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月: 2023年8月

  • サッスーンドック

    サッスーンドック

    サッスーンドックにある大きな倉庫建物で「サッスーンドック・アート・プロジェクト」開催中。生臭い魚市場に隣接しているため、空気はどこも強烈な魚の臭いと腐敗臭に満ちていた。ここで売られる様々な魚の中で、チラッと目についたエイ。インドではこの魚はどのように調理されるのだろうか。

    思わず「こんなところでアート?と」思いかけたが、アートとは本来私たちの生活からかけ離れたところで、私たちの営みとはかけはなれたテーマで作成されるものではない(中にはそういうのもあるかもしれないが)はずなので、こういう極めて世俗な場所での開催は、案外正しい姿なのかもしれない。

    ちなみにそのサッスーンドックだが、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれる植民地時代に中東方面から渡来したユダヤ人たちのうち、サッスーン家の一門が力を蓄えたボンベイ(現ムンバイ)。サッスーン家はその後、カルカッタ、ラングーン、上海、香港そして欧州でも繁栄。

    サッスーンの一門が力を蓄えたボンベイ。その後、カルカッタ、ラングーン、上海、香港、そして欧州でも飛躍。

    インドにおけるサッスーン一族の始祖、ディヴィッド・サッスーンがボンベイに上陸したのは1832年あたりであったとされる。まだシオニズム運動が始まる前だったので、彼らはアラブ人を自称して、生活スタイルも装いもアラブ人の格好をしていたということは興味深い。当時はまだユダヤ人というアイデンティティーはアラブ人という意識の中に包括されるものであり、そのアラブ人の大多数を占めるイスラーム教徒から見るとユダヤ教徒というマイノリティーではあったものの現在のような「異民族」という扱いではなかった。同様に、今も残るユダヤ人地区はいずれもムスリム地区の中にあり、ムスリムコミュニティーの中の「ユダヤ人組」みたいな形であった。

    その後、バグダディー・ジューは植民地当局の主に軍需関係などで稼ぐようになり、「欧州人化」していく。欧風化したのはパールスィーも同様であるのだが。

    シオニズム運動、イスラエル建国運動へとユダヤ人国家の実現とパレスチナ人たちからの土地その他の収奪へと向かうにつれてムスリムvsユダヤという、それまではあり得なかった対立軸が出来上がっていった。そんなわけで、イスラエル建国が実現しなければ、昔と同じ今も大きなアラブ社会の中にユダヤ人社会という少し毛色の違う社会がある、その他の地域でもムスリム社会の中に、ユダヤ教という祖を同じくするものの、少し違う信仰の人たちが同じエリアで暮らしているという関係であったことだろう。

    現在に至っても、ムンバイ、カルカッタ、ラングーンなどにバグタディーが残したシナゴーグその他の施設があるが、そうしたこところで住み込みなどで世話人をしているのは、ムスリムの人たちであり、昔ながらのムスリムとユダヤ人の親密な関係は継続しているのは幸いである。

  • 喫茶の習慣

    インドにおけるチャーイ(チャーエ)といえば、人々の暮らしに欠かせないものとなっているが、その歴史はまだ100年にも届かないことはあまり知られていない。

    1903年に制定されたIndian Tea Cessにより、それまで輸出作物として栽培・取引されてきた茶葉がインド国内もマーケットとする方針が定まった。そのあたりではカルカッタやボンベイなどの大都会では英国人のみならずインド人上流・中流階級も紅茶に親しむようになっていたが、あくまで英国式のものであり、しかも高級な嗜みであった。

    19世紀にインド各地で茶葉の栽培が広がるとともに、20世紀に入るあたりになると、マラヤやアフリカなど、他の英領地域にも茶園経営は広まり、オランダやフランスなど欧州列強の海外領土でも同様に茶葉の生産が広がりを見せた。

    20世紀に入ってしばらくすると、茶葉の取引価格の下落、在庫のだぶつきなども見られるようになり、新たなマーケットを求める必要が出てきた。当然、産地であるインド国内の膨大な人口がその標的となり、1930年代以降、インド紅茶局は国内各地で「紅茶キャンペーン」を展開していくことになる。もちろん当時は今のようなチャーイはまだ誕生しておらず、やはり英国式の飲み方が宣伝されたわけであった。

