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  • マジヌーカーティーラーで夕食

    マジヌーカーティーラーで夕食

    マジヌーカーティーラーでマジヌーカーティーラーのチベット人居住区の食堂にて夕食。シャプタとテントゥクを注文した。
    宿泊施設に事欠かず、食事も楽しいのでデリーでの投宿先としては有力候補なのだが、私自身がなかなか泊まることがないのには理由がある。
    非常に建て込んでいるため、路地がとても細く、ひとりがやって通ることができるような奥まった通路の先に素敵なレストランがあったり、お得なホテルがあったりする。
    ここは他のエリアにも増して野犬がやたらと多い。昼間や宵の口の時間帯は特に問題ないのだが、犬が嫌いな私としては、夜出歩いて、辺りがすっかり寝静まった中、こうした犬たちの群れと対峙するのが嫌なので、それを思ってついつい敬遠してしまうのだ。

    チベット人地区の「メインストリート」はこんな具合
    美味なるシャプタ
    具沢山でうれしいテントゥク
    用事は済んだのでメトロ駅「ヴィダーン・サバー」へサイクルリクシャーで向かう。
  • アウンサンスーチー氏 国家顧問就任1年

    NLD政権発足から1年。
    期待されたほどの成果が出ていないという批判はあるものの、政権担当した経験がない指導者、政党であること、けれども旧国軍系勢力と衝突することなく切り盛りしていること、外資の呼び込みやおカネの回り具合は良好に推移していることなど、総体的に見て素晴らしいことだ。

    映画や物語の絵空事のストーリーではないし、ガーンディーに比肩するほどの偉人とはいえ、神様ではないのだから、民族問題、内戦、人権侵害等々の課題が山積する国のすべてをいっぺんに取り組むことが出来るわけではなく、解決出来るはずもない。「難局」というならば、現在のNLD政権が直面しているものよりも、軍政時代のほうがより大きな難局に対峙していたと言える。また2010年に「民政移管」と称して、軍幹部が軍籍を外れて発足した翼賛団体、USDP (連邦団結発展党)も「軍政の看板のかけかえに過ぎない」と批判されていたものの、良くも悪くも数々の難局を乗り越えてきた。

    NLD政権発足は、軍を背景とする体制から完全に民政へ移管した快挙であったが、その後、旧体制に属していた層への粛清や報復といった手段により対立を生むことなく、着々と成すべき仕事を粛々と進めているように見える。やはりそこにはスーチー氏の冷静な判断と、彼女に対する周囲の厚い信頼あってのことなのだろう。

    スーチー氏から袂を分かって新たな政治団体、政党を立ち上げようという動きもあることは、これまた好ましい動きだ。旧国軍勢力に対抗するため異なる思惑を抱えつつも横断的に団結していた中から自らのカラーを鮮明にする人たちが出て来たわけで、民主主義のシステムが国民の中のより広範な意見を吸い上げることが出来るようになることを期待したい。

    NLDが政権党となるまでのスーチー氏の闘いの軌跡は偉業だが、大統領の上の存在、『国家顧問』に就任してからのそれも同様だ。

    それにしてもすでに71歳となった彼女、後を継ぐことになりそうな人たちはみんな小粒で、あまりに偉大過ぎるカリスマが去った後の真空をどうやって埋めるのか?埋めることが出来るのかが気になる。
    どんなに素晴らしいリーダーでも、老いという天命から逃れることは出来ない。

    スーチー政権発足から1年、早くも難局にさしかかる政権運営 (WEDGE Infinity)

  • ダルバールスクエア(カトマンズ)

    ダルバールスクエア(カトマンズ)

    街の名前のカトマンズの語源(・・・だったと思う)のカスタマンダプが失くなっていたことは、一昨年の地震関連のニュースで聞いてはいたが、本当に跡形も無くなっている有様を目にすると、やはりとても残念な思いがする。
    消失している建物は他にもあり、旧王宮のダメージもかなりのものがあるようで、修復工事が進行中だ。
    市内でも地震の被害があまり無かったという地域も多いし、その反面、こうした大きな被害が出たエリアも少なくない。地盤の関係、建物の構造や規模等々、様々な要素が影響したのだろう。
    だが、こうした文化財の復興には、この国のもっとも大きな財源である観光業の振興は必須である。

    街の名前の起源となったと言われるKasthamandap跡
    王宮建物のニューロード側
    Gaddhi Baithak
    Kumari Bahal
    ここに限ったことではないが、震災後、つっかい棒で補助している建物はかなりある。
  • グルカ兵

