
歩くと床全体がユラユラと振動して、階段を通して上下によく音が抜ける老朽家屋、ベニヤで細分化された部屋ということもあり、足音や話し声がどの方向から来ているのかよくわからなかったりした。
ずいぶん昔の話になるが、この宿に滞在していたとき、他の宿泊客から『帰って来る幽霊』の話を耳にした。何でも、私が宿泊したときから数年前に、この宿で亡くなった日本人客があったのだという噂だった。その人が生前に滞在していた部屋にときどき帰って来るという伝説みたいなものが流布しつつあった。
『夜1時過ぎくらいに帰って来るんだ、奴が。この宿って11時が門限で、玄関のカギを閉めてしまうから、その後に入ってくるはずないんだよ。昨日も奴は帰って来てた。宿の人は、チェックアウトした人の部屋の掃除に使用人を寄越すくらいで、よりによって遅い時間に上がることはないって言ってた。思い出すだけで気味悪いよ。重たい足取りで、トン、トン、トン、トン・・・と上がってきて、この階の端っこの部屋のドアを開けて入るんだ』
彼が言うには、隣室には他の旅行者が泊まっているため『霊が帰って来る』のはその脇の部屋に違いないのだという。
『昨日も、奴が帰ってきてから、ちょっと怖かったけど、確かめるためにドアの外に出てみたんだ。するとあのドアは、外から南京錠がかかっていた・・・』
こちらもちょっと背筋が寒くなる思いがした。私が滞在する部屋ちょうど真下に、幽霊が帰って来るなんて、気分のいい話ではない。
ひとつ下のドミトリーに宿泊していた男性も彼の言葉を裏付けた。
『昨日、ちょうどそのあたりの時間だろうな。寝ていたけれども階段を上る音がしていたこと、その後ドアがバタンと閉まる音も耳にしたよ』
『昔いた場所に帰って来るってのは、アンタ、そりゃ地縛霊だよ。タチの悪いのもあるって言うから気をつけてね』などと、したり顔で無責任なことを言う者もあった。
そんな怪談じみた話がしばし続いてから『そろそろ夕食に行こう』ということになり、数人で近所の食堂に出かける。部屋に戻ってからも、ドミトリーに顔を出して、そこに滞在している人たちと、ひとしきり話していると、いつの間にか夜は更けて午後11時。
『おやすみなさい』と、彼らのスペースを辞して自室に戻ってから、ステンレスのマグに電熱コイルを放り込んで湯を沸かして茶を淹れる。いつものとおり日記を書き、今朝方買った新聞を広げてみたり、ガイドブックを眺めたりしながら過ごす。そんなことをしているうちに、いつものことながら1時を回ってしまうのだ。
『さて、歯磨きをするか』と、お茶沸かすときに汲んで来た残りの水で口をゆすいで、無作法ながら、窓の外にペッと吐き出す。歯ブラシでシャカシャカ磨いてから、洗面台があるひとつ下の階にそうっと下りる。階段脇の水道の蛇口を静かに開いて口の中をゆすいで歯磨き完了。
癖で、階段を上るときに足の裏を叩きつけるようにして上ってしまうが、途中で『あ、この時間はみんな寝てるんだ』と、なるべく音を立てずに上がることを心がけたりするのもいつものことだ。
建て付けの悪い部屋のドアをバタンと閉めて、中から金属のカンヌキをかけると、下の階でドアが開く音。誰かが数歩進んでから、『やべぇ!』など声を上げている。彼は即座に自室に駆け戻ったようで、バタンとドアが閉まる音が聞こえてきた。どうやら『帰って来る幽霊』とは、私自身のことであったらしい。
翌日、下の階の男性は『昨日も幽霊が帰ってきた』などと吹聴していた。ドミトリーの宿泊客たちは『マジかよ!』と眉を顰めて話に聞き入っている。
私は『幽霊自身が種明かし』をして、せっかく定着しつつある『怪談話』がオジャンになってしまってはつまらないので、とりあえずあまり興味のないふりをして聞き流すことにした。
カテゴリー: travel
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ストーンハウスロッジの記憶 2
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ストーンハウスロッジの記憶 1

昔、カトマンズのニューロードにあるネパール航空事務所の反対側の路地を少し進んだところに、ストーンハウスロッジという格安の宿があった。
宿泊客はほとんど日本人ばかりで、インド亜大陸各地をめぐるとか、アジア横断してアフリカに向かうなどといった長期旅行者が多かった。インターネットもなかった頃なので、こういうところでいわゆる『情報ノート』が貴重なインフォメーションのリソースでもあった。かつて、私もこの宿に幾度か宿泊したことがある。
古いネワール式の木造の建物で、最下階の狭い入口のところに受付があり、細くて急な階段を上ってすぐの階には家主の家族が暮らしており、そこより上の複数の階に宿泊客を泊めていた。 各階ともに、もともと狭いフロアーを無理やりベニヤで仕切って、やけに幅の狭いベッドが置かれているが、これで部屋の中は一杯。確かひとつだけ四つのベッドが入った『ドミトリー』があったと記憶している。
当時からタメル地区はかなり繁栄しており、すでに旧王宮近くのジョッチェン地区に宿を取る旅行者は少なくなっていた。どちらからも離れたストーンハウスロッジになぜ日本人旅行者が集まるようになったのかは不明である。シーズンは常に満杯、雨季のオフシーズンでも部屋が空いていないということは珍しくなかったようだ。
いつ購入されたのかわからないボロボロの古いベッドの上に敷かれているシーツは、これまたいつ洗ったのか知れず、身体を横たえていると、南京虫の執拗な攻撃に悩まされるようなところなのだが、何故かとても繁盛していた。
ひどく狭くて汚いかわり、宿泊費がそれ相応以上に低料金であった。『お金はあまりないけど、とにかくあちこち訪れてみたい』という安旅行者には重宝される宿であった。ただ安いだけならば他にいくつもあっただろうと思うが、安宿が集中するゾーンからは離れているものの、ニューロード裏という便利なロケーションも良かったのかもしれない。
