ただいまメンテナンス中です…

投稿者: ogata

  • シェカーワティーに行こう2 見どころいろいろ

    a door of a haveli.jpg
     ラージャスターン各地に割拠した藩王たちの宮殿のような壮大さはないし、建築や装飾の洗練された美しさや職人の技の精緻さに圧倒されるとまでは言えない。しかし平民の中からたくましくのし上がっていった当時の新興階級のみなぎる力、そして彼らの進取の気性を目の当たりにするようだ。まさに中世インドにおける民間活力の勃興の証であるともいえるだろう。
     ここで力を蓄えた人々の中からは、大都会に出てより大きなビジネスチャンスを狙う者も出てきた。不断の努力により得た富をせっせと故郷に送金したことから、豪華なハヴェリー建築に更に拍車がかかった。
     彼らが建設に励んだのは、自らの大邸宅だけではなかった。寺院建築のための寄進や井戸を作ることによる地元社会への貢献もあった。カラフルなハヴェリーとともにシェカーワティー地方の風景を特徴づけるのはユニークな井戸である。地面から高く積み上げられた基檀の上から空の方向へ堂々と伸びている大きな四本の尖塔が目印だ。遠目にはモスクのミナレットかと思うような造形だが、その足元では深くて暗い井戸がポッカリと大きな口を開けている。

    (さらに…)

  • シェカーワティーに行こう1 華麗な屋敷町

    haveli.jpg
     ハリヤナ州やデリーとの境の南側に位置するラージャスターン州北部に、「砂漠の中のオープンエアギャラリー」と形容される地域がある。まさにカラフルな絵であふれているのだが、こうしたタイトルの常設絵画展が開かれているわけではない。
     この地方の町の多くには、18世紀から20世紀初頭にかけて建築された、内も外もあらゆる壁という壁が派手な色彩のペインティングで飾り立てられたハヴェリー(屋敷)がいくつも連なる一角がある。まさにこれがオープンエアギャラリーと言われる由縁である。
     だが現地を訪れたのが四年ほど前であり、観光地の「発展」の速度はときに想像を超えるものであることもあることから、現状と違う部分があるかもしれないことは最初にお断りしておきたい。
     
     インドで「壁画」言った場合、古代の寺院などに描かれたもののように深遠な思想背景や途方もない歴史的価値を持つもの、ワールリーやサンタルといった部族の村々で見られるトライバルアート(差別的な言葉ではあるけれども・・・)と呼ばれるもの、あるいはミティーラー画のように特定の地域で社会区分の枠を越えて広がる民俗画など様々だが、シェカーワティーの場合は商業という極めてグローバルかつ世俗的な分野で台頭してきた人々による豊かな経済力を背景にしたものであることから、それらとは性格も絵そのもののありかたも大きく異なる。
     こうしたものを見物できる主な町としてジュンジュヌ、ドゥンドロッド、ナワルガル、ファテープル、マンダワ等がある。
     屋敷を見るといっても、これらは遺跡ではなく現在も人が住んでいる住宅であるため、居住者の好意で中を見せてもらう機会があっても礼を失しないようにしたい。
     このあたりはラージャスターン西部へと続く広大な砂漠地帯への入り口にあたり、緩やかに起伏する大地が広がっている。地味が豊かとは決して言えない荒野と貧しい田舎の町々から成るこの地方に、なぜこのような大邸宅群が多数建設されたのか誰もが不思議に思うに違いない。

    (さらに…)

