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投稿者: ogata

  • ヘリテージなホテル 1 インドの宮殿ホテル

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     お金がたっぷりあれば泊まってみたいホテルをあれこれ思い浮かべてみた。世界に冠たるムンバイのタージマハルホテルの客室はどんな具合か興味はあるが、よく考えてみるとゴチャゴチャした市街地と隣り合わせの都市型ホテルよりも地方にある宮殿ホテルのようにゴージャスで伝統的なムード満点の宿泊施設のほうが、周囲の風景も含めてより大きな魅力を感じる。
     ウダイプルのレイクパレスホテルやジャイプルのラームバグパレスホテルをその代表格とするこのタイプの宿泊施設は、特にラージャスターンやマディヤ・プラデーシュなどの州に多い。
     インドの世界的に有名な宮殿ホテルをいくつか思い浮かべてみると、その多くが現在11か国にホテル事業を展開しているタージグループのものであることにふと気がついた。
     もちろんインド資本なのだが、外国では「欧米資本」と思い込んでいる人も少なくない。これはオベロイグループも同様である。こう言ってはとても失礼だが、規模といい行き届いたサービスといい、インドらしからぬものを感じさせるからだろうか。
     こういった高級ホテルチェーンによるものはさておき、ふつう宮殿ホテルといっても規模や造りは違うし、オーナーの力の入れ具合(フトコロ具合?)も様々なので、サービス、グレード、施設のコンディションには大きな差が出てくる。高級ホテルからほとんど安宿までとピンキリなので、利用者は各々の予算に見合ったホテルを選ぶことができる。
     これまで荒れるに任せていたような古い建物を改装してホテルをオープンすることもあれば、不便な場所から交通の便の比較的良いところへの移築といった大掛かりな工事が行われることもままある。
     またラージャスターン州シェカワティ地方のジュンジュヌにあるループニワースパレスのように、正確には土豪の館なのに、「宮殿」を名乗っているところもある。広い敷地をクジャクたちがまるでカラスのように飛び回る風情のあるロケーションだ。室料によっては領主一族が使用していたと思われる立派な部屋から、どう見ても使用人部屋にしか見えないものまで色々あって面白い。
     こうしたホテルはもともと宿泊施設ではないので大幅に改修されていることが多く、おそらくオリジナルな状態と相当違っていることも多々あるようだ。
     マディヤ・プラデーシュ州のマーンドゥの遺跡の中にあるタヴェリ・マハルには現在インド考古学局の事務所と博物館が入っているが、かつてここは同局のゲストハウスだった。主に学術関係者や局の職員たちの宿泊に使われていたようだが、部屋が空いていれば外国人旅行者でも泊めてくれたのだ。
     宮殿とはいえ、遺跡にそのままスチール枠のベッドを放り込み、電気と水道を付けただけのものだった。送電があてにならなかったので、夜はもっぱらロウソクが使われており、 昔々の宮殿の主にとっても、夜はこんなに夜は暗かったのだろうな、などと思ったりもした。 
     正確にはこの分野に含めてよいかどうかはさておき、近年は宮殿風を装った新築ホテルも一部出てきており、なかなか面白いことになってきた。
     宿なんて「どうせ夜寝るだけ」という考え方もあるが、こうしたホテルの存在自体はインドならでは味わいでもあるので、たまには利用してみたいものだ。
     こうしたホテルを一覧できるようなサイトはないものかと思って検索してみると、すぐに見つかった。India heritage hotels reservation.com という総合予約サイトである。
     よく見てみると、ちょっとした旧家を改造したゴアのパンジムインのように「宮殿」はおろか「ヘリテージ」と呼ぶことに首をかしげたくなるようなものも含まれるが、ここは実際に宿泊してみて居心地良かったのでOKとしておこう。
     ここには登録されていないが、ケララ州のカリカットの海岸に面したところにあるビーチホテルは、かつての欧州人用クラブを改造したものである。玄関口にはクラブの創設者(?)の古い肖像画が掲げられており、中庭や食堂には往時を偲ばせる雰囲気が残っており、在住していた白人たちの暮らしの一部を垣間見ることができるようで興味深い。
     ともあれ、こうした年代物の建物に泊まると、歴史の舞台に身を置く喜びを感じる。いい夢を見ることができそうだ。

  • インド人学生は日本を目指すか?

