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カテゴリー: society

  • 世界最古の『会社』

     歴史と文物の宝庫インドでは、東西南北どこに行っても由緒ある建物や街並みに出会うことできる。文化の多様性と重層性をヒシヒシと感じさせてくれるこの国は、いつどこを訪れても非常に興味をそそられるものだ。
     ところで我らがニッポンの『カイシャ社会』の中には、仰天するほど長寿な企業が存在していることに気がついた。それは起源を江戸時代にまでさかのぼる反物屋や百貨店といった程度の話ではない。なんと紀元578年創業なのだというからびっくり。
     イスラーム教の預言者ムハンマドが誕生したのが570年あたりとされるし、インドではアジャンターの石窟がまだ現役の僧院群として機能していた時代だ。玄奘三蔵がインドを訪問したのはさらに50年ほど経ってからだ。
     その『歴史的企業』金剛組は総合建設会社だが、特に寺社建築の設計・施工・文化財建造物の復元、修理等を得意としている。会社の沿革をひもとくと実に興味深いものがある。
     紀元578年に聖徳太子の命を受けて百済の国から三人の工匠が招かれ、この中のひとり金剛重光なる人物が興した宮大工集団が現在の金剛組のはじまりだという。そして『三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をまつる寺院創建のために尽くしました』と同社のウェブサイトにある。四天王寺に続き法隆寺を建設したのだそうだ。
     以来日本の寺社建築とともに千四百年という気の遠くなるような長い時間を歩んできたのだから世界遺産みたいなものである。ウィキペディアによれば金剛組は現存する世界最古の企業(ただし株式会社化は1955(昭和30)年)だ。
     ただし今年1月に現代の当主である金剛重光氏により、中堅ゼネコン高松建設の子会社としての新たな『金剛組』に営業譲渡して社員の多くを移籍させ、もともとの母体である旧来の金剛組についてはケージー建設と改称したが、7月下旬に自己破産を申請している。
     これらの一連の動きにより、今年からは金剛組とそれを千四百年以上もの長きにわたって率いてきた金剛一族との縁は解消されたといえるが、歴史という視点から眺めると日本の会社社会もなかなか捨てたものではないようだ。
    ケージー建設:大阪地裁が破産手続き 日本最古の建築会社
    (毎日新聞)

