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  • ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンのバススタンド

    朝8時発にターンセーンを出発するバスを利用する。来るときと違って、バイラワーに直行するバスを利用するため、ブトワルで乗り換える必要がない。部屋の鍵をオーナーのシュレスタさんに渡して外に出る。朝起きたあたりから外では箒で路上を清掃する音がしていたが、町中のどこでも同様のようだ。この町は本当にゴミが少なく、とりわけ朝の時間帯にはゴミひとつないという印象。

    バンクロードに出てから、斜面の長い坂道を下ったところがバススタンド。8時出発のバスはすでに来ていた。出発時間までしばらくあるので、ヒマそうにしていた運転手にバイラワー到着のおおよその時刻を尋ねると、午前10時半くらいとのこと。到着時間を本日宿泊予定のホテルにスマホで伝える。タクシーを差し回してくれることになっている。

    こちらはブトワルまでしか行かないバス

    こちらがバイラワーまで直行するバス

    バスの表示には、国境のスナウリーまで行くように書かれているが、このバスの終点はバイラワーのバススタンドであるそうだ。出発時刻直前くらいになって、乗客がどかどかと集まり、定刻にバスは発車した。

    マハーバーラタ山脈の山あいの景色を目にしながら、バスはスィッダールタ・ハイウェイを南下して、平地に向けて走って行く。途中で朝食休憩の時間があった。沿道でダーバーがいくつか軒を連ねている場所で、いくつものバスが停車している。

    朝食休憩地
    朝食休憩
    可愛い同乗者たち

    やがて山地から平地に出ると、すぐにブトワルに出た。目抜き通りが国道であるためもあり、ずいぶん立派な街に見える。建物も大きく、新しくて見事な家屋も多いようだ。総体的に裕福なところであるようにも思える。交通の要衝である以外に、何で栄えている街なのかよく知らないが、固有の産業でもあるのだろうか。

    ブトワルの町

    ブトワルの街を出たあたりで沿道にはバイクの長い列が連なっている。ガソリンスタンドの給油待ちの行列だ。インドによる封鎖の影響だが、こんな具合だと、給油するだけで1日がかりになってしまいそうだ。

    給油待ちの非常に長い行列

    たいていの乗客はブトワルで下車。バイラワーまでは閑散とした車内であった。

    ここまで下ってくると、もうネパールにいるという気はあまりしない。入国したときに感じた、「インドでは見かけない企業の広告がある」ということを除けば、インドに戻ってきたかのようだ。

    あと異なるのは、当然ここはインドではないため、地元の人とヒンディーで話すことについて、何がしかのうしろめたさを感じることである。相手もネパール語ならともかく、見るからにインド人ではない第三国の人がヒンディーで話しかけてくる、ということついては、ちょっとした意外感があるようだ。あまり胸を張って話しかけられるという具合ではない。かといって遠慮しなくてはというほどでもないようにも感じられる。

    ネパールの人で、ヒンディーについてはふだんからごく近しい関係であり、日常的に露出が多いため、理解する人、たいへん流暢な人が多いが、そのいっぽう、理解するけれども話すとかなり妙な間違いがあるという人も少なくない。だが、そういうベースがあるので、インドにしばらく暮らすと、インド人と対等に話すことができるようになる。やはり近い関係にある言語というものは有利だ。

    ブトワルを出てから40分ほどでバイラワーに到着した。バススタンド(ここでは「バスパーク」と呼ぶ)に近づいたあたりで、宿から差し回しのタクシーの運転手から電話が入った。もうじきに着くと返事して、少しバススタンドで待ってもらうことにした。

    バスパークに到着。降車口にタクシー運転手が来てくれた。ここまで来ると、あたりの人々の顔立ちはすっかりインド人だし、景色もインドと同じだ。バイラワーの北郊外にあるバスパークから少し南に下ると市街地に入る。このあたりまでは、かなり交通量が多いのだが、右折してルンビニー方面に向かうタウリハワー・ロードに入ると、片側二車線の立派な道路であるにも関わらず、バイクと自転車しか走っていない異様な光景となる。地元政党によるバンドのためで、四輪車は緊急車両、スクールバス等を除き、通行することが許されない。公共バスの往来は、もう4カ月以上も止まっているとのことだ。

    そうしたバスも収益あってのことなので、オーナーや運転手、車掌のようにそれで収入を得ている人たちもそうだが、地元の住民たちも大変である。早くこうした状況が終わるといいのだが、これもやはり9月に制定された憲法問題の決着を見るまでは、そのまま続いてしまうのだろう。この10日間だけ、ルンビニーで開かれる仏教関係の祝祭のため、「外国人ツーリストのみ」を乗せたタクシーは、通行できるようになっているとのこと。

    交通の遮断はさておき、インドによる封鎖については、これによって燃料代が2倍、3倍にもなっていると運転手の話。

    空っぽになっているルンビニーのバススタンドのところで左に折れて、ルンビニーの集落までしばらく走る。遺跡地域はレンガ積みの壁で囲われている。道路右手が遺跡地域だが、左手には宿、食堂や店などが並んでいる。今シーズンは大変なスランプで、どこも困っていることだろう。

