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カテゴリー: politics

  • 日本への短期滞在の数次査証

    日本とインドの間では査証の相互免除協定がないため、両国の国民が相手国を訪問する際には事前に査証を取得することが必要となる。

    相互免除の取決めがない場合においても、例えばタイにおいては日本国籍を持つ人物が空路入国の場合は30日間以内、中国の場合は15日以内の場合は査証無しでの滞在を認めるという措置がなされていることも少なくない。

    そうした措置がなされているのは日本国籍に限ったことではないが、相手国からの訪問者が自国で超過滞在、不法就労、法秩序等に係る問題を生じさせる事例が少なく、事前に在外公館の査証発行に関わる事務手続き等の負担を軽減させることや観光促進等の目的などでこのようなことがなされることが多い。

    また、いかなる滞在期間、目的であっても査証の取得は必須ということになっていても、カンボジアのように、観光目的であれば入国時に滞在可能期間30日の査証が取得できるような国もある。入国前の事前審査という部分が形骸化しており、事実上の入国税的なものとなっていると捉えることもできるかと思う。

    インドにおいても、Tourist Visa on Arrivalという制度により、カンボジア、フィンランド、インドネシア、日本、ラオス、ルクセンブルク、ミャンマー、ニュージーランド、フィリピン、韓国、シンガポール、ベトナム国籍の人々が観光目的で訪印する場合について、バンガロール、チェンナイ、デリー、ハイデラーバード、コーチン、コールカーター、ムンバイー、トリバンドラムの空港から入国する場合においては、その場で30日以内の滞在が可能となる査証が発行されることになっており、私たち日本人にとっては、インドを旅行するにあたり査証取得についてのひとつの選択肢となっている。

    さて、日本においては査証相互免除協定を結んでいる相手国以外において、本来は観光目的というわけではないが、国によっては数次有効の短期滞在査証の制度の対象としている。

    数次有効の短期滞在ビザ(外務省)

    今年の7月からは、この制度がインド国籍の人々にも適用されることとなった。観光目的での取得も可能としていること、インド国籍の人が第三国でも申請可能としている点(申請人が居住している国以外では申請不可)において、他国籍の人々に対するものよりも多少弾力的に運用されるものであるように思われる。査証の有効期限は1年間または3年間、滞在期限は1回あたり15日以内である。

    ンド国民に対する短期滞在数次ビザの発給開始について (在インド日本国大使館)

    インド国民に対する数次有効の短期滞在ビザ申請手続きの概要 (外務省外国人課)

    日印間での人々の往来が以前よりも活発になってきている昨今、日本でITその他の分野で働くインドの人々自身以外にも、その親、配偶者、子供といった関係にある人々による日本への短期訪問も相当増えているうえに、日本に居住する親族訪問以外ではなく観光目的でやってくるケースも決して珍しいものではなくなってきている。

    同様に、インドでも日本人に対して有効期限5年間くらいで、1回の滞在可能期間が30日以内・・・といった具合の数次査証を発行してくれるようになるといいのだが、などと虫の良いことを夢想してみたりしてしまう。

  • ターラープルの原発を取り上げた映画「ハイ・パワー」

    2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の深刻な事故が発生した後、しばらくの間は日本国内で盛り上がった反原発運動だが、このところずいぶん「鎮静化」してしまったのが気にかかる。

    まさに「喉元過ぎれば・・・」ということわざどおりなのかもしれないが、当の原発事故はいまだ終息したわけではなく、現在も進行中であること、この事故による被災者の方々はいまなお避難生活を送ることを余儀なくされていること、汚染が危険なレベルであるにもかかわらず、効果のよくわからない「除染」で誤魔化してしまおうとしている行政等々、さまざまなトラブル等がすべて未解決である現状を思うまでもなく、日本人である私たちが直視して考えていかなければならない問題だ。

    インドのマハーラーシュトラ州のターラープルといえば、原子力発電所があることで知られているが、この原発が地元に与え続けてきた負の面を告発した映画である。あらすじについてはこちらをご参照願いたい。

    すでに日本国内のいくつかの場所ですでに確定した上映スケジュールが告知されているが、興味深いのは映画の内容だけではない。上映と監督ともに「招聘」することができるという部分も特筆すべきところだ。