  • ハリウッド白黒映画に見るインドの英軍

    livesofbengalancer_.jpg
     モノクロ時代のハリウッド映画「ベンガル槍騎兵(The Lives of Bengal Lancer)」を見た。
    1935年製作のこの作品は、若き日のゲイリー・クーパーが出演する英領インドを舞台にした冒険もので、相当好評であったらしく第8回アカデミー賞にノミネートされている。あらすじは以下のとおりだ。
    ……………………………………………………
     ストーリーはゲイリー・クーパー扮するベンガル槍騎兵第41連隊のマクレガー中尉に新しいふたりの年下の後輩たち、挑発的で生意気なフォーサイス中尉とやんちゃで子供っぽさの残るストーン中尉が加わったところから始まる。舞台は現在のパキスタン西部のアフガニスタン国境近くということになっているらしい。
     何かと先輩マクレガーの手を焼くストーンは、なんと連隊の所属する守備隊のストーン司令官の子息。しかし軍の中での規律を何よりも重んじる司令官は、息子への愛情とは裏腹に、周囲から自分の子に対するえこひいきととられるようのないよう、公平に振るおうと努める。その結果、周囲の人々から見ても不自然なほどに息子を遠ざけることになり、父親の「冷たい仕打ち」にストーン中尉は大いに失望する。
     そんな中、英軍からの武器弾薬の援助を依頼している地元豪族モハメド・カーンが、実は周辺の他勢力とともに守備隊に謀反を企てているという情報が、カーンの身辺に潜伏中のイギリス側のスパイからもたらされた。
     企みが露見したことを知ったカーンは、策略を変えて強引な手法に訴える。夜な夜な外出しては遊び歩くストーン中尉を捕らえられて人質にしたのだ。
     父親である司令官は「これは英軍をおびきよせて殲滅させる企みである」として、息子を救出するため自軍を展開することを拒否するとともに、彼に服従せず「それでも父親か!」と詰め寄るマクレガーには「軍法会議にかけるぞ」と脅しをかける。
     そこで一計を案じたマクレガー、「同志」のフォーサイスとともに行商人に変装してストーン救出へと向かうがすぐに相手に身元が割れて、ふたりも同様に囚われの身となる。
    現地に駐屯する英軍への補給路を絶ち、武器弾薬を横取りしたいカーンとその手下たちは、物資輸送にかかわる機密を聞き出そうと三人の人質に厳しい拷問を加える。マクレガーとフォーサイスは必死に耐えたがストーンは簡単に口を割ってしまい、二百万発もの弾丸を含む大量の武器がカーンたちの手に渡る。
     装備で大幅に上回ることになった地元勢力を前にして、ストーン司令官率いるベンガル槍騎兵300名は、守備隊の存続を賭けてイチかバチかの大勝負に臨むべくモハメド・カーンの一味に急襲をしかけた。
     カーンの城砦の中で、マクレガーとフォーサイスは機知をめぐらせて牢獄から脱出。相手の機関銃を奪い敵兵を次々と倒す。カーンの弾薬庫に火を放ち大爆発を起こさせたマクレガーだが、英軍の進軍ラッパが響いてくる中で命を落としてしまう。
    それまでまったくの厄介者の過ぎなかったストーン中尉は、マクレガーの死を無駄にしてはならぬといきり立ち、敵軍の混乱に乗じて不倶戴天の敵モハメド・カーンを首尾よくナイフで仕留めた・・・・。

    (さらに…)