  • ターンセーン滞在2

    ターンセーン滞在2

    ネパールで販売されているタバコのパッケージが大変なことになっている。癌になった肺の解剖写真が表裏両面に大きく印刷されているのだ。インド、タイその他でも、パッケージにこのような写真が印刷されるようになっているが、タバコを締め出すのは世界的な流れであり、ブータンのように10年以上も前から国内でタバコの売買自体を非合法とする「禁煙国」さえある。日本のように「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。」と書く程度では甘すぎるといったところだろう。

    タバコの過激なパッケージ

    ポーカラーからインド国境に至る途中にあり、長いバス旅を途中でブレークするのにちょうどいいロケーションのターンセーン、地元の人は往々にしてパルパーと呼ぶが、カトマンズ等から来たネパール人観光客の姿が多い。同様に、本日からの自転車のレースに参加するというネパール人サイクリストたちの姿もある。最近はそういう若者もいるようで頼もしい。だが外国人の姿は想像していたよりもかなり少ない。

    今年5月の大地震、9月から施行となった新憲法の内容に異議を唱えるタライ地域の政治問題、インドによるブロッケード等の問題がその理由なのだろう。地震については、このあたりは影響なかったのだが。空路の出入り口はカトマンズとなるし、やはり敬遠されてしまうこと、カトマンズ盆地その他のメジャーなスポットを訪問したついでにターンセーンを訪れることはあっても、この町が単体で集客できるんけではないので、やはりこういうことになるのだろう。

    近年、日本に留学するネパールの若者が急増しているが、ここもまたそれを斡旋する業者のようだ。

    「安く酔える酒」として人気があるのかどうかは知らないが・・・。
    トラック野郎

    観光業というのは実に水物だ。日本で、今年5月以降の箱根が火山活動の活発化により閑散としていたが、こうした仕事に従事している人たちにとってはとんだ災難だろう。火山活動の鎮静化しているようなので、今ごろは客足が回復していることであろうが。

    昼食は昨夜夕食同様にNanglo Westに行った。

    チキンシズラーを注文

    町を歩いていると、近年の背の高い建築については、壁をチョンと押すと、ただちに崩壊するのではないかという気がする脆弱そうな建物をよく見かける。壁に漆喰が塗られていたり、その上からペンキで処理してあると、まるでしっかりしたコンクリの壁のように見えるが、実際はごくわずかに鉄筋入った柱で組んだフレームと、壁はすべてレンガ積み。重量はあるし、フレキシブルさもないため、地震が発生したならば非常に危険だ。

    少し揺れたら崩壊しそう・・・。

    だが、ターンセーンはいい町だ。ネワール建築が数多く残る落ち着いた町並み、斜面からの眺め、背後の山に囲まれた景色等々、ゆったりとした気分にさせてくれる。町の一角では、真鍮細工を生業にする人たちが集住している地域があり、彼らの仕事ぶりを拝見することができる。

    ターンセーンのカレッジ。立派な建物だ。
    山の斜面に位置するターンセーンは坂の町
    町から南側を見下ろすとこんな具合
    町の北側には山の景色が広がる。
    伝統的な真鍮加工を生業とする人たちのエリア
    真鍮加工の職人さんの手仕事

    ターンセーンにやってくる際、先に訪れるつもりであったルンビニーに行くことが出来なかったので、スマホからルンビニーの宿2、3件に交通について質問メールしてみた。すると直後にひとつの宿から返信があったので電話してみた。ルンビニーからクルマをアレンジするとのことだ。現在、タライ地域の政治問題により、バイラワーからルンビニーへ公共バスは運行していない。地元の人々は日々大変困るだろうが、どうしているのだろうか。

    夕食もNanglo Westに行ってしまった。

    チキンのソテーと水牛肉の炒め物
    キッチンを「魅せる場」として演出しているのもさすがだ。
    満腹になって宿に戻る。
  • パトナーにて

    パトナーにて

    パトナーの駅前エリア界隈では、無料のWifiが飛んでいることに気が付いた。スマホにFree Wi-Fi Zone of Patnaと出る。タダであるだけに、セキュリティ上の配慮があるのかどうかは知らないが、接続時のパスワード設定がないので、誰でも繋ぐことができる。比較的最近、ハイデラーバードで比較的最近、こうしたサービスが提供されることがニュースになっていたが、まさかバトナ―でもこういうものがあるとは知らなかった。

    この地域のレストランにて昼食。中華料理としてではなく、「インド式中華料理」のチョプスィーは店によってずいぶん違うものが出てくるが、私の好物である。

    チョプスィー

    歴史は長いものの、これといって見るべきものがないパトナーの目玉のひとつ、ゴールガルに行ってみる。英領時代に飢饉対策のために造られた穀物貯蔵庫。ゴールガルは巨大な饅頭を置いたような形で、周囲に付いている階段で登ることができる。天井からはバトナ―市内の眺めがとても良い。ここは、ガーンディー・マイダーンのすぐ西にある。オートはそのマイダーン沿いに走るので、「ああ、ここが州首相が就任の宣誓をすることで知られるあの場所か」と、少々感慨深いものがある。