     以前、ビジネス日本語能力をはかるJETRO TESTがついにインドでも行われることになったことを書いたが、今年から日本留学試験もインドのニューデリーで実施されるようになる。年2回、6月と11月に、日本国内では15の都道府県、国外では12か国・地域の15都市での実施が予定されている。ちなみにインドでの受験料は500ルピーとのことだ。
     この試験は、外国人留学生として日本の大学への進学を希望する人たちを対象に行われている。ふつう留学生たちが日本国内の大学に志願する際に、この試験を受けていることが必要で、学校によってはある一定のスコアをマークしていることが出願の条件になっている。
     もともとインド人の留学先は欧米志向であること、インド国内にも数多くの良い大学があり、様々な国々からやってくる留学生の受け皿にもなっていること、そして学費も非常に安い(インド人学生が自国で進学する分には)こともあり、以前もこの「つぶやきコラム」で書いたように、よほどのことがなければ日本での進学を選択する動機がないように思える。
     しかしこれら点ついては中国も同様だが、今年度の日本への留学生総数およそ11万7千人中の7万8千人近く、つまり66%を占める最大の「お得意さん」なのである。
     中国からやってくるトップクラスの学生たちは非常にレベルが高いのだが、全体を眺めるとピンからキリまで実にさまざまである。
     今のところ「海外遊学」は一般的でないにしても、政府が特に力を入れて重点的に予算配分する、いわゆる国家重点大学とされているところに入れなかった者の中で、経済的に余裕のある家庭の子弟が「国内の三流大学に行くよりは・・・」と海外留学へと流れるケースは何ら珍しいことではないのだから。
      IIT (インド工科大学)は海外の有力な工科大学と肩を並べるほどレベルが高く、相当な秀才でもなかなか入ることのできない超難関校として知られているが、「IIT(インド工科大学)入れなかったからMIT(マサチューセッツ工科大学に行く」なんていうのもあながち冗談とはいえないかもしれない。
     理系に限らずさまざまな分野の大学へ、インド国内で学ぶのとは費用が比較にならないほど高いことを承知のうえで、特に英語圏を中心とした欧米に進学するインド人学生はとても多く、アメリカの留学生の中核を占めているのはインド人と中国人だ。少子化による学生減に悩む日本の大学は、インドの「留学生送り出し大国」としての潜在力に期待したいところだろう。
     文化的な距離、日本語という新たな言語を習得する手間、苦労して得た学位に対する評価、卒業後住み続けた場合の将来への展望等々の不安は多く、関心はあってもなかなか踏み切れないのではないだろうか。すでに多数の同郷の人々が勉学目的で渡っていき、それなりの「ルート」ができあがっている国々と違い、決して少なくないデメリットを押しのけて、敢えて日本を選んでもらうにはそれらをカバーして余りある魅力が必要だ。それはいったい何だろうか?
     タダで学べる国費学生として留学生たちを引き寄せるのは簡単だ。しかし家庭の財布をこじあけ、私費学生として飛び出してもらうのは容易なことではない。たんなるイメージの流布や文化の紹介ではなく、わかりやすく具体的な「実利」が必要だ。
     実際、バングラデシュやスリランカから来日する学生の大部分を、学費がかからないうえ月あたり十数万円も与えられる文部科学省の奨学生たちが占めている。しかしわざわざ自腹を切ってやってくる学生はほとんどいないに等しいのだ。在学中に与えられる経済的な特典以外には特に魅力がないということだろうか。そもそもこうしておカネをバラまくやりかたについては大いに疑問に思う。
     はたしてインド人学生たちにとって、日本は有望な留学先のひとつになり得るのか。今年初めてインドで実施される「日本留学試験」の受験者数、その中から実際に日本へ留学する者がどのくらい出るかということが少なくとも現時点での答えになるだろう。
     その結果が「否」であったとしても、金銭でつって呼び寄せるようなやりかたにつながらないよう願いたい。

