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カテゴリー: politics

  • コールカーターの通りの名前

    ベトナムを訪問した際、とうの昔に「ホーチミン市」と改名したにも関わらず、誰もが「サイゴン」と呼び、文字でもそう書かれていた。ベトナムの独立の父として尊敬されている「ホーチミン」だが、政府がそれを市の名前にしようとしても、公式文書以外ではなかなか定着しないのだ。

    同様のことがインドでもある。ストリートの名前、地名が政府によって改称されても、それが本当に市民の間で定着するかどうかは別の話。

    たとえばコールカーターを例に挙げてみても、今でも英語で言及する際には「カルカッタ」と呼ぶ人は少なくないが、混乱するのはストリートの名前だ。

    コールカーターでは、ストリートの名前は同じ通りについてふたつあることが多いと思って良いだろう。なぜならば英国人に因んで付けられた名前はインドの偉人の名前に置き換えられて現地化が図られているし、そうでない場合でも変更されていることが多い。

    訪問者にとって面倒なのは、政府関係機関が印刷した地図(観光局でくれる地図を含む)に記されたストリートの名前がまったく世の中に浸透しておらず、植民地時代の名前で広く知られていることが多いことだ。また新聞等メディアや出版社から出た刊行物でさえも市民が普段使っている通称(=植民地時代の名称)で記すことが多いからだ。

    代表的な通りの名前でもChowringhee StreetをJawaharlal Nehru Roadなどと言ったら、「ん?」という顔をされるし、Park StreetのことをMother Teresa Saraniと言えば、一瞬間をおいて「もしかしてPark Streetのことかね」と言われるかもしれない。あるいは理解してくれない人もいるだろう。

    「Ballygunge Road」をタクシー運転手にAshutosh Chowdhury Avenueと告げたら、彼は「どこだそりゃ?」となるだろう。サダルストリート界隈ではFree School StreetをMirza Galib Streetと呼べば、首をかしげて「Free Shool Streetと言う」と訂正されるだろう。KYD STREETに至ってはDr. M. Ishaque Steetなんて呼んだら完全にアウトだ。おそらく誰も理解してくれない。政府が勝手に変えた名称ではなく、「元々こういう名前なのだ」として人々が知っている名前が堂々とまかり通るのだ。これは企業や商店などの所在地の表記においても同様で、普段市民の皆さんがなれ親しんでいるほうの表記で書いてある。

    そんな状況なので、政府の命名による不人気なほうの名称はいつまでたっても浸透しない。

    政府関係の機関ならば、政府の命名したもので表記しているかと言えば、そうではないのは、たとえば地下鉄の駅出口の表記を見ればわかるだろう。「なんとかストリートはこちら」というような案内版は市民の間で通用しているほうで表記されている。そうでないと表示する意味がないからであろう。もちろん駅名も同様で、先述の「Park Street」の名前の付いたメトロの駅がある。コールカーターでは政府による改名を拒絶するかのように、古い名前が多く現役として使われているのだが、インド全土でそうというわけではなく、むしろ改名されたら、そちらのほうが次第に優勢となるケースが多いだろう。

    だが不思議なのは、市民が「何が何でも昔ながらの名称」にこだわっているわけではなく、新しい名称のほうが通りが良いものもある。例えばBBD Bagh (旧称Dalhousie Squair) やChittaranjan Avenue (旧称Central Avenue)のような例もあるからだ。

    旧名が英国の特定の人物の名前が冠されている場合、対抗するようにインドの偉人、とりわけ地域ゆかりの人物の名前を付ける場合が多いが、デリーのQueens WayがJan Path(人民路)となったように、独立後の民主主義インドを象徴するような改名もあった。

    傑作はベトナム戦争時期に、当時ソビエトブロックにいたインドが示した北ベトナムへの連帯感だろう。コールカーターでは、アメリカ領事館が位置するHarrington StreetをHo Chi Minh Saraniに変更して、アメリカを激怒させた。当然、アメリカは強硬に抗議したようだが、「偶然による一致である」と涼しい顔であったと聞く。