    ゴールガル
    ゴールガル頂上からの眺め。パトナーには高層建築がまだ多くないことからも、やや昔のインドの街という思いがする。
    ゴールガル頂上から

    そこからパトナー駅前までオートで戻る。バトナ―は、大きな街の割には道があまり広くないところが多く、一方通行であったりするので、ずいぶん迂回していくことになる。駅前に着いたと運転手に告げられても、そうとは判らないのは、あまりに建て込み過ぎて視界が非常に悪いため。巨大な駅舎が、正面の大通りからさえも見えないのである。陸橋を建築中で、さらに交通の流れが悪くなっているし、ずいぶん見通しが悪く、渋滞もひどい。

    バトナー駅前。陸橋を作る大きな工事が進行中とはいえ、この見通しの悪さはひどい。

    いつものことだが、ビハールは、かなり昔のインドという感じがする。田舎がとりわけ貧しいのはもちろんのこと、州都パトナーも人口200万人超の街としては、華やかさに欠けて、地味な印象を受ける。

    駅前に戻って徘徊しているうちに日が暮れた。屋台のミターイー(甘いもの)屋さんがあった。露店にしては、見た目があまりに美しいので試してみると、大変美味であった。少なくともグラーブ・ジャムーンとラースグッラーについては、凄腕の職人さんであることが判った。

    グラーブジャムーン
    ラースグッラー

    界隈で夕食を済ませ、宿への帰り道にあったソニーのスマホ販売店を覗いてみた。5.5インチや6.0インチといった大画面の機種が目玉となっている。それらの多くはデュアルSIM仕様なので、日本国内で販売されているモデルとは異なるのだろう。日本でも複数台持ちしている人たちがけっこういるので、本来ならばデュアルSIMの需要は少なくないことと思うが、やはりまだまだ回線契約とハンドセットが抱き合わせ販売が主流の日本のマーケットならではのことと思われる。

    外国ブランドのスマホ等々の販売店が見られる一角

    ビハールにおいても、スマホの普及は相当なもので、ローカルバスの車内でも、大画面の機種を手にしている人たちがけっこういる。昔と違って、今のインドの田舎の人々の購買力も相当なものである。バス車内等で、じーっとスマホに視線を落として、指をチャカチャカ動かしている人たちの姿は、もはやどこに国にあっても共通の眺めとなっている。

    宿に戻る前に、オートの販売店を覗いてみた。近ごろのオートリクシャーらしく、細部がモダナイズされていて、ちょっといい感じであった。

    夜になってもパトナー駅前の渋滞はひどい。
    ちょっと良さげなレストランで夕食後、シメでお茶を一杯。
  • ボドガヤー 1

    ボドガヤー 1

    仏陀が悟りを開いた地、ボドガヤーを初めて訪れたのは1989年であった。外国の仏教教団がそれぞれのスタイルで建てた大きな寺院が沢山あり、さながら「世界仏教寺院博覧会」のような様相を呈していたことに驚いた記憶がある。

    しかしながら地元の人々が暮らす地域は、まだ村であり、ボドガヤーを縦断する道路沿いに小さな食堂や簡素な宿が点在していた。各国が建てた大きな仏教寺院を除けば、特に視界を遮るものはほとんどなく、どこからでも周囲が広く見渡せる素朴な環境であった。

    「素朴な」といっても、それは視覚的な部分だけで、やたらと日本語が巧くて、日本人旅行者をカモにしていると思しき輩は出没していたし、重要な仏跡であることを除けば何もない寒村に、世界各国から幾多の観光客が日々訪れるだけあって、私たち一時滞在の外国人が接することになる相手は、あまりのんびりしたムードの人たちではなかったようにも思う。

    現在のボドガヤーは見違えるように建て込んでいて、かつて村であった面影はなくなり、すっかり町になっている。おそらく季節ものかと思うが、仮設の遊園地が出来ていることから、観光客ではなく、地元に暮らす人たちを相手にしても、それなりの商売が成り立つようになってきているようにも思われる。

    2013年にオープンしたという新しいゲストハウスに宿泊。NGOが運営するもので、子供たちの学校も運営しているという。現在35人の面倒を見ており、その半数くらいはホームレスであるとのこと。ここのオーナーはまだ若い人だが、フランスの人たちからの援助も受けてのプロジェクトを進めており、手の届く範囲と規模でやっているそうだ。

    ゴータマ・シッダールタが悟りを開いたとされる場所にあるマハーボディー寺院へ行く。入口手前にある履物預かり所に靴を置いてきたが、預けてある靴がずいぶん少ないことを不思議に思ったが、寺院のお堂の中に入るまでは土足でいいらしい。

    裸足で進んでいくと、さすがにこの時間帯はずいぶん寒いし足元が冷たい。暑季には、足が焼けるほどに熱いことだろう。建物中までは靴を履いていてよいというのは、結局ここではチベット仏教の影響力が強いということがあるがゆえのことかもしれない。

