エア・バガンのフライトは定刻に出発。機体は小型ジェット機のフォッカー100。飛行時間は50分。飛び立ってからしばらくすると下降体勢に入り、午前7時半にバガンのニャウン・ウー空港に到着。
到着ターミナルを入ったところでは、バガン遺跡保護区入域料を徴収する係員が待ち構えており、外国人客はここで10ドル支払うことになるが、博物館などを除き、遺跡の入場料を個別に徴収されることはない。この領収書はバガンでホテルに宿泊する際にも提示が求められることになっているようだ。
この場所では、ジョージ・オーウェルの処女作『ビルマの日々』の海賊版がけっこうな値段で販売されていた。値段はともかくとして、またいくらWTO未加盟の国とはいえ、政府が堂々と外国人観光客に対して不正なものを販売するとはいかがなものか?
宿にチェックインしてから、すぐにクルマをチャーターしてマウント・ポッパに向かうことにした。運転手はあまり英語ができないが、それでもなかなか話好きな人のようで、運転中よくしゃべる。走り出してからしばらくしたところで、砂糖ヤシから樹液を取り、それから砂糖、醸造酒、蒸留酒を作っている簡素な作業所を訪れた。
きれいに整列して植えられた砂糖椰子の木には、よく見ると木上のほうにいくつもの素焼きの壷が取り付けてある。そこに人が登り、汁の溜まった壷を取って降りてくる。だいたい一昼夜取り付けておくと、けっこうな量になるらしい。

それを女性が漉して大きな壷に集める。これを小屋の中で火にかけて、焦げ付かないようにかき混ぜながら濃縮して、ジャガリー(粗糖)の塊が出来上がる。


同じくその汁を発酵させて酒を作るのだが、それを蒸留する作業が同じ小屋の中で進行中。ジャガリー、ヤシの汁、発酵酒、蒸留酒とそれぞれ試食、試飲してみた。最初の三つはとりたててどうということはなかったが、蒸留酒は南九州の芋焼酎に似た感じの味わいで、なかなか美味である。

このあたりの気候といい、乾燥具合や生えている植物といい、東南アジアというよりも北インドに近い雰囲気がある。下ビルマと比べて乾いていて生えている植物も少ない。黙って自然の景色だけを眺めていると、インドにいるかのような気がする。
マウント・ポッパに近くなると、周囲に緑が増えてきた。この山は、丘陵地帯にそそりたつ塔のような、奇妙な形をしている。。近くの死火山だか休火山だかが活動していたときに、噴火したマグマが落ちたところがこの山になったのだとか。

山の頂上まで長い階段が続いている。頂にはタウン・カラッというお寺がある。寺院自体はどうということはないのだが、ここに祭られているのは仏だけではなく、かつて不幸な死を迎えた人たちが精霊として祭られている。この国土着の信仰の聖地でもあるとのことだ。

周囲にもいくつか規模の小さなパゴダや僧院がある。それらの中には、中国寺院風の寺があった。これは寄進者が華人であったために、こういう形になったのだという。漢字で何やら書かれた札もかかっていた。
参道の階段には無数のサルたちがいる。インドにいるのと同じアカゲザルのようだが、気質はだいぶ違うようで、とてもおとなしいようだ。Mt. Poppaから見渡す周囲の広大な風景は見事であった。
山頂の寺自体は取り立ててどうということはなかったが、行き帰りの道すがら、バガンの荒涼とした大地とマウント・ポッパ周辺の緑が多く起伏に富んだ地形の好対照ぶりを眺めることもできて、楽しい一日であった。
夕方、宿に帰着。部屋はコテージになっており、なかなかいい雰囲気だ。中庭にはプールがある。このプールでは、日没後に大きなカエルたちが気持ち良さそうにチャポチャポと泳いでいる。中庭の芝生の上でも、ところどころ彼らの姿を見かけるので、暗いと気をつけないと踏みつけてしまいそうだ。暑い昼間はどこに隠れていたのだろうか?
レストランに出かけて、夕食が運ばれてくる前にマンダレービールを注文。まだ日中の暑さが残っており、ムッとするような空気。テーブルもイスも、手に触れるものすべてがモワ〜ンと生温かいが、ビールだけはよく冷えていた。
グラスに注いでギュッーと喉に流し込むと実に気分爽快。ちなみにこのビール、2年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷の中でも触れたが、なかなかインドとゆかりの深い飲み物でもある。
シムラーからチャンディーガル方面に下ったところにあるヒルステーション、そして軍の駐屯地でもあるカサウリーにて1855年に創業開始したダイヤー・ブルワリー(後のMohan Maekin Ltd.の前身)が、英領期のビルマにおいて『Mandalay Beer』というブランドで発売したのがはじまりだ。
もちろん現在のマンダレービールは、とうの昔の現地化されているのだが、英領インドを代表する歴史的な銘柄のひとつであったことに思いを馳せれば、そこにひとつ新たな味わいも加わるかもしれない。

