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カテゴリー: nature

  • ココナツの水

    ココナツの水

    近年は、ココナツが採れる国でもこういうのがよく売られている。

    せっかく生のココナツをナタでヒョイヒョイとやって、ストロー差し込んでくれるのに、なんでわざわざこんなので?という気もするのだが、やはりキンキンに冷えていると、これがまた格別。まったくの別物となる。

    それだけに、180mlで40Rsという値段はけっこう割高とはいえ、よく売れている。

    しかしまあ、暑い季節には、買った1リットルの水を店頭でぐいぐい飲み干してしまったり、食堂に入れば注文した同じ1リットルを食事が終わる前には飲み干してしまったりもするので、200mlにも及ばない量ではとても渇きをいやすことはできないのだが。

    もちろん1Lサイズの大きなパッケージのものも売られている。思い切り冷えたこちらを「腹いっぱい」飲むのも満足感があって良い。

  • サヴィトリー・マーター寺院へ

    サヴィトリー・マーター寺院へ

    プシュカル郊外の丘の上にあるサヴィトリー・マーター寺院へ。今はロープウェイがあると聞き、利用するつもりだったが1時間以上待つとのことなので歩く。

    しかしこの暑さの中ではなかなかたいへんで、登るまでに1リットルの水を消費し、寺の横にある売店で半リットルのコーラを飲み干す。下りはまだ楽にしても単純化して言えば上りと下りで3リットル消費しそうな勢いだ。

    でも上からの眺めは素晴らしく、30年前の記憶よりもプシュカルが大きく広がっている。緑が多くなったように感じるのは雨季という季節柄だろう。

  • グルモハル

    グルモハル

    燃え上がるようなグルモハルの花の鮮烈な季節感が良い。南アジア的な強烈な夏のイメージだ。

  • ムンバイに着いてムルッドへ

    ムンバイに着いてムルッドへ

    ムンバイに着いた。空港で軽くパンを食べてコラバまでタクシーで急行。ここのインド門から出る船に乗りたかったのだが、途中ダラビーのあたりの渋滞がひどかった。

    マンガロールを早朝に出たものの、インド門のところの埠頭に到着してわかったのは、利用できる船は14:15発であること。

    うまく行けば昼前の船に乗ることができるかと思ったが、預け荷物が空港で出てくるまで1時間、市内移動の渋滞もあるので、なかなか期待どおりにはいかないものだ。

    1時間ほどで対岸のマンダワーに当着。ときどき「ロンドンに来ているような気分になる」ムンバイの対岸なので、「ケンブリッジみたいな街」を想像していたが、まったくそんなことはなく、ただのインドの田舎町であった。船のチケット代金に含まれているアリーバーグ行きのバスに乗る。アリーバーグはこの地域の交通のハブらしく、そこそこの規模はあるようだ。

    マンダワーで下船
    船代に込みのバスに乗車

    降ろされたところから少し歩くとバススタンドがあり、本日の目的地のムルッド行きのバスがちょうど出るところ。バスの案内所の女性に乗るべきバスを尋ねると、「あれがそう、あーもう出ちゃうから走ってー!」などと言う。そう言われれば、頑張るしかない。夕方だし、これを逃すとどのくらい先になるかわからないので間に合って良かった。

    アリーバーグでバスを乗り換えてムルッドに移動。ようやく本日の目的地まであと1時間くらい。南インドも良かったが、マハーラーシュトラの田舎の緑豊かな眺めも素敵だ。

    アリーバーグでバスを乗り換えてムルッドへと向かう。

    文字がおなじみのデーヴァナーガリーとなった。地元の言葉マラーティーは知らないけど、広告や新聞記事など目にするものは字面を追えば何について書かれてあるのかだいたい把握できるのがありがたい。ケーララやカルナータカでは、まったくわからない丸文字がヒソヒソ話をしているようで、なにか落ち着かないものがあった。

    ほぼ海岸沿いの道路を行くのだが、バスの車窓からの眺めは1980年代のインドのような気がした。道路幅はバス1台分プラスアルファ、舗装は凸凹であちこち崩れたり穴が空いたりしていてバスはゆっくりゆっくりとそれらを越えていく。

    丘陵地が続き、細くて凸凹した道路を、バスは唸りを上げながら苦しげに上っては、下りでホッとしたような感じで惰性で走り、ときに出現する角度のきついカーブをうまくやり過ごして進んでいく。