  • パキスタンの病院へ

     先端医療が格安の費用で受けられるということで、「メディカル・ツーリズム」がひとつの産業になりつつあるインドだが、隣国パキスタンもまた同様の流れがあるようだ。
     日本国内での腎臓移植費用は350万から400万円、アメリカに出向いて手術を行った場合には1600万円もかかるといわれる。
     日本を含めた先進国では臓器移植のドナーが少ない。また移植を受ける側との体質がマッチすることが必須であるため、問題はコストよりもむしろ機会が非常に限られていることであろう。じっと順番を待っているだけではチャンスが回ってくる前に手遅れになってはどうにもならない。
     そんな中、費用が安く経験も豊富、そして肝心な臓器提供者が見つかりやすい病院がよその国にあれば、藁にもすがる思いで患者たちが大勢押しかけたとしても不思議はないだろう。
     ラーホールやカラーチーといった大都会の私立病院で、かかる費用は140万〜200万円という。海外からは主にヨーロッパや中東から患者がやってくるのだそうだ。マスード・ホスピタルキドニー・センターといったところが有名らしい。これらは地元パキスタンはもちろん、海外メディアでも幾度か取り上げられているので、世界的にも広く知られているはずだ。
     NHK衛星放送で、デンマーク公共放送製作の「パキスタンの臓器売買」が3月1日にオンエアされた。番組によると、現時点でパキスタンにおける臓器の売買が禁止されておらず、あるところでは病院自体が、あるいは出入りのブローカーが提供者たちから臓器の購入を公然と扱うことが常態になっているという。
     インドでは少なくとも「公には」この取引が禁止されていることから、隣国のパキスタンに移植希望者が流れているのだとも語られていた。
     臓器売買は倫理的に非常に問題があることは言うまでもない。しかし私たち健常者たちが一方的に非難できるものではないとも思う。患者自身の生への希求、身体の一部をお金によってやりとりすることの是非、売買を容認する社会と提供者たちのバックグラウンド等々さまざまな要素があり、とてもデリケートな問題なので、ここでその是非を云々するつもりはない。
     しかしこうした取引を可能にしているのは、やはり先進国と第三世界の経済格差であろう。「リッチな国」からやってくる受益者の多くは、大富豪でも大実業家でもなく、それらの国のごく一般的な市民であるからだ。
     現地医療への信頼度や言葉の問題もあり、日本から出向く人はあまりいないのかもしれないが、物理的にも心理的にも距離の近い国で手術を行う人は案外多いのではないかと思う。
     中国国際臓器移植支援センター安信メディカルネットワークなど、中国での臓器移植にかかわる機関の日本語によるサイトがいくつもある。
     一件あたりの治療単価が高いため、こうした先端医療が国境を越えたビジネスに発展するのだろうが、その背後には臓器移植を必要とするほどの不調に悩む人々がいかに多いか想像できよう。だからといって何かできるわけではないが、ふだん意識することのない「健康」のありがたさに感謝しなくてはならないと思う。
    臓器移植希望者パキスタンを目指す(Buzzle.com)
    パキスタンでの手術後の死者5人目(Trinidad & Tobago Express)
    ※トリニダード&トバゴから出向く患者もいる。
    海外からの需要をアテこんだ「毛髪移植」を行う機関も(INTERNATIONAL HAIR CENTRE)