カテゴリー: travel
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インドの東2 マウント・ポッパへ
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インドの東1 ヤンゴンへ
バンコクからヤンゴンに飛んだ。タイとミャンマーの両都市間を結ぶフライトは、今のところタイ国際航空、ミャンマー国際航空、格安航空会社でエア・アジアとバンコク・エアウェイズのみである。私が利用したのは2年前にミャンマーを訪れたときと同じく、バンコク・エアウェイズだったが、バンコクから往復で5,500バーツとリーズナブルな料金だった。
格安キャリアとはいえ、ちゃんと機内食やビールは出るし、時間帯も行き帰りともに午後の早い時間帯ということもあり、なかなかオススメである。飛行時間は、時差30分を差し引いて、実質2時間弱だ。
ヤンゴンの国際空港の規模は小さいが、この国に似つかわしくないほど立派でモダンな建物だ。この国で最も先進的な建築物といって間違いないだろう。
ホテルからボーヂョー・アウンサン・マーケットに行って両替した。ここには小さな店が沢山入っているが、貴金属やみやげものなどを扱う小さな店では両替をすることができる。インド系商売人の姿もかなりあり、多くはビルマ語に加えてヒンディー語もしゃべる。100ドル程度替えようと思って声をかけると、『エーク・ラーク(10万)』という返事が返ってきて、ちょっと戸惑うが、1ドルが1000チャット少々くらいなので、そういう大きな数字になる。最終的に、100ドル紙幣から105,000チャットを手にした。

