ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: travel

  • パティヤーラー3

    パティヤーラー3

    ブーピンダル・スィン

    19世紀初頭にパティヤーラー藩王国の王位に就いたブーピンダル・スィン。46歳で逝去するまでに、国際連盟インド代表、円卓会議のメンバーなどを歴任した。現在も営業しているパティヤーラー銀行の設立者でもあり、現在はデリーの鉄道博物館で車両を見ることができるパティヤーラー・モノレールの創設者でもあった開明的な君主。

    インド代表クリケットチームをキャプテンとして率いたことから、Captain Sahibとして現在も広く記憶されている。彼の孫で、現在国民会議派の議員で、州首相を務めたこともあるアムリンダル・スィンも同様にCaptain Sahibと呼ばれるが、彼は軍人としてパキスタンとの戦争を戦った経験があり、当時の軍での階級がCaptain(大尉)であったことによる。

    大変な功績があった人でありながらも、現在、人々の間で共有されるプーピンダル・スィン伝説は、これとは違った側面らしい。

    それは「絶倫王」だ。

    10名と言われる正妻以外に25名とも言われる側室を持ち、判っているだけでも80名ほどの子供をもうけている。王というものは、スポーツ新聞ネタになるような部分でも、常人の域を大きく凌駕してこそ、人々に長く記憶されるものなのだろう。

    ブーピンダル・スィンの像

    〈続く〉

  • パティヤーラー2

    パティヤーラー2

    何か特定のご利益があるということになっているスィク教寺院もあるようだ。パティヤーラーにあるグルドワラー・ドゥク・ニルヴァーラン・サーヒブは、「グルドワラー鎮苦院」といった具合の名前で、様々な病気にご利益があるということになっている。最近、物忘れがひどいので、私もちょっとお願いしてみた。

    右下は沐浴者が掴まるための鎖。水の中では鯉が泳いでいた。

    寺院内にある沐浴地には、壁で外界の視界を遮る女性用の場所もしつらえてあった。池には等間隔で鎖が伸ばしてある。池の中はガートになっているのだが、数段下ると足が付かないほど深くなるようだ。泳ぐことができず、浮くことすらできない人が大半なので、溺死防止だろう。まさに命綱だ。

    これとは別の話になるが、市内には、カーリー寺院がある。それは元々、パティヤーラーの藩王が建てさせたものであるとのことなのだが、その由来は後継ぎが生まれず、困っていた藩主が夢で神託を受け、「カルカッタまで徒歩で赴き、地元のカーリー女神に祈りを捧げること、そしてその別院をパティヤーラーにも建てること」などを告げられたのだとか。

    藩主が本当に徒歩でそんな遠くまで旅をしたとは思えないし、後付けで出来た逸話か、あるいは俗説なのかもしれないが、なかなか面白い話ではある。

    そうした由来あってか、カーリー信仰の本場でインド東部のベンガルとはまったく反対の西部にありながらも、けっこうにぎわっている。

    パティヤーラーは旧藩王国の面影を残すエリアもあり、緑地にも恵まれた美しい街で、滞在するには心地好い。

    鉄道施設の写真を撮ると警官から煩いことを言われかねないが、パティヤーラー駅舎もまたパティヤーラー藩王国時代そのままではないか?(たぶん・・・)と思われる趣のあるものだ。駅前道路との立地の兼ね合いもあるが、鉄路と並行しない駅舎というのは珍しい。

    〈続く〉

  • パティヤーラー1

    パティヤーラー1

    アーナンドプル・サーヒブのバススタンドから10時のバスで出て、午後1時半にパティヤーラーに到着した。

    どうせ寝るためだけなので、バススタンド近くの500から700Rsくらいの宿に泊まるつもりだったが、パティヤーラーが近くなったあたりで、宿泊施設をスマホで検索してみると、ちょっといいホテルがインドの旅行予約サイトで結構安く出ていること、新しくアカウント作るともらえるクーポンみたいなのを利用すると得なことを知った。普段は予約サイトで宿を予約などしないのだが、中級クラスのホテルの場合は、こういうものを利用したほうが有利なことがあるということが判った。