  • 電気が停まった

     お盆で行き交う人々の姿が普段より少ない8月14日の朝、私は地下鉄で東京の都心近くを移動中だった。7時半過ぎに到着した駅構内で電気が消えているのを不審に思ったそのとき、車内アナウンスがあった。
    『停電のため停止します』
     車内がどよめく。無理もない東京で停電なんて滅多にないことだし、それが原因で電車が動かなくなるなんて。この時点でドアが開いて乗り込んでくる人たちはあっても降りる人はいなかった。車内は電気が点いているしエアコンも作動していた。待機用の電源で動かしているのだろう。
     しばらくしてから再び車内放送が入る。
    『ただいま東京メトロ、東急線、小田急線、都営地下鉄などで運行を停止しています』
     続いてバスに振替輸送をするとの案内が流れると乗客たちの多くが下車して出口へと向かう。
     地上に出るとあちこちから消防車や救急車といった緊急車両のサイレンの音が響く。見渡せば警官たちが多数配置されている。いったい何が起きたのだろうか。
     たずねてみると『私たちも今駆けつけたばかりでよくわからないんですよ』と制服姿の一人が応える。
    『首都圏の広域で停電しているらしい・・・』そんな会話がどこからか聞こえてくる。こんな晴れわたった好天の朝になぜ?と誰もが思うだろう。一目でそれとわかる腕章を付けた報道関係者がカメラを抱えて地下鉄構内へと降りていく姿が見えた。
     ここで誰かがふざけて『テロが起きたぞ!』とでも叫べば、そのままデマが流布してしまいそうな雰囲気があった。
     振替輸送先を行なうと案内がなされていたバスだが、停留所ではすでに数百メートルの行列。来るバスはすべてすし詰めの満員で、停車することなくそのまま通過していく。
     あ、そういえば・・・と携帯電話を取り出す。購入してからほとんど使っていないがワンゼグ放送受信機能が付いていたことを思い出した。
     ちょうど今の停電の状況を報じているところだった。旧江戸川にかかる送電線を航行中のクレーン船が傷つけたことが原因だとわかったのはもうしばらく後のこと。この時点ではメディアも停電の理由がよくわかっていなかったが、とりあえずテロが起きたわけではないようだ。  携帯電話で受信中のテレビニュースによれば、すでに電車のいくつかの路線は復旧しているという。ここの路線もそろそろ動き出すかもしれない。
     そういえば数年前にはニューヨークの大停電があった。あのときはずいぶん長いこと送電がストップしていて相当な混乱があったと聞く。その事件後、ニューヨークに『停電先進国』インドから専門家が招かれて『停電発生時や復旧後に想定されるトラブルやその対処法を含む危機管理を伝授』というニュースのように、はるか彼方に消え去っていた記憶が次第によみがえってくる。
     首都圏やそれに準じる地域でもでも小さな停電がしばしば起きて、田舎では一日の送電時間が制限されているところも珍しくないインド。高価な家電製品やPCなどを使用するところではバックアップ用の電源や自家発電機などが必須。また物事が『あるべき状態』にないこと、イレギュラーなことがしばしば起きるためもあってか、停電程度の異常事態については柔軟に対応できるのかもしれない。
     そういえば2001年にカーンプルを中心にデリー、ラージャスターン、UPなどを含む広大なエリアで重要施設や地点を除く大部分の地域で数日間に渡る大停電が起きたように、ごくまれだが広域かつ長時間にわたる停電が起きることもある。その最中、人々は不便を我慢し、不平を漏らしつつも何とかうまくやり過ごしているようであった。
     そんなとりとめもないことをボンヤリ考えながら長蛇の列の中でバスを待っていると、警察官が大声で叫びながらやってくる。『ただいま地下鉄が復旧しました』
     人々は額に浮く汗を拭いながらゾロゾロと地下鉄の入口へと吸い込まれていく。
     今日の停電はそれほど時間かけずに復旧したが、もし本当にテロのような事件や大地震のような災害により長い時間送電がなかったら、私たちはどんな対応ができたのだろうか。少なくともそうした不測の事態が発生した場合について考えさせてくれる機会になったのではないだろうか。

  • 傷んだお札

    Rs
     90年代半ば以降、インドで流通する紙幣の多くがガーンディーの肖像入り新しいタイプのものとなった。以前のものにくらべて紙質も良くなり、耐久性もずいぶん向上しているので、お札の破れについてあまり気にする必要もなくなってきた。でも紙幣たるもの、使い込むほどに痛んでくるのは当然のことだ。
     小額紙幣ならまだしも500や1000といった額面の紙幣となれば、受け取るほうも入念にチェックすることが多く、うっかり破れたお札を手にしてしまうとなかなか使うことができなかったりする。
     破れた札への許容度も地域差があるようで、1Reから5Rs程度の小額紙幣については、グジャラートの一部地域などではボロボロになったお札をビニールの小袋に密封して流通させているところもあったりする。あくまでもローカルなルールのため、他地域に持っていくと受け取ってはもらえないのだが。
     また一度『ダメになった』お札を、一目ではそうとわからないようにミクロン単位の精密さ(?)で上手に糊で貼りあわせるなどによって見事に補修した『労作』を目にすることもある。
     ところでリザーブ・バンク・オブ・インディアの『soiled, imperfect or mutilated notes』についてのRefund Rulesとやらに目を通してみると、ダメージを受けた紙幣の取り扱いについていろいろ書かれているものの、『折り目から切れ込みが入った』とか『端っこが少し裂けた』程度で紙幣の効力が停止されて使用できなくなる・・・などということは特に書かれていない。多少破れたお札を受け取らないことについて法的な根拠はあるのだろうか? 隣国のパキスタンやバングラデシュでは紙幣の破れについてさほど神経質ではないため独立以降の慣わしなのかもしれない。
     そういえばインド・ルピーならずとも、ややくたびれた米ドル札等の外国紙幣の両替を断られることもあるが、こうしたことは他の途上国でもときどきある。お札は新しくてキレイであるのに越したことはないようだ。
    RBI(Note Refund) Rules