付近で簡単に食事を済ませてから、ダウンタウンを散策。今のヤンゴンは、緑あふれる北郊外のほうに市街地を広げているが、東南アジアきっての大都市のひとつであった植民地時代のラングーンの経済・政治・文化の中心はまさにこのエリアであった。
道路原票が埋め込まれている東京の日本橋と同じような役割を持つスーレー・パゴダがあるのもこの地域だ。ヤンゴンから国内各都市までの距離を数える際、この大きなロータリーの中に建つパゴダがその起点となる。
旧英領であった国々の都市の中で、ここヤンゴンは当時の建物や街並みが最も良く残っているところのひとつであると言われる。それはひとえに独立以来この国が歩んできた長い停滞の歴史ゆえのことではあるが、イギリス時代の役所など公の施設はもちろんのこと、集合住宅や民間の建物等にも、風格を感じさせるものが少なくない。
Mahabandoola Rd.を東に進むと、スィク教のグルドワラーがあるが、そのすぐ近くには他を圧倒する非常に大規模で壮麗なコロニアル建築がある。東側を向いた建物正面入口のThein Phyu Rd.のほうから眺めると、メンテナンスが行き届いているかのように見えるのだが、建物に向かって左手、つまり北側を走るAnawrahta Rd.に回ると、この建物各所が崩壊して、まるで遺跡のようになっている様を目にすることになる。主がこの建物を持て余している、あるいは資金的に苦しいことが見て取れるようだ。
その主とは警察であり、この建物はミャンマーの警察組織の本部である。建物が壮大で威圧的であるがゆえに、植民地期と同じく弾圧・抑圧の象徴でもあろう。1990年5月の総選挙の結果を無視して今なお支配を続ける軍政当局が、市民の思想や行動を監視する機関でもある。
崩壊している部分を除けば、実に見事な建築だが、そういう施設なので中に立ち入ることはできないし、外から撮影することも許されていないのが残念である。
しばらく散策していると日は傾き、やがて夜になったので宿に戻り、1階に入っているレストランで食事する。隣のテーブルでインド人らしき団体。テレビの国際ニュースで、マンモーハン・スィンが再度選出へ・・・と流れると、「えっ、もう決まったのか?」「テレビでそう言ったぞ」「バカ言え、まだ開票してないぞ」などとヒンディーでの会話が続いた。その後、インドの教育システムについていろいろと議論する人がいたりしているので、インド人に間違いないだろう。
(この時点では、今回の総選挙の開票日前)
尋ねてみるとやはりそうだった。ただし観光客ではなく、ミャンマー西部のスィットウェーで油田開発のプロジェクトのために来緬していたエンジニアたちであった。ちょうどその仕事が片付き、近日帰国するところだということで、とてもリラックスした雰囲気。
『まあ、私たちの輪に加わって、一杯やりましょう』と、テーブルでは即座に私の分のビールが追加された。人数は8名、彼らの年齢は30代から50代くらいといったところだろうか。とにかくおしゃべりで、賑やかな人たちである。この中の一人は、スィットウェー勤務ではなく、しばらくヤンゴン市内で仕事をしていたとのことで、この街のことにはなかなか詳しいらしい。
『さあ、帰国する前にパア〜ッといこうではないか!繰り出そう、夜の街へ。日本の友人もどうだね?』と、これから繁華街に出かけるような話になってきて、それはそれで楽しそうだったのだが、明日早朝のフライトでバガンに行くことになっており、チェックインの時間が午前5時半と非常に早いので残念ながら遠慮しておく。まさにそのフライトのために、わざわざ市街地から離れた空港正面のホテルに宿泊しているである。 -
安宿街に歴史あり
ずいぶん前のことになるが、『タイ・バンコク・カオサンロードの歩き方』というサイトがあった。エコノミーな宿の紹介か?と思って覗いてみると、バンコクのエコノミーやホテルとゲストハウスが集中する地区の成り立ちやここに宿泊する人々、働く人々の動態などが詳細に描き出されているなど、想像していたものとはかなり様相が違った。
ただの安宿街にもそれなりのきっかけと必然性があって成立していること、そうした地域にも盛衰があり、これもまた具体的な理由があることがいろいろ記されており、とても面白かった。
ただの旅行者が書いた雑記帳のようなものではなく、大学でメディア論を専攻する研究者の手によるものであり、こうしたエリアが形成されていく歴史やその背景にある事情など、社会学的な分析がなされているがゆえに大変興味をおぼえた次第である。
しかしながら、そのサイトはすでになくなっている。それを引き継ぐ形で『カオサンからアジア』へというタイトルでウェブ上に存在(最終更新日が2000年7月だが)するとはいえ、以前のものとは比較にならないため、ここで敢えて参照しない。
あのコンテンツは一体どこに行ったのか?と探してみると、書籍になっていたことがわかった。
こうしたことは、すっかり頭の中から消え去っていたのだが、バンコクのスクムヴィット界隈で適当な宿がないか?とウェブで探していると、たまたまここに行き当たり、『ああ、そういえば・・・』と思い出した次第である。別に私が宿泊する先は安宿ではないのだが。
たぶんこれは前述のサイト『カオサンロードの歩き方』から一部削除されずにウェブ上に残ったものではないかと思う。以前、このサイトを見つける前から、カオサンロードがバックパッカーたちのバンコクでの滞在先としてポピュラーになる前には、西洋人たちにはマレーシアホテル周辺がポピュラーで、チャイナタウンは日本人宿泊者が多かったということは知っていたが、スクムヴィットのエリアにも安い宿が多かったということは知らなかった。
この残骸?にも書かれているが、カオサンロード登場以前の安宿街の形成には、ベトナム戦争が影を落としていたという説明もまた興味深く読んだことを思い出す。従軍していた米兵が、休暇で気晴らしにやってくるタイで、彼らの滞在先としての需要があったというのは、さもありなんといったところだ。
その当時から営業を続けているマレーシア・ホテルは、ある意味老舗の宿といえる。周囲に安い宿が次々に開業したことから、相対的に料金が高めになり、中級ホテルとみなされた時期もあったようだが、タイの経済成長にともない、良質なホテルが増えた結果、やはり相対的に低料金の安ホテルとなっている。なんだか胡散臭いイメージが定着してしまっているが、コストパフォーマンスは高いようで、実際に利用した人からの評判はなかなか良いらしく、リピーター宿泊客も多いらしい。
ただしバンコク市内各地に、様々なロケーションにいろいろなタイプのホテルが沢山あるのに、わざわざここを選ぶ理由は特に見当たらないように思う。
今でこそ、日本発で世界各地へのフライトのチケットが安く出回っているが、そもそも格安航空券というものが一般的でなかった時代、日本からインド方面に向かおうとするバックパッカーたちは、とりあえず香港かバンコクに出て、そこからカルカッタなどへ向かうのが一般的であった。そのためタイ訪問そのものが目的でない者も、安いチケットを購入するためにバンコクに滞在していたのだろう。
その格安航空券にしてみたところで、今や航空会社が直接ネットで販売する正規割引に押されている。米国系航空会社が格安航空券を販売する旅行代理店にコミッションを廃止し、他の航空会社もこれに追従するのが流れになっていることもあり、従来の『格安航空券』というものが、そう遠くないうちになくなるであろう、とさえ言われている。
バンコクで、特に用事はないのだが、久しぶりにカオサンロードに足を向けてみようかと思う。外国人客がワンサカ宿泊しているだけに、気の利いたみやげもの類は多いのだ。価格も手ごろだし。Tシャツ等の衣類もなかなかの品揃えだ。
そういえば、カオサンロードをはじめとして、バンコク各地にスピード仕上げを売りにするスーツの仕立屋が多い。しかし店の人たちはどうして揃いも揃ってサルダールジーばかりなのだろうか?仕立服屋の世界で『パンジャービー・カルテル』でもあるかのようだ。バンコクで、テイラーとして定住して稼ぐ彼らにも、興味深い『歴史』があるのではないかと思う。スーツの価格はもちろん要交渉だが、落ち着く値段はまずまずのようなので、一着注文してみるのもいいかもしれない。 -
タイ国鉄もeチケットの時代に
個人的には、近年におけるインド国鉄の快挙といえば、eチケットの導入である。わざわざ駅に出向いて列に並ぶ必要がなく、あるいは物グサして代理店に予約を依頼する必要もない。ただ自宅で予約サイトにアクセスして、IDとパスワードを入力して、運行日時と発着時間帯を見て、列車とクラスを確定するだけ。カードで支払い、eチケットをプリントアウトして、カバンにねじ込む。
ネット予約しても、結局は駅の窓口に出向いて(時には長い時間列に並んで・・・)予約票を提示して切符を受け取らなくてはならない某国のJRとかいう鉄道よりも、この点においては利用客にとっての利便性は非常に高いといえる。
唯一難点としては、すべての座席・寝台がネット予約販売されているわけではないので、込み合う時期やもともと運行数が少ない路線では、窓口ではまだ空きがあるはずでも、ネット予約分は早々に完売していることが往々にしてあること。
ところで、eチケット導入については、しばしインドに遅れを取っていたタイ国鉄だが、このほどようやく同様のサービスを導入している。
タイ国鉄予約サイト
インドから日本への帰りに、タイ航空を利用してバンコクにチョコッと滞在するという人は少なくないだろう。日数は限られているけど、市外にちょっと足を伸ばしたい、できれば夜行列車でチョイ遠くまで・・・というとき、バンコクからチェンマイ方面でも、あるいはハジャイ方面でも、タイ入国前に鉄道チケットが手元にあれば、行動範囲がグンと広がる。
道路網が非常に良く発達しており、高速バスが全国各地を頻繁に結んでいるタイだ。発着数やカバーする目的地の多さでは比較にならないが、旅情という点からは鉄道、あまりビュンビュン飛ばすのは嫌だから列車がいい、という人は私だけではないはず。
だがこのウェブでの予約について、全体の席の10%のみeチケット販売とか。残りはやはり従来どおりに鉄道予約窓口(タイの旅行代理店を通じての予約を含む)を通じての販売となるらしい。
とりあえず予定が確定したら、早めに席を抑えるのがよろしいようで。 -
ガルフが近い!