    原発については、その存在の是非だけではなく、これによって支えられる産業のありかた、成り立つ社会のありかた、ひいてはインド、日本その他の国による区別もない、地球上の私たちの暮らしのありかたを含めて、みんなが真面目に考えていかなくてはならない問題である。

    ※映画紹介のウェブサイトには「タラプール」とありますが、正しくは「ターラープル」であるため、本記事における記載は「ターラープル」としました。

  • ひと続きの土地、ふたつの国

    今年もまたラダック地方に中国軍による侵入の試みがあった。

    Chinese troops try to enter Indian waters in Ladakh (The Indian Express)

    ほぼ時を同じくして、中国でラダックの一部とアルナーチャル・プラデーシュ州全域を自国領として描いた地図を出版している。

    Leh residents object to China’s claim over Ladakh in new map (india.com)

    繰り返しこのような行為を繰り返すことにより、これらの地域がインドに帰属するものではなく、中国の一部であると内外に主張することにより、これらの地域が係争地であることを風化させることなく、機が熟して何らかの大きな行動を起こした場合にそれを正当化させるための企みであることは明白だ。

    このような動きがある限り、J&K州に広く展開する軍備を削減することはできず、財政的に大きな負担を抱える現状は変わることはない。観光以外にこれといった産業のないこの地域において、駐屯する軍に依存する構造も変わることはないだろう。

    また、この地域が事実上、地の果ての辺境であるということも変化することはない。もし中国とインドとの間で領土問題が存在せず、国境の両側が経済的に相互依存する関係にあったらならば、地元の人々に対して大いに利することになるはずなのだが。

    両国の間に設けられた国境という壁は、ふたつの世界を分断し、相互不信の関係をさらに醸成させていくことになる。北京とデリーという、どちらもこの国境地帯から遠く離れた政治の中心の意思が、地元に住む人々の間でひと続きの土地に引かれた国境の向こうにいる人々に対する敵意を焚き付けて反目させる。

    不条理ではあるが、これが現実。さりとてこれが現実とはいえ、はなはだしく不条理なことである。

  • ETIM パーキスターンと中国

    ETIM パーキスターンと中国

    このところ中国ではイスラーム主義者によるものであるとされるテロが相次いでいる。中国の新疆ウイグル自治区の分離独立を訴える集団による犯行であるとされるが、中国に対するジハードを唱え、中国から民族自決を要求する運動から、中国をイスラーム教徒の敵であると主張するものに変質してきている。

    この組織、ETIM(East Turkestan Islamic Movement)は現在パーキスターンのFATA (Federally Administered Tribal Areas ※連邦直轄部族地域)に活動拠点を置いており、中国の手が及ばないところで軍事訓練、武器や資金の供与などを受けているとされる。

    この地域はインドが英領であった時代に遡る歴史的な経緯から、パーキスターン領内でありながらも、同国の立法権限が及ぶのは「国道上のみ」という形になっている。同国政府による行政ではなく、ここに暮らす部族による統治がなされる特殊なエリアである。中央政府の権限が及ばない「無法地帯」であることに加えて、部族民たちの尚武の気風もあり、同じイスラーム教徒の反政府組織やテロ組織等に対しては格好の潜伏場所を提供しているとも言える。

    常々、「テロ組織を隠匿している」と名指しでインドから非難されてきたパーキスターンだが、これまで地域の最大の友邦として同国を厚遇してきた中国にとって、自国でテロを展開するETIMの活動がエスカレートしていくにつれて、この集団が潜伏しているパーキスターンに対して、強い態度に出る日も遠くはないものと思われる。パーキスターンの港湾や道路等々のインフラ整備に手を尽くすほかに、地域最大の友好国として厚遇を与えてきた中国も、そろそろ考えを改める必要性を検討しているかもしれない。

    もちろん中国だけではなく、同地域に潜り込んでいるテロ組織に対する強い懸念を抱く国は少なくないため、パーキスターンに対する外圧は相当なものであるため、ときおりこの地域への軍事作戦がなされている。

    ETIM operatives among 50 killed in Pakistan airstrikes (INTER AKSYON)