  • インドに生まれてホント良かった!?

    dog
     昼間はゴロゴロしているかと思えば、日が傾くころには元気に動き出し、ときに独りでときに群れて町中を我が物顔に行き交う犬たち。ごくごくわずかな『飼い犬』を除けばみすぼらしい野良ばかり。あまり充分に食べている様子はないが、人々の無干渉のおかげでそれなりの繁栄を享受している。
     犬は都市型の動物といえるだろう。インド中どこに行っても人の住むところ犬あり。犬のいるところ人々の姿あり。
     さてこのところの中国南西部では、狂犬病の流行が問題になっている。すでに住民の間にも死者が出ているそうだ。そこで当局が乗り出したのが空前の規模の大がかりな『犬狩り』だ。
     当局の『犬を処分せよ!』という大号令のもと、警察犬や軍用犬を除いたあらゆる犬たち、多くは野犬ということになろうが個人がペットとして飼育している犬とて例外ではない。3日間で5万匹を超える大量の犬が殺されており、その中には狂犬病予防接種済みの4千匹が含まれているという。
     それにしてもこの狂犬病、ありとあらゆる哺乳類に感染することが知られており、犬を処分してみたところで、キャリアはコウモリ、ネコ、リス、ネズミ等々実に様々な動物に及ぶのだから、仮に犬を根絶やしにしてみたところで『これで安心』というわけではない。さしあたりは人間と直に接する機会が多く、また噛み付く危険の高い動物としては犬ということになるのだが。
     ともあれごくまれに捕獲の憂き目に遭ったり、断種させられるという不幸がおそうことはあっても、基本的には無限の自由を与えられているインドの犬たち。さほど邪魔者扱いされず、おとなしくしていれば特に干渉も受けずに(人々の食欲旺盛な胃袋の中に放り込まれることもなく!)貧しいながらも安穏と暮らしていけるという点は、同じく町中を徘徊する牛や猿といった他の動物たちにとっても同様だろう。
     そんな彼らにとって『インドに生まれてホント良かった!』のではないだろうか。
    狂犬病殲滅作戦で受難の犬たち  (BBC NEWS Asia-Pacific)

  • 日本にタイのお寺

    ワットパクナム日本別院
     日本・インド間の行き来てタイに立ち寄る人も多いだろう。美しいビーチやおいしい食事、モダンでカラフルなイメージに加えて重厚な歴史と伝統、カッコ良さと慎ましやかさがほどよくミックスされたこの熱帯の国には、その湿り気を帯びた空気だけではないしっとり感に満ちている。こんな素敵な国が『インドへの道』途中にあるなんて、あぁニッポン人はなんて幸せ・・・としては言い過ぎだろうか。
     タイの風景といえば、豊かな緑の中にまばゆく輝くオレンジやグリーンといった派手な色彩の瓦屋根のお寺がまず思い浮かぶところだ。バンコクにワット・パクナムというお寺があるが、 この別院が千葉県成田市にある。ソンクラーン(水かけ祭り)のようなタイの大きな催しはここでも行なわれているのだとか。
     駅からかなり離れているようだが、何か機会があれば訪れてみるのもいいかもしれない。
    ワット・パクナム日本別院
    〒287-0237 千葉県成田市中野294-1

