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  • インド亜大陸にアルカイダの支部

    アルカイダのリーダーのアイマン・ザワヒリーの声明は気になるところである。

    亜大陸に支部を設立することを宣言するとともに、ミャンマー、バーングラーデーシュとともにインドのアッサム、グジャラート、カシミールのムスリムたちに対する支援を表明している。

    Al Qaeda Opens New Branch on Indian Subcontinent (New York Times)

    アルカイダは従前よりアフガニスタンやパーキスターンで活動を続けてきたが、ここにきて「支部を設立する」と言うからには、亜大陸での活動を本格化させるという強い意志の表明ということになるだろう。

    これを受けて、インドのメディアの反応はこのような具合。

    Nation on alert as al-Qaida launches India wing for ‘return of Islamic rule (THE TIMES OF INDIA)

    Al Qaeda Launches Wing in Indian Subcontinent (NDTV)

    Al-Qaeda declares new front to wage war on India, calls for jihad in the subcontinent (The Indian EXPRESS)

    http://indianexpress.com/article/india/india-others/al-qaeda-leader-ayman-al-zawahiri-announces-formation-of-india-al-qaeda/

    イスラームの敵 ?

    今年5月にインド首相に就任したナレーンドラ・モーディー氏。インド国内で清廉なイメージとグジャラート州首相として発揮した行政手腕とその果実としての同州の経済成長などから期待値が高く、改革に対する果敢な姿勢から現在までのところ好調な滑り出しを見せている。また、つい先日の訪日の際には安倍首相とともに経済面のみならず国防面でも積極的な協調姿勢を打ち出し、日印新時代の幕開けを印象付けたモーディー氏である。

    しかしながら、アルカイダは氏を「イスラームの敵」と位置付けることも想定しているらしいとの報道もある。もとよりインド国内においても2002年のグジャラート州で発生した暴動の際に、その前年に同州の首相に就任したモーディー氏による関与が長らく疑われてきたこともあり、インド国内外でそれなりの説得力を持つものとなることは否定できない。

    Al-Qaeda wants to portray Narendra Modi as enemy of Islam (The Indian EXPRESS)

    過激派活動家を生む土壌

    本家のアルカイダと袂を分かったISISのイラクにおける戦闘に加わっているムンバイ―近郊出身のインド人ムスリムもいることがすでに明らかになっているが、その中の1人が戦死したことも8月下旬に報道されていた。

    Indian youth dies while fighting for ISIS (DIGITAL JOURNAL)

    Fighting for “Islamic Caliphate”, Kalyan Boy dies in ISIS war against Iraq (THE INDIAN REPUBLIC)

    インターネットの普及により、こうした過激派のリクルートが容易に国境を越えるようになって久しいが、インドにおいては英語を理解する人口が膨大であること、世界有数のムスリム人口を抱えているにも関わらず、ヒンドゥー教徒の大海にあってはマイノリティーの地位に甘んじており、英国からの独立の際に分離したパーキスターンとの関係などから、相対的に不利な立場にあるといえる。

    そのため世俗的に抑圧感を覚えていたり、社会生活に信奉しているイスラームの見地と相容れない部分を感じていたりしているムスリムは少なくないはずであるとともに、貧困層の中においては、自身の不遇をムスリムに対する社会の不条理な対応であると理由づけしてしまうこともあるだろう。とりわけ若年層、精神的に不安定で、家族に対する責任や義務などがまだあまり生じていない者たちの中から、過激思想に共鳴する者がある一定の割合で出てくることを防ぐのは容易ではない。

    そうした人々は隣国パーキスターンで活動するラシュカレトイバをはじめとする組織や地元インドで結成されたインディアン・ムジャヒディーンのようなグループで活動したりしてきたわけであるが、そうした選択肢の中にアルカイダも加わることになるのだろう。

    亜大陸のムスリム社会への影響

    ここしばらく鎮静化しつつあったインドにおけるテロ活動、カシミールの治安情勢が今後危惧されるとともに、亜大陸全体におけるムスリムのコミュニティ内の対立や分断も生じさせることになるかもしれない。各地に聖者廟があり、カッワーリーのような宗教賛歌の伝統も豊かなこの地であるが、こうしたものはワッハーブ派の流れの延長線上にあるアルカイダの視点からすれば、異端以外のなにものでもないからである。

    また、こうした中から非ムスリムの間からはムスリムに対するさらなる不信感が生じてきたり、これを政治的に利用する動きが出てきたりすることは誰にでも予想できる。とりわけ先の選挙で大勝したヒンドゥー保守派のBJP政権においては、そうしたことが懸念される。

    宗教的な信条はともかく、テロ活動に対する国民会議派を中心とする前政権の弱腰を批判していただけに、こうしたテロ対策については強硬な態度が求められるところでもあり、それは大きな事件が発生した場合の外交上の対応のみならず、国内における引き締め策にも反映されるであろう。

    過激派の「安全地帯」

    こうしたアルカイダの細胞組織や潜在的な賛同者は、亜大陸各地に散在することになるのであろうが、その核となる部分はやはりパーキスターンのFATA (Federally Administered Tribal Areas ※連邦直轄部族地域)に置かれることになるのだろう。いや、もうすでにそれは存在していることだろう。この地域は、こうした組織にとっても「セイフ・ヘイヴン」となっており、インドにとってはもちろんのこと、その地域を抱えるパーキスターンにとっても政治面においても、治安面においても大きなリスクとなっている。

    ここは、中国に対するジハードを唱えるETIM(East Turkestan Islamic Movement)の拠点も置かれているとされていることは、今年7月にETIM パーキスターンと中国と題して記事をアップしたところだ。