  • 砂漠の船はどこへ行く

    camel.jpg
     ラージャスターン州の典型的な町中風景のひとつとして、通りを行き交うラクダの姿を挙げることができるだろう。御者に操られ大きな荷車を曳いてゆっくり歩いているかのように見えるが、実はストライドが非常に長いためかなりの速度で進んでいるのだ。
     だがインディア・トゥデイ誌3月28日号によると、このラージャスターン州でラクダの数が相当な勢いで減っているのだという。「1998年には50万頭いたものが2003年にはその四分の一が失われている」「1992年と比較して2003年には三分の一が減少」「ラクダの飼育頭数が1994年から2004年までの間に半分になった」といった調査結果さえあるのだそうだ。
     インドでラクダの用途といえば、さすがに砂漠の舟とまで言われるだけあり、主に運搬用ということになるが、井戸水の汲み上げや食料としての搾乳にも役立っている。しかも大きな図体の割には大量のエサを必要としないので、乾燥地にはぴったりの使役動物であろう。
     そして軍籍にあるラクダたちもいる。ラージャスターン州の国境警備にも利用されており、いつだか冬の時期にラージャスターン・パトリカー紙で「寒さで気がおかしくなった軍ラクダが兵士を噛み殺した」という記事を見かけた記憶がある。
     ラクダの減少の主な理由は地域の開発が進んだことである。灌漑の整備により井戸水に頼る度合いが低くなり、それまで道がなかったところに道路が通じ、従来からあった道が舗装されるなどといったことから、エンジンの付いた車両が乗り入れることができるようになった。ラクダよりも多くの荷物をはるかに早く目的地まで届けることができるし、手間のかかる世話もいらない。効率という観点からはラクダとクルマでは比較にさえならない。
     インドもとかく忙しくなりつつあるこのご時勢。急な経済成長に沸く都市部や工業地帯ほどではないにしても、この地でも人々の購買力が向上しつつある証ともいえるだろう。
     これまで長きにわたってラクダが有用だったのは、地域の後進性がゆえと片付けてしまうこともできるが、このあたりの人々の暮らしがいかに大きな変化を迎えているかということを象徴しているのかもしれない。「20世紀に」「インド独立後に」といった比較的長い時の流れの中に起きた変革の中で、地域経済や人々の生活における「1990年代以降」というかなり短い期間のうちに生じた質的変化は相当大きなものではないのだろうか。
     ラクダたちの姿以外にも、やがていつの日か「失われた風景」となるであろうものが沢山あるような気がする。もちろんそれはラージャスターン州に限ったことではないのだが。

  • デリーの古城で

    purana qila.gif
     最近「インドの酷熱地獄に日本人収容所があった」という本を手に入れた。これを読むまで大戦中にインド日本人収容施設があったことなどまったく知らなかった。非常に興味深いものだったので、内容の一部を取り上げてみよう。
    —————————————————————————
     独立前夜のインド、首都デリーのプラーナー・キラーで暮らした日本人たちがいた。その数なんと2859人。当時の英領各地で、「敵国の人間」であるがために捕らえられた日本の民間人たちである。
     しばらくして解放され、インドから出国できることになった者が400人ほどあったものの、他の人々はここで425日間過ごしたあと、彼らはラージャスターンのコーター市から国道12号線を80キロほど北東へ向かったところのデーウリーという町近郊へと移った。
     1941年12月8日に起きた日本軍による真珠湾攻撃(現地時間では12月7日)により幕を開けた太平洋戦争。まさにその瞬間を待ち受けていたかのようにシンガポールやマレーシア在住の邦人たちが、地元当局により一斉に拘束された。彼らは船でインドへと連れて行かれる。カルカッタに上陸後に鉄道でデリーへと移送され、プラーナー・キラーの中に設置された抑留者キャンプに入れられることになった。
     やがてビルマから、そしてセイロンからは僧侶を含めた人々、またインド在住の日本人たちも捕らえられた人たち、はてまた遠くイギリスや当時英領下にあったアフリカ地域から送られてきた者もあった。運悪くこの時期アメリカの船舶に乗り合わせていたがために、途中寄航したイギリス統治下のイエメンのアデン港で拘束された挙句にインド送りになったというケースもあった。
     非戦闘員である一般市民がこうした形で強制収容されてしまうのは今ならば考えられないことだが、当時アメリカ在住の日本人たちも似た経験をしたように、そういう時代であったということだろう。なにしろ当時、日本の駐シンガポール総領事も同様に拘束されてインド送りになっている。もっともその「身分」を考慮してのことか、抑留地は過ごしやすい避暑地のマスーリーであった。
     1947年のインド・パキスタン分離独立の混乱時、プラーナー・キラーは地元在住のムスリムたちを保護するための難民キャンプになったという。しかしその数年前には日本人抑留者キャンプとなっていたことは、おそらくデリーの人たち、相当年配の人たちでもそれが存在したことすら知らない人のほうがずっと多いのではないだろうか。外の市民生活から隔離された特別な空間であったからだ。
     外部の情報から遮断されたムラ社会であるがゆえの悲劇も起きている。デリーのプラーナー・キラーから移動した先のラージャスターンのデーウリーのキャンプで終戦を迎えても、日本の敗北を信じない人たちが多かったのだという。祖国の敗戦を事実として受け止めた人とそうでない人々たちの間の抗争は、ついにキャンプ内での流血をともなう暴動にまで発展する。騒ぎの鎮圧のために投入された軍隊の発砲により、19人が死亡するという惨事にいたった。
    —————————————————————————
     東南アジア各地に旧日本軍にまつわる戦跡その他は多い。タイの「戦場にかれる橋」マレーシアの「コタバル海岸」シンガポールの「チャンギ刑務所」等々。そして今では数はめっきり減ってしまっているものの、占領時代を経験した世代の人たちから声をかけられることもたまにあり、「戦争」について考えさせられる機会は決して少なくない。
     南アジアにそうした場所はほとんど見あたらないが、インドの首都観光に外すことのできないポピュラーな史跡、プラーナー・キラーにまつわる故事来歴の中にこうした史実が加わると、ここを訪れるときまた違った関心が沸いてくるのではないだろうか。
    <インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった> 
    峰敏朗著 朝日ソノラマ発行 発行年1995年
    ISBN4-257-03438-6