    しかしながら、このような行動は根本的な解決からほど遠いことは誰の目にも明らかであり、パーキスターン政府にとっての「一応、出来ることはやっている」というアリバイ作りに過ぎない。各国が望みたいのは、このような無法地帯の存在を許す現在のシステムの変更であるが、パーキスターンにとってはそのような「暴挙」は自国北西部の安定と秩序を破壊するものであり、隣国アフガニスタンにもまたがって暮らす部族民たちとの信頼関係を根底から崩すことにより、内戦に突入する危険をも覚悟しなくてはならない一大事となる。

    最も大きな問題は、当のパーキスターンが自国領内のFATA地域のこうした問題を解決する能力も意思も持たないことだ。FATAのありかたは、今まで以上に地域の安定と秩序に及ぼす影響は非常に大きなものとなる可能性があり、今後目を離すわけにはいかない。

    標的にされる中国 「全イスラム教徒の敵」(asahi.com)

    ジハード呼びかける動画、狙いはウイグル族 (THE WALL STREET JOURNAL)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 1 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 2 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 3 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 4(CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 5 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 6 (CCTV)

  • ミャンマー初の世界遺産登録

    このほどユネスコの世界遺産として、ミャンマー中部のエーヤーワディ河流域の「ピュー古代都市群」が登録されることとなった。同国の経済関係以外の文化面における国際社会への復帰を象徴するかのような出来事といえるだろう。

    ビルマ族最初の王朝であるバガン王朝以前に、ミャンマーの先住民族であるピュー族が建設した古代都市遺跡で、みっつの都市の遺構に宮殿、要塞、埋葬所、産業地域、仏塔、灌漑施設等が残っている。

    他にも文化的遺産が豊富な同国で、ちょっと専門的な知識がなければ見物してもよく判らないような遺跡がなぜ一番最初に登録されることになったのか不思議に思う向きもあるかもしれないが、敢えてビルマ族による文化遺産ではなく、先住民族が創り上げた都市国家遺跡を登録することによlり、従前はビルマ族の民族主義をゴリ押ししつつ、国内に暮らすその他の民族のナシュナリズムの高揚を圧殺してきた同国政府が、国内外に自国における多民族・多文化の共存をアピールする政治的な意味があるのではないだろうか。しかもピュー族自体はすでに消滅してしまっているがゆえに、現在ミャンマーに暮らしている少数民族たちのナショナリズムを刺激することもないため、政府にとって「安心」でもある。

    世界三大仏教遺跡に数えられるバガンの遺跡群については1996年に当時の軍事政権が申請を提出したものの、保全計画の不備を理由(ならびに軍事政権に対する圧力?)により、却下されてしまった経緯がある。今後はバガンの世界遺産登録に向けての最申請の準備が進められているようである。観光業振興にも大いに役立つ看板にもなるため、他にもこの国から世界遺産登録申請はいくつか続くことと思われる。

    Myanmar’s first site inscribed to World Heritage List (UNESCO)

  • イラクのインド人

    サッダーム・フセインがイラクの大統領であったころで、イラク軍がクウェートに侵攻した、いわゆる「湾岸危機」が発生する前、つまりずいぶん昔のことになるが、イラクを訪れたことがある。

    ヨルダンのアンマンからイラクのバグダードまで直行するバスがあり、これを利用したのだが、友好関係にあった両国とはいえ、かたや預言者ムハンマドの血筋に当たるロイヤルファミリーのハーシム家を擁する前者と、自国の王家を倒して政権を奪取した汎アラブ主義を標榜するバアス党のイラクとでは、表向きの友好的な姿勢とは裏腹に、非常に根深い不信感が渦巻いていたであろうことは、ヨルダン側のチェックポストからイラク側のチェックポストまでの間に、約50kmに及ぶ異常なまでに広大な緩衝地帯があったことから容易に想像がつくようでもあった。

    ヨルダンからイラクに入ると、それまであちこちに見られた温和そうな紳士といった風情の当時のフセイン国王の肖像画から野心的な風貌のサッダーム・フセイン大統領の肖像画に変わることで、「イラクに来た」という感じがしたものの、景色にはさほど大きな違いはないように見受けられた。それでも非産油国である前者と石油による莫大な収入がある後者とでは、道路の整備具合はもちろんのこと、市街地に入ると家屋の規模が大きく、商業地域ではビルの規模も大きく、電動のエスカレーター付きの歩道橋などもあったりすることに、国力の差を感じたりもした。