    亜大陸の多国間の協調が求められるが・・・

    当然のことながら、亜大陸におけるアルカイダと対峙するにあたり、主要な鍵となるのはパーキスターン政府の対応ということになり、ここしばらく落ち着いたムードにある印パ関係に多大な影響を及ぼすことも考えられる。

    アルカイダの脅威に対しては、各々の国が個別に対応して解決できるものではなく、南アジア地域全体の包括的な協力と協調が求められるところであるのだが、果たしてそれが実現できるのかどうか。それが容易に実現できるとは思えないところに、アルカイダの活路があるということにもなってしまうのだろう。

  • ターラープルの原発を取り上げた映画「ハイ・パワー」

    2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の深刻な事故が発生した後、しばらくの間は日本国内で盛り上がった反原発運動だが、このところずいぶん「鎮静化」してしまったのが気にかかる。

    まさに「喉元過ぎれば・・・」ということわざどおりなのかもしれないが、当の原発事故はいまだ終息したわけではなく、現在も進行中であること、この事故による被災者の方々はいまなお避難生活を送ることを余儀なくされていること、汚染が危険なレベルであるにもかかわらず、効果のよくわからない「除染」で誤魔化してしまおうとしている行政等々、さまざまなトラブル等がすべて未解決である現状を思うまでもなく、日本人である私たちが直視して考えていかなければならない問題だ。

    インドのマハーラーシュトラ州のターラープルといえば、原子力発電所があることで知られているが、この原発が地元に与え続けてきた負の面を告発した映画である。あらすじについてはこちらをご参照願いたい。

    すでに日本国内のいくつかの場所ですでに確定した上映スケジュールが告知されているが、興味深いのは映画の内容だけではない。上映と監督ともに「招聘」することができるという部分も特筆すべきところだ。

    原発については、その存在の是非だけではなく、これによって支えられる産業のありかた、成り立つ社会のありかた、ひいてはインド、日本その他の国による区別もない、地球上の私たちの暮らしのありかたを含めて、みんなが真面目に考えていかなくてはならない問題である。

    ※映画紹介のウェブサイトには「タラプール」とありますが、正しくは「ターラープル」であるため、本記事における記載は「ターラープル」としました。

  • エボラの脅威は対岸の火事ではない

    西アフリカでエボラ出血熱がこれまでにない規模で流行している。

    致死率が90%以上と非常に高いこと、発病後の症状が劇的に激しく、治療方法が確立していないことなどから、大変危険な病気であるということは誰もが認識していたものの、これまでは農村部の限られた人口の間で散発的に小規模な感染が伝えられるという具合であったため、この地域における風土病というような認識がなされていたのではないだろうか。

    だが今回、ギニアで発生したエボラ出血熱が隣国のシエラレオネとリベリアにも及び、ギニアでは首都のコナクリにまで広がるという事態を迎えており、空前の規模での流行となっている。以下のリンク先記事によれば、感染者は635名に及んでいるという。

    史上最悪、西アフリカでエボラ感染拡大(毎日新聞)

    今回、これほどまでに感染が拡大したこと、農村の限られた地域での流行と異なる部分などについてはいろいろ指摘されているが、首都での流行については、これが旅客機等により、地続きではない国々にまで飛び火する可能性を秘めていることをも示している。

    コナクリからフランス、ベルギーといった欧州の国々、ダカールやモロッコ等の周辺国へのフライトがあり、それらの到着地から接続便で北米やアジア方面にも接続することができる。

    そんなわけで、地球のどこの国に暮らしていても、とりわけ今回の流行については、対岸の火事と傍観しているわけにはいかないという危惧を抱かせるものがある。

    あまり想像したくないことだが、これが人口稠密で、インドをはじめとする南アジア地域に飛び火するようなことがあったら、あるいは同様に人口密度の高い日本で発生するようなことがあったら、一体どのような大惨事になることだろうか。だがこれは絵空事ではなく、前述のとおり、ごく短時間で世界のどこにでも移動できる現代では、充分にあり得る話である。

    流行地からは、このようなニュースもある。エボラ出血熱を発症したものの、完治して生還した事例だ。

    エボラ完治「奇跡」の妊婦、喜び語る シエラレオネ(時事ドットコム)

    流行の抑え込みとともに、ぜひとも期待したいのは病理学的な解明と治療法の確立である。今はただ、今回の大流行が一刻も早く収束を迎えることを祈るとともに、医療現場で命を賭して患者たちへの対応に当たっている医師たちに敬意と大きな感謝を捧げたい。

  • ひと続きの土地、ふたつの国

    今年もまたラダック地方に中国軍による侵入の試みがあった。

    Chinese troops try to enter Indian waters in Ladakh (The Indian Express)

    ほぼ時を同じくして、中国でラダックの一部とアルナーチャル・プラデーシュ州全域を自国領として描いた地図を出版している。

    Leh residents object to China’s claim over Ladakh in new map (india.com)

    繰り返しこのような行為を繰り返すことにより、これらの地域がインドに帰属するものではなく、中国の一部であると内外に主張することにより、これらの地域が係争地であることを風化させることなく、機が熟して何らかの大きな行動を起こした場合にそれを正当化させるための企みであることは明白だ。

    このような動きがある限り、J&K州に広く展開する軍備を削減することはできず、財政的に大きな負担を抱える現状は変わることはない。観光以外にこれといった産業のないこの地域において、駐屯する軍に依存する構造も変わることはないだろう。