  • 時流

     西ベンガル州で、シャンティニケタンからビシュヌプルまで移動したときのことだ。早朝に出るという直通バスを逃してしまい、ドゥルガープルまで行きそこから乗り換えることになった。
     シャンティニケタンから2時間で到着したドゥルガープルだがそこからが長かった。午前11時に出て、地図を眺めて午後1時前には着くだろうと踏んでいたが、バスは途中あちこち迂回して走った結果、目的地に着いたのは午後3時であった。
     実はドゥルガープルのバススタンドで、電話屋の人に『公営バスのほうが早く着くよ』とは言われていたのだが、次に出るのが午後1時であるとのこと。2時間もボーッとしているよりは・・・と、タイミング良く現れた民営バスに飛び乗ったのが裏目に出た。
     近年、インドのどこに行っても公営バスのルート、発着数ともに激減しているのが見て取れる。左翼勢力が強い西ベンガル州とて例外ではない。シリグリーやラーイガンジといった州内の交通の要所にあっても、バススタンドで幅を利かせているのは民営バス。
     公営バスが道路交通の中核を担っていたころ、同じバスがいつも決まったプラットフォームから出るため、利用者とくに私のようなヨソ者にはわかりやすかった。そして決まった時間に(たとえ車内がガラガラであったとしても)出発するので時間が読みやすかった。走行ルートもそれなりに理にかなうものであったと記憶している。
     かつてはインドのどこでもバススタンドといえば公営バス専用で、民間のものは道路脇などに構えた小さなオフィス前から出るのが当たり前だったのに。だが当時のように市内各地(それでも往々にしてバススタンド付近であることが多かったが)からバラバラに発着させていた状態よりも、こうして一箇所から各社のバスが出るようになると効率がいいし、利用者にとっても便利であることは間違いなく、大きな進歩である。こうやって民間でできるようになったのだから、政府がわざわざやる仕事ではないから手を引く・・・というのが万国共通の行政側の論理なのだろう。
     そして今、色もカタチも違い行き先表示もあったりなかったりする民間バスが主体となってからは、これらの車両がどこに行くものなのか『経験的に』理解している者でなければ、何がなんだかよくわからないのだ。
     ちゃんと定められた時間どおりに走行しているものもあるが、おおむね『満員になり次第』発車し、走行中に空席が目立つようになれば市街地に入ってから車掌がドアから身を乗り出して可能な限り多くの乗客を乗せようと呼び込みに没頭するようでは到着時間が予測できない。秩序と定時走行の概念が消えるという現象面だけ眺めてみれば、時代に逆行しているようにも思える。
     公営・民間ともに同じところを走れば当然競合することになるが、それなりの棲み分けはなされているようだ。概ねこのベンガルでは公営は要所と要所を短時間で直行するもの、民間は回りまわって寄り道しながら大きな街とそれ以外の小さい町や村を結ぶといった具合に分業しているように見える。
     高い経済成長率に沸くインドだが、その伸びの背景には元々のスタート地点がやたらと低かったからという面もある。それだけに都市部から離れるとまだまだ貧しさばかりが目に付くような土地も少なくない。それでも『小さな政府』『民間でできることは民間で』という大きな流れの中で人々が生きていることは、この地球上のどこにあってもほぼ同じであるようだ。もちろんそれが正しいことなのかどうかは、後世の人々が判断することになるのだろう。