  • MADE IN INDIA !

    old truck.jpg
     フランスのルノー社がインド合弁で低価格乗用車「ロガン」を生産するという。東南アジア諸国の中で右ハンドル地域、つまり左側通行の国々への輸出拠点に発展する可能性もあるのだという。タタ社の「インディカ」も提携先のローバーブランドでイギリスにて販売されているように、自動車業界のグローバルな生産拠点としての地位を占めつつあるようだ。
     もっともこうした外資が参入以前から、タタやアショーク・レイランドのバスやトラックの姿は南アジアの周辺国以外でも、東南アジア、中東、アフリカなどで決して珍しいものではなかった。インド国内ではポンコツバスしか見かけなかった時代にも、マレーシアのペナン市のローカルバスにはインド製の車両があったし、アラブ地域でもしばしば「T」印のエンブレムを輝かせたエアコン付きでまずまずのバスを見かけたりしたので、こと大型商用車の分野ではそれなりの地位を築いていたのだろう。
     だがこの分野もインド資本の韓国進出により、大きな変化をむかえている。昨年3月のタタグループによる大宇商用車(旧大宇自動車郡山トラック工場)買収により成立した新会社、タタ大宇商用車は大型トラックを製造しており、韓国商用車市場で25%のシェアを占めている。今年からは5トンクラスの中型トラックの生産にも乗り出し、さらに売り上げを拡大する予定だ。
     韓国で商用車市場に突如出現したインド資本の存在感はさておき、注目すべきは取得した韓国メーカーからインドへの技術移転効果が大いに期待されていることだ。現在のインドの路上風景の一部ともいえる古色蒼然とした「ボンネット型トラック」は遅かれ早かれ日本で見るような「普通のトラック」に駆逐されてしまうのではないだろうか。
     インド製大型車両の「世界標準化」により、販路が従来よりも拡大されることが予想される。現在過熱気味の乗用車市場だけではなく、今後は大型商用車の分野でも海外での販売を視野に入れたうえでの地元資本と外国メーカーとの合従連衡が一気に進むのかもしれない。
     自動車大国ニッポンでは、ヒンドゥスタン・モータースのアンバサダーのように「愛好家」が存在する自家用車を除き、インド製自動車が国内市場に入ってくることはなさそうだが、世界のクルマ市場でインドの存在感が日増しに大きくなってきていることは間違いない。
    new truck.jpg