    参拝者の中にはインド在住のチベット仏教徒たちが多いが、その中にはブータン人たちの姿も多い。洋服を来ているとどこの人だかわからなかったりするのだが、聖地を訪れるということもあって、民族衣装で正装してくる人が多い。とりわけ男性のそれは実に凛々しくていい感じだ。

    他にもベトナム人のグループが自国の僧侶とともにベトナム語の経典を読んでいたり、ミャンマーの仏教徒グループが自国の僧侶に率いられて訪れていたり、タイ仏教徒の集団も見かけた。また中国系の人たちの姿もある。ベトナムの訪問客はかなり多くなっているのか、町中でベトナム語で書かれた看板も見かけた。限られた時間の滞在の中で、案外見かけなかったのが日本人のそうした団体で、特にそれらしき人は見かけていない。円安のためもあるかもしれない。

    ミャンマー人団体
    ボダガヤーの町中で見かけたベトナム語の看板

    境内の敷地内では、チベット仏教徒たちが五体投地の礼拝をしている。中央の本堂の外側では、チベット仏教のバターと小麦粉で作った細工物が飾られており美しい。ゴータマ・シッダールタが悟りを得たとされるボディー・ツリーの周辺では、とりわけ多くの人たちが読経をしている。この木はやはり大変なパワースポットのようで、身体の隅々にまで、そして鼓膜にまでビンビン感じるものがある。スピーカーを通した読経の声があまりに大きいため、そのくらいビンビンと響くのである。

    五体投地して礼拝するチベット仏教徒たち
    バターと小麦粉を練ったものから出来ている。
    ゴータマ・シッダールタはこの菩提樹の下で悟りを得たとされる。
    ゴータマ・シッダールタがここで悟りを得たとされる菩提樹のたもとで読経する人たち
    様々な言葉による読経
    様々な言葉による読経
    様々な言葉による読経
    様々な言葉による読経

    インド式の塔からなる本堂に入ってみた。中に行くまで行列がずいぶん時間がかかるが、私の前にいる親子はムスタンから来た母子である。子供は大変利発そうな感じで、警備しているインド人女性警官といろいろ話をしている。ずいぶんヒンディーが上手いのだが、ムスタンから来たことがその会話の中からわかった。

    後からハタと思ったのだが、ムスタンのような閉ざされた地域の人たち、しかも幼い子供がヒンディーを流暢に話すというのはおかしい。ネパール語さえおぼつかなくてもおかしくないような気がする。するとインド在住なのかもしれない。聞いておけば良かった。ムスタンは外国人の入域が厳しく制限されているが、もしかするとそれとは裏腹に、ムスタンの人たちは活発に外界と行き来しているかもしれない。ちょうどブータンの人々がそうであるように。なかなか普段接点のない人たちだが、案外デリーでそういうムスタンの人たちを見かけてはいるのかもしれない。ただ、こちらが彼らをムスタン人と認識できないだけなのだ。

  • デリーからガヤーへ

    デリーからビハール州のガヤー行きのフライトを利用した。
    搭乗してからしばらくしても滑走路に移動せず、席でじっと待っていると、次のようなアナウンス。
    「当機はセキュリティー上の理由により出発が遅れています。ただ今、保安要員が機内に入り、全員の手荷物の確認をいたします」

    制服を着た係員が2名乗り込んできて、席上の荷物入れを開けては「この荷物の持ち主誰やねん?」「これ誰のカバンや~?誰か返事せんかァ、こらァ!」などとやっている。
    保安要員が怪しげな荷物を開くと、赤、白、黄色の配線が絡み合っている時限爆弾装置でもあって、「切るのは赤か、白か?」なんていうスリリングなシーンが展開するのではないかという、映画さながらの緊張場面が待ち受けているかとドギマギしたが、結局は全部の手荷物の持ち主の確認をしただけで、そのまま降りていってしまった。チェックインしたはずの人数と、実際に機内にいる人の数が整合しなかったか何かなのだろう。

    保安要員が外に出ていくと、「乗務員、配置に着いて。当機は出発いたします!」という機長のアナウンスとともに、飛行機は滑走路に進んで離陸。
    インドでは、テロに対する警戒から、規則によりセキュリティー関係のチェックには厳しいが、それらの検査をする保安要員の身辺調査と、彼らが空港施設に入る際のチェックはしっかりしているのかな?ということを、ふと思ったりする。あまり良い待遇をされているとは思えず、容易に買収されてしまいそうな人たちに思えるのだが。セキュリティーホールがあるとすれば、おそらくこのあたりではないかとも思う。

    エアインディア国内線のこの便は、最初にガヤーに行き、それからバナーラスに行くフライト。バナーラスからはおそらくデリーに戻る便となるのではないかと思うが、あまり重要な路線ではないためか、ずいぶん古い機材を使っている。客室乗務員もなんだかパッとしない感じの人もいて、最近の民間航空会社とは違う、「国営」というムードは相変わらずである。垢抜けない制服もいまひとつだ。