    また、この地域が事実上、地の果ての辺境であるということも変化することはない。もし中国とインドとの間で領土問題が存在せず、国境の両側が経済的に相互依存する関係にあったらならば、地元の人々に対して大いに利することになるはずなのだが。

    両国の間に設けられた国境という壁は、ふたつの世界を分断し、相互不信の関係をさらに醸成させていくことになる。北京とデリーという、どちらもこの国境地帯から遠く離れた政治の中心の意思が、地元に住む人々の間でひと続きの土地に引かれた国境の向こうにいる人々に対する敵意を焚き付けて反目させる。

    不条理ではあるが、これが現実。さりとてこれが現実とはいえ、はなはだしく不条理なことである。

  • ETIM パーキスターンと中国

    ETIM パーキスターンと中国

    このところ中国ではイスラーム主義者によるものであるとされるテロが相次いでいる。中国の新疆ウイグル自治区の分離独立を訴える集団による犯行であるとされるが、中国に対するジハードを唱え、中国から民族自決を要求する運動から、中国をイスラーム教徒の敵であると主張するものに変質してきている。

    この組織、ETIM(East Turkestan Islamic Movement)は現在パーキスターンのFATA (Federally Administered Tribal Areas ※連邦直轄部族地域)に活動拠点を置いており、中国の手が及ばないところで軍事訓練、武器や資金の供与などを受けているとされる。

    この地域はインドが英領であった時代に遡る歴史的な経緯から、パーキスターン領内でありながらも、同国の立法権限が及ぶのは「国道上のみ」という形になっている。同国政府による行政ではなく、ここに暮らす部族による統治がなされる特殊なエリアである。中央政府の権限が及ばない「無法地帯」であることに加えて、部族民たちの尚武の気風もあり、同じイスラーム教徒の反政府組織やテロ組織等に対しては格好の潜伏場所を提供しているとも言える。

    常々、「テロ組織を隠匿している」と名指しでインドから非難されてきたパーキスターンだが、これまで地域の最大の友邦として同国を厚遇してきた中国にとって、自国でテロを展開するETIMの活動がエスカレートしていくにつれて、この集団が潜伏しているパーキスターンに対して、強い態度に出る日も遠くはないものと思われる。パーキスターンの港湾や道路等々のインフラ整備に手を尽くすほかに、地域最大の友好国として厚遇を与えてきた中国も、そろそろ考えを改める必要性を検討しているかもしれない。

    もちろん中国だけではなく、同地域に潜り込んでいるテロ組織に対する強い懸念を抱く国は少なくないため、パーキスターンに対する外圧は相当なものであるため、ときおりこの地域への軍事作戦がなされている。

    ETIM operatives among 50 killed in Pakistan airstrikes (INTER AKSYON)

    しかしながら、このような行動は根本的な解決からほど遠いことは誰の目にも明らかであり、パーキスターン政府にとっての「一応、出来ることはやっている」というアリバイ作りに過ぎない。各国が望みたいのは、このような無法地帯の存在を許す現在のシステムの変更であるが、パーキスターンにとってはそのような「暴挙」は自国北西部の安定と秩序を破壊するものであり、隣国アフガニスタンにもまたがって暮らす部族民たちとの信頼関係を根底から崩すことにより、内戦に突入する危険をも覚悟しなくてはならない一大事となる。

    最も大きな問題は、当のパーキスターンが自国領内のFATA地域のこうした問題を解決する能力も意思も持たないことだ。FATAのありかたは、今まで以上に地域の安定と秩序に及ぼす影響は非常に大きなものとなる可能性があり、今後目を離すわけにはいかない。

    標的にされる中国 「全イスラム教徒の敵」(asahi.com)

    ジハード呼びかける動画、狙いはウイグル族 (THE WALL STREET JOURNAL)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 1 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 2 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 3 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 4(CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 5 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 6 (CCTV)

  • スィットウェへ3

    スィットウェへ3

    この町で少々気になったことがある。ヤカイン州といえばロヒンギャー問題で海外にもよく知られているところだ。ロヒンギャーとは、ベンガル系のチッタゴン方言に近い言葉を母語とするムスリム集団のことだが、すでにこの国に数世代に渡って生活しているにもかかわらず、「ベンガル人の不法移民」「外国人」とされており、この国で市民権を与えられていない宙に浮いた存在である。

    近年は、ムスリムに対する暴動が発生して、モスクやムスリムの家屋に対する破壊行為が起きたこと、多数の死傷者が出るとともに、避難民を数多く発生させたこともメディアで伝えられていたのを目にした人も多いだろう。

    ミャンマーの中ではとりわけイギリスによる植民地史の中で早い時期からインド系の移民の波にさらされた土地であること、港町として南アジアとの往来も盛んであったことから、インド系の人々の姿が非常に多いであろうことを予想していたのだが、意外にも港湾エリアを中心とする繁華街ではインド系の人々、ムスリムの人々の姿が非常に少ない。

    繁華街の目抜き通り(Main Rd.)には、ジャマーマスジッドという名で、立派なムガル風建築のモスクがあり、おそらくこのあたりには相当数のムスリムが住んでいたのではないかと思われるが、周囲のマーケットはそのような雰囲気ではない。モスクそのものも現在は使われていないようで、入口につながる小道にはバリケードがあり、武装した治安要員が警備に当たっており、足を踏み入れるまでもなく、その前に立ち止まるだけで追い払われてしまう。

    ヤンゴンから飛行機で到着した際の空港から市内への道筋にも、小ぶりながらも由緒ありそうな凝った建築のモスクがいくつかあったのだが、どれもそうした制服の男たちが入口を塞いでいた。


