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カテゴリー: life

  • ディブルーガル3

    ディブルーガル3

    この町での滞在先、Chowkidinghee Chang Bangalowは、植民地時代にイギリス人ティー・プランターの屋敷であったものが宿泊施設に転用されている。その名の示すとおり、ディブルーガルのチョーキディンギー地区にある。宿の周辺は茶園が広がっており、静かで雰囲気もいいのだが、歩いてすぐのところにマーケットもあり、とても便利なロケーションでもある。

    塀の外は茶畑
    英領期にタイムスリップしたかのよう

    建物はきれいに手入れされているが、古い時代の雰囲気を損なうようなものではなく、往時のたたずまいをよく残しているのではないだろうか。英国時代からのコロニアル邸宅、イギリス人が暮らしていた住宅といったものは、ダージリンやシムラーなどのヒルステーションでも見られるが、このような建物にイギリス人がノルタルジアを感じたり、格別な興味を持ったりするものなのかどうかは知らない。

    だがイギリスがインドを去ってから時代が下るとともに、こうした建物は確実にその数を減らしていったり、朽ち果てていったりしていることが多いことから、いいコンディションでオリジナルの状態に可能な限り忠実に保存していることには、歴史的・文化的な価値も高まっていると言えるだろう。

    宿で食事を注文することもできる。メニューは用意されておらず、日替わりの「おまかせ料理」となるが素晴らしいものであった。トマトのスープから始まり、ひょっとしてイギリス式の食事が出てくるのかと思ったら、出てきたのはインド料理であったが、ズィーラーのご飯、ピーマンのスタッフ、チキンカレー、野菜、ダールで、どれも良く出来ていた。デザートは温かい果物のプディング、そしてチャーイ。

    2階にある広々とした応接間は居心地がいい。他の宿泊客もなく占領してしまうことができるのはなんと贅沢なことであろうか。階下で宿帳をめくってみると、私の前に宿泊した人はイングランド人で、しかも20日ほど前の利用客であった。

    応接間のテレビを点けてみると、ちょうどZサラームというウルドゥー番組で素晴らしいカッワーリーをやっていた。ムシャーイラーもやっており、文化的でよろしい。こういうイスラミックな番組では、ムスリム向けのCМもやっているのでこれまた興味深かったりする。アッラーの名が刻まれた金のロケットで、アメリカのストーンがはめられているとかいうものが2499ルピーという。今から30分以内に注文すると、ひとつ注文してもうひとつついてくるのだとか。なんだか日本のテレビショッピングと並みのレベルの怪しさである。

    このバンガロー、イギリス人のティー・プランターが住んでいたころには、とりわけ茶園業の開拓時代には、海千山千の強者たちが集い、徒党を組んだり敵対したりしながら、様々な人生を切り開いていったことだろう。志半ばにして事業に失敗したり、病没してしまったりした人も少なくないだろう。そんな舞台が今でも残っていること、そこに宿泊できるということは、英領期について、あるいは紅茶の歴史について多少なりとも関心のある人には嬉しいことだろう。まさにインドならではのヘリテージな宿である。

    鉄道の汽笛が聞こえてくる。遠く海を渡ってきて、茶にまつわる生業を営んでいた人たちもこの汽笛を耳にして「そろそろ夕食の時間だな」とか「さて、寝るとするか」などと思いながら暮らしていたのだろうか。

    〈続く〉

  • ディブルーガル2

    ディブルーガル2

    どこもかしこも茶園でいっぱい

    ディブルーガルの市街地に入ったあたりで、「さて、どのあたりだろうか?」とスマートフォンで地図を見てみる。近年はこうした機器やネットワークの普及により、以前は考えられなかったことが容易に可能となった。Googleの地図に出ている情報はかなり散漫であったりもするが、町歩きに「地図」(ガイドブックに掲載されているものであれ、購入したものであれ)は不要となったと言える。3Gネットワークが届いていない小さな町ではそもそも地図がなくてもいいわけであるし。

    インドでは、しばしば「この土地ならではの宿」というものがあるが、アッサム茶の生産と集積の一大拠点で、茶業の歴史も長いディブルーガルでの特色ある宿といえば、英領時代のイギリス人茶園業者のバンガローである。こういうバンガローが市街地に一軒、郊外に一軒あり、私は市街地にある施設に宿泊することにした。

    これらの宿は、プールヴィー・ディスカバリーという旅行代理店が運営しており、宿に直接出向くのではなく、市内のジャラール寺院近くにあるオフィスが予約等の業務を取り扱うことになっている。

    ディブルーガルで面白いのは、市街地の中に茶園があったり、商業地のすぐ脇にも茶園が広がっていたりすることだ。もともとの市街地はもっと小さくて、茶園の部分にも市街地が広がった結果、このようになったのかもしれない。

    お茶で有名なアッサムであるが、12月から2月までは茶園と茶工場ともに休業中である。休みの時期であるとのこと。冬季に茶園の仕事を見学したければ、南インドに行くことになるだろう。

    ツヤツヤとした茶葉

    〈続く〉

  • ディブルーガル1

    シブサーガルで2泊してから、ディブルーガルに向かった。シブサーガルからバスで2時間半程度の距離である。

    アッサムといえば、13世紀から19世紀にかけてこの土地を支配したアホム王国で知られているが、もともとアホムの支配者たちはタイ系の民族であったわけだが、インドのこのあたりは民族的にもモンゴロイド系の人々とアーリア系の人々が混住する地域であることから、ちょうど南アジアと東南アジアとの境目(・・・から南アジアに入ったところ)にあることが感じられる。

