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カテゴリー: travel

  • ゴーラクプルからデリーへ

    ゴーラクプルからデリーへ

    ゴーラクプル始発の列車は、午後4時半に出発だが、少し早めに駅に着いてみると、すでにプラットフォームに停車していた。

    この列車でデリーへ向かう

    本日は奮発して1Aクラスの寝台を取っているが、2Aの車両に併設されている形。2Aとの間にドアがあって仕切られている。そことの間は通行が出来るようになっている。1Aクラスはドアの付いたキャビンになっており、定員は4名。1Aクラスのコンパートメントのためか、客室内にネズミ捕器が設置されている。気が利いているのだかそうではないのだか…?

    1Aクラスの車内。左シート下の灰色の箱みたいに見えるのはネズミ捕り

    出発までしばらくの間、外を眺める。ときおり他の列車が入ってきては通過していく。

    夕食を頼んだが質素な野菜ビリヤーニーだった。

    この列車のGeneral Coachについては、列車到着時から物凄く沢山の人々が乗り込んでいてびっくりした。同じ列車ではあるが、この快適な空間とは正反対のぎゅうぎゅう詰めで苦しい空間がそこにある。この車両のひとつ後ろからもまたジェネラルコーチになっているので、そこでも大変だろう。

    1Aコンパートメントは快適で、同室の人たち(結局四人の定員いっぱいになった)も午後9時くらいには寝たので、こちらも充分眠ることができた。室温もちょうど良い具合。

  • ゴーラクプル2

    ゴーラクプル2

    鉄道駅のクロークルームに荷物預けてから駅を出る。サイクルリクシャーで向かう先は、ゴーラクナート寺院である。おそらくこれがこの街の名前の由来となっているのだろう。⒒世紀のシヴァ派の聖者を祀る寺院だ。ゴーラクプルはやはりかなり貧しい街という気がする。駅前は中心でありながらも、かなり空き地が多く、隙間だらけという感じがする。また高い大きな建物が少なく、フラットな印象。昔のインドという感じだ。途中で踏切を越えるが、遮断機が下りていてもズンズンくぐって進んでいくのがインド流だ。また列車が来てもすぐ目前まで進んでいく。どうしてそんなに急ぐのか。

    ゴーラクナート寺院到着。なかなか見応えのある寺で、本殿以外に複数の参拝できる施設があり、そのひとつの大きなホールには、様々な神々の像がならぶ、いわば神々の博物館のようになっていた。

    ゴーラクナート寺院

    寺院の聖池
    寺院敷地のすぐ外で見かけた露店の食べ物。旨そうなんだか、まったくそうではないんだか・・・。

    その後向かったのは鉄道博物館。ジャンクション駅よりも少し先にあり、19世紀終わりごろに建てられて、鉄道幹部の住居として使用されていた建物の中に入っている。建物もさることながら、中には鉄道導入期の装備や備品なども展示されており、これらはたいていイングランド製。鉄道敷設のころの写真、まだ橋梁が出来る前で、河を鉄道スチーマー(Railway Steamer)という外輪船が結んでいた時期などの写真などもある。またこの時期から独立後あたりまでの写真も飾られている。

    開館は正午と遅いが、夕方7時半まで開いているのはちょっと意外

    客車を改造した食堂

    その中には詩会に出席して何か話をしているハリヴァンシュ・ラーイ・バッチャンの写真もあり、これまた興味深かった。敷地内には、子供たちのためのトイトレイン、使わなくなった客車を利用したカフェテリアなどもあり、これまたいい感じである。どこも手入れが行き届いているのも好印象。田舎の博物館では、どのような分野のものであったとしても、荒れ果てた中にゴミのように打ち捨てられているということが大変多いからだ。屋内展示部分は撮影禁止となっているため、それらについてここで画像で紹介できないのは少々残念である。

    この鉄道博物館の後にはCity Mallモールへ。近年のインドでは、この程度の規模の街にも当たり前のようにモールがある。出来た当初はかなり良かったのではないかと思うが、エスカレーターは片側しか動作しないし、まだ比較的新しいと思われるにも限らず、かなり煤けている。それでも最上階にはシネコンが入っており、グラウンドフロアー外の券売所が混雑していたところを見ると、それなりに繁盛してはいるのだろう。すくなくともシネコンについては。

    モールで昼食

    食事を終えてから、サイクルリクシャーで鉄道駅に向かう。

  • ゴーラクプル1

    ゴーラクプル1

    ベトナム寺院の宿坊で出発の準備。このお寺に起居する尼さん、坊さん、スタッフたちに挨拶をして、少し離れたところにあるメインストリートに出てバスを待つ。

    ほどなくゴーラクプル行きがやってきた。空席はなかったが、それでも押し合いへし合いするほどの混雑ではなかったのは幸いだ。クシーナガルから1時間15分ほどでゴーラクプルに到着。