  • 紺碧の海の下に

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     7〜8世紀ごろパッラヴァ朝の重要な交易港として最盛期を迎えていたマハーバリプラム(現ママラプラム)は、現在では世界遺産に登録されている遺跡群で有名だ。
    浜に建つ海岸寺院に加えて六つの寺があったとする「セブン・パゴダ」の伝説とともに、かつてこの地を襲った大洪水によりかつての港町が海に沈んでしまったという言い伝えがあることもよく知られている。
     昨年12月26日に起きた津波直前に潮が大きく引いた際に、その伝説の寺院らしき遺構が姿を現したといい、押し寄せた大量の海水が周囲の砂を運び去ったことにより、これまで埋もれていたヒンドゥー寺院が新たに発見されることにもなった。
     今回の津波災害で犠牲となった方々のことを思えばはなはだ不謹慎かとは思うが、「突然海が遠くへ引いていき、大昔の石造寺院が忽然と姿を見せた」「津波の奔流が過ぎ去ると、誰も見たことのないお寺が出現していた」といった光景そのものは、実に神秘的であったことだろう。
     
     近年、今のママラプラム沖合の海底に残る遺跡を検証すべく調査が進められている中、年末にアジア各地で未曾有の大災害をもたらしたこの津波は、この伝承にかかわる調査研究活動にとっては追い風となっているようだ。
     2月10日から25日までの間、海底に沈んでいる遺構についてインド考古学局と同国海軍の共同での調査が行われた。ダイバーたちが遺跡のある海底に潜って様々な構造物を検証する際に陶器片などの遺物も見つかっているという。
     海底に散在する遺構の姿が明らかになるのが待たれるところであるが、それらが水面下に沈んでしまった理由についてもぜひ知りたいところだ。徐々に海岸線が後退していった結果により水面下になってしまったのか、あるいは伝承にある「洪水」(地震による津波あるいは地盤沈下?)のような突発的な災害によって起きたのかわからないが、当時の文化について知るだけではなく、この「稀有な自然現象」の貴重なデータも得られるかもしれない。
     観光開発の目的から注目している人たちもあるかと思う。やがてインド初の海底遺跡公園として整備されて「グラスボートでめぐる水中遺跡」「遺跡ダイビングツアー」といった形で海面下に散らばる遺跡を公開することはあるだろうか?
     亜大陸反対側、グジャラート州のカムベイの海面下にはハラッパー文明のものと思われる遺跡が沈んでいるというが、こちらは9000年以上も昔のものではないかという説もあるそうだ。
     歴史と遺跡の宝庫インドは、まだまだ多くの不思議と謎が隠された玉手箱のようである。
    津波の置き土産(BBC NEWS South Asia)

  • 今もどこかで

     世界各地のニュースをテレビやラジオなどで網羅するイギリスの公営メディアBBC。ウェブサイト上でも英語によるカバーはもちろんのこと、なんと43言語でのニュースを発信しており、南アジア地域で使用されているコトバだけでもヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、タミル語、ネパール語、シンハラ語、パシュトゥー語の6言語に及ぶ。
     文字で書かれた記事のみならず、音声でも聴くことができて便利だ。自国の出来事を各国語で流すのではなく、世界各地で国際ニュースを含めた「地元情報」として発信しているのだから恐れ入る。やはり「太陽が沈まない」とまで言われた大帝国を支配していただけのことはある、といったところだろうか。
     利用できる言語の数も、ニュースの充実度もアメリカのVOAと双璧を成している。
     どちらのメディアもインターネット出現や衛星放送が一般化する前から、ラジオの短波放送などを通じて世界各地の特にメディアへの規制が強い国・地域では「信頼できるソース」として定評が高い。
     世界各地の現場から報道しているだけに、不幸にも命を落とす関係者も少なくないようで、1月下旬にはソマリアで取材中のBBC女性記者が銃弾の犠牲になっている。
     真摯な姿勢で報道の現場に直接かかわる人々の意識はともかくとして、自国民の利益に直接つながらない海外でマスコミ事業をわざわざ行うことにはそれなりの意図があるわけだろう。また発信(国)側の都合によりバイアスがかかる可能性は否定できないが、それらを差し引いても自国の国境を越えグローバルな「公益性」が非常に高いことも間違いない。
     そんな中で日本語を含めた22言語によるニュースを発信しているNHKオンライン。世界各地でそれぞれの言語で流されるラジオ・ジャパンのプログラムを聴くことができる。南アジアの言語もヒンディー語ウルドゥー語ベンガル語で聴取できる。国際ニュースの量も質もはるかに見劣りするが、主に日本の国内ニュースが中心なので、外国の人たちに私たちの国で今起きていることを知ってもらうには良いかもしれない。
     NHKワールド「日本語講座」もあり、各言語による日本語の初歩の手ほどきがなされている。講座のヒンディー語バージョンはもちろんインド人を対象にしたものだが、毎週これを聴いている人たちはどのくらいいるのだろうか。
     ともあれインドで、特に都市部を離れると日本を直接あるいは間接的に知るためのソースは少ない。今もどこかで「ニッポン」にひそかに関心を寄せてくれている人たちが、静かに耳を傾けていることだろう。プログラムの今後一層の発展を期待したい。