    人々の顔つきもさまざまだ。インド人らしい顔だちもあれば、モンゴロイドが混じっている風貌もある。もちろん、ここにもUPやビハールといった州から働きに来ている人たちはたくさんいるわけだし、東側のナガランドやマニプルといったモンゴロイド系の人々がマジョリティを占める州から出てきている人たちもいるはずなので、正直なところ町中で視界に入っている人たちの中で、誰がアッサム人で、誰がそうでないかについて見分ける自身はあまりない。それでもたとえばベンガル州の平地あたりと較べた場合、総体的に人々の集合体の中でモンゴロイド系の人々やモンゴロイドの血が入っていると思われる人々の割合が高いことはわかる。

    バスはひた走る。シブサーガルから2時間半程度の距離にある。霧がかかっているものの、クルマの往来の妨げになるというほどのものではない。道路両側はどこを見渡しても茶畑が続いており、いかにも世界最大の紅茶生産地といった佇まいである。

    クルマの揺れに眠りを誘われて、少しウトウトしている間に、どうやらディブルーガル郊外に入ったらしい。あまり密度が高くなく、ややまばらに広がっているらしい市街地。ブラフマプトラ河のほとりに広がる街だ。ここから少し北や西に行くと、アルナーチャル・プラデーシュ州に入る。

    2011年元旦から、インド北東州で入域に制限があったナガランド、ミゾラム、マニプルの3州が外国人に対して門戸を開いている(それまでは一定の条件下でパーミットを事前に取得する必要があった)ので、まだこうした規制が残っているのはアルナーチャル・プラデーシュ州だけとなった。

    ナガランドをはじめとする3州については、長年続いてきた反政府勢力との停戦と和解の方向への進展による治安の改善がこのような措置を可能にしたわけであるが、アルナーチャル・プラデーシュ州の場合は、インドが実効支配していながらも、中国との係争地帯であるという、国防上の理由が背景にあるようだ。

    政治的には北東インド地域の中では最も安定しており、治安も非常に良好であるとされる州であるが、さらには平地から雪山まで、チベット仏教圏からアニミズムを信仰する部族地域までを含む、地理的、文化的、民族的に非常に多様性に富んだ州でもあるため、この州が外国人訪問者に対して開放される日がやってきたら、「インドの観光地図を塗り替える」とまではいかないまでも、中央政府や北東地域の各州政府が目論む観光業の振興への強力な起爆剤となることは間違いないだろう。

    入域制限についても「規制緩和」が進んでいる中、アルナーチャル・プラデーシュも入域に当たって、現地の旅行代理店を通じてパーミットを申請する「グループ」における最低の人数が近年では「3人」そして「2人」と緩くなり、現在では事実上「1人」でも取得可能となっている。敢えて「事実上」としたのは、公式には「2人」という条件はあるものの、そうした申請を取り扱う旅行代理店に他のグループと混ぜてしてもらった取得したパーミットにより、「個人旅行」が可能となっているという事情がある。

    この個人旅行については、旅行代理店によっては、自社でのガイドとクルマの手配を前提としてパーミットの取得を代行するところもあれば、パーミット申請のみのハンドリングを行なってくれるところもある。

    私自身は、まだアルナーチャル・プラデーシュ州を訪問したことはなく、今回も訪れる予定はないのだが、アッサム在住でこれまで幾度かアルナーチャル・プラデーシュ州を訪れたことがある方の話によると、「公共交通が極端に少なく、クルマをチャーターしないと移動もままならない」とのことなので、やはりインドの他の地域とはかなり事情が異なるようである。

    〈続く〉

  • マジューリー島4

    マジューリー島4

    ガラムールのマーケット近くのサッカーグラウンドで、インド軍のアッサム連隊のサッカー部とマジューリー島のチームの対戦があるとのことを宿の人から聞いた。新聞にも出ていたそうだ。地元で例年開催されるサッカーのトーナメントの決勝戦であるとのことだ。

    グラウンドに出向いてみると、すでにゲームは開始されていて、前半戦の中盤であった。入場料は10ルピー。沢山の人々が詰めかけていた。会場入口周辺は、駐輪されているバイクと自転車で一杯だ。会場警備はボランティアではなく、兵士たちが詰めていた。しかも持っているのは機関銃。いくらなんでも警備としては過剰過ぎる装備ではある。

    インド東北部ではサッカーが盛んである。このようにして楽しんでいる姿を見るのは嬉しい。会場には貴賓席まであったから、地元政府のおエライさんとか、もしかすると地元政治家くらいは来ているかもしれない。優勝チームには立派なトロフィーが準備されている。

    試合内容は正直なところまったく面白くなかった。正直なところ、このレベルであれば私が出場しても大活躍できる程度である。しかしここに詰めかけている人々を見物するのは楽しいし、サッカーが好きで人々が集まっているというのも嬉しい。

    夕方になり宿に戻る。貧しいながらも落ち着いた感じで、争いごともあまりなさそうな島である。宿の人が「外国とか、インド国内でもテロがあったり、騒動があったりしているけど、どうしてそんなことになるのか、この田舎に暮らしていると想像もできない。いや、この州内でもいろいろあるんだけれども、ここにいる分にはまったく関係ないね。」と言う。金銭的には豊かでなくても、ここに暮らしている満足度は案外低くはないのかもしれない。安心感のありそうな島である。

    〈完〉

     

  • 新年快楽!心想事成!!