いつだったか、すぐ隣にレンガ積みの真新しい建物が出来上がった。ストーンハウスロッジよりも料金は高くとも、ずっと設備が良くて、新築であるがゆえにピカピカで快適な部屋が用意されていた。ストーンハウスロッジの利用客が『こっちのほうがいいや』と移動してもいいような気がしたが、そうはならなかったようだ。
こちらはまったく流行らず、数年で廃業してしまった。流行る宿というものには、理論的に説明がつかない『旅行者とうまく合う波長』のようなものがあるような気がする。人と人との相性のようなものかもしれない。別に宿の人の愛想がいいとかいうわけでもない。その場所が持つ『気』のようなもの(?)とも言えるだろうか。
古い長屋のような建物であるがゆえに、隣接する棟とぴったりくっついた建て込んだ地域であるがゆえに、家屋での人々の暮らしぶりが、特にそれを覗こうとしなくとも、ごく間近に感じられる楽しさはあった。人々の会話や赤ん坊の泣き声など、様々な生活音がジャンジャン聞こえてくるし、どこかの世帯で作っている料理の匂いも漂ってきて、下町に暮らしている気分になったりもした。
もともと人口密度の高い空間なので、人通りは多かった。何せニューロードの真裏である。それでも野菜売りが沢山出て賑やかな朝の時間帯、様々な用事で人々が行き交う昼間の時間帯を過ぎて夕方の帰宅時間を過ぎれば、ガランとしていたものである。
用事等でタメルに徒歩で出かけて、帰りが午後7時過ぎると人通りがとても少なくなり、午後8時を回るとほとんど誰もいない路地をトボトボ歩くことになった。出会うのは野犬ばかり、灯もまばらでほとんど暗闇のようなもので、懐中電灯を照らして宿まで歩いたものである。
ダサインやディワーリーの時期にも滞在したことがあるが、路地という路地では、無数の小さな素焼きの器の中に火が灯されて、幻想的な眺めが出現していた。辻ごとにある小さな寺や祠に詣でる人々が行列していて、窓から見下ろしているだけでもワクワクしたものだ。
先に書いたとおり、もともと狭いフロアーが、薄いベニヤで極小の部屋として細分化されていたものの、プライバシーはまったくないようなものであった。視覚的には遮られていても、壁の向こうから屁の音、着替える音などがそのまま聞こえるのである。相手が起きているのか寝ているのかもはっきりわかる。厚さ数ミリの非常に薄い壁を背にして寝ていると、そこを境に数センチからせいぜい30センチくらいのところに隣人が存在しているのだから。
不思議と閉塞感はあまり感じなかった。隣の人がかなり親しくなった人だったりすると、壁越しに会話が弾み、まるで同室に滞在しているかのようであった。 -
スワンナプーム空港近くのHotel Novotel
日本からインドその他の南アジアの国に向かう場合、バンコクで乗り換えというケースは多いだろう。バンコクはホテルが供給過多であることもあり、他国の大都会に比べてリーズナブルな宿泊料で泊まることのできる宿の質はかなり高い。
朝やたらと早い時間帯にチェックインでも、繁華街等で客待ちしているタクシーは多く、空港への足に困ることも皆無。しかも高速道路のネットワークが素晴らしく、夜明け前の早い時間帯ならば、スクムヴィット通りの繁華街からわずか15分(!)で空港までブッ飛ばす、若くて向こう見ずなスピード狂運転手も少なくない。
ジェットコースター以上のスリリングなドライブは嫌なので、まずは車内を覗き込んで、温厚そうな風貌の年配ドライバーを選んで利用してみたりもする。
ただし、前日バンコクに入る時間帯が夕方以降だったり、早起きに自信がなかったり、おまけに子連れであったりすると、宿のみのためにわざわざ市内まで出かけて、また空港にトンボ帰りするのは面倒なので空港のすぐ近くに宿泊したい。
今は国内線専用となっているドンムアン空港近くには、高いものからエコノミーなものまで、比較的選択肢があったのだが、現在の首都の玄関口、スワンナプーム国際空港付近はまだまだ開発はこれからという状況だ。
目下、空港目の前に泊まるとすれば、Hotel Novotel Bangkok Suvarnabhumi Airportしかない。宿泊料金は部屋によっていろいろあるが、ツインの部屋が一泊5000〜5500バーツ(1TB=2.7JPY)くらいだ。
空港施設の一部であるかのようなロケーションだけに、多くの宿泊客の出入りの時間帯が市内のホテルとはかなり違うようで、客室の時間貸しの料金設定もある。
市内のホテルならば、千数百バーツでもその金額以上に良い部屋がいくつも見つかるし、バンコクの旅行代理店を通せば、中・高級ホテルのリーズナブルな宿泊プランが見つかることを思えば、かなり割高ではあるが、とりあえず空港すぐ隣というロケーションが欲しかったので利用してみた。
空港から通路で直に繋がっているものと思っていたが、これはまだ完成していないとのこと。完成すればホテル玄関から空港まで300メートルの徒歩圏となるそうだ。到着ロビーを出たところに専用カウンターがあり、係員がホテルのクルマまで案内してくれる。
空港を出ると大きく迂回し、数分でホテル玄関口に到着。壁面がガラス張りのなかなか洒落たエントランスだ。レセプションもちょっとスタイリッシュすぎて、どこでチェックインできるのか少々迷ったくらいだ。

ごく最近建てられた新しいホテルだけに、どこを見渡しても実にカッコいい。真新しくてピカピカの客室内は快適。バスルームのガラス窓からベッドルームの大画面のテレビを見ながらゆっくりと湯に浸かることができる。スピーカーがここにもしつらえてあるので、もちろん番組の音声を耳にしながら。

風呂から上がってベッドに横になると、小鳥のさえずりも聞こえてくる。そういう環境音がしつらえてあるのかと思ったら、窓の外の大きな木の枝に沢山の鳥たちが止まっており、彼らの『肉声』であった。