アラブ首長国連邦を構成する七つの首長国のひとつ、シャールジャー首長国を本拠地として、2003年に設立された格安航空会社エア・アラビア。他の多くの国々でもそうだが、この2003年という年は、こうした新しいタイプのエコノミーな航空会社の設立ラッシュであったことを記憶している方も多いだろう。
こうしたタイプの航空会社の伸張で先行したのはもちろん北米であったが、アジアにおける格安航空会社の先駆けといえば、元々政府系で経営難にあった航空会社を辣腕経営者トニー・フェルナンデスが買取り、新しいコンセプトのエアラインに仕立て上げたマレーシアのエア・アジアであった。
その2年後にはインドで破格の安値で南部地域のフライトから次第に全国にネットワークを広げていったエア・デカン(2008年にキングフィッシャー・エアラインと経営統合、同年後半にはブランド名も統一され『エア・デカン』は消滅した)が最初のローコストなエアラインだったが、その後スパイス・ジェット、インディゴ・エアライン、加えてエアインディア・エクスプレス、ジェット・ライトといった既存の航空会社による格安航空会社の新設が相次いだ。
同時期にアジア各地ならびに欧州その他でもこうした新会社の設立が相次いでいたが、インドにおいては、90年代から続く高い経済成長率と合わせて、空の旅の大衆化が顕著に進み、インドの空港は空前の混雑となり、各地で施設拡張や新空港の建設が相次ぐこととなった。
昨年の原油価格高騰を受けて、旧来の航空会社が苦戦を強いられた以上に、安さのみが取り得であった格安航空各社も燃油代のあまりの上昇のために大打撃を受けた。しかし今年に入ってからは燃料の価格が一気に下落しているので、大手各社に対してまた強気の攻勢に出て行くのではないだろうか。
さて、話はエア・アラビアに戻る。現在では、同社のウェブサイトに示されているとおり、アラブ首長国連邦を軸に、中東および周辺地域の19か国の36都市にネットワーク(このうちカザフスターンのアスターナー、アフガーニスターンのカーブル、アルメニアのイェレヴァンへの便は運休中)を広げている。(2009年3月現在)
これによれば、インドにおける就航地はかなり多い。デリー、ムンバイー、ジャイプル、アーメダーバード、バンガロール、チェンナイ、ハイデラーバード、ゴア、ティルワナンタプラム、ナーグプル、コインバトール、コーチー、カリカットと、実に13都市におよぶ。
南アジア地域内の国々、スリランカのコロンボ、バーングラーデーシュのダッカとチッタゴン、パーキスターンのカラーチーとペーシャーワル、ネパールのカートマンドウーも含めると、実に19都市にもなり、この地域と南アジアとりわけインドとの繋がりの深さ、人々の(主にインドをはじめとする南アジア側の人たちによる)盛んな往来を如実に示しているようだ。
どの就航地からも直行できるのは、この会社の本拠地のシャールジャーだけのようだ。ゆえにその他の都市に向かうには乗り換えを伴う。しかし料金が手頃なので、インドからちょっとアラビアに出かけてみようというのはもちろん、国外からインド旅行に訪れる場合、ついでに足を伸ばしてみるのも良いかもしれない。
インドの都市からシャールジャーまで往復、あるいは異なる都市間の移動をシャールジャー経由で、例えばカリカットからシャールジャーに向かい、そこでしばらく滞在してからデリーに飛ぶとしても、時期や予約するタイミングによるが、チケットにかかる費用は片道100米ドル前後だ。
アラブ首長国連邦は、日本国籍の場合は30日以内の観光ならばヴィザは不要である。また渡航費用の面でもちょっと意外なまでに『近い』ことを感じずにはいられない。 -
香港飯店の昼下がり
以前、香港飯店で取り上げてみたコールカーター華僑の鐘さん兄弟が経営する食堂の話である。昼下がりのヒマそうな時間帯に、『やぁ、どうも!』と店内に入ってみると、なにやら彼ら兄弟が一人の男性と話し込んでいる。
『古い友人がオーストリアから帰ってきたんだ』とのことである。彼もまた中華系で鐘さんたち同様、この街で生まれ育った客家人とのこと。 一見、ダージリンあたりからやってきた人か?と思ったと思わせるような印中混血の風貌と肌色ではあるが。
彼の実家はコールカーター市内中心部のチッタランジャン通り界隈にあり、父親は大工をしているそうだ。鐘さんの香港食堂の内装はその人の手によるものだという。
男性は20歳になる前からオーストリアに出て、いくつかの職場を転々としながら16年間、中華料理のコックとして働いてきたそうだ。『みんな私はもう二度とコールカーターに戻らないと思っていたようだし、自分自身もそう考えていた』と言う。
インドに戻ってきたのは一時帰国というわけではなく、思うところあり、オーストリアでの生活をたたんでインドに再定着するつもりで帰ってきたとのこと。ちょうど近くを通りかかったので、旧知のこの店に顔を出してみたというわけらしい。
年の中印紛争後、コールカーター在住の華人人口は急減し、多くは海外に出たとされるが、それ以降もより良い機会を求めての移住はなかなか盛んなようだ。沢山兄弟がいるようだが、アメリカに住んでいる者、台湾に住んでいる者、オーストラリアに住んでいる者といろいろいるらしい。今の時代、世界各地で中華系の人々の移動はますます盛んである。
もちろんその背景には、インドでの環境の問題があり、ベターな暮らしを得ることを目的に海外に出て行く動機となっているのだが、さしあたって必要となる資金を調達できることや移住先での仕事等のツテといった、移住や出稼ぎにあたって必要な手立てを自らのネットワークを通じてちゃんと持ち合わせているのはたいしたものだ。
男性の兄弟でオーストラリアや移住した人、台湾に住んでいる人がいるということだし、この店の経営者である鐘さんの姉だか妹だかもカナダに住んでいる。その子供たちが、たまにコールカーターを訪問することがあるそうだ。
『でもインドでの様子には馴染めないみたいだよ。あの子たちの故郷はこの街なのにね』と鐘さん。
普段は兄弟家族同士では客家語で会話している鐘さんだが、今日はこのオーストリア帰りの男性を交えてヒンディーで話している。彼自身は中華学校で教育を受けたわけではないし、中華コミュニティにどっぷり浸かって育ったわけではないとのことで、華語よりむしろヒンディー語のほうが話しやすいそうだ。
『まぁ、中国語も一応できるんだけど・・・』
それにしても、本来土地の言葉であるベンガル語ではなく、ヒンディー語であるというのは、コスモポリタンのカルカッタ商業地育ちらしいところかもしれない。
彼は、しばらく両親ところに世話になり、これからインドで何をして生計を立てていくか考えてみるとのこと。
『焦る気はないけど、まあ何か始めてみる。いつか結婚だってしたいし』
この香港レストランは、サダルストリートに近いことから、外国人旅行者の姿も少なくないのだが、近隣や周辺地域在住らしき華人たちの姿、インドに仕事でやってきた中国人たちの姿をよく目にする。ときにそうした彼らの話をいろいろ聞く機会を持てるのは楽しい。 -
新加坡的印度空間 4