  • NASAテスト No.1の怪

     先日、U.P.州に住む少年ソウラブ・スィン君がNASAのISD(International Scientist Discovery) Examinationで20万人中トップに入ったという快挙が報じられていた。
     この試験は、アブドル・カラム大統領が1960年に7位、一昨年1月にスペースシャトル着陸直前に起きた事故で亡くなったカルパナー・チャウラーさんが1988年に21位であったという。
     あるメディアのウェブサイトには「Aeronautics-A++; Physical Chemistry-A++; Organic Chemistry-A++; Magnetism-A++. Then the horror. He scored a mere A+ for Electronics」という試験のスコアまで記されていた。
     そしてインディア・トゥデイ2月28日号には、ソウラブ君は歴代の第1位の栄冠に輝いた者の中で最年少の15才であり、今年末から1年間勉学のためにNASAへ招待される予定であると書かれていたのだが・・・

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  • 日本でインド映画が危うい?

     ひところに比べてかなり少なくなってしまったが、日本各地に点在するハラールフード店では、イスラム教徒向けに南アジアやその周辺諸国から輸入された食品、日用雑貨や映画ソフトを販売している。 もともと彼らは主に同郷の人々を相手に商売をしていたようだが、日本の不景気と入国審査関係の厳格化により、それらの国々からやってきた出稼ぎ人たちが激減した。
     その結果、今も生き残っている店の中には顧客の枠を日本国外全般、とりわけ東南アジア、アフリカ、南米等々の主に第三世界からやってきた人たちへと広げるなど「国際化」を進め、安価な外国の食材、各国語の雑誌、衣類、小さな電化製品、テレホンカード等々を扱う外国人向けスーパー化しているところが少なくない。
     しかし今なおインド映画ソフトの販売は事業の柱のひとつで、日本在住のインド人たちもよく利用しているようだ。近年増えているIT関係者には南出身が多いためか、ボリウッド映画だけではなく、タミル語など南インドの言語による作品も見かけるようになってきている。
     ソフトのメディアはかつてビデオが主力だったが、やがて陳列棚にVCDが加わり、DVDが登場してからは、再生機器の普及とともに価格もずいぶん下がりつつある。現在ではDVD1枚(販売価格800〜1000円程度)に作品が3本入りのものさえあり、普通のレンタルビデオ屋で洋画や邦画を借りるより安いこともある。新しく顧客に加わったインド人ITプロフェッショナルはさておき、従来から店に出入りしているパキスタンやバングラデシュからの出稼ぎの人々は、概ね購買力が高くない(あるいは母国への送金や貯蓄が究極の目的なので散財したくない)ことが多いので、こうした懐具合に合わせているのだろう。

