ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: travel

  • 王宮転じて博物館 3

    王宮は、どこもまだピカピカで、王族がまだそこを出入りしているかのような印象を受ける。しかし5年、10年と歳月が経つにつれて、卓越した権力を持つ主を失った広大な館は、また年度ごとの維持管理の予算を政府から割り当てられての硬直した運営のもとで、次第に荒れていくことと予想している。こんにち訪れることができるインドの旧藩王国の主の館等がそうであるように。
    ここが宮殿として機能していた過去を展示することが存在意義であるがゆえに、王の時代のように宮殿内の新陳代謝が繰り返されることはないだろう。もちろん経年劣化して展示に耐えない部分が出てくれば、必要に応じて補修などは行なわれるにしても。
    ゆえに豪華な室内の装飾や調度品等が経年劣化しても、それと新しいものと入れ替えることはないだろう。すべてが次第に枯れ木や枯葉のように萎れてきて、カビ臭い空気に包まれてくるに違いない。
    すると、部屋の脇に詳細な説明が掲げられていても、往時の輝きを頭の中に描くには相応の想像力が必要になってくる。すっかり黄変した壁紙、長年の埃がたっぷり積もり、安宿の玄関の敷物のようになったカーペットの中にある朽ち果てた家具類が並ぶ室内に往時の国王の姿をイメージするのは、アンモナイトの化石を目にして『海中を泳ぐ生前の姿』を想うのと同じくらい難しいかもしれない。
    私物はいろいろ片付けられたり、引き払われたりしてしまっているのかもしれないが、現在私たちが目にする宮殿内の光景はまばゆく、つい昨年までここにいた王家の人々の息吹が感じられるようだ。だからここを訪れるならば、早いに限る・・・と思う。
    前回書いたとおり、ここでは王宮内のごく主だった空間のみが公開されているが、個人的には王家の人々に仕えた人たちの仕事場なども観ることができたらいいのにと思う。
    仕えた人たち・・・といっても、事務方を取り仕切る人々もあれば、建物の保守管理といった現業関係の人々も沢山いたはずだ。もちろん警備関係者たちも。どのあたりにどういう職場があり、どれほどの規模の数の人々が、どういった具合に風に日々の仕事をこなしていたのかがわかるようにしてあるといいのだが。
    こうしたことは、王宮、宮殿といったものを見学する際にいつも思う。王家の人々の住まいであり、執務の場であると同時にひとつの大きな機関である。私自身が壮大な夢を見るような人間ではない一勤労者であることから、縁あって(コネあって?)そういう特別な場に職を得た人がどんな日々を送っていたのかということにも興味を引かれるのである。
    仕事によっては、先祖代々王家に仕えていた人もかなりあったのだろうが、王室が廃止されて以降、王宮で働いていた人たちはどうなったのだろうか?
    広大な敷地は大小さまざまな木々その他の緑に囲まれ、塀の外にはすさまじい排気ガスを吐き出して往来する車両に満ちた通りが走っているとはにわかに信じがたい。この静謐な空間は、次第に煤けていき、そして傷みながら年月を重ねていくのだろう。
    今は人々の記憶に新しい王家の人々の姿も、時間の経過とともに輪郭が薄れてくるだろう。王の姿をテレビで、新聞で目にしたことのある人々が次第に歳を取り、宮殿と呼ばれるところに王が君臨した時代を知らない子供たちが成長していき、徐々に彼らに取って代わる。
    何十年か先に、『王を知らない世代』の人たちが長じて親となり、幼い子供たちの手を引きながら、すっかりセピア色がかり、あちこちガタがきた建物内を見物しながら『昔々、この国には王様がいたのだよ。パパが生まれるずっと前の話だけどね』などと語りかけているのかもしれない。
    昨年6月に『時間が停止した』王宮は、今後長きに渡りこの状態で保存されていくのだろう。繰り返しになるが、それがゆえにここを訪れるならば今が旬であろう。

  • 王宮転じて博物館 2

    王宮博物館は11時開館。少し早く着いたのでゲートの前でしばらく待つ。ゲートを入った右手のチケット売り場では入場券を購入。料金は500ネパールルピー。他の観光スポットの多くがそうであるとおり、この国での入場料はネパール国民、ネパール以外のSAARC国民、その他の外国人の三つに区分されており、言うまでもなく後者ほど高い。
    売り場では係員に国籍を尋ねられるが、その際に『India !』以外に『Bangladesh』『Srilanka』
    といった返事も耳に入ってくる。インド以外にもSAARC諸国からけっこういろいろな人たちが来ていることがわかる。
    宮殿内の警備は、まるで今でもそこに王家の人々が暮らしているかのように、なかなか厳重である。チケットを購入してから身体検査があるが、カメラは持ち込み禁止、ごく小さなカバンもロッカーに預けさせられた。
    この宮殿が出来たのは18世紀後半に出来た洋風の建物だ。広い庭をぐるりと回って正面入口へと向かう。階段を上って最初にあるのは、外国からの来賓を迎える謁見の間だ。続いて外国の要人と会談する部屋、会談の前に要人たちが待機した待合室がある。
    少し進むと、国からの要人が宿泊する部屋、その奥さんが泊まる部屋が横にあり、またその隣に要人家族が泊まる部屋がある。要人当人のための広々とした豪華な部屋からだんだんシンプルになり、面積も次第に小さくなる。
    わざわざ夫婦の寝室を別にする必要もないだろうし、欧米の要人のように奥さんを同伴しない国賓もあろう。それに配偶者はまだしも子供たちまで連れてくるというケースはあまり多くないだろうから、こうした部屋には側近や護衛などが控えることが多かったのではないかと思う。
    晩餐会が開かれた豪華なダイニングホール、晩餐会前に要人たちが待機する待合室などがある。またこれまでここを訪れた諸外国の要人たちと国王夫妻(ビーレーンドラ前国王)が一緒に写っている記念写真も飾られている。故アイシュワリヤ王妃の若い頃は、素晴らしい美人であったようだ。外国の要人ないしは代表団と何か重要な取り決めごとについて調印するための部屋もある。
    ここまで見たあたりで、地元の高校生の16才の男の子がこちらに声をかけてきた。両親は食料品の卸の会社を経営しているそうだ。今日は学校の先生たちがストで休みのため、両親と見学に来ているのだという。
    確かその前日から教員のストの記事が新聞に出ていた。この博物館に来る手前のところに文部省があるが、ここで多数の学校関係者が座り込んで抗議行動をしているのを目にした。
    同時期にゴミ収集のストが1週間ほど続いており、カトマンズ市内どこに行っても汚いゴミの山が積み重なっていた。特に人々の密度が高く、商業活動の盛んなエリアでのそれは目を背けたくなるほどのものだった。様々な品物を商う無数の小さな商店や路上の物売りたちがひしめくアサン・チョウク界隈のそれもまた凄まじかった。普段ならば、そこで雑貨や野菜などを商っていながらも、ゴミの山のせいで居場所を失った人もかなりあったのではないだろうか。
    話は宮殿に戻る。セキュリティの関係から、王宮内のすべての部屋が公開されているわけではないものの、見学できるゾーン内には、他にもいくつかの部屋がある。建物内で一番高いところにある戴冠式の間まで行くと、その先は王家の人々のプライベートな空間となる。マヘーンドラ国王(1920〜1972) の執務室から始まり、広々として快適そうな王家の家族の団欒の場、シャハ王朝の最後の王でとなったギャーネーンドラ国王の寝室などがある。
    意外だったのは、国賓の寝室に比べて国王の寝室が、想像していたよりも貧弱であったことだ。王宮ゆえに天井はかなり高いものの、前者と比較して半分以下のスペースで、部屋の形もいびつで窓も小さい。冬季の冷え込みの関係もあるのかもしれないが、およそ『人間』が必要とするスペースには限りがあるのかもしれない。貴人の館と一般人の個人宅を比較のしようもないが、日本の売れっ子の芸能人やちょっとした会社経営者のほうが、もっと豪華で快適な寝室を持っているのではないかと思う。
    王族など貴人たちの居室にしても、何か後世へ伝える業績を残した偉人の住まいにしても、一般に公開されるようになる際にはすっかり整理整頓されてスッキリとした状態になっている。ギャーネーンドラ元国王は、間違っても偉人ではなく、生まれた家柄からして貴人ということになるが、彼の寝室もまたキチンと整頓された状態で人々の視線にさらされている。
    ここに起居していたころには、家電製品はもとより、様々な身の回り品が雑然と置かれていたのではないかと思う。宮中とはいえ、そこはたまたま国王の座についた一人の人間の生活空間である。これらがそのまま部屋に残されていたならば、それらを目にしてギャーネーンドラという元国王自身の人となりがちょっと想像できるような気がするのだが。
    館内の見学を終えて建物の外に出ると、2001年に当時のビーレーンドラ国王(1945〜2001)夫妻その他王族を含む多数の方々が亡くなった宮中惨殺事件の現場があった。そう、あの宮中クーデターと言われたあの忌まわしい事件である。この惨事の中で、国王に加えて皇太子以下、王位継承権を持つ人々がことごとく犠牲となった。当日、その場に居合わせず、ポーカラーで息子パーラス他直近の親族と過ごしていた王の弟であるギャーネーンドラを除いて。
    事件後、危篤状態で意識不明であったディペーンドラ皇太子が、手続き上のみ王位を継承した形となるが数日後死亡。幼少時に2ヵ月ほど王位に就いたことのあるギャーネーンドラが、甥のディペーンドラの後を継いで再び即位した。
    その現場となった建物はすっかり取り壊されており、今は土台だけが見られる。まるでガンダーラの遺跡である。事件直後に撤去されたとのことだ。カトマンズに長年お住まいで、ネパール事情に非常に詳しい日本人の方にその理由をうかがったところ、表向きは皇太后がその建物があると惨事を思い出すからということだが、実際の理由は証拠隠滅だと言われているとのことだ。
    宮殿の裏手には、事件の際の銃弾の痕がいくつか残っている。まさにここで銃弾が飛び交ったのである。誰それが瀕死の重傷を負っていたところ、誰それがここで云々と書かれている。