余談ながら、今年の年末あたりにはスワンナプーム空港が、首都の高速鉄道網とリンクされるようになる。もともと今年8月に開通することが予定されていたものだが、鉄道の労働組合との交渉等の絡みで、運営会社の設立が難航していたようだ。
以下、路線図である。
Bangkok Rail Transit Network
キングフィッシャー航空、エアアジアなど、インドの都市とバンコクを結ぶ路線へに新規参入する航空会社が増えていることと合わせて、バンコクが日本・インド間の中継地としてますます利用しやすくなることは喜ばしい。
今に、空港から目と鼻の先にいくつかエコノミーなホテルがポツポツ出てくるようになることを期待したい。 -
世界へ広がるキングフィッシャー
航空不況の中、意欲的に国際線進出を進めるキングフィッシャー・エアラインス。6月に『国際線もキングフィッシャー!』で取り上げたとおり、すでにバンガロール・ロンドン、チェンナイ・コロンボ、コールカーター・ダーカー、コールカーター・バンコク、バンガロール・ドバイといった路線を展開している。
9月15日からはムンバイー・香港、翌日16日からはムンバイー・シンガポール間をいずれも毎日往復するようになる。これらに加えて近いうちにムンバイーからバンコク、コロンボ、ドバイへ、デリーからもロンドン、ドバイ、バンコクへの乗り入れが計画されている。
それらだけではない。将来的には国外への発着が予定されているインドの都市はアムリトサル、コーチン、ハイデラーバード、トリバンドラムなどがあり、就航先も長距離のルートでは、アメリカのニューヨーク、サンフランシスコ、カナダのトロント、ヴァンクーヴァー、欧州ではジュネーヴ、マドリード、アムステルダム、オーストラリアのシドニー、南アフリカのヨハネスブルグへの乗り入れを視野に入れているという。
中・近距離においては、中国の北京、広州、上海、湾岸諸国ではドーハ、シェルジャー、マスカット、バハレーン、マレーシアのクアラルンプルなどが候補地に挙がっているとともに、SAARC加盟の近隣国でもネパール、モルジヴ、パーキスターンへの乗り入れが検討されている。
上記のプランが、いつごろまでにどの程度実現するのかはまだよくわからないが、昨年9月にバンガロール・ロンドン便で国際線デビューを果たした同航空会社が、今年9月中旬までに海外に7都市(ロンドン、コロンボ、ダーカー、ドバイ、バンコク、シンガポール、香港)の就航先を持つに至るという勢いには驚かされる。
世界的な不況の中、多くの航空会社がリストラに励んでおり、減便や就航先の縮小といったニュースに事欠かない昨今、キングフィッシャーの拡大攻勢には『本当に大丈夫なのか?』という気がしなくもないが、こうした情勢をよそに国際的にも知られたキャリアへと成長していくのだろうか。今後も同社の進展には注目していきたい。 -
ナガルコート 3

昨日は『閑古鳥の鳴く雨季のナガルコート』と書いたが、近年この季節はそうヒマでもないのだという。
ナガルコートを訪れる人たちは乾季にドカッと集中していたのだが、最近はこの時期にネパール人客が増えているそうだ。ちょうどインドのヒルステーションに、平地の都市部の人たちがワンサカ押し寄せるように、雨季でもけっこう暑いカトマンズの中産階級等の人々が、ナガルコートにやってくるのはわかる気がする。
先述のとおり日帰りも充分可能な距離だ。ネパールの首都ではそれなりの可処分所得を持つ中産階級が台頭していることの証ともいえるだろう。
避暑地といっても、宿泊施設その他の商業地の密度が薄く、霧の中にボンヤリ浮かび上がる松の木々の景色は、どことなくインドのヒマーチャル・プラデーシュのカサウリーを思わせるものがある。もちろん英軍の香りが色濃く残るカサウリーその他、インド各地で旧英領時代以来の伝統を持つヒルステーションには、新興避暑地には真似の出来ない伝統や雰囲気があり、これをナガルコートと比較することはできない。
だが、このナガルコートの尾根から、冬季の晴れ渡った朝に眼前に広がる雪を冠したヒマラヤのパノラマほどの見事な景色(今回の私たちは結局写真で見ただけであるが・・・)は、多くのインドのヒルステーションで望むべくもない。
夕方近くなってから、雲がだんだん厚くなってきた。西のほうでは山肌がずいぶん暗くなっており、そこでは雨が降り出しているようである。だんだん霧のような雲が近づいてきたと思ったら、激しい雨が降り出してきた。すでにテラスは雲の中に入っており、すぐ目の前や階下の様子さえも見えなくなっている。ちょうど冬のデリーの濃い霧のようである。

すっかり暗くなってから雨は上がった。テラスに出ると、薄い上着があってもかなり寒い。しかし雨の後で空気が澄んでいるためか、山間に点々と灯がともっているのがわかる。地上に星を降り撒いたようで美しい眺めだ。
山の中の村であっても、また夜10時すぎというのに、ずいぶん夜更かしだな?と思いきや、宿の人の話しでは『農村では泥棒対策のために、電気を点けたまま寝るのが習慣になっているんだよ』とのこと。そうした灯の数を見て「こんなに家があっただろうか?と思うのだともいう。確かに、眼下にちょっとした町がいくつも点在しているかのように見える。
雨上がりのしっとりとした空気、ここのところ蒸し暑さで毛穴が開いたようになっている身体に冷たい空気がピリッと心地良い。さきほどまで部屋の中で絵を描いていた息子に、テラスから声をかけると返事がない。窓越しに覗いてみると、すでに毛布にくるまって気持ちよさそうに眠っていた。 -
ナガルコート 2

しばらくバーザールのほうに歩いていくと、見かけた赤い共産党旗を掲げたホテル・レストラン従業員組合の簡素な事務所がある。看板に書かれた内容からしてマオイスト系の労組である。
宿泊先の宿の経営者の話だと、ナガルコートでこうした観光関連施設で働く従業員たちの中で、マオイスト系の組合に入っている人はかなり多いとのこと。彼らのハルタールは徹底しており、その期間中は宿の機能がすべて停止してしまうそうだ。