  • コロナ禍の世界をインドが救うか

    パンデミック下の世界に対してインドが大きな貢献をすることになるかもしれない。

    いわゆる「クロロキン」として知られているマラリアの治療・予防薬が、新型コロナウイルス感染症の治療にも応用できるかもしれないからだ。

    なぜそこで「インドが」であるのかと言えば、毎年1,500万人もの人々が罹患する「マラリア大国」であるのだが、同時に世界有数の工業国でもあるインドは製薬の分野でも大きな存在感がある。おそらくクロロキンの生産、備蓄ともに世界一である。

    しかしながら、新型コロナウイルス感染症蔓延に伴い、自国消費が急拡大することが予想されるため、この薬品の輸出を一時的に禁止していた。

    そのため今月初めにアメリカのトランプ大統領がイントにクロロキンを大量に提供するようにと、半ば脅しも含めた依頼をしており、これに対してインドはアメリカに貸しを作る形で了承している。

    すると当然ながら他国からも同様のリクエストが相次ぐわけで、突如としてインドの「クロロキン外交」が始まったと言える。インドはこれまでの方針から方向転換して、国外へのクロロキン輸出を許可することを明らかにしている。国内の製材各社に対して、インド政府は大増産の発注をしている。

    果たして、本当にクロロキンが新型コロナウイルス感染症治療に対して顕著な効果を示すことができるのかはまた未知数だが、既存の医薬品が高い効果を示し、まさに「インドが世界を救う」ことを期待したい。

    Hydroxychloroquine: India agrees to release drug after Trump retaliation threat (BBC NEWS)

    Why the world is hungry for a coronavirus drug made in India (DW)

    India ready to help its friends in crisis: Modi (the pioneer)

  • デリーの暴動

    新型コロナ騒動に影に隠れて、あまり国際的に報じられていないが、1985年以来、デリーにおける最大規模と言われる暴動が起きた。先月下旬のことである。

    1985年の暴動とは、言うまでもないが当時のインディラー・ガーンディーが自宅でスィク教徒の護衛に射殺された事件への反応として発生した大規模な反スィク教徒暴動のこと。犠牲者を沢山出したスィクコミュニティの中で、この事件をきっかけとして「信仰はスィクだが散髪し、ひげも剃る」という人たちが増えたとも言う。

    デリー北東部、主にヤムナー河の東側にあるカジューリー・カース、ゴーグルプリー、マウジプル、ジョーティ・ナガル、カルダムプリーといったあたりが、その暴力の吹きすさぶ地となった。暴徒により、居住しているムスリムの人々への大がかりな攻撃が行われた。
    CAA(改定市民法)、NRC(国民登録簿)の問題と反対運動は、当初ヒンドゥー至上主義的な政策vs世俗主義の対立であったが、いつの間にかヒンドゥーvsムスリムというコミュナルな対立にすり替えられてしまったかのようだ。

    この暴動の際、先のデリー準州議会選挙勝利により、2期続いて政権を担うことになった庶民党(AAP)のイスラーム教徒の活動家が、ムスリム側の暴徒の一味として、自宅にたくさんの武器を隠匿していたとして逮捕された。

    これに対して党主のアルヴィンド・ケージリーワル他の指導部は関与を否定するとともに対応に追われたが、この「活動家」とは、比較的最近になってから庶民党に加わったらしく、対立する陣営から送り込まれた工作活動家では?という疑惑がある。

    こうした暴動の際、「事前にターゲットとなるムスリム所有の建物に目印が記されていた」とか「暴徒を率いるリーダーらしき者に地元の協力者が『この店はムスリム』、『こちらの店はヒンドゥー』」と案内していたとかいう話がまことしやかに流れるが、真偽のほどはよくわからない。

    個々の民家の場合は掲げられている標札の名前で居住者の信仰は判るし、地域的な属性さえも明らか(主にUPからパンジャーブにかけてのジャート、ベンガーリーのムスリム、ヒマーチャルのブラーフマン等々)なことが少なくないが、ビルや商店となると必ずしもそうではない。

    そのため、明らかに特定のコミュニティがターゲットとするため事前工作や協力者による誘導があったとすれば、そうした選別は可能となるだろう。

    リンク先記事中の一番下に掲載されている写真を見ていただきたい。
    卍の印がついたヒンドゥーの家は無事であるらしいことを示しているのは、報道者の意図だろう。おそらくこの現場では、明白な選別が行われていたことを伝えたいのだと推測できる。