    サイクルリクシャーでゴーラクプル駅へ。予約してある列車が夕方出発するまでしばらく時間がある。Eチケットに車両番号と座席番号が印字されていなくて、ただconfirmedと書かれているのみなので、念のため確認しておきたかった。駅長室隣にある事務所で尋ねてみると、午後1時くらいにチャートが作成されるまではコーチ番号も座席番号も出てこないとのこと。

    Gorakhpur Junction Station

    この人の名前からしてクリスチャンらしいというだけではなく、なかなか重厚で厳めしい英国風なので、ひょっとして?と思って尋ねてみると、やはりアングロインディアンであった。家の中では英語だけの環境で育ち、学校もイングリッシュ・ミディアムのところであったため、ちゃんとヒンディーを習ったことはないのだという。「もちろん土地の言葉なので、当然毎日しゃべっていますが、ヒンディーの読み書きは苦手です。」と言う。

    イギリスから渡ってきた曽祖父も鉄道員で、技術職であったとのことだ。軍と鉄道はいかにもアングロインディアン的な仕事だが、今でも就職の際の留保があるとのこと。同様に、国会に2議席留保されているよく知られた話だ。

    自宅で奥さんが作ったというブラウニーケーキを分けてくれたが、洋酒がしっかり効いている味は、いかにもアングロイディアン的である。通常、インド人のケーキならば洋酒は入らないのが普通だ。

    家の中では今でも「英国風」の暮らしをしていると言い、スマホに入っている写真をいろいろと見せてくれたが、家屋はインドの庶民そのものという感じで、裕福というわけではないようだ。身内には豪州その他に渡った人もいるというが、まだこのあたりにはかなり多くのアングロインディアンたちが暮らしているという。機会があれば、アングロインディアンの人たちのコミュニティの中で、彼らがどうやって生活しているのか、どういう仕事に就いているのかなどについて知りたいものだ。

    フェイスブックをやっているとのことで、その場でFB友達となった。これで何か質問があったらいつでも連絡できる。便利な時代になったものだ。

  • 建設後使われていない空港 74億円のムダ

    438.4 Crore Rs (約74億円)もかけて建設した15の地方空港が、完成から10年経過しても民間航空機の定期便が就航していないという事態になっているという。

    10 years and Rs 438.4 crore later, 15 airports yet to be on flight map (Aviation India)

    その15の空港には、ジャイサルメール、シムラーなども含まれているとのこと。ジャイサルメールに空港建設というニュースをだいぶ前に耳にしたときには、「飛行機で行けるようになるのか」と思ったのだが、その後まだ就航していない。そのジャイサルメール空港の現在の様子は以下の記事に写真入りで取り上げられている。

    No passengers or flights: India splurged $50 million on eight ghost airports (firstpost.com)

    こうした中でも、特にひどいのがマハーラーシュトラ州のゴーンディヤー空港だろう。国民会議派を中心とする連立政権、UPA (United Progressive Alliance)時代に航空大臣を務めたプラフル・パテール氏の肝いりで建設されたものだが、ゴーンディヤーはまさに氏の地元であり、我田引水そのもののプランであった。前述の438.4 Crore Rs (約74億円)の半分近い、207.6 Crore Rs (約35億円)もの巨費が投じられている。

    建設後、使用されていない空港について、現在の航空大臣は「就航先を決めるのは航空会社であり、各社それぞれの都合によるものであり、政府が決定するものではない。それは国営エアインディアについても同様。」と答えているが、計画そのものがいかにずさんであったかということだ。

    これでは納税者はたまらない。

  • インドヴィザの新たなプログラム「VISA-ON-ARRIVAL FOR JAPANESE NATIONALS」が3月1日から運用開始

    事前にネットでの申請と支払いが必要な現行のe-tourist visaへの追加措置とのことで、こちらはアナログなので事前申請は要らないようだ。
    しかしながらインド大使館のウェブサイトにあるこの関係の記事、「申請書」をクリックしてみると、「Not Found」となってしまう。
    インドへのフライトの中でも申請書を入手できるとのことだが、ちょっと不安なのと空港でずいぶん待たされたりするかもしれないので、やはり事前に通常のヴィザなり、e-tourist visaなりを申請しておいたほうが安心だろうと思う。とりわけ導入直後においては。
    しかしながら、ヴィザ取得の選択肢が増えることについては大いに歓迎したい。