  • 車内の人間模様

     通路挟んで隣に座った家族連れの人たちは気の毒であった。夫婦と小学生くらいの息子の3人連れ。ガタゴトと揺れる車内で、携帯電話に入ったショートメッセージを深刻な表情で見つめていた夫は、それを深いため息とともに妻に見せた。とても驚いた表情をしていた彼女は、やがて泣き崩れてしまった。突然の出来事で落ち着かない表情の夫だが、子供と一緒に彼女の手を取り、しきりになぐさめている。
     なんでも奥さんの身内に不幸があったとのこと。本当はこれから空路マレーシアへと向かうつもりでコルカタに出てきたそうなのだが、急な出来事のためそれを取りやめなくてはならなくなったが、この列車の終着駅ハウラーに着いてからどうすれば良いのかわからず戸惑っている様子。
     こうしたことがわかったのは、向かいに座ったU.P.州在住のムスリム老夫婦連れがこのベンガル人男性と話をしていたためだ。ともかくこの人は妻をなぐさめつつ、また携帯電話で彼女の身内らと連絡を取りながらも、正面に座る老人に一部始終を話していたので事情がよくのみこめた。こんなシリアスな状況下でも実によくしゃべるものだと感心。
     周囲の人たちは悲しみに打ちひしがれたこの家族連れに気を使い、彼らの取るべき行動、彼の奥さんの実家へたどり着くためのルートなどについて、さまざまな助言を与えている。
     ついさっき車内に乗り込むときの座席をめぐっての殺伐としたムードとは打って変わり、暖かい人情味あふれる空間に入れ替わっていた。
     しばらくパニック状態にあった夫はしばらく考えた末、カルカッタの親族だか知り合いだかと携帯電話で連絡を取り航空券の手配を頼んだ。しばらくして三人分の席がジェットエアウェイズで確保できたとの連絡が入っていた。彼らがハウラーに着いたら電話の相手が駅で出迎えてくれて、そのまま空港へと向かうことになったそうだ。
     やがて列車はハウラーに着き、家族連れは相席の人々に見送られて駅出口へと急いだ。

  • ダーラーヴィーの眺め

     以前『宝の山(1)(2)』として取り上げてみたムンバイーのダーラーヴィー地区はアジア最大とも言われるスラムだが、このほどBBC South Asiaで『Life in a Slum』と題してここに生きる人々の暮らしぶりを伝えている。
     もちろんここで取り上げられているのはギャングや犯罪者など、『スラム』からすぐさま連想されてきそうなネガティヴな面ではなく、一生活者として日々を送るフツウの人々。周囲の相場と比較した家賃の安さと交通の便から住み着いているものの、やはり機会があれば外に出たいと思っている勤め人や主婦、学生にメイドといった面々である。
     インド経済・金融の中心地でありながらも、周囲を海に囲まれた半島という地理的な制約があるムンバイーで土地というものがいかに貴重なものであるかということを端的に表している。人々が各地から職を求めて集まってきた結果形成されていったのがスラムだが、見方を変えれば街が様々な分野で働く人々を必要しているものの、それらの人々を吸収するキャパシティに欠けているため、さらなる発展の可能性の芽をつぶしてしまっているということにもなる。
     漁村から都会へと発達したムンバイーの成長は、東西南北どちらを向いても海原に大きく開かれた港湾都市という性格に負うものが大きいが、まさにその海によりどちらの方向を向いても塞がれている。旧来の市街地から隣接した郊外に新興住宅地や工業団地などをシーレスに拡大していくことのできる内陸の都市と比較して、スペースの上での制約が大きい。成長の波に乗るインドで、バンガロールやハイデラーバードなど商業や金融の核として伸びてきた街はいくつもあるが、かといって経済の中心地としてのムンバイーの地位がゆらぐわけではない。行政当局によるダーラーヴィー再開発計画とともにかつて東京でもてはやされていた臨海副都心計画のようなものが浮上する日も遠くないかもしれない。

    (さらに…)