    2014年の春節は1月31日である。その前日30日は大晦日ということになるので、中国、台湾、加えてその他の中国系のたちが多く暮らしている地域はそれから一週間ほど正月の華やいだ雰囲気の中で休日を過ごすことになる。

    アセアン諸国には多くの華人たちが暮らしており、地域によって潮州人が多かったり、広東人が多かったりという特色があるが、それぞれのコミュニティにおける伝統にローカル色を織り交ぜて、様々な祝祭が展開される。

    中国系の人々にとって、たとえ大陸の人であれ、在外華人であれ、そうした自分の住んでいる国の外で同じ中国系の人々、とりわけ同じ客家系であったり、福建系であったりといった同一のコミュニティに属する人々の暮らしぶりやしきたりなどを目にするのは、なかなか興味深いことなのではないかと思う。

    自国の家庭内で使っている言葉が、まったく異なる国に定住した先祖の同郷の人々に通じるということはもとより、それぞれの土地に根付いて代々暮らしているだけに、生活様式もローカライズされ、普段使っている語彙も地元の言葉等の影響を強く受けていることに気付いたりもすることだろう。

    中国から国外への移民の初期は、ほとんどが男性ばかりであったため、同じ潮州人、広東人といっても、本土の人々とはかなり異なる風貌になっていることも少なくない。それでも民族としての中国人、あるいはもっと細かなコミュニティの出自であるというアイデンティティを持つことができるのは、同族としての絆の深さと自身が背負う文化や伝統への愛着とプライドゆえのことだろう。

    私自身は中国系の血を引かない、ごく普通の日本人であるため、そのような感情を抱くことはないのは少し残念な気がしないでもない。

    さて、アセアン諸国から見て西の方角にあるインド。かつてほどの人口規模はないとはいえ、今も決して少なくない数の華人たちが暮らすコールカーター。多くは広東系あるいは客家系であるが、先祖の出身は広東省の梅県が多い。通信手段の限られた時代であったため、中国から国外への移民の場合だけでなく、インドから東南アジア方面その他への移民たちの場合でも、同郷から非常に多くの人々が渡ったというケースは多い。人づてのネットワークがそうさせたともいえるだろう。

    コールカーターの華人社会について、地元で生まれ育った華人自身(現在はカナダに移住)によって書かれた本があり、インド人の大海の中の片隅で暮らす華人たちの暮らしぶりを活写している。描かれているのは、華人社会の中での濃密な人間関係であり、周囲のインド人たちとの関わりであり、1962年に勃発した中印紛争のあおりで苦渋を舐めることになった中華系の人々の悲哀でもある。

    書名 : The Last Dragon Dance

    著者 : Kwai – Yun Li

    発行 : Penguin Books India

    ほぼ同じコンテンツで「Palm Leaf Fan」という書名でも出版されており、こちらはamazon.co.jpでKindle版を購入することができるため、インド国外から購入の場合は手軽だろう。

    書名 : Palm Leaf Fan

    フォーマット : Kindle版

    A SIN : B009LAH84G

    同じ著者による論文「Deoli Camp: An Oral History of Chinese Indians from 1962 to 1966」は、ウェブ上からPDF文書でダウンロードできるが、こちらも必読である。ラージャスターン州のデーオーリー・キャンプといえば、第二次世界大戦時にアジアの英領地域に居住していた日本人たちが収容された場所として知られている。中印紛争により「敵性国民」とされることになった華人たち(インド国籍を取得していたものも含む)もまた、居住して商売を営んでいた土地から警察に連行されて、デーオーリー・キャンプに収容された時代があった。

    この論文は、キャンプでの日々や解放されて居住地に戻ってからも続く差別や困難などについて、体験者たちにインタビューしてまとめたものである。これを読むと、ベンガル州北部のダージリン、メガーラヤ州のシローン、アッサム州の一部にも少なからず華人たちの居住地があったこともわかり、少なくとも中印関係が緊張する以前までは在印華人たちの社会にはかなりの奥行きがあったことがうかがえる。

    さて、話は華人たちの旧正月に戻る。今年のコールカーターでの華人の春節のことを取り上げた記事をみかけた。

    Chinatown in Kolkata, only one in India, to celebrate Chinese New Year amid plans for a facelift (dnaindia.com)

    ライターであり写真家でもあるランガン・ダッター氏も自身のウェブサイトで華人たちの新年を取り上げている。

    Chinese New Year, Calcutta (www.rangan-datta.info)

    短い動画だが、昨年のコールカーターでの華人たちの旧正月の模様を映したものもある。

    Chinese New Year in Kolkata India (Youtube)

    Youtubeの動画といえば、ムンバイー在住のドキュメンタリー映像作家のRafeeq Ellias氏がコールカーターの華人たちについて取り上げた作品「The Legend of Fat Mama」を観ることができる。

    こちらは旧正月の祝祭の映像ではないが、同地の華人社会をテーマにした秀作なので、ぜひ閲覧をお勧めしたい。

    ※「マジューリー島4」は後日掲載します。

  • マジューリー島3

    マジューリー島3

    本日は、朝早い時間帯から自転車を借りて島内を走る。起伏が少なく、クルマも少ないので快適に走行することができる。かなり霧が濃く、時間が進むと次第に晴れてくる。ときおり乗合のスモウやトラックなどが通りかかるが、それ以外はバイクか自転車だ。

    前にも書いたが、世界最大級の中洲であるマジューリー島。それがゆえに当然傾斜のないフラットな大地が続いているわけだが、外から運ばれてきた建築等の資材を除いて「石」というものが存在せず、どこもかしこもきめの細かいパウダー状の土壌である。地味は豊かで工作に適しているそうだが、河の水面からあまり高低差がないため、雨季の洪水と闘わなければならないという宿命がある。

    道路は高く盛土した上を走っている。インドでもバングラデシュでもよくある光景だが建設にかかる手間ヒマや費用は大変だろう。道路の脇には大木が並び、日陰を作ってくれているのが普通だが、ここではびっくりするほど背の高い竹が緑のトンネルを形づくっている。

    島にはクルマが少ないので快適に走ることができる。ときどき乗合のスモウやトラックなどが走っているが、それ以外はバイクか自転車だ。霧の中、まあ道路走るのに支障があるほどの霧ではないのだが、地平線まで見渡すことはできない程度に霞んでいる。そう、地平線が見えるほど島なのである、ここは。

    インドの朝の風景はすがすがしい。畑や池で作業している人たちの姿がある。豚が草を食んでいたり、歩き回っていたりする。民家を眺めていると、高床式家屋の床下部分で家畜を飼っているケースが少なくないようだ。ブタについては、アッサムではけっこう食用にしているようで、ブタの解体作業をしばしば目にする。

    最初に足を向けた先はサムガリー・サトラーである。この島にはサトラーと呼ばれる静謐な僧院が多く、その数22か所と言われる。それぞれ独自のカラーがあるようで、ここは仮面作りで知られている。サトラーで奉納する踊りに仕様するものであるが、ここの主は2003年に政府から表彰を受けており、室内には賞の授与式の際にデリーで当時の大統領のアブドゥル・カラム氏と一緒の写真が飾られている。

    マジューリー島では米が三期作できるのだそうだ。農家の人の話だと、時期によって栽培する種類を変えているのだそうだが、同じ水田で異なる品種の稲を栽培して、交雑してしまったりすることはないのだろうか?インドの米は品種が異なると、形もサイズも炊き上がりも違うので、いろんな種類の米を味わえるのはいい。

    島の村々では、昨夜私が宿泊したようなタイプの建物に人々が暮らしている。この時期は寒くてやりきれないことだろう。建物が外にいるのと同じような室温のはずだし、保温性の良い服や寝具があるとは思えない。極めて暑季に特化した造りである。この時期は農閑期のためか、溜池で水草取りをしている人たちは胸まで水に浸って作業している。そのかたわらで竹を編んだ道具で魚も捕まえているようだ。これまた寒くて大変そうだ。

    島の中心地であるカマルバリやウッタル・カマルバリのあたりには、ちょっといい感じの家はあるが、それでもやはり総体的にずいぶん貧しい島である。人々は穏やかで感じのいい人たちが多いのだが。

    ウッタル・カマラバリー・サトラーで、サトラー自体は閉まっていたが、隣の広場で奉納の踊りの練習中であったので見学する。若い男性や男の子たちが楽器を鳴らし、若い女性たちが踊っている。指導者がしじゅうストップかけて指導しており、これがなかなか手厳しい。

    途中、指導者が女性たちの幾人かを指名して、踊りの歌をマイク持って歌わせると、態度は堂々としていてプロ並みに上手いので驚く。もちろん、中には指名されてもはにかんで断る女性もいる。

    サトラーの多くは簡素で、あまりきれいとは言えない環境にあるものが多いようであったが、オーニアティ・サトラーは他のサトラーとはかなり違う感じであった。見るからに財政的な余裕があるようで、とても清潔に整えてあり規模も最大らしい。出家生活を送る人たちが起居する建物の造りも立派なものであった。ここでは一切の世俗の事柄を放棄して隠遁生活をするのだそうだ。

    サトラーにはふたつのタイプがあり、ひとつはこういうタイプだが、もうひとつは妻帯して家族を持つことが許されているサトラーである。最初に訪れた仮面を作っているサムガリー・サトラーが後者のカテゴリーにあたる。

    〈続く〉

     

  • マジューリー島2

    マジューリー島2

    ガラムールの町のはずれにある宿は、簡素な竹造りの高床式の建物である。このあたりではこうした構造の家屋をよく見かけるが、そんなローカル色があるのは楽しい。部屋の中にしつらえてあるベッドも竹で出来ていた。周囲に池や水溜りは多く、宿の下の土地も雨季には水が張ってしまうような地形になっているため、1年の大半は蚊の大群がブンブン飛び回っているであろうことは想像に難くない。寒い時期に訪れたのは幸いであった。

    蚊はともかく、おそらく暑い時期には風通しが良くて涼しく過ごすことができるのだろう。夜、床に就いてから判ったのだが、あまりに風が通り過ぎて寒くてたまらなかった。寝袋を持っていてもこんななので、ちゃんとした防寒着や暖かい寝具を持たない庶民の家では、冬の時期を過ごすのはなかなか辛いことであるはずだ。

    午後5時近くなるとすっかり真っ暗だ。周りには電気が灯っているところはほとんどなく、電気そのものがほとんど来ないので、外に出ると降るような星空が堪能できるのが嬉しい。私の部屋がある高床式の建物からみて未舗装の小路を挟んで向かい側の母屋で食事を注文。

    母屋のキッチンで食事を作ってくれる。

    たまたま同じ宿に泊まっている西洋人夫婦はドイツの人たち。彼らは大学生時代にバブル前夜の日本を訪問したことがあるとのこと。ヒッチハイクをしたら、そのドライバーが彼らの次の行き先に向かうクルマをわざわざ探してくれたとか、沿道でヒッチハイクを試みていたら警官がやってきて、注意されるのかと思ったら、警官自身が通りがかりのクルマをいくつか止めてくれて、彼らの行き先を通過する人を見つけてくれたりして、大変感激したとのことだ。

    この宿を経営する人たちは、12世紀にチベットから移住してきたと考えられているミリという部族の人たちであるとのこと。別名、Missing Tribeとも呼ばれているとのこと。移住していった先で土地を失い続けているためそう呼ばれているそうだ。彼らの片割れはアルナーチャルにも暮らしていて、仏教徒であったり、クリスチャンであったりするそうだ。北東インドには様々な民族が暮らしているが、彼らの存在もその豊かな多様性の一部ということになる。

    バスルーム

    しばらく楽しい会話をしてから、離れにある自分の部屋に戻る。バスルームは扉がなく、井戸水。鉄の匂いがして冷たい。この水温では浴びる気にはならない。竹で出来た家屋に泊まるというのは風流でいいのだが、外の風がそのまま入ってくるのには閉口する。屋根が付いていて、この時期には珍しい雨が降っても濡れないことを除けば、屋外に寝ているのと何ら違いはない。ベッドも竹を編んで作ってあるため、通気性は抜群だが保温性はゼロであり、寝袋に入ってはいるものの、あたかも真冬に野宿しているようで寒くてツラい夜となった。

    風通しが良いということは、冬季は非常に寒いということ。

    〈続く〉

     

  • マジューリー島1

    マジューリー島1

    ニマーティ・ガート

    ジョールハートの街からバスで40分くらい揺られると、ニマーティ・ガートに着く。大河ブラフマプトラのほとりの船着場である。

    さきほどまでバス車内から窓の外の景色を眺めつつ、メールのチェックなどをしていたが、ここに着く少し手前から3G接続はアウトになった。ともあれ、都市部ではそれなりの速度が出ているようで使い心地は良い。今後はカバーするエリアがどんどん拡大していくことだろう。

    正午あたりにバスは出発して、ニマーティ・ガートまでは40分くらいかかった。ここに着く少し前から3Gは圏外となった。まあそういうものだろう。都市部でしか使えないようだが、それでも圏内ではかなりの速度が出ている。今後はカバーするエリアがどんどん拡大していくことだろう。

    私の後ろにいた後ろの子供連れの人たちは、マジューリー島在住の奥さんと幼い娘、そして奥さんの弟の三人連れであった。これからフェリーに乗り込む乗客たちのほとんどはアッサム州内の人々で、その中の大部分は島の住民のようである。

    アッサムは、州都グワーハーティーを除けば、人口は稠密ではないこともあり、U.P.州やビハール州のように押し合いへし合いといった具合ではなく、ゆったりと落ち着いた感じなのは心地よい。

    ブラフマプトラ河

    フェリーと呼ぶにはちょっと小型の木造船であったが、見かけとは裏腹に案外タフであるようで、天井部分には多数のクルマやバイクが積み込まれているにもかかわらず、しずしずと岸部を離れていく。反対側から来る同型の船を見ると、よくこれで動くものだと感心するほどだ。ここからマジューリー島の船着場までは40分ほど(帰りは流れを遡ることになるので1時間程度)かかることになる。

    船内の様子

    島に着くと、沢山の乗合スモウが乗客たちを待ち構えていた。船が横付けされる地点からかなり奥に進むまで、生える木はなく、舗装道路もない砂地が続いている。おそらくモンスーン期にはこのあたりはずっと水に沈んでいるのだろう。かなりの速度で疾走しながらも、私が目指すガラムールの町までは20分以上かかる。マジューリー島は河の流れの中に形成された世界最大級の中洲であるとのことだが、あまりに広大であるため、普通の大地にしか見えない。

    しかしながらやはり中洲という性格上、どこまでもフラットであるため、先述のとおりモンスーンの増水期には沈んでしまうエリアは広いであろうし、水辺の既存の土地が侵食されたり、どこかに新たな土地が形成されたりということを繰り返していることと思う。内陸の部分でもかなり広範囲に水没してしまうエリアもあるように思われる。雨季の瑞々しい季節の景色も眺めてみたくなる。

    〈続く〉

     

  • ネット環境はありがたい

    アッサム州にあっても、少し大きな町の郊外くらいまでは3G接続が有効で、スマホにフェイスブックや電子メールなどのメッセージが絶える間なく入ってきているのがわかる。友人たちの動向にコメントしたり、自分がアップロードした写真にすぐさまメッセージが入ってきたりすると、なんだか旅行している気さえしなくなってくる。こういうときくらいはネット環境から遮断してしまえばいいと思いつつも、仕事関係等で何か大切な連絡が入らないとも限らないので、なかなか踏み切れずにいる。

    物心ついたときから周囲にネット環境があるのが当然という中で育った世代の人々はとくにそういう違和感を持つことはないのかもしれないが、「旅行=日常とはまったく切り離された時間」というのが当然と考えられていた頃から思えば、ずいぶん事情が異なるようになってきている。このように通信環境が整ったがゆえに、ネットでインドの国内移動の予約の手配などを事前に済ませて、簡単に旅行できるようなっているわけでもある。

    スマホ以外に、昨年購入したSAMSUNGのGALAXY CAMERAにもSIMを挿入してあり、こちらにもちゃんとネット環境が備わっている。インドではプリペイドの安価なプランがあるのはありがたい。デジタルカメラとしては起動の遅さがネックではあるものの、ネット通信端末としても利用できるのは今更ながら便利なものだと思う。通話面では携帯電話機能はないがSkypeの利用は可能だ。またテザリング機能を用いてパソコンをネットに繋ぐことも出来る。