すでに宿泊していたお客にも退去してもらわらないといけないし、前もって予約していたお客もバーザールの入口前で待ち構えた組合員たちに追い返されてしまうとのこと。
宿のレストランには、たまにマオイストの活動家が数人でやってきて、無銭飲食をして帰っていくことがあるという。もともと田舎や農村地帯で始まったマオイストたちの運動だが、このあたりや首都圏でも加わる人たちは多く、現在ナガルコート在住の活動家たちもたいていはこのあたりの人間であるとのこと。
それでも内戦時代よりはずっとマシだとも言う。当時はここの警察の詰所が襲撃を受けて十数人殺傷されるという出来事があり、この宿の主の身内の方も警察官であったため、同僚たちとともにその場で殺害されたのだとか。家族に軍、警察関係者がいたり、ここのように外国人が利用するホテルを持っていたりすると、すぐ彼らに目を付けられて危険であったとのこと。
一見のんびりした山の上の避暑地であっても、今の時代のネパールのダイナミックな政治の荒波に揉まれることがしばしばあるようだ。もちろん盆地の外周部に位置し、カトマンズから日帰りもできる距離の首都周辺地域であるため、たとえ眺望が良くて特にオフシーズンには人口密度が希薄な土地。ましてや今は閑古鳥の鳴くオフシーズンであるのだが。 -
ナガルコート 1

ナガルコートに着いた。小さな集落を核に、ホテルやレストランなど大小さまざまな施設が点々と散らばっている。
尾根の斜面に建っている宿泊先ホテルでは広いテラスがあり、ここから東方面に居並ぶヒマラヤの名峰の数々、エヴェレスト、カンチェンジュンガ、ガネーシュ・ヒマール、ガウリ・シャンカルその他いくつもの名山が連なる姿を望むことができる・・・といっても、雨季で雲がかかっているため、そうした展望は望めそうにないのだが。シーズンオフということもあり、他に宿泊客はおらず貸し切り状態であった。
グラウンドフロアーにはテーブル席以外に、座敷風になっている席もあり、大きな窓からの眺めも良い。山の景色を眺めていると、雲がさまざまな形になったり、動いたりしている。普段、建て込んだ都会で生活する私は『遠くを眺める』といってもせいぜい50メートル程度でしかないので、緑あふれる環境の中での開放感はちょっと格別なものがある。
一緒に来ている小学生の息子にとっては、景色は興味の対象外であるようだが、彼の関心はまた別のところにある。低いところをブーンと飛んできた虫を、手にした新聞で払ってみると、落下した虫はクワガタ。羽の甲の部分が茶色でその他は黒である。何と呼ばれる種類なのか知らないが、このあたりではごくフツーにいるカナブン的存在らしい。それでも一緒に来ている小学生の息子にとってはとても珍しいようで、とても喜んでいる。

クワガタの類は夜行性だが、それでも宿周辺を散策してみると昼間であるにもかかわらず、けっこうな数のクワガタたちを見つけることができた。彼らの好物の樹液が出る木を見つけて、明け方にでも出かけてみると、相当数捕まえることができるのだろう。
カトマンズ盆地内のバクタプルからここに来たのだが、ナガルコートは標高が2100メートルくらいあるため、とても涼しく快適だ。夜になるとちょっと寒いくらいに感じるのではないかと思う。 -
王宮転じて博物館 3
王宮は、どこもまだピカピカで、王族がまだそこを出入りしているかのような印象を受ける。しかし5年、10年と歳月が経つにつれて、卓越した権力を持つ主を失った広大な館は、また年度ごとの維持管理の予算を政府から割り当てられての硬直した運営のもとで、次第に荒れていくことと予想している。こんにち訪れることができるインドの旧藩王国の主の館等がそうであるように。
ここが宮殿として機能していた過去を展示することが存在意義であるがゆえに、王の時代のように宮殿内の新陳代謝が繰り返されることはないだろう。もちろん経年劣化して展示に耐えない部分が出てくれば、必要に応じて補修などは行なわれるにしても。
ゆえに豪華な室内の装飾や調度品等が経年劣化しても、それと新しいものと入れ替えることはないだろう。すべてが次第に枯れ木や枯葉のように萎れてきて、カビ臭い空気に包まれてくるに違いない。
すると、部屋の脇に詳細な説明が掲げられていても、往時の輝きを頭の中に描くには相応の想像力が必要になってくる。すっかり黄変した壁紙、長年の埃がたっぷり積もり、安宿の玄関の敷物のようになったカーペットの中にある朽ち果てた家具類が並ぶ室内に往時の国王の姿をイメージするのは、アンモナイトの化石を目にして『海中を泳ぐ生前の姿』を想うのと同じくらい難しいかもしれない。
私物はいろいろ片付けられたり、引き払われたりしてしまっているのかもしれないが、現在私たちが目にする宮殿内の光景はまばゆく、つい昨年までここにいた王家の人々の息吹が感じられるようだ。だからここを訪れるならば、早いに限る・・・と思う。
前回書いたとおり、ここでは王宮内のごく主だった空間のみが公開されているが、個人的には王家の人々に仕えた人たちの仕事場なども観ることができたらいいのにと思う。
仕えた人たち・・・といっても、事務方を取り仕切る人々もあれば、建物の保守管理といった現業関係の人々も沢山いたはずだ。もちろん警備関係者たちも。どのあたりにどういう職場があり、どれほどの規模の数の人々が、どういった具合に風に日々の仕事をこなしていたのかがわかるようにしてあるといいのだが。
こうしたことは、王宮、宮殿といったものを見学する際にいつも思う。王家の人々の住まいであり、執務の場であると同時にひとつの大きな機関である。私自身が壮大な夢を見るような人間ではない一勤労者であることから、縁あって(コネあって?)そういう特別な場に職を得た人がどんな日々を送っていたのかということにも興味を引かれるのである。
仕事によっては、先祖代々王家に仕えていた人もかなりあったのだろうが、王室が廃止されて以降、王宮で働いていた人たちはどうなったのだろうか?