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  • 異郷で汗して働く人々

     近代的なシンガポールの街並みの中、ちょっと路地裏に目を向けるとクルマのガレージ(?)のシャッターの奥にマットレスを敷いて寝泊りする労働者たちの姿がある。彼らインド亜大陸からやってきた出稼ぎ人たちは、今日もまた朝早くからトラックの荷台に乗せられて仕事場へと運ばれていく。隣国マレーシアでは主にバングラデシュからやってきて不法に就労する人々の取り締まりに頭を悩ませている。
     植民地時代のインド各地からかつての中国と同様に、多くの人々が新天地を求めて世界各地に散っていった。中には事業主としてあるいは役人として渡航した人たちもあったとはいえ、マジョリティを占めていたのはやはり故郷での貧困や人口圧力といった要因を背景にした貧しい移民たちである。
     今ではIT大国とまで呼ばれ、毎年高い経済成長を実現しているインド。1990年代には中産階級の規模も大幅に拡大し、自他ともに認める世界最大級の消費市場のひとつになったが、それでも往時さながらの人々の流れがある。
     従前の保護主義的政策のもとで競争力を蓄える機会から阻害され、政府による様々な制約に縛られていた企業家たちは、90年代以降はこのタガが外れることにより、「待ってました!」とばかりに大競争の海原に飛び出してきた。能力、財力、そして機知に富む人々が水を得た魚のように、力を大いに発揮できる機会が増大したといえる。
     80年代までは他の途上国同様に「頭脳流出」が社会問題のひとつであったが、今ではそうした人々の本国への回帰現象さえ続いているのだから、ずいぶん事情は変わったものである。
     生産・消費活動ともに非常に盛んになり、その水準も飛躍的に向上したとはいうものの、元気がいいのはやはりそれなりの背景を持つ人たちで、生産手段も技術や資格もない単純労働者や農民たちまでもがその恩恵を受けているとはいいがたいのが現状だ。
     現在も海外出稼ぎに出る人々には高い報酬と待遇のもとに海外での仕事がオファーされるエリート層があるとともに、地元の相場に比較して格安な労働力を提供するために出て行く人々の姿もある。 彼らもまた出稼ぎ先の産業を支え、送金によって故郷の家族を養い、母国の貴重な外貨獲得にも貢献しているのだが、経済力も社会的な発言力もない下働きの彼らは、雇用主側から見れば安価でいくらでも代わりのきく労働力でしかない。滞在先の国民ではなく、非合法な立場で就労していることも珍しくないため、法による庇護や福祉の恩恵にもあずかりにくい。
     母国での失業や低賃金等といった問題に対し、出稼ぎ先での高い報酬という魅力がある「限り、「新天地」を求める人々は列をなす。旧来から亜大陸との間に人々の行き来が多く、活発な求人・求職ネットワークがあるような地域ではなおさらのことだ。
     昨年夏にはイラクでインド人トラック運転手たちが武装組織に拉致されるという事件が起きた。それでもインドやネパールからの出稼ぎ志願者たちが後を絶たないというのは、これをより極端な形で投影したものであろう。
     出稼ぎのバックグラウンドやそのありかたは今も昔もそう変わらないのではないだろうか。
    Migrants’ woes in Dubai worker camps
    Migration: ‘A force of history’
    Dubai airport accident kills five
    Workers’ safety queried in Dubai
    Dubai relaxes worker visa rules
    (いずれもBBC NEWS South Asia)