    市内中心部でも繁華街の目抜き通り(Main Rd.)から西に進んだエリアに行くと、ところどころでインド系の人々を目にした。そんな中に、いくつかのヒンドゥー寺院があった。おそらく最も大きなものが、マハーデーヴ・バーリーという、名前からしていかにもといったシヴァ寺院だ。

    入口の鉄扉を開けて中に入ると、若い男性が「何か用か?」といった不審そうな面持ちで出てきたが、インド系の人々のお寺に関心があること、ぜひ神殿で拝ませて頂きたいという来意を伝えると、快く迎えてくれた。


    お堂の中は簡素で、祭壇にはシヴァの絵と小さなリンガムが祀られているというシンプルなもの。だがその反対側の壁にはシヴァの連れ合いであるドゥルガーの立派な神像があり、本尊は実は後者なのではないかと思われるくらいにアンバランスである。ドゥルガーやカーリーへの信仰の厚いベンガル系の信者から寄進されたものではないかと思う。


    ミトゥン・チャクラボルティーという、ヒンディー語映画のベテラン俳優みたいな名前のこの男性はこのお寺のプージャーリー。快活な感じのする男性で、ヒンディー語もなかなか上手い。名前の示すとおりのベンガル系で、20代後半で昨年結婚したばかりだが、来月初めての子供が生まれる予定であるとのことで、境内には身重の奥さんもいたが、彼女はヒンディーを話すことはできないようであった。

    現在、母親とお嫁さんとの3人暮らしであるそうだ。父親は20年ほど前にカルカッタに行ったきり、消息を絶っているとのこと。「父が先代のプージャーリーで、私がこうして継ぐまでしばらく空いているんです。私が幼いときに仕事を求めてカルカッタに行ったのですが、それっきりどうしているのかも判りません。もちろん私たちはベンガル人ですが、父はカルカッタに何かツテがあったのかどうかは判りません。そんな具合であったので、母は大変苦労したようです。」

    特に身の上話を尋ねたわけではないのだが、いろいろと聞かせてくれるのはインド系の人らしいところかもしれない。しばらく世間話をした後、「少々お待ちいただけますか。」と言い残してどこかに姿を消した彼は、サフラン色のローブを纏って現れて、私のためにプージャーをしてくれた。

    彼の家族は曽祖父の代にベンガルから移民してきたというが、今でもベンガル語とヒンディー語は使えるということから、この地のインド系のコミュニティの絆はもちろんのこと、人口規模も決して小さなものではないことが窺える。


    そこからごく近いところに、ダシャー・プージャー・バーリーというヒンドゥー寺院もあり、ここもまたプージャーリーの男性に挨拶すると、非常に愛想よく迎え入れてくれた。こちらはカーリーとドゥルガーを祀った寺であり、プージャーリーはさきほどのマハーデーヴ・バーリーのプージャーリーと同じ苗字を持つベンガル系のブラフマンの50代男性だが、親戚ではないそうだが、年代が上であるだけに、さきほどの男性よりもヒンディーが流暢で、彼らのコミュニティに関する知識も豊かなようである。

    彼によると、この町に暮らすヒンドゥーの人々はおよそ3,000人程度。インド系という括りで言えば、ムスリムがマジョリティで彼らは少数派だそうだ。かつてはもっと多くのヒンドゥー(およびインド系ムスリム)が暮らしていたそうだが、1962年のネ・ウィン将軍によるクーデター以降、多くは国外に移住したとのことだ。

    近年においては、この地における反ムスリムの動きが、彼らヒンドゥーの立場をも悪くしているという。「このあたりでは、インド系といえばムスリムのほうが多いでしょう。ロヒンギャーの問題もあるし、私らヒンドゥーも同じように見られてしまう部分がある。とりわけムスリムに対する攻撃が始まってからは、私らも必要なとき以外はなるべく外に出ないようにしています。この地域に暮らすということはリスクと不便があまりに多い。」とのこと。あれほどインド本国では圧倒的な重みを持つインド文化も、この地にあってはその輝きほとんどなく、まるで隠れキリシタンのような趣さえある。

    「私の祖父がインドからやってきました。ここのヒンドゥーの間ではベンガル人が多いですが、U.P.やビハールからの移民もいれば、マールワーリーもいるし、グジャラーティーもいます。でも私らの間では正直なところ、先祖がやってきた地域の区別はあまりないんです。結局、同じヒンドゥーでしょう?」

    この界隈には、他にゴーランガー・マハー・プージャー・バーリー、ハリ・マンディル、ラーダー・クリシュナー・マンディルといったヒンドゥー寺院がある。

    翌日にはこの地域のインド系の人の結婚式があるので、ぜひ出席しないかと誘われた。ぜひともよろしくお願いしますと言いたいところであったが、タイトなスケジュールでのミャンマー訪問で、その日にはすでに移動する予定であったので、後ろ髪を引かれる思いながらも辞退せざるを得なかった。寺院を出て、しばらく進んだ先では着飾ったヒンドゥー女性たちが乗合自動車から降りてどこかに向かうところであったので、この婚礼と関連するものが行われていたのではないかと思う。

    寺の外でも、インド系の人々は総じてフレンドリーな印象を受けたが、この「インド系タウンシップ」を徘徊するのはなかなか面倒なことでもあった。というのは、辻のそこここに警察のバリケードがあり、POLICEと大書きした車両が行き交う中で、そうした地域に足を向けようとすると、往々にして「こちらに立ち入るな」と追い返されたり、職務質問を受けたりするからだ。

    中には非常にガードが堅い路地もあり、一体その先には何があるのかと興味をそそられるものの、路地の反対側から進入することを目指しても、迂回路を探してみても入ることができなかったりする。

    ときに多少の英語ができる警官もおり、「ロヒンギャーたちがいる地域であるから危険なので入らないこと。」とのこと。ロヒンギャーの人々が危険であるのかどうかはともかく、このように常に監視の対象になっているということ、それが州都であることを思えば、その他の地域では一体どんな扱いをされているのかと思う。

    こうした中で、ヒンドゥーたちが監視の対象になっているのか、保護の対象になっているのかわからないが、やはりインド系の人々全体がロヒンギャーと同義に扱われているかのような印象を受けるとともに、こうしたインド系が住むエリアそのものが警備の対象となっているようにも感じられた。

    英領期に、ここに移住してきたインド系の人々の多くは、当時のヒンドゥスターンの新天地として入植してきたはずだが、結局こうしたやってきた大地はいつの間にかヒンドゥスターンの一部ではなくなり、彼らの父祖の故地もひとつのインドからインドとバングラデシュに分かれてしまい、コミュニティとしては大きなものであったインド系の人々自体がいつの間にかマイノリティとなり、しかも監視の対象にさえなってしまったことになる。

    かつてイギリス領であったこと、隣接しているインド亜大陸からの移民が多いことから、しばしばインドの北東部にいるかのような気にさせられることもあるミャンマーの中でも、地理的に最もインド世界に近い場所にある地域だ。

    インドの北東部でモンゴロイド系の住民がマジョリティを占めるエリアを訪れると、「インドの中にあってインドでない」といった印象を受けるが、それでもインド共和国という政治システムの中の一地方であるがゆえに、インドという存在は至高のものであるとともに、圧倒的な存在感をもってその地に君臨している印象を受けるものだ。しかし、その法的・軍事的な強制力が及ぶ圏外であるここでは、インドという国が非常に遠く感じられるとともに、インド系の住民なり文化なりが非常に無力なものに感じられる。

    もしインドの北東部が本土から分離するようなことがあったりすると、まさにこのような感じになるのではないかと思ったりもする。


    〈完〉

     

  • スィットウェへ1

    スィットウェへ1

    ミャンマーのヤカイン州都スィットウェは、かつてアキャブと呼ばれた港町。南アジアから東南アジアへの玄関口でもあり、イギリスによるミャンマー攻略と支配もここに始まった。

    州都だけのことはあり、大学が存在する。

    1784年、当時のアラカン王国を征服して属国化させて以降、西方へと更なる拡張を模索していたビルマのコンバウン朝が1822年に英領のベンガルへ軍を進めたことがきっかけとなり、1824年に今度はイギリスがビルマへ軍を展開したことにより、第一次英緬戦争が勃発することとなった。その2年後にアラカンとテナセリウムがイギリスに対して割譲されることとなる。

    このアラカンを足掛かりとして、1852年に第二次英緬戦争が起き、今度は下ビルマを自国領に組み入れ、さらには1885年の第三次英緬戦争で、マンダレーを王都とするコンバウン朝を滅亡させて、上ビルマをも手に入れることにより、イギリスによるビルマ征服が達成されることとなった。

    アラカンの支配的民族であったアラカン族は、現在はバングラデシュとなっているチッタゴン地域にも影響を及ぼしていた時期がある。それがゆえにこの地域も本来はミャンマーの領土であると唱える向きもあるほど、東南アジアと南アジアの境目であり、そのふたつの世界の行き来が盛んな地域でもあった。

    だが、現在はヤカイン州と呼ばれているアラカン地方は辺境の地となり、経済的にも政治的にも重要な拠点であったアキャブは、今は州都スィットウェとして知られているものの、パッとしない田舎町に成り果てている。

    カラーダーン河口部に位置するこの町の水際に公的機関、市場、それより内側に商業地、その背後には住宅地という、植民地期の水運時代に建設された貿易港らしい造りである。

    目下、インドの援助により、スィットウェのひなびた港は深海港に生まれ変わる工事が進行中であり、完成した暁にはスィットウェは物流の重要なハブとしての役割を担うこととなる。長期的には、東南アジア地域から南アジア各国を始めとする、ミャンマーから見て西側に位置する地域との物流ということになるのだろうが、インドにとってはこれとは異なる思惑がある。

    インド本土からバングラデシュ国境と中国国境の間で、通称「チキンネック」と呼ばれる、陸路の細い「スィリーグリー回廊」を経て同国の東北部にかろうじて繋がっている物流ルートを補完する役割だ。

    更には、インド北東部とミャンマーを繋ぐ陸路については、もっと北回りでの鉄路と道路での構想があるのだが、これについては以下のリンクをご参照願いたい。

    北東インド振興は鉄道敷設から(indo.to)

    インドにとって、物流のハブとしてのミャンマー西部の発展への期待は、そのまま自国北東部の振興に直結するものであることから、このあたりへの援助ならびに投資は当然のごとく相当な力のこもったものになるわけだ。とりわけスィットウェの港湾設備に対するコミットメントがいかに大きなものであるかについては、インドがこの町に領事館を設置することになっているということから、その期待値の大きさがうかがい知れるというものだ。

    ちなみにミャンマーにおけるインドの在外公館は、現在までのところヤンゴンの大使館とマンダレーの領事館であり、スィットウェの領事館がオープンすれば、ミャンマーに三つめの在外公館を出す初めての国ということになる。それほどミャンマーはインドにとって大切な国になりつつある。