  • 王宮転じて博物館 1

    2008年に王室が廃止されたネパール。その時期、旧ロイヤル・ネパール航空の『ロイヤル』の字が抜け落ちた。ネパール外務省から各国政府に対して『ネパール王国』から『ネパール連邦民主共和国』に国号が変更となったことを伝える文書が発信された。 それ以外にもいろいろゴタゴタあったのだろう。
    会社が合併その他の理由で名称が変わると、担当者たちは諸手続きや関係各所に連絡等で大わらわとなる。労力以外に既成の用紙・書式・スタンプ等も変更になったりするから、相応のコストもかかる。これが国レベルとなると相当な手間がかかったことだろう。
    旧王族たちもまた、これまでの特権が剥奪(最もわかりやすいところで言えば、外遊時に公用旅券でなく下々と同じ一般旅券となる)されても、今なお資産家であり、手広くビジネスを展開している人も多いとはいえ、この時期には、かつて王室が使用していたこの宮殿や離宮などを含めて、相当な資産が国有化されたようだ。
    国王といっても、日本の天皇のように象徴としての存在ではなく、91年の民主化以前は、実権を伴う『支配者』であったわけだし、2001年の宮中での事件の後に即位したギャーネーンドラ元国王(1947〜)は、民意を得て成立した内閣を解散させるなど、世俗の権勢を振るったこともある。
    かつては塀の外から何となく景色を窺うことはできても、そこに立ち入ることなど想像もできなかった王宮だが、2007年8月に王室の手を離れて国有化された。その後もギャネーンドラ国王夫妻と家族はしばらくここに残ることが許されたものの、昨年6月に彼らはここを退去した。その数日後から、Narayanhiti Palace Museumとして一般に公開される博物館になっている。
    Narayanhiti museum (2008年6月16日付e-Kantipur)
    ここは、ツーリストゾーンのタメル地区からトリデーヴィー・マールグを東に歩いてすぐ。外国から来たオノボリさんが徘徊するエリアと隣り合わせたこの地域には、けっこう重要施設が多い。王宮脇を走るカンティ・パトとの交差点のところには文部省があるし、ここを左に折れると外務省がある。
    洒落たレストランやみやげもの屋が入居しているSanchaya Kosh Bhawan Shopping Centreの隣には、SAARC(南アジア地域協力連合)のセクレタリアートがある。ショッピングセンターの向かいあたりには、雑踏の中でよくよく目を凝らすとモロッコ大使館がある。
    SAARCの加盟国としての大切な機関でありながらも規模はコンパクト。しかも誰もが出入りできる商業ビルの上階から見下ろすことができ、正門が面する道路、トリデーヴィー・マールグからメインの建物までの奥行きもない。その他三方はザワついた商業地区である。破壊活動を企図するものがあれば、いとも簡単にターゲットにすることができそうで、様々な攻撃のシナリオが頭の中に展開してしまう。
    土地に根を持たない、不特定多数の人々が出入りし、多少奇妙な振る舞いをしても、そうそう怪しまれることのないような旅行者ゾーンのすぐ近くにこうした重要な施設があるというのはいかがなものか?と思う。
    もっとも、これらの施設はタメル地区が旅行者地区として発展する以前からあり、後から付近に商業地がジワジワと広がってしまったのであるが、こうした施設へと続く道が幾つもの検問所で仕切られるわけではなく、コンクリートブロックや鉄条網でがんじがらめになっているわけでもないが、今年5月に内戦が終結したスリランカでの同様の地域での警備の物々しさを思うと天と地の差がある。
    ご存知のとおりネパールでも内戦が1996年から2006年まで11年間の長きに渡って政府とマオイスト勢力として広く知られるネパール共産党毛沢東主義派との間で内戦が続いたが、その時代には地方の政府関係の建物や警察等に激しい攻撃がなされ、多くの人々が命を落とすことになった。
    現在、マオイストたちの指導部は大政党となっており、昨年4月の制憲議会選挙への参加の結果、世論が予想していなかった大勝利を収めた。だがそれに先立ち、彼らが政権議会選挙参加することについて、当時の政府側にマオイストたちが突きつけた条件のひとつに王室の廃止があった。
    『農村から都市部を包囲する』という毛沢東理論を実現したマオイストだが、武器を置いて当時の政権側と同じ土俵『選挙』で闘うことを受け入れるにあたり、彼ら自身を納得させる落しどころとして、無産階級の対極にある封建支配者(・・・の代表としての王制)を潰すことであったのだろう。ギャーネーンドラ国王は、様々なメディアで報じられていたとおり、マオイスト以外の市民たちの間でも、非常に不人気な君主であった。それでもこれが実現するにはかなり紆余曲折あったようだが、最終的にこれが実現することとなった。
    王宮が博物館として公開されることになったのは『マオイストのおかげ』ということになる。選挙で過半数には及ばずも一党になり世間を驚かせたが、他勢力との連立模索に関するゴタゴタが続き、プラチャンダ議長が首相に就任したのは同年8月であった。
    今年5月にマオイストの武装勢力『人民解放軍』の国軍への統合に強硬に反対する国軍参謀総長の解任・続投問題の絡みで連立政権が崩壊、これを受けてマオイスト以外の勢力()なんと22もの政党の寄り合い所帯!)が結集、マーダヴ・クマール・ネーパール氏を首相とする現在の内閣が成立するまで、責任ある与党の立場にあった。
    プラチャンダ首相の就任時、ちょうど昨年の今ごろだったが、インドのメディアは『隣国インドに対する彼のスタンスはどんな具合か?彼の首相として最初の外遊先はどこか?』ということで注目していた。インドと中国というアジアの二大巨頭に挟まれたヒマラヤの山国は、常にその両国との間で微妙なバランスの中で生きていかなくてはならない。
    もちろんインド側にしてみればネパールが中国と接近することに対する大きな不安がある。近年中国との関係は改善に進んでいるものの、1960年代初頭に軍事衝突を経験し、ラダックのアクサイチンを失っていることに加え、他にもアルナーチャル・プラデーシュ、スィッキムといった領土問題(中国はこれらの地域がインドに帰属することを認めていない)等がある。さらには常々緊張をはらむ西の隣国パーキスターンに支援を続けてきたのがこの大国でもある。安全保障上、この国の存在はインドが核を保有する動機はパーキスターンのみならず、その後ろ盾でもあり自国と長い国境線を接する中国の存在である。
    対中国不信感が根深いこともあり、南アジアの『毛沢東主義者』と現在の中国共産党との結びつきはほとんどないとされるにもかかわらず、インドの人々の間では、ネパールのマオイストにしても、自国内で暗躍する『マオイスト』『ナクサル』などと呼ばれる極左過激派たちは親中国であり、中国政府から相応の援助を受けているはずだと、本気で信じている人が少なくないようだ。