    隣に座ったのはヒゲを蓄えたムスリムの恰幅の良い男性。英語をまったく話せないので、どういうことをしている人かと思えば、サウジにダンマーンに働きに出ていたとのこと。そこから戻って国内線に乗り換えて、バナーラス近郊にある自宅に戻るところなのだそうだ。
    娘が4人いるとのことだが、前の席に母親と一緒に座っている3歳くらいの可愛い女の子と遊んでやっている。その女の子はずいぶん人懐っこい子で、楽しそうだった。母子ともにムスリムで、この男性にとっては自宅で待ってくれている娘たちの姿とダブるところがあるのかもしれない。

    デリーからガヤー到着までは1時間15分ほど。ガヤー空港は、この規模ものとしては珍しく、PBB (Passenger Board Bridge)により、機内と空港ビルが直接結ばれる。ガヤーの空港は小規模ながらも一応国際空港であるためだろうか。冬の時期にはバンコク、コロンボ、ヤンゴン、ティンプ―などから直行便がある。当然、ちゃんとイミグレーションもあり、E-Visa専用のカウンターまであるのだから大したものだ。私が利用したのは国内線なので、カウンターは無人であったが。

  • 元旦からデリーで新しい交通規制

    元旦からデリーで新しい交通規制

    デリーでは、今年1月1日から新しい交通規制が敷かれている。原則として、奇数日にはナンバープレートが奇数番号のクルマ、偶数日には偶数番号のクルマのみが走行できることとなった。

    もはや「北京よりもひどい」とまで言われるデリーの大気汚染の主要な原因のひとつとして、走行するクルマの排気ガスの占める割合が高い(30%以上)ことが指摘されていた。これに加えて、これまた深刻な交通渋滞への対処という狙いもある。

    こうした施策がスムースに実行に移すことができた背景には、市民意識の高いデリーで、良識ある市民たちの高い支持を得て、デリー準州の政権に就いたAAP (Aam Aadmi Party:庶民党)による措置であること、同党を率いるアルヴィンド・ケージリーワル氏に対する期待の高さなどもあるのだろう。また公休日である1月1日、同2日、3日は土曜日、日曜日であったことも、スムースな導入に繋がることとなった。

    この規制がなされる時間帯は、午前8時から午後8時まで。対象外となるのは、VIPや緊急車両の類はさておき、一般人の間では以下のようになる。
    ・女性が運転し、女性あるいは12歳以下の子供のみが乗車しているクルマ
    ・二輪車
    ・CNGあるいは電気によって動くクルマ
    ・障碍者が運転するクルマ
    ・救急診療のために病院に向かうクルマ

    内容については今後必要に応じて変更を加える場合もあるとされ、実施から15日経過したときに検証を加えて判断することとなっている。

    デリーにて1月1日と2日に道路の状況を眺めてみたが、さすがに祝日と土曜日であったため、市民は規制対象となるナンバーのクルマによる不要不急の外出を避けることは容易であったらしく、奇数日(1月1日)に偶数番号、あるいは偶数日(1月2日)に奇数番号のクルマが走行しているのを見かけることはほとんどなく、例外的に走っていても、それらは女性がひとりで運転しているか、小さな子供を乗せた母親が運転しているものであった。交通量も普段の週末よりもかなり少ないように感じられた。

    もちろんとりわけ込み合う地域の合流点などでは、普段と変わらないように見える渋滞もあったが、総体的に交通の流れはかなりスムースであるように感じられた。

    総体的に交通量は少なくなっても、やはり込み合う地点では渋滞する。

    こうした規制により、人々がマイカーから公共交通へシフトするであろうことへの対応として、当局はバスやメトロの運行数を増加させるなどの処置を取ることなどが新聞等で報じられていた。

    しかしながら冬のこの時期、気温が低くて空気が停滞気味であることなどから、大気の汚染レベルについては期待したほどの効果は上がっていないようだ。つまり汚れた空気がまだそのまま市街地に溜まっているということなのだろう。モーンスーン期のように天候が荒れる時期であれば、これらを一気に流し去ってくれるのかもしれないが。

    インドではこの類の交通規制は初めてであることから、全国の都市部から注目が集まっているようだ。大気汚染と渋滞に苦慮する大都市は多く、デリーにおけるこの措置の結果次第で、他地域でも同様の措置が導入されることが予想される。

    Odd-even day 6: Weather conditions keep pollution levels high (livemint)

  • ACクラスの車両でもご用心

    インドの列車の中で睡眠薬入りの飲食物を勧められて・・・という話を耳にすることは少なくないが、ACクラスの車両でも同様の事件が多発するのが最近の傾向らしい。
    アッパークラスを利用する人が増えたことにより、大衆化が進んでいることの証とも言える。
    しばらく前の記事ではあるが、以下のような具合で悪事が行われているそうだ。高価なモノを身に付けたりして、いかにも暮らし向きの良い富裕層を装って接近してくるようだ。
    ご用心を。