    数年前ならば、タッチスクリーンのスマホを持っている人は珍しかったので、人前で取り出して操作するのはためらわれたものだが、今や廉価機種も含めて沢山流通しており、こういう言い方をするのは甚だ失礼かとは思うが、オートの運転手さんたちもけっこうスマホを持っているということに、その普及ぶりを感じることができるのではないかと思う。特に若い人ほど新しいそうしたモノに関心が高いため、少々無理しても購入するという傾向があるようだ。特にフェイスブックなどをやりたいらしい。

    運転手さんたちはともかく、多くの人々にとってのコミュニケーションとは、これまで身近にいる人たちと直接会話するだけのことであったものから、携帯電話の普及により、その場にはいない人たちとも気軽に話が出来るようになった。意中の彼女の父親が電話に出ることを恐れることなく、彼女自身が所有している携帯電話と自分の携帯電話が文字通り直通の「ホットライン」として機能するようになったことが、インドにおける男女の交際の自由化(?)に大きな役割を果たしていることに疑いの余地はない。

    また、デリー準州の政権を担うことになったAAP (Aam Aadmi Party)の躍進は、既成政党に対する「市民の乱」という側面が強いが、それにしてみてもSNSの普及なしにはあり得なかった現象であると私は考えている。政治的に分断されている社会で、個々の市民が共通する主張や願いをもとに繋がるインフラにより成し得た革命である。AAPの今後は未知数であるものの、彼らが巻き起こした波乱が既成政党に与えたインパクトは多大であり、たとえデリーにおけるAAP政権が政治的な未熟さにより失敗に終わるようなことがあっても、インド政界に及ぼした影響は総体的にプラスの作用をもたらすものと私は信じている。

    さて、バスや鉄道の出発待ちのようなヒマな時間も、これまでならばボ~ッと座っているか立っているかしかなかったものが、今はスマホで家族に現在地を伝えておいたり、仕事関係の連絡の有無を確認したり、後に訪れる土地の宿の予約のためにメールしてみたり、カルカッタの書店に書籍取り置きあるいは取り寄せの依頼をしたりなど、それなりに有意義?に過ごすことができるようになってきている。

    ともあれ、世の中やはり忙しくなってきていることは間違いない。ゆえに隙間の時間をいかに楽しむことができるか、活用できるかといったことが、余暇の楽しみ方のひとつのポイントになってきているようにも感じている。それがゆえに、プライベートな時間でも仕事関係のチェックが必要であったりするものの、仕事中でも旅行の航空券の手配、訪れた先での交通機関の予約などの連絡が可能であったりもする。旅行中もネットだのケータイだのというものに縛られるのは癪な気がする反面、いろいろなメリットもあるのだから、あながち悪いものではないようだ、と思い直したりもする。

    そういえば、昔は長期旅行に出た息子や娘がなかなか旅先から便りを寄越さずに、親御さんたちが大変心配したというような話を聞いたことがよくあった。旅している本人たちは毎日楽しく過ごしているのだが、事情を知らない日本の家族たちが不安に思うのは当然のことだろう。ごくたまに、場合によっては数か月に一度程度しか届かない絵葉書などでは詳しい日常のことは判らないし、情報も向こうからこちらへの一方通行だ。たまに局留めで息子や娘に郵便を送ったりしたとしても、そこに本人が本当に現れるかどうかはよくわからないし、手紙をピックアップするためにその局にやってくる前に、保管期限が過ぎて返送されてしまうかもしれない。

    ネット時代がやってくる前に、こんな若い女性に会ったことがある。たしかドイツの人だったように思うが、3日に一度は実家に電話しないといけないのだという。ずいぶん厳しい家なのかな?と思いきや、数年前に兄が外国旅行中に事故で亡くなったとのことで、ご両親は一人旅に反対していたのだという。何とかそれを説き伏せた結果、自身の安全を伝えるために3日に一度は必ず電話するということになったのだと言っていた。3日に一度国際電話とはずいぶんお金がかかって大変だろうと思ったが、毎回コレクトコールを申し込むのだという。それで受ける側の両親はコレクトコールのリクエストを断る。だがそういう形で連絡が来ることによって、娘の無事が伝わるからいいのだということだった。緊急時にはどうなるのかといえば、確か「非常事態用に少し違えた名前を使うことに決めている。」とかいうようなことを言っていたと思う。無事を伝える手段として、タダで賢く国際電話を利用するやりかたがあるのか、と感心したものである。

    だが今はそんな必要はまったくない。メール、スカイプ、そしてLINEはもちろんのこと、ランチに注文した食事が出てきたらそれをスマホで撮って、フェイスブックにアップでもすれば、ごくさりげない写真から家族はもちろんのこと友人たちも、旅行している本人が無事であること、楽しく過ごしていることが瞬時に伝わるからだ。

    そんなことを考えていると、親しく行き来させていただいているスィッキム州の大学の先生からメールが入り、しばらくカルカッタに帰省されていることが判った。すぐさま電話してみて、先生がカルカッタにいらっしゃる間にお会いすることになり、アッサムから戻るフライトを少し前倒しすることにした。そんなわけで、早速スマホでcleartripで取っておいた予約の変更・・・をしようにもうまくいかなかったので、新規に予約して、既存の予約をキャンセル。既存の予約を変更する場合と、かかる費用はあまり変わらないようだ。

    これがネット環境出現以前だったらひと仕事だったなぁ・・・などと、ついつい昔々の事情と較べてしまったりするのだが、やはりよくよく考えてみると、日常生活でも旅行でも、以前のアナログ環境に戻ることは無理であろうし、敢えてそんなことを自分に課したりしたら、ひどい苦痛以外の何ものでもないだろう。