今日は日曜日ということもあり、観光客相手以外のものでは閉めている店が少なくない反面、裏通りやそこに面したちょっとしたスペースでは、出稼ぎとおぼしき人々がわんさかたむろしている。
道路に面したテラスを持つ飲食店でコーヒーやチャーイをすする人もあるが、多くは道端に座り込んでおしゃべりしたりトランプに興じていたり、数人で酒を酌み交わしていたりする。中にはすっかり酔っ払って路上に仰向けになって寝ている男もある。路地裏では安価な酒やツマミ類を販売している者の姿もあり、こうした人々を相手にそれなりに繁盛しているようだ。
同じインド系の人々でも、ここに定住している人たち、あるいは少なからず他国から観光で訪れる人たちと大きく違うことといえば、身なりや雰囲気が違うことに加えて、女性や子供の姿がほとんど存在しないことだろうか。20代から60歳手前くらいまでの人々、とりわけ30代から40代あたりの男性が、そうした群集のマジョリティを占めている。
出稼ぎの人々は、週末に休日にこうして同郷の人々と会ったり、情報交換したりするため、あるいは単にヒマつぶしのためにリトル・インディアに出てきているのだそうだが、とりわけ夕方の日没時刻あたりになると、その混雑ぶりは頂点を極める。リトル・インディアが持つインド系の人々に対する磁力は注目に値する。

インド系の出稼ぎの人々は、市内各地に彼らが集まって暮らす地域があるようで、何もこの狭いエリアに集住しているわけではないとはいえ、やはりこういう場所だけに彼らが大人数で仮住まい生活を送るスポットはリトル・インディア界隈にいくつもあるようだ。
普段は閉まったままのガレージのシャッターがたまたま開いているのをふと見ると、コンクリートの床の上に多数のマットレスが乱雑に置いてあったり、傍らに着替えやペットボトルがいくつも放置してあったりと、生活臭が漂っている。
早朝、散歩していると肉体労働者たちを現場に送る手配師のトラックが行き交う。荷台に簡単な席がしつらえてあったり、プラスチックの椅子を置いてあったりという具合だ。モダンかつ先進的な都市国家シンガポールらしくない風景ではあるが。
シンガポール市内各地にヒンドゥー寺院は散在しているし、インド系の人々の姿も多い。だがこのリトル・インディアのようにインド系の人々の密度が高い場所はないとともに、この『インド人街』が今の時代にあっても、内外から様々な目的でやってくる南アジアの人々の流れのひとつの重要な核となっていることに興味を覚えるのである。 -
ネパール首都の宮殿博物館 本日オープン
カトマンドゥのナラヤンヒティ宮殿が、本日2月27日(金)から宮殿博物館として一般公開される。
宮殿が博物館として転用される第一段階において、地元紙カーンティプルおよびカトマンドゥ・ポストのウェブ版であるeKantipurの記事によれば、宮殿内の52ある部屋(メディアによっては90室あるのだとも・・・)のうち、19室のみが展示室として開放され、15人ずつ25分間のみ参観可能というから、ちょっと敷居の高い博物館ということになろうか。おそらく政治的に微妙な部分があることから、厳重な警備がなされるのだろう。
この博物館は『シャハ王朝の真の歴史を知る』ための場所として位置づけられているようで、昨年6月に廃止された同王室の栄華をしのぶなどといったものではないようだ。宮中で繰り広げられた陰謀、政治の腐敗、人々に対する圧政などといった負の側面を人々の前に明らかにしたり、2001年にこの宮殿内で発生した殺戮事件の真相にも光を当てることが期待されているようだ。
ただし宮殿建物の転用について、『博物館にするのは簡単かもしれないが、その後の施設の維持はどうやっていくのか?』と、おそらく財政的な部分から行く末を危ぶむ声もあるようだ。
現在、同国政府を率いるマオイスト勢力の意向に沿う形での『王室犯罪史博物館』ないしは『革命運動博物館』といった色合いのものになるのかどうかよくわからないが、近いうちここを訪れる方があれば、ぜひそのご感想をうかがいたいものだ。
Narayanhiti museum (eKantipur.com)
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※『新加坡的印度空間4』は後日掲載します。 -
新加坡的印度空間 3