    このあたりで陽はアラビア海へと傾き、広々とした豊かな砂浜に立つ人々のシルエットが影絵のように見える。

    ムンバイや半島外の郊外地域を構成するナウィー・ムンバイから距離的には近いのに、こんな素朴な田舎が「ロンドンの対岸から近く」にあったことに驚くとともに、マハーラーシュトラ州のこのエリアはまだ訪れたことがなかったので、「案外良さそう」と嬉しく思っている次第。

    今日は、飛行機、空港タクシー、船、バスふたつと、たくさん乗り物に乗った。今日はもう見学する時間はないけれども、ゆっくりとビールを愉しもうと思う。

  • アジメールの「ケー・イー・エム」

    ラージャスターン州のアジメール駅前にある宿泊施設「KEM」と言えば、地元で知らない人はまずいないだろう。「ケー・イー・エムに行きたい」と口にすれば、「ホテルか病院か?」と聞き返されるはず。以下は2019年時点での記事。

    Ajmer KEM hotel to be restored (sawdust.online)

    1901年にエドワード7世が新たな英国国王とし戴冠し、すなわち当時のインド皇帝となったが、これを祝うために翌々年の1903年に「デリー・ダルバール」に出席するためボンベイに上陸し、鉄路で各地に立ち寄りながらデリーへの移動途中でアジメールに来訪することも決まっており、どちらもこれを記念して建てられたもの。ゆえに「K.E.M.(King Edward Memorial)」なのである。宿泊施設のほうの「KEM」は、後にホテルに転用された。

    「ダルバール」とは、ウルドゥー語から英語に取り入れられた語彙で、英領インドの英語辞書「HOBSON JOBSON」にも出てくる汎用度の高い語彙だが、「王宮」「謁見の間」などの意味がある。「デリー・ダルバール」は広大な土地に沢山の大きなテントをしつらえて開催され、内外から数多くの賓客が招待されたうえで、イギリス国王を皇帝として戴く「インド帝国」において、その皇帝自身にお披露目の舞台であった。

    「デリー・ダルバール」は3回開催されており、最初は1877年のヴィクトリア女王、続いて1903年のエドワード7世、最後が1911年のジョージ5世。そして1936年エドワード8世が英国国王を継いだ際には、インドでの情勢の変化により、ダルバールは延期や再検討を重ねて、結局開催されることはなかった。

    「デリー・ダルバール」が開催されていた場所は、北デリーで「CORONATION PARK」として整備された公園になっており、往時の遺物がいろいろ展示されているため、英領期のインドについて興味のある方は訪れてみると面白いかもしれない。

    Delhi’s Coronation Park a neglected site of India’s colonial past (Al Jazeera)

    話は逸れたが、冒頭の「KEM」については、1990年代後半に宿泊してみたことがあるのだが、荒れ果てた安宿になっていて、廊下では宿泊客たちが持ち込んだコンロで調理などをしているような状態だった。立派な歴史的背景がありながらも、あまりにひどい状態であることに唖然とするしかなかった。

    しかしながら、「KEM」で、先述の大改修は完了し、今はきれいなホテルとして生まれ変わっているらしいので、いつか再訪してみたいと思っている。

  • ラダックの願い

    ラダックの願い

    社会/環境活動家、教育者として有名なラダックのソーナム・ワンチュク氏。彼がモーディー首相が国民に語るプログラム「MANN KI BAAT」にかけて、ソーナム・ワンチュク氏自身がモーディー首相に語りかける「MANN KI BAAT FROM REMOTE LADAKH」を公開したのは今から3年前のこと。

    2019年10月に突然、ラダック地域を含むJ&K州がUT(Union Territory=連邦直轄地)化されるとともに、カシミール地域から分割された。ラダックにおいては長年の悲願であったカシミールとの分離は好評であったものの、その後の行方は大いに不透明なものがあった。州としての自治、その中でのラダック自治山岳開発評議会としての自治権で保護されてきたラダックのステイタスは、中央政府による直轄統治によりどのようになっていくのかはまったく示されていなかったためだ。

    この部分についての不安の声は分離当初からあったのだが、こうした思いを代弁する形で分離から3カ月後に発表したのが、前述のワンチュク氏による「MANN KI BAAT FROM REMOTE LADAKH」であった。

    モーディー首相への支持の表明、カシミールからの分離についての感謝の意を示すとともに、ラダック地域の人々はインド平地に出ると差別的な扱いを受けることが少なくないながら熱烈な愛国者であることなどを語るとともに、ラダックが部族地域であり保護されるべき対象地域であることを説いている。