    こうした暴動の最中にも、襲撃されそうになっていたムスリムの人たちを大勢、安全なエリアに避難させたというスィクの若者、近隣のムスリム家族を自宅にかくまったというヒンドゥー紳士などの話もテレビニュースで伝えられていたのは幸いではあった。

    今回の暴動について、政治の関与についても言われているが、思い出すのはちょうど18年前の同じ時期に起きたグジャラート州での暴動。当時、同州のトップとその右腕は今の中央政府のそれとまったく同じコンビであった。これは単なる偶然か、それとも・・・。

    Delhi’s shame (INDIA TODAY)

  • 大王の叛乱

    大王の叛乱

    インディア・トゥディ(ヒンディー語版)の3月25日号がタブレットに配信された。今号の目玉特集は、表紙にもなっているが新型コロナウイルスの感染症蔓延が与える経済への打撃。これは誰もが気になるところだ。

    表紙にもなっている「コロナによる深刻な影響」

    そしてもうひとつは、「大王の叛乱」と題して、グワリヤル(日本のガイドブックなどでは「グワリオール」と表記する例が多い)王国の「世が世なら」の「王子」いや父君はすでに他界しているため「王」として君臨していたはずのジョーティラーディティャ・スィンディヤーが長年所属してきた国民会議派を脱退、翌日にBJPに入党したニュースが流れたのは先日のこと。

    大王の叛乱

    インドのテレビ番組「Aajtak」で、そのニュースを見てひっくり返りそうになった。
    現執行部と折り合いがよくないことは聞いてはいたものの、こういう人が脱退するようでは、国民会議派はもう終わりという気がする。

    さて、王家は王家でも、なぜこの人が「大王」と表現されるのかという部分には、若干の説明が必要かもしれない。

    英領インド時代、儀礼の号砲数が厳格に定められており、たとえばインド皇帝、つまり英国国王に対する号砲は101発と定められていた。
    101というのは、さすがに別格で、王妃やらその他の王族はガクッと減ってインド総督と同じ31発。そして他国の王、インド国政府の中枢の役職にある者たちなどが、その格に応じての21発、19、17、15、13、11・・・と奇数が続く。

    グワリヤル王国を率いたマラーターの系譜のスィンディヤー家は、まさにその21発待遇で、同格の王家は他にハイデラバードのニザーム、マイソール王国など、他に四つしかなかった。英領インドの藩王国で最も高い格付けが21発なのだ。
    ラージプートのジャイプルやウダイプルなどの王家は19発、ジャイサルメールは17発なので、グワリヤルのスィンディヤー家には及ばない。まさにそうした格付けでもインドのラージャーの中でも最高レベル、正真正銘の「マハーラージ」(大王)なのだ。ただのラージャー(王)ではない。

    王家の出自で政界に出た人、どこかの王家の血を引く人は、ままあるのだが、この人は何しろ英領期に21発号砲待遇の王家で、しかも嫡男でスィンディヤー家の当主。後述するが「マハーラージャー」のタイトルを持っている。他の「王家出身者たち」とは、出自の面で役者が違う。
    元国会議員で、昨年の総選挙で落選したため、現在は公職にはないが、今年予定されているMP州議会選挙に出馬予定だ。

    先に「王として君臨していたはず」と書いたが、彼はスィンディヤー家の当主であるため、今のインドの社会において公式なものではなくプライベートなタイトルということにはなるが、父君の死(父も国民会議派の議員。交通事故で亡くなった)の後にこれを継いで、もう20年近く前に「戴冠式」を済ませた「現役のマハーラージャー(大王)」でもある。
    それはそうと、「大王」がBJPに入党して「駅のチャーイ売りのせがれ」であったモーディーの「足塵を拝する」(目上の人に対するインド式の挨拶)のだから、今のインドというのは実に民主的である。

    この関係でインディア・トゥデイの英語版ウェブ上での記事はこちら。
    Scindia’s Saffron Gamble (INDIA TODAY)

  • 映画「ホテル・ムンバイ」

    映画「ホテル・ムンバイ」

    現在日本で公開中の「ホテル・ムンバイ」を観た。2008年11月にムンバイで起きた同時多発テロ事件について、犯行現場となったいくつかのロケーションのうち、タージマハル・ホテルを舞台に主にホテルマンたちの視点からストーリーが展開していく。

