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カテゴリー: travel

  • ヤンゴンの日本人墓地

    ヤンゴンの日本人墓地

    ヤンゴンの日本人墓地
    ミャンマー最大の都市、ヤンゴンの空港から北東方向にクルマで20分ほど進んだ地域に、日本人墓地がある。もともとはあちこちに埋葬されていたものを、ある時期にこの場所に集合させたものであるとも聞いている。背景には在ヤンゴンの日本人会による尽力も大きかったとのこと。
    大正時代に亡くなられた方の墓石
    連合軍墓地のように高度に組織化された感じではないが、様々な異なる背景を持つ日本人たちがこの地に眠っている。石の表面が摩耗して、もはや判読することすら難しくなっているものも多いが、古くは没年が大正時代のものあったし、昭和一桁に亡くなった人の墓もかなりある。第二次世界大戦が始まる前の当時のミャンマーで、個々の人たちにとって具体的にどんな縁があって移り住むことになったのかはわからないが、大英帝国の海外植民地の大都市のひとつとして繁栄したこの街だけに、様々な商機があったのだろう。この時代に日本から渡ったからゆきさんも少なくなかったようだ。
    戦没者関係の慰霊碑や墓石が目立つ
    連隊の従軍概要についても記されていた。
    戦没者たちへの鎮魂碑
    戦没者関係の石碑は非常に多い。
    「ビルマの竪琴」の主人公のモデルとなった人物の関係の石碑もあった。
    亡くなったご本人もまた軍国主義の時代の被害者。決して繰り返してはならない歴史である。
    墓地内で、最も存在感があるのは、やはり戦没者関係である。大きな石碑が多く、具体的な記述があるためでもある。個々の墓碑、所属していた連隊等の戦友たちによる慰霊碑、戦没者の出身県による同類の石碑等々。だがこの時期の墓碑に特徴的なのは、個人の名前も何も刻まれていないものがかなりあることだ。これらの人々が亡くなったとき、個々の身元確認が困難であったり、混乱を極めた時代であったりしただけに、埋葬先にまで故人の基本的な情報の伝達すらうまくいかないという状況があったのではないかと推測できる。
    また先述のとおり、各地に埋葬されていたものを、この地にまとめて改葬したということもひとつの原因かもしれない。日本人の墓であることは判っていても、そこに葬られているのが誰なのかが分からなくなっているというケースもあってもおかしくない。
    戦没者埋葬エリアでは氏名も亡くなった日付もない墓石が多い。
    個人的に存じ上げている、戦時中に航空通信連隊に所属して終戦を迎えたという方があるのだが、まさにその方が戦友たちのために個人で建立された石碑を見かけた。世間というものは案外狭いものだ。
    この方の出身地は平安北道。現在は北朝鮮となっている。
    戦時中に亡くなった方々の中で、明らかにコリアン系の方々の名前も少なくなかった。日本と併合されていた時期に他界した人々であるがゆえに、日本人という扱いになるのだろう。この写真の方の場合、没年が昭和12年となっているので民間人であると思われるが、その後マレー半島への侵攻に始まる東南アジア方面への日本軍の展開の中で、軍人や軍属としてこの地を踏んだコリアン系の方々も少なくなかったはずなので、この時期に日本人名で埋葬されているケースもあるのではないかと思う。
    1978年の航空機事故で亡くなった日本人技術者たちへの慰霊碑
    戦後に亡くなった方々のものもある。1978年に起きたヤンゴン発ミッチーナー行きの国内線墜落事故で亡くなった、援助プロジェクトの関係で来緬した日本人技術者6名の慰霊碑、そのあたりの時代から2,000年代に入るまでの間に、当地で亡くなった日本人たちの墓である。
    隣国タイなどと異なり、対外的に非常に閉鎖的な体制が続いていたこの国だけに邦人在住者の数や在留していた目的等もごく限られるため、戦後のこの国の激動の時代をつぶさに目撃するという稀有な体験をしてきた人たちであると言えるだろう。
    埋葬された時代を問わず、日本の墓地と大きく異なる点として、大半のものに戒名がないということがある。ごく一部にこれが刻まれている墓石があるが、それらは日本で遺族が菩提寺からもらったものであろう。
    故郷から遠く離れた熱帯のこの地で安らかに眠る人々の魂がここにある。
  • ミャンマーの商都ヤンゴン 邦字タウン誌I LOVE YANGON 創刊