  • ロバは歩む

    donkey.jpg
     バングラデシュでチッタゴン丘陵地帯での物資輸送問題を解決するため、インドから輸入したロバを投入するのだという。
     このあたりには、主にモンゴロイド系の少数民族たちが暮らしていることで知られるが、地理的な要因のため非常に開発が遅れた地域である。政治的にも不安定で1997年まで20年間ほど地元の武装組織による反政府運動が続いていた。
     バングラデシュの地図を見てわかるとおり、幹線道路の多くはチッタゴン丘陵地域に入ったあたりでプッツリ切れてしまっていることが多い。ロバの投入云々というのは、まともな道路の不足のためクルマが入れない居住地が多いためである。
     下記の記事中に「ネバールやブータンでも同様の役割を担っている」とあるように、小柄ながらも、丈夫で辛抱強いロバは交通の不便な地域で、山のような荷物をのせてトボトボ歩く姿はよく見かけるので、その有用性は言うまでもない。
     ロバという動物は、その哀しげな眼差しといい嗚咽にむせぶような鳴き声といい、なんという業を背負っているのだろうか。あの大きな荷はまさにロバが負う因果そのものではないのか、と気の毒な思いがする。
     それはともかく、こうした辺境の地に何か将来有望な産業があるのか、といえば特に何もないように思えるし、開発が進めば本来ヨソ者のベンガル人たちが入植してきて、地元に昔からいた人たちは、彼らに従属するかさらに不便なところへと追いやられてしまうことになりがちなのだろう。
     世界各地で「グローバル化」が進む昨今、問題は後進性よりも地域の独自性や自主性を保てないことであることも少なくないのではなかろうか。また開発や発展を是とするのは強者の論理という側面もあるかもしれない。
     人々の生活圏や経済圏が広がるいっぽう、従来の狭い地域では日々の営みが成立しなくなってくる。経済的に低く発言力の弱い立場では、新しい論理や倫理、ルールや習慣はたいてい外から否応なく押し付けられていくものである。だが厄介なことに、強い側にいる者たちはそれらを「公平にして普遍のきまりごと」と信じ込んでいるのだ。
     多数決をもってする民主主義というシステムについても、人口の少ないマイノリティの人たちにとって、特に利害がマジョリティと相対する場合、それが公平なものであると認識できるだろうか。
     かといって、時代の流れ止めることなど誰にもできやしない。世の中、コトバだけではわかり合えないことが山ほどある。
    Bangladesh turns to donkey power (BBC South Asia)

  • 聖地に集合!

    shiva.jpg
     やはりインドという国はひと味もふた味も違う。シカゴを拠点とするNRI資本により、「ディズニーランドみたいな」テーマパークが建設されるそうだが、花形マスコットはミッキーマウスではなく、ハヌマーン神だったりするのだそうだ。
     このテーマパーク「ガンガー・ダーム」は、ガンジス河岸の聖地ハリドワールで、25エーカーもの広大な土地に650万ドルの資金を投入して建設されるという。
     予定されている入場料は35ルピーと手ごろだが、ヒンドゥーの神々のアニメーション博物館、フードコート、サウンド&ライトショー等々さまざまなアトラクションが用意されるのだという。
     ハリドワールで2010年にクンブメーラーが開催されるころには、このガンガー・ダームも全面開業しているとのことだ。

    (さらに…)

  • 外国へ行こう、安く!!