    この作品は2018年に公開されたものだが、ホテルマンのひとりで主人公であるアルジュン役で出演しているのは、2008年公開の「スラムドッグ・ミリオネア」の少年ジャマール役だったデーヴ・パテールだと言えば、「ああ、彼ね」と覚えている人は多いだろう。
    大変重たい内容の作品であり、消化しきるにはしばらく時間がかかりそうだ。

    平日の昼間なのに満員であったことから、この作品への注目度はとても高いことがうかがえる。究極の危機の中で、これでもか!とハードなストーリーが展開していき、心臓への圧迫感が大変強いものであった。

    お客のために危険を省みず、これまで体験したこともない過酷な職務にあたるホテルマンたちのプロフェッショナリズムが描かれている素晴らしい作品だ。(ネタバレになるので詳述はしないが、事実に即したシナリオ)

    同時にこれを予備知識なしに観た人たち(事件背景はもとよりムスリムに関する予備知識も)の間で、コミュナルなヘイト感情を掻き立てるのではないかとも感じられるもので、こうした特定のコミュニティ、思想を背景とした事件に係る作品作りというのは、慎重な配慮(主人公に準じる配役で危機一髪のところで最後に命だけは助かったザーラはその名のとおりムスリム女性であることなど)をしても、なおかつ難しいものであると感じる。
    テロリストたちを送り込んだパキスタンを拠点とする過激派組織ラシュカレトイバの名前を聞いたことはあっても具体的にどういう組織なのかを知る人は、日本の観衆(欧米でも)少ないだろう。

    映画の中でも描かれていたが、進行中のテロ事件についてメディアが逐一報じるのもいろいろ問題があると指摘された当時を思い出した。当時、私は日本でもネットで動画配信されるインドのTvニュースで逐一観ていたが、同様にパキスタンでテロ組織もそれを見ながら携帯電話で犯行グループへ指示していたことが判明したためだ。

    このあたりについては、報道の自由との兼ね合いで難しい。事件から11年が経過し、通信環境やガジェットの性能なども飛躍的に向上している。この部分については当時よりも深刻な状況になっているとも言えるだろう。

    親子(同作品は15歳以上という指定がなされている)や恋人同士で観に行くような作品ではないが、ぜひとも鑑賞をお勧めしたい秀作だ。

  • ダマン2 飲酒ツーリズム

    ダマン2 飲酒ツーリズム

    海洋性気候で高温多湿のダマン。暑さでフッと気が遠くなりそうなのでバーに入ると、冷たく冷えたびーるが迎えてくれた。この時期、ふんだんに酒類があるダマンだったからよかったものの、うっかりグジャラート州海岸の町を訪れたら逃げ場がないことを実感。

    現在インド首相のモーディー氏の御膝元だけあり、制度を整えて外資誘致に積極的なグジャラート州だが、禁酒州なので自国社員の飲みニュケーション上の障害、そして福利厚生上の問題から二の足を踏む日系企業は少なくないと聞く。飲む、飲まないは個人の問題だが、州法で一律禁止とするのは人権にかかわる由々しき問題だと私は考えている。

    禁酒のグジャラート州から中央政府直轄地ダマンに入った途端、酒屋やバーが沢山目につく。中央政府直轄地という扱いは旧仏領ポンディチェリーも同様で、ゴアも1987年に州に昇格するまでは、この扱いであった。

    英国以外の旧外国領であった地域について、背景となる法制度、文化習慣、教育など他の地域と異なるため、近隣州に編入するのではなく、中央政府が現地の特性を考慮したうえで柔軟な対応をしつつ面倒を見るというもの。

    1950年代にインドに返還されたポンディチェリー、1961年クリスマスに大規模な軍事作戦でゴアとともに奪還したダマンとディーウ。さすがにインド復帰後優に半世紀以上経過しているので、もういい加減こうした経過措置を外しても良いようなものだが、こうした措置がこれほど長く続くと独自の行政区としてのアイデンティティー、積み上げてきた歴史も出来上がってしまうので、近隣州への統合は今後もないだろう。

    そのダマンとディーウだが、1990年代以降、主にインド国内の保養地、とりわけ隣接するグジャラート州とマハーラーシュトラ州からの観光客を大きく引きつけて、それ以前はほとんど無に近かった観光業が振興した。負うところの大半は、税率が極端に低く、結果として安価な酒である。つまり飲酒ツーリズムだ。ダマンの繁華街の食堂、レストランの大半は飲み屋でもある状態の背景には、このようなことがある。そうした店がだいたい朝9時くらいにオープンするわけだが、「朝から酒場が開いている町」というのは、インドでは希少である。