    ミャンマーの商都ヤンゴン 邦字タウン誌I LOVE YANGON 創刊

    ミャンマーの商都ヤンゴンで日本語タウン誌創刊!

    このところ経済面で急速に注目されるようになっているミャンマー。その流れを受けて、2012年10月にANAが成田・ヤンゴンの直行便を就航、他国からもヤンゴンへの新規乗り入れが増えている昨今だ。従前から就航していた近隣国の航空会社もフライトを増便したり、エア・アジアのようにヤンゴンだけでなくマンダレーへ乗り入れる(バンコク・マンダレー便)ようなっていることからもわかるとおり、まさにミャンマーは世界で一番ホットな国のひとつだ。

    欧米諸国による経済制裁解除の動きの中で、外国からミャンマーへ、ミャンマーから外国への送金も自由化の道をたどるようになりつつあるとともに、今後はクレジットカードでの支払いやキャッシング、トラベラーズチェックの換金も出来るようになる方向にあり、これまでは訪問する際には米ドル現金からの換金のみが頼りであったミャンマーもようやく「普通の国」になりつつある。

    そんな中、ついにヤンゴンでも、ついに日本語のフリータウン誌が創刊された。まだ日本では広く馴染みがないということ、在住日本人もあまり多くないということもあってのことだろう、初めてこの地を踏む人のための案内書といった具合に、国のあらまし、出入国、ヤンゴン市内の見どころとショッピング、ホテル案内、食事処、買い物におみやげ等々といった構成になっている。

    おおかたの日本の人々にとっては「新しい国」であるミャンマーで創刊した初の日本語タウン誌。今後ますますの発展を期待したい。

  • GREAT INDIAN RAILWAY

    GREAT INDIAN RAILWAY

    ナショナル・ジオグラフィックによるインド国鉄特集のビデオGREAT INDIAN
    RAILWAY」「
    がYoutubeで公開されている。

    といっても、ナショナル・ジオグラフィック自身がコンテンツを広く公開しているわけではないようで、要は海賊版ということになってしまうのだが、インド国鉄の魅力をうまく伝えている作品である(・・・がゆえに、ぜひオリジナルを購入したいところだ)ので、取り上げてみることにした。

    蒸気機関車が登場したり、2001年に事故死したマーダヴラーオ・スィンディヤー(旧藩王国の王族で国民会議派議員)が登場したりしているので、いつ作製されたものなのかと思えば、1998年1月にリリースされた作品であった。

    興味深いインド国鉄の世界であるとともに、今や事情が少し違ってしまっている部分もあるため、鉄道史を語る貴重な記録であるともいえる。

  • その名も「GR」

    その名も「GR」

    1990年代後半から2000年代初頭にかけて人気を博した広角単焦点の銀塩カメラGRシリーズのデジタル版として、GR-DIGITALが発売されたのは2005年10月のこと。

    その後、3回のモデルチェンジによる改良を経て、非常に良く熟成された高級コンパクトカメラに仕上がっている。

    今年5月下旬には、初代GR DIGITALから数えて5世代目となるモデルが登場するのだが、こちらはまさに「フルモデルチェンジ」という様相になる。ここで「フルモデルチェンジ」と表現したのは、カメラの心臓部であるセンサーのタイプの大幅な変更だ。1/1.7型 CCDから、ローパスレス仕様のAPS-CサイズのCMOS、つまりデジタル一眼並みのものが搭載されることになるからだ。