    それがゆえに、南アジアの友邦ネパールが、急に中国側へと大きく舵を切るのでは?と疑心暗鬼になるのもわからないことではない。インディア・トゥデイ誌も制憲議会選挙で第一党となった際、またプラチャンダ議長の首相就任時にも、彼に関する詳細な記事を掲載していたし、彼に対するインタヴュー記事にも大きな誌面を割いていた。
    彼自身は、ネパールとインド両国の伝統的な関係を維持していく・・・といったごく当たり障りのないことを語っていたようだ。だが昨年8月といえばちょうど北京オリンピックの開催時期。他国の多くの国家元首級の人たちと同様に中国の北京の五輪会場に姿を現した。その結果インドのメディアは『プラチャンダ議長がネパール首相として最初の訪問先は、やっぱり中国』と大いに失望させられた様子であった。
    ネパールの人々のインドに対する気持ちには複雑なものがあるにしても、国家としてはインドから見て伝統的に友邦としての関係を維持しているネパール。しかしインドは自国に敵対的な組織により、出撃基地として利用されて大火傷を負った苦い記憶がある。1999年12月に起きたインディアン・エアラインスのハイジャック事件だ。
    カトマンズ発デリー行きのIC814は、パーキスターンを本拠地とするイスラーム原理主義過激派組織、ハルカト・ウル・ムジャヒディーンの一味に乗っ取られた。飛行機はアムリトサル、ラーホールそしてドゥバイへと移動した後、アフガニスタンのカンダハールに着陸し、インド当局との厳しい交渉を重ねることとなった。
    事件発生から1週間後、当時のインド政府の外務大臣、ジャスワント・スィンは犯人たちが要求したインドで服役中のモラーナー・マスードをはじめとする3名のパーキスターン人過激派指導者たちを連れてカンダハールの空港に現れた。彼らの釈放との交換で、乗客たちがようやく解放されることとなった。
    このあたりの時期、ネパールでバーキスターンのISIならびにイスラーム過激派組織の構成員たちが頻繁に出入りしているだの、インドと国境を接する平原部のネパール側で、やたらとマドラサーが増えてきているだの、その建設資金が外国から流入しているだのといった報道がインドのメディア紙上に出ており、ネパールを基点に何か良からぬことが起きなければいいのだが・・・といった調子の記事がしばしば見受けられた。
    それが最も判りやすい形で実際のものとなってしまったのが、1999年のハイジャック事件だ。この国がインドと敵対する勢力によって攻撃基地として用いられた場合、インドの喉元に突きつけられた剣となり得る。
    自国の影響が大きな地域であり、SAARC内の他国との間にはない、ある意味格別な関係のあるネパールだが、言うまでもなく主権を持つ独立国である。インド憲法356条により認められた、必要とあれば州政府を罷免して大統領による直接指揮下に置くことができる自国の諸州とは違う。
    それがゆえにインドとしては、この国の政権の安定した運営とインドに対する友好的な姿勢を希望するし、そうであるように外からいろいろと工作を仕掛けるほかない。同様に中国もそれとは逆の立場、対インド工作の足掛かりとしてネパールを抱き込みたいがゆえに、様々な開発プロジェクト等のパッケージを提示したりして、ネパール政府の気を引こうとしている。
    話が大きく逸れてしまった。Narayanhiti Palace Museumを見学した印象については次回書くことにする。

  • いい仕事

    インド国鉄のウェブサイトを開けば、サイドメニューのところにある『Time Table Information』のところから、現在駅で販売されている内容の鉄道時刻表Trains At A Glanceのコンテンツがそのままダウンロードできる。
    PNRのステイタスもウェブでチェックできるし、割り当ての席数の関係からか、窓口ではまだ空席があっても、けっこう早く満席と表示される傾向があるものの、IRCTCのサイトで列車がネット予約できるのは便利だ。IRCTCのコールセンターは比較的つながりやすいし、問い合わせのメールを送れば、これまた割と迅速に対応してくれる。
    これらは、今ではごく当たり前のことになっているが、近隣国の鉄道事情を鑑みれば、インドの鉄道の利便性はネットワークの広大さと合わせて比較しようもないほど際立っている。
    駅や車内設備については言うに及ばず、濃霧や大雨の時期など、天候条件のよくない季節にはダイヤが乱れるきらいはあるし、目を覆いたくなるような大事故のニュースも珍しくないなど、器の面での進歩の速度に較べて、90年代以降の列車予約に関するソフト面でのサービス向上には著しいものがある。
    かといって、ハード面では進化していないなどと言うつもりはない。よくよく考えてみるまでもなく、ハードの部分でも相当な進化を続けていることも忘れてはいけないだろう。
    空調付きのクラスとその車両が増えたことに加えて、長距離ならびに中・近距離の特別急行、ラージダーニーとシャターブディー双方の運行ネットワークの広がり、これらの廉価版ともいえるガリーブ・ラト、首都デリーと様々な州の要所をごく少ない停車数で結ぶサンパルク・クランティといった、近年導入された新規の特別急行もある。
    比較的目立ちにくいものの、利便性向上とネットワークの効率化に多大な貢献をするものとして、メーターゲージ路線のブロードゲージ化の進展がある。これによって、先述のTrains At A Glance綴じ込みの鉄道地図を見てわかるとおり、図上で紫の線で示されたメーターゲージは、今やグジャラート、ラージャスターン、タミルナードゥの特定部分を除けば、ほとんど目立たなくなっている。
    とりわけ前者二州、つまりグジャラート、ラージャスターンといった旧藩王国が割拠していた地域では、狭いゲージの藩立鉄道路線が多く、あまり合理的とは思えないルーティングも少なくなかったようなので、これらをかなり整理してブロードゲージの幹線に統合できたのは大きな進歩ではないだろうか。
    そんなわけで、昔と違ってデリーから直接ジャイサルメールに乗り入れることができるようになっているし、かつてはメーターゲージのジャンクションだったジョードプルも幅広なゲージでより多くのエリアと繋がることになった。さらにはグジャラートのカッチ地方の最大の町ブジにさえもデリーから途中乗り換えすることなく、ブロードゲージの路線で到達することができる。
    他にも高速鉄道導入計画もあるし、私たち乗客としての目から眺めて気がつくところは他にもいろいろあるにしても、旅客輸送以外にもうひとつの大きな業務である貨物輸送の分野でも、我々の気づかないところで、いろいろな進化があるのではないかと思う。
    いい仕事をされていますなあ、インド国鉄のみなさん!