  • 池袋にショヒード・ミナール

    池袋のショヒードミナール
     1999年にユネスコの第30回総会で宣言された『国際母語の日』は2月21日。この日をShaheed Dayと呼び国民の祝日とするバングラデシュの強い働きかけにより実現したものである。 民族固有の言葉と文化の大切さをアピールし、1952年に自国の言語運動で大勢の犠牲者を出したこの2月21日を採択することを提案し、数多くの国々から賛同を得たのである
     本物のショヒード・ミナールが建つバングラデシュは、多くの尊い命と引き換えに自主独立を達成した国だが、暮らすチャクマ族をはじめとするモンゴロイド系少数民族との摩擦などからくるチッタゴン丘陵問題をかかえていることは皮肉ではある。この世の中はさまざまな力関係が幾重にも折り重なってできている。だから被抑圧者は同時に抑圧者でもあり、強者と弱者の連鎖は果てしなく続いているものなのだ。
     本題に戻ろう。このたび国際母語の日の象徴でもあるダッカのショヒード・ミナールのおよそ1/10ほどの大きさのレプリカが池袋西口公園に登場した。昨年7月12日、来日中のバングラデシュのジア首相から東京都豊島区に寄贈されたもので、同日定礎式も行われている。今年4月16日にこの場所で開催された『ボイシャキ・メーラー』の開会に先立ち、このモニュメントの完成式典が執り行なわれた。
     今、このモニュメントが建つ公園とバングラデシュの縁といえば、毎年ここで開かれるボイシャキ・メーラー以外に思い当たるところはない。だがその催しが開かれるまさにこの場所に、かの国の首相が訪日の際にわざわざ手みやげとしてわざわざ私たち市民のために持ってきてくれるという親日的な姿勢は実にありがたいものだ。
     南アジアのどの国をとっても、日本に対して特に友好的な国ばかり。外交辞令として、あるいは観念的な『友好』のみならず、よりお互いの顔が見える身近な関係を築いていきたいものである。
    ダッカのショヒードミナール

  • 宝の山 2

    Dharavi
     東西を海に挟まれたインド随一の商都ムンバイーは、水際ぎりぎりまで市街地が迫る高密度な都市空間だ。地理的には一等地となりえる地域がスラムとして放置されているということは、行政にとっては大きな損失であろう。劣悪な生活・労働環境とともに、住民たちのおおまかな人口さえもつまびらかでないようでは治安面からも心もとないし、経済面でも本来期待できるはずの大きな歳入を逸失しているといえよう。インフォーマルな経済が中心で取引はほとんど現金でなされるため、経済の実態を把握するのはかなり困難なのだ。
     だがここはムンバイーの街で建設現場、家庭の使用人や小さな工場の作業員その他の労働者や臨時雇いといった形で社会を下支えしてくれる人材を豊富に供給してくれるだけではなく、実に意外な側面がある。ダーラーヴィー自体が活発や工業地帯であるため、年間10億ドル近い収益を上げているのだ。
     主な産品は皮革製品、陶器、衣類、装身具等々で製品は国外にも輸出されているほど。先のふたつは前回取り上げたごとく、ダーラーヴィーの市街地化(=スラム化)が始まって以来の伝統産業である。同様に盛んな食品工業については、甘味類を中心とした製品がムンバイーやその周辺のローカルな市場で消費される。
     ビジネスシーンとしての大きなポテンシャルを秘めているのは、スラムとしては特筆すべきものであろう。 信じられないことにダーラーヴィーの住民たちのおよそ半数が中間所得層に属し7万5千〜50万ルピーほどの年収があるという非常に極端な説もあり、この地域では収入面よりもむしろ生活・衛生環境のほうが問題であるともいわれる。