    可笑しいのは、連泊する場合、そのままチェックイン日とチェックアウト日を入れてしまうよりも、一泊ずつで取ったほうが安くなる場合もあること。

    バスを降りてから、サイクルリクシャーでそのホテルに向かった。室内も外見に相応しい感じで快適。全館改装したばかりのようだ。これで税サ込で2000Rsを切るというのは、いまの時代、けっこうお得だ。もし連れがいれば、二人でも同じ料金なのでもっと得になる。リュックを背負ってホテルのフロントまで来ていながらも、そこでスマホを操作して予約するというのも間の抜けた話ではある。

    〈続く〉

  • 80年代後半の「ネコババ事件」

    パンジャーブ旅行にきて、ふと思い出したことがある。カリスターン運動が激しく燃え上がっていた80年代後半、インドのパンジャーブは、外国人にとって、事実上オフリミットとなっていた時期があった。

    「事実上」というのは、内務省発行の入域許可書があれば、「3の付く日」つまり、毎月3日、13日、23日に国境近くのアムリトサルの街に直行するバス(基本的にはデリー発、場合によってはハリヤーナー州のアンバーラーから出ることもあったように記憶している)が出ていた。乗車することができるのは、降車してからすぐに国境を越えてパキスタンに行く人たちのみ。そんな具合だったが、状況によっては運休となることもときどきあった。

    今の平穏なパンジャーブの様子からは想像も出来ないが、スィク教徒の分離活動家たちによる要人誘拐、殺害その他の乱暴狼藉が日常茶飯だったのだ。州の政治家、州政府役人、パンジャーブ警察、軍人の中にスィク教徒が占める割合が高く、同じスィク教徒の親インド派と先鋭化した分離独立派の抗争という側面もあった。

    個人的な話になるが、そんな時代に「猫ババ事件」は起きた。

    当時、ニューデリー駅前のパハールガンジ地区にあったハニーゲストハウスのドミトリーに泊まっていた私に、同じ大部屋に宿泊していた1人が声をかけてきた。
    「俺、これからすぐに出てアムリトサル行きのバスに乗るんだ。○○号室の✕✕に渡さないといけないお金があるけど、奴は今部屋に居ないんだ。だからよろしく頼む。絶対渡してくれよな、頼んだぜ!」

    私は一度は断った。確か50ドル相当のインドルピーだったと思うが、当時のバックパッカーにとっては、ちょっとした大金だ。ちょっと節約すれば、100ドルでひと月滞在することが可能だった時代だったので、半月分の生活費ということになったからだ。そうでなくても、よく知らない相手のお金を預かり、これまたよく知らない相手に渡すというのも実に困る。当時、駆け出しの旅行者(笑)であった私は、旅慣れた年上の男の押し出しの強さにすっかり腰が引けていた。

    「今日の夕方に出て、鉄道でネパール国境に行くので・・・」と言っても、「いや、俺は今の今すぐに出なきゃならないから。よろしくな!」とベッドに現金を放って出ていってしまった。

    そのとき、ドミトリーには私しかいなかった。すでにチェックアウトしていたのだが、出発の時間まで、空いているベッドに寝転んでいても何も言われないという、実に鷹揚な宿であった。実際のところ、宿泊者が何人いるのかマネージャー自身が定かではなく、ドミトリーに「点呼」しに来ることもあるといういい加減さであった。

    さて、私は✕✕という男の顔さえも知らない。しばらくしてから、彼が滞在しているという部屋をノックしてみたが、やはり不在だった。私が宿を出る時間まで、ドミトリーには誰もいなかったので、後を託すこともできなかった。

    仕方がないので、ネパールに入ってからは、ネパール通貨に両替して、自分の旅費の足しにしたのだが、カトマンズにあったストーンハウスロッジのドミトリーに滞在していたとき、同宿の人たちと食事に出ると、こんな話が出た。

    「俺なぁ、日本人にネコババされたでぇ。」
    彼が言うには、デリーで泊まっていた宿で、どういう経緯なのかよく判らなかったが、同宿の日本人から返してもらわなければならないお金があったものの、相手の男は彼が宿に戻る前にドロンしていたのだと言う。

    場所はまさにハニーゲストハウス、時期もだいたい同じくらいなので、どうやら私に無理やりお金を押し付けたあの男のことのようであったが、金額は私が預かったものの倍くらいのことを言っている。彼が話を膨らませているのか、それともあの男が半分の金額だけ私に預けたのかは知らない。

    ここで「あぁ、僕が預かったのはその半分だったけど」などと口にすると、ロクなことにならないのは明らかなので、黙って相槌を打ちながら話を聞いていたが、たいそう居心地が悪かった。

  • アーナンドプル・サーヒブ

    アーナンドプル・サーヒブ

    アーナンドプル・サーヒブは、スィク教第9代目のグルーであるグルー・テーグ・バハードゥルによって、1665年に開かれた町で、アムリトサルに次いで、スィク教の2番目に重要な場所であるとされる。

    宿泊先のホテルの目の前にある公園にそびえる巨大な記念碑は、カールサーのマークを頂いており、いかにもスィク教の町に来たという気がする。広がりの割には密度が低く、ガランとした印象を与える町だが、民家のひとつひとつの敷地は広めで商店などもかなり大きく、田舎町の割には暮らし向きもちょっと良さそうなのは、インドにおける先進州のひとつ、パンジャーブらしいところだ。

    公園の記念碑にははカールサーのシンボルが・・・。

    ケースガル・サーヒブの門前町には銃刀店のように見えるものがあるが、これはシンボルとしてのキルパーンを売る店。よくスィク教徒がベルトのようなものに差して斜めがけにしているものだ。なかなか精巧に出来ているものもあり、記念にひとつ購入してみたくなる。

    銃砲店のように見えるが神具ならびにスィク教グッズの店
    ミニチュアのキルパーン
    名刹 グルドワラー・ケースガル・サーヒブ

    沐浴地は寺の敷地の外にあり、それがちょっと今ひとつという部分はある。おかげでドラマチックな視覚効果はない。

    沐浴地

    町には、他にも大小のグルドワラーが沢山あり、ターバンを巻いたスィク教徒がマジョリティ?であるかのように見える。アーナンドプル・サーヒブ一番の名刹、ケースガル・サーヒブでは、敷地内に巡礼宿もずいぶん立派な建物がいくつもあり、快適そうだった。信徒ではない外国人でも泊めてもらえる。

    立派で快適そうな巡礼宿

    ただしスィク教施設ではタバコはご法度なので、喫煙者の私にはハードルが高く、市内のホテルに泊まった。

    こちらはケースガル・サーヒブの別院

    ヴィラーサテーカールサー(Virast-e-Khalsa)というスィク教博物館(あるいはスィク教のテーマパークというべきか・・・?)は、月曜なので休館だった。インドにおける博物館は月曜休館という法則は、教団施設も同様らしい。

    さて、ケースガル・サーヒブとその別院を参拝したので、アーナンドプル・サーヒブを後にする。パンジャーブ州の道路は素晴らしいが、町と町を結ぶ路線バスも、なかなか良かったりする。

  • スプレー式の紅茶

    エアゾール式の紅茶

    しばらく前からスプレー式の紅茶が話題になっている。

    NO MORE TEA BAGS

    紅茶には相当うるさいと思っていたイギリスで、このような製品が発売されるということに少々ビックリした。私たちの感覚に照らしても、スプレー缶からプシューッと出てきた濃縮液にお湯を注いで飲むというのは、なんだか気持ちが悪い・・・というのが、一般的な思いではないだろうか。少なくとも、味わいや香りを楽しむための嗜好品という感じはしない。

    もっとも私たちだけではなく、発売先のイギリスの人々をも含めた一般的な感想が、「こんなのアリかよ?」という具合であるがゆえに、話題となるのだろう。

    粉末のインスタント紅茶はいくらでもあるし、スプレー式にしても、すでにコーヒーでは同様の製品が出ているので、あまり驚きはしないのだが、せっかくの嗜好品である。通常は、ティーバッグでさえも「インスタント感」があるが、いくらなんでもスプレー式にしてしまっては、あまりにぞんざい過ぎるような気がしてならない。

    ちなみに、スプレー式の紅茶の存在については、この製品が世界初というわけではないようだ。このようなブログがある。

    ホーネン・カフェ・イン・ボトル

    しかしながら、日々、紅茶無しでは生きていけない私にとっては、こうした「邪道」もぜひ体験しておきたいところなので、入手する機会があれば、後日その感想をご報告したいと思う。

  • サダル・ストリートの「ホテルチェーン」

    コールカーターのサダル・ストリート。英領期に元々は欧州人地区。20世紀に入ってしばらくするとユダヤ人地区、ベトナム戦争時には赤線地帯、それ以降は安旅行者地区と、変遷を続けてきた。

    近ごろはかなりキレイな宿も出てきており、スィク資本でムンバイーを本拠地に、いくつかのホテルを展開するBAWAグループがホテルを開いたりしたのにはちょっと驚いたが、サダル・ストリートの地元資本?によるホテルグループもいくつか宿泊施設を展開している。

    オーナーがムスリムのそのグループが運営するHotel Golden Appleが開業して間もないあたりで利用してみたことがあったが、とってもスタイリッシュな内装と施設にビックリした。ウロ覚えだが、2010年か2011年あたりではなかっただろうか。おまけに料金が確か1,200Rsとずいぶんお得なことにも感心したものだ。現在の料金は、2,500Rsくらいからのようだ。

    ただし、スタッフの態度はやはり界隈の安宿と同じで、部屋に置いてあるルームサービスのメニューが「ブルースカイカフェ」のものであるのには笑えた。注文すると出前しに来るのだろう。
    元々が安宿のオヤジとその取り巻きがやっている?と思うので、手入れもせず、すぐに汚くなって、周囲のボロ宿と同化してしまう「標準化現象」を見せてくれるのではないか?と予想していたが、案外そうでもないらしい。

    大都市の割には、カルカッタは中級クラスのホテル料金が安めなので、2,500Rsとか3,000Rsくらいのレンジならば、もっといい地区がある。わざわざサダル・ストリートに宿泊する必要はないように思うのだが、まあ、何かと便利な地区ではある。

  • インド国鉄客車のクラス分け

    宿泊を伴わないチェアカー車両のみを利用する近距離移動(それでも大きな国なので、8時間とか9時間とかザラだが)のShatabdi Express(「世紀急行」の意)から派生したJan Shatabdi Expressの運行が定着してからずいぶん経つ。

    Shatabdi Expressのような停車駅が少なく、他の急行列車よりも格段に迅速な移動を可能にした特別急行は、空調付き車両のみで、クラスの位置づけが高いため、当然、運賃もそれに応じて上がる。

    普通の急行列車と違い、乗車中にお茶、スナック、食事などが提供されるため、飛行機内でのサービスを思い浮かべてもらえばよい。これは乗車券代金に含まれる。

    さて、先述のJan Shatabdi ExpressのJanについては、一般庶民のことを指しているので、より経済的に余裕のない層でも利用出来るようにしたものだ。車内サービスは有料となり、AC無しの車両も連結されている。

    基本的には普通車とグリーン車しかない日本と異なり、インドの鉄道のクラスは8区分程度となり、かなり複雑だ。

    「8区分程度」としたのは、寝台クラス(長距離列車)と座席クラス(短・中距離列車)は、通常、同じ列車に連結することはない。用途が異なるため、一概に上下に分けることはできないものがあるからだ。

    また、同じ最上級クラスの1Aというカテゴリーでも、通常の急行列車と、運行に優先権を持つ特別急行とでは、使用する車両も違うことがあるので、これもまた同一のものとして扱うのは適当ではないだろう。

    最上級の1Aの下には、2A、3A(どれもAC付き)と続き、事実上のAC1等、AC2等、AC3等となるが、その下に近距離のACチェアカーなどを挟んで、「1等車」があることに釈然としない人もいるかもしれない。(現在、これが使われる機会は減っているが、要はACなしの一等車だ。)

