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  • ナガランド州モコクチュンのクリスマス 1

    ナガランド州モコクチュンのクリスマス 1

    昨年のクリスマスはナガランド州のモコクチュンで過ごした。

    90%以上の人々がクリスチャンであり、またその中の大半がバプティストという紛れもないキリスト教環境にある中、欧州とは異なる場所にありながらも、本格的なクリスマスを体験できる場所であることを期待した。

    ナガランド州最大の街ディマープル発のモコクチュン行きのバスが、アッサム州のジョールハート近郊のマリャーニーを通る(このルートはナガランドの道路事情が良くないためアッサム州を経由して走行している)するはずなのだが、クリスマス直前のため、減便して運行がなされているとのことで、待てどもバスは来なかった。

    そんなわけで、同様にバス待ちをしていた人たちとタクシーをシェアしてモコクチュンを目指さざるを得なかった。シェアする人たちはナガランド人ではなく、アッサムを含めた平地のインド人たちで、ナガランドで軍の基地の出入りの業者その他、ナガランドで何がしかの仕事をしている人たちであった。

    ナガランド州は、インドにありながらもイギリス領時代からこれまで長きに渡り、他州の人たちの出入りを原則禁じてきた地域である。パーミットを得てのみ入域が可能で、中央政府関係の仕事、軍関係の任務に携わる人たちに加えて、道路建設や建物の建築作業その他の作業に関わる人たちがやってくるとともに、数は決して多くない観光客が訪問する程度であった。

    長く続いてきた地元の反政府勢力と政府軍との内戦、同時に同じナガ族の反政府組織やその他周辺民族の武装組織同士の武力抗争等もあり、治安面での印象は決してよくなかったため、それほど多くの人たちがナガランド州を目指してきたわけではない。2011年の元旦から、外国人はナガランド州ならびにミゾラム州とマニプル州への入域が原則自由化され、それに少々遅れてインド人もパーミット無しで入ることができるようになったようである。

    現在もナガランド、ミゾラム、マニプルの三州で反政府武装組織は存続しているのだが、政府側との停戦が功を奏して、治安面での改善が見られるようになったことが、内外の観光客によるこの地域への訪問の自由化に繋がったわけである。

    まだ先行きの不安は否定できないものの、2011年に「とりあえずは1年限り」として自由化されたものが、すっかり定着しているところを見ると、今後大きなトラブルが生じない限りは、今後もこのままで推移するものと思われる。

    入域の自由化の数年前から、インド中央政府が運営するインド政府観光局は、従前より自由に訪問できたアッサム州、メガーラヤ州と合わせて、北東諸州の観光についてキャンペーンを張ってきた。その背景には、石油をはじめとする地下資源に恵まれたアッサム州、石材と石炭を豊富に産出するメガーラヤ州を除けば、北東州でもとりわけアッサムの東側にある四州(ナガランド州、ミゾラム州、マニプル州、トリプラー州)については、開発が遅れており、これといった産業も資源もないだけに、財政的に中央政府が全面的に面倒をみるしかない状態から脱却すべく、唯一可能性がある観光面での発展に期待をかけているという現実がある。

    それはさておき、平地との往来が制限されてきた地域であるだけに、州境を越えただけでずいぶんな違いが感じられた。アッサム州らしい茶園が広がる風景の中、しばらく山間の坂道を上った先にはナガランド州境のチェックポストがあり、モンゴロイド系の風貌をしたナガランド警察のポリスたちがクルマの中を覗きこむ。

    そこからさらに進んだところにある集落では、平地から来たらしき人の姿はチラホラ見かけるものの、マジョリティは私たちと同じモンゴロイド系の人々となってしまう。あたりに点在するヒンドゥー教のお寺や祠はなく、十字架を掲げた教会の景色となる。州境を挟んでクルマで30分ほど走っただけで、カルカッタから成田の空港まで飛んだくらいの大きな違いがあるといっても過言ではない。

    アッサム州から入ると、しばらくは良好な道路であったものの、進むにつれて道幅がとても細くてガタガタした部分が増えてくる。標高がさほどではないことを覗けば、ヒマーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州と景色が似ている感じはするものの、路面状況はかなり劣るようだ。

    沿道で道路等の工事作業をしている人たちの大半は平地のインドの人たちだが、集落や村に暮らしている住民の大半はナガ族の人々。ミャンマーに住んでいる人たちとも似ている気はするものの、この地には仏法が及ぶことはなかった。仏教的あるいはヒンドゥー教的なバックグラウンドのないモンゴロイドの人々というのは私にはあまり馴染みがないが、インドとミャンマーという、どちらもインド起源の大宗教が広く深く伝播した地域の境目にありながらも、この地域が空白地帯であったことが不思議に感じられる。

    ナガランド州に入ってしばらく進んだあたりで昼食のために小休止した集落

    スズキのヴァンに運転手含めて8名が乗ると大変窮屈である。マリャーニーから80キロ程度の距離ながらも、くねくねと曲がった山道であること、路面状況もあまり良好ではないため、5時間ほどかかりモコクチュンの市街地が見えるところまでやってきた。