    それでもボディの寸法はこれまでのGRシリーズとほぼ同じのコンパクトさであることも特筆すべきだろう。あんなに小さくてAPS-Cサイズのセンサーを搭載するとは驚きだ。

    GRシリーズとしては、2012年4月に「RICOH」と「PENTAX」ブランドのカメラ関係事業が、ペンタックスリコーイメージング株式会社に統合されてから最初の記念すべきモデルだ。

    カメラの機構そのものの大きな変更を行なうことからか、現行のGR DIGITAL ⅣからGR DIGITAL Ⅴとなるのではなく、世代を示す番号はもちろんのこと、DIGITALという表記をも外した「GR」となる。もはや名機GRのデジタル版を名乗る必要はなく、まさにこれぞGRの真打ちであるとする開発陣の意気込みと熱意が伝わってくる。

    レンズの開放側がF2.8と少々暗め(GR ⅢとGR ⅣはF1.9)ではあるものの、センサーの面積は約9倍となることから、画質の飛躍的な向上はもちろんのこと、ラティテュードの幅も格段に広がるため、明暗差が大きな場面でも盛大に白トビさせることなく、自然な表現が可能となる。感度を上げても荒れは非常に少なくなることから暗所に強くなり、手持ちで撮影可能なシーンがグッと増えることにもなる。

    このモデル性能等の詳細については、今後多くのカメラ関係のウェブサイトや写真雑誌等で様々な紹介や解説がなされるはずなので、ここで敢えて云々するつもりはないし、その必要もないだろう。

    「インドでどうだろう、この一台?」ということで、発売前で実機に触れてもいないのだが、力を込めてイチオシしたくなるGRシリーズの最強モデル。発売がとても楽しみである・・・と、私自身すっかり購入モードに入ってしまっている。

    GRシリーズ最高画質のコンパクトデジタルカメラ「GR」新発売 APS-Cサイズセンサー搭載、速写性を追求し小型ボディを実現 (ペンタックスリコーイメージング株式会)

    GRスペシャルサイト(ペンタックスリコーイメージング株式会)

  • MAI (Myanmar Airways International)  ミャンマーから日本への直行便就航

    MAI (Myanmar Airways International) ミャンマーから日本への直行便就航

    MAI (Myanmar Airways International)

    てっきりMAI (Myanmar Airways International)が日本との間の定期便を飛ばすようになるのかと思ったのだが、そうではなくゴールデンウィーク期間中の訪問客のためのチャーター便であった。

    5月1日に成田からマンダレーへ、そして5月5日夜にヤンゴンから成田に向けての帰国便(成田到着は5月6日)という組み合わせ、もしくは4月27日に関空を出発してマンダレー到着、そして5月1日にヤンゴンから関空へと戻るというものだ。

    2013年ゴールデンウィーク限定 祝!ミャンマー国際航空 ミャンマー直行便就航 (MAI)

    チャーター便の航空券販売とともに、ヴィザの手配も代行 (MAI)

    しているようで、なかなか力が入っている。おそらく定期便就航へ向けての地ならしといったところなのではないだろうか。

    ところで、MAIの東京事務所がすでにオープンしているとは知らなかった。ただし「日本地区総代理店」と記されていることから、どこか日本の提携先の旅行取扱業者がMAI予約・発券等の業務を請け負っているものと思われる。おそらく前述のヴィザ取得代行についても同様であろう。

    現在のヤンゴン国際空港の小ぶりながらもモダンなターミナルビルがオープンしたのは2007年のことだが、建物を含めた空港施設が手狭になるのはそう遠い将来のことではないはずだ。