広大な敷地は大小さまざまな木々その他の緑に囲まれ、塀の外にはすさまじい排気ガスを吐き出して往来する車両に満ちた通りが走っているとはにわかに信じがたい。この静謐な空間は、次第に煤けていき、そして傷みながら年月を重ねていくのだろう。
今は人々の記憶に新しい王家の人々の姿も、時間の経過とともに輪郭が薄れてくるだろう。王の姿をテレビで、新聞で目にしたことのある人々が次第に歳を取り、宮殿と呼ばれるところに王が君臨した時代を知らない子供たちが成長していき、徐々に彼らに取って代わる。
何十年か先に、『王を知らない世代』の人たちが長じて親となり、幼い子供たちの手を引きながら、すっかりセピア色がかり、あちこちガタがきた建物内を見物しながら『昔々、この国には王様がいたのだよ。パパが生まれるずっと前の話だけどね』などと語りかけているのかもしれない。
昨年6月に『時間が停止した』王宮は、今後長きに渡りこの状態で保存されていくのだろう。繰り返しになるが、それがゆえにここを訪れるならば今が旬であろう。 -
王宮転じて博物館 2
王宮博物館は11時開館。少し早く着いたのでゲートの前でしばらく待つ。ゲートを入った右手のチケット売り場では入場券を購入。料金は500ネパールルピー。他の観光スポットの多くがそうであるとおり、この国での入場料はネパール国民、ネパール以外のSAARC国民、その他の外国人の三つに区分されており、言うまでもなく後者ほど高い。
売り場では係員に国籍を尋ねられるが、その際に『India !』以外に『Bangladesh』『Srilanka』
といった返事も耳に入ってくる。インド以外にもSAARC諸国からけっこういろいろな人たちが来ていることがわかる。
宮殿内の警備は、まるで今でもそこに王家の人々が暮らしているかのように、なかなか厳重である。チケットを購入してから身体検査があるが、カメラは持ち込み禁止、ごく小さなカバンもロッカーに預けさせられた。
この宮殿が出来たのは18世紀後半に出来た洋風の建物だ。広い庭をぐるりと回って正面入口へと向かう。階段を上って最初にあるのは、外国からの来賓を迎える謁見の間だ。続いて外国の要人と会談する部屋、会談の前に要人たちが待機した待合室がある。
少し進むと、国からの要人が宿泊する部屋、その奥さんが泊まる部屋が横にあり、またその隣に要人家族が泊まる部屋がある。要人当人のための広々とした豪華な部屋からだんだんシンプルになり、面積も次第に小さくなる。
わざわざ夫婦の寝室を別にする必要もないだろうし、欧米の要人のように奥さんを同伴しない国賓もあろう。それに配偶者はまだしも子供たちまで連れてくるというケースはあまり多くないだろうから、こうした部屋には側近や護衛などが控えることが多かったのではないかと思う。
晩餐会が開かれた豪華なダイニングホール、晩餐会前に要人たちが待機する待合室などがある。またこれまでここを訪れた諸外国の要人たちと国王夫妻(ビーレーンドラ前国王)が一緒に写っている記念写真も飾られている。故アイシュワリヤ王妃の若い頃は、素晴らしい美人であったようだ。外国の要人ないしは代表団と何か重要な取り決めごとについて調印するための部屋もある。
ここまで見たあたりで、地元の高校生の16才の男の子がこちらに声をかけてきた。両親は食料品の卸の会社を経営しているそうだ。今日は学校の先生たちがストで休みのため、両親と見学に来ているのだという。
確かその前日から教員のストの記事が新聞に出ていた。この博物館に来る手前のところに文部省があるが、ここで多数の学校関係者が座り込んで抗議行動をしているのを目にした。
同時期にゴミ収集のストが1週間ほど続いており、カトマンズ市内どこに行っても汚いゴミの山が積み重なっていた。特に人々の密度が高く、商業活動の盛んなエリアでのそれは目を背けたくなるほどのものだった。様々な品物を商う無数の小さな商店や路上の物売りたちがひしめくアサン・チョウク界隈のそれもまた凄まじかった。普段ならば、そこで雑貨や野菜などを商っていながらも、ゴミの山のせいで居場所を失った人もかなりあったのではないだろうか。
話は宮殿に戻る。セキュリティの関係から、王宮内のすべての部屋が公開されているわけではないものの、見学できるゾーン内には、他にもいくつかの部屋がある。建物内で一番高いところにある戴冠式の間まで行くと、その先は王家の人々のプライベートな空間となる。マヘーンドラ国王(1920〜1972) の執務室から始まり、広々として快適そうな王家の家族の団欒の場、シャハ王朝の最後の王でとなったギャーネーンドラ国王の寝室などがある。
意外だったのは、国賓の寝室に比べて国王の寝室が、想像していたよりも貧弱であったことだ。王宮ゆえに天井はかなり高いものの、前者と比較して半分以下のスペースで、部屋の形もいびつで窓も小さい。冬季の冷え込みの関係もあるのかもしれないが、およそ『人間』が必要とするスペースには限りがあるのかもしれない。貴人の館と一般人の個人宅を比較のしようもないが、日本の売れっ子の芸能人やちょっとした会社経営者のほうが、もっと豪華で快適な寝室を持っているのではないかと思う。
王族など貴人たちの居室にしても、何か後世へ伝える業績を残した偉人の住まいにしても、一般に公開されるようになる際にはすっかり整理整頓されてスッキリとした状態になっている。ギャーネーンドラ元国王は、間違っても偉人ではなく、生まれた家柄からして貴人ということになるが、彼の寝室もまたキチンと整頓された状態で人々の視線にさらされている。
ここに起居していたころには、家電製品はもとより、様々な身の回り品が雑然と置かれていたのではないかと思う。宮中とはいえ、そこはたまたま国王の座についた一人の人間の生活空間である。これらがそのまま部屋に残されていたならば、それらを目にしてギャーネーンドラという元国王自身の人となりがちょっと想像できるような気がするのだが。