    VISA-ON-ARRIVAL FOR JAPANESE NATIONALS (駐日インド大使館)

  • インドとミャンマーの国境交流本格化へ

    もう2か月近く前のことになるが、こんな記事を目にした。

    Cabinet Nod for 69 Bridges in Myanmar Highway (Northeast Today)

    ミャンマー西部の国道建設にかかる援助プロジェクトで、マニプル州からの越境地点となるモレー/タムー国境から東進するルートになる。これは同州の州都インパールからマンダレー間で計画されている直通バスが通るコースでもあり、旅客のみならず二国間の物流面でも期待されている。

    このあたりは東南アジアと南アジアの境目であり、国境両側に様々な少数民族の豊かな生活文化が残されている地域でもあり、単なる通過点としてだけではなく、観光面からも期待されるものは決して少なくないことだろう。

    とりわけインドでは、近年になってから中央政府・北東各州政府ともに北東地域のツーリズム振興のために様々なキャンペーンを張っているものの、なかなかその効果は出ていないようだ。

    ひとつは、州によってはまだ治安情勢に不穏なものがあり、マニプル州もそうしたカテゴリーに含まれること、そして大きな遺跡や見栄えのする名所旧跡が数多く存在するわけではなく、どちらかといえば、地域の生活文化そのものが魅力という地味な地域であることがその主な理由であろう。

    さらには、ここを訪れてからどうするのかといえば、グワーハーティー、コールカーター等の大都市まで引き返してから、インド国内の他のところに向かう、あるいは周辺国に向かうということになる「地の果ての行き止まり」であったため、なおさらのこと、観光客が足を向けにくかったということがある。

    そんな状況もインパールからミャンマーのマンダレーへの直行バスが運行されるようになり、私たち外国人もそれを利用できるようになれば、ずいぶん違った具合になってくることと思われる。

    「ヤンゴンから入り、ミャンマー西部を訪れてから、インド北東州をあちこち見学、そしてコールカーターから帰国」といったルートがポピュラーになる日もそう遠くはないのかもしれない。

  • クシーナガル滞在2

    クシーナガル滞在2

    サモーサーを片手に散歩を開始

    クシーナガル到着の翌朝、最初にマハーパリニルヴァーナ寺院へ。仏陀入滅の地として知られるきれいに整備された遺跡だ。中央にはお堂があり、5世紀の作と言われる涅槃仏が置かれている。私が訪れた時には、タイの仏教徒集団が僧侶に率いられてタイ語で読経。同じく堂内にはミャンマーの一団もあった。こうした中で私もお堂の中に腰を下ろしてしばし瞑想してみる。

    ここでもやはり、いくつものブータン人のグループが来ていた。本日出会ったこうした団体は年配者が多く、引率しているお坊さんによると、帰る日はまだ決めていないとのこと。すでに引退している年齢のようなので、時間はたっぷりあるのだろう。こうした年配者でもけっこうヒンディーが出来るのは、いかにもブータン人らしいところだ。

    ブータンからのご一行。グループには他に十数名の方々があった。

    ここからさらに進むと道路が左側に折れている。ちょうどその折れるところにマーター・クンアル寺院という遺跡がある。ここは、ブッダが亡くなる前に最後の説法をしたところであるとされる。

    マーター・クンアル寺院

    ここから向こうにはチベット寺、インド・スリランカ寺、韓国寺などがある。大韓寺という韓国寺には質実剛健そうな僧侶がいたが、なんとひとりで頑張っているとのこと。ここに来て2年だそうだ。これらの寺については、正直なところボドガヤーにははるか及ばないし、ルンビニーと比較してもかなり見劣りがする。

    チベット寺

    韓国寺

    さらに進んでいくとタイ寺がある。敷地がとこりわけ広く、建物も立派だ。ここにも宿坊があるのだが、タイ人しか泊めないらしい。それは残念。とても快適そうであるのだが。

    タイ寺

    このタイ寺の正面にも同様にタイ様式の建物があるが、それはクリニックであった。各国の寺は社会事業にも熱心なようだが、タイ寺はこのクリニック、そして私が宿泊しているベトナムの寺はタイのクリニックの少し先で、学校を運営している。

    タイ寺が運営するクリニック

    ベトナム寺が運営する学校

    もっと先に進んでいこう。右手にインペリアルホテルという高級ホテルがあり、立ち寄ってみる。昼にはバイキングがあるとのこと。600Rsだそうだ。

    さらに行くと右手に仏塔が見えたので集落の中に入っていくと入口があったが、忙しいのかお勤めの最終なのか、閉ざされたゲートには誰も出てこなかった。チベット仏教系の寺院ではあるようだ。仏跡では往々にしていくつものチベット仏教のお寺がある。インドで根を下ろして活動している様々な宗派が競うようにして、こうした場所にお寺を開のであろう。