    AIR INDIA.jpg
     大衆化が進むインドの空の旅(本当の庶民が飛行機に乗るようになったわけではないが)だが、この流れはついに国際線にも及んできている。
     かたや「自由化」の波、かたや日増しに拡大する需要にこたえるため、政府系企業であるエア・インディアとインディアン・エアラインス両社による独占体制はいよいよ終わりだ。
     4月29日、新会社「エア・インディア・エクスプレス」によるガルフ方面へのフライトが就航予定。インドからの航空路は東方向よりも西方面、とくに湾岸諸国との間のネットワークがより緊密で、中東産油国との関係の深い縁を感じさせてくれる。近いうちに東南アジア方面へのサービスも始める予定だという。運賃は既存の便より3割ほど安いのだとか。
     エア・インディア・エクスプレスは、その名の示すとおりエア・インディアの子会社だが、今後ガルフや東南アジアといった近隣国への路線には、ジェットエアウェイズやエア・サハラといった90年代に発足した民間の航空会社も参入していく方向だ。前者については欧州やアメリカ路線への進出を控えており、インド発の国際線も今後は自国キャリア同士での大競争時代を迎えることになるのだろうか。
     チェンナイからカリカットへ行きのインディアン・エアラインスのフライトを利用したが、空港では国際線ターミナルから出発だと告げられた。この飛行機の最終目的地はオマーンの首都マスカットなのである。他の多くの国内線と同様、エアバスA320の小さな機体。中央の廊下をはさんで左右に三座ずつならんでいるものである。同社の国際線はあまり利用したことがないのだが、タイムテーブルを見てわかるとおり、現在までは湾岸諸国行きのフライトを含めた国際線の多くはこのエアバスA320が使われている。
     空の旅の大衆化により需要が大幅に拡大している昨今、これからは使用される機材の大型化も進んでいくのではないだろうか。インド各地で既存の空港の拡張が行われ、新たに国際空港化されるところもいくつか出てきているし、すでに空港のキャパシティが限界にきているバンガロールのように、新空港建設が急務とされているところもある。
     インド空の旅事情は、今後数年間で大きく様変わりすることだろう。
    Air-India Express to expand network in India, abroad

  • 紫煙に想う

    CIGAR.jpg
     葉巻といえばキューバ。往年のカストロ首相のトレードマーク(とっくの昔に禁煙しているそうだが)みたいでもある。
     だが60年ほど前まで、これに匹敵するほどの葉巻王国がアジアにも存在していた。インドである。主要な産地として世界的に知られていたのは、岩山の上にそびえる寺院で知られるインドのタミルナードゥ州のティルチラッパリであった。当時の綴りでTiruchinopoly。かのウィンストン・チャーチル(1874〜1965年)もここの製品を愛用していたとか。
     今ではすっかり衰退してしまったインドの葉巻産業。あえて「インドの葉巻」の話を持ち出せば、「あぁ、ビディーのことね」なんて言われてしまいそうだが、実は今でもティルチラッパリを中心に、地場の葉巻を製造・輸出する会社がいくつかあるようだ。
     その中にはフルーツやスパイスなどのフレイバー付きの小ぶりな葉巻を扱うSopariwala ExportsAfzal Molassesといった業者もある。
     従来より葉巻を愛用していた人がこんな軽薄な(?)ものに手を出すとは思えないので、おそらく若年層や女性たちの間に新たな顧客層を開拓しようと模索しているところなのだろう。
     好調な経済成長とともに、一時期「若い人たちの間でキューバ葉巻をたしなむ人が出てきている」と書かれた記事を見かけた記憶がある。また喫煙率の減少とは裏腹に、都会の女性たちの間にタバコを吸う人が増えてきているのはインドもまた同じだ。そうは言っても手軽な紙巻とくらべて重厚長大で悠長なモノが定着するとは思えない。
     かのタバコ大国キューバでもついに公共の建物等での喫煙が禁止されるなど、紫煙に対する風当たりが日増しに強まっているご時勢なのだから。