館内の見学を終えて建物の外に出ると、2001年に当時のビーレーンドラ国王(1945〜2001)夫妻その他王族を含む多数の方々が亡くなった宮中惨殺事件の現場があった。そう、あの宮中クーデターと言われたあの忌まわしい事件である。この惨事の中で、国王に加えて皇太子以下、王位継承権を持つ人々がことごとく犠牲となった。当日、その場に居合わせず、ポーカラーで息子パーラス他直近の親族と過ごしていた王の弟であるギャーネーンドラを除いて。
事件後、危篤状態で意識不明であったディペーンドラ皇太子が、手続き上のみ王位を継承した形となるが数日後死亡。幼少時に2ヵ月ほど王位に就いたことのあるギャーネーンドラが、甥のディペーンドラの後を継いで再び即位した。
その現場となった建物はすっかり取り壊されており、今は土台だけが見られる。まるでガンダーラの遺跡である。事件直後に撤去されたとのことだ。カトマンズに長年お住まいで、ネパール事情に非常に詳しい日本人の方にその理由をうかがったところ、表向きは皇太后がその建物があると惨事を思い出すからということだが、実際の理由は証拠隠滅だと言われているとのことだ。
宮殿の裏手には、事件の際の銃弾の痕がいくつか残っている。まさにここで銃弾が飛び交ったのである。誰それが瀕死の重傷を負っていたところ、誰それがここで云々と書かれている。 -
王宮転じて博物館 1
2008年に王室が廃止されたネパール。その時期、旧ロイヤル・ネパール航空の『ロイヤル』の字が抜け落ちた。ネパール外務省から各国政府に対して『ネパール王国』から『ネパール連邦民主共和国』に国号が変更となったことを伝える文書が発信された。 それ以外にもいろいろゴタゴタあったのだろう。
会社が合併その他の理由で名称が変わると、担当者たちは諸手続きや関係各所に連絡等で大わらわとなる。労力以外に既成の用紙・書式・スタンプ等も変更になったりするから、相応のコストもかかる。これが国レベルとなると相当な手間がかかったことだろう。
旧王族たちもまた、これまでの特権が剥奪(最もわかりやすいところで言えば、外遊時に公用旅券でなく下々と同じ一般旅券となる)されても、今なお資産家であり、手広くビジネスを展開している人も多いとはいえ、この時期には、かつて王室が使用していたこの宮殿や離宮などを含めて、相当な資産が国有化されたようだ。
国王といっても、日本の天皇のように象徴としての存在ではなく、91年の民主化以前は、実権を伴う『支配者』であったわけだし、2001年の宮中での事件の後に即位したギャーネーンドラ元国王(1947〜)は、民意を得て成立した内閣を解散させるなど、世俗の権勢を振るったこともある。
かつては塀の外から何となく景色を窺うことはできても、そこに立ち入ることなど想像もできなかった王宮だが、2007年8月に王室の手を離れて国有化された。その後もギャネーンドラ国王夫妻と家族はしばらくここに残ることが許されたものの、昨年6月に彼らはここを退去した。その数日後から、Narayanhiti Palace Museumとして一般に公開される博物館になっている。
Narayanhiti museum (2008年6月16日付e-Kantipur)
ここは、ツーリストゾーンのタメル地区からトリデーヴィー・マールグを東に歩いてすぐ。外国から来たオノボリさんが徘徊するエリアと隣り合わせたこの地域には、けっこう重要施設が多い。王宮脇を走るカンティ・パトとの交差点のところには文部省があるし、ここを左に折れると外務省がある。
洒落たレストランやみやげもの屋が入居しているSanchaya Kosh Bhawan Shopping Centreの隣には、SAARC(南アジア地域協力連合)のセクレタリアートがある。ショッピングセンターの向かいあたりには、雑踏の中でよくよく目を凝らすとモロッコ大使館がある。
SAARCの加盟国としての大切な機関でありながらも規模はコンパクト。しかも誰もが出入りできる商業ビルの上階から見下ろすことができ、正門が面する道路、トリデーヴィー・マールグからメインの建物までの奥行きもない。その他三方はザワついた商業地区である。破壊活動を企図するものがあれば、いとも簡単にターゲットにすることができそうで、様々な攻撃のシナリオが頭の中に展開してしまう。
土地に根を持たない、不特定多数の人々が出入りし、多少奇妙な振る舞いをしても、そうそう怪しまれることのないような旅行者ゾーンのすぐ近くにこうした重要な施設があるというのはいかがなものか?と思う。
もっとも、これらの施設はタメル地区が旅行者地区として発展する以前からあり、後から付近に商業地がジワジワと広がってしまったのであるが、こうした施設へと続く道が幾つもの検問所で仕切られるわけではなく、コンクリートブロックや鉄条網でがんじがらめになっているわけでもないが、今年5月に内戦が終結したスリランカでの同様の地域での警備の物々しさを思うと天と地の差がある。
ご存知のとおりネパールでも内戦が1996年から2006年まで11年間の長きに渡って政府とマオイスト勢力として広く知られるネパール共産党毛沢東主義派との間で内戦が続いたが、その時代には地方の政府関係の建物や警察等に激しい攻撃がなされ、多くの人々が命を落とすことになった。
現在、マオイストたちの指導部は大政党となっており、昨年4月の制憲議会選挙への参加の結果、世論が予想していなかった大勝利を収めた。だがそれに先立ち、彼らが政権議会選挙参加することについて、当時の政府側にマオイストたちが突きつけた条件のひとつに王室の廃止があった。