     こうしたスラムで一生を終わる人々の姿が無数にあるいっぽう、毎年およそ1000世帯もの人々がベターな環境を求めて北郊外のミドルクラスの住宅地に居を求めて移転していくという。どん底にあっても旺盛な上昇志向と智恵や才覚があれば『ムンバイー・ドリーム』を実現する夢はそこらに転がっているのかもしれない。
     ダーラーヴィーには立地の良さと地場産業の活況を背景とする大掛かりな再開発プランがある。 政府は行けどもバラックが続く風景を改め、製品の海外輸出を念頭に置いた宝石や装身具の加工ユニットを建設して職工5万人分の雇用を創出し、そこで働く人々が8千〜20万ルピーの収入を上げることができるようにするという青写真とともに、地域を九つのセクターに区分し、広い道路の建設、適度なオープンスペースの確保し、学校巣や病院を建設し、上下水道が完備した住宅地などを建設することを構想しているのだ。 
     そして現在のバラックのオーナーたちには225 sq ftのフラットを無料で提供し、『ミドルクラスの』生活環境を用意するなどという計画もあるようだが、本当にうまくいくのだろうか。
     こういう議論が出るということは、90年代以来続く好調な経済成長のおかげで、ある種の余裕が出てきたということかもしれないし、成長の果実が社会の底辺にも及ぼうとしていることの表れなので決して悪いことではない。
     だが経済や所得水準などにおける大きな地域的な格差が引き金となり、この商都に人々が押し寄せてくるという構造をなんとかしない限り、第二、第三のダーラーヴィーがさらに北郊外のほうに出来上がることだろう。
     ところで再開発の本当の狙いとは、現在ここに暮らしている人たちのために雇用を創出したり、環境を整備したりというものではないと思う。本音は土地が限られたムンバイーで貴重なこのまとまった広がりを持つダーラーヴィーを『収用したい』のだろう。もちろんここに暮らす人々を追い出したうえでのことだ。雑なスケッチをいかに美しい見事な絵に見せるかという一種の手品こそが、どの時代どこの国にあっても為政者の腕の見せどころである。
     再開発にはこれまでにないとても強力な指導力と実行力が求められる。問題は議論されていても、いざこれに着手する勇気を持つのは一体誰なのか? その号令がかかるのをじっと待ち構える人たちがいて、官民さまざまな分野からなる再開発事業から生じる大規模な特需、不動産売買や住民たちのリロケーションや補償等々さまざまな利権をめぐり闇でうごめいていることだろう。
     ダーラーヴィーというスラムを必要としているのはここに暮らす人々だけではない。ここから外へ働きに出てくる安い労働力をアテにしてきた産業もあるだろう。ダーラーヴィーという地域の潜在的な宝の山を活用するという視点からは、この再開発構想には大きな意味がある。しかしその『宝』とはいったい誰のものなのだろうか。この世の中どこを眺めても立場が違えば、人々の利害は相反し対立するもの。行政の描くスケッチがそのまま実現するかどうかよりも、これをきっかけに住民その他関係者たちを含めて、人々がどのような落としどころを見つけていくのかというところに注目したい。
     ダーラーヴィーの絶好のロケーションからして、この巨大なスラムがこの先10年、20年もそのままであるとは思えないのだ。