    山の斜面に広がるモコクチュンの町
    今やどこでもケータイで繋がる時代

    〈続く〉

  • デジカメから直接端末に画像や動画を転送 Eye-Fi

    デジカメから直接端末に画像や動画を転送 Eye-Fi

    Eye-Fi Mobiを購入してみた。

    通常のSDカード、SDHCカードに、スマートフォンやタブレットへの画像/動画転送機能が付いたメディアである。 カードとしての機能はClass 10の書き込み速度で、カメラへの転送速度は、まあ速くはないが、遅いと感じるほどでもなく、実用的なところだろう。

    Eye-Fiアプリをインストールしたスマホ/タブレット端末への転送作業自体は、端末のWI-FI機能を使うわけだが、モデム等を経由するわけではなく、Ey-Fi Mobiから発信される電波によってなされる。

    Eye-Fiのカードには、Eye-Fi Pro X2という製品もあり、こちらはEye-Fiのフル機能バージョンということになる。RAWデータの転送が可能で、しかもカメラからパソコンに直接転送したり、データをパーソナル・クラウドに保存したりということもできる。

    私はそれらの機能を必要としないので、撮っている最中から、撮影データをスマホ/タブレット端末にバックアップしておきたい、そこから必要に応じてネットにアップロードできたらいい、という目的に特化したEye-Fi Mobiを選択することにした。 両者の機能上の違いについてはこちらをご参照願いたい。

    撮影した端から全部を端末にバックアップしてしまう設定もできるし、撮った後から任意の画像を指定して転送するという具合にセットすることもできる。

    前者の設定の場合はデジカメも端末のほうも、バッテリーの消耗は早くなるものの、外出先でパソコンを介することなしに、そのままカメラの外部にバックアップを取ることができるメリットは大きい。画像データのメディアとしての安定性については、まだ使い始めたばかりなのでよくわからないが、特に問題がなければ通常の同容量のSDHCカードとの価格差は大きくはないので、もはやEye-Fi以外のメディアを選択する必要はない!と言い切ってしまいたくなる。

    Eye-Fi対応のカメラについては、こちらをご参照願いたい。

  • オートリクシャーに関する苦情窓口

    デリーのオートリクシャーの利用に関するトラブルについて、苦情の窓口があるのだそうだ。

    How to Complaint Against errant Auto-Rickshaw Drivers in Delhi (kracktivist)

    連絡先があるといっても、そこに電話が通じるのか、SMS送信やダイヤルしてみたところでどんな対応をしてくれるのか、そもそもちゃんと応対しているのかということもあるし、話は聞いてくれたにしても、組織だった対応をしてくれるのかといえば、また別の話になる。

    もちろんこうした窓口が存在するのはデリーに限った話ではなく、他の都市にもいろいろあるようだ。だが首都デリーにおいても、オートに関するトラブルには事欠かないため、以前も幾度かとり上げたように、これを是正しようと活動しているNyayabhumiのようなNGOがあるほどだ。

    オートリクシャー・スター・クラブ 1 デリーの路上の星たち (indo.to)

    オートリクシャー・スター・クラブ 2  頑張る路上の星たち (indo.to)

    NyayaBhoomiのオートリクシャー (indo.to)

    運転手たちの生活権が守られているような労働環境ではないため、利用者側だけではなく運転する側にもいろいろ言い分はあるのだろうが、これについてはまた別の機会を設けて書いてみることにいたしたい。

  • ビルマハイウェイ

    ビルマハイウェイ

    ビルマ系米国人の歴史家、タンミンウーによる原書「WHERE CHINA MEETS INDIA」の和訳版である。著者は1961年から10年間に渡って国連事務総長を務めたウー・タン(ウ・タント)の孫にあたる。

    原書の初版は軍政期の2010年に出版されている。この年の11月に実施された総選挙を以て、「民政移管」されたことについて、あまりに軍にとって有利なシステムで選挙が実施されたことにより、「軍政による看板の架け替えに過ぎない」「欧米による経済制裁解除狙いが目的の茶番劇」と酷評された選挙であった。

    「実質は軍政の継続」と批判されつつも、経済面では「中国による野放しの専横」がまかりとおっていることへの危機感とともに、「東南アジア最後のフロンティア」としての潜在力と市場規模を持つミャンマーへの制裁解除のタイミングを待っていた先進諸国の反応は迅速で、一気に大量の投資が流入することとなり、ご存知のとおりの「ミャンマーブーム」となっている。

    そんなわけで、この本が執筆された当時からそれほど長い年月が経過していないにもかかわらず、すでにミャンマーを取り巻く環境は大きく変わってきている。それほど変化は早い。

    新興市場としての魅力、新たな「世界の工場」としての先進国からの期待と同様の思いを抱きつつも、利用価値の高い陸続きの隣国として、戦略的な意図での取り込みを図る国々もある。