    最後にラーマーバール・ストゥーパを訪れた。ここは仏陀が荼毘に付されたとされるところである。今回はいくつかの仏蹟を回ったが、昔はこうしたところに興味がなかったものの、今になってから来ると、なかなか味わいがあっていいのものだ。

    仏陀が荼毘に付されたとされる場所

    サトウキビジュース屋さんは子供たちの人気者
  • クシーナガル滞在1

    クシーナガル滞在1

    ネパール国境からゴーラクプルに到着。駅近くのバスの発着場クシーナガルまでは1時間半ほど。本日の宿泊先は、Linh–Son Vietnamese Chinese Templeというベトナム寺院の宿坊。

    ベトナム寺院のお堂

    寄進者の名前のようだ。
    寺院の広報用ポスター
    ベトナム寺院の宿坊

    ここの尼さんとしばらく話したが、すでに27年間もインドとネパールで修行を続けており、普段はルンビニーの同名のお寺にいることが多いのだとか。昨日まで滞在していたルンビニーで、そのお寺の前を通りかかってはいたのだが門が閉ざされていた。尼さんは、「声かければ開けてくれたのに」と言うが、現在ルンビニーを訪れる人が少ないため、あまり開けていないことが多いのだそうだが、そこでも宿泊は可能であるとのこと。

    隣には大きなストゥーパがそびえるミャンマー寺院があり、食べ物はパッとしないクシーナガルで、なかなか美味しいものにありつけるのはその脇にあるYama Caféというベンガル人が経営するお店。クシーナガルに着いたときにはすでに夕方になっていたので、ここで大変遅い昼食を取る。

    ベトナム寺院の隣にはミャンマー寺院がある。

    ミャンマー寺院入口脇にあるYama Cafe
    Yama Cafeで午後の大変遅い時間帯に「昼食」

    そのわずか2時間後にはベトナム寺で頼んだ夕食を僧侶や尼僧と一緒にいただく。ベトナム人ではない僧侶も一名いたが、この人はヒマーチャルのキンナウル地方から来たとのこと。キンナウルには色白で目鼻立ちのはっきりしたアーリア系の人々が暮らす地域もあるが、この人は欧州人のような風貌であった。

    食事はベトナム風の野菜炒めと野菜スープ、そしてご飯、ダールとチーズ、チャパーティーという、越印折衷の菜食料理。地元のインド人の世話人が調理している。尼さんは長年のインド在住の間、これまで幾多の寺や寺関係施設の建設を手掛けたとのこと。小柄で笑みを絶やさないが、とても芯が強くて精力的な人なのだろう。

    この人が歩んできた人生については、マレーシアのメディアで取り上げられている。
    A Vietnamese nun lives out her dream to help the destitute in India (thestar.com)

    地縁もないところで大きなものを造り、それを維持発展させていく外国人僧侶たちには、無一物の行者が持ち合わせない、有能な営業マン的な感覚と政治的能力が求められる。尼さんがここに来た時には小さなお堂がひとつあるだけであったとのことで、「無の中から造り出さなければならなかった」とのことだが、それを自慢することなく、いついつにこの本堂が出来て、宿泊棟が完成したのは何年前のことで、と実に楽しそうに話してくれる。この寺院はクシーナガルで経済的に恵まれない家庭の子供たちのための学校も運営している。

    境内に漢字で書かれた中国人名の寄進者の名前があったり、寺院の英文名に「Linh–Son Vietnamese Chinese Temple」とあることから、ひょっとすると台湾に移住したベトナム華僑(ベトナム戦争中や南ベトナム陥落後に台湾に移住した華人は多い)と関連があるのかと思ったりしたのだが、そうではないとのこと。

    「香港の篤志家の方と知り合う機会を得てね、その方の寄進でお寺を建てることが出来たのよ。その後にも台湾の方とか中国系の方々とのご縁もあったから、Chineseという名前も付けているの。」

    インドで暮らしている人たちにもいろいろあり、仏教界の人々のそれはまた俗世の人たちのそれと違うようでいて、実際にはそうした社会生活、経済生活が必要であり、寺院の維持発展のためにも、俗世と仏門の間の境界は限りなく低いのかもしれない。

    上階には法要等を営むことの出来る広いスペースがあり、それと隣り合わせて尼さんの執務室があり、規模は大きくないが、きちんと整頓されていて、いかにもデキる人のオフィスという印象。