シンガポールという都市自体がそうであるように、その中にあるリトル・インディアもまたグルメな街である。昔からここに住み着いている人たちはタミル系が多いとはいえ、南インド料理以外にも、ムグライ、ベンガーリー、スリランカ等々、亜大陸のさまざまな地域の味を楽しむことができる。
そうした中には高級店もあるが、ここで働いていたり暮らしていたりする人相手の庶民的なものもまた多い。後者の場合、まるでインドの安食堂をそのまま持ってきたようなものもあれば、小ぶりなホーカーズ・センターのようになっているものもある。後者の場合、往々にして中華式メニューも同時に楽しむことができたりする。
昼食を済ませて、リトル・インディア地区内をぐるぐる巡ってみると、今や地下鉄駅がふたつもできていることに気がついた。このエリアの最寄り駅は、North East LineのLittle IndiaもしくはFarrer Parkである。

ところでこのあたりの地名にもなかなか面白いものがある。このエリアにはその名もヒンドゥー・ロードというのがあるし、ダルハウジー・レーン、クライヴ・ストリートというのもある。この地域以外でも、シンガポールの通りの名前でマウントバッテン・ロードがあるなど、インド植民地行政の立役者の名前が散見されるのは興味深い。



シンガポールでは、ここに住むさまざまな民族の宗教施設が見られるが、リトル・インディアにおいても、ヒンドゥー教関連施設も南インド由来のものや北インドからのものなどいろいろある。アーリア・サマージのお寺の上階には、D.A.V. Hindi Schoolのシンガポール本部が入っている。イスラーム教のモスクにおいても、グジャラートのスンニー派のAngullia Masjidをはじめとして、さまざまなコミュニティのものがあるようだ。
数世代に渡って定住している人々、加えて出稼ぎ人たち、はてまた観光客を含む一時滞在者等々、亜大陸の東西南北各地に起源を持つさまざまなインド系の人々が、マレー風ショップハウス形式の建物が並ぶ景色の中でごっちゃになっているという図はなかなか興味深い。 -
新加坡的印度空間 2

美味しいバクッテーの店から徒歩でリトル・インディアに戻る。途中、異国にあってちょっと懐かしい感じを覚える店舗を見つけた。今日は日曜日なので閉まっているが、『ステイト・バンク・オブ・インディア』のリトル・インディア支店とある。
手持ちのシンガポール・ドルがあまりないので、両替を兼ねて宿近くのムスタファ・センターに行ってみる。インド系ムスリムのオーナーが経営するショッピングセンターで、1200人を越えるスタッフを擁するとても大きなものだ。

ウェブサイトを見てもわかるとおり、アクセサリー、化粧品、時計、電化製品などから医薬品、衣料品、両替なども行っている。また食料品や雑貨類を取り揃えたスーパーマーケットも入っているなど、いろいろ手広く展開しているようだ。従業員のほとんどがインド系だが、お客の半分以上もまたインドを含む南アジア系の人々だろうか。地元の人たちよりも、明らかに国外から来たと思われる人のほうが多いようだ。店外に掲げられた国際通話の広告も幾つかのインド系言語で書かれている。

ひたすら商品を眺めるだけの人たちもあれば、何でこんなに?と思うほど買いまくる人もある。そうした人たちは店外に出てから待ち受けている仲間にその品々を渡し、巨大なスーツケースの中にそうした品々を詰めさせている。そして再び店内に戻っていくのだ。一体何をしているのだろうか。
店内は朝方からずいぶん混雑しているのに驚かされる。以前ここで中東への輸出仕様らしきシチズン製の金色の腕時計を見たことがある。文字盤にはアラビアで使われている数字があしらわれており、さらにダイヤ風にカットされたガラスが無数に埋め込まれているというスゴイものを見つけたことがある。
今でもそうしたものが売られているのかどうか知らないが、日常使うようなもので何か面白い掘り出しものがあればと思ったのだが、休日であるためか非常に込み合っており、身動きが取れずどうにもならず、早々に退散する。

表通りのセラングーン・ロード(黄亜細肉骨茶餐室があるラングーン・ロードとは別の道路)を歩いていると、『2個で5S$』『3個で10S$』などといった表示が目に入る。店内ところ狭しと並んでいるのは、ヒンドゥーの神像。持ち上げて底を見ると『Made in China』とある。道理で台座の部分にデタラメな『インド風』文字が刻まれていたりするものもあるわけだ。ガネーシュが描かれていながらも、横に掛けられた穴開き銭とともに、柄やデザインがどうにも中華風に見える壁掛けなども見られる。売り手は華人であった。