    もっとも、そんなネット環境をありがたい、ありがたいなどと言うのは、アナログ時代に生まれ育った世代であるがゆえのことで、物心ついたときからそういうモノに囲まれて育った人たちに言わせると、「そんな当たり前のことがなぜそんなにありがたいんですか?」ということになってしまうことと思う。

  • 日常でも旅行先でも役立つスマホ兼カメラ

    日常でも旅行先でも役立つスマホ兼カメラ

    近年のSAMSUNGは、実に購買意欲をそそる商品を次々に出してくるものだ。昨年後半から発売されていて、日本では未発売のこんな製品が気になっている。

    Galaxy S4 Zoom (SAMSUNG)

    スマホで写真を撮る気にはならないが、もう少しマシな写りをするのならば大変ありがたい。それでもメインのカメラは手放すことはないと思うけど。

    近年爆発的に普及したスマホは、それまでのケータイと腕時計、予定帳、メモ帳、ネットブックがひとつにまとまっているという点が、世の中の人々から大きな需要を掘り起こすことになったのだろう。もちろんコンデジの需要も大きく侵食してしまっているがゆえに、安手のデジタルカメラがさっぱり売れなくなるということにも繋がっている。

    だがカメラとしての機能については、暗所での極端な弱さは言うまでもなく、画質面でも使い勝手面でも、たとえ比較の対象がコンパクトデジカメであっても、同じ土俵で勝負できるものではない。

    しかしながらこのGalaxy S4 Zoomは、本気でコンパクトデジカメとして造り込んであり、一昨年後半に発売されたGalaxy Cameraほどのものではないが、コンパクトカメラとしても、まあそこそこ使えるものとなっている。Galaxy Cameraと違うのは、こちらは携帯電話として利用できることだ。またGalaxy Cameraにおける不備な点もこちらでは改良してあり、たとえば起動時にいきなりズームレンズが前に飛び出さないようになっていたり、脆弱なレンズバリアーがガラスで保護されていたりといった仕様になっている。

    ズーム域は24mmから240mmで、F値は3.1から6.3というごく平凡なコンパクトデジカメで、絞り優先モードはなく、シャッタースピード優先モードもないという単純なモノであるが、それでもスマホにそれなりにカメラらしいカメラが搭載されているという利点が大きい。

    インドで現時点の店頭価格が3万ルピーくらいであるということは、そこから14.5%の税金を抜いた価格は2万6千ルピーくらい。免税店で買おうかな?と思ってしまう。

    ただし自分自身としては、やはりカメラとしての性能自体にもう少し向上を期待したいので、このモデルに手を出してはいない。Galaxy Cameraの次期モデルが発表となっているが、今度のモデルの通信対応はWifiのみというのは寂しい。初代機のように3Gに対応して欲しいものだ。それでもって携帯電話としての通話も可能であったとするならば、私としては即購入ということになるのだが。

    Galaxy S4 Zoomがもう少しカメラらしいカメラになるか、Galaxy Cameraに携帯電話しての通話機能が付いたら、「インドでどうだろう、この一台」ということで大いに注目できるモデルとなる。ともに5インチに満たない画面では少々物足りないものがあるが、ガイドブックもここに保存しておき、必要に応じて参照するという使い方もできるだろう。

    いずれにしても、今の日本メーカーにはない無尽蔵の体力とアイデアを感じさせるのが現在のSAMSUNGだ。スマホやコンパクトデジカメ以外にも、ハイエンドなカメラでもなかなか面白い製品を出しているので、ぜひ日本でも同様に量販店等で発売して欲しいものだと思う。

    現状では、日本国外で購入したり、あるいは海外通販等でも買い求めたりすることはできるとはいえ、故障した場合の修理面での不安は否定できない点が気がかりである。日本市場への正規ルートでの進出を期待したい。

  • モコクチュンのクリスマス 3

    モコクチュンのクリスマス 3

    教会といえば大半がバプティスト
    教会

    朝7時に頼んでいた朝食を摂るために階下に降りる。隣席にはアッサムから家族と来ているインド人。この人は釣りが趣味とのことで、北東地域ではとりわけアルナーチャル・プラデーシュがお気に入りとのこと。

    「でもどの土地も所有者が決まっていて、釣りしていると、ここではダメだと言われることもよくある。これが平地と違うところだね。平地でも土地の所有者は決まっているけれども、釣りをしていて何か言われることは特にないよ。」

    この人は、アッサム州の人で、近隣州に住んでいることもあるかと思うが、アルナーチャル・プラデーシュ州の少数民族事情にもかなり詳しい。最近のインドの人たちは、自国内を広く観光するようになったこともあってか、その地域のマイノリティの習慣や社会についてもかなり知識や関心を持っている人が増えているようだ。

    昔はインド人の観光といえば、タージマハルのような超メジャー級の観光地か巡礼地と相場が決まっていたが、今はインド中どこに行っても、それこそ西洋人の姿を見かけないところであっても、インド人観光客はいたりする。バイクで旅行する人たちが多くなってもいる。

    90年代から一大ブームとなった国内観光も、さすがにこれだけの年月を経ると、いろんなスタイルの人たちが出てきている。夏にラダックで会った、デリーでの勤めを辞めてバイク旅行していた若者のように、「自分探し」の旅行をしている人たちもいる。自分探しというのは決して悪いことではないと思う。もともとありもしない自分を探すのではなく、「こう成り得る自分」を追求する旅であるからだ。この人は、ライター志望で、そのために旅行していた。ライターとして身を立てる自分と自身が書く題材を見つけるための旅である。

    外に出て歩いてみると、昨日はクルマが出入りしていたり、路肩に駐車していた商業地では車両の姿をまったく見かけないようになっているし、どこに行っても商店はすべて閉まっているという徹底した休日モードである。走るクルマもほとんどない。皆が自発的に休みとしているのか、それとも行政や組合が休みとするように強制しているのかはよくわからない。インドの他の地域と大きく異なるのは、どこまでも徹底して休みとなるので外で食事はおろか、軽食さえもみつかならないこと、そして交通機関も姿を消してしまうため、移動もできないことだ。クリスマスだけではなく、ふだんの週末も同様の状況となる。

    どこも店は閉まっている。
    人々は自発的に休んでいるのか、それとも政治的に強要されるのか?