    つまりガーンディーが率いた「塩の行進」(1930年、英国による塩の専売に反対してグジャラート州のダーンディの海岸を目指して歩き、そこで塩を作ってみせた)の頃には、まだそんなものは存在していなかったわけだ。

    ガーンディー自身が「アンチ紅茶」の立場を取っていたことはリンク先の記事で初めて知ったが、彼が禁欲的なスタンスであったためのみではなく、紅茶による税収は英国当局の貴重な財源でもあったからなのだろう。

    今どこでもあるようなチャーイが街角で普及したのはいつ頃からのことなのだろうか。1930年代から1940年代にかけて紅茶局がインド国内で茶葉普及活動を展開していたというから、やはり街なかや家庭で定着したのは独立後ということになるのかもしれない。あるいはさらに遅く、ある程度生活にゆとりが出てきた1960年代以降ということになるかもしれない。もちろんその中で都市部と田舎での時間差もあったことだろう。

    ここからは私の想像だが、1950年代にUPの田舎からカルカッタで大学に進学するために出てきたら、「カレッジストリートのインディアンコーヒーハウスで初めてコーヒーとチャーイを知った」という地方出身の若者もいたかもしれないし、街なかで働く労働者たちの中では、「チャーイは昔はとても高くて手が出なかった。1960年代くらいからかな、俺もようやく飲めるようになったのは。そのあたりになると帰省したら家でもみんな飲むようになっていたよ」というのもあったのかな、そんなことはなかったのかな?などと思いを巡らせてしまう。

    Mahatma Gandhi and his anti-tea campaign (BBC NEWS)

  • アジメールの「ケー・イー・エム」

    ラージャスターン州のアジメール駅前にある宿泊施設「KEM」と言えば、地元で知らない人はまずいないだろう。「ケー・イー・エムに行きたい」と口にすれば、「ホテルか病院か?」と聞き返されるはず。以下は2019年時点での記事。

    Ajmer KEM hotel to be restored (sawdust.online)

    1901年にエドワード7世が新たな英国国王とし戴冠し、すなわち当時のインド皇帝となったが、これを祝うために翌々年の1903年に「デリー・ダルバール」に出席するためボンベイに上陸し、鉄路で各地に立ち寄りながらデリーへの移動途中でアジメールに来訪することも決まっており、どちらもこれを記念して建てられたもの。ゆえに「K.E.M.(King Edward Memorial)」なのである。宿泊施設のほうの「KEM」は、後にホテルに転用された。

    「ダルバール」とは、ウルドゥー語から英語に取り入れられた語彙で、英領インドの英語辞書「HOBSON JOBSON」にも出てくる汎用度の高い語彙だが、「王宮」「謁見の間」などの意味がある。「デリー・ダルバール」は広大な土地に沢山の大きなテントをしつらえて開催され、内外から数多くの賓客が招待されたうえで、イギリス国王を皇帝として戴く「インド帝国」において、その皇帝自身にお披露目の舞台であった。

    「デリー・ダルバール」は3回開催されており、最初は1877年のヴィクトリア女王、続いて1903年のエドワード7世、最後が1911年のジョージ5世。そして1936年エドワード8世が英国国王を継いだ際には、インドでの情勢の変化により、ダルバールは延期や再検討を重ねて、結局開催されることはなかった。

    「デリー・ダルバール」が開催されていた場所は、北デリーで「CORONATION PARK」として整備された公園になっており、往時の遺物がいろいろ展示されているため、英領期のインドについて興味のある方は訪れてみると面白いかもしれない。

    Delhi’s Coronation Park a neglected site of India’s colonial past (Al Jazeera)

    話は逸れたが、冒頭の「KEM」については、1990年代後半に宿泊してみたことがあるのだが、荒れ果てた安宿になっていて、廊下では宿泊客たちが持ち込んだコンロで調理などをしているような状態だった。立派な歴史的背景がありながらも、あまりにひどい状態であることに唖然とするしかなかった。