    これほどにクラスが多いことは、植民地時代からの伝統により、国家予算とは別枠の「鉄道予算」を持ち、(確か、現在でも発表となるタイミングさえ、一般の予算と異なる)鉄道大臣が首相、内務大臣に次ぐナンバー3の位置づけとなっているインドの事情がある。

    ただし、次の会計年度から通常の国家予算と統合されることになったため、92年間続いた措置はついに終焉を迎えることとなった。

    Separate Railway Budget scrapped: How will it impact fiscal management and what is the political fallout? (DAILY NEWS & ANALYSIS)

    往々にして官業というのは、とりわけ強大な権限を持つところは、「これでもか!」と増殖を重ねていくもの。植民地時代は1等、2等、3等というクラス分けであったが、今のようにクラスが乱立するようになったのは、概ね90年代以降の現象のようだ。エアコン付きの客車が増加したことに起因する。

    さて、こうしたクラス分けについて、利用者の側にとっては、経済事情に応じて、安いものを選択できるということもあるが、払う余裕のある人については、車内のアメニティの差に金を払うというよりも、混雑を避けたり、同乗したくない層の人たち(階級社会らしいところだ)を避けたりすることが出来るという需要がある。それにしても客車のクラス分けが多いことについては、効率の観点から整理しなくてはならない時がやがて来るだろう。

    乗車クラスの違いによる料金差ははなはだしい。下記リンク先の記事は、2004年の内容なので、料金自体が現在のものとは異なるが、どの程度の差があるのか把握するための参考にはなるだろう。

    天国か地獄か、インド列車のしくみ(2) (indo.to)

    また、急行列車の種類についても、鉄道旅客輸送の高速化とともに、サービスと利便性向上の両方の観点から、従前の停車駅が少なく、走行に優先権を持つSuper Fastのステイタスを持つ急行とそれ以外、加えてSuper Fastの上を行くRajdhani Express(長距離列車)とShatabdi Express(短距離・中距離)といった構成であったものに加えて、先述のJan Shatabdi以外に、エアコンクラスを安価に提供するGarib Rath Express、停車駅が極端に少ないDoronto Express等といった新しいカテゴリーの急行列車も導入されて多様化が進んでいる。このあたりについても、整理しなくてはならない時期がいつかやって来るかもしれない。

    Super Fastの上のカテゴリー名が、急行列車の名前になったり、単に出発駅と終着駅が休校列車の名前になったりすることが多くなっている現在、英領時代から続いたSuper Fastのカテゴリーの「Frontier Mail」(ボンベイから現在のパキスタンのペーシャーワルまでを結んでいた。印パ分離後はアムリトサルが終点)のような伝統ある急行列車の名前が、「Golden Temple mail」と改称されたりしたのは寂しい気がする。

    これよりも歴史が古く、1世紀以上も運行されており、かつてはボンベイからペーシャーワルまでを結んだ「Punjab Mail」の方は今も健在だ。この急行列車の終着駅はパンジャーブ州のフィローズプルとなっている。

  • 「英雄」 バガット・スィン

    「英雄」 バガット・スィン

    デリーからパンジャーブ方面に向かう列車に乗る。

    途中のクルクシェートラ駅には、バガット・スィンの大きな胸像があった。町には、彼を記念したバガット・スィン公園などもある。

    Bhagat Singh

    パンジャーブ出身(現在パキスタン領となっているファイサラーバード近郊の村)で、スィク教徒の両親のもとに生まれた。社会主義に傾倒した革命家であり、1920年代に要人殺害や議事堂爆破事件などで拘束され、1931年に処刑台の露と消えた人だが、独立後のインドでは、誰もがよく知る憂国の志士、独立運動家ということになっており、彼を主人公とする映画もいくつか作られている。

    彼について書かれた本を読んでみたことはあるが、若気の至りで暴走した人物としというのが正直な感想。インド人には言えないが、今でいうところのテロリストでは?思う。

    政治主導の後付けで、英雄化されてしまうと、いろいろ齟齬が生じることもある。生地のパキスタンでは、彼の反英活動について、どのような評価がなされているのかは知らない。

