰。
どちらもとても感じが良く、しばらく前までは夫婦ともに相当なイケメンと美女であったと思われる端正な風貌のご夫婦。
朝早くから夜遅くまで開いているし、ホテル真横なので、滞在中の食事の半分くらいはここで食べた。









カンボジア第2の都市ともなると、韓国人在住者はかなりあるようだ。食料品、日用雑貨から荒物まで、なんでもございの店。隣は同じようなコンセプトの中国人のスーパーがある。こうした店がいくつもあるので、なかなかの国際都市であることが感じられる。




大通りに面した角地という、流行る食堂の典型みたいなロケーション。華人経営による店で、ひっきりなしにお客の出入りがある。
こうした店は東南アジアどこにいっても共通で、近所のご隠居さんたちが集まっていたり、新聞を読みながら静かに過ごしていたりもする。注文すると出てくるのは早いし、味も良いものだ。

カンボジアでは、市中でドル紙幣の流通がとても盛んだ。旅行者が行くようなレストランはドルのみでの表記だったり、スーパーではリエルとドルの併記、国際的なファストフードチェーン(マクドナルド、バーガーキングその他)ではドル表記なので、カンボジアにいながらにしてアメリカに来た気分になる。
気になるのはそのレートだが、店によって1ドル=4,000リエルとしてやりとりしているところ(食堂など)もあれば、大きな店舗のスーパーのように1ドル=4,150リエル(実勢レート)としているところもある。
ドル紙幣で払っても、お釣りはリエルで帰ってくるので、実勢レートで処理してくれるほうがありがたい。
これだけドルが堂々と市中で流通していると、昔々にハイパーインフレだった頃のペルーを思わせるものがある。1日でも午前と午後で物価が大きく替わり、為替レートもたった1日で当時の通貨単位は「インティ」だったが、価値が半分とか1/3になったりするので、マーケットで商う人たちはお昼と夕方に当時のペルー通貨インティを手放してドルに交換するために両替商(免許のない闇両替商たちもたくさんいた)のもとに走り、給与生活者は給料日にそのまま全額ドルに交換していたようだ。そんな具合なのでインフレが収まるはずもなかった。
不思議なのは、カンボジアはそんな状態ではないはずなのに、なぜこんなにドル現金での取引が盛んなのか? 遺跡入場料もドル建てである。
「おーい、カンボジアの遺跡の入場料金なのに何でドル建てなんだよー?」と聞きたくなるが、「外貨獲得の手段」としてそういう設定なのだろう。インドでもかつては国内線航空券購入の際の料金は、外国人の場合はドル建てであった。(ドル建ての料金をルピーで払う場合には、その金額分を満たす銀行の両替レシートが必要という具合だった。)
当然、「お釣りがない」というシーンも少なくないため、小さな額面のドル紙幣も持参する必要があるのがやや面倒といえば面倒かもしれない。

前夜に通りかかり「もう閉店です」とのことで諦めたパンジャービーの店のターリー。これはダメだった。昨日は混み合っているように見えたが、たまたまインド人のグループが入っていたのかもしれない。

チャパーティーかと思ったらパローターで、大量のマーガリンを練り込んであった。サブズィーはとても甘く甘く(やや大げさに言えば、お汁粉くらい甘い)、皿の左手はなぜかジャガイモのクリームシチュー。左上にはこれまたなぜか南インド式のチャツネかと思いきやゴマペーストで酢をたっぷり加えている。なぜこうなるのか?「カンボジアナイズ」したのだろうか?

個人的には「もう二度と行くもんか!」レベルだが、Uberの類似サービスからけっこう注文が入っているようで、私がいる間に3度もドライバーがピックアップにきていた。案外引き合いがあるらしい。
年配のスィクの店主(髪と髭は切っている)の娘くらいの世代のカンボジア女性(従業員?奥さん?)が彼と一緒に厨房に入ったり、客の相手をしたりしているが、ここで出される料理には、彼女の趣向が強く影響しているのかもしれない。店内のお客さんたちも地元民が多いようであった。
年配の店主はクメール語がとても流暢。顧客がカンボジア人以外の外国人中心で、現地従業員を雇わず、味もクメール化させない昨日のガチのインド料理の「ナマステ・ヒマラヤ」とは路線が大きく異なるようだ。
同日、また別のパンジャービーが経営するインドレストランにも行ってみた。こちらは前日のものと同様にオーセンティックなものが出てきた。どこの国においてもそうだが、やはり店によって現地化を進めるところもあれば、本来のやり方や味にこだわる店もあり、実に様々である。
メニューに値段がリエルのみで書かれているのは、この手の店としては珍しいのだが、客層はインド人を含めたほぼ外国人に尽きるとのこと。ローカル客はいなくもないが、「100人来て2人くらい。ほとんどいない。」とのこと。どのあたりを客層と想定するかによって、味付けやサービスの仕方が異なるのは当然で、同じパンジャービーが経営する店でも大きく異なるものだ。




宿から近いエリアにパステル調のメルヘンチックなケーキ屋さんがあった。残念ながらカットケーキはないので賞味できず。他の店もいくつか見たが、やはりホールでしか売っていなかったのが残念。
旅行先で「3時のおやつ」(別に時間にはこだわらない。午前中でも良い、夕飯後だって構わないのだが、ケーキを楽しみながら紅茶やコーヒーを楽しむ時間帯が好きだ。
インドだと大手チェーンの書店に喫茶と軽食を出す店が併設されていることが多いので、よく利用している。
そのためせっかく良さげなケーキがあるのに、楽しむことができないのは心残りなのである。