    尼さんよりもひと回り以上年下と思われる僧侶のほうは、ここに来て2年半とのことだが、その前はアメリカにいたとのこと。家族と一緒で、仕事をしていたということだが、それでなぜ今ここにいるのかについては、さすがに尋ねることはできない。

  • 再びネパール・インド国境へ

    再びネパール・インド国境へ

    このあたりの景色はまったくヒンドゥスターン平原と同じだ。霧が出ているのは前日の朝もそうであったが、薄いところもあればいきなり濃くなっているところもある。霧というものはいつもそうだが、かなり濃淡がある。ある地点では道路脇の様子さえもよく見えなかったり、しばらく見通しが良くなったりする。

    走るクルマのないガラガラの道をひた進む。ときたま通り過ぎるのはバイクのみ。中央政府が制定した新憲法が、マデースィー(平原部に暮らすインド系の人たちに不利な内容であることから、これに反対する地元政党がオーガナイズしたチャッカージャーム(交通封鎖)によるものである。

    バンド(ゼネスト)、ハルタール(組織的怠業)、チャッカージャーム(交通封鎖)といった抗議活動はインド譲りのものだが、イギリス植民地時代末期のインドにおける不服従運動で盛んに展開された手法。

    もう何カ月もバスの往来が停止しているため、バススタンドはただの広場にしか見えず、ここがそうだと言われなければ気付かないだろう。

    しばらく進むとトラックが何台か見えてきた。時間を限って、通行が許された工業地帯へ原料を運んだり、製品を搬出したりということがなされているとのこと。やがて無数のトラックの群れとなり、しばし渋滞。先のほうで検問でもあるらしい。なんとかある程度の供給と搬出を確保するほど「政治力」のある企業はまだいいが、そうでないところではもう4カ月も何もできないことになる。ひどい話である。

    通行が許される限られた時間に集中するトラックの群れ

    さらに進んでいくとバイラワに至る。これまでの閑散とした道路とはまったく異なり、クルマがかなり多く、「普通の世界に戻ってきた」という気がする。だが沿道では大きなポリタンでガソリンを商う人たちがいる。インドによるブロッケードによる影響だ。しかしながら、こうした物資の不足とネパール独自の会社の広告があることを除けば、ここがインドと言ってもわからないだろう。

    バイラワーに入った。早朝なので交通量は少ないが、ここまで来るとクルマは普通に走行している。

    国境の町、ベールヒヤーに到着した。ここで朝食のためにおそらくここで一番いい宿泊施設のホテル・アーカーシュ(といっても粗末なものだが)の食堂でトースト、オムレツとチャーイの朝食を頼む。併設されている両替所で、使い残したネパールルピーからインドルピーに交換する。

    国境の町ベールヒヤーで朝食

    ネパール側のイミグレーションには職員以外は誰もおらず、出国手続きは即座に完了。ネパール人とインド人はフリーパスなので、ここに立ち寄るのは私たちのような第三国の人間だけだ。

    国境のネパール側、ベールヒヤーの町

    もう四半世紀以上も前のことになるのだが、初めての海外旅行で、同行した二人の友人たちと、インド側からネパール側に越えたのはこの国境であった。少し町が大きくなったり、建物が増えたりしているのかもしれないが、当時もこんな感じのゴミゴミした町並みであったように思う。確か国境を越えてネパール側のイミグレーションのすぐ脇のゲストハウスに宿泊したと記憶している。翌日の朝に出発して午後にポカラに着いた。途中で見え始めたヒマラヤの雪を被った峰に心躍ったことを思いだす。

    ネパール側イミグレーションでの手続を終えた。ゲートの向こうはインド。

    閑散たる状況は、国境を徒歩で越えた先のインド側の町、スナウリーでも同様だ。シーズンなのにこの状態は異常だ。昨年の大地震、同じく昨年の雨季後半から続く憲法問題による政治問題で、ネパール最大の産業である観光業が、いかに大きな打撃を受けているかということは想像に難くない。

    インド側に入ると、これまた粗末な町並みだが、ネパール側よりも人が多いようだ。またネパール側のように近隣から出てきた山の民の姿がないので、やはり違う国に来たという思いがする。

    ネパール側でもヒンディーは通じるのだが、やはりそこの言葉ではないため、マデースィーの人たちを除けば、当たり前の顔をしてそれで話しかけるのはちょっと気が引けるような思いがする。インド人ではない、明らかに他国の私のような者が、ヒンディーで話しかけると、一瞬戸惑うような素振りを見せる人は少なくないようであった。もちろんそうした人たちでも、程度の差こそあれ、ちゃんと理解するし、にこやかに返事もしてくれるとはいえ。