    のどかな水際の眺めも近い将来すっかり変わってしまうかもしれない。

    地味な港町スィットウェだが、今後10年ほどのスパンで眺めれば、これまた地味なインド北東部との繋がりが深まることにより、ともにちょっとした地味ながらも着実な成長と変化を呼び込む結果を生むのではないかと思う。どちらも現状では「この世の行き止まり」であるかのような具合になっているがゆえに、海路・鉄路・陸路の接続が与えるインパクトには測り知れない影響力が秘められているものであると思われる。

    港近くの空き地や路上では干し魚作りが行われていた。

    〈続く〉

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

  • モコンチュンのクリスマス 2

    モコンチュンのクリスマス 2

    モコクチュンの町

    山の上に広がるモコクチュンの町は、想像していたよりは大きく、見た感じは物資もそこそこ豊かな感じがするのは、ここまで来る道を考えると不思議である。物資を運ぶもっと効率的なルートが他にあるのかといえば、そんなことはないだろう。ナガランド最大の街、ディマープルからのルートが一部アッサムを経由するこのルートで到達するのは、他よりもベターな道路を選好してのことであるからだ。ナガランド州において、ディマープル、コヒマに次いでモコクチュンは大きな町ではないかと思う。

    Hotel Metsuben

    Hotel Metsubenという、町の中でも小高いエリアにあるところに投宿。Metsubenとはナガの言葉で「花」という意味だ。クリスマスなので、込み合っているのではないかという予想は外れた。外国人客は私以外には、インド人バイカー、フランス人の四人連れのグループ、そしてインド人家族連れが二組だけで、ガランとした感じであった。食事も材料の調達の関係があるので事前に注文しておいてくれとのこと。下半期におけるひとつのピークと思われるシーズンでこのような具合ということは、それ以外の時期には閑古鳥が鳴いていることだろう。

    私とインド人バイカー以外は、隣州のアッサム州発のツアーで来ている人たちだ。ナガランド州の交通事情を考えると、これが最善の方法であることは、クリスマス前後の数日間が州内のすべての分野において共通であり、交通機関さえもその例外ではないということを知るに至り判った。ツアーで来ている人たちと、自前の足を持っているインド人バイカー以外は、たとえ町周辺を散策してみようにも、徒歩で行くしかないだけでなく、州内の移動もままならない。同様に、この州では週末は同様の状態となるため、インドの他州と比較して、あるいは同じ山間の州と較べてみても、信じられないくらい旅行はしにくいことになる。

    スィッキム州でも地域間の公共交通機関により移動は、主に朝早い時間帯のシェア・スモウのみという具合であったが、ここでは主要な町のひとつであるモコクチュンからであっても、ディマープル、コヒマ以外へのバスやスモウは、休みの日以外であってもあるのかないのか判然としないくらい頼りない。もともと人口密度が薄く、人やモノの地域間での移動も少ないのだろう。確かに今日眺めた範囲に限られるが、沿道で見かけた集落もずいぶん小さくて簡素なものばかりであった。

    さきほどナガランド州内のウォカーから到着したインド人バイカーは旅慣れた感じの男性。5週間の休暇中で、ロイヤル・エンフィールドの大排気量モデルを駆り、遠路はるばるケララ州から来ているとのことである。ジャーナリストかライターかと思えばそうではなく、なんと医者であるという。

    「え、医者が忙しい?40歳を過ぎて自分なりの地位を固めれば、仕事は下の者たちがやってくれる。もうしゃきりきに働く年齢ではないさ。」とのこと。この人自身は50歳前後くらいだろう。インドの医者がそんなにヒマとは思えないのだが、どうやら自分で病院を経営していて、彼の子供たちや雇用しているスタッフたちに任せているので、わざわざ「お偉いさん=彼」がオペを取り仕切るようなことはないということのようだ。

    「外科医なんだが、まあアレを切ったり、これを付けたりってな具合だね。要は大工仕事と同じだ。」と笑う彼の趣味はバイクで駆け回ることであるといい、この年齢にしてバイクでケララ州から北東インドにやってきて、帰路もまたこの北東地域から一路ケララ州まで走破することになる。体力にも自信があるようで、なかなか面白い人物らしい。

    大蛇のとぐろみたいなクリスマスツリー
    立派な体格のサンタさん
    雪は降らないけど雪ダルマ
    これまたクリスマスツリーの一形態か?

    この日はクリスマスイブであったため、町中にいくつもある教会ではミサが続いている。賛美歌を合唱する様子を見ていると、これらを日本語で歌ったミッション系スクールに通った高校生時代のことを懐かしく想い出す。ギターその他の洋楽の楽器による伴奏でやっているところもあり、いかにもクリスマスというムードである。

    町一番の大きな教会
    着飾って教会前に集まる子供たち

    ナガランドのキリスト教の歴史は浅く、建築的には見るべきものはない。それでも外部の宗教とまったく縁のなかった地域で、ときに首狩りに遭い殉教してしまう宣教者を出しながらも、教えを広めていったバプティストの人たちの情熱と根気には頭が下がる思いがする。もともとイギリスによる統治に対する反抗が強い土地だったので、そうした外来者による宣教についても相当な嫌悪感や反対もあったことだろう。

    ミサの後に撮影。教会の中はこんな感じだった。

    ナガランド、マニプル、ミゾラムは禁酒州ということになっているため、バーはなく、ホテルでも酒は出していない。どこか闇のバーはあるのではないかと思うのだが。禁酒州がゆえに、町中には酒の広告類もない。ここに住んでいる人たちは、アッサムに出かけて「おおっぴらに飲む」ことに喜びを感じたりするのだろう。