    また環境的にも繊細な地域あること、文化的にも大きな岐路にあることを挙げた上で、ラダックの保護のために新たな法律の制定を求めているわけではなく、インド国憲法付則第6の対象地域にラダックも含めてくれるようにと求めているだけなのだと訴えている。そして「インド政府は私たちに翼を与えてくれた。私たちに飛翔する自由を与えて欲しい」と詩を引用してその想いを説くワンチュク氏。

    ラダックが現在置かれている状況について、「人々のインドへの愛情が失われる前に・・・」「(インドからの)分離要求が持ち上がる前に・・・」という思いは、果たしてモーディー首相に、そして中央政府にしっかりと届いているのか、それともこのまま黙殺してしまうつもりなのか、と気になっているところだ。

    「インド憲法付則第6」にいても少々説明しておこう。

    インド憲法における12の付則(Schedule)の中にある付則第6とは、以下のリンク先のある内容である。

    Sixth Schedule(BYJU’S EXAM PREP)

    この対象地域にラダックも含めてもらいたいというのが、ソーナム・ワンチュク氏を始めとするラダックのおおかたの人々の願いである。インドの他の地域と同じように人々の移住や投資が自由なものとなり、地域外から大勢の「インド人たち」が押し寄せてくるようになると、たちまち土地は彼らに買い上げられてしまい、長年ここで暮らしてきたラダック人たちがインド人の大海の中のマイノリティーになってしまう。また大規模な投資を背景に大きな産業が興ったり、資源開発など乗り出すことになってしまうと、自然環境も大きくバランスを崩し、これまで大切に育まれてきたラダックの大自然の上に成り立ってきたラダックの人々の生活も成り立たなくなってしまうであろうからだ。

    What’s driving the protests against the Centre in Ladakh? (Scroll.in)

  • 視線

    視線

    誰もいない遺跡の中で視線を感じると・・・。

    それはリスであった。イスラーム建築の柱に掘られたデザインの窪みからこちらをうかがうかわいい顔が覗いている。

  • 熱波のインド

    記事によると、デリーで観測史上の最高気温が45.6℃とのことだが、それとて一定の条件での計測なので、路上や空調のない車両の中などではこれよりも数度高かったり、50℃を超えていたこともあるはずだ。

    先日は49度を超過とのことで、従来の記録を4度ほど上回ったことになる。これも同様に実際街なかで働く人たち、路上で商う人たちは実質55℃のような過酷過ぎる環境で働いていたのだろう。

    今の東京のような快適な気候からはちょっと想像が及ばないし、お盆あたりの東京の状況とも比較にならない。いくらこの時期のインドは湿度が低く、日本のお盆は湿度が高いとはいえ、ベースになる気温がまったく違うので、比較にすらならない。

    たとえ湿度が低くても、体温を超えると相当消耗するし、さらには風呂の温度を超えると、とても耐えられるものではない。50℃という気温は死の世界とも言える。26℃と30℃がぜんぜん違い、30℃と34℃も相当異なるように、45℃と49℃もずいぶんな差だろう。

    地球温暖化で氷河が痩せ細ったり、海岸沿いの低地が海の下に沈むことなど、懸念されていることは多いが、インドあたりの緯度の内陸部の酷暑季では人々の生存が困難なものになりそうだ。

    India heatwave: Delhi records highest ever temperature at 49C (The Telegraph)

  • エジプトはナイルの賜物。新首都はカイロとスエズの中間点。

    かつてどこの国でも大きな交易都市=大都会は水際に造られ、「都心」はその水際、そこから弧を描くように郊外へ広がるものであった。水運・そして生活用水の確保こそが都市の生命線であったがゆえのこと。これはインドに限らず世界中で同じだ。

    デリー、アーグラー、ラーホール、アーメダーバード、バトナー等々、いずれもこうした形で築かれた街であるし、かつては湖であった時代もあったとされる盆地内にあるカトマンズもこうした利に恵まれている。あるいは水運ではなく陸運のみで他の地域と繋がるジャイプルやボーパールにしても、大きな湖等による水資源あってこその市街地造営であった。

    とりわけ大航海時代を経て欧州列強がアジア等に築いた植民地の都市は、まず例外なく河港あるいは海港に面しており、その港に近い部分に港湾関連施設とともに行政に係る大きな建物が集まる官庁街を形成した。ムンバイしかり、コールカーター、チェンナイ、ヤンゴン、コロンボ等々、どの街も同様だ。