    インド側に入ると、そういうムードはまったく無くなり、ごく当然のこととしてコミュニケーションできるのだから、やはり「そこに国境がある」だけで、その両側の雰囲気は自然と大きく異なるものとなる。

    国境のインド側に入ると、ブロッケードのため、長蛇の列となっているトラックの果てしない車列が続いている。

    インド側の町スナウリーでは、インドによるネパールに対する封鎖により留め置かれているトラックの長い車列を目にする。

    イミグレーションの少し先に進むと、バスの発着場がある。私が乗ったバスの終着地はバナーラス。私はゴーラクプルで途中下車する。州営のバスなので、時間になるとさっさと出発してくれる。私営のように一杯になるまで客集めするわけではないのがいい。

    バスの終着地はバナーラス。向かって右のヘッドライトの上の黄色地に赤文字の表示で「ワーラーナスィー(バナーラスとも言う)とある。

    前を走るのは、私の乗るバナーラス行きと同時に出発したバス。これもまたUP州営バスで、後部に「スナウリーからデリー行き」とヒンディーで書かれている。

    少々驚いたのだが、ここからデリーに向かうバスもある。これまたこの州の州営バスである。直角シートで窮屈な車内とオンボロ車両。これは20数年前とちっとも変わらないが、こんなバスでデリーまで行くのはさぞ疲れることだろう。

    インド側に入ると、景色も大きくなったように感じるが、これは気のせいに違いない。バスは出発してひた走る。途中一度休憩が入った。最終的にゴーラクプルまでは、3時間半。ゴーラクプル郊外に入ってから渋滞がひどかったり、道路がこれまたひどかったりで、1時間はそれで費やされている。乗合ジープだと2時間程度というので、それを利用するのがベターだろう。

  • ルンビニー滞在2

    ルンビニー滞在2

    ルンビニーで数多い各国の仏教寺院の中で、とりわけ気入ったものがみっつある。まずは大きな中華寺。私が入るときに、大きな荷物をゴロゴロさせて出てくる若い旅行者がいた。おそらく中国人だろう。こ本堂に向かって右手に宿坊を含むと思われる事務棟らしき建物がある。とてもきれいで、空調の室外機がいくつも見えるため、真夏でも快適に過ごせるにことと思う。

    最近の中国の勢いを示しているかのようであるとともに、中国にとってもこの国で中国の威光を見せつけるために、資金をふんだんに注いでいるのではなかろうか。ここで、中国の宗教団体が政府の意図とは無関係に行動しているとは思えないので、多分に政府の息がかかり、意図に従う組織ではないかとも思ったりする。それにしてもこの中国寺院は飛び抜けて美しく豪華だ。

    大乗仏教で、日本に近いところから来たものなので、やはり私たちに馴染みの深い雰囲気がある。お堂に置かれた木魚も日本のそれとそっくりだ。僧侶に尋ねてみると中国の深圳から来ているとのこと。僧侶は8名いるそうだ。この方といろいろ話をしてみたかったのだが、英語もヒンディーも理解せず、私の片言の中国語ではせいぜいこのくらいが限界であり、ちょっと残念

    大人に引率された袈裟を来た僧籍の子供たちの集団がどやどやと入ってくる。聞けば、ムスタンから来たとのこと。スマホやタブレットを手にした年かさの者もあり、盛んに写真を撮っている。ちょっと質問すると複数の子たちから元気な返事が返ってくる。ムスタンの人と声交わすのは、今回のボドガヤー以来、私にとって2回目だ。よく知らないが案外社交的な気質なのかもしれない。

    ムスタンから来た少年僧たちの集団
    ムスタンのやんちゃな小坊主たち

    もうひとつは、Gedan Internationalという、欧州で活動するチベット仏教団体が建てたもの。スイス、オーストリア、ドイツ、オランダ、フランス、ハンガリー、チェコ等で活動しているらしい。近年、欧州ではチベット経由の仏教徒となる人が少なくないようだが、その背景にはこのように欧州で活動する教団が増えていることがある。

    アメリカでもかつては禅が東洋の仏教の代表格であったが、今はチベット仏教のプレゼンスが高まっているという。ダライラマが長年続けてきた積極的な外遊により、チベットへの関心が高まったことがあると言えるだろう。
    さてこの寺だが、建物が「蔵欧折衷」になっている。「グレコ・チベット建築」とでも形容できるような、不思議なものだ。僧坊も洋館になっているし、ご本尊にあたるところに通常の仏像があるのではなく、まさにキリストの降誕の図を仏教に置き換えた形で、ブッダ誕生のそれをフィギュアで表現したものが祭られている。