『農村から都市部を包囲する』という毛沢東理論を実現したマオイストだが、武器を置いて当時の政権側と同じ土俵『選挙』で闘うことを受け入れるにあたり、彼ら自身を納得させる落しどころとして、無産階級の対極にある封建支配者(・・・の代表としての王制)を潰すことであったのだろう。ギャーネーンドラ国王は、様々なメディアで報じられていたとおり、マオイスト以外の市民たちの間でも、非常に不人気な君主であった。それでもこれが実現するにはかなり紆余曲折あったようだが、最終的にこれが実現することとなった。
王宮が博物館として公開されることになったのは『マオイストのおかげ』ということになる。選挙で過半数には及ばずも一党になり世間を驚かせたが、他勢力との連立模索に関するゴタゴタが続き、プラチャンダ議長が首相に就任したのは同年8月であった。
今年5月にマオイストの武装勢力『人民解放軍』の国軍への統合に強硬に反対する国軍参謀総長の解任・続投問題の絡みで連立政権が崩壊、これを受けてマオイスト以外の勢力()なんと22もの政党の寄り合い所帯!)が結集、マーダヴ・クマール・ネーパール氏を首相とする現在の内閣が成立するまで、責任ある与党の立場にあった。
プラチャンダ首相の就任時、ちょうど昨年の今ごろだったが、インドのメディアは『隣国インドに対する彼のスタンスはどんな具合か?彼の首相として最初の外遊先はどこか?』ということで注目していた。インドと中国というアジアの二大巨頭に挟まれたヒマラヤの山国は、常にその両国との間で微妙なバランスの中で生きていかなくてはならない。
もちろんインド側にしてみればネパールが中国と接近することに対する大きな不安がある。近年中国との関係は改善に進んでいるものの、1960年代初頭に軍事衝突を経験し、ラダックのアクサイチンを失っていることに加え、他にもアルナーチャル・プラデーシュ、スィッキムといった領土問題(中国はこれらの地域がインドに帰属することを認めていない)等がある。さらには常々緊張をはらむ西の隣国パーキスターンに支援を続けてきたのがこの大国でもある。安全保障上、この国の存在はインドが核を保有する動機はパーキスターンのみならず、その後ろ盾でもあり自国と長い国境線を接する中国の存在である。
対中国不信感が根深いこともあり、南アジアの『毛沢東主義者』と現在の中国共産党との結びつきはほとんどないとされるにもかかわらず、インドの人々の間では、ネパールのマオイストにしても、自国内で暗躍する『マオイスト』『ナクサル』などと呼ばれる極左過激派たちは親中国であり、中国政府から相応の援助を受けているはずだと、本気で信じている人が少なくないようだ。
それがゆえに、南アジアの友邦ネパールが、急に中国側へと大きく舵を切るのでは?と疑心暗鬼になるのもわからないことではない。インディア・トゥデイ誌も制憲議会選挙で第一党となった際、またプラチャンダ議長の首相就任時にも、彼に関する詳細な記事を掲載していたし、彼に対するインタヴュー記事にも大きな誌面を割いていた。
彼自身は、ネパールとインド両国の伝統的な関係を維持していく・・・といったごく当たり障りのないことを語っていたようだ。だが昨年8月といえばちょうど北京オリンピックの開催時期。他国の多くの国家元首級の人たちと同様に中国の北京の五輪会場に姿を現した。その結果インドのメディアは『プラチャンダ議長がネパール首相として最初の訪問先は、やっぱり中国』と大いに失望させられた様子であった。
ネパールの人々のインドに対する気持ちには複雑なものがあるにしても、国家としてはインドから見て伝統的に友邦としての関係を維持しているネパール。しかしインドは自国に敵対的な組織により、出撃基地として利用されて大火傷を負った苦い記憶がある。1999年12月に起きたインディアン・エアラインスのハイジャック事件だ。
カトマンズ発デリー行きのIC814は、パーキスターンを本拠地とするイスラーム原理主義過激派組織、ハルカト・ウル・ムジャヒディーンの一味に乗っ取られた。飛行機はアムリトサル、ラーホールそしてドゥバイへと移動した後、アフガニスタンのカンダハールに着陸し、インド当局との厳しい交渉を重ねることとなった。
事件発生から1週間後、当時のインド政府の外務大臣、ジャスワント・スィンは犯人たちが要求したインドで服役中のモラーナー・マスードをはじめとする3名のパーキスターン人過激派指導者たちを連れてカンダハールの空港に現れた。彼らの釈放との交換で、乗客たちがようやく解放されることとなった。
このあたりの時期、ネパールでバーキスターンのISIならびにイスラーム過激派組織の構成員たちが頻繁に出入りしているだの、インドと国境を接する平原部のネパール側で、やたらとマドラサーが増えてきているだの、その建設資金が外国から流入しているだのといった報道がインドのメディア紙上に出ており、ネパールを基点に何か良からぬことが起きなければいいのだが・・・といった調子の記事がしばしば見受けられた。
それが最も判りやすい形で実際のものとなってしまったのが、1999年のハイジャック事件だ。この国がインドと敵対する勢力によって攻撃基地として用いられた場合、インドの喉元に突きつけられた剣となり得る。
自国の影響が大きな地域であり、SAARC内の他国との間にはない、ある意味格別な関係のあるネパールだが、言うまでもなく主権を持つ独立国である。インド憲法356条により認められた、必要とあれば州政府を罷免して大統領による直接指揮下に置くことができる自国の諸州とは違う。