    同様に、MAIによるミャンマーと日本の間を直行する定期便が就航するのも近い将来のことであればとても嬉しい。

  • マイクロソフトのSurface RT

    マイクロソフトのSurface RT

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    タブレットPCは、アップルの初代のiPadを使用してきた。手軽で簡単にネット検索をしたり、電子書籍を読んだりと、いろいろ役に立っていたのだが、使い勝手がラップトップPCともかなり異なるため、不便に思うことも多かった。

    アンドロイドOSを搭載したラップトップPC風の製品が出てきたときには思わず購入しそうになったが、普段使用しているウィンドウズOSとの互換の点でやめておくことにしたのは賢明であったと思う。

    そこにきて、最近話題になっているマイクロソフトのSurface RTについては、オフィスがちゃんと使えること、ちゃんとしたキーボードを利用できること(タッチキーボードとタイプキーボードと2種類用意されている中から選択できる。前者はタッチセンサー式、後者は従来型のキーボードだ。)などが特徴だ。USB端子を繋いで、外付のHDDやUSBメモリと接続することができるし、メーカーにもよるがプリンタで印刷することもできるなど、かなり自由度が高いため、ラップトップPCに近い感覚で使用することができる。

    旅行や出張などで、「パソコンとして」持参するという用途にも充分耐えうる製品だと思う。内蔵フラッシュメモリは32GB、64GBとふたつのタイプがある。後者のほうでも今のラップトップPCのデータ容量に比べると大きく見劣りするが、常時接続環境でSkyDriveやDropboxと併用するという条件下においては、決して悪いものではないと思う。

    だが通常のPCと大きく異なる点としては、普通に市販されているWindows用ソフトをインストールすることができず、ウェブ上のウィンドウズ・ストアで購入したアプリケーションしか利用できないという点だ。しかもリリースされてからまだあまり時間が経過していないため、iPadやアンドロイドで利用できるアプリケーションの豊富さとは雲泥の差がある。こちらは時間の経過とともに解消していくことになるのだろうが。

    日本では未発売のSurface Proでは、搭載されているOSがタブレットPCに特化したWindows RTではなく、Windows 8であるため、いわゆる普通のパソコンとしての使用も可能であるようだ。それでもRTが675gで後者が907gであること、厚みではRTが9mmでProが13mmであるなど、携帯性に差があるため、両方とも店頭に並んでいたとしても、私ならRTを選択することだろう。ノートパソコンライクな使い方もできるタブレットは欲しいが、それをメインのマシンにする気はさらさらない。

    ともあれ、仕事にもプライベートにも、そして旅行先でも重宝しそうなマイクロソフトのSurface RT。インドその他の国々に旅行する際にも持参すると非常に役立つであろうこと請け合いだ。

    タイプキーボードを装着

  • 鉄道市場

    インドの話ではなくて恐縮である。日本からインドに向かう場合、往々にして上空を通過あるいはバンコクでの乗り換えといった形で縁のあるタイの鉄道に関するものである。

    バンコク郊外のメークローン駅界隈では、今も水上マーケットが残っており、古き良き時代を体験できるエリアとして知られているが、それにも増して魅力的なのは、鉄道の路線にまたがって広がる市場だ。

    ・・・と書いてみたが、実は私自身、まだここを訪れたことがない。

    Thailand railway track market (YoutTube)

    列車通過に備えて店頭の片づけをする人々の手際の良さに感心するとともに、車両最後尾が過ぎ去るやいなや店開きを始める様子には、市場で働く人々の旺盛なバイタリティを感じずにはいられない。

    感銘を受けたのは、市場の人々の有様だけではない。上記リンク先の動画の中に出てくるように、多数の観光客がカメラやビデオで撮影している姿があることからも判るかと思うが、バンコク近郊の有名スポットである。

    タイ政府もこの危険なコンディションのマーケットを貴重な観光資源のひとつとして位置付けているのかどうかは知らないが、当この状態を容認しているため、長年に渡ってこうしたシーンが日々繰り返されているわけであり、当局の鷹揚さと柔軟さを感じずにはいられない。