    しかしながら、「KEM」で、先述の大改修は完了し、今はきれいなホテルとして生まれ変わっているらしいので、いつか再訪してみたいと思っている。

  • 植民地期の建物のホテル

    植民地期の建物のホテル

    宿泊先近くを散歩していて見つけた「Hotel Moti International」という施設。品の良いコロニアル建築を転用した宿泊施設で一泊3500Rs。

    「エスプラネードマンション」のようにボンベイの鉄骨造建築の初期のもののように見えるかもしれないが、そうではなく外部の鉄骨は比較的近年になってから補強のために施したものであるとのこと。

    この日、客室は満室とのことで見せてもらえなかったが、外観や館内の廊下から見る限りでは、今風に仕上げるのではなく、極力昔のまま復元したといった具合に好感が持てる。

    コラバは英国人等欧州人を中心とする富裕層のお屋敷だった物件が多いエリア。きちんと手入れが施され、メンテナンスもしっかりしていると、実に見事な建物が多く、それらは宿泊施設に転用されているケースも少なくないのは嬉しい。

  • ムンバイのサルベーション・アーミーの宿

    ムンバイのサルベーション・アーミーの宿

    懐かしのサルベーション・アーミーの宿。近くを通りかかったので外から写真を撮ってみた。バックパッカー時代、宿代がやけに高いボンベイで、ここに泊まれないと困るので、チェックアウト時間前に到着して空きを待った。それでもインドの他の街に較べてずいぶん高額であったため、ボンベイに沈没したことはなかった。

    ガルフに向けて開かれたインドの商都、当時はまだデリーもハイデラバードもチェンナイもバンガロールもたいしたことなくて、「ボンベイ1強」でその他の大都市との格差がたいへん大きかったこと、加えてボンベイは細長い半島状になっており、内陸の都市のように周囲に市街地を広げる余地がないこともあり、地価や家賃が飛び抜けて高かったのだ。すると当然ながら、安宿の料金もまったく安くなかったのだ。

    もちろん今でもムンバイの宿泊費はまったくお得ではないのだが、他の大都市での宿泊料金が上がったため、格差は縮小している。

  • コラバの「オリンピア・コーヒー・ハウス」

    コラバの「オリンピア・コーヒー・ハウス」

    ムンバイのコラバで朝食によく利用する「オリンピア・コーヒー・ハウス」へ。ここは朝5時くらいから開いているため重宝する。この日は朝の9時前だったが、それでもとても込んでいた。さすが人気店である。

    Olympia Coffee House (Zomato)

    この近くにメソジスト教会があるが、軍人のための教会として建てられたとのことが由来との標示版にある。メソジストと軍人というのは相性が良さそうに思う。

     

  • ランダムチェックとは

    さすがに現在は実施されていないが、インドで国際空港におけるコロナ対策で、乗客の2%を対象としてランダムにPCR検査を実施するとしていた時期があった。

    係員が声をかけてくるのは飛行機からターミナルビルの廊下に出たところである。私も声をかけられて「捕まった」わけなのだが、そうして声をかけられている人々、そして連れて行かれた先で目にした人々には明確な共通点があることがわかった。

    ・外国人とインド人が半分ずつくらい。

    ・単身か2人連れの乗客(大人数のグループは無し)

    ・体格の良い人物は無し

    ・人相の悪い人物も無し

    ・VIP風の人物も無し

    集められた面々は、ごくまっとうで人柄も良さそうな人々ばかりで、要は「揉めそうにない人々のみだ。「ランダムに抽出」と言いつつも、明らかに人を見ていることがわかる。声を掛けたら変に絡まれて因縁をつけられたり、大目玉食らったりする相手だと困るためだろう。彼らもやはり勤め人であるし、余計なトラブルを起こしたり、不要な労力をかけたりするのは嫌であるがゆえ、見るからに面倒そうな相手は避けて、扱いやすそうな人を選ぶのは当然のことだろう。

  • シャンカル・バイヤー

    ムンバイのコラバ地区の道端にある小さなブースというか店。ここでは通信各社のSIMを販売しており、一時滞在者が多く、プリペイド契約をしている近隣の商売人等も多いため、常に誰かしらの相手をしていて忙しそうだ。