リトル・インディアに暮らすインド系の人々による、ちゃんとインドから輸入した神像その他を売る店は以前からいくつもあるのだが、こうした店は私の記憶にはなかった。近ごろは中国大陸の旺盛な工業力は、インドの宗教の分野にも進出しつつあるということなのだろうか。ともあれ値段の割にはけっこうしっかり造ってあるため、おみやげとして購入する人は少なくないようだ。

インドの衣類を販売する店、花輪を売る露店、ミールス屋に映画DVD屋その他いろいろインドな店舗が続く。ミターイー屋に入り、いくつか菓子を買ってその場で食す。店の奥ではインド系店主がデンと構えているものの、店先でお客の注文聞きにチョコマカ忙しそうに動くのは中華系の店員。ちょっと不思議な空間だが味は上々。

観光客の姿も多く、込み合ってはいるもののけっこう整然としている表通りに比べると、裏通りはここに暮らしてきた人々の生活空間といった感じで、簡素や食堂や細々とした日用品を扱う店が軒を連ねるとともに、友人や知人たちが一杯のチャーイを片手に語らう場もある。
このエリアを出入りするベンガル系の人々の数は相当なもののようで、ムスタファ・センター近くの一角には、ベンガル文字のみが溢れ、ベンガル語が飛び交う雑貨屋、映画・音楽ソフト屋、食堂などもあり、ミニ・ベンガルといった様相を呈している。
密度の濃い商業地なので、細い道路一本越えると様相がガラリと変わる。こちら側では米穀、野菜などといった食材を商う店ばかりでも、そのすぐ裏手にはダンスバーがあったりする。そうした通りのまた路地裏では、性風俗関係の店が隠密に営業しているが、そうした地域ではヒジュラの姿もチラホラ見かける。彼ら(彼女ら?)はどういう経緯で、シンガポールくんだりまでやっくることになったのだろうか。 -
新加坡的印度空間 1

シンガポール空港に着いた。着陸したのは午前4時半。ターミナルビルに入ってから入国管理、税関、そしてゲートを出てから両替してからタクシーに乗る。まだ5時を少し回ったところだ。なんと効率の良い空港だろうと思う。
タクシー運転手は中華系の男性。こちらは眠くて仕方ないのだが、陽気でおしゃべりな人だ。シンガポールはポイ捨てだのトイレを流さなかっただのといった細かいことにまで、やたらと罰金の規則が多い国だが、空港の手際の良さもまたそうしたペナルティによるものが大きいのだという自説をまくしたてる。
『空港内には放置された荷物カートなんかひとつもないでしょう。生活かかってるからねぇ。係員の不手際が見咎められたら、50S$も取られるんだから。たまんないねぇ』
彼に言わせると、入国管理のカウンターで理由もないのに大混雑にでもなれば、係官が処分されるだろうとのこと。
しばしば『シンガポールは人工的で面白くない』と言う人は少なくないが、新興住宅地育ちの私にとっては、育った環境と近似する部分が多いので親しみやすいのと同時に、こうした環境下で多民族が共生している様子はなかなか興味深いものがある。
経済成長著しい新興国(・・・というコトバは私自身好きではないが)ならば、10年近くの歳月を空けて空港から市内に向かうだけでも『ずいぶん変わったなあ』と感じるところだろうが、さすがは成熟した都市国家シンガポール。少なくとも車窓から見たところこれといって大きく変身したという感じではないようだ。『このハイウェイを抜けて、あのビルが見えてくると、ここのランプで降りて・・・』という頭に描いたシナリオ通りの風景が目の前に展開していく。
よく淡路島程度・・・と表現される非常にコンパクトな国土の小さな国家であるのとは裏腹に、道路は広く建物も大ぶりなものが多くて立派な感じがする。
タクシーはハイウェイを降りてから、ブギスを経由してセラングーン通りを北上する。24時間営業のインド系大型量販店、ムスタファ・センター脇の小路に入る。午前5時半過ぎだが、こんな時間でもけっこうお客が入っている。
あらかじめメールで予約してある宿泊先は、インド人街だが華人宿で、オーナーが家族で経営している。部屋に入ってしばし仮眠してから再び階下に下りてフロントで尋ねる。『このあたりで美味しいバクッテー(漢字で『肉骨茶』と書く)の店はどこにありますか?』
バクッテーとは、マレー半島の華人料理のひとつで、通常朝食のために供される豚のスペアリブのハーブ入りスープだ。多くは専門店となっており、朝早くから開店して忙しい店内で次々にお客をさばき、完売した時点で閉店というところが多い。まだ人通りが少なく閑散としている通りで、バクッテーの人気店だけは人だかりがしているという光景をよく目にするものだ。
経営者の奥さんはしばし首をかしげて答えた。
『確かあそこが人気あるみたいだけど、店の名前は何だったかしら。場所をどう説明したらいいかしらねぇ?』
この人自身はあまり外食しないそうだ。
彼女は宿の外に停まっているタクシーに何か声をかけている。
『彼がよく知っているから乗っていけば?』
日々街中を縦横に巡っている運転手は旨いものに詳しいのは、どこの国でも同じだ。
クルマに乗り込むやいなや、彼は私に質問した。
『白と黒とどっちがいい?』
白か黒かというのはスープの色のことで、ベースはあっさりしておりクリアーだが、胡椒がピリッと効いた『白』は地元シンガポールの味、醤油味でハーブを多用した濃厚な『黒』はマレー半島の味覚なのだという。私はどちらも好きだが、とにかく腹が減っているのでおいしいところならば白でも黒でも構わない。ラングーン・ロードにある黄亜細肉骨茶餐室という店の前でタクシーを降りる。日曜の朝だというのに、ここで食事する多くの人々で込んでいる。私もその中に混じって注文すると、まもなく香り高いバクッテーが運ばれてきた。赤身と脂肪がたっぷりついたスペアリブがゴタゴタと入った汁と合わせて食べるのはご飯もしくは中華式のお粥に添えられるのと同じ類の揚げパン。