    ヨルダンでも酒を飲むことができる場所は多かったが、イラクではその酒類が非常に安価で、首都バグダード市内にいくつもある繁華街では、当時バックパッカーであった私が懐の心配をすることなく、旅先で出会った他の旅行者たちと、そうした店で気持ち良く酔うことができた。

    もともとイラクは宗教色が薄く、世俗的な国であった。社会主義的な政策を進めるイラクのバアス党を率いていたサッダーム・フセインも公式の場に出るときや街中に掲げられたポスターなどではたいていスーツ姿であったことは、アラビアの伝統的な衣装をまとった湾岸諸国の王族たちの姿とは対照的だった。バアス党の治世下にあっては、宗教や民族をベースにした分離主義的な活動は厳しく弾圧されるとともに、イスラーム原理主義者やそうした中に含まれる過激派にも活動の場はなかった。

    そんな具合であったので、サッダーム・フセインがアラビアの民族衣装で現れたり、国旗にアラビア語で「アッラー・アクバル」という文字が入ったりしたのは、1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻したことに始まる湾岸危機をきっかけに始まった湾岸戦争以降のことだ。

    それはともかく、現在のイラクのように市民生活に対して宗教が強い干渉力を持つ社会ではなかったため、洋装の女性が普通に行き来しており、社会進出も特に盛んであったようだ。また男性社会では飲酒もポピュラーであったようで、先述のとおり酒が安価にふんだんに供給されており、繁華街では酔っ払いたちが路上で寝込んでいたりするのは、夏の時期の週末の東京と同じであった。

    当時、イラクに入国した外国人は指定された病院にて、一定期間のうちに血液検査を受けなければならないことになっていた。エイズの蔓延に警鐘が鳴らされ始めた時期であったため、インドでも半年以上の査証で入国する外国人たちについては、そのような措置があったことを記憶している。おそらく他にもそのような国は多くあったことだろう。

    イラク政府による指定病院のひとつ、名前は忘れたがバグダード市内の大きくて近代的な医療施設を訪れて血液検査を受けたのだが、対応した看護婦も医師もインド人であった。彼らの話によると、技師として働いているインド人も相当数あるとのことだった。

    その後、湾岸戦争開戦となるにあたり、イラク政府は在住外国人たちを重要施設に連行・監禁するなどして、「人間の盾」として扱うことになったのだが、その時期のインドのメディアはこうした形で出国・帰国できなくなったインド人たちのことを伝える記事を流していた。

    湾岸戦争後、経済制裁下の停滞を経てイラク戦争により、サッダーム・フセイン政権の崩壊を経た後のイラクは各国による利権の分捕りあいと新たな経済秩序の形成の場になったわけだが、再び途上国からの出稼ぎの人たちに稼ぎの場を供給する場所にもなっている。治安機構の崩壊した戦後のイラクでインド人、ネパール人等のトラック運転手が街道上で誘拐されたり、殺害されたりというニュースをしばしば見るようになった。

    それからもう何年も経過したが、現在も内戦に近い状態が続き、スンニー派の武装過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の実効支配地域の拡大が伝えられている中、インド人労働者たちに対する大規模な誘拐事件が発生して、世間の耳目を集めるようになっている。

    政治的にも経済的にも、まぎれもない大国となっているインドだが、こうして外国での就労に活路を求めなくてはならない人々が多いことは今も変わらない。しかしながら、こうしたマンパワーの宝庫であるということも、インドの強みのひとつでもある。

    One of the 40 Indians kidnapped in Iraq escapes, 16 others moved out (THE TIMES OF INDIA)

    40 Indian Construction Workers Kidnapped in Iraq (abc NEWS)

     

  • スィットウェへ3

    スィットウェへ3

    この町で少々気になったことがある。ヤカイン州といえばロヒンギャー問題で海外にもよく知られているところだ。ロヒンギャーとは、ベンガル系のチッタゴン方言に近い言葉を母語とするムスリム集団のことだが、すでにこの国に数世代に渡って生活しているにもかかわらず、「ベンガル人の不法移民」「外国人」とされており、この国で市民権を与えられていない宙に浮いた存在である。