    マーケットの立地が危険であることは間違いない。でも常時神経過敏症的で、些細なことで大げさに騒ぎ立てるヒステリックな日本社会から眺めると、このようなおおらかさは実に羨ましく感じられないだろうか。

  • インドと中国を結ぶ「しがらみ」

    第三国を経由することなく、インドから中国両国のキャリアによる二国間の直行便が飛ぶようになったのは確か2003年あたりのことであったと記憶している。
    中国東方航空が中国の首都北京からインドのデリーを結んだのが最初だ。いっぽう、エアインディアのほうはムンバイーからデリーを経て、バンコクを経由して上海に到着といった具合で、途中で乗り換えこそないものの、隣り合う国の二都市を直接結ぶという感じではなかったのは、途中タイの首都バンコクでのストップが入ったからだろう。
    だが今では状況は大きく変わった。現在は、デリー・上海、デリー・杭州、デリー・北京、デリー・広州、ムンバイー・成都、コールカーター・昆明、バンガロール・成都といったノン・ストップのルートがあり、エアインディア、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空が両国間を運行している。これらに最近加わったのが、インドのLCCのひとつであるスパイスジェットによるデリー・広州の路線だ。
    そんな具合なので、インドあるいは中国で国内線への乗り継ぎを含めれば、両国各地への乗り継ぎはずいぶん良くなった。
    印・中両国は4,000 km余りの長い国境線を分け合っているとはいえ、政治的にも地理的にも、ごく一部の例外を除けば、公式に行き来できる環境にはない。インドにおいて、1949年以降の中国によるチベット侵攻、さらに1962年に勃発した中印紛争により決定的に悪化した対中感情の背景には、中国という国や中国人という人々に対する知識等の欠如という要素も否定できない。
    また当時はまだ貧しかった中国ではあるが、同様に経済的には苦しかったインドにとっては、とても拮抗できない強大な敵として浮上してきたこともあるだろう。反対に、中国からしてみれば、インドはさほど怖い相手ではないため、インドにおける対中感情と比べて、中国における対インド感情は悪くなかったりする。
    歴史的なしこりや感情的な好き嫌いは、そう簡単に克服できるものではないかもしれない。だが人やモノの行き来が盛んになることにより、相手国における自国資本の投資、自国企業の操業その他さまざまな交流が盛んになるのは安全保障上も決して悪いことではない。
    「絆」を結ぶことはできなくても、活発な経済活動によって生じるしがらみが、外交面で両国が衝突するような事態になったとしても、お互いに利益をもたらす二国間の経済活動を犠牲にしてまで、軍事衝突を起こすには至らない安全弁として働くことは、尖閣諸島問題を抱える日中両国が、緊張の度合いを高めることはあっても、また一時的にデモや不買運動等で経済活動が冷え込むことはあっても、そうした異常な状態が決して長続きはしないであろうことからも明らかだ。
    今のところ、中国系メディアが大げさに報じているほどには、インドで中国語学習がブームになるような具合にまでは至ってないようだ。
    だが中国語学習の需要が高まってきていることは驚くに値しない。インドと違って英語が非常に通じにくく、現地の言葉が不可欠の中国において、中国語が判るということは計り知れないメリットになり、それを習得した個人にとっても語学そのものが貴重なスキルになるからだ。
    インドと中国の間で、さまざまな「しがらみ」が今後ますます増えてくることを期待したい。それは将来の両国の繁栄のためになるだけではなく、アジア全体の安全保障にも繋がることであるからだ。
  • 旅行マガジンTRANSITの第20号はミャンマー特集

    旅行マガジンTRANSITの第20号はミャンマー特集

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    経済面で世界中から注目を集めるようになったミャンマーだが、旅行先としてはそれよりもはるか以前から注目されるべきであった。