  • 世界遺産をチャーター

    Mountain Railways of Indiaとして世界遺産登録されているインドの山岳鉄道群。1999年にダージリン・ヒマラヤ鉄道が、その鉄道名そのままで登録されて以降、2005年にはニールギリの山岳鉄道が追加登録されるにあたり、『山岳鉄道群』という扱いに変更された。
    そして昨年2008年にはカルカー・シムラー鉄道が追加され、合わせて三つの路線がこの『山岳鉄道群』に含まれている・・・とくれば、インドの鉄道好きな人ならば即、マハーラーシュトラのマーテーランのトイトレインの姿が瞼に浮かぶだろうだが、もちろんマーテーラン丘陵鉄道も近々世界遺産登録入りする見込みらしい。
    世界遺産入りを果たしたシムラー行きトイトレインの路線だが、起点のカールカーから終着駅シムラーまで4.970 Rs, 逆にシムラーからカールカーまでは3.495 Rs, 往復ならば8.465 Rsで借り切ることができる。片道5時間余りの道のりだが、車窓からの景色を満喫しながら、仲間たちとワイワイ楽しむのもいいかもしれない。Shivalik Palace Tourist Coach という名の車両で、さしずめインド版お座敷列車といった風情。
    The Kalka Shimla Heritage Railway (Indian Railways)
    おそらくインド国内外のツアー・オペレーターたちからの引き合いも少なくないことと思われる。また往復のパッケージの場合、シムラーでの一泊分も付いているとのことで、チャンディーガルを含めたカールカーから近場の街のグループによる利用もけっこうあることだろう。
    なおカールカー・シムラー間で、チャータートレインを走らせることもできるとのこと。料金は約28,000 Rs。1日の定期便本数が往復4本と少ないため、こういうことも比較的やりやすいはず。映画やドラマの撮影向けといったところかもしれない。
    いずれにしても世界遺産を個人で借り切るというのはなかなかできない経験だ。機会があって人数も集まれば、試してみるのもいいのではないかと思う。

  • トラ保護区にトラの姿なし・・・

    トラの親子
    ここ数年来、インドのトラ保護区内で、肝心のトラが激減、はてまた絶滅・・・といったニュースはしばしば目にしていたが、ここにきて再び残念なニュースが伝えられている。
    Indian tiger park ‘has no tigers’ (BBC South Asia)
    昨年7月にトラ絶滅が明らかとなったラージャスターンのサリスカー国立公園に続き、『トラが絶滅したトラ保護区』とは、マディャ・プラデーシュ州のパンナ国立公園ならびにサンジャイ国立公園。前者は3年前には24頭、後者は1990年代後半に15頭の生存が確認されていたという。
    パンナ国立公園のほうは評判が高かったようで、2007年にはインド政府から『ツーリスト・フレンドリーな国立公園』として表彰を受けている。同公園のウェブサイトではトラの姿や足跡などがあしらわれているのが皮肉である。
    もっとも上記の記事によれば、パンナ国立公園では近隣のトラ保護区からすでに2頭のメスのトラを移住させており、今後オス、メス各2頭ずつ運び入れる予定であるとのことで、現時点でトラがまったくいなくなっているということではないようだ。パンナ国立公園に先立って主人公不在となったサリスカー国立公園も同様にランタンボール国立公園からトラを移送して再定着を図っている。
    自国の固有種のトラの保護を目的して、インド政府が1973年に立ち上げた『プロジェクト・タイガー』のもと、現在全国で40あまりのトラ保護区が展開している。先述のパンナ国立公園にしてみても、森林の保護状態についても高い評価が与えられているようで、環境は決して悪くないようだが、最大の問題はやはり密漁ということになるようだ。
    だいぶ前に他の国立公園内をチャーターしたジープで夜間に見物に回ったことがあるが、様々な夜行性動物を目にした後、暗がりから突然大きな動物が二本足歩行でヌーッと出て来て『でかいサルだぁ!』とたまげたことがある。
    よくよく見るとそれは人間で、密漁を監視する公園内のレンジャーであるとのこと。詰所を拠点に広大な敷地内を24時間体制で見回りを続けているということで、待遇もあまり良くないであろう彼らの奮闘には頭の下がる思いがした。しかし密猟者たちとの共謀といった形での汚職は少なくないとの話も他のところで聞いてはいた。
    だが密漁の横行の背景には、観賞用としての頭部や毛皮はもちろん、歯や骨なども漢方薬の材料として高値で取り引きされるという需要があるがゆえのこと。日本をはじめとする東アジアの国々もインドのトラの個体数激減に対する責任がないとは言い切れない。それがゆえに上野動物園のトラ舎入口付近にもインドにおけるトラの密猟と私たちが実は繋がりを持つものであることを訴えるポスターが貼られているのである。
    トラ保護区での個体数激減という、国立公園における現象面のみ伝えているインドおよび内外のメディアには、密漁されたトラの利用と売買の状況、姿を変え『製品』と化して各国の市場へと流れるルートについても、ニュースの受け手にわかりやすく、具体性を持って伝えてくれないものだろうか。
    トラに限ったことではないが、密漁等のために世界各地で絶滅が危惧されている種の保存は、現地当局の努力のみならずその動物ないしはそれから生じる製品が売買されるマーケットを極力縮小させる努力、つまり『トラ製品』の末端の購買層となりかねない私たち市民に対する啓蒙活動もまた大切であることは言うまでもない。

  • 国際線もKingfisher !