    グルカ兵

    カトマンズのタメルにあるククリ屋さんの看板

    インドが英領時代からインドを含めた英国植民地で、それらが宗主国から独立して久しい現在まで、傭兵として重用されているグルカ兵だが、小柄ながらも勇猛果敢さと規律の高さで知られる。

    日本軍によるインパール作戦時、英領インドは、深いジャングルの丘陵地帯に守られて手薄だった東部の守備が切り崩されるのを防ぐため、現地アッサム連隊に加えて、インド全土から応援を呼び寄せるのみならず、遠く英国本国、アフリカの英国領地からも兵員を導入している。

    コヒマ市街地等では、両軍による白兵戦が展開するなど、日本軍が撤退を決意するまでは、熾烈なバトルが繰り返されたが、そうした場面で決定的な役割を演じた部隊のひとつが、このグルカ兵から成る傭兵部隊であったとも聞く。

    ジェントルでマイルドな雰囲気のネパールの人々だが、インパール作戦に従軍した日本兵たちにとっては、ネパール兵との邂逅は、即座に死を意味するものであったようだ。

  • 知日と親日

    コールカーターを訪問すると、とりわけ年配の方々での間に知日家がけっこう多いらしいことを再確認できる。

    総体的にインドでは日本に対する印象は好ましいものだ。歴史問題がないことから、反日嫌日感情とそれを利用する政治力学は不在である。

    もっとも歴史問題が本当に存在しなかったのか?といえば、そんなことはない。日軍によるアンダマンの空爆はあったし、1936年に英領インドから分離したビルマに在住していた膨大な数のインド人移民たちは、ラングーン、マンダレーなどで甚大な被害を受け、大量の難民がインドに流出。今でもミャンマー在住のインド系の年配者たちの間で、当時の日本の悪行が深く記憶に刻まれている人たちは少なくない。また、インパール作戦ではインド軍は日軍と死闘を展開しており、この地域に住むモンゴロイド系の少数民族の人たちに与えたインパクトは決して無視できるものではない。

    しかしながらビルマ占領とインパール作戦には、インド独立運動の一翼を担ったスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)も日軍とともに参戦している。英国支配の呪縛から祖国を救おうと試みて解放戦争を闘ったINAにとって、日軍は友軍(実態はINA自体そのものが日軍の傀儡であったといえるが)であったため、侵略者としての面が中和されて、後世に残る歴史問題とはならなかったようだ。

    また、インド側にしてみれば、反英活動に忙しかった時代であること、分離独立により、東西パキスタンを失うとともに、両国間で大量に発生した移民の波と、移動のプロセスの中で発生した殺戮の記憶があまりに大きなものであった。マジョリティが住む本土から遠く離れた辺境での出来事についての関心は薄かったし、今も顧みられないということもあるだろう。

    インド人全般に言えることだが、自国の北東辺境部に対するこうした共感意識の欠如は、独立以前から現在に至るまで、北東地域の不安定さの主要因のひとつでもある。

    それはとかくとして、反日感情がないから親日かといえば、そうともいえないものがある。被害を受けた記憶がないから、当然悪い感情を抱くことはなく、概して好意的とはいえ、一般的に日本に対する知識がほとんどないのに、親日的とするのは行き過ぎだろう。

    経済的に繁栄した国(近年は落ち目であっても)であることや日本ブランドの優れたクルマや家電製品などはいいなぁ、という程度の認知で、韓国や中国の人々のように、日本の良い面、そうでない面を相当程度知ったうえでのこととは、まったく次元が異なるのだ。

    ちょうどトルコにおける『親日』感情と同じようなものだろう。紀伊半島沖で難破したエルトゥールル号の救出という歴史上の出来事、宿敵ロシアに戦争で勝ったというような遠い過去の出来事がよく挙げられる。そんな程度のものだ。

    そんな中で、カルカッタやその周辺地域では、インテリ層年配者の間で日本式の菊などの盆栽がなかなか盛んである。戦後日本の復興期に製鉄や造船などに注力していた時代に大量の石炭を輸出した仕事の縁で日本に知己の多い老人、当時の貧しかった日本に将来を託して渡った留学生など、日本と深い繋がりを持ったことがある年配者がけっこういる。

    彼らの時代には、戦前のスバーシュ・チャンドラ・ボースやカレーの中村屋の始祖となったラース・ビハーリー・ボースといったベンガル出身で、日本と近しかった民族主義者や革命家の記憶が新しかったのかもしれないが、年配の知日家を目にすることが少なくないコールカーターだ。