    そんな状況に変化を生んだのは鉄道、道路などの交通ネットワーク、遠隔地へも水資源を分配する水道の他、電気・ガス等のエネルギーの普及、通信網の整備等を含めた今に通じる基礎的なインフラの普及。これによって本来は水際にしか拡張しえなかった市街地がより周辺へと広がり、水が手に入らず利用できなかった土地でも人が住んで商工活動を行うことができるようになった。

    そんなわけで、ミャンマーのネーピードー、エジプトの新首都(名前は未定か?)などのように、かつては街を築くことすら無理だった場所に、よりによって巨大な首都を造るということが可能になったわけだ。

    そうは行っても平穏無事で成長が続く時代だけとは限らないので、立地・環境面からハードルの高い場所への首都移転というのはいかがなものなのだろうか。もちろんそういう場所が選択された背景には、解決しなくてはならない入り組んだ利権がなく、開発の青写真を描きやすいという前提があってのことなのだろう。今回はインドに係る話ではないのが恐縮ではあるのだが。

    エジプトの新首都建設、莫大な費用をまかなう「砂漠の錬金術」(asahi.com)

  • ブラック・ファンガス

    このところインドのテレビニュースを含めた各種メディアで新型コロナ感染の患者が回復期に「ブラック・ファンガス」に冒されるという事例が多く報じられている。「真菌感染症」のことだが、致死率は50%で、眼球や顎の骨を切除しなくてはならなくなったりする場合もあったりするというから恐ろしい。

    「ブラック・ファンガス」といえば、私たちは食材のキクラゲを思い浮かべてしまうが、同じ「菌類」でも、それとこの病気の原因となるものとはまったく異なる。新型コロナの症状が重くなった患者には、炎症を抑えるためにステロイド系の薬が投与されるが、この副作用として免疫力が低下すると、生活環境に普遍的に存在する真菌類がと取り付いて起きる真菌感染症「ムコール症」。新型コロナに感染さえしなければ、こうした薬を投与されることはなかったため、この病気に関連して起きたものだと言える。

    インドの国営放送「ドゥールダルシャン」のニュース番組では、この「ブラック・ファンガス」について、『患部が黒くなる場合が多いので「ブラックファンガス」と呼ばれるが、必ずしも黒くなるとは限らない。気が付くのが遅れないよう注意する必要がある。』と報じていた。

    州によっては、この「ブラック・ファンガス」について、エピデミックを宣言しているところもあるが、コロナそのものと異なり、「ブラックファンガス」自体は人から人へ感染する類のものではない。身の回りのどこにでもある真菌類が原因のとても稀な症状で、前述のようにステロイドの大量投与で免疫力が極端に低下するという特殊環境で起きるものであるからだ。

    インド、新型ウイルス患者の間で真菌感染症が急増(BBC NEWS)

     

  • ENGAGED

    ENGAGED

    こちらはトイレ のドアの表示。「occupied」とあるよりも、少し厳粛な感じがする。中の人が真剣に取り組んでいるような印象を受けるではないか。

    少なくとも便座に腰掛けてスマホでもいじっているような、待たされている側にとっては腹の立つイメージは浮かばない。

    電話にしても、そうだ。話中で「busy」と考えると、無駄話のせいで繋がらないような気もするが、「engaged 」であれば、何か真面目な会話が進行中であるようなシーンが目に浮かんでこなくもない。

    なぜこのように違ってくるのかといえば、occupied、busyは、いずれも単一の人物Aさんの行動を反映したものであるのに対して、engagedであれば、Aさんの意思にかかわらず、自然現象や第三者との関係により、その状態にあることを余儀なくされているというイメージをも想起され、「それならば仕方ない」というムードを醸成するのだ。

    仕方ないは仕方ないのだが、トイレを待つというのは、まさに一日千秋の想いである。実に切ない・・・。

    ※内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 迫りくる暗雲

    迫りくる暗雲

    古都カトマンズの夕方。遠くから雨雲の下で降っている雨が近付いてくるのがわかるのは、視界に「高層ビル」と呼ぶべき規模のビルがないからだ。

    いよいよ雨が近づいてきた。

    屋上のカフェでくつろいでいるところだが、そろそろ室内に退避したほうが良さそうだ。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです