インドの隣国ミャンマーの道路について特に印象に残ったことがある。路上を走る車両のほとんどが右ハンドルながら右側通行であることだ。
この環境下で左ハンドルという『正しい仕様』のクルマといえば、日本のマツダが現地で合弁生産しているジープ、ポンコツの中国製トラック、さらに稀なものとしてメルセデスやBMWなど西欧の自家用車など非常に限定的なものである。それに対して大多数のクルマは商用車から自家用車、小型車から大型車まで、目にするクルマのほとんどが日本やタイといった左側通行の国から運ばれてきた日本メーカーの中古車ばかりだ。聞くところによると、ミャンマーでこれらの車両の輸入に関わる人たちにはインド系、とりわけムスリムの人々の存在が大きいらしい。日本から自国やロシアなどに中古車を輸出するパーキスターン人の業者は多いが、これらの取引でいろいろつながりがあるのかもしれない。
ともあれ、左側通行の日本を走るクルマがほぼすべて左ハンドルになったようなもので、なんとも危なっかしい。自家用車はもちろんのこと、特にバスやトラックのような大型車両が前を走る同サイズのクルマを追い越そうとする際、本来あるべき左ハンドルの車両よりもずっと大きく反対車線にハミ出ることになるのが恐ろしい。
中央車線寄りに運転席があれば、少し白線を越える程度で先方の状況がわかるが、運転席がその反対にあれば巨大な車幅のほぼ全体を左にスライドさせないと見渡すことができないのだ。この原因による事故はかなり多いはずだ。
対向車線を走るバスがいきなり『ニュ〜ッ』とこちら側に飛び出してくるのを目にするのも怖いが、そこにしか空きがなくてバス前方左側に座らされるのもかなりスリリングだ。
こういう環境に育つと『右側通行である。ゆえに右ハンドルなのだ』という間違った思い込みをしてしまうのではないかと思う。ほとんどのクルマの供給元が左側通行である日本(およびタイ、シンガポールといった近隣国)を走っていた右ハンドルの中古車である以上、右側通行に固執するのには無理がある。
バスの場合は乗降口の問題もある。ヤンゴンの市バスはさすがにドアを車両右側に付け替えてある(ゆえにドアの折り返しが反対になってしまう)が、同様のタイプで都市間を結ぶ数時間程度の中距離バスにも使用されているものは日本で走っていたままに左側のドアから客を乗り降りさせている。大型シートのハイデッカータイプの長距離専用バスについても同じだ。国道で他のクルマがビュンビュン走る側に降車することになるため、見ていてハラハラする場面が少なくない。
ところで旧英領であったこの国は元々右側通行であったそうだ。1970年のある日、突然右側通行に変更になったのだという。切り替え後には相当事故が起きたことだろう。もっともその時代はクルマ今よりずっと少なかったはずではあるが。今となってはまた左にシフトするのは無理だろう。
それがゆえに、右ハンドルの日本車ではなく左ハンドルの韓国や中国の車両の需要が大きいのではないかと思うのだが、前者がほぼ皆無で後者もごく限られた数しか入ってきていないのはどうしたことだろうか。
実情をわきまえずに左側通行から右側通行に変更するという、今から40年近く前に起きた過ちのツケを今なお人々危険な思いをし、時にはそのツケを『命』でもって支払っていることであろうことは容易に想像がつく。民意の届かない国ではあるが、早急に何とかしなくてはイカンのではないだろうか。
カテゴリー: society
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右ハンドルでKeep Right !
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国ってなんだろう?
アッサム、メガーラヤ、トリプラー各州を訪れてみて、インド北東部とバングラーデーシュは、別々の国であるがゆえに不利や不便を蒙っている部分がとても多いように思われる。それらは通商や水利などを含む経済活動や国土の開発全般にかかわることでもある。これらの地域がふたつの違う国家に属することから、住民たちが勝手に越境して移住すれば『不法移民』ということになる。もちろんこの隣国は近代史の中で、しかるべき経緯があって出来上がった国である。かつてアッサム州の大半もデルタ地帯に広がるこの国の前身である東パーキスターンになりかけた歴史を持つが、結局これがインドの一州として現在に至っていることもまたひとつの必然である。
時の為政者たちの綱引きによって画定された国境により、人々が暮らす土地はそれぞれの国家に従属することになる。そしてこれらを操るそれぞれの政府が人々のアイデンテイティ、思想、歴史観を規定するものとなるため、ひとつながりの地域がふたつの国に分かれて以降、地域文化や伝統のありかたにも大きな影響を与えることもあれば、隣国に対するスタンスが政争の具となり、相互に反発や敵対感情を生むこともある。これがかつてのパンジャーブ州や現在のJ&K州の不安定さにも如実に示されるとおり、地域の政情を不安定なものとすることもしばしば見られる。
そうした視点で見れば、北ベンガルのごく細い回廊部でかろうじて『本土』と接する北東諸州は、バングラーデーシュ、中国、ミャンマーといった諸手を挙げて友好的とはいえない国々に囲まれている地理条件を思えば、非常に不利であることは言うまでもない。
また人々の生活レベルではどうだろうか。もともと『本土』とはかなり違った風土や文化を持つ地域であり、とりわけ本土のマジョリティとは信条、民族、伝統どこを見ても自分たちは異なると自覚している人々が、すぐ目の前にある『隣国』よりも自分たちのほうが『インドとは違う』ことに理不尽さを感じることもあるかと思う。自分たちが国境向こう側に比較してよっぽど高度に発展していて経済的にも優位であったりしなければ、国への帰属意識よりも『占領されている』という感情が先に立ってもおかしくないだろう。インドという国への参加意識をなかなか持ちにくいのではないかと想像する。
こちら側がインドに属していること、そこに国境線があり向こうには別の国が厳然と存在していることは歴史による必然であるから、その是非について云々するつもりはない。だが人々の営みはともかく、雨雲はその境目に関わりなく大地を潤し、生物たちもまた彼らの目には見えない結界に縛られることなく行き来している(動物たちには縄張りがあるとはいえ)ことを思えば、人間という生き物がいかに特異な存在であるかということを感じなくもない。 -
意外に多い『外国の人たち』
シローンで両替するため銀行を訪れた。カウンターの中で働く人々の中にはモンゴロイドやモンゴロイドの血が混じった顔立ちの人は多い。目の前奥のデスクの課長さん?みたいな雰囲気の人は、私たち東アジアの人間と変わらない顔立ちと肌色だ。『橋本さん』と呼んだら『はい』と返事してくれそうな感じの顔立ちと立ち居振る舞いで、訳もなく親近感をおぼえる。コンピュータは入っているが、相変わらず分厚い帳簿がデスク間を行き交っているし、とにかく時間がかかる。昔々のインドの銀行そのままといった感じだ。
とにかくヒマなので、両替カウンター前に並ぶ人々の間でとりとめのないおしゃべりが始まる。私以外の十数人の客たちは皆インド系の顔立ちであったので、どこから来たのかと思えば、アメリカやイギリスといった欧米在住のNRIやPOIの人たちばかりでなく、隣国バングラデシュの中産階級旅行者もけっこういた。国境を越えれば目と鼻の先にあるシローンやダージリンといったヒルステーションはなかなか人気なのだという。インド旅行のリピーターも相当多いらしい。この国からインドにやってくる不法移民等が大勢いる理由のひとつは交通のアクセスの良さ。すると同様に観光客も多く訪れるのは当然のことだ。
多少のお金を換えるだけで2時間以上待たされた銀行を後にした直後、宿泊先のホテルのすぐそばに民間の両替商のカウンターがあることに気がついた。でもしばし私と同じく『外国から来た人たち』とおしゃべりを楽しむことができたので、まあ良しとしよう。 -
HIT & RUN

アッサム州のジョールハートの空港に着いた。運が良いことにちょうどそこからシブサーガル行きのバスがあるとのことで乗り込む。空港からしばらく走るとジョールハートの市街地に出る。ジョールハートは、アッパー・アッサムへの玄関口であるとともに、ここから南東へ続く道はナガランド州へ、北西への道路はアルナーチャル・プラデーシュ州につながる交通の要衝でもある。郊外に出たバスはシブサーガル方面には国道37号線に乗り入れる。
片側二車線で舗装の状態も良好な快適な道が続いている。運転手はギアを一段下げてアクセルを大きく踏み込みバスをガガーッと加速させていく。まさにそのときだ。進行方向向かって左側に何かが衝突し、バス左側面にそれが嫌な音を立てながら引きずる音がしたのは。
車内の十数人ほどの乗客たちが総立ちになって左後方へ顔を向けている。そこには自転車とともに路面上に横転した男の姿があった。背後から陽が差しているため外傷があるのか、流血しているのかはわからないのだが、男はなんとか立ち上がって自転車を運ぼうとしているように見えた。
後続車がなかったのは幸いであったにしても、加速中のバスに衝突して無事であるはずはないだろう。街にどの程度の救急医療施設があるのかわからないが、急いで病院へ搬送されるべきである。 -
サウス・パーク・ストリート墓地 3
あくまでもこの墓地に埋葬されているのはイギリス植民地当局の中でもかなり上のほうの人々ということになろう。それ以下のクラスの人々つまり鉄道建設時代にイギリスから多数渡ってきた技師や機関士といった技術職の人々、比較的小さな商売を営んでいた民間人たちなどは含まれていないようだ。
往時の時代をリードしていた人々の名前や業績は歴史の中に刻まれて後世の人々にも伝えられるものだが、そうした人々のプライベートな生活となるとなかなかそうはいかない。どういう家庭生活があったのか、親子関係はどうだったのか、子供の教育問題はどうしていたのか、貯蓄は、引越しは・・・・となるとトンとわからないものである。欧州人たちが長い旅行や調査に出かけるなど特別な機会に記した旅行記、歴史的な大事件例えば大反乱のときに書かれた個人的な記録といったものは今でも出版されているが、ごく平凡な日常を綴った個人的な日記というのはまず耳にしない。往時は何の変哲もない日々であっても、時代がまったく変わった今にあっては、当時の世相を知るための大変貴重な資料であろう。 -
サウス・パーク・ストリート墓地 2


埋葬されているのは往時には権勢と栄華を誇った人々やその家族などが多いが、今やそれら大半の名前を知る人は歴史家くらいとなった。この世に存在しない以上、今の人々に影響を与えることもない。同時代に生きた人たちも今の世の中には存在せず、忘却の彼方へと消え去った人々がかつてこのコルカタに暮らしていた証、それがここに散在する墓石なのである。まさに『つわものたちが夢のあと』といった具合である。
彼らが生きたカルカッタとはどういう街だったのだろう。その当時の世相は、街中に住む民族構成はどうだったのか。やはり当時からヒンディーベルトから出てきた人たちがとても多かったのか、北東インドのモンゴロイド系の人々もけっこういたのか、カルカッタ市内でもイギリス人地区以外では今もベンガル農村に普遍的に存在する茅葺屋根の家屋が立ち並んでいたのか、欧州人が居住する地域で地元民の流入はどうやって抑えられていたのか。最盛期のチャイナタウンはどれくらいにぎわっていたのか、今や多くがボロボロのコロニアル建築は当時定期的にメンテナンスされてきれいだったのか等々と当時の市内の様子について他愛もないことをいろいろ想像してしまう。 -
サウス・パーク・ストリート墓地 1

サウス・パーク・ストリート墓地に出かけてみた。墓地が設立されたのは1767年。そのころごく付近のフリー・スクール・ストリート(現ミルザー・ガーリブ・ストリート)界隈はまだ竹林でトラが出没することもあったという。カルカッタの街の草創期、ここは周囲を湿地帯に囲まれており、墓地の前の通りがパーク・ストリートと名付けられる前にはベリアル・グラウンド・ロードという陰気な名前で呼ばれていたそうだ。
この墓地ではイギリス統治下のカルカッタに生きたイギリス人たち(一部アルメニア人やアングロインディアンたちも埋葬されている)がここに眠っている。今もパーク・ストリートとチョウリンギー・ストリートの交差点近くに存在し、東洋研究の拠点として開かれたアジアティック・ソサエティ(創立当時はロイヤル・アジアティック・ソサエティ・オブ・ベンガルl) の創設者ウィリアム・ジョーンズ(1746〜 1794))やインド狂のイギリス軍人チャールズ・スチュワート少将(1758 ? 〜1828)などがこの墓地に葬られていることは良く知られているところだ。 -
グジャラート州 酒類解禁への道

禁酒州
インド独立の父、ガーンディーを生んだグジャラート州といえば言わずと知れた禁酒州。1960年5月1日にそれ以前のボンベイ州から分離し新州が成立してから現在まで、酒類の販売、持ち込み、消費等が禁止されている。バスなどで入る際に州境の検問で警官たちが乗り込んで来て簡単な車内検査を行なうことがあるが、鉄道で出入りする際には特に何もないため、国外から来た旅行者などはここが禁酒であることを知らずにそのまま持ち込んでしまうこともあるだろう。外国人のカバンをひっくり返して細部まで調べるなんてことはないので持ち込もうと思えば簡単にできてしまうのだが、同州の法を犯すことになるという認識は必要である。飲酒をしようという場合、私自身特に手続きしたことはないのだが、正式には当局からリカー・パーミットを取得して定められた場所で飲むことになる。
街中の風景に酒屋やバーが見当たらないのはやや寂しい。でも休暇で訪れているぶんには我慢できないこともないし、たまには肝臓にお休みをあげるのもいいではないかと思う。
しかしこの地域に仕事その他で居住するとなると話は違ってくるだろう。おおっぴらに飲み会やパーティーを開くわけにはいかないので、『飲みニュケーション』文化圏の人々は困るだろう。自宅にストックして身内や親しい人たちと飲んでいる分には警察の厄介になることはまずないにしても、『酒=犯罪』に関わっていることに違いはない。何時捕まってしまっても文句は言えないというリスクを抱え込むことになる。 -
再びコールカーター中華朝市へ 3 華語新聞
父親が中文の新聞編集にかかわっていたため、中華食材屋を営むCさんは、学生のころからペンネームでちょくちょく記事を書いていたという。日々の生活のこと、在印華人たちのこと、そして詩などを掲載していたということだ。そうした古い新聞をいくつか見せてくれた。活字が擦り切れていたり、該当する活字がない部分は黒い四角、つまり『■』で印刷されている。『前後の文脈からそこにどういう字が来るのか想像できるかどうか、語学力が問われるところなのよ』とCさんは笑う。その部分は自筆で正しい文字をボールペンで書き入れてあった。華人が減り読者が少なくなると経営が立ち行かなくなり、この新聞はすでには廃刊となっている。
もうひとつの中文新聞、『印度商報』はインドに現存する唯一の中国語による新聞である。数年前まで手書きであったという紙面を見せてもらったが昔々の日本のガリ版刷りみたいな感じだ。旧正月の号は印刷すべてが赤字で刷られており、中国らしい雰囲気を醸し出している。現在はほとんどが活字になっているものの、ところどころ手書きの部分が残り非常に素朴な印象のわずか4ページから成る新聞だ。
紙面からはカルカッタ華人たちが中文紙にどんな記事内容が記載されることを期待しているかが見て取れるようである。これはタイやマレーシアなどの中文で書かれたメディアが、それぞれの地元で何が起きているかを伝えているのとは性格を大きく異にしているのだ。インド全般のニュースはおろか発行元のコルカタのローカルニュースさえもほとんど掲載されておらず、大半は中国の『人民網』や台湾の『聯合報』といったインターネットのニュースサイトから引っ張ってきた中国・台湾記事である。
地元記事はわざわざ中文で書かなくても英字紙その他に沢山の情報が溢れているため、むしろインドのメディアが取り上げず、どうしても縁遠くなってしまう祖国の出来事を知るためのミニコミ紙というところに存在意義があるようだ。もっともインドにおけるさまざまな一般名詞・固有名詞等を漢字に置き換える作業も大変そうだ。華人人口が大きくないこともあり、よほどメジャーな地名・人名等でないと漢字での表記が定まっていないのではないだろうか。
定価は一部2ルピー半。しかしこの新聞は宅配のみで路上等での販売はないようだ。ただ海外に移住したカルカッタ華人の間での需要もあるため、一週間分ずつまとめて航空便で外国にも届けられているという。
Cさんのところで今回もいろいろと興味深い話を聞かせてもらった。丁重に礼を言って店を後にした。界隈ではいくつかの中国寺院や同郷会館などが目に付く。『××醤園』『××金舗』と書かれた大きな店もあった。どちらも醤油の卸売店だ。まだ9時前ではあったがこれらはすでに営業を開始している。プラスチックのジェリ缶に詰めた醤油が店の前にいくつも置かれており、使用人たちがトラックに積み込んでいる。額に汗して働く人たちは目に付くかぎりすべてインド人であった。
次第に人通りが多くなってくるにつれて、朝市ではポツポツと見かけた華人たちの姿がインド人の大海に呑み込まれて、ついにほとんど目に付かなくなってしまう。漢字の看板や華人たちの住居らしきものが散在していながらも、界隈を行き来する彼らの姿を滅多に見かけない。非常に中国色が希薄な『チャイナタウン』である。

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再びコールカーター中華朝市へ 2 中華食材屋のCさん

朝市で、どこかで会った記憶のある人と幾度か擦れ違った。『はて誰だったか?』といくら考えても思い出せない。そんなわけで声をかけそびれてしまったのだが、朝市が開かれている場所のすぐ目の前にある店に入ったとたん、その謎が解けた。この店の女主人Cさんであった。50代くらいの華人女性である。
『あれ?いつかここに来なかった?』Cさんも私のことを即座に思い出してくれた。
『さっき何か食べているのを見かけたけど、どこで会ったかよく思い出せなかったから・・・』と私と同じようなことを言っている。
彼女の店では中国の食材、薬、茶その他日用品や雑貨などを手広く販売している。置いてある品物だけではなく、年季が入って黒光りしている内装といい、中文のカレンダー、ポスター、店内の陳列具合、勘定台後方の壁の中国式の祭壇や祖父の写真などといったたたずまいが中国の雰囲気を醸し出している。加えて彼女の風貌もあいまって、コルカタの街中ではなく、どこか中国の地方都市にでもいるような気がしてくる。そのためこの界隈出身で外国やインドの他地域に移住した人たちの多くが、旧正月に帰郷する際にここに立ち寄り『ああ子供のころから変わらない』と喜んでくれるのだそうだ。
彼女によれば『90年近く続いている店だからね。祖父が引退してからは父、そして父が年取ったら私にこの店を譲ってくれた。店の中の様子は祖父のころからほとんど変わらないのよ。少なくとも私が物心ついたあたりからずっと同じ』とのことだ。
彼女の親戚も幾人かカナダに移住しているらしい。中印紛争あたりでインドと中国の関係が険悪になってから外国に出た華人たちが多く、その結果としてコルカタの中華系人口は激減することになったが、移住先としてカナダを選んだ人が多いことは以前から聞いたり本などで読んだりしたことがある。また新天地で『コルカタ華人コミュニティ』の繋がりも強く、その中で結婚する人もかなり多いと聞く。
コルカタに住む華人たち以外にも日本や韓国など東アジアから来た留学生たちもしばしばここに買い物に来るのだそうだ。『定期的にシャンティニケタンからわざわざ買出しに来る日本人学生たちもいるわよ』私は好物の乾燥させたオレンジの皮『陳皮』を購入した。台湾製だがラベルにはタイ文字が書かれている。『お茶でもいかが?』と Cさんは温かい中国茶を勧めてくれた。
客家人のCさんは三代目の店主である。祖父が1890年代前半に中国広東省の梅県から移住してきた。他国ではなくインドを選択した理由は彼女自身もよくわからないと言うが、先にこちらにやってきた人のツテはあったらしい。当時バンコクなどを経て海路で入ってきた人たちはコルカタに近いアチプルの港に上陸していたものだが、祖父の場合ははるばる陸路で渡ってきたとのことだ。
インドに来た当初は非常に貧しく『まさにゼロからのスタートであったと聞いている』とCさんは言う。今日よりも明日、明日よりも明後日は少しでも良い暮らしをできるようにしようと、日々努力と工夫を積み重ねて懸命に働き、ようやくこの店を持つことができたのだという。
『もちろんいくら頑張ってみたところで一個人が成し得ることはタカが知れているじゃない。異郷にやってきた華人たちはみんなで支えあったからこそ生きていくことができたのよ』
中華系の人々は、銀行や貸し金業者などが相手にしてくれなかったので、同郷の人たちでお金を出し合って頼母子講のようなものを作り、互いに融通するシステムを作り上げたのだという。そうしたコミュニティの中でリーダーとなる人たちがきちんと仲間をまとめあげてきたのだそうだ。これは他の地域、たとえば東南アジアなどの華人コミュニティと共通している。政府その他公共の機関に頼ることなく、自分たち自身の力で運命を切り開いてきたという自負がある。
祖父がかなり年齢を重ねてから一度中国に帰郷したことがあるという。しかし故郷では彼のことを記憶しているのは80代の年老いた女性ひとりだけであったという。インドでかなり成功したつもりであった彼にとって相当ショックだったらしく、インドに戻ってから孫娘の彼女にこう言ったそうだ。『豊かになったら故郷に帰れ。きっとみんながお前を覚えていてくれる。でもそうでなければ決して戻るな。誰もお前のことを思い出さないだろう』と。
裸一貫で外地に渡り、そこに根付いて店を構えたとはいっても、『故郷に錦を飾る』というのはそう易しいことではないようだ。
ともあれCさんは三代目だが甥や姪に子供が生まれており、コルカタで五代続いている彼女の家で、広東省から渡ってきた祖父はすでにこの世になくとも、親族たちの絶大な尊敬を集める偉人なのだ。
おしゃべりなCさんは、こちらから尋ねずとも界隈の住民たちについてもいろいろ説明してくれる。『ここで売られている肉まんは、ほらあの人が全部作ってる』と示す先にはこれからバイクにまたがろうとしている華人の中年男性の姿があった。彼は肉まんとシュウマイの製造だけで生計を立てているのだそうだ。
『でもあの人はかなり手広くやっているよ。朝市の露店業者たちだけじゃなくて、市内あちこちの中華料理屋にも卸しているんだからねぇ。たいしたものよ』
そんな話を聞いていると、常連らしきインド人紳士が店に入ってきた。
『こんにちは。今日は醤油を下さい。それに中華スパイスと・・・』
『何を作るの?』とCさんは尋ねる。
『ええ、ローストポークでも作ってみようと思って』と彼は言う。そんな本格的な中華料理に挑戦する地元男性がいることに、私はちょっと感心した。
Cさんはヒンディー語を理解はするものの、ちゃんとインドの国籍を持ち大都会に暮らしているにしては、失礼を承知で言えばかなりつたない。自身は市内の中文学校で教育を受けたという。郊外のテーングラー地区ではなく、ここからそう遠くないところにかつては華人学校があったのだそうだ。しかし中華系人口が減少した結果、すでに廃校となっている。時折店の中にやってくる同胞華人たちとの会話を耳にする限りでは、昔その学校で身に着けたマンダリンのほうが比較にならないほど流暢であるように感じられた。 -
再びコールカーター中華朝市へ 1

せっかくコルカタに来たので中華朝市に出かけた。ラール・バーザール・ストリートにあるコルカタ警察本部から歩いて数分のところのある一角で、それは毎朝6時から8時過ぎまで開かれている。地下鉄はセントラル駅が近い。パークストリートから来ると進行方向左側の出口がこの『中華街』の入口にあたる。もっとも華人人口はかなり少なくなっており、界隈にときおり見られる漢字の看板が目に入らなければそれとは気付かないだろう。
昨年来たときと同じように朝市で鶏肉入りの肉まんを買って食べる。鶏肉入りのものと豚肉入りのものとありどちらもなかなかおいしい。何故か『ソースは要るか?』と聞かれる。水分の少ないおかずやごはんをそのまま食べることがあまりないインド人たちには、こうしたものを食べる際にも何かしらかけるものが欲しいようで、あたりにいるインド人たちは皆『ソース』でベタベタになった饅頭をほおばっている。人々の大半は立ったまま食べているが幸い売り子の横の席を勧められたので、ゆっくりと腰掛けてあたりを観察することができる。
客は二割弱くらいが中華系でその他はインド人たち。雰囲気からしてどちらも大半がこの界隈で暮らす人々といった感じで多くが購入してそのまま持ち帰っている。売り子たちのほうはインド人と華人が半々くらい。前者のおよそ半分くらいは華人の売り子たちの手伝い役で、その他は中華のスナックや食材以外のものを商っている。例えば野菜や魚といった生鮮食品である。華人の売り子たちはもちろん誰もが中華系のスナック、肉まん以外に海老しゅうまい、揚げパン、中華ソーセージ、中華菓子といった食べ物あるいは雑貨類などを売っている。
露店で商う華人たちは相当混血度が進んでいるように見える。モンゴロイドをベースにインド系の血が入るとネパールあたりでよく見かけるような風貌になるようだ。ここで売られている食べ物、ホカホカと温かい蒸気が上がる蒸篭からのぞいた点心類はやたら食欲をそそる。私が到着したときはまだ薄暗い6時ごろで閑散としていたが、時間が経つにつれて次第に賑わいを増してきた。

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ゴアの地引網
朝6時前に起きた。外はまだ暗い。海岸にはもう人々の姿があった。総勢40名程度といったところだろうか。眠い目をこすりながらサンダルを引っ掛けて見物に出ることにした。砂浜では毎日地引網漁が行なわれているのだ。
船で海の中にU字型に網をかける。網の引き綱には木製の取手がいくつも付いており、浜で人々がこれをどんどん引っ張って魚を追い込んでいく。漫然と引いているのでもなく、様子を見ながら引き手がジワジワと、あるいは一気に内側へと追い込んでいくのだ。そうした動きを人々に指示するのは、海の中に入りそうした動きを指示するリーダー格の者たちだ。引っ張って、引っ張って砂浜の最後端まで来た人たちは、そこで手を離して再び波打ち際の最前列に入る。
こうした動きを幾度も繰り返した後、海中で地引網から成る『輪』が小さくなり、岸に追い込んで引き上げる。岸近くの浅瀬で行なうため大騒ぎした割には雑魚ばかりで数も少ない。労多くして実入り少ないとはいえ労働という行為の原点である。獲れた魚の中に海ヘビがいた。波間の向こうへ投げ返していた。毒のあるものなのかよくわからないが。
漁が終わってから、セリが始まる様子はない。販売用ではなく自家消費用だということだ。参加した男たちがグルリと並び、親分格の男がその前の砂地に少しずつ置いていく。そしてカゴの中が空になったあたりで、皆でそれぞれの分け前を見比べる。「あそこが少ない」「彼のはちょっと多いんじゃないか」といった声に耳を傾けつつ親分は男たちの間での分け前の調整をしている。明解かつ民主的な方法だ。眺めていても実に気持ちがいい。
参加者たちの間には、村の同一コミュニティ、カースト、その他いろいろな要素があるのかと思いきや、少なくともここコラヴァの浜はそういうわけではないようだ。父祖伝来の「メンバー」や伝統的な漁民でなくても、この「朝の地引網」に参加できるのだという。
皆プロの漁師というわけではないし、地元っ子ばかりというわけでもない。漁が終わってくつろいだ表情をした人々に直に話を聞いてみると、彼らの中の半数ほどが昼間建設現場の労働者や付近のホテルの従業員といった人々だということがわかった。しかもこのあたりの村の出ではなく、カルナータカ、マハーラーシュトラ、ケララ等々各地の出身者が多く、現在この付近に在住しているということ以外にあまり接点はないらしい。とかく人手が要る作業なので外部の人々の参加も大いに歓迎されるのだろう。
男たち輪の外で、魚のおこぼれにあずかろうと野犬がじっと様子をうかがっていた。