    近年は、ムスリムに対する暴動が発生して、モスクやムスリムの家屋に対する破壊行為が起きたこと、多数の死傷者が出るとともに、避難民を数多く発生させたこともメディアで伝えられていたのを目にした人も多いだろう。

    ミャンマーの中ではとりわけイギリスによる植民地史の中で早い時期からインド系の移民の波にさらされた土地であること、港町として南アジアとの往来も盛んであったことから、インド系の人々の姿が非常に多いであろうことを予想していたのだが、意外にも港湾エリアを中心とする繁華街ではインド系の人々、ムスリムの人々の姿が非常に少ない。

    繁華街の目抜き通り(Main Rd.)には、ジャマーマスジッドという名で、立派なムガル風建築のモスクがあり、おそらくこのあたりには相当数のムスリムが住んでいたのではないかと思われるが、周囲のマーケットはそのような雰囲気ではない。モスクそのものも現在は使われていないようで、入口につながる小道にはバリケードがあり、武装した治安要員が警備に当たっており、足を踏み入れるまでもなく、その前に立ち止まるだけで追い払われてしまう。

    ヤンゴンから飛行機で到着した際の空港から市内への道筋にも、小ぶりながらも由緒ありそうな凝った建築のモスクがいくつかあったのだが、どれもそうした制服の男たちが入口を塞いでいた。


    市内中心部でも繁華街の目抜き通り(Main Rd.)から西に進んだエリアに行くと、ところどころでインド系の人々を目にした。そんな中に、いくつかのヒンドゥー寺院があった。おそらく最も大きなものが、マハーデーヴ・バーリーという、名前からしていかにもといったシヴァ寺院だ。

    入口の鉄扉を開けて中に入ると、若い男性が「何か用か?」といった不審そうな面持ちで出てきたが、インド系の人々のお寺に関心があること、ぜひ神殿で拝ませて頂きたいという来意を伝えると、快く迎えてくれた。


    お堂の中は簡素で、祭壇にはシヴァの絵と小さなリンガムが祀られているというシンプルなもの。だがその反対側の壁にはシヴァの連れ合いであるドゥルガーの立派な神像があり、本尊は実は後者なのではないかと思われるくらいにアンバランスである。ドゥルガーやカーリーへの信仰の厚いベンガル系の信者から寄進されたものではないかと思う。


    ミトゥン・チャクラボルティーという、ヒンディー語映画のベテラン俳優みたいな名前のこの男性はこのお寺のプージャーリー。快活な感じのする男性で、ヒンディー語もなかなか上手い。名前の示すとおりのベンガル系で、20代後半で昨年結婚したばかりだが、来月初めての子供が生まれる予定であるとのことで、境内には身重の奥さんもいたが、彼女はヒンディーを話すことはできないようであった。

    現在、母親とお嫁さんとの3人暮らしであるそうだ。父親は20年ほど前にカルカッタに行ったきり、消息を絶っているとのこと。「父が先代のプージャーリーで、私がこうして継ぐまでしばらく空いているんです。私が幼いときに仕事を求めてカルカッタに行ったのですが、それっきりどうしているのかも判りません。もちろん私たちはベンガル人ですが、父はカルカッタに何かツテがあったのかどうかは判りません。そんな具合であったので、母は大変苦労したようです。」

    特に身の上話を尋ねたわけではないのだが、いろいろと聞かせてくれるのはインド系の人らしいところかもしれない。しばらく世間話をした後、「少々お待ちいただけますか。」と言い残してどこかに姿を消した彼は、サフラン色のローブを纏って現れて、私のためにプージャーをしてくれた。

    彼の家族は曽祖父の代にベンガルから移民してきたというが、今でもベンガル語とヒンディー語は使えるということから、この地のインド系のコミュニティの絆はもちろんのこと、人口規模も決して小さなものではないことが窺える。


    そこからごく近いところに、ダシャー・プージャー・バーリーというヒンドゥー寺院もあり、ここもまたプージャーリーの男性に挨拶すると、非常に愛想よく迎え入れてくれた。こちらはカーリーとドゥルガーを祀った寺であり、プージャーリーはさきほどのマハーデーヴ・バーリーのプージャーリーと同じ苗字を持つベンガル系のブラフマンの50代男性だが、親戚ではないそうだが、年代が上であるだけに、さきほどの男性よりもヒンディーが流暢で、彼らのコミュニティに関する知識も豊かなようである。