    昨年9月からバンガロール・ロンドン便を就航させているキングフィッシャー・エアラインス。
    今では、バンガロールならびにチェンナイからコロンボ、コールカーターからダーカー、そして今月25日からは、バンガロールとドバイを結ぶようになる。
    2005年にスタートした新興航空会社ながらも、インドの航空会社らしからぬ華やかなイメージ戦略とともに急速な路線拡大を続けてきた。
    エア・デカンを吸収した後、ジェット・エアウェイズに次いで国内線シェア第2位の座を不動のものとした同社は、国際線の舞台においても存在感のあるものとなりつつある。
    近々予定されているバンコク乗り入れが実現すれば、私たち日本人にとっても国際線で利用する機会の多いキャリアとなるのかもしれない。
    参考までに、現在の同社のフライトスケジュールはこちら。
    キングフィッシャー・エアラインス時刻表
    今後、特に近隣国への乗り入れを充実させていくものと思われるが、すでに就航しているロンドン便以外にも、サンフランシスコ便のような長距離便就航の計画もある。
    将来、同社のフライトが成田あるいは関西に乗り入れるほど、インドと日本の関係が密になる日が訪れるのかどうかわからないが、今後もいろいろ利用する機会が増えそうな予感がする。

  • 泰緬鉄道

    ミャンマーからバンコクに戻った翌日、旧泰緬鉄道に乗ってみることにした。ご存知のとおり、旧日本軍がビルマ戦線における物資輸送等のため、連合軍捕虜やアジア各地から徴用された人々に大きな犠牲を強いて作らせた鉄路である。
    当時のビルマ(現ミャンマー)は、インパール経由でインドに侵入するための、いわばベースキャンプのようなロケーションであったがゆえに、旧日本軍はこの路線の建設を強行させたものである。バンコクから北西に進んでビルマ国境を越え、モールメイン(現モウラミャイン)、マルターバン(現モッタマー)を経て、ヤンゴンへの移動を可能とするものであった。
    インド亜大陸に続いてビルマでも鉄道ネットワークを拡大させていたイギリスも統治下にあったビルマからタイへと至るこのルートの構想は抱いていた。しかし土地の起伏が大きく、ジャングルに覆われたこの地域で鉄路の敷設は困難でコストに見合わないとして、これを実行に移すことはなかった。
    現在、ミャンマー側ではこの路線は廃線となっている。タイ側は、映画『戦場に架ける橋』のモデルであるとして広く知られるクワイ河鉄橋からしばらく先に進んだナムトーク駅が終点となっている。
    思い切り早起きしてタクシーを拾い、ホアランポーン駅へと向かう。土曜日と日曜日にはナムトクまでのツーリスト列車が朝6時半に出ているとのことで、これをアテにしていたのだが、残念なことにすでに満席とのことだ。
    再びタクシーに乗り、毎日ナムトクまでのローカル列車が上り下りとも2本ずつ出ているトンブリー駅に行く。出発時間は7時45分とのことで、まだずいぶん時間があるため、駅外に広がるマーケットを物色。ここで朝食用に弁当とスナックを買い、駅のベンチで国鉄労働組合による『民営化反対』というポスターを眺めながら食べる。
    トンブリー駅を出発
    週末のためか人が多く混雑しているが、なんとか席を確保することができた。しかし陽が照りつけてくる側の窓際になってしまったので、走り出すなり暑さで消耗する。タイはどこでもそうだが、ヴィックス・インヘラーの安価な類似品をひっきりなしに鼻に当てている人が今多い。確かにクールな刺激で、涼しく感じる効果はあるようだ。
    路線は単線だが、そもそも本数がとても少ないので、擦れ違う列車はほとんどない。それでも週末のみのツーリスト列車の運行を最優先にしている(?)のか、特に遅れる理由は見当たらないのに、着く駅ごとに遅れが蓄積していく。
    途中駅
    トンブリー駅を出てか市街地を抜けると、水と緑豊かな光景が続く。ときおり町に入るが、やがてまた田畑の続く単調な風景。カンチャナブリーまではこうしたどうということのない眺めが続いた。
    国際列車の車両
    途中駅で、バンコクからシンガポールまでマレー半島を縦断して往復する国際列車の車両が停まっており、制服のスタッフらしき人々の姿も見えた。この列車のルート上ではないため、おそらく職員の研修を行なっているのではないだろうか。
    クワイ河鉄橋
    カンチャナブリーで大半の乗客が降車。ようやくゆったりと腰掛けることができるようになった。ここからの景色はそれまでとだいぶ様子が変わり、大きな町らしきものはほとんどなく、起伏の多い地形が随所に見られる。
    20090604-view.jpg
    ダイナマイトで爆破したと思われる切通しや崖には、荒々しく掘削した跡も残っており、そういうところに架かる危なっかしい橋梁では、列車は徐行して進む。しかし暑さで感激するココロも緩んでしまっているようで、いまひとつ気が乗らない。
    20090604-bridge2.jpg
    ナムトークまであと一駅
    これが遠くビルマまで通じていたころ、モールメインまで何時間かかったのか知らないが、今日トンブリーからナムトークまで7時間かかった。トンブリーに折り返し出発するまでの停車時間に、あたりを多少散歩でもするつもりだったが、駅員によると『かなり遅れたので、今すぐに出ます』とのこと。
    その帰りの列車も途中さらに遅れ気味で、蒸し風呂状態の車内で疲れ果ててしまい、カンチャナブリーに着いた時点でリタイヤし、バンコク行きのエアコンバスを捕まえるために、サムローでバスターミナルに向かう。
    一部を除いて景色が単調なことに加えて、耐え難いくらい暑い車内には参った。もうちょっと涼しいときにくれば良かったかな?と少々反省である。