    東南アジアと南アジアの境目にあり、多文化、多言語、多民族国家であることから、見どころのバラエティにも富んでおり、おしゃべりで人当たりもよく人情味にも溢れる優しい人々に囲まれて、訪れる人々の大半が熱烈なミャンマー好きになって帰っていく。古くから「ビルキチ(ビルマキチガイ)」なんていうコトバがあるくらいだ。

    大都市でもひなびたムードで、時代を感じさせるモノがひしめいているのは、隣国タイにはない魅力。もちろんそれは長く続いた国際社会からの孤立と、経済制裁による経済の停滞によるものであって、旅行する人には興味深いものであっても、土地の人たちにとってはそんな感傷なんてどうでもいいことなので、今後ミャンマーの経済活動が順調に上向きに推移していくとともに、大きく変化していくことだろう。

    今からでも決して遅くはない。とっても感じのよい、そして素敵な人々が暮らすミャンマーをぜひ体験していただきたい。

  • 横浜にある英連邦戦没者墓地

    横浜にある英連邦戦没者墓地

    英連邦戦没者墓地

    今年1月、東京で数年ぶりの大雪が降った数日後に、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦没者墓地を訪れた。

    沢山の墓標が並ぶ

    この墓地は、1945年に開かれたもので、第二次大戦中に日本軍の捕虜となった英連邦軍人・軍属で、日本への移送中に亡くなった方々ならびに捕虜として日本国内で抑留中に死亡した方々1,555名に加えて、戦後の日本進駐中にこの世を去った方々171名、加えて朝鮮戦争での犠牲者の方々等が埋葬されている。

    墓標は他国にあるCWGC管理下の墓地のものと共通のデザイン

    墓地を管理しているのはイングランド南東にあるバークシャーに本部があるCWGC (Commonwealth War Graves Commission)だ。敷地は日本政府の国有地だが、終戦後に進駐軍に接収されるとともに、1951年のサンフランスコ講和条約により、英連邦戦没者墓地としてCWGCに永久無償貸与されている。一種の戦後賠償である。

    インド兵たちが埋葬された一角
    インド人に埋葬れているのはほとんどがムスリム
    ムスリム兵士・軍属の墓標の中、唯一のヒンドゥーであるグルカ連隊所属のネパール人傭兵のものがあった。

    同じCWGCが管理しているため、墓標のデザイン、記念碑の形状、敷地レイアウト等々、私が以前訪れたことがある他の英連邦戦没者墓地とよく似ており、墓地内を歩いていると、日本国内にいる気がしない。

    柔らかな陽射しに包まれた墓地

    ~インドとミャンマーにあるCWGC管理の英連邦戦没者の墓地に関する記事~

    マニプルへ5 インパール戦争墓地 (indo.to)

    ナガランド3 コヒマ戦争墓地 (indo.to)

    泰緬鉄道終点 (indo.to)

    アクセス:JR保土ヶ谷駅あるいは関内から横浜市営バスにて「児童遊園地前」下車

  • ふたたびコールカーター中華朝市へ

    ふたたびコールカーター中華朝市へ

    「中華朝市」とはいえ、売り子の多くはインド人

    コールカーターでは必ず早起きして中華朝市に出かけることにしている。ラール・バーザール近くで旧ユダヤ人地区にも近い場所のかつての中華街(といっても往時の繁栄は見る影もないが)で毎朝夜明けとともに開かれている。タクシーで乗り付けるならば、Lu Shun Saraniの中華朝市と言えば、運転手はすぐに判ってくれるはずだ。

    中華朝市では豚肉入りの肉まんを食べた。この旧中華街は、現在では事実上のイスラーム地区となっており、中華系の人が営む店で働くムスリムたちも多いのだが、そういうものも売られている。朝食をつまみに出てくる華人たちの姿もあるが、週末ともなると地元カルカッタのインド人たちはもちろんのこと、他州からやってきたインド人観光客たちの姿もある。