    彼によると、この町に暮らすヒンドゥーの人々はおよそ3,000人程度。インド系という括りで言えば、ムスリムがマジョリティで彼らは少数派だそうだ。かつてはもっと多くのヒンドゥー(およびインド系ムスリム)が暮らしていたそうだが、1962年のネ・ウィン将軍によるクーデター以降、多くは国外に移住したとのことだ。

    近年においては、この地における反ムスリムの動きが、彼らヒンドゥーの立場をも悪くしているという。「このあたりでは、インド系といえばムスリムのほうが多いでしょう。ロヒンギャーの問題もあるし、私らヒンドゥーも同じように見られてしまう部分がある。とりわけムスリムに対する攻撃が始まってからは、私らも必要なとき以外はなるべく外に出ないようにしています。この地域に暮らすということはリスクと不便があまりに多い。」とのこと。あれほどインド本国では圧倒的な重みを持つインド文化も、この地にあってはその輝きほとんどなく、まるで隠れキリシタンのような趣さえある。

    「私の祖父がインドからやってきました。ここのヒンドゥーの間ではベンガル人が多いですが、U.P.やビハールからの移民もいれば、マールワーリーもいるし、グジャラーティーもいます。でも私らの間では正直なところ、先祖がやってきた地域の区別はあまりないんです。結局、同じヒンドゥーでしょう?」

    この界隈には、他にゴーランガー・マハー・プージャー・バーリー、ハリ・マンディル、ラーダー・クリシュナー・マンディルといったヒンドゥー寺院がある。

    翌日にはこの地域のインド系の人の結婚式があるので、ぜひ出席しないかと誘われた。ぜひともよろしくお願いしますと言いたいところであったが、タイトなスケジュールでのミャンマー訪問で、その日にはすでに移動する予定であったので、後ろ髪を引かれる思いながらも辞退せざるを得なかった。寺院を出て、しばらく進んだ先では着飾ったヒンドゥー女性たちが乗合自動車から降りてどこかに向かうところであったので、この婚礼と関連するものが行われていたのではないかと思う。

    寺の外でも、インド系の人々は総じてフレンドリーな印象を受けたが、この「インド系タウンシップ」を徘徊するのはなかなか面倒なことでもあった。というのは、辻のそこここに警察のバリケードがあり、POLICEと大書きした車両が行き交う中で、そうした地域に足を向けようとすると、往々にして「こちらに立ち入るな」と追い返されたり、職務質問を受けたりするからだ。

    中には非常にガードが堅い路地もあり、一体その先には何があるのかと興味をそそられるものの、路地の反対側から進入することを目指しても、迂回路を探してみても入ることができなかったりする。

    ときに多少の英語ができる警官もおり、「ロヒンギャーたちがいる地域であるから危険なので入らないこと。」とのこと。ロヒンギャーの人々が危険であるのかどうかはともかく、このように常に監視の対象になっているということ、それが州都であることを思えば、その他の地域では一体どんな扱いをされているのかと思う。

    こうした中で、ヒンドゥーたちが監視の対象になっているのか、保護の対象になっているのかわからないが、やはりインド系の人々全体がロヒンギャーと同義に扱われているかのような印象を受けるとともに、こうしたインド系が住むエリアそのものが警備の対象となっているようにも感じられた。

    英領期に、ここに移住してきたインド系の人々の多くは、当時のヒンドゥスターンの新天地として入植してきたはずだが、結局こうしたやってきた大地はいつの間にかヒンドゥスターンの一部ではなくなり、彼らの父祖の故地もひとつのインドからインドとバングラデシュに分かれてしまい、コミュニティとしては大きなものであったインド系の人々自体がいつの間にかマイノリティとなり、しかも監視の対象にさえなってしまったことになる。

    かつてイギリス領であったこと、隣接しているインド亜大陸からの移民が多いことから、しばしばインドの北東部にいるかのような気にさせられることもあるミャンマーの中でも、地理的に最もインド世界に近い場所にある地域だ。