  • インドの東6 コロニアルな新聞

    ラングーン・タイムス
    ミャンマーは、旧英領とはいえ、現在は英語による出版活動が盛んではないうえに、表現の自由に大きな制限があることもあり、最大の都市のヤンゴンであっても、本漁りはあまり期待できない。
    ダウンタウン周辺で、いくつかの書店を覗いてみたが、およそ英語で書かれているものといえば、語学学習書と辞書、あるいはコンピュータ関係書籍くらいのものだろうか。
    ビルマ語の書籍にしてみたところで、表紙を眺めてみて想像できる限りでは、当たり障りのない小説、学習参考書、実用書くらいしかないように思われる。
    そんなわけで、特にここで本を購入するつもりはなかったのだが、各国の大使館が点在するアーロン・ロード地区の一角に、ミャンマー・ブック・センターという店があり、そこの一角にはミャンマーの歴史や社会について書かれた英文の書籍が置かれているということを聞いた。あまり期待していなかったが、ダウンタウンから遠くないこともあり、ちょっと出かけてみることにした。
    タクシーで乗り付けてみたコロニアルな建物は、『書店』というよりも、ヤンゴンにおいては異例なほど大きく、かつ洒落たみやげもの屋といった風情である。そのたたずまいを目にしてガックリきたが、とりあえず建物の上階に書籍があるというので、階段を上ってみる。
    3階にある書籍コーナーは、インドの鉄道の一等コンパートメントの3倍くらいのスペースしかなかったが、植民地期の出版物の復刻版が多く、なかなか興味深かった。
    また独自の社会主義路線を歩み始めたころに、当時政権を担っていた社会主義計画党関係機関が机上で描いた(?)明るい将来を伝えるプロパガンダ書籍なども書棚で見かけた。
    そうした中からいくつかの書籍を購入してみた。それらの中で『The Rangoon Times Christmas Number』なる題で、1912年から1925年までの英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス版をまとめたものは、まさにそれを読んでいた人々の息吹を感じさせてくれるようであった。
    この時代のラングーン、つまり現在のヤンゴンは、国そのものが英領インドに属していたことのみならず、人口の面からも『インドの街』であった。1912年においては、ビルマ族とカレン族ならびに地元の他の民族を合計した人口が10万3千であったのに対し、インド人18万8千人と、2倍近い数を占めており、マジョリテイがインド人であったのだ。ちなみに他の民族については、中国人2万3千人、イギリス人を含めた欧州人が3500人余り、アングロ・インディアンおよびアングロ・バーミーズが8300人少々、その他アルメニア人とユダヤ人が少々といった具合だ。
    さて、この新聞のクリスマス版は、在住のイギリス人社会における出来事や彼らを中心とするビルマの発展と進化について、その年に起きたことを回顧するものとなっている。デルタ地帯の河下り旅行記、行政や教育に関する話題、狩猟やポロにサッカーといったスポーツ、大きな鉄道事故に洪水といった惨事、政府や軍などの式典、イギリス人富裕層の見事な屋敷の写真その他いろんな記事が掲載されている。
    この時代の広告を眺めるのもなかなか面白い。この時代は銃の規制などなかったのだろうか、洋服や靴のものと並んで広告が出ている。今も世界各地で親しまれているホーリックスのアドバタイズメントは掲載されているが、当時も同じ味だったのだろうか。イギリス本国はもちろんのこと、インドを本拠地とする商社や銀行なども紙面各所に広告を出している。アサヒビールの宣伝もあり、現地の取扱代理店は、三井物産ラングーン支店と書かれている。
    銀行の広告
    20090531-asahi.jpg
    船会社の広告もある。人々が飛行機で移動するようになる前の客船全盛の時代だけに、なかなか興味深い航路がある。ロンドンから地中海、そしてイエメンのアデンを経てコロンボ、さらにはペナン、シンガポール、香港、上海ときて日本にいたる定期便の記述もあるが、どのくらいの時間がかかったのだろうか。
    当時のカルカッタ、ボンベイ、カラーチー、マドラス、コロンボ、ラングーンといった地域の主要港から域内を結ぶ便についても書かれている。特に当時のインド西部から今のガルフ諸国の港への便がけっこうあることに加えて、今はほぼ荷物の出入りに限られる港、例えばグジャラートのマンドヴィー、ポールバンダル、あるいは漁港として知られるタミルナードゥのナーガパトナムなどといった港をはじめとする地域の代表的な海港が、当時は外の人々に対する玄関口としての役割を担っていたことを改めて思い起こさせてくれる。
    船会社の広告
    それでも便数は週一便、二週に一便などといった記述が並び、今の主だった国際線・国内線の空港と違い、『主要港』といってもずいぶんのんびりとしたものだったことだろう。
    他に購入した本も含めて、いろいろ興味深いことが書かれていたが、また何か機会を見つけて取り上げてみたいと思う。

  • インドの東5 シナゴーグとユダヤ人墓地

    ミャンマーでは独立後に教育や行政で用いられる言語におけるビルマ語化を積極的に進めたため、旧英領の割には英語の通用度は著しく低い。英文による出版活動にも非常にさみしいものがあるようで、市中の書店を覗いてみても、新聞や雑誌等に英文のタイトルが付いていても、中身はすべてビルマ語である。
    例外的にThe New Light of Myanmarという英字紙が出ているが、ページは少ないし、中身も政府の公式発表ばかりなのでちっとも面白くない。
    そんな中で、ヤンゴンのダウンタウンにおいて、特に北インド系の住民が多い地域では、ヒンディー/ウルドゥーを話すことができる人たちが多いだけでなく、そうした人々同士が、これら『父祖のコトバ』で話しているのを耳にする機会は多い。
    それでも彼らがこうした言葉で出版活動を行なっているわけではなく、あくまでも日常生活の中での会話でのみ使われているという具合のようだ。独立まもない時代には、インドの各言語、中国語等による新聞なども出ていたそうだが、現在のミャンマーにおいて、これらの言語による出版の自由はない。
    幾度かヤンゴンを訪れて散策してみた印象でしかないので確かなものではないが、特にインド系のモスクが存在する地域で、彼ら自身の民族の言葉を使うことができる人の割合が高く、彼ら同士がこれで会話しているのを耳にする頻度が高いように感じられる。もちろんインド系ムスリムとしてのアイデンティティということもあるかと思うが、宗教を通じた言語教育もなされているのではないかと想像される。
    そのインド系ムスリム地区の真っ只中にあるのがこのシナゴーグだ。以前も書いたとおり、18世紀初頭から、現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたものの、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降とのことである。
    イギリスによる支配とは、つまり当時の英領インドによる軍の遠征と領土の併合であったことから示唆されるとおり、それ以降この地に定住したユダヤ教徒とは、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒がマジョリティを占めるようになり、1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、さらに彼らが勢いを得ることになる。
    米、チーク材、綿花などの輸出業をはじめ、この時代に盛んであったアヘン取引はもちろんのこと、軍需にかかわる物資の交易に従事して富を築いた者も多く、行政当局との繋がりが深く利潤の高い取引を通じて、経済的に高い地位を得ることになる。
    1937年にインドと分離して英連邦内の自治領となった後、アウンサン率いるビルマ義勇軍とこれに協力した日本軍によるイギリス勢力の駆逐、日本軍がインパール作戦に敗れた後に1945年に連合軍による当時のビルマの奪回、1948年に英連邦を脱して独立国家としてのビルマ連邦の成立といった一連の大きな動きの中で、彼らの多くはインドに戻ることになった。
    かつて帝国主義勢力の片棒を担いで繁栄を謳歌していたユダヤ教徒たちにとって、ビルマ人たちが主権を回復しての新生国家は決して居心地の良いものではなかったようだが、彼らのほとんどがこの地を捨てて国外に活路を求めることになった決定的な事件が1962年に起きた軍によるクーデターだ。
    ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党による急進的な国粋主義化、とりもなおさずビルマ民族主義化という流れの中で、多民族から成るモザイク国家における総人口の7割近くを占めるビルマ族の民族文化を前面に押し出した政策により、シャン族、カレン族その他の少数民族の不満が高まることになる。
    だが主に都市部に集中する外来のユダヤ教徒たちは、もはやイギリスという大きな後ろ盾もなく、存亡の危機を迎えることになった。その結果、今日ヤンゴンに残っているユダヤ人は、わずか8家族に過ぎないとされる。
    以前、ヤンゴンのインドなエリア(4)で取り上げたが、2007年にネピドーに遷都されるまでミャンマーの首都であり、今でもこの国最大の都市でもあるヤンゴンには、シナゴーグがある。
    シナゴーグ建物外観
    以前ここに夕方来たときは、中に誰もいないようで見学することができなかった。今回は昼前にやってくると、通りに面した門は鍵を閉ざしているものの、声をかけてみると世話人らしき者が『何か御用で?』と、やや不審そうな面持ちで出てきた。インド系男性で、この人はヒンディー語を話す。
    ヤンゴンのユダヤ人コミュニティのことに関心があり、中を見学したい旨伝えると、『さあどうぞ』と、門を開けてくれた。中の建物は普段は施錠してあり、中に入ることはできないとのことだが、朝10時から正午までの責任者が来ている時間帯のみカギが開けてあるので入ることができるとのことだ。
    シナゴーグ内部
    1854年の建設当初は木造であったが、その後1893年から1896年にかけて、現在のレンガ造りのものに建て替えられたものであり、そのことが建物の礎石にも記されている。
    あいにく責任者の男性は席を外しているとのことで会うことはできなかったが、名刺だけもらっておいたが、これがその後訪れたユダヤ人墓地で役に立つことになった。
    シナゴーグはインド系ムスリム地区の真っ只中にある。敷地内で雇われている使用人たちはすべてムスリムであり、責任者だけがユダヤ教徒なのだそうだ。パレスチナ問題と合わせて、イスラーム教徒とユダヤ教徒が対立する存在であるように描かれることが多い。
    だが、それ以前にはアラビア各地で同じ啓典の民としてそれなりの庇護を与えられ、ムスリムたちと共に繁栄してきたことは広く知られているとおり、ここヤンゴンにおいては同じインド系住民として互助的なつながりのもとに共存してきたことをうかがわせる。
    今ではほとんど消滅してしまったのも同様のユダヤ教徒コミュニティと記念碑的に存在しており、定期的な礼拝も行なわれていないというシナゴーグだが、毎年イスラエルやアメリカからユダヤ同胞団体がここを訪れ、施設保守等の目的で相当額の寄付を置いていくのだそうだ。
    門を開けてくれた男性に、ユダヤ人墓地の場所を尋ねると、ここからそう遠くないところにあることがわかった。Bo Min Yaung RD.とMyanma Gone Yi St.の間にある91st St.という細い道にあるとのことだ。ここも普段は施錠されているが、昼間ならば墓守がいるから、ここで中に入る許可を得たことを伝えてくれと言う。
    Myanma Gone Yi St. この背後にユダヤ教徒墓地がある
    タクシーで向かうと、そのエリアはタミル系住民が多く住む地域らしく、それらしい人々の姿や南インド式のヒンドゥー寺院などが目に入る。
    『ここがそうだと思う』とタクシー運転手が指差した先には、塀の向こうに茂みが広がるのみ。墓地らしき風情は見当たらず、近くの雑貨屋に入って尋ねると、ちょうどそこで買い物をしていた男性が日本語のできる人だった。
    『東京、千葉や茨城に住んで仕事をしていたことがあります。もうずいぶん前に帰国したんですが』
    チャーリーと名乗る彼はアングロ・バーミーズで、風貌からしてインド系にも見えるとのことで、東京都内のある有名なインド料理店で働いていたこともあるそうだ。
    『すぐ近くですから』と彼は墓地まで案内してくれた。彼は墓地のすぐ隣の古めかしいアパートの5階にて、家族5人で暮らしており、いつも家から墓地を眺めていると言う。
    彼の父親が子供のころには、墓地は近所の同年代の子たちの遊び場になっていたそうだが、今では高い塀に囲まれ、入口には門番が常駐するようになり、普段入ることができなくなっているそうだ。
    ゲートに着くと、案の定施錠されており、管理人らしき初老のヒンドゥー女性とその関係者(?)らしき複数の人物に声をかけると、入場を断られたものの、さきほどシナゴーグでもらっておいた責任者の名刺を見せると、すんなりと中に入れてくれた。ゲートの外からならば構わないが、中に入ってから写真は撮らないでくれとのことだ。
    ユダヤ教徒墓地
    比較的広い敷地の中には、沢山の墓石がある。中にはいくつか英語も併記されているものもあるが、ほとんどヘブライ語で記されているので、何が書いてあるかわからず、どういう人物がここに埋葬されているのか見当もつかないのは残念である。
    墓地の中を散策しながら、チャーリーさんの話を聞いているうちに、どうやら在日ミャンマー人の中に共通の知人がいるらしいことに気がついた。世の中とは案外狭いものであることを実感しながら、しばし世間話をしながら午後の暑い時間帯をのんびり過ごした。