    私もここでプリペイドの契約をしたのだが、店の人が私にかかる作業、彼のスマホでのデータ入力、写真撮影などをしている間もひっきりなしに「シャンカル・パイヤー(シャンカル兄ちゃん)、×××Rsのチャージして」「シャンカル、これ頼む」等々、いろんな支払い、これらを正確にこなし、私にも笑顔で接している。こういう仕事で笑顔の接客は珍しい。

    ひとつひとつの作業は決して難しいものではないはずだが、あまりに量が多い。これらをひとりでやっている。「たいしたもんだ」というよりも、若いのに人間も出来ているというか。

    面白いと思ったのは、「おい、シャンカル!」と呼んでいるので馴染み客なのだろうけど、日本のLINE PAYやPAYPAYみたいなサービスの「PhonPe」で、品物も買わずにPhonePeアプリでQRコードを読み込み支払いをして、それを現金で受け取っていた。そういうキャッシングみたいなこともできるのか?

    それはさておき、シャンカルといえば、もちろんシヴァの別名のひとつのシャンカルなのだが、なぜ日本では「ラヴィ・シャンカール」みたいに伸ばすのか?あれは「シャンカル」であって、「シャンカール」ではない。カタカナで正しく「シャンカル」と書くことができるのに、そうやって音を伸ばすのは、やはり「第2音節に長母音を入れると重みが出る」という日本語の音韻学みたいなのがあるからか、それとも英語で「ラヴィ・シャンカァァ(ル)」と呼ばれたのをカタカナ転記して「シャンカール」としてしまうのだろうか?

    いずれにしても、例えば地名の「ジャイプル」が「ジャイプール」と表記されたり、「カーンプル」が「カンプール」と表記されたりもする。ないはずの長母音が第2音節に入ったり、第1音節にある長母音が短母音化し、なぜか第2音節の短母音が長母音化することがよくあることから、日本語では音韻学的に第2音節を「長―くする」と座りが良いというようなことがあるのかもしれない。

  • THE FORT POKARAN

    THE FORT POKARAN

    「インドの核実験場」として有名な砂漠地帯のポーカラン。あまり観光地というロケーションではないが、ここにも立派な物件がある。都会の喧騒から離れて、宮殿の立地なムードの中で休日を過ごしたいという人たちの需要を期待してのオープンであったのではないだろうか。

    ジャイサルメール、ビーカーネール、ジョードプルなどを家族連れでクルマで回ろうという人たちには、「運転その他でお疲れのお父さんが、何もしない休養日」のために滞在というのもありそうに思う。

    リュックを背負っての公共交通機関による旅行では利用の機会はないが、クルマやバイクなどの自前の足を利用しての旅行であれば、ちょっと泊まってみたくなる。「宮殿ホテル」にしては、3,500Rs(+税)で利用できるのも魅力。

    だが「宮殿ホテル」という言葉を使うのもためらわざるを得ない。ポーカランは藩王国ではなく、この建物は藩王国に従属していた土豪の館であるからだ。

    それでもやはりこういう建物に宿泊できるというのは、ラージャスターンならではのものであり、ムガル建築の影響を強烈に受けた見事なラージプート建築の中で(ポーカランの町というか村で、周囲に見るべきものはないし)、日がな宿泊先の建物をこまごまと観察しながら過ごすというのも悪くないかもしれない。

    Welcome to The Fort Pokaran (The Fort Pokaran)

  • PATAN MAHAL

    PATAN MAHAL

    こちらはラージャスターン北部、パータンの旧領主の宮殿がホテルに転用されたもの。

    そういうホテルはとりわけラージャスターンやグジャラートには多いが、6,000 Rs強から利用できるというのはなかなか魅力的ではなかろう。ロケーションが辺鄙なところらしく、やはりマイカー時代が到来したこと、インドの人々の間での「旅行ブーム」が「旅行する習慣」として定着したことにより、不便な場所にある中小規模の宮殿や館などが宿泊施設として利益を上げることが可能になったのだろう。

    90年代に入るあたりでは、放置されて荒れ放題だったヘリテージ建築がどんどん活用されるようになっている。おそらくこの物件もそのような具合だったのではなかろうか。

    Patan Mahal – a heritage home (Patan Mahal)