  • 宝の山 1

    Dharavi
     そこはウエスタン・レイルウェイのバーンドラー駅、またセントラル・レイルウェイ(ハーバー・ライン)との乗換駅のマーヒム駅、セントラル・レイルウェイのサーヤン駅などに囲まれている。加えてサーヤン・バーンドラー・リンク・ロードから少し北上すれば、ウエスタン・エクスプレス・ハイウェイにつながるし、ステーション・ロードを少し東に進めば、イースタン・エクスプレス・ハイウェイだ。
     ムンバイー市中心と北郊外の間に位置する一等地。市南部、つまりこの商都のビジネスの中心地からクルマで30分、そして国際空港から20分という絶好のロケーションである。こんなところにオフィスがあったら、あるいは住むことができたらさぞ便利なことだろう。
     しかし残念なことに、ここは市内で最も人口密度が高く、インド最大ひいてはアジア最大のスラムとして知られる地域だ。ここダーラーヴィーはGoogle Earthで眺めてみても、やたらと規模の小さな構造物がひしめきあっており、周囲の環境とはずいぶん違うことが見てとれるだろう。
     この地域には8万6千もの建築物があるとされる。人口については諸説あり、その数60万人とも90万人とも言われるが、一時滞在者も含めれば100万人を超すという説もある。各地から出てきた人々を日々吸収している巨大スラムだけに、正確な数字は誰にもわからないのだろう。公安当局の目も行き届かないため、かなりデンジャラスな地帯となる。
     そんな土地であるにもかかわらず世間の注目が高まり地価が急騰している。90年代から続く好調な経済成長による建築ブームのため、スラムであるということを除けば文句のつけようのない立地、そして密度の高いムンバイーではもう他に望むべくもないまとまった土地であることからいやがうえにも人々の関心を集めるようになるのは当然のことだ。
     こんなダーラーヴィーにものどかな時代があった。現在のムンバイーがまだ七つの島からなっていたころ、ここはその中のセウリー島とバーンドラー島のあいだに広がる湿地帯であった。20世紀初頭には、このあたりにまだ漁村が点在する程度ののんびりした光景が広がっていたそうだ。
     ちょうどそのあたりから各地から貧しい人々がこの界隈へ移住を開始した。その流れはおおまかに二つの流れに大別される。まずはインド西部つまり現在のマハーラーシュトラ沿岸部、およびグジャラートから来た人たちである。ダーラーヴィー南部にクンバール・ワーダーという一角があるが、文字通り彼らの中の陶工たちが住み着いた場所である。そしてもうひとつが南東部のタミルナードゥから移り住んできた商人や職人たちである。この中で特筆すべきはムスリムの皮なめし業者たちで、彼らのおかげでこのあたりは皮革産業で知られるようになって今日にいたる。どちらの人々も多くはこの地に住み着いてモノ作りに励み、あるいは鉄道施設等で肉体労働者としての働き口を見つけたものも多かったという。そんな集落が現在のここダーラーヴィーの始まりである。 
     外部の人々の流入と並行してムンバイー市街地の拡大と水際の埋め立てが進む。こうした都市化とともに、もともとここに暮らしていた漁民たちは居所を失い、土地の主役は新しい移民たちに取って変わられていく。
     この地域で人口爆発が本格化したのは独立以降である。ここを基盤とする地元の有力者たちや政党などの伸長とスラム人口の拡大は相互補完関係にあった。インドにあって飛びぬけて地価が高いこのムンバイーで、地方から食い詰めて職を求めてこの大都会にやってきた貧しい人たちに寝床を提供したのは特に鉄道や空港などの用地脇をはじめ市内に点在するスラムやバラックだが、それらの中で突出して規模が大きいのがこのダーラーヴィーである。

  • 本に描かれたコルカタ華人たち 2 彼らの生業

     客家人の典型的な仕事には靴製造、皮なめし、レストラン、ヘア・サロン、酒造などがあり、広東人は大工とレストラン、湖北人は歯医者といった具合になっているという。こうした職業的な住み分けは19世紀には出来上がっていたのだそうだ。
     インドで皮なめし加工の三大中心地といえば、コルカタ、チェンナイそしてカーンプルだが、その筆頭格のコルカタで、英領時代に皮なめし加工の大規模な事業者といえば欧州人が多かった。もともと低湿地帯で居住には適していなかったテーングラー(TANGRA)地区に集中している。加工プロセスに大量の水を必要とするため、カルカッタの皮なめし産業はその当時からこの地域に集中していたようだ。
     しかし1920年代の欧州を襲った不況のあおりで、事業を放り出すオーナーが多かったという。おそらく当地で生産された皮革の主要な販売先がヨーロッパだったのだろう。
     これを機に工場ごと買い取ったのは客家人たちである。彼らはこの時期に機械を導入して生産活動の合理化を図ったことに加え、第二次大戦が始まり、皮革の「特需」が始まったことが追い風となった。
     その後も朝鮮戦争、印パ紛争といった騒乱が起きるたびに、皮革製品への需要が高まり、こうした華人たちの商売の発展を助けることとなった。ただし彼らの母国が関わった中印紛争の際には、『敵性外国人』とされた彼らに対する特需の恩恵はなかったことは言うまでもない。
     なおこの地域で皮なめし工場を営むインド人たちもおり、たいていはパンジャーブ人たちだがごく少数のベンガル人たちもいるという。しかし一般的には経営者が華人で経理担当や皮革加工のエンジニアとしてベンガル人を雇い、皮なめし作業の労働者たちはビハール州から来たチャマールあるいはネパール人、製品として出来上がった皮革を袋詰めするのは北インドや地元のムスリムたちというのが典型的なパターンらしい。

    (さらに…)