  • インドの東4 バガンの宮殿

    復元された宮殿
    昨年1月に落成したという宮殿に行く。もともとバガンにあったものを再建したものだという。木造である。しかしながらあまりに新しいということもあり、映画のセットみたいな感じだった。ここも入場料5ドル。地元の人は500チャットだ。博物館入場料も同様だが、展示物等の内容に比してずいぶん高いな・・・と感じずにはいられない。
    旅行に関して、この国のシステムは特殊であるといえる。まず外国人に対して、米ドル現金払いが求められるケースが多いこと。代表的なもの一例としては、以下の事柄が挙げられる。
    ・ホテルの宿泊費
    ・メジャーな観光地の入場料
    ・出国の際の空港税
    また両替について、基本的に市中で行なうことになる。銀行などの金融機関や両替商として店を構えたものではなく、一般の商店とりわけ貴金属商、みやげもの屋、ホテルなどで、市中の実勢レートで交換するものである。
    ヤンゴン市内のごくごく一部を除き、現地通貨チャットに交換できるのは、米ドル現金のみとなる。国際キャッシュカードで現金を引き出せるATMなど存在しないし、買い物その他の支払いについて、ごく一部の外資系ホテルを除き、クレジットカードやトラベラーズチェックは利用できないため非現実的だ。また5%程度の手数料がかかる。
    米ドル現金しか使えないことについては、まずはチャット換算の際のレートについて、公定レートと実勢レートの間にあまりに大きな乖離があることもあるが、アメリカによる経済制裁もその理由として挙げられる。
    国際的な金融システムから切り離された形になっているため、普段私たちが旅行の際に利用する金融商品を用いることができないのである。この点については北朝鮮やキューバと事情は共通している。
    限られた期間のみ、旅行で訪れる私たちは特にこれでも構わないのだが、例えばこの国から外国に留学しようという場合、とても厄介なことになる。
    ミャンマー政府が市民に対して国外への外貨送金を認めていないこと、チャットという通貨が国外で通用しないため、これによる国内での預金が外国でそれ相応の資産と認められない。もちろんミャンマーにも経済的に豊かな層は一部存在するのだが、受け入れ側の国に対して、学生が経済的な支弁能力を立証する術がない。
    例えば日本に留学したいという場合、ミャンマー国内在住者による私費での支弁という形はまずあり得ない。支弁する人がミャンマー国外で収入を上げて貯蓄しているのでないと門前払いとなる。
    もちろんミャンマーから国外に送金するルートがないわけではない。インドやパーキスターンの闇送金と同じシステムがあるが、『闇で貯め込んだ米ドルをハワーラー送金により学費・生活費を支弁します』などという理屈が通るはずはない。
    ミャンマー人が日本で暮らす際、東京のミャンマー大使館に月の収入の10%を『税金として納める』という奇妙な決まりもある。国外で発生した収入に対して、同国政府が課税する権利はないはずなのだが、同国政府の貴重な外貨獲得手段のひとつとなっている。
    政府が発行するパスポートの有効期限が2年間と短いこともあり、うっかりしているとすぐに失効してしまう。在留中、もし税金とやらを支払わないと、どういうことになるのかは火を見るより明らかだろう。
    ただし留学生についてはこれを免除するということになっていることから、ミャンマー人留学生が来日して学校に通うようになってから、まず最初にしなくてはならないことが、在学証明書を取得して、大使館に提出することである。
    かなり脱線してしまったが、話はバガンに戻る。遺跡巡りをしている際、物売りの子供たちがあちこちから出てきて、あれやこれやと売ろうとするのだが、彼らが手にしていた品物の中で、唯一私の興味を引くものがあった。
    Burmese Days
    小説家ジョージ・オーウェルの処女作、BURMESE DAYS(邦題:ビルマの日々)である。
    こんなところで売られているものなので、バガンの空港の入域料徴収担当者が販売していたのと同じ海賊版である。イギリス版のPenguin Booksのコピーだが、夕方以降出かけるところもなく、読めそうな印刷物も見当たらないバガンの夜は退屈だ。ガイドブック以外に本や雑誌類を持ってきていない私にとって大変ありがたい。
    ジョージ・オーウェルは、1903年に現在のビハール州のモーティハリ生まれのイギリス人。少年時代をイギリスで過ごして教育を受けたが、もともと彼の親族が当時の英領インドに多く暮らしていたこともあってか、長じて彼が赴いた先は当時インドの一部となっていた現在のミャンマー。インド帝国警察のオフィサーとしてしばらく過ごした経験がある。おそらくそこで彼が見聞したことが下敷きになっていると思われるこの小説の舞台は、植民地経営にたずさわる役人や事業家などが暮らす、マンダレーの近くの田舎町。
    イギリス人たちのクラブを中心とする狭い社会の中で、そこに出入りする人々、英緬混血児、新天地に移住してきたインド人たち、彼らに様々な形でかかわる地元民たちの人間模様が闊達に描き出されている。植民地における在住イギリス人たちの暮らし、彼らと地元の人々等とのかかわりを考えるうえで興味深い作品のひとつである。
    夕方、宿に戻ってシャワーを浴びてからゆっくりとページをめくる。あたりを見回してみると、国が独立したこと、電気が通じた(といっても、自家発電機がなければ、送電は夜間に数時間しかないようだ)ことと、水道が引かれたことを除いては、この小説の舞台となっている1920年代に比べて、ミャンマーの田舎の人々の暮らしのありかたはあまり大きく変わっていないのではないかと思われる。そんなことに妙な臨場感を感じたりもするのははなはだ残念なことであるのだが。