    こんな風変りなチベット寺院はこれまで見たことがなかった。敷地内にふたつの大きなチョルテンがあることを除けば、少なくとも外観からはこれがチベット仏教寺院とは気が付かないだろう。

    ゴータマ・シッダールタ誕生の図。クリスチャンの「キリスト生誕」と似た構図になっている。

    そして最後は、ベトナム寺院を訪問。中国風にひねりをふたつもみっつも加えたような意匠が面白い。中国寺院に曲線を多用したような、独自の味わいは、まさにベトナムらしいところだ。家具などでもそういう部分がある。そしてこういう伝統的なものでは漢字が多用されるのも特徴。実際に読むことができる人はほとんどいなくても、元々は漢字の国であるだけに、伝統として大切にしているのだろう。境内にしつらえてある庭園の橋もまた、ずいぶん曲線的に盛り上がるベトナム式のもので、これまた目を楽しませてくれる。

  • ルンビニー滞在1

    ルンビニー滞在1

    ルンビニーで宿に荷物を置いてから、最初に向かったのは敷地内のチベット仏教寺院、そしてその裏手にあるマーヤーデーヴィ―寺院。ここは寺院というよりも、釈尊が生まれた場所の遺構が保存されているところで、こうしたいい状態でちゃんと残っているというのは感動的でさえある。これは、マーヤーデーヴィー寺院の白い壁の建物の中に保存されており、風雨で劣化しないようになっている。

    マーヤーデーヴィー寺院

    遺構もきちんと管理されている。

    日本、中国、東南アジア他の仏教国の古刹、名刹はもとより、文化や伝統、価値観や行動様式など、仏教が発生していなかったら、現在とまったく異なるものとなっていたわけで、まさにここからそれが始まったということになる。実にありがたいものだ。

    世界遺産登録されている遺跡であるが、ここでは2013年には紀元前6世紀のものとみられる建築物の遺構が見つかっており、誕生した時期に様々な説がある釈尊だが、その生誕年について、より古いものであるとする説に有力な手掛かりを与えることになる可能性がある。

    釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見(AFP)
    http://www.afpbb.com/articles/-/3003957

    マーヤーデーヴィー寺院の裏手には、沐浴池とタルチョが沢山はためく木があり、思索にふけるにちょうど良い空間を提供している。池のほとりで、タイの僧侶と信徒たちが読経を上げていたが、同じく巡礼で訪れていたブータン人団体の男性が、何を思ったのかお経を唱える彼らに、うやうやしくお布施を渡していた。

    読経するタイの人たちにお布施を渡すブータン人。でもなぜ??

    遺跡公園自体はまだ完成しているわけではないようだが、それでもずいぶん大掛かりで立派なものを作ったものだ。2008年だかにネパール訪問した際、中国が大掛かりな整備に乗り出すという記事を読んだことがあるが、これがそうなのだろうか。まさに中国さまさまである。

    ただしいけないのは、自転車で回らないとあまりに広大すぎて大変なのだが、マーヤーデーヴィー寺院がある側から長い通路を渡って、各国の寺院が建ち並ぶエリアへの移動は、徒歩のみで可能であること。自転車の場合は一度敷地の外に出て、別のゲートから入りなおす必要があることだ。まだすっかり完成したわけではないので、今後このあたりは改善されていくことだろう。

    天上天下唯我独尊

    日本人観光客も多いことと思うが、ボードガヤーと違って日本語が上手な怪しい奴がつきまとうようなことはなく、実に快適に周遊することができる。

    各国から出ている寺院見学するのもなかなかいい。ボードガヤーで感じたように、これらはそれぞれ自国の様式を模倣したインド建材によるものでしかないのだが、それでもこうした形でいろいろ工夫して寺院が出されているということは興味深いものである。

    広大な敷地内に、韓国寺院、スリランカ寺院、ミャンマー寺院、ネパール寺院、様々な宗派等のチベット仏教寺院その他が点在しているが、とりわけタイ寺院の洒落たデザインと美しい祭壇が目に鮮やかだ。

    韓国寺院
    ミャンマー寺院
    ネパール寺院
    チベット仏教系の寺院はかなり多い
    これもチベット仏教系の寺院
    チベット仏教系寺院のマニ車
    タイ寺院
    タイ寺院の堂内