    インドの北東部でモンゴロイド系の住民がマジョリティを占めるエリアを訪れると、「インドの中にあってインドでない」といった印象を受けるが、それでもインド共和国という政治システムの中の一地方であるがゆえに、インドという存在は至高のものであるとともに、圧倒的な存在感をもってその地に君臨している印象を受けるものだ。しかし、その法的・軍事的な強制力が及ぶ圏外であるここでは、インドという国が非常に遠く感じられるとともに、インド系の住民なり文化なりが非常に無力なものに感じられる。

    もしインドの北東部が本土から分離するようなことがあったりすると、まさにこのような感じになるのではないかと思ったりもする。


    〈完〉

     

  • 第23回東京ダジャン

    今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

    こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

    もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

    その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

    とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

    多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

    当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

     

    第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

     

     

  • 著名人の政界への転身

    有名なスポーツ選手やタレントが選挙に出馬することが多いのは、社会で知名度が高いため広告塔としての効果が期待できること、そしてもちろんのこと有名であるがゆえに、たとえ新顔であっても個人的な人気により、浮動票を集めて当選する可能性が高いからでもある。

    もちろん政治活動を続けてきて政界に通じている人物、経済活動や社会活動を通して高い見識を身に付けて来たような候補者と異なるため、素人扱いされることも少なくないが、社会の様々な層の人たちの意見を代弁する議会という場で、他と背景がまったく異なる人たちが加わるのは悪いことではない。

    さて、そうしたスポーツ選手やタレントが選挙で候補者として登場することが少なくないのはインドも同様で、今回のローク・サバー選挙においては、俳優のパレーシュ・ラーワル、射撃選手でオリンピック銀メダリストのラージャワルダン・スィン・ラートール、クリケット選手として活躍したモハンマド・カイフ等々が出馬しているが、西ベンガル州だけを見てもサッカーの元インド代表のエース・ストライカーであったバイチュン・ブーティヤーとベンガル語、ヒンディー語映画等で活躍した女優、ムーン・ムーン・セーンが、マムター・バナルジー率いるTMC(トリナムール・コングレス)から立候補する。

    ベンガル人であり、ミドナプル地区から出馬するムーン・ムーン・セーンはともかくとして、スィッキム州出身のブーティヤー族であるバイチュン・ブーティヤーがダージリン地区から出馬していることについては、いろいろな波紋を投げかけることになっている。

    西ベンガル州のダージリン地区は、同州内の他の地域とは地理的、文化的、人種的な要素が大きく異なる。インドが英領であった時代に当時のスィッキム王国(現在のスィッキム州)から割譲された地域ということもあり、ブーティヤー族の住民も多い。それがゆえにダージリン地区においては盤石とは言えないTMCの有力候補として擁立されたわけである。

    TMC candidate Baichung Bhutia campaigns in Darjeeling (The Indian EXPRESS)

    だが同地区は長年、西ベンガル州からの分離活動が盛んであった地域であり、ネパール系の住民たちの利益を代表するGJM(ゴールカー・ジャンムクティ・モールチャー)がその流れを牽引している。TMCは、ネパール系ではないものの、サッカー人気の高いこの地域において、近隣地域であり、居住地域が重なることから民族的にも馴染みの深いブーティヤー族出身のバイチュン・ブーティヤーに期待をかけているはずだ。しかしながら地元のTMC活動家たちは、バイチュンのGJMとの融和的な姿勢について不満を隠さないという具合で、党内部でもいろいろ摩擦が生じていることがうかがえる。すでにひと月近く前の記事ではあるものの、参考までにリンクを掲載しておく。

    Baichung Bhutia draws ire of local TMC leaders after seeking GJM support (The Indian EXPRESS)

     

     

  • 「英語圏」のメリット

    コールカーターで、ある若い日本人男性と出会った。

    インドの隣のバーングラーデーシュに4か月滞在して、グラーミーン・バンクでインターンをしていたのだという。これを終えて、数日間コールカーターに滞在してから大学に戻るとのこと。彼は、現在MBAを取得するためにマレーシアの大学に在学中である。

    マレーシアの留学生政策についてはよく知らないのだが、同級生の半分くらいが国外から留学しに来ている人たちだという。

    今や留学生誘致は、世界的に大きな産業となっていることはご存知のとおりだが、誘致する側としては英語で学ぶ環境は有利に働くことは間違いなく、留学する側にしてみても英語で学べるがゆえに、ハードルが著しく低くなるという利点があることは言うまでもない。