  • インドの東3 バガン遺跡巡り

    20090519-statue1.jpg
    朝方まだ涼しいうちに宿の近くのレンタサイクル屋に行き、まずはマーケットで午前中開かれている朝市に行く。ここでは野菜、果物や魚などが売られている。ドリアンを手に入れたかったのだが、残念なことに見つからなかった。
    朝市
    上ビルマでは一般的にドリアンはあまり好まれないため、下ビルマほどふんだんに売られていないのだということは聞いていたが、このマーケットでも、早朝にはチョコッと並ぶが、すぐになくなってしまうとのことだ。ちょっと残念である。
    朝市の主役は女性たちだ。男性で何か商品を持ってきてここで売っている人は皆無ではないにしても、朝市においては見渡す限り売り手はほぼ全員女性。昨日訪れた近くの屋根付きの常設の市場のほうには男性もけっこういるのだが、朝市に限っては、売り手も買い手も圧倒的に女性が多い。
    これがインドであれば、売り手はほとんど男性、買い手も多くが男性ということになるのだろうが。女性が外でよく働いているという点では、他の東南アジア各地と共通とはいえ、北東インドのモンゴロイドがマジョリティのところにも通じるものがある。
    さまざまな新鮮な食材を目にすると、ちょっと料理の腕(・・・というほどのものではないのだが)を奮ってみたくなった。
    井戸
    余計なことかもしれないが、少々気になることがある。町のあちこちに井戸があるのはいいのだが、縁の部分がごく浅く、中には深い漆黒の闇。枯れているものも少なくないようだが、ちゃんと水をたたえているものもある。小さな子供はもちろんのこと、大人でも酔っ払いは要注意かもしれない。
    尼さんたちが托鉢中
    尼さんたちが托鉢している町中を抜けて、遺跡が散在するオールドバガン、ミィンカバー方面へと向かう。自転車があると身軽だ。沿道の遺跡を訪れたり、道路から外れた砂地の轍の上をなぞりながら、彼方に見える仏塔を目指したりする。
    カラカラの大地に点在するサボテン。バガンの大地が『テキサスに似ている』というアメリカ人がいたが、確かに西部劇風の荒々しい風景である。そんな中に散在、ところによっては林立している、と表現してもよいくらい沢山の優美なパゴダの姿がある眺めは、その場に身を置いてみても、まるで夢を見ているかのようで、現実感が薄い気がする。
    ところでサボテンといえば、このあたりに幾種類か繁殖しているが、その中で最も特徴的なのはこれだろう。
    20090519-cactus.jpg
    大きくなると、幹は普通の樹木のような有様になる。育ちに育って『巨木』になっているものもある。しかし枝から先はまぎれもないサボテンだ。しかしながら幹の部分の比重があまり大きくないため、あまりに立派に成長しすぎると、自重を支えきれなくなる傾向がある。幹がボキッと折れて倒れているものをいくつも見かけた。何とも因果で気の毒なサボテンである。
    昼近くなると、次第に気温が上がってきて汗だくになる。このところ日中の最高気温は40℃を越えているのだとか。これまでミネラルウォーターを三本飲み干している。木陰でお客を待ち構えている露店で、コーラを飲みながらしばしベンチの上でグデッとノビていると、熱くて乾いた空気が肌を撫でていく。
    しばらく休んでいると、シャツもズボンも乾いたが、上から下まで真っ白に塩を吹いている。水分とともにそれほど大量の塩分が体から失われたのだ。疲れるはずだ。喉の渇きと疲れが癒えると、空腹感が頭をもたげてきた。
    付近で簡単に昼食を済ませた後、ふたたび自転車にまたがって遺跡巡りをする。大きな寺の内部は、非常に風通しがよくなっている。石の床に座ったり、ゴロリと寝転んでみると実に快適だ。
    インドやスリランカから強い影響を受けた建築が多いが、大きな構えの割に内部空間は広くないし、ここで多数の人々が集まることができるようにもなっていない。南アジアの建築において、イスラーム教の与えた影響がいかに大きいかということを、東南アジアの最西の国ミャンマーでひしひしと感じる。
    建てた時期も異なるため、様々なスタイルのパゴダが存在しており興味深いが、その内部に鎮座する仏像は、往々にして現代のパゴダで見るものと同じようなマンガチックなものが多い。
    20090519-statue2.jpg
    博物館に足を向けてみると、当時のいろいろな仏像の展示がある。石造ひとつとっても砂岩、大理石その他、素材はいろいろある。また木彫やそれに漆を塗ったものもあり、どれも趣のある美しい仏像だ。
    もちろん現在の各遺跡において、安置されている仏像が皆安っぽいとは言わないが、玉石混交といった具合だろうか。それでも往々にしてのっぺりとした、今のミャンマーのお寺に普遍的に存在するものをよく目にした。
    事前に想像していたよりも、バガンの遺跡は非常によく修復や手入れがなされている。しかし壊れたパゴダを復元するのは結構なことであるとしても、細部に渡りその時代の様式に対する正確な考証や配慮が必要だろう。しかし今のミャンマーに、そこまで期待するのは酷だろうか。
    ヒンドゥー寺院、ナッフラウン寺院内では、観光客たちに売るための絵を描いている男がいた。あたかも彼専用のアトリエがごとく、本堂内のかべのあらゆるところに、彼の作品が架けられており、本来そこに祭られている神像がすっかり萎縮しているような状態でびっくり。足を踏み入れた際、私はてっきり『画家の私邸』かと思ったくらいだ。特に大きくて有名な史跡ではまずそういうことはないようだが、やや格が下がってくると、史跡内部を仕事場や店舗としている者をチラホラ見かける。
    ミャンマー随一の観光地であるがゆえに、ましてや現金収入の手段がないこの地域の人々にとって、こうした場所で何がしかのモノを売るということは、貴重な収入の手立てとなることはわかるが、遺跡の日常の管理について、もうちょっとどうにかならないものだろうか?
    タビィニュ寺院