    自国の内陸南部からインド洋への出口を狙う中国。中国との接近により国内北部の平定を企図するミャンマー。

    隣国ミャンマーに対する中国の進出に危機感を抱いて挽回を狙うとともに、自国北東部の振興を期待するインド。中国に傾斜し過ぎることに対するリスク回避のため、カウンターバランスとしてインドへの接近を試みるミャンマー。

    こうした各国の思惑が交錯するとともに、地元の人々もまた分断された国境の向こうとの繋がりに期待するものがある。もともと北東インドはインド世界の蚊帳の外にあるとともに、ミャンマー北西部はビルマ族自身が完全に掌握をしたことのない周辺地域であった。

    北東インドにあった王国は、アホム王国のように現在のタイ・ミャンマーにまたがって分布しているタイ系の民族によるものであったり、マニプル王国のように現在のミャンマー領に進出したりといった具合に、相互にダイナミックな往来がある地域でもあるのだが、現在は国境から両側がそれぞれ、もともとは従属していなかったインドあるいはミャンマーの国の領土として固定されてしまっているとともに、往来が希薄な地の果ての辺境という立場におかれるようになっている。

    そんな現状も、東南アジア地域への陸路による出口を求めるインド、中国とのカウンターバランスを期待するミャンマーの交流の活発化により、「地の果て」が南アジアと東南アジアという異なる世界を結ぶ物流や交易の現場として、いきなりスポットライトを浴びて表舞台に飛び出してくる可能性がある。もちろんこれまであまり知られていなかった観光地としての期待もある。

    そうした動きの中で、先進国による経済制裁の中で、これとは裏腹に強固に築き上げられたミャンマーと中国の間の深い経済の絆、ミャンマーが属するアセアンの国々による政治や投資での繋がり等と合わせれば、これら政治・経済、人やモノの流れが幾重にも交差することになるミャンマーの地勢的な利点は非常に大きい。

    やがては単なる市場やモノづくりの拠点としてではなく、東南アジア、中国、南アジアという三つの世界を繋ぐ陸の交差点として、大きな発言力を持つ大国として台頭する日がやってくるようにも思われる。

    そんな未来の大国へと成長する可能性を秘めたこの国について、様々な角度から検証しているのがこの書籍である。ぜひ一読をお勧めしたい。

    書名:ビルマハイウェイ

    著者:タンミンウー

    翻訳者:秋元由紀

    出版社:白水社

    ISBN-10: 4560083126

    ISBN-13: 978-4560083123

     

    書名:Where China Meets India

    著者:Thant Myint-U

    出版社:Faber & Faber

    ISBN-10: 0571239641

    ISBN-13: 978-0571239641

     

  • アシン・ウィラートゥー師

    反イスラームを唱えるミャンマーの仏法僧、アシン・ウィラートゥー師。良くも悪くも軍政により長らく封印されてきた対立が「民主化」により日の目を見ることになったといえる。

    ただし、これを仏教徒vsイスラーム教徒という単純な構図にしてしまうことは誤りで、地域に長らく根ざしてきた仏教を背景にする人たちの中で少なからずの割合で抱いている南アジア起源のムスリムの人々に対する感情と見るのが正しいだろう。

    その多くは英領期に移住した人々の子孫が大半で、独自のコミュニティと価値観・生活習慣等を維持しており、主に都市部での商業活動に一定の影響力を保っている。また植民地期にイギリス人たちとともにやってきた「征服者側の人々」でもあったという部分も無視できない。

    そのためウィラートゥー師の存在によりミャンマー国外でも注目されるようになっているこの現象の本質は、宗教対立というものではなく、ミャンマー国内の民族問題の一側面であり、植民地時代からひきずる歴史問題でもある。

    バングラデシュとの国境におけるロヒンギャーの人々に対する扱いについても、こうした感情の延長線上にあるといえるだろう。

    Non-Violent Extremism: The Case Of Wirathu In Myanmar – Analysis (ARNO)

  • オートリクシャーの工場

    下記リンク先の動画は、バジャージ社のアウランガーバードにあるオートリクシャー工場の製造ラインであるとのことだ。

    Autorickshaw Factory (Youtube)

    大手企業の工場なので当然のことだが、工場内は整然としていて、各工程にて効率的に組立がなされている様子が映し出されている。失礼ながら、もっと荒っぽい作業が行われているものとばかり思っていた私にとっては、ちょっと意外であった。

    これは、ドキュメンタリー作品の「Rickshaaa! A Film on Three Wheels」(ソーミャディープ・ポール監督)というのがあるそうで、その作品中でのひとこまであると、上記のYoutubeンク先には書かれている。機会があれば、その作品自体を鑑賞してみたいものだ。

  • ペンタックスQマウントの超広角ズーム 「PENTAX-08 WIDE ZOOM」

    ペンタックスQマウントの超広角ズーム 「PENTAX-08 WIDE ZOOM」

    今年7月にペンタックスのQ7を購入してから、とても気に入って愛用している。旅行先にも日常生活でも常にカメラを携帯しているのだが、写真を仕事にしているわけではないので、それを持ち歩くのが苦になるようでは困る。かといって、撮影すること自体を楽しむことができないような「押すだけカメラ」なら要らない。

    近年、携帯電話の写真画質が向上してきたことから、安手のデジカメが市場に居所を失ってきており、デジタル一眼ブームも一服したことにより、「高級コンパクトデジカメ」のジャンルが充実してきているのは嬉しい。

    コンパクトデジカメの常として、レンズの焦点域に限りがあること、あまり広角から望遠までと撮影域を欲張ったモデルは画質やレンズのF値等で不利になってしまう。そんなわけで、コンパクトデジカメながらも一眼並みに幅広く使いまわせるものとなると、レンズ交換式という方向が導き出されることになるのは、最初から誰もが判っていた。

    そういう流れの中で、コンパクトデジカメとデジタル一眼の中間の需要を埋めるものとして、ミラーレス一眼が出てきたわけだが、これとて趣味で写真を楽しんでいる者が、常日頃からカバンの中に放り込んでおくにはかなり辛い。いくつかの交換レンズも一緒にとなると、写真が仕事ではないのでそれこそ不可能である。

    そんなところで、2011年8月にペンタックスQマウント機の初代モデルが出た際には、「まさにこういうカメラが欲しかった」と心躍ったものだ。この大きさであれば、複数の交換レンズとともにカバンに忍ばせておいても苦にならないからだ。当時はまだ初物であったこと、今でも決して豊富といえないレンズのバリエーションの関係もあり購入は見送った。

    その後、昨年10月に後継モデルのQ10が発売となった際にも、かなり心動かされるものがあったが、他に物入りがあったため買うことはなかったのだが、今年7月にセンサーサイズがやや大型化して焦点域がより広角側に寄った形でQ7が出てきたことから、ようやく手に入れた次第である。

    さて、このQマウントシリーズのレンズのラインナップは、このモデルの登場により8本目ということになるのだが、数千円から1万円弱程度の「トイレンズ」を除き、1万数千円台から2万円強といった程度という手軽な価格帯であったため、超広角ズームの発表がなされた際には、超広角というやや特殊なレンズであることを考慮しても、やはり廉価であることを期待していた。

    そして出てきた価格は45,000円前後であったことから、ちょっと迷うものがあった。ネットでの前評判もやはり価格について「高い」というものが多かった。それでもこれを購入したのは、現在私はペンタックスQ7をメインに利用していること、後ろに引けない場面や建物内等のスペースが限られたところなどで、有効に使えるレンズが欲しかったからに他ならない。

    店頭で、このレンズを装着したデモ機の液晶画面を覗いてみて、35mm換算で17.5mmの画角で写りこむ範囲の広さ、その割には歪みが想像以上に少なく調整されていること、撮影してみても周辺部の流れがこれまたよく抑えられていることなどが一目で判ったので、即購入することとなった。他のQマウントレンズよりも割高なのは超広角レンズであるがゆえに当然そうなるのだが、この価格に見合った性能を有しているようなので納得である。今後もっと使い倒して、他の機会に感想を述べたいと思う。

    あくまでもQ7を持っている方に限定(QやQ10の場合は広角端が21mm相当になるので「超広角」としてのインパクトがあまりない)ということになるのだが、このレンズの使い勝手は実に「買い」であり、入手して決して後悔することはないだろう。この類のレンズは通常ならばかなり大きくなるのだが、軽さと小ささを身上とするQマウントレンズだけに、わずか75g。決して邪魔にもならない。

    そんなわけで、買ったばかりのこのレンズで、東京のお茶の水にあるニコライ堂を試し撮りしてみた。

    ここ数日間は、ペンタックスのQ7で、こればかり常用することになりそうだ。

     

  • 北東インド振興は鉄道敷設から

    北東インド振興は鉄道敷設から

    掲載されたのが今年9月18日と、少々古いニュースで恐縮ながら、北東インドの未来を感じさせるこのような記事があった。

    NE to be linked to Trans-Asian Railway Network (The Assam Tribune)

    北東インドが81,000キロに及ぶTARN (Trans-Asian Railway Network)につながるのだという。具体的にはマニプル州都インパールからモレー/タムー国境(前者がインド側、後者がミャンマー側)までの118kmの鉄路を敷設する予定であるとのことだ。

    同様に、トリプラー州のジャワーハル・ナガルからコラーシブ/ダルローン国境(前者がインド側、後者がミャンマー側)に至るルートの提案もなされている。

    こうした計画や展望の成否についてはかなり流動的であることは言うまでもない。つまりミャンマーの好調な経済発展がこのまま継続するかどうか、そして両国のこの地域の政情について、とりあえず安定してきている状態が今後も続くかどうかというリスクがある。前者については、対立してきた先進諸国との関係改善により、内外から空前の投資ブームが起きていることから問題はないように思えるが、後者については不透明だ。

    鉄道ネットワーク建設により、インドとミャンマーの二国間というよりも、南アジアと東南アジアという異なる世界・経済圏を結ぶ架け橋となることが予想されるインド北東部とミャンマー西部だが、この地域で活動している両国の反政府勢力、つまり地元の民族主義活動グループにとって、こういう状況はどのように受け止められるのかといえば、一様ではないだろう。

    それぞれの勢力の思想・信条背景により、これを経済的地位向上の好機と捉えるケースもあれば、自国と隣国政府による新たな形の簒奪の陰謀であると判断するかもしれない。だがどちらにしてもあながち間違いではないだろう。これらの計画は、両国政府自身へのメリットという大所高所から見た判断があるがゆえのことであり、「辺境の地を経済的に潤すために隣国と鉄道を接続」などということがあるはずもない。しかしながらこのようなリンクが出来上がることにより、これまで後背地にあった土地が外界と物流・人流の動脈と繋がることにより、経済的に利するところは非常に大きい。

    これまでインド・ミャンマー国境では、表立って活発な人やモノの出入りはなかったがゆえに、それぞれがインド世界の東の果てとなり、ミャンマー世界の西の果てとなり、それぞれが「行き止まり」として機能していたがゆえに、その手前の地域は中央から見た「辺境」ということになっていた。

    だが、鉄道がこの地域を通じて両国をリンクすることになれば、南アジア地域と東南アジア地域の間でモノやヒトの行き来が活発になり、やがて大量輸送目的の道路建設にも繋がることだろう。このあたりの地域は、主に「通過するだけ」というケースも少なくないかもしれないが、それでもこれまでほとんど表立って存在しなかった商圏が出現することにより、ミャンマー西部やインド北東部のマイナーな地域が複数の「取引の中心」として勃興するということは当然の流れである。

    天然資源に恵まれたアッサムを除き、これといった産業もなく、観光振興に注力しようにも、反政府活動による政情・治安面での懸念、観光資源の乏しさ、アクセスの悪さなどが災いして、中央政府がたとえ北東地域の経済的自立を望んでも、なかなか実現できないジレンマがあった。

    ここにきて、ミャンマーブームは、隣国インドにとっても「自国の北東地域の振興と安定」という恩恵を与えることになりそうだ。 同様に、長年国内各地で内戦が続いてきたミャンマーにとっても、同国西部について同様の効果が期待できるものとなるだろう。

    これは、ミャンマーとの間だけに限った話ではない。インドのトリプラー州都アガルタラーから国境を越えた先のバーングラーデーシュの町アカウラーまでを繋ぐ予定がある。その距離は、わずか15kmに過ぎないが印パ分離以来、互いに分断されてしまっていた経済圏が鉄道を通じて限定的に再統合される可能性を秘めている。加えて、インドのトリプラー州南部のサブルームからバーングラーデーシュ随一の港湾都市チッタゴンを結ぶ計画もあり、インドとバーングラーデーシュが経済的により密な関係になることが大いに期待される。ミャンマーブームほどの規模ではないが、インドの東部地域の特定業界限定で、将来性を買っての「トリプラー州ブーム」が起きるのではないかとさえ思う。

    北東インドの振興と安定については、国境の先へと結ぶ鉄道敷設がカギを握っているといっても過言ではない。同時に、これまで辺境として位置しており、独自の伝統・文化を維持してきた地域が、それぞれ「インド化」「ビルマ化」されていくプロセスでもある。銃による侵略に対してはよく耐えて抵抗してきた民族や地域は枚挙にいとまがないが、札束と物欲の魅力に屈することのなかった人々の例についてはあまり聞いたことがない。

    加えて将来、インド北東部とミャンマー北西部を通じて、南アジアと東南アジアが経済的に緩やかに統合されていくことによる、文化的・社会的影響を受けるのは、その「緩衝地帯」でもあるこの境界地域である。これまでのような中央政府と地元民族の対立という図式だけでなく、相反する利害を共有する「国境のこちら側と向こう側」という図式も加わることになる。

    今後の進展に注目していきたい。

  • SIMフリーのiPhone発売

    SIMフリーのiPhone発売

    先日、日本のアップルストアでSIMフリーのiPhone (5Sならびに5C)の販売を開始した。

    これにより、日本で購入・使用しているiPhoneがジェイルブレイク等することなしに、アップルのサポートの範囲内で、SIMを差し換えて利用できるようになる。

    日本国内の新日本通信その他の格安SIMはもちろんのこと、海外のインドその他の国々で現地SIMを購入したうえで、日本国内で使っているのと基本的に同じ環境でそのまま使用できることのメリットは大きい。

    その他のスマートフォンにおいては、docomoの場合は自社で販売しているモデルについてSIM解除手数料3,150(消費税込)を支払えば、SIMフリー化してもらえる措置はあったものの決して安い出費ではない。そうして解除してみても、docomo以外のSIMを挿入するとテザリングは利用できない仕様になっていたりする制限があった。

    しかしながら先述の格安SIMはインターネットの通信速度が非常にスローであるし、かといって携帯電話各社は、基本的に通信回線契約とハンドセットの販売は抱き合わせになっているという不便がある。

    つまり新しいハンドセットを購入する際に「月々割」その他の名称で、毎月の通信料金から一定の金額を差し引くことにより、「実質ゼロ円で購入できます」などという形で消費者に対して回線契約あるいは更新時に新しい機種を購入するように「強要」しているからだ。

    もともと日本の携帯電話の通信料金はかなり割高に設定されており、そこからわざわざ本体価格を割り引いたように見せる姑息な手段ではあるものの、そうした月々の割引とやらが適用さそるのは、あくまでもハンドセットを回線契約ないしは更新と同時に購入した場合のみであり、自前のものを持ち込むと毎月の通信料金がずいぶん割高になってしまう。

    同様に契約期間満了時に、それまで使ってきたハンドセットをそのまま継続して使用するつもりであっても、その時点で購入時に与えられた月々の割引が終了してしまうため、再度ハンドセットを購入することにより、新しい契約期間内の月々の割引を適用してもらうようにしないと、これまた毎月の出費が大きくなってしまう。

    業界全体がそういう商習慣になっているため、アップルストアでSIMフリーのiPhoneが発売されたからといって、それが爆発的に売れるようになるとは思えない。従前からSIMフリー端末を海外で購入する人たちは多かったし、日本国内のユーザーに対して、香港などの現地価格とあまり変わらない価格で海外からSIMフリーのスマートフォンを手配する通信販売業者はあった。

    現状では、多くの場合、特定の機種を利用したいという場合、それがiPhoneであれ、ギャラクシーノートであれ、それらを販売している通信会社と契約しなくてはならない。こうした日本と同様の販売方法をとっている国は他にもあるとはいえ、多くは通信契約とハンドセットの購入は別々となるのが基本である。

    つまり自分が利用したい携帯電話機を購入したうえで、自分の都合に合った契約を通信会社と交わす。従来からの固定電話と同じことだ。

    インドのように、ポストペイド契約主体に頼るだけでは顧客を獲得することが困難な市場環境の国で普及している、基本料設定がなくて維持費が格安のプリペイド方式が日本にもあったならば(日本のキャリアにもプリペイドのプランはあることはあるが、あまり気軽に利用できるような内容ではない)、個人でも複数台所有することが容易になる。

    日本の携帯電話事情は、大手の携帯電話事業者自身とそれらと癒着した各メーカーの都合で動いており、ユーザーの利便性は置き去りにされている印象が強い。

    そういう意味では、中古携帯のマーケットが充実していて、中国その他の国々で製造された格安ハンドセットが普及しており、月々の基本料金なしで格安の維持費(通信料も世界最安級)で利用できるインドの携帯電話事情(中古ガラケー利用を前提とすると破格の安値)は、日本に比べてはるかに「ユーザーフレンドリー」度が高く、羨ましく思えてしまう。

  • 印パ分離のドキュメンタリー

    当時のものとしては珍しいカラー映像を交えた印パ分離時を取り上げた、BBCによるドキュメンタリー作品がある。

    Pakistan And India Partition 1947 – The Day India Burned (Youtube)

    この作品にところどころ挿入されるカラーの実写映像も同様にYoutubeで視聴できるようになっている。

    Very Rare Color Video of Indian Independence 1947 (Youtube)

    印パ分離により、双方からそれぞれムスリム、ヒンドゥーとスィクの住民たちが先祖代々住んできた故郷を離れて新たな祖国へと向かった。もちろん新国家のイデオロギーに感銘したり、賛同したりしてのことではなく、彼らが父祖の地に留まるのがあまりに危険になってしまったがゆえの逃避行である。双方から1450万人もの人々が移住を余儀なくさせられたとともに、移動の最中で暴徒の襲撃で命を落とした人々、両国の各地で発生したコミュナルな暴動による死者も数え切れない。

    恐らく人類の歴史上、かつてなかった規模の巨大な人口の移動であるとともに、最大級かつ最悪の宗教をベースにした対立であったといえる。この出来事が今も両国の人々の間で記憶され、家庭で子や孫に語り伝えられるとともに、両国間の問題が起きるたびにメディア等による報道等により、新しい世代もそれを疑似体験することになる。さらに悪いことに、往々にして両国の政治によって利用されることであることは言うまでもない。

    印パ分離は英国の陰謀か、ガーンディーの力及ばずの失敗か、ジンナーの成功かはともかく、政治が犯した罪は今も償われてはいない。カシミール問題も、印パ分離がなければ生じることはなかった。

    ヒンドゥーがマジョリティーの『世俗国家』の一部となって支配されることに対するアンチテーゼとして成立したムスリムがマジョリティーのイスラーム共和国パーキスターンが存在するということは、国防上の懸念が将来に渡って続くことを意味する。しかしながら分離がインドにもたらした恩恵があることも無視できない。

    現在のパーキスターンのバルチスターンの分離要求運動のような地域的な問題とは無縁でいられることはともかく、ムスリムがマジョリティーの地域ならではの、奥行と広がりがあり中央政界を揺るがすほどの規模の各種のイスラーム原理主義運動やアフガニスタンを巡る様々な問題と直接対峙する必要がないというメリットは非常に大きい。

    またパーキスターンの北西部のアフガニスタン国境地域のFATA(連邦直轄部族地域)のような連邦議会の立法権限が及ばない地域が存在することは、治安対策面でも大きな問題がある。

    独立以来、インドが一貫して民主主義国家としての運営がなされてきたのに対して、血を分けた兄弟であるパーキスターンは残念ながらそうではなかったのには、地理的・思想的背景があるように思えてならない。

    印パ分離はまぎれもない悲劇であり、現在の両国は今なおその傷が癒えているとはいえず、分離による代償を両国とも払い続けている。

    しかしながら現在、パーキスターンとインドが別々の国となっていることについては、少なくともインド側から見れば好都合である部分も決して少なくないことは否定できないことである。分離という大きな痛みからあと数年で70年にもなろうとしている今、これまでとは異なる視点から評価・検証する必要もあるように思う。

  • バーングラーデーシュ市場に販路を目論むユニクロ

    中国一辺倒であった生産拠点を他国への分散を図るユニクロがバーングラーデーシュでの製造に力を入れ始めるとともに、マイクロ・クレジットの成功で知られるグラーミーン銀行との提携で、現地会社グラーミーン・ユニクロを設立したのは2010年のこと。

    ユニクロのソーシャル・ビジネスという位置づけにて、地場産業から調達できる素材による現地請負業者が生産した製品を、現地の委託請負販売者が顧客に対面販売をするという形での取り組みがなされていたことは以前取り上げてみたとおり。

    Grameen UNIQLO (indo.to)

    おそらくこうした試みの中で、このビジネスがモノになるという確信を得たのであろう。ユニクロは同国で今後1年間に30店舗のオープンという目標を掲げるに至った。カジュアル衣料販売で世界第4位の同社が、ZARA、H&Mといったライバルを追い抜いて世界トップに躍り出ることを画策する同社の狙いは、これまで競合する他社が手を付けていない最貧国市場での大きなシェアの獲得である。

    11月17日(日)午後9時からNHKで「成長か、死か ~ユニクロ 40億人市場への賭け~」という番組が放送されていた。

    内容は近年の業界の勢力図とライバル各社の動向、そしてこれまでターゲットとしていなかった最貧国市場への進出と現地でのスタッフたちが格闘する日々、そして現地を代表するアパレル企業トップからユニクロへのアドバイス他といった具合だ。

    その中で、ユニクロが展開するカジュアル衣料は現地の女性たちにあまり受け入れられず、今年7月にオープンした第1号店ではあまりに女性客への売れ行きが芳しくないので、急遽地元のバーザールからシャルワール・カミーズを調達して店舗で販売するといった一幕、女性スタッフが現地の女性たちのお宅を訪問してクローゼットの中を見せてもらったら、誰もがほとんどサーリーやシャルワール・カミーズ以外の服をほとんど持っていないことに驚くなどといった場面があったが、いくら何でもこのあたりの事情については事前のリサーチで判っているはずの基本的な事柄なので、何らかの作為のあるヤラセのストーリーなのではないかと思った。

    いずれにしても、今回の路線転換により、「ソーシャル・ビジネスです」と、トーンを抑えていた同国での市場展開が、「ビジネスそのものが目的です」という本音を剥き出しにした市場獲得へのダッシュとなったことは注目に値する。最貧国市場への浸透といってもこれが意味するところの地域は世界中各地に広がっているが、バーングラーデーシュは、人口は1億6千万人に迫ろうかという巨大な規模であるにもかかわらず、国土の面積は北海道の2倍弱という地理的なコンパクトにまとまっているという魅力があり、今後同業他社や異業種の企業等の進出も期待されている中、ユニクロの進出が呼び水となり、同国のマーケットとしての魅力がこれまでよりも大きく取り沙汰されるようになるのだろう。

    こうした番組について、以前であれば「再放送されることを期待しよう」などとするしかなかったのだが、最近のNHKはウェブでのオンデマンド放送も実施しているので、興味関心のある方は視聴されることをお勧めしたい。本来は有料だが、まだアクセスしたことがなければ無料でお試し視聴もできるようになっているようだ。

    成長か、死か ~ユニクロ 40億人市場への賭け~ (NHKオンデマンド)

  • Campa Cola

    Campa Cola

    1990年代初頭に始まったインド経済の本格的な対外開放に踏み切るまで、インドのソフトドリンク市場の中のコーラの類の分野では、Thums Upとともに国内市場を二分してきたブランド、Campa Cola

    れっきとした民主主義国家ながらも、経済政策面では社会主義的な手法を取り入れた「混合経済」として知られていたインドの経済産業界では、特に基幹産業部分に国営企業や国家の強い指導と統制の下で経済活動を行なう財閥が中核となっていた。