    同様のことが、ターゲットとなる層となる自国語が公用語として使われている地域が広い、フランスやスペインなどにも言える。これらに対して、国外に「日本語圏」というものを持たない日本においてはこの部分が大きく異なる。

    出生率が著しく高く、世帯ごとの可処分所得も潤沢な中東の湾岸地域にある産油諸国においては、急激な人口増加に対する危機感、そして石油依存の体質から脱却すべく、自前の人材育成に乗り出している国が多く、とりわけ欧米諸国はこうした地域からの留学生誘致に力を入れている。昨年、UAEのアブダビ首長国で開かれた教育フェアにおいては、日本も官民挙げて力を注いだようだが、来場者たちは日本留学関係のエリアはほぼ素通りであったことが一部のメディアで伝えられていた。

    投資環境が良好なUAEにおいては、Dubai International Academic Cityに各国の大学が進出して現地キャンパスを開いているが、それらの大学はほぼ英語圏に限られるといってよいだろう。やはりコトバの壁というものは大きいが、こういうところにもインドは堂々と進出することができるのは、やはりこの地域との歴史的な繋がりと、英語力の証といえるかもしれない。

    日本政府は中曽根内閣時代以来、留学生誘致に力を入れているものの、現状以上に質と規模を拡大していくのは容易ではなく、「留学生30万人計画」などというものは、音頭を取っている文部科学省自身も実現不可能であると思っているのではないかと思う。仮に本気であるとすれば、正気を疑いたくなる。

    もともと日本にやってくる留学生の大半は日本の周辺国であり、経済的な繋がりも深い国々ばかりであり、その他の「圏外」からやってくる例は非常に少ない。また、日本にやってくるにしては「珍しい国」からの留学生については、日本政府が国費学生として丸抱えで招聘している例が多いことについて留意が必要である。そうした国々からは「タダで学ぶことができる」というインセンティブがなければ、恐らく日本にまでやってくることはまずないからである。

    身の丈を越えた大きな数を求めるのではなく、質を高めるほうに転換したほうが良いのではないかと思うが、ひょっとすると、少子高齢化が進む中で、外国から高学歴な移民を受け入れて、労働人口の拡充に寄与しようという目的もあるのかもしれないが、実際のところは、学齢期の人々が漸減して、冬の時代を迎えている国内の大学の生き残りのための政策なのではないだろうか。

    こればかりはどうにもならないが、もし日本が「英語圏」であったならば、様々な国々からの留学生の招致は現状よりももっと容易であったに違いない。

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

  • インドのヴィザに関するルール変更近し

    ここ数年間の間、かなり厳しいほうに振れていたインドのヴィザに関する施策だが、今度は反対に緩和の方向に大きく舵を切るようである。

    India eases visa rules for 180 countries except Pakistan (Indian Express)

    この措置については、観光目的のものに限るであろうことは言うまでもないが、ヴィザそのものの有効期間についての言及はなされていない。

    インドにおける現行の「Visa on Arrival」」の措置にて、観光目的で訪印する11か国(日本・フィンランド・ルクセンブルグ・ニュージーランド・シンガポール・カンボジア・ベトナム・フィリピン・ラオス・ミャンマー・ インドネシア)の国籍を有する人たちについては、30日間の滞在が認められているが、対象となる国籍が単に180か国に増えるということなのかもしれない。

    他のメディアの記事をいくつか閲覧してみると、事前にネットでヴィザ申請したうえで、到着した空港でそれが与えられるというシステムであるがゆえに、おそらく空路でメジャーな空港での入国の場合のみ、利用可能ということになるように思われる。

    また、これまでの「Visa on Arrival」の制度においては、事前申請は不要であったため、日本国籍の入国者にとっては、「ひと手間増えてしまった」ということになるのかもしれない。

    それでも、空港における現行の「Visa on Arrival」のシステムは決して能率的なものではないので、対象国が大幅に増えることにより、合理的な運営がなされるものであるとするならば、喜ばしいことであるのではないかと思う。

    ただし、こうした措置を可能とする環境の整備には時間がかかるため、実際に施行されるまでには半年以上かかるようである。