    飲酒について、日本からは考えられないほど制約の多いインドでは考えられない環境だ。
    そのため週末にはグジャラート州からやってくる男性たちによる「飲み会」が朝食の時間帯から展開するのが特徴的だ。「一人飲み」の姿も多く、観光シーズンのピークには、訪れる家族連れも少なくないとはいえ、あまりファミリー向けの訪問先ではないように思える。
    けっこうキレイで快適なホテルであっても、いわゆる「バー」ないしは「パーミット・ルーム」があると「家族連れ向きではない」と言われてしまう。

    そんな呑み助天国でありながらも、風俗店が軒を並べるような環境ではないため、とても健全な雰囲気であるのはダマンとディーウの大きな特徴だろうか。しかしながら、やはりこういう場所なので、実は売春も盛んであるとは聞く。

    ダマンの繁華街。朝から晩まで酒を提供する店が多い。

    隣州で禁酒のグジャラートと異なり、酒の販売が出来るダマンとはいえ、生活文化や倫理観はグジャラート州と大きく変わるはずはない。ダマンっ子は日がな飲んだくれているわけではなく、朝から飲んでいるのは、近隣州からの訪問者たちなのだ。
    ダマンの飲み屋街といってもささやかな規模で、少し外れると普通の住宅地となる。そういうところには飲み屋はないし、酒屋も滅多に見かけない。

  • ダマン1   グジャラート州から越境

    ダマン1 グジャラート州から越境

    ヴァーピー駅にて下車。ここからオートでダマンへと向かう。途中、グジャラート州との境になっている町にゲートがある。そこまでがグジャラート州で、そこから先はユニオン・テリトリー(連邦直轄地)のダマンとなる。

    グジャラート州は禁酒州だが、ダマンに入るといきなり酒屋やバーがあり、あたかも飲酒運転を奨励しているかのように見えるし、グジャラート州への密輸を奨めているかのようにも感じられてしまう。

    グジャラート州から入った途端、境界のダマン側にはバーや酒屋がある。

    グジャラート州とダマンの間には、いくつも往来できるポイントがあるのだが、ここのように街中のゲートが境目になっていて、うっかりしていると気が付かないような場所もあれば、川に架かる橋が境になっていて、視覚的にもそうと判りやいすいところもある。

    ここのように、ひと続きになっている市街地の中にゲートがあるような場所では、普段は静かに家で飲んでいて、仲間たちとおおっぴらに飲んで騒ぎたくなったら、ひょいと境を越えた先でしこたま飲んで、酒臭い息を吐きながら再びボーダーを越えて帰宅というような人は多いことだろう。

  • ダーラーヴィーのスラムの再開発計画

    これまで幾度となくこういう話はあったが、都心にこれほどの規模のスラムがあるというのは異常であるため、いつかは無くなる日が来るのだろう。
    ダーラーヴィーは不思議なところで、ひどくボロボロなのに、小規模ながらもピカピカで快適そうなコンドミニアム、これまた小ぶりながらも立派なモール、しっかりした構えのイングリッシュミディアムの学校がポコポコ散在している。「なぜここに?」と思うようなものが。
    スラムにある銀行の支店は他のエリア同様に忙しそうだし、公共トイレもあちこちにある。階段さえなくハシゴで上階に出入りするようなボロ家屋に暮らす若者が、今どきの若い人向けにデザインされたカッコいいロイヤルエンフィールドのバイクを乗り回していたりする。
    スラムとはいえ、さすがに歴史も長いし、都心にあるためここで生み出されるキャッシュも大きいのだろう。
    また「グジャラートの☓☓コミュニティー」「タミルナードゥの素焼き職人集団」みたいな地縁血縁集団が世代を継いで占めているエリアもあり、田舎での生業がこんなところで再現されていたりもする。
    またスラム地域とそうでない地域が、これほどスパッと明確に分かれているのも興味深い。
    他のニュースで、このあたりにスラム博物館とやらができるとか書いてあったが、こうしたスラムの生態について、きちんと記録しておく必要があるだろう。これ自体が貴重な生活文化であり、都市の歴史の一部である。

    再開発に揺れるアジア最大のスラム街 インド・ムンバイ(AFP)

    世界初の「スラム街博物館」、インド・ムンバイに誕生へ(AFP)

  • ダーンディー・ビーチ 「塩の行進」の海岸

    ダーンディー・ビーチ 「塩の行進」の海岸

    1930年にガーンディーが支持者たちを率いて、アーメダーバードのサーバルマティ河のほとりにある彼のアーシュラムから、ここダーンディーの海岸まで25日間かけて実施した「塩の行進」。

    到着翌日にはこの海岸で象徴的に塩を作ってみせることにより、人々に英国による専売の不当さをアピールするとともに、国民自ら塩を作り出そうと世間に訴えた。
    この行進は、ガーンディーの非暴力不服従運動、スワーデーシー(国産品)運動の全国的な展開へと繋がる大きな契機となった。

    ナウサリーに駅からオートでダーンディーの海岸まで往復してみた。街から出ると道の両側が大きな並木が続くインドらしい街道風景が続く。こうした眺めも交通量増加に対応するための道路幅拡張の工事、自家用車でのエアコンの普及などにより、かなり減ってきている。

    このあたりの海岸の土壌ってどこも黒いのは鉄分が多いためだろうか。これがずっと南に下り、コンカン地方になると土壌が赤くなる。このあたりとは地質自体も異なるものと思われる。

    辺りは平坦で何の危険もないと思われるのに、なぜ「セルフィー禁止」の看板が・・・?
  • スーラト3  墓場も面白いインド

    スーラト3 墓場も面白いインド

    これらの風景を目にして、何の遺跡と思われるだろうか。
    実は、「英国人墓地」なのだ。

    場所はスーラト。東インド会社が拠点とした港町のひとつ。私が確認できた、この墓地で最も新しい墓標が1850年のものであったので、まさに英国政府による統治に移行する前、東インド会社が支配した、いわゆる「カンパニー時代」の英国人墓地。墓標を見たところでは、大半は東インド会社軍の軍人とその家族たち。

    そのあたりまでは、英国人でも改宗してヒンドゥーになって、毎朝沐浴したり、プージャーをしたりする後の時代のヒッピー的な英国人も少なからずいたと聞く。
    もちろん、高級官僚やエリートコースに乗っている英国人は、その限りではなかったとはいえ、それ以外で何かしら縁あってインドに渡ることになった、あんまり堅苦しくなくてカジュアルな英国人たちの中には、自国と違う気候、文化、食事の中で戸惑いつつも、「インドってすげー!」と、すっかり感化されてしまう人たちが後を絶たなかったらしい。

    それはそうだろう。今の私たちでも「インドってすごい!」と感嘆しているのだから。当時、「ツイッター」「Facebook」等があったら、彼らのオドロキやインドへの憧憬が多々綴られていたはずだ。
    だが当時の人々は、相当な知識人でもない限り、いわゆる日記のようなものをしたためる習慣もなかったので、現代に生きる私たちが、当時のインドの市井の人たちの日常の喜怒哀楽を知るのは容易なことではない。

    「インドかぶれ」については、1857年の大反乱以降の英国当局による綱紀粛正により、いわゆる当時でいうところの「ネイティヴ(インド人)」と英国人の間の「けじめ」のようなものが徹底されることになった。そのため、墓地についても、その後のものは、このような墓地ではなく、英国人らしいものとなっている。19世紀と20世紀を境にして、「アングロ・インディアン」を示す意味が、「インドで生まれた英国人」から「英印混血の人」と変化していったのには、こうした背景もあるに違いない。

    インドという国は、ごく平凡に観光していても、実に興味深い事柄に満ちているのだ。こんな国は広い世界を見渡しても、他に無いだろう。各地の英国人墓地を巡るだけでも、実は大変面白いインドなのだ。

    〈続く〉

  • “Chinatown Days” by Rita Choudhury

    “Chinatown Days” by Rita Choudhury

    アッサムの女性作家、リーター・チョードリーによる大作。
    清朝支配下の19世紀、南中国の寒村から奴隷として町の商人のところに売られていき、そこで奴隷ながらも主の信用を得て、それなりの金銭的充足と自由を得ることとなった少年。だが、彼はさらにここから別の人身売買シンジケートにより、カルカッタへ運ばれ、そこから開業間もないアッサムの茶園に行くこととなる。

    時代は下り、その茶園近くのマークームの町や周辺で事業を起こした中国移民の子孫たち。
    アッサムのすっかり根付き、「中国系アッサム人」として地域社会の中の一部として定着していた。

    中印戦争開戦。最初は特に影響を受けることのなかった華人コミュニティだが、インドの敗色濃くなっていくにつれて、反中国感情の高まりとともに、中国系住民への感情も急速に悪化していく。

    中国との敵対関係がエスカレートしていくとともに、国内政治でも共産主義勢力を「親中かつ反インド」であるとして攻撃するだけではなく、民族的なルーツを中国に持つ人々への風当たりも強くなってくる。

    やがて中国系市民の拘束の命令が中央政府から発せられ、華人が集住していたカルカッタはもちろんのこと、ところどころに華人コミュニティが散在していたアッサム(当時は現在のメガーラヤもアッサムの一部)においても一斉に彼らを逮捕して地域内の刑務所へ収容してしまう。驚いたことに、チベットからダライラマとともに亡命してきたチベット難民の中にも、このあおりで逮捕・拘束された人たちが少なくなかったらしい。

    その後、華人たちは、まとめてラージャスターン州のデーオーリーキャンプへと列車で移送される。(デーオーリーキャンプは、奇しくも第二次大戦期にマラヤ半島などに住んでいた日本人たちが敵性外国人として植民地当局に検挙されて移送された先でもある。)

    インド政府は、世代を継いでアッサムに暮らし、インドを祖国とする中国系市民を敵視するいっぽう、引き揚げ船を仕立てて彼らを迎えるというオファーをする中国に対して、これ幸いと彼らの身柄を引き渡してしまう。インド生まれの華人たちにとって中国は未知の国。おりしも時は文革の渦中で、引き揚げてきた彼らはインドによるスパイという嫌疑もかけられて大変な苦難を重ねることとなる。

    中国に送られることなく、アッサムに帰還することができた華人たちにとっても、日々は決して楽なものではなかった。苦労して得た工場、店、家屋などは、「敵性資産」として、競売にかけられており、彼らの父祖がそうであったように、再び裸一貫でスタートしなくてはならなかったからだ。

    文革の嵐が収まりかけたあたりから、中国に送られたアッサム華人たちの中で、当時英領だった香港を目指すのがひとつの流れとなっていった。

    そして現在、結婚したばかりの華人妻と生き別れになったアッサム人男性が、かつてマークームに暮らした華人住民たちの小さな集まりが開かれる香港を訪問して49年振りに再開。

    雄大な時間軸の中で展開していくスケールの大きなドラマ。こうしたインド系の人々の歴史を交えた長編作品を得意とする大作家アミターブ・ゴーシュの作品を彷彿させる。

    もともとマークーム(মাকুম)と題して2010年にアッサム語で発表された当作品だが、好評を得て英語版も出版されることとなったが、翻訳版という形ではなく、新たな記述等を加えて最初から書き下ろすことになったため、英語版の出版まで何年もかかったと聞いている。

    タイトル:Chinatown Days
    著者:Rita Choudhury
    出版社:Amazon Services International, Inc.
    ASIN: B0786T8XKX
    ※紙媒体ではなく、アマゾンのKindle版を入手。

  • ドキュメンタリー映画「Final Solution」が描くモーディーとBJP

    2002年にグジャラート州で発生した大暴動を取り上げたドキュメンタリー映画。
    重たい内容だ。以前はこの関係の書籍等も沢山出回っていたのだが、最近見かけなくなっている。事件はもはや風化してしまったかのように思われる。
    この暴動とそれによる殺戮について、背後で当時州首相であったナレーンドラ・モーディーが深く関与していた(らしい)ことも言われていた。この関係でグジャラート州首相時代、米国入国禁止になっていたことはよく知られている。
    だが2014年にインド首相就任すると、アメリカは黙って禁を解いてしまった。
    モーディー自身は、経済に明るいこと、お金についてはクリーンなことで人気で、州首相としても国の総理大臣としても実績を上げてきたが、思想的には危険な人物であることを忘れてはならない。

    Final Solution (2004)