  • 求めよ、さらば与えられん

     世にも厳しい法がある。家もなく無一文の人たちによる自らのサバイバルを賭けた「物乞い」という行為が犯罪となる。その根拠となるのは1959年にボンベイ州(当時)で制定された「ボンベイ物乞防止条例」(Bombay Prevention of Begging Act, 1959)で、1961年3月からデリー首都圏でも適用されている。
     これによれば、乞食を行う目的で公共の場(鉄道車内等を含む)や私的空間に入ること、身体の不具合を見せるなどしてお金を求める行為が禁止されている。
     だが事前に当局から許可を得ているものは取締りの対象とならないことが記されており、これは募金等の慈善行為を指すのであろう。
     この条例では施しを求めるいかなる行為、たとえば歌唱、踊り、占い、演技、物品の販売等を禁じているため、本来の乞食だけではなく大道芸人や路上で新聞などを売り歩く少年たちさえも、この条例を口実にした取り締まりの対象となり得る。 
     違反者の処罰については、初犯は3年以下の禁固、再犯は10年以下の禁固ということになっている。また乞食行為の「使役者」に対しても、1年以上3年以下の懲役が定められている。
     2002年にはこの条例が改定され、これを読んでいるあなたも罰せられる可能性が出てきた。「乞食に施しを与えることにより、スムーズな交通の流れを妨げる」ことに対して、100ルピーのペナルティーを課すことができるようになったからだ。
     本来はこの条例、物乞いの禁止とそれにかかわる人々の保護と自立支援を目的にすることをうたっており、乞食行為に対する処罰とともに、行政側がこうした人々の保護と収容、教育と就労支援の付与、その目的が遂行されるための施設を運営することが明記されており、必要とあれば病気等の治療も与えられることになっているのだが、路上の現実を見ればまさに机上の空論であろう。

    (さらに…)

  • ヘリテージなホテル 2 スリランカのコロニアルホテル

    NEW ORIENTAL HOTEL
     インドの宮殿ホテルとくれば、隣国スリランカではコロニアルホテルが特徴的だと私は勝手に信じている。
     もちろんインドにもコロニアルホテルは多いのだが、有名どころとなるとタージグループのような大資本の傘下になっているものが多いようだ。そのため新たに手が入りすぎたがゆえに本来「味」が失われていたり、運営やサービスが標準化されていて魅力に欠けていたりする・・・と書きたいところだが、実は高くてあまり利用したことがないので大きなことは言えない。
     スリランカのコロニアルホテルの代表格として、ゴール( Galle ) のかつてオランダによって築かれた要塞の中を走るチャーチストリートにそびえる、約三百年前のオランダ時代に建てられたニューオリエンタルホテルを挙げたい。現存する同国最古ホテルということもあり、その歴史的価値は大きく、レトロぶりも他を圧倒している。
     いかにも植民地建築らしく、天井が非常に高く、開け放たれた窓からは同じくコロニアルな建物が立ち並ぶ眺めも素晴らしかった。 室内の様子が往時とあまり変わらない(?)と思われるのもまた魅力のひとつ。使い込まれた板張りの床、長く大きな蚊帳を吊るフレーム付きで脚が非常に長いベッド、調度品もずいぶん年代モノのようであった。ひょっとするとベッドシーツやマットレスも・・・(?)
     まるで時間が止まったようなたたずまいと合わせて、古い絵や写真でしか見ることのできない昔の「セイロン」を眺めているような気がした。
     グラウンドフロアーのカフェテリアで昼食を取った。室内のありさま、裸足のウェイターとそのユニフォーム、スープ、ソーセージにパンの味といい長い伝統(あるいは世紀を越えた旧態依然)を感じさせ、目に映るものすべてが次第にセピア色に染まっていくような思いがした。
     惜しむらくは、建物がかなり老朽化していることと、メンテナンスが足りないことであった。実を言うと、私は宿泊費が高くて敬遠したのではなく、もっと快適なところに泊まりたかっただけである。遠目には風格に満ちているが内部は野戦病院のようで、本来大きな潜在力を秘めたホテルであるはずだけに、「伝統ある安宿」化していたのはとても残念であった。
     だが知名度が高く立地条件も素晴らしい超優良物件が長いこと放置されているはずはなかった。 実は昨年12月15日には、大幅な改修工事を終えてピカピカになったニューオリエンタルホテルが、西洋人女性のマネジメントのもとで再オープンしているのだ。しかしわずか11日後、12月26日に発生した津波の大きな被害を受けたゴールの町、このホテルは高台にあるため難を逃れたもの、しばらくの間は被災者たちの収容施設となっていたそうだ。出足はつまずいたが、今後人気沸騰することは想像に難くない。

    (さらに…)