  • 英領インドに旅する 4 観る・遊ぶ

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     各地の遺跡や寺院等の紹介については、今のものとそう大きく違うわけではないのであえて言及するまでもないが、やはりイギリス人ならではの視点が感じられる部分も多い。「タンジャーウルのBRAHADESHWARA寺院には、英国人かオランダ人のどちらかと思われる像が彫られている」と書かれている部分がある。また在地勢力やフランス勢との抗争にかかわる戦跡をめぐる記述が多いことは特徴的である。
     クーラーのない時代、夏の暑さは耐えがたかったのだろう。各地のヒルステーションは彼らの大のお気に入りであったようだ。なんでもコダイカナルは「世界の気候三選」に入る(?)とまで絶賛されている。
     マドラス(現チェンナイ)のマウントロード(現在のアンナー・サライ)にあった「マドラスクラブ」は、インドで最も格式の高いクラブのひとつ。だが「街」としてはそれと比較にならない避暑地ウータカマンドの「ウータカマンドクラブ」はそれに次ぐほどの格式の高さを誇ったという。ニールギリーは英国人お気に入りの避暑地だったらしく、高級ホテルや高級なクラブがいくつもあり、テニス場やゴルフ場などの設備も備えた豪華なものも少なくなかったようだ。
     質実剛健で鳴らす英国紳士たるもの、故郷をはるか遠く離れても身体を動かすことを忘れるわけにはいかないのだろう。各地の紹介記事末尾には「Sport」という項があり、いきなりトラ、鹿、ヒョウ・・・などと動物の名前だけが羅列してあったりするのにはビックリだ。
     助太刀してくれる勢子や地元猟師、装備や獲物を運搬する苦力を現地で調達できるかどうかについても紙面が割かれている。現在ならば密猟は犯罪になってしまうし、動物愛護の観念が浸透している現在、狩猟を娯楽として楽しみたいという人はそう多くないと思うが、当時の身分ある男性としてはごく当然のたしなみであったのだろう。
     ちなみにこの頃、トラはまだ各地に沢山生息していたようである。また湿地帯での「クロコダイル・ハンティング」なんていう言葉を目にして心ときめかせた英国紳士たちは少なくなかったのではないだろうか。
     もちろんイギリス人といっても、とりわけインド貿易が東インド会社による独占状態から自由化された1830年代以降、相当数の商売人やその取り巻きたちが海を渡ってやってきたわけだし、在印のイギリス人自体が上から下までいろいろいたわけで、必ずしも支配者側の立場にあったとも限らない。また彼らとて外地にあれど「一枚岩」であったわけでもない。
     ボンベイ生まれのイギリス人小説家キプリングの小説「少年キム」の主人公のような浮浪する英国人孤児のような存在(この小説自体は決して悲惨なものではなく、冒険と機知に富む少年の活躍を描いたものだが)も実際にあったのではないかと思うのだが、これはまた別の機会に触れてみたい。
     1926年という、まだ「観光旅行」が一般的ではなかった時代に、植民地という今とはまったく違う体制にあった南インドの旅行事情を概説したガイドブックの復刻版のおかげで、支配層から見た植民地時代の世相も想像しながら時遡る旅することができる。現地を訪れる前に、予備知識としてぜひ一読されることをお勧めしたい。
    書名:Illustrated Guide to the South Indian Railway
    ISBN:8120618890
    出版:ASIAN EDUCATIONAL SERVICES
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  • 英領インドに旅する 3 移動する

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     鉄道駅では三等車乗客に対するアメニティは何もなかったが、一等、二等には待合室その他の施設があった。有料で新聞を読むことのできるREADING ROOMを設置している駅もあった。これは今のネットカフェに相当することになるだろうか。
     鉄道利用者数全体から見れば圧倒的に少ない白人乗客に対して手厚いサービスがなされており、インド人乗客のものとは別に専用のリフレッシュメントルーム(カンティーン)やリタイヤリングルームがあった。善し悪しはともかく、外国勢力による植民地支配とはこういうものなのだろう。
     食堂車やリフレッシュメントルームのケータリングサービスは、在印イギリス資本のスペンサー商会(Spencer & Co., Ltd.)による請負業務であった。
     この会社は創業者のジョン・ウィリアム・スペンサーにより1863年にマドラスで主にイギリスからの輸入雑貨を扱う商店を開いたのがはじまりだ。ごく短期間に急成長した同社は大規模な買収合併を繰り返して、欧州とアメリカ以外にある小売業者としては最大とまで言われるようになり、まさに当時のインドを代表する有力企業となっていた。デパートや商店などといった販売業に加えて、前述のケータリング、葉巻製造、ホテルやレストランの運営等にも手を伸ばすなど、非常に多角的な経営でも知られていた。 スペンサー商会にゆかりのあるホテルとしてはコネマラホテルが有名である。
     インド独立とともに経営陣の現地化が図られ、もちろん今でも存続している。周囲の地元資本の成長もあり、同社の影響力は相対的に低下して今ではかつてのような影響力はなくなってしまっているのだが。スペンサー商会発祥以来のゆかりの地であるマドラスのマウント・ロード、つまり現在のチェンナイのアンナー・サライにある大きなショッピング・コンプレックスのスペンサー・プラザは同社による経営である。
     このスペンサー商会についてまた別の機会に取り上げてみたい。
     メーターゲージの区間にはそれなりの料金を払えば専用のツーリスト・サルーンを連結させることも可能で、お金持ちがこれを利用して大名旅行をすることもあったのだろうか。
    ちなみにロンドンに本社を置く南インド鉄道会社の現地本部があったティルチラッパリは、世界最大級のルビー市場でもあったそうだ。
     英領から仏領への「国際列車」についての記述もあり、旅行者が越境するにあたって必要な税関等の手続きについても触れられているのは面白い。
     南インド域内には、COCHIN STATE RAILWAYのように別会社となっている路線もいくつかあるなど、今の国鉄のように経営が統合されているものではなかったようだ。