    ここで敢えて『親日』ではなく、『知日』としたのは理由がある。
    ご存知のとおり、韓国や中国には知日家は実に多い。日本への造詣が深いがゆえに、日本の良いところも知る反面、そうではない部分もよく知っている。
    ゆえに知日家ながらも対日(政府への)感情は良くないということは珍しいことではない。

    コールカーターの知日家について、日本についてどのように感じているのかはよく知らないが、親日・反日という感情については、まず日本のことについて、相当程度の知識なり経験があってのものであろうと私は思う。

    そうした意味から、一般的にインドにおいては、それらのどちらでもない、ごくニュートラルなものであると言えるだろう。

  • 中国のカシュガルとパキスタンのグワーダルを結ぶ鉄道建設計画

    中国の技術力、資金と膨大マンパワーをもって当たれば可能なのだろうか。
    カシュガルからパキスタンの海港グワーダルまで至る大胆な鉄道敷設計画がある。
    グワーダルの港湾は、中国の援助で大開発中。ここから中国の物資を中東湾岸方面に流すとともに、中国海軍が駐屯して、南アジアや湾岸方面でのプレゼンスを画策。
    南アジア、つまりインドの周辺国において、中国の存在感が年々増している昨今だが、これもまたひとつの好例と言える。
    (下記リンク先は昨年の記事)

    New railway tracks planned under CPEC: report (DAWN)

  • 強奪された現金の大半が廃止された旧紙幣

    銀行強盗が奪った130万ルピー のうち、110万ルピーは廃止されたお札だったという間抜けなお話。新札交換の需要で現金は充分にあると踏んだか、それとも行けばなんとかなると思ったのか。事件を起こすには、あまりにタイミングが悪かったようだ。

    Jammu and Kashmir Bank robbed; gunmen escape with banned Rs 500, Rs 1000 notes worth Rs 11 lakh (THE FINANCIAL EXPRESS)

  • ヤムナ・エクスプレスウェイで戦闘機が離着陸

    11月21日にNDTVのニュースでも見たが、同日の朝6時半ごろ、ヤムナ・エクスプレスウェイのマトゥラー付近で、インド空軍のミラージュ2000が2機着陸と離陸を実施したとのこと。

    事前に道路を封鎖して、政府高官たちも見守る中での実施であったそうだが、付近住民に詳細は知らされておらず、さぞ驚いたことだろう。

    最近のインドの主要幹線国道には、片側3車線のものが少なくないので、こうした演習が可能となる。昔ながらの片側1車線あるかないかの幅の国道で、両側に背の高い木が連なっている環境(・・・という具合に、英領期に整備されたものが多い)では想像することすら出来なかった。

    Fighter plane Mirage 2000 lands on a road in Mathura (ABP News)

  • 80年代後半の「ネコババ事件」

    パンジャーブ旅行にきて、ふと思い出したことがある。カリスターン運動が激しく燃え上がっていた80年代後半、インドのパンジャーブは、外国人にとって、事実上オフリミットとなっていた時期があった。

    「事実上」というのは、内務省発行の入域許可書があれば、「3の付く日」つまり、毎月3日、13日、23日に国境近くのアムリトサルの街に直行するバス(基本的にはデリー発、場合によってはハリヤーナー州のアンバーラーから出ることもあったように記憶している)が出ていた。乗車することができるのは、降車してからすぐに国境を越えてパキスタンに行く人たちのみ。そんな具合だったが、状況によっては運休となることもときどきあった。

    今の平穏なパンジャーブの様子からは想像も出来ないが、スィク教徒の分離活動家たちによる要人誘拐、殺害その他の乱暴狼藉が日常茶飯だったのだ。州の政治家、州政府役人、パンジャーブ警察、軍人の中にスィク教徒が占める割合が高く、同じスィク教徒の親インド派と先鋭化した分離独立派の抗争という側面もあった。

    個人的な話になるが、そんな時代に「猫ババ事件」は起きた。

    当時、ニューデリー駅前のパハールガンジ地区にあったハニーゲストハウスのドミトリーに泊まっていた私に、同じ大部屋に宿泊していた1人が声をかけてきた。
    「俺、これからすぐに出てアムリトサル行きのバスに乗るんだ。○○号室の✕✕に渡さないといけないお金があるけど、奴は今部屋に居ないんだ。だからよろしく頼む。絶対渡してくれよな、頼んだぜ!」