    それに拍車がかかったのは、独立運動以来の「スワーデーシー志向」により、外資に対する規制も厳しかった。初代首相ネールーが親ソ的な政治家であったこともあるとともに、当時の指導者たちが総体的に(今から見れば)左寄りであったこともあり、経済とは国が統制すべきものであった。

    幸か不幸か、それに拍車がかかったのはネールーの娘、インディラー・ガーンディーが首相の座にあった時代(1966-1977、1980-1984)で、金融その他の部門で急進的な国有化政策が実施された。

    清涼飲料のコカコーラが存在せず、独自ブランドのCampa Colaが販売されていた時代のインドは、まさに「マッチ棒から人工衛星まで」といった具合の「自力更生」型の経済体制時代にあり、そこを訪れる人の多くが「外界と隔絶した独自の世界」にいることを感じたことだろう。

    その時期の世界において、いわゆる東側の世界の多くは、国家が決めた方針に基づく計画経済が実施されており、社会のあらゆる分野において統制が厳しく、国外の人々が自由に行き来したり、滞在を楽しんだりできるような体制ではなかった。国によっては国民による自国内の自由な往来さえも制限が敷かれているようなところも少なくなかった。

    経済が国家による厳しい管理と統制下にあった国々の中で、インドの政治体制はそれとは裏腹に民主的に運営されており、国外からの人々の往来には寛容であった。経済開放前にはインドへの国外からの投資は今とは較べようもなく少なかったし、駐在その他で在住している外国人の数も非常に少なかった。それでも観光目的で訪れる人々は多かったことは特筆できるだろう。

    他国と比較して格安に過ごすことができることやドラッグ類の入手が容易であったことなどもあり、1960年代から70年代にかけては、長期滞在するヒッピーが多く、ゴアやマナーリーあたりでは彼らの存在が社会問題化したこともあったが、そうした人々を強権で排除するようなこともなく、またヒッピーという存在が西欧社会から消えてしまってからも、しばらくの間はインドのそうした場所では彼らのライフスタイルを受け継いだかのような「亡霊」が彷徨っていたのは、やはりインドという社会の懐の深さゆえだろうか。

    話はCampa Colaに戻る。外界から隔絶した社会の独自路線のコーラであったかのように言われることも多かったが、実はそうとも言えない。このコーラを製造販売してきたPure Drinks Groupは、1950年代から提携先のCoca Colaをインドで製造販売してきた企業であり、1978年にCoca Colaがインドから撤退するにあたり、Coca Colaブランドと同社のレシピを使用することができなくなり、独自のCampa Colaブランドと自前のレシピでの製造販売に切り替えたという経緯があるからだ。

    外国の主要なメーカーやブランドの参入がなかった1980年代は、Campa Colaブランドが燦然と輝いた時代であったといえる。街中を走る車両のほとんどがアンバサダーやパドミニーといった旧態依然の「クラシックカー」ばかりで、トラックも大昔からのボンネット型、バスもヨソの国とは違ったこれまた苔むしたような感じの車両ばかり走っていた時代、当時はほぼ世界中どこに行っても見かけるはずであったCoca Colaが見当たらず、それとちょっと似て非なるCampa Colaの看板や味わいを前にして、それはもう相当なエキゾシズムを感じたということは想像に難くないだろう。

    1990年代初頭に始まった経済開放政策により、清涼飲料の分野でインドにいち早く上陸してきたのはペプシであった。当初は外資の出資比率と外国ブランドの使用についての制限があったため、インド参入初期はLEHAR PEPSIという名前で製造販売されていた。

    当時の地場ブランドのCampa ColaもThums Upも今の標準的なサイズよりもかなり小さい180 cc入りのボトルで販売されていたのに対して、アメリカからやってきたPEPSIは250 cc入りであったため、本場感覚と量の多さによる割安感もあり、一気にシェアを拡大したようだ。Campa Cola陣営は、当初「味わいは量に勝る」などと、負け惜しみのような広告を打っていたこともあったが、Campa Colaを含めた地場ブランドはまもなくボトルを大型化して増量に踏み切ることとなった。当時のメディアは、こうした地場資本コーラとペプシの攻防を「コーラ戦争」と表現していた。

    だが1993年にCoca Colaが満を持してインド市場に復帰したことにより、Campa Colaの命運が尽きたと言えるだろう。ある程度年齢を重ねた人ならば、Campa ColaはCoca Colaが1978年に撤退したことを受けての代替品であったことを知っているし、そうした背景を知らない若者たちにとっては、見慣れているけれども垢抜けない地場コーラと較べて、華やかなCMや広告による宣伝とともに登場したアメリカ製品がとても眩しく感じられたことだろう。

    その後、コーラ戦争の最終的な勝者はグローバル・プレーヤーのCoca ColaとPEPSIとなったことはご存知のとおり。だが皮肉なもので、Coca Cola社に買収された地場コーラThums Upやレモン風味ソフトドリンクのLimcaは、その後も一定の存在感があるのとは対照的に、暖簾を守ったPure Drinks Groupは、かつての栄華は見る影もない。