    政治主導の英雄化といえば、さらに時代を遡った1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」とするのも奇妙で、反乱時に英国への忠誠揺るがず、鎮圧に大きな功績を残したスィク教徒たちの部隊、英国を強力に支持したスィクの藩王国は、国賊みたいなことになってしまうので、非常に収まりが悪くなる。

    過去の出来事は、現在のそれとは背景が違うため、「インド兵が英国兵と戦った」という一面だけで、反植民地闘争とするのは無理がある。

    歴史の再評価というものは、どうも胡散くさい。

    親族も反英活動で投獄された筋金入りの一族であったこと、当時としてはスマートなインテリ、非常に若くして処刑(享年23歳)されたことに加えて、イケメンでもあったため、ビジュアル的には持ち上げ易い要素もあったのだろう。

    ムスリムで同じような活動に従事していた人たちもいたはずなのだが、ここから時代が下るとパキスタン建国運動に収斂してしまうので、バガット・スィンの時代に「インド独立」を志向していたムスリムの「志士」たちは、現在のインドであまり名を残さないことになってしまう。

    2001年にパキスタンのテロ組織とともにデリーの国会襲撃事件に係わり、死刑となったカシミール分離活動家のアフザル・グルーなどは、彼の背景も事件への関与も、まさにバガット・スィンと同じにしか思えない。

    どこが違うかといえば、インドは独立したがカシミールはおそらく今後もインドから分離することはないと思われるので、彼が肯定的な評価をされることはない、というところだろうか。

    もちろん、こんなことはインド人に対して口には出来ないが。

  • チャーンドニー・チョウクのヘリテージ・ホテル

    デリーのチャーンドニー・チョウクといえば、今でこそ大変混雑した庶民のバーザールとして知られているが、元々はムガル王宮のお膝元のポッシュなエリア。大通りには水路と噴水があり、貴人たちが行き来する地域であったそうだ。ムガル帝都末期から「ムガル朝御用達」のミターイーの店として、伝説の老舗「ガンテーワーラー」が昨年まで営業していた。

    ムガル帝国滅亡後も、印パ分離独立でムスリム富裕層がここを離れるまでは、立派なハヴェーリー(屋敷)が建ち並ぶ美しいエリアであったという。インド独立後には、そうした建物の内部は細分化して間貸しされていたり、小さな商店等が入居したりといった具合で、元の姿を想像することさえ難しくなっていたりする。

    最近、そんなハヴェーリーのひとつを修復して開業したヘリテージ・ホテルがあるのだが、1泊およそ9,000~15,000Rsという高価格帯。こうした古いハヴェーリーは、まだいくつも残っている。こうした建物の利権関係はとても複雑なようだが、こうした類の宿泊施設が他にもいろいろ出てきたり、そうした中でエコノミーな施設もあったりすると、見どころも多い立地だけに、大変面白いことと思う。

    HAVELI DHARAMPURA

  • 北デリーのコロネーション・ダルバール

    北デリーのコロネーション・ダルバール

    Coronation Parkとして整備が進む

    ここは15年ほど前に訪れたことがある。当時は、子供たちがクリケットで遊ぶ広大な空き地であったが、現在は史跡公園として整備され、今もその工事は進行中。

    1877年、1903年、1911年にイギリス国王の「インド帝国皇帝としての戴冠式」が、まさにこの場所で行われている。もっとも最初のふたつは、イギリスから本人が渡航して儀礼を行うことはなく、来印して戴冠を行ったのは、1911年のジョージ5世が最初で最後。

    これが可能となったのは、1903年の即位時点ですでに高齢であったエドワードと異なり、1911年即位のジョージ5世は若かったのはもちろんのこと、1877年にはまだ建築中であったインドの鉄道ネットワークが完成の域に達していたことなどがある。このときジョージ5世は、ボンベイのインド門から上陸し、鉄道でデリーまで移動している。

    ジョージ5世の像

    この地でのダルバール開催について、英領時代から残る記念碑

    さて、ダルバールでは、内外の要人たちが集まるとともに、インド各地の藩王国からも王、王子、側近などが専用列車などを仕立てて参列し、この周辺には豪華なキャンプが設営されて、仮設ながらも文字どおりの華やかなダルバールが出現していた。