    いつもどおり、ここで祖父から三代に渡って中華食材・漢方薬の店を開いている客家系のCさんのところに挨拶に出向く。このお店にいると、お客たちはもとより、地元の写真家やジャーナリストたちと出会うことも多く、それもまた楽しい。Cさん自身がおしゃべりでとっつきやすい性格であるということもあるが、コールカーターのチャイナタウンや中華系社会に関する情報通であるため、取材に来るというケースが多い。

    ときおり、インドのメディアで取り上げられたり、ジャーナリストが著した本などが出ることはあるものの、地元カルカッタ華人により書かれた、インサイダーとしての立場からの華人コミュニティ史の書籍は存在しないようだ。

    多くの語るべきものがあり、文化面でも歴史面でも貴重なものであるはずだけに、残念なことだ。今の時代を謳歌して繁栄している状態であれば、そういうものを書いたり、書かれたものを編纂したりということが起きてくるのだろうが、すでに衰退してしまったコミュニティの場合は、なかなかそういう風にはいかないようだ。この地域にいくつかある、華人たちの出身地ごとの同郷会館には、この方面についておそらく大変貴重な資料が眠っているのではなかろうか。これから更に世代を継いでいくに従い、コールカーター華人史が当人たちによって書かれる機会はますますなくなってくるはず。相変わらず、華人たちのインド国外への流出は多いということもある。

    この街からカナダに移住した華人たちは多く、「インド華僑」のアソシエーションがあるくらいなので、カナダから遠い故郷を想う書き手が出てくることはあるかもしれないが。

  • ラヴァングラーの町

    ラヴァングラーの町

    ラヴァングラーの町の中心。どこに向かっても数分で町の外に出てしまうが建物は多層が多い。

    ラヴァングラーの町には食欲がそそられるようなレストランは見当たらないのは、いかんせん田舎の集落なので仕方ない。それでもスマートフォンでインターネットを利用できる(ただし接続速度は眠くなるくらい遅い)のは大したものだ。フェイスブックで友人たちのやりとりを見たり、書き込みをしたりしていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。

    もっとも、スィッキムの田舎では、町から少し出るとネットどころか通話さえも通じなくなるのだが。私が利用するのはairtelだが、こうした不便なところでは国営のBSNLのほうが電波状況は良いらしい。

    町の中心でバスが発着するあたりに宿を取ったが、ここから四方を眺めてみると、どちらの方角に歩いても数分で外に出てしまうほど小さな町であるような気はしない。それなりに建て込んだ感じがするからだ。スィッキムの田舎町はたいていこんな具合であるのは、以前も書いたがおそらくインフラ整備とそれにかかるコスト等の関係があるのではないかと私は想像している。

    山また山の複雑な地形で、どこもかしこも斜面だらけだ。電気や水道を引くのも平地と違って楽ではないため、ややなだらかで交通の便の比較的いい場所があると、商いを生業とする人や公共関係の仕事に従事している人たちは、いきおいそこに集住することになる。周囲に広がる余地はあるにもかかわらず、小さな町なのに平屋は少なく多層階の建物が多い。

    あまり豊かそうな人は見かけないものの、さりとてひどく貧しげな人の姿も見かけない。そこそこ事足りて暮らしているといった風情がいい。小さな町だけあって、道を行き交う人たちは、お互いによく知った相手のようだ。

    夕方6時を回るとバーザールの大半の店がシャッターを降ろし、食堂さえも7時過ぎると開いているかどうかも怪しくなってくる。

    夕方7時で人通りはなくなってしまう。

    そんなわけで、夜はずいぶん早く寝てしまうことになる。スィッキムではバスもシェアジープもやけに朝早い時間に出発して、その後は公共交通手段がないということが多いため、朝寝坊するリスクが減るのはまあ助かる。

    やけに早く寝るため、朝日が昇るとともに目が覚めることになる。
    バスやシェアジープは早朝に出る

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