    Your co-passenger in train may offer pill-injected water (THE TIMES OF INDIA)

  • インド国鉄のウェブ予約 2015年アップデート

    インド国鉄のウェブ予約 2015年アップデート

    2012年にIRCTCを通じてのインド国鉄のチケット予約についてのアップデートを書いてからそのままになっていたが、現状においての最新情報について掲載することにする。

    IRCTCのサイトは、ときどき不安定であったり、インターフェイス面でもやや使いづらい部分があるなど、あまり芳しくないことがあるため、インドのポピュラーな旅行予約サイトCleartripを通じてブッキングするほうが簡便でいいだろう。Cleartripは手数料として20ルピーを徴収するが、動作が非常に安定しているのでお勧めだ。

    このサイトの鉄道予約の部分に進み、日付、予約クラス、出発地、目的地を入れると候補となる列車が表示される。

    そして、予約したい列車について、「Check availability」をクリックすると、「Log in to you IRCTC accout」という画面が出てくる。

    すでにIRCTCのアカウントを持っていれば、それでログインすればいいし、持っていない場合は新規に取得することになる。そのあたりの作業については、Cleartripは判りやすい画面表示でフォローしてくれるため、その指示に従って操作していけばよい。

    指示どおりに進んでいくと、CleartripのアカウントとIRCTCのアカウントを結合がなされる。ここまできてから、Cleartripのウェブサイト上で、インドの携帯にIRCTCからSMS送信された認証コード、続いてワンタイムパスワード(OTP)を入力すると、めでたく両方のアカウントが結合され、以降はCleartrip上にて、フライトその他の予約をするのと同じような調子でブッキングすることができるようになる。

    インドの携帯電話については、SIMが有効かつ必要な残高があれば、国外にいてもローミング可能な対象国にいれば、SMSを受信することができる。vodafoneやairtelならば日本もそうした対象となっており、前者についてはsoftbankの通信回線を使ってSMSが送られてくる。

    インドの携帯電話を持っていなくても、パスポートの写しをIRCTCにメール添付で送信すれば、翌日あたりにはメールで認証コードとワンタイムパスワードを送信してくれるので心配は無用。そのあたりのやりかたについても、上記Cleartripのサイトの指示に従って進んでいけば丁寧な解説がなされているので、「どうもうまくいかない」ということはまずないはず。

    こうした懇切丁寧さや必要に応じてメール、電話その他により問い合わせをしたときの親切かつ迅速な対応からも、インドの大手旅行予約サイトの中でも、私にとってCleartripの印象はすこぶる良いため、もっぱらこればかり利用するようになっている。

  • 危険な滑り台

    危険な滑り台

    インドで安全性に問題のある遊具は少なくないが、その中で滑り台もしばしば危険なものが散見される。

    滑り下りた下が砂場になっているのはいいのだが、着地して前のめりになったところで頭をぶつけるように計算されたとしか思えない位置にコンクリートの枠組みがあったりすることはしばしば。

    また、常識外れなまでに傾斜が急な、こんな滑り台もあった。

    ほぼ真下に落下する設計・・・。

    左右のガードもほとんど皆無といった具合に低く、まさに「エキスパート用」といった感じだが、幼い子供が使う滑り台に上級者も何もないだろう。

    強い日差しに晒された滑り台はフライパンのように熱く、これで遊んでいる子供は皆無だったのは幸いであった。

  • バングラデシュからのヒンドゥー移民に市民権をという主張について

    隣国バングラデシュから経済的な理由からインドへ不法な移住を図る人々の流れは絶えず、常に政治問題となっている。

    北海道の7割増程度の土地に約1億8千万人の人々が暮らすという人口があまりに稠密すぎるバングラデシュから雇用機会とより高い賃金を求めて、同じベンガル人が暮らす西ベンガル州、おなじくベンガル人たちが多く暮らす近隣州に出ようというのは自然なことでもあるだろう。もちろん彼らが移住する先はこれらに留まらず、インド各地の主要な商業地域や工業地域にも及ぶ。

    そもそも同国が東パキスタンとして1947年にインドと分離して独立(その後1971年にパキスタンから独立して現在のバングラデシュが成立)したことが、悲劇と誤算の始まりであり、経済面・人口面での不均衡の根本でもある。

    しかしながら、国家の成立には往々にしてその時代の流れに沿った必然と不条理が混じり合うものであり、その枠内で国家意識が形成されていくとともに、国民としての一体感も醸成されていくものだ。

    そうした中でも、国境の向こうで異なる国籍が与えられることになった家族や親族に対して、こちら側の者はある種の憐憫の情を抱いたりすることもあれば、羨望の念を持つことも少なくない。同様に、宗教をベースとした分離の場合、ボーダーの向こう側にマイノリティとして残された、こちら側と同じ信仰を持つ者たちに対する「同胞」としての感覚には、社会で一定のシンパシーを共有することになることが少なくない。