    地元の人たちはけっこう飲んでいるという話もあるので、どこかでかなり出回っているのだろう。軍用に大量に供給されているはずなので、そのあたりからも流れているものがあるのではないかと想像はできる。マーケットや空き地などでビールの空き缶やウイスキーの空き瓶などを見かける。

    夕食は宿のレストランにて。ナガのチキンの料理を食べる。大豆発酵させた調味料を使っているため独特の臭いがする。ちょっと納豆に近いような、そうでもないような具合だ。味わいについては賛否が分かれるところではないかと思う。

    旨いかどうか微妙な味
    ナガ料理については人により評価が大きく分かれるはず

    夜は嫌になるほど冷え込む。二枚の毛布の下に、フリースを着たまま潜り込んだのだが、それでも寒くて寝ることができないほどだ。

    昼間もそうであったが、布団に入ってからも外からはまるで銃撃や爆弾のような物凄い轟音の爆竹の音が断続的に響いてくる。ディワーリーのときによく鳴らしているものと同じだが、子供達の遊びとしてはちょっと危険過ぎる。誤って失明したり指を失ってしまったりという話も耳にする。あんなものは禁止してしまえばいいのにと思うが、そのあたりのさじ加減というか、許容度は日本とインドでは天地の差がある。危険だからと禁止してしまえばいいかといえばそうでもなく、こうしたことから学ぶことも少なくないことも事実であるからして、さじ加減がむずかしいところだ。

    夜はとても冷え込む

    〈続く〉

  • 北東インド振興は鉄道敷設から

    北東インド振興は鉄道敷設から

    掲載されたのが今年9月18日と、少々古いニュースで恐縮ながら、北東インドの未来を感じさせるこのような記事があった。

    NE to be linked to Trans-Asian Railway Network (The Assam Tribune)

    北東インドが81,000キロに及ぶTARN (Trans-Asian Railway Network)につながるのだという。具体的にはマニプル州都インパールからモレー/タムー国境(前者がインド側、後者がミャンマー側)までの118kmの鉄路を敷設する予定であるとのことだ。

    同様に、トリプラー州のジャワーハル・ナガルからコラーシブ/ダルローン国境(前者がインド側、後者がミャンマー側)に至るルートの提案もなされている。

    こうした計画や展望の成否についてはかなり流動的であることは言うまでもない。つまりミャンマーの好調な経済発展がこのまま継続するかどうか、そして両国のこの地域の政情について、とりあえず安定してきている状態が今後も続くかどうかというリスクがある。前者については、対立してきた先進諸国との関係改善により、内外から空前の投資ブームが起きていることから問題はないように思えるが、後者については不透明だ。

    鉄道ネットワーク建設により、インドとミャンマーの二国間というよりも、南アジアと東南アジアという異なる世界・経済圏を結ぶ架け橋となることが予想されるインド北東部とミャンマー西部だが、この地域で活動している両国の反政府勢力、つまり地元の民族主義活動グループにとって、こういう状況はどのように受け止められるのかといえば、一様ではないだろう。

    それぞれの勢力の思想・信条背景により、これを経済的地位向上の好機と捉えるケースもあれば、自国と隣国政府による新たな形の簒奪の陰謀であると判断するかもしれない。だがどちらにしてもあながち間違いではないだろう。これらの計画は、両国政府自身へのメリットという大所高所から見た判断があるがゆえのことであり、「辺境の地を経済的に潤すために隣国と鉄道を接続」などということがあるはずもない。しかしながらこのようなリンクが出来上がることにより、これまで後背地にあった土地が外界と物流・人流の動脈と繋がることにより、経済的に利するところは非常に大きい。

    これまでインド・ミャンマー国境では、表立って活発な人やモノの出入りはなかったがゆえに、それぞれがインド世界の東の果てとなり、ミャンマー世界の西の果てとなり、それぞれが「行き止まり」として機能していたがゆえに、その手前の地域は中央から見た「辺境」ということになっていた。

    だが、鉄道がこの地域を通じて両国をリンクすることになれば、南アジア地域と東南アジア地域の間でモノやヒトの行き来が活発になり、やがて大量輸送目的の道路建設にも繋がることだろう。このあたりの地域は、主に「通過するだけ」というケースも少なくないかもしれないが、それでもこれまでほとんど表立って存在しなかった商圏が出現することにより、ミャンマー西部やインド北東部のマイナーな地域が複数の「取引の中心」として勃興するということは当然の流れである。

    天然資源に恵まれたアッサムを除き、これといった産業もなく、観光振興に注力しようにも、反政府活動による政情・治安面での懸念、観光資源の乏しさ、アクセスの悪さなどが災いして、中央政府がたとえ北東地域の経済的自立を望んでも、なかなか実現できないジレンマがあった。

    ここにきて、ミャンマーブームは、隣国インドにとっても「自国の北東地域の振興と安定」という恩恵を与えることになりそうだ。 同様に、長年国内各地で内戦が続いてきたミャンマーにとっても、同国西部について同様の効果が期待できるものとなるだろう。

    これは、ミャンマーとの間だけに限った話ではない。インドのトリプラー州都アガルタラーから国境を越えた先のバーングラーデーシュの町アカウラーまでを繋ぐ予定がある。その距離は、わずか15kmに過ぎないが印パ分離以来、互いに分断されてしまっていた経済圏が鉄道を通じて限定的に再統合される可能性を秘めている。加えて、インドのトリプラー州南部のサブルームからバーングラーデーシュ随一の港湾都市チッタゴンを結ぶ計画もあり、インドとバーングラーデーシュが経済的により密な関係になることが大いに期待される。ミャンマーブームほどの規模ではないが、インドの東部地域の特定業界限定で、将来性を買っての「トリプラー州ブーム」が起きるのではないかとさえ思う。