朝食というよりも、むしろランチか夕食に似合いそうな濃厚な一品だが、これを食すと華人のエネルギーを分け与えてもらったような気になる。夜通しのフライトだったので少々眠いが、フレッシュな一日のスタートである。
このお店、私は初めてで全く知らなかったがかなりの有名店らしい。屋号でグーグル検索するとたくさんひっかかってくる。朝から幸せ気分にしてくれた運転手さんに感謝である。 -
お隣の国へ 6
今日も白く靄のかかった朝だ。昨夜はかなり冷え込んでいたためもあり、今日はややカゼ気味である。
ホテル内のレストランで簡単な朝食を取り、8時過ぎにリクシャーで駅に行く。国境の町ベーナーポールに行く列車が8時50分に出る。プラットフォームはずいぶん混雑しており、なんとか身をよじらせながら車内に入ることができたが、イワシの缶詰みたいな状態でかなりキツイ。
途中に大学があるので、ここまで行く学生たちが多いようだった。そのあたりはちょっとした町になっているため、仕事のために出かける人々もかなりある。彼らが大挙して降りていくと、さきほどまでの大混雑がまるで嘘のように車両の中はガラガラになる。
車内が急にくつろいだ雰囲気になる。身体的に苦痛だったさきほどまでと違い、ゆったりと座れるようになったため、人々も気持ちにゆとりが出てきたらしく、そこここでおしゃべりが始まる。こちらも右から左からいろいろ声がかかり、自然と周りの人々と話をすることになる。
ジェソールを出てから1時間ほどで国境に着いた。途中通過したのは農村や小さな町。駅から国境チェックポストまで、サイクルリクシャーで10ターカー。バーングラーデーシュから出る際に『出国税』なるものがある。イミグレーション脇のショナーリーバンクのカウンターで支払い、発行されたレシートを手にしないと出国手続きができない仕組みになっている。
インド側に出ると、風景は変わらないのに、私が理解できる言葉が突然普通に通じるようになる。ほんの数十メートル向こうではほとんどダメなのだが。
まるでテレビのチャンネルを××語番組から○○語番組に切り替えたような感じだ。
こちらに来るとベンガル語に加えてデーヴァナーガリー文字が散見されるのがなんだかうれしい。
バーングラーデーシュに来るときに利用したような国際バスが通りかかれば、宿泊先のフリースクールストリートまで直行できていいな、と思ったが、それらはもっと早い時間帯にここを通過してしまうとのことでダメだった。
シアルダー駅行きの列車は毎時間あるらしい。乗り合いオートリクシャー最寄りのバンガーオンの駅までで向かう。バーングラーデーシュ滞在中は、エアテルの圏外のため死んだのも同然だった携帯電話が息を吹き返している。
プラットフォームで待っていると、まもなく電車が入線してきた。シアルダーから来たものであり、終着駅バンガーオンで折り返すのである。ハウラーからバンデルやフーグリーなどに出ている郊外電車と同じタイプのものである。
田園風景は国境の向こうと変わらないが、それでもインド側のほうが水田などもよく整備されているような感じがする。田舎駅でもインドのほうが駅としての体裁がしっかりして規模が大きいこと、建物も立派であることなどいろいろある。駅の造りや職員たちの仕事ぶりもよりオーガナイズされているように見える。もちろんこちらのほうが相対的に豊かなのだから当たり前のことではあるが。
しかしながら、今こうしてシアルダーに向かう電車の中で揺られていても、ついさっき違う国から再びインドに戻ってきたという気がしない。州内のどこか田舎に出かけて戻ってきたような感じがするのだ。
生活してみるといろいろ違うのだろうが、少なくとも旅行する分には、そのツボというか、要領というのかが同じであるためそう思うのだろう。つまりそれほど近似した環境ということはできるだろう。もともと同じ国土であったところが分割されたのだから当然のことではある。
ともあれバーングラーデーシュもまたいろいろと興味深い国であったので、またぜひ訪れてみたいと思う。隣国なのでコールカーター・ダーカー間の飛行機が頻繁に飛んでいるということもあるが、陸路でも直通バスがあり、鉄道による接続も悪くない。けっこう広いベンガルの大地を、西ベンガル州だけ見ておしまいにするのはちょっともったいない。
事前にヴィザを取得しなくてはならないという面倒はあるものの、コールカーターまで足を伸ばしたならば、すぐ近くの『お隣の国』にもぜひ立ち寄られることをお勧めしたい。またインド北東州のアッサム、メガーラヤ、トリプラーなどに陸路で向かう場合、バーングラーデーシュを横切るとずいぶん近道になるという点もあり、亜大陸東部を見て歩く場合、決して外すことのできない地域であるとも思われる。