    ムスリムが大多数を占めるパキスタンにおけるヒンドゥー教徒たちの境遇については、インドでしばしば報じられるところであり、そこにも「国籍」の違いとは別次元の一体感があり、不幸にして異なる国籍を与えられることとなった「同胞」とでも言うような感情がベースにある。

    さりとて、イスラームという宗教を旗印に、ムスリム主体の国家の建設を目指した東西パキスタンに対して、宗教的にニュートラルな「世俗国家」を標榜してきたインドとの決して相容れるところのない部分は、例えばカシミール地方の領有に関する両国の主張が平行線であるところにも現れる。

    パキスタンと隣接する地域で、ムスリムがマジョリティであることが自国領であることが当然とすることがパキスタンの考えの根底にある。かたや宗教に拠らない世俗国家としてのインドにとっては、イスラーム教徒が多くを占めるからといってこれを隣国のものとするわけにはいかないのは当然のこととなる。現在、両国ともカシミール全域についてそれぞれ自国領であることを主張しているが、イギリスからの独立直後に勃発した第一次印パ戦争ならびに1965年の第二次印パ戦争の停戦ラインが実効支配線として、事実上の国境として機能することにより現在に至っている。

    パキスタン建国に際して、多くのムスリムたちが当時の西パキスタンならびに東パキスタンへ流出するとともに、それらの地域からヒンドゥー教徒たちがインドに難民として逃れることになった。しかしそうした動きにもかかわらずインドを捨ててこれらの地域に移住することなく、あるいは経済的に移住することがならず、そのままインドに残ったムスリムたちも大勢いたわけだが、独立後はそうした人々が内政面での不安材料となることを避けるためもあり、インド政府は彼らの歓心を買うために様々な努力をする必要があったことは否定できない。ちょうど、欧州にて共産主義のソビエト連邦と隣接する地域で、高い福祉や社会保障制度が発達することとなったことと似ている部分がないでもない。

    それが「世俗主義」を標榜しつつも、独立以降長年に渡って、少数派であるムスリムに譲歩する政策を継続せざるを得なかった理由でもあり、その世俗主義自体の矛盾と綻びであったとも言える。マイノリティとはいえ、規模にしてみるとの世界最大級のイスラーム教徒人口を抱えていることもあり、現実を見据えた上での選択であったはずだ。

    しかしながら、このあたりが圧倒的なマジョリティを占めるヒンドゥーたちから成る社会の中での不満を醸成することになったのも事実で、宗教別に定められている民法について1980年代末あたりから、「統一民法」の制定を求める声が高まっていくこととなる。これがやがて90年代にはいわゆる「サフラン勢力」の核となるBJPに対する支持数の急速な伸張へと繋がっていく。

    その後、国民会議派を中心とするイスラーム勢力や左派勢力を含む統一進歩同盟(UPA : United Progressive Alliance)とBJPがリードする保守から中道あたりの政党が集結した国民民主同盟(NDA : National Democratic Alliance)が一進一退の駆け引きを続けている。

    さて、このほどインドの北東地域では、隣国バングラデシュからの不法移民について、バングラデシュから来たヒンドゥー教徒に対して市民権を与えるべきだと唱えるBJPに対して、国民会議派はヒンドゥー、クリスチャン、仏教徒(要は非ムスリム)の移民に対して市民権付与による保護を訴えるという形で、信仰を根拠とする論争が起きている。

    こうした主張はインドの独立以来の国是である世俗主義に対する挑戦であるとともに、とりわけ国民会議派については、大きな方向転換のひとつの兆しであるのかもしれないようにも思える。

    同時に、インドにおけるこうした動きについて、隣国バングラデシュ国内に与えるインパクトも少なくないかもしれない。同国内人口の一割近くを占めるヒンドゥー教徒たちの取り込みと捉えることも可能であるとともに、コミュナルな対立が発生した場合に、「インドによる差し金」を示唆する口実にもなろうし、敵性国民として排斥する動きに出ることもあり得ないことではないだろう。

    宗教をラインとする国家形成を経てきた国と、世俗主義を国是として歴史を刻んできた国の間で、それなりのバランスが保たれてきた中で、後者が前者と近いスタンスを取ることになることについて非常に危ういものを感じる。

    インド東北部におけるこうした動きが現実のものとなるようなことがあれば、やがてインドとバングラデシュの間での国際的な問題に発展する可能性を秘めていることから、今後の進展には注目していきたい。

    BJP & Congress Raring to Provide Citizenship to Hindu-B’deshi Migrants (Northeast Today)

  • バングラデシュ横断計画 西ベンガル州都コールカーター発、トリプラー州都アガルタラー行き直行バス運行へ

    遠からず、西ベンガル州都コールカーターとトリプラー州都アガルタラーとを結ぶ直行バスが運行されることになるようだ。隣国バングラデシュを囲む位置にある北東州だが、とりわけ「本土」から見てバングラデシュの向こうに位置するトリプラー州へのアクセスがバングラデシュを横切る形で可能となることによるメリットは大きい。