    北東インドの振興と安定については、国境の先へと結ぶ鉄道敷設がカギを握っているといっても過言ではない。同時に、これまで辺境として位置しており、独自の伝統・文化を維持してきた地域が、それぞれ「インド化」「ビルマ化」されていくプロセスでもある。銃による侵略に対してはよく耐えて抵抗してきた民族や地域は枚挙にいとまがないが、札束と物欲の魅力に屈することのなかった人々の例についてはあまり聞いたことがない。

    加えて将来、インド北東部とミャンマー北西部を通じて、南アジアと東南アジアが経済的に緩やかに統合されていくことによる、文化的・社会的影響を受けるのは、その「緩衝地帯」でもあるこの境界地域である。これまでのような中央政府と地元民族の対立という図式だけでなく、相反する利害を共有する「国境のこちら側と向こう側」という図式も加わることになる。

    今後の進展に注目していきたい。

  • アンゴラでイスラーム教が禁止に

    インディア・トゥデイのウェブサイトで、こんな記事を見かけた。アフリカ南西部に位置するアンゴラが、世界初の「イスラーム禁止国」となったとのこと。

    Angola ‘bans’ Islam, Muslims, becomes first country to do so (India Today)

    特定の信仰を禁止するということは、基本的人権にもかかわる由々しき事態ではあるが、アンゴラという国のことについては、今世紀初頭まで30年近く内戦が続いていた国であること、住民の大半がクリスチャンということ以外にはよく知らず、同国内での政治動向等に関する知識は持ち合わせていないのでなんとも言えない。

    しかしながら、おそらくこれまでずっとイスラームとの関係が薄かった国で、近年急激に広まってきたイスラームの信仰や文化との摩擦が生じていたり、同国の政治にとって好ましくない政治的勢力が浸透しつつしていたりするということが恐らく背景にあり、危機感を抱いた政府が、これらの締め出しを図るようになった、という具合なのではないかと想像している。そうでもなければわざわざ政治が信仰に介入することはないだろう。

    それにしても「イスラームの禁止」ということでこうした形で報じられることにより、当然「イスラームの敵」というレッテルを貼られることは必至であり、イスラーム世界とは縁薄い地域であるように思えるが、それでもこれを信仰に対する宣戦布告と受け止めて、同国内に存在する数は少ない信者たち、あるいは国外からの勢力から過激な行動に出る人たちもあるかもしれない。

    とりわけラディカルな聖戦思想を掲げる組織にとっては、信仰を禁じて礼拝施設の取り壊しに出ている同国の政府に対する攻撃は、信仰の敵に対する戦いとして目的が非常に明確だ。志を同じくする仲間たちに連帯を訴える格好のターゲットとして、純真な若者たちをリクルートするための舞台装置としてアピールできることだろう。

    非常に長い期間続いた内戦の後、ようやく平和を享受しているアンゴラにとって、何か新たな大きな危機の始まりであるように思えるが、これが杞憂であることを願いたい。

  • 観光は平和と安定の呼び水

    観光は平和と安定の呼び水

    中華人民共和国国家旅游局のインドにおける出先機関である中国駐新徳里旅游辦事処(China Tourism)をニューデリーのチャナキャプリに構えている。

    インドにおける対中不信感は根強く、しかもそれを風化させないようにと中国側が努めているかのように、ときおりインド領内への中国軍の侵入があったり、その他両国間の領土問題に関する挑発的な発言や行為があったりする。

    そんなこともあってか、中国の公の機関としての活動は控えめなのかもしれない。だが、やはり90年代以降、インドでとどまることなく高まり続ける旅行に対する意欲は、インドから多くの旅行者たちを国内各地はもちろん、国外にも送り出してきている。

    こうした分野で集客を現場で牽引しているのは、インドにあっても中国にあっても民間の力である。インドからの年間に1,400万人ほどの出国者たちの中から、中国を訪問している人たちの規模はすでに60万人を突破している。これに対して、出国者の規模は8,000万人を超えている中国からインドを訪れる人たちは10万人強ということだ。

    これらの数字には観光と業務を区別していないため、このうちどのくらいの人たちが観光目的なのかは判然としない。だが、かつてない規模で人々の行き来がある中、観光先でたまたま出会ったのがきっかけで知己となったり、仕事で協力関係にあったりなどといった具合に個人的な付き合いも増えていることだろう。中国からみたインドという国のイメージはもちろんのこと、インドにおける中国の印象も、個々のレベルではかなり異なったものとなっていくはずだ。

    国家という往々にして傲慢かつ身勝手な組織が、自分たちの側と相手側との間に不信感や緊張感があるからといって、それぞれの国に所属する市民たちが自らの国家に迎合して相手側を適視する必要などない。高い文化や資質を持つ両国の人たちが、平和に共存することは、互いの安全保障上でこのうえなく大切なことであるとともに、その「平和」と「安定」の恩恵は東アジアのさらに東端にある私たちにも与えられることは言うまでもない。

    「観光」の多くは物見遊山に終始することだろう。それでも体験と記憶はそれを経験した人の心の中に長く残るとともに、訪問地への「また訪れてみたいな」憧憬というポジティヴなイメージを形成する。また、観光がきっかけでその国に留学したり、仕事絡みで関わってみたりという形で、その土地への関与を深めていく人たちも少なくない。

    観光とは、単に産業としてのみならず、安定と平和の呼び水という側面にも注目すべきであると私は考えている。