    1930年代には、英国国王はエドワード8世、ジョージ6世と2回変わっているが、インド独立運動の高まりで、大衆を動員して大規模なデモやストが頻発、加えて要人暗殺や爆破テロ事件なども頻繁するようになっていたため、ダルバールは開催されていない。

    1911年のダルバールの様子はyoutubeで閲覧することができる。

    長く打ち捨てられていた、植民地時代の旧宗主国の支配にまつわる場所で、独立以来、ことあるごとに英領時代の地名、英国の支配層にちなんだストリートの名前などが、改められてきたのだが、ここに来て「英国人のインド皇帝の戴冠式典」が行われたとして整備されるというのは注目に値する。

    しかしながら、コロネーション・ダルバールを整備しているのは、ASI(インド考古学局-考古学だけではなく文化財保護・研究などを包括的に行う政府機関)ではなくDDA(デリー開発公社)であることから、歴史や文化的な背景についての考察等はなされず、ただの公園建設となるのだろう。

    ちょっと残念だが、やっぱりという気もする。

    DDA管理下の公園であることを示す看板。(園内は禁煙、ゴミ捨て禁止、家畜進入禁止等々の注意が書かれている。)
  • The Church of St. James

    The Church of St. James

    The Church of St. James

    英印混血の風雲児、ジェイムス・スキナーが建てさせた英国国教会の教会。
    スコットランド人の父と同じく、軍人の道に進む。

    混血児への東インド会社軍での待遇の低さから、これに加わらず、マラーター王国の軍勢に外国人傭兵として参加してキャリアを築く。

    やがてマラーター王国が英国と対立(その後戦火を交える関係に)するにあたり、他の英国系の兵士とともに解放逐(インド各地にあった様々な王国で、英国その他欧州人の傭兵や顧問は少なくなかった)され、東インド会社軍へ。

    会社軍では、彼の名前を冠したSkinner’s Horse (Skinner’s Cavalry)という精鋭の騎馬連隊を創設して自ら率いる。輝かしい戦果を上げてきたこのSkinner’s Horseは、1857年の大反乱後、東インド会社が解体され、イギリスのインド省が統治を引き継いでからのインド軍、さらには独立後のインド陸軍にも連隊の名前を変えつつ引き継がれた。

    スコットランド出身のスキナー家は、ジェイムス以降も、インドに根を下ろし長らく軍に仕えている。1960年代には、伝統あるSkinner’s Horseを前身とする連隊を、なんとジェイムスの玄孫、ロバート・スキナーが率いるという歴史的な偶然(?)が実現しており、第二次印パ戦争で出陣している。ロバート自身は、1990年代に亡くなった。

    教会の中には、ジェイムス、Skinner’s Horse、ロバートその他のスキナー家や彼ゆかりの碑文、時代ごとのSkinner’s Horseの幹部の名前や階級などを記した石碑なども壁にはめ込まれており、非常に軍事色が濃く、しかも特定の連隊を記念するために建てられたかのような教会が他にあるのかどうかは知らない。

    教会の祭壇のすぐ手前には、「ジェイムス・スキナーここに眠る」と、彼が埋葬されている場所を示す大理石板もあるなど、まさにスキナーの独壇場といった風情で、実に風変わりな教会。スキナー自身の強烈な個性と自己主張を今の時代に伝えているかのようだ。
    これらをカメラに収めたかったが、あいにく敷地内も建物内も撮影禁止。

    この教会が面している通り、Lothian Roadを南下すると、British Magazine跡がある。イギリスの弾薬庫跡で、1857年の大反乱の際、ここに蓄えられた弾薬を巡り、イギリス側と反乱軍との間で激しい戦闘の舞台となった場所だ。ここが反乱軍の手に渡るのを防ぐため、爆破されたことから、現在残されているのは、当時の弾薬庫のごく一部のみ。

    British Magazine

    通りをさらに下ると、LothianCemeteryという、大反乱前の英国人墓地がある。あまりに崩壊ぶりがひどく、今後整備されることを望みたい。

    Lothian Cemetery
    墓碑