    私は一度は断った。確か50ドル相当のインドルピーだったと思うが、当時のバックパッカーにとっては、ちょっとした大金だ。ちょっと節約すれば、100ドルでひと月滞在することが可能だった時代だったので、半月分の生活費ということになったからだ。そうでなくても、よく知らない相手のお金を預かり、これまたよく知らない相手に渡すというのも実に困る。当時、駆け出しの旅行者(笑)であった私は、旅慣れた年上の男の押し出しの強さにすっかり腰が引けていた。

    「今日の夕方に出て、鉄道でネパール国境に行くので・・・」と言っても、「いや、俺は今の今すぐに出なきゃならないから。よろしくな!」とベッドに現金を放って出ていってしまった。

    そのとき、ドミトリーには私しかいなかった。すでにチェックアウトしていたのだが、出発の時間まで、空いているベッドに寝転んでいても何も言われないという、実に鷹揚な宿であった。実際のところ、宿泊者が何人いるのかマネージャー自身が定かではなく、ドミトリーに「点呼」しに来ることもあるといういい加減さであった。

    さて、私は✕✕という男の顔さえも知らない。しばらくしてから、彼が滞在しているという部屋をノックしてみたが、やはり不在だった。私が宿を出る時間まで、ドミトリーには誰もいなかったので、後を託すこともできなかった。

    仕方がないので、ネパールに入ってからは、ネパール通貨に両替して、自分の旅費の足しにしたのだが、カトマンズにあったストーンハウスロッジのドミトリーに滞在していたとき、同宿の人たちと食事に出ると、こんな話が出た。

    「俺なぁ、日本人にネコババされたでぇ。」
    彼が言うには、デリーで泊まっていた宿で、どういう経緯なのかよく判らなかったが、同宿の日本人から返してもらわなければならないお金があったものの、相手の男は彼が宿に戻る前にドロンしていたのだと言う。

    場所はまさにハニーゲストハウス、時期もだいたい同じくらいなので、どうやら私に無理やりお金を押し付けたあの男のことのようであったが、金額は私が預かったものの倍くらいのことを言っている。彼が話を膨らませているのか、それともあの男が半分の金額だけ私に預けたのかは知らない。

    ここで「あぁ、僕が預かったのはその半分だったけど」などと口にすると、ロクなことにならないのは明らかなので、黙って相槌を打ちながら話を聞いていたが、たいそう居心地が悪かった。

  • アーナンドプル・サーヒブ

    アーナンドプル・サーヒブ

    アーナンドプル・サーヒブは、スィク教第9代目のグルーであるグルー・テーグ・バハードゥルによって、1665年に開かれた町で、アムリトサルに次いで、スィク教の2番目に重要な場所であるとされる。

    宿泊先のホテルの目の前にある公園にそびえる巨大な記念碑は、カールサーのマークを頂いており、いかにもスィク教の町に来たという気がする。広がりの割には密度が低く、ガランとした印象を与える町だが、民家のひとつひとつの敷地は広めで商店などもかなり大きく、田舎町の割には暮らし向きもちょっと良さそうなのは、インドにおける先進州のひとつ、パンジャーブらしいところだ。

    公園の記念碑にははカールサーのシンボルが・・・。

    ケースガル・サーヒブの門前町には銃刀店のように見えるものがあるが、これはシンボルとしてのキルパーンを売る店。よくスィク教徒がベルトのようなものに差して斜めがけにしているものだ。なかなか精巧に出来ているものもあり、記念にひとつ購入してみたくなる。

    銃砲店のように見えるが神具ならびにスィク教グッズの店
    ミニチュアのキルパーン
    名刹 グルドワラー・ケースガル・サーヒブ

    沐浴地は寺の敷地の外にあり、それがちょっと今ひとつという部分はある。おかげでドラマチックな視覚効果はない。

    沐浴地

    町には、他にも大小のグルドワラーが沢山あり、ターバンを巻いたスィク教徒がマジョリティ?であるかのように見える。アーナンドプル・サーヒブ一番の名刹、ケースガル・サーヒブでは、敷地内に巡礼宿もずいぶん立派な建物がいくつもあり、快適そうだった。信徒ではない外国人でも泊めてもらえる。

    立派で快適そうな巡礼宿

    ただしスィク教施設ではタバコはご法度なので、喫煙者の私にはハードルが高く、市内のホテルに泊まった。

    こちらはケースガル・サーヒブの別院

    ヴィラーサテーカールサー(Virast-e-Khalsa)というスィク教博物館(あるいはスィク教のテーマパークというべきか・・・?)は、月曜なので休館だった。インドにおける博物館は月曜休館という法則は、教団施設も同様らしい。