    これは同時に、本来ならばひとつづきの経済圏であったはずのインド東部地域にバングラデシュという他の国が成立してしまっていることの不条理さの裏返しでもある。

    バングラデシュにおいても、過密すぎる人口とは裏腹に少なすぎる就業機会、乏しいインフラなどから、隣接する地域と断ち切られた形で存在する自国について、「もし印パ分離がなかったら」と思う人たちも決して少なくはないようだ。2014年おけるインドの1人当たりGDPが1,165ドルであるのに対して、バングラデシュは625ドルと、およそ半分でしかない。

    パキスタンとともにインドから分離して英国からの独立を果たした東パキスタン(現在のバングラデシュ)だが、その後に高揚したベンガル人としてのナショナリズムにインディラー・ガーンディー政権下のインドがバングラデシュ成立を強力に後押しした。

    いわばインドの傀儡とも表現できる形でスタートしたバングラデシュだが、その後は決してデリーの意向になびくことなく、独自の国体とナショナリズムを固持して歴史を刻んできた。

    アッサムからの水運、物流は長いこと断ち切られ、歴史や言語、文化や習慣を共有する西ベンガル地域に第一次産品を大量に供給し、それと反対に工業製品の供給を受けるという分離以前には存在していた地域内の分業の機能を国境が阻害する。雇用機会やベターな賃金を求めて向こう側に出る人たちは、同じベンガル人ながらも不法移民ということになる。

    これとは逆に、インド側にしてみても地域の真ん中に、あまり友好的とは言えない国が存在することにより、当然のことながらこのエリアにかかる国防費などの負担を抱えることとなる。独立以来、インド北東部が不安定であることの背景に、その地域の特色ある民族構成以外に、ベンガル北部の頼りないまでに細い回廊地域のみを経て到達できるという、地理的な要因もあるようだ。

    イデオロギーによる国家の分断の悲劇は、固定された格差、域内経済の振興への足かせなどとともに今なお継続中である。コールカーターから、ひとつづきのはずのベンガル地域の北東端にあたる地域への直通バスが話題になること自体が、現状の理不尽さそのものである。

    Direct Bus Between Agartala-Kolkata via Bangladesh (Northeast Today)

  • ロヒンギャー難民

    最近もまたミャンマーからのロヒンギャー難民たちに関する記事がメディアに頻繁に取り上げられるようになっている。

    【ルポ ミャンマー逃れる少数民族】 漂流ロヒンギャ、苦難の道 迫害逃れ、過酷な船旅 (47 NEWS)

    昨年、ロヒンギャー問題で知られるヤカイン州のスィットウェを訪れたことがあるが、かつて英領時代には、この街の中心部でおそらくマジョリティを占めて、商業や交易の中心を担ったと思われるベンガル系ムスリムの人たちのタウンシップがある。そこには同じくベンガル系のヒンドゥーの人々も居住していた。

    スィットウェへ3 (indo.to)

    滞在中にヒンドゥーの人たちの家で結婚式があるとのことで、「ぜひお出でください」と呼ばれていたのだが、その街区はバリケードで封鎖されていて、訪問することはできなかった。
    その数日前に、たまたま警官たちのローテーションの隙間であったのか、たまたま入ることが出来て、幾つかの寺院その他を訪れるとともに、訪問先の方々からいろいろお話をうかがうことができたのだが。

    実のところ、その結婚式には日程が合わず出席はできないものの、同じ方々からもう少し話を聞いてみたいという思いがあり、足を向けてみたのであるが、バリケードの手前で、「ここから先はロヒンギャー地域だぞ。誰に何の用事だ?」と警官たちに詰問されることとなった。

    うっかり先方の住所や名前を口にしては、訪れることになっていた人たちに迷惑が及んではいけないと思い、「いや、向こう側に出る近道かな?と思って・・・」などと言いながら踵を返した次第。通りの反対側から進入を試みてみたが、同じ結果となった。゛

    ロヒンギャーとは、一般的に先祖がベンガル地方から移住したムスリムで、現在のミャンマーでは国籍を認められず「不法移民」と定義されている人たちということになっているようだが、ベンガルを出自とするヒンドゥーもまた同様の扱いを受けているように見受けられた。

    そのロヒンギャーの人たちだが、母語であるベンガル語の方言以外にも、インド系ムスリムの教養のひとつとして、ウルドゥー語を理解すること、またヒンドゥーの人たちも父祖の地である広義のヒンドゥスターンの言葉としてヒンディーを理解することはこのときの訪問で判った。もちろん個人により理解の度合いに大きな差があり、まったくそれらを理解しない人たちもいるのだが。とりわけ若い世代にその傾向が強いようだ。

    アメリカをはじめとする先進主要国から経済制裁を受けていた軍政時代には、ミャンマー国内の人権事情について、各国政府から様々な批判がなされていたが、民政移管に伴い制裁が解除されてからは、そうしたものがトーンダウンするどころか、まさに「見て見ぬふり」という具合になっているように見受けられる。ここ数年間に渡り大盛況のミャンマーブームだが、同国政府の不興を買って、自国企業の投資その他の経済活動に支障が出ることに対する懸念があるがゆえのことと思われる。