    遺跡公園の最も北にある日本山妙法寺の仏塔とお堂。藤井日達という僧侶が始めた教団で、ストイックさで知られるが、日本ではあまりその名を耳にすることはない。やはり海外での存在感は実に大きく、建立する建物も壮大だ。基本的に活動先の国での「独立採算」でやっていると聞くので、僧侶たちは厳格な修行者であるとともに、大変優れた経営者であるという話も耳にする。現地政財界とのパイプも太いというが、いったいどうやって集金調達をしているのか、いつも不思議に思う。

    日本山妙法寺の仏塔

    ここからは湿原の景色が眺められる。仏塔の上から眺めるとさらに良い。「周囲は鶴の保護区となっており、これらを無料で見ることができる」とガイドブックに書かれているが。ちょうどシーズンであるはずだが。私は視力が悪いためよく見えなかった。

    日本山妙法寺のお堂も拝見する。ボードガヤーのそれと違って、こちらはこじんまりしているが、やはり日本の教団のお寺らしく、ずいぶんキレイにしてあるものだ。勤行の時間帯も書かれており、誰でも歓迎とある。

    日本山妙法寺のお堂

    遺跡公園敷地内にはまだ森林が残っている。かつてタライ地域は深い森に包まれており、北インドから人々が大量に移住したことにより、広大な耕作地に変貌したというが、その森林であったころにはこんな風景が続いていたのではないか?と思ったりする。しかしこういう場所なので、冬で気温が低いのに、蚊が非常に多い。アッサムもそうであった。これが気温の高い時期であれば、蚊の大群に大変悩まされることだろう。

    かつてのタライ地域はこんな森が果てしなく続いていたのだろうか。

    この日の「愛車」
    自転車で走り回っての疲れは、Red Bullで癒す。かつてはタイの肉体労働者の「リポビタ」、いまや国際的なエナジードリンクのブランド
    遺跡公園の外にあるが大掛かりな工事が進行中。日本の神社の鳥居みたいな形だが、周囲に尋ねる相手がいなかったため正体不明・・・
  • クリステンさん

    ルンビニーの華人宿での夕食は、青椒牛肉とご飯を注文。外の食堂よりもずっと高いのだが、やはりここの食事は本格中華なので大変美味しい。現在のネパールの状況を反映して、宿泊客は私を含めてふたりだけ。

    もうひとりの宿泊客は年配のアジア系の女性旅行者。今朝がた一度顔を合わせているのだが、そのときはてっきりここの経営者家族のひとりかと思っていたが、夕食の際に同席して話をして、日系アメリカ人であることがわかった。

    1950年代初頭にハワイで生まれた、クリステンという名前の彼女は、中国人、フィリピン人の血も引いているという。出自がどこであろうと、自由に恋愛して結婚もするのがハワイ流なのだと彼女は笑う。

    もっともハワイで過ごした時間は決して長くなく、ほどなく本土に移住。ここで、第二次世界大戦中に日系人が受けた苦しみを知っている両親は、彼女を徹底的にアメリカ人化することを心に決めたのだとか。家庭の中では英語のみを用い、アジア系コミュニティとも距離を置いて、アメリカ式のライフスタイルを貫いたのだという。

    「まだ戦時中の記憶が生々しくて、日系人への感情も悪かったの。私たちが、独自のカラーで生活していくことができるような雰囲気ではなかったから。」と彼女は言う。

    おそらく本人も努力家であったためだろう。彼女はUCLAバークレー校に入学することで、両親の期待に応えた。当時のアメリカの有名大学では、アジア系はもちろんのこと、黒人系の人さえもほとんど見かけなかったとのことだ。

    クリステンさんは、大学を卒業した後、アメリカと欧州で働き、しばらく前に仕事を引退して、悠々自適の暮らしをしているそうだが、今の時代のアメリカでは、出自が日本の人たちも中国その他の国々から渡ってきた人たちも、それぞれの背景にある言葉や文化をそれなりに守りながら生活していることについて、「いい時代になったものだ」とつくづく感じているとのこと。

    「私の場合は、そういう時代だったから、両親の方針は正しかったと思うし、いい教育を受ける機会を与えてくれたことにとても感謝しているの。おかげで満足のいく暮らしをしてきたし、リタイアした今だって、こうして人生を楽しむことが出来ているわけよね。本当にありがたいことよ。だけども私は日系人だし、中華系でもあるし、フィリピンから来た先祖もあるのに、それらのどこの言葉にも文化にもまったく通じていないことは、やっぱり残念に思うのよねぇ。」

    どこからやってきた人も、世代が違う人も「同じ旅人」。普段まったく接点がなく、旅先のこうした機会にたまたま居場所を同じくしたがゆえに、こうした話を本人から聞くことが出来るのも、自由気ままな一人旅の素敵なところだと私は常々思う。