    さて、ケースガル・サーヒブとその別院を参拝したので、アーナンドプル・サーヒブを後にする。パンジャーブ州の道路は素晴らしいが、町と町を結ぶ路線バスも、なかなか良かったりする。

  • ナガランドでコーヒーのプランテーション

    ナガランドでコーヒーのプランテーション

    紅茶の大産地アッサム州の茶園が多い地域からナガランド州に入ると、それまでの茶園風景が突然、視界から消える。

    茶園で働く人たちはたいて他州からやってきた極端な低賃金で奉仕する労働者たち。その代わりに茶園内に子供たちの学校、基礎医療が受けられるクリニックもあり、住宅も提供される。

    実は、ナガランド州でも茶の生産は細々と行われているのだが、地域外からの人口移入に制限があるため、なかなかこの部分で難しい。

    しかしながら地元政府の肝いりで、コーヒー生産に力を入れることになるようなので、どうやら外の人たちを大量に投入することになるのだろう。下記リンク先の記事によると、2030年までに50,000ヘクタールのコーヒー・プランテーションを、ということなので、ひとつの大きな産業となることが見込まれている。

    茶とコーヒーの生産に向いた土地については、かなり共通するものがある。もともとスリランカでもコーヒー栽培が盛んだったものの、コーヒーの木の病気蔓延で壊滅、代わりに茶が導入されたという過去がある。

    ナガランドが、茶ではなく、コーヒーを選好する理由は、単にすぐ隣にアッサム州があるので、競合を避ける狙いだろう。

    しかし、外部からの人口の流入を厳しく制限してきた(平地のインド人は観光で訪れるにもパーミット取得が必要であった)ナガランドで、資本だけでなく、労働力も州外からの導入を前提とする産業を振興させるといえことは、州のありかた自体を大きく転換させるものとなるので、大変驚いた次第だ。

    ついにナガランドも「外の人たち」が溢れるアッサム州みたいになるのだろうか?このあたりについては、今後注目していきたい。


    Nagaland to undertake coffee plantation on 50,000 hc by 2030 (Northeast Today)

  • ダッカのテロ事件

    7月1日の現地時間午後9時半にバングラデシュの首都ダッカのグルシャン地区で発生した襲撃事件は、翌日2日朝に政府が治安部隊を投入して終結させた。事件の詳細は今後、更に明らかになってくるはずだ。実行犯のうち1名が生きたまま拘束されたことも、真相解明に繋がることと期待したい。

    事件発生直後からネットで流れてくる様々な情報を目にして、とても気にかかっていたが、2日の朝に強行突入が進行中であることを知るに至った。ネット以前の時代と違って、こうしたニュース等が刻々と世界中に伝わるようになっているため、こうした凶行を実行するグループにとっては、効果的に恐怖を拡散するのに都合が良い環境になってしまっている。

    今世紀に入る前までは、こうした事件で人質を取って立てこもるにあたり、実行犯の組織やグループなりの主張を世間に伝えるとともに、仲間の解放なり、身代金の要求なりといった条件闘争が展開したものだが、今は凄惨な暴力行為を各国メディアで流させることが目的となっているのも空恐ろしい。

    同様に、こうした事件に際して、地政府や治安当局の対応も、人質となった方々の生命を最優先するというよりも、こうした犯行を企てる組織への見せしめ的に、武力によって一気呵成で叩き潰す(前述のとおり、取引条件が出てくるわけではなく、激しい暴力行為を実行することそのものが目的になっているので、致し方ないのではあるが・・・)のが常道となり、相手との対話や交渉の余地がなくなっているのも心配だ。

    ダッカのポッシュなエリアでまさかこんなことが起きるとは誰も想像もしなかったはずだし、たまたま居合わせたばかりに巻き込まれてしまった方々は本当にお気の毒で、言葉も見つからない。

    そのいっぽう、テロの標的となったバングラデシュについて、非常にネガティヴなイメージが定着しないかと気になったりもする。

    パリでテロ事件が起きた際に、「なんとひどいことを」と人々は思っても、だからといって「パリは危険だ」「訪れるべきところではない」というようなイメージを抱いた人はいないだろう。

    バングラデシュは、人口稠密で、決して豊かではないが、一般的には治安に問題があるわけではなく、世界で最高に親日的な国のひとつであり、日本に対して「熱烈に片想い」してくれている、数少ない国のひとつでもある。

    僕らがテロ行為を憎むのと同じく、バングラデシュの人々もテロを心から憎み、こうした理不尽な攻撃の被害を受けている立場であることをメディアには伝えてもらいたいと願う。