それがゆえにインドとしては、この国の政権の安定した運営とインドに対する友好的な姿勢を希望するし、そうであるように外からいろいろと工作を仕掛けるほかない。同様に中国もそれとは逆の立場、対インド工作の足掛かりとしてネパールを抱き込みたいがゆえに、様々な開発プロジェクト等のパッケージを提示したりして、ネパール政府の気を引こうとしている。
話が大きく逸れてしまった。Narayanhiti Palace Museumを見学した印象については次回書くことにする。 -
いい仕事
インド国鉄のウェブサイトを開けば、サイドメニューのところにある『Time Table Information』のところから、現在駅で販売されている内容の鉄道時刻表Trains At A Glanceのコンテンツがそのままダウンロードできる。
PNRのステイタスもウェブでチェックできるし、割り当ての席数の関係からか、窓口ではまだ空席があっても、けっこう早く満席と表示される傾向があるものの、IRCTCのサイトで列車がネット予約できるのは便利だ。IRCTCのコールセンターは比較的つながりやすいし、問い合わせのメールを送れば、これまた割と迅速に対応してくれる。
これらは、今ではごく当たり前のことになっているが、近隣国の鉄道事情を鑑みれば、インドの鉄道の利便性はネットワークの広大さと合わせて比較しようもないほど際立っている。
駅や車内設備については言うに及ばず、濃霧や大雨の時期など、天候条件のよくない季節にはダイヤが乱れるきらいはあるし、目を覆いたくなるような大事故のニュースも珍しくないなど、器の面での進歩の速度に較べて、90年代以降の列車予約に関するソフト面でのサービス向上には著しいものがある。
かといって、ハード面では進化していないなどと言うつもりはない。よくよく考えてみるまでもなく、ハードの部分でも相当な進化を続けていることも忘れてはいけないだろう。
空調付きのクラスとその車両が増えたことに加えて、長距離ならびに中・近距離の特別急行、ラージダーニーとシャターブディー双方の運行ネットワークの広がり、これらの廉価版ともいえるガリーブ・ラト、首都デリーと様々な州の要所をごく少ない停車数で結ぶサンパルク・クランティといった、近年導入された新規の特別急行もある。
比較的目立ちにくいものの、利便性向上とネットワークの効率化に多大な貢献をするものとして、メーターゲージ路線のブロードゲージ化の進展がある。これによって、先述のTrains At A Glance綴じ込みの鉄道地図を見てわかるとおり、図上で紫の線で示されたメーターゲージは、今やグジャラート、ラージャスターン、タミルナードゥの特定部分を除けば、ほとんど目立たなくなっている。
とりわけ前者二州、つまりグジャラート、ラージャスターンといった旧藩王国が割拠していた地域では、狭いゲージの藩立鉄道路線が多く、あまり合理的とは思えないルーティングも少なくなかったようなので、これらをかなり整理してブロードゲージの幹線に統合できたのは大きな進歩ではないだろうか。
そんなわけで、昔と違ってデリーから直接ジャイサルメールに乗り入れることができるようになっているし、かつてはメーターゲージのジャンクションだったジョードプルも幅広なゲージでより多くのエリアと繋がることになった。さらにはグジャラートのカッチ地方の最大の町ブジにさえもデリーから途中乗り換えすることなく、ブロードゲージの路線で到達することができる。
他にも高速鉄道導入計画もあるし、私たち乗客としての目から眺めて気がつくところは他にもいろいろあるにしても、旅客輸送以外にもうひとつの大きな業務である貨物輸送の分野でも、我々の気づかないところで、いろいろな進化があるのではないかと思う。
いい仕事をされていますなあ、インド国鉄のみなさん! -
世界遺産をチャーター
Mountain Railways of Indiaとして世界遺産登録されているインドの山岳鉄道群。1999年にダージリン・ヒマラヤ鉄道が、その鉄道名そのままで登録されて以降、2005年にはニールギリの山岳鉄道が追加登録されるにあたり、『山岳鉄道群』という扱いに変更された。
そして昨年2008年にはカルカー・シムラー鉄道が追加され、合わせて三つの路線がこの『山岳鉄道群』に含まれている・・・とくれば、インドの鉄道好きな人ならば即、マハーラーシュトラのマーテーランのトイトレインの姿が瞼に浮かぶだろうだが、もちろんマーテーラン丘陵鉄道も近々世界遺産登録入りする見込みらしい。
世界遺産入りを果たしたシムラー行きトイトレインの路線だが、起点のカールカーから終着駅シムラーまで4.970 Rs, 逆にシムラーからカールカーまでは3.495 Rs, 往復ならば8.465 Rsで借り切ることができる。片道5時間余りの道のりだが、車窓からの景色を満喫しながら、仲間たちとワイワイ楽しむのもいいかもしれない。Shivalik Palace Tourist Coach という名の車両で、さしずめインド版お座敷列車といった風情。
The Kalka Shimla Heritage Railway (Indian Railways)
おそらくインド国内外のツアー・オペレーターたちからの引き合いも少なくないことと思われる。また往復のパッケージの場合、シムラーでの一泊分も付いているとのことで、チャンディーガルを含めたカールカーから近場の街のグループによる利用もけっこうあることだろう。
なおカールカー・シムラー間で、チャータートレインを走らせることもできるとのこと。料金は約28,000 Rs。1日の定期便本数が往復4本と少ないため、こういうことも比較的やりやすいはず。映画やドラマの撮影向けといったところかもしれない。
いずれにしても世界遺産を個人で借り切るというのはなかなかできない経験だ。機会があって人数も集まれば、試してみるのもいいのではないかと思う。