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  • 英領インドに旅する 2 泊まる・食べる

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     宿泊について、マドラスにはイギリス人を中心にしたヨーロッパ人経営のホテルが相当数あったらしい。19世紀半ばまで、欧州勢がインドで築いた街の中で最大規模を誇ったと記されているポンディチェリーに、GRAND HOTEL DE L’EUROPEと HOTEL DE PARISといった高級ホテルがあったそうだが、これらは今どうなっているのだろうか?
     当時各地自治体や藩王国などが運営していた宿泊施設「トラベラーズ・バンガロー」についての記述がよく出てくる。旅行そのものが盛んではなかった時代、キャパシティは数名程度とごくわずかだ。
     現在の各地の州政府の観光公社によるホテルの多くに、昔は「ツーリスト・バンガロー」というよく似た名前がつけられていることが多かったが、この古くからのシステムの系譜を引き継いだものなのだろうか。いつか調べてみたい。
     だがどうも解せないことがある。場所にもよるが「3日まで宿泊無料、それ以降は所定の料金がかかる」と記されていることが多いのだ。つまり3泊以内でどんどん移動していけば宿代はまったくかからないことになる。営利を目的としたものではなかったのかもしれないが、実際のところどうなっていたのだろうか?
     仏領のカライカルには欧州人旅行者用宿泊施設はなく、唯一のトラベラーズ・バンガローはフランス人役人の出張者専用であったというから、当時から各地にあった公務で訪れる人たちのためのP.W.Dレストハウス、ダーク・バンガローのような性格を持つところもあったのだろう。

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  • 英領インドに旅する 1 案内書を手にして

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     旅行ガイドブックも時代を経るとそれなりに歴史的価値が出てくる。1979年に起きたイスラム革命前のイランについた書かれたもののページをめくってみると、「物価の高いイラン」節約旅行するためのアイデアあり、「高給のイランで仕事にありつく」ためのヒントあり。遺跡や歴史的名所などの見どころは今も同じでも、時代が移れば旅行事情はずいぶん変わるものだ。
     さて、時代はるか遡った1920年代の南インド鉄道旅行ガイドブックである。当時2ルピー8アンナの「Illustrated Guide to the South Indian Railway」というタイトルのこの本は、南インド鉄道会社の沿線ガイドということになっているが、今でいうロンリープラネット社の「SOUTH INDIA」に相当する包括的な地域ガイドとみなしてよいだろう。
     なにしろ民間航空機による定期便運行が始まる前で、自動車による大量輸送システムも充分に発達していなかった時代、当時盛んであった船舶による移動は沿岸部に限られる。当時「モーター・バス(今でいうバス)」の運行区間は長くても60数キロ程度であったため、旅行の移動手段の王道はやはり鉄道であったからだ。
     もちろん沿線ガイドであるがゆえに、現在のガイドブックにはまず紹介されていない非常にマイナーな土地についての記述もあるので、意外な穴場を見つける手助けにもなるかもしれない。

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