    教会には人々が集まり、ミサを行っている。しばしば賛美歌が聞こえてくる。細い路地で行き交う人々と「メリー・クリスマス!」と声かけ合うのが心地よい。ミサの後はクリスマスの食事が教会近くで振舞われている。年に一度の大きな行事なのでみな楽しそうである。精一杯のおしゃれをして教会に集まっているのだ。住宅地あちこちにクリスマスの飾り付けがなされている。万国共通のデザインではあるものの、クリスマスツリーの意匠は日本のそれとずいぶん異なる。

    教会近くの広場で、ミサに集まった人々に振舞われる食事

    教会に人が沢山集まっているのとは裏腹に、家の中で家事にいそしむ人たちもある。教会への関心はやはり人それぞれなのだろう。私が受けた印象では、教会に集まるのはどうしても、より知的でどちらかといえば裕福な層が多いように思える。晴れ着を持っていないと、そういう場に出るのは気が引けるということもあるかもしれない。男性は洋装が多いが、ナガのショールを纏って出席する人もいる。女性も洋装が多いが、ナガの伝統的な女性の衣装の人たちの姿もある。どちらもパリッと着こなしていて、いい感じだ。

    今日もあちこちで爆竹が鳴り響いている。精一杯着飾った人たちが教会に出入りして、賛美歌が流れてくる雰囲気と、戦争でもしているかのような轟音が響く爆竹とではどうもイメージがオーバーラップしないが、おそらく教会には行かないようなタイプの子が鳴らしているのではないかと思う。

    モコクチュンにはカレッジまであるが、卒業後に就業機会はなかなかないらしい。就職先として最も条件が良いのは公務員ということになるようだ。他には、何か家業があればそれを引き継ぐか、さもなければ自分で小さな仕事でも始めるしかないという具合とのことで、日本の過疎の田舎と似たようなところもあるかと思う。世帯にはだいたい三人から四人くらいの子供がいるのが普通であるというから、やはりみんなが将来に渡り食べていくには、就業機会が必要である。

    斜面の頂上を中心に広がる町なので、ダージリンやシムラーなどのヒル・ステーションとも遠景は似ている。ただしこれらと大きく違うのは英国時代の遺産と思われる建物は見当たらないこと、旅行産業がまだ端緒についてさえいないので、観光客相手らしきレストラン、みやげもの屋といった類が不在であることだ。

    観光産業といえば、オーガナイズツアーがまだまだ中心のようだが、そもそも交通のインフラがとても貧弱であることは、そう簡単に克服できることではないだろう。山奥の部族社会であったため、人が造ったもので歴史的な建造物はないため、多くの人々を集めることができるかどうか期待するのは難しいように思う。景色にしても他のヒマラヤ地域のほうが優れているし、文化的な遺産も比較のしようがないほど多い。今後治安が本当に良くなったとしても、トレッキングの需要が高まるとも思えない。ごく最近、パーミット無しで行き来できるようになったという新鮮さはあるが、果たしてこの地で観光業が今後振興するかといえば、かなり困難を伴うように思える。

    ただし、可能性といえば、インドの北東部の治安が安定に向かっていること、ビルマの西側も同様であること、ミャンマーが経済の開放に舵を切ったことにより、最近言われているインドとミャンマーを繋ぐ物流ルートが出来ることになったならば、このあたりの経済は大きく変わることだろう。だがそれは、ここにインド本土から巨大な投資とモノと人が流入してくることであり、これまで独立を求めて闘ってきた地元の意思とは相反するものとなる。やがては大インドにそのまま吸収されていくことになるのではないかと思ったりもする。

    ここでは日没は午後4時過ぎだ。太陽は山々の向こうに姿を隠している。まだしばらく明るさは残っているが、太陽が見えなくなると急に寒くなってくる。やれやれ。

    坂だらけの斜面の町なので、さほどの距離でなくても、かなりくたびれる。こういう町に暮らしていると、高齢者は外出が億劫になることだろう。また足が悪い人のクルマ椅子も危険で使えるような環境ではない急斜面なので、身体の具合の悪い人は外出の機会も少ないことだろう。

    日本では山地の町や集落は谷間に形成されることが多いが、ここでは山の頂上ということが多い。社会習慣や伝統上の違いといえばそれまでだが、やはり水の確保は容易ではないらしい。たまたま知り合った地元の水道局職員としばらく話をしたのだが、ずいぶん下の谷間を流れる水をポンプで汲み上げて供給しているという。

    コヒマもそうだが、モコクチュンもここまで町が大きくなったのは、比較的近くにそういた水源があること、加えて現在は電気等を利用した技術があるがゆえに、このような規模で人々が居住できることになったのだろう。

    モコクチュン郊外にも小さな茶畑がある。気候条件はダージリンあたりに似ているはずなので茶の栽培は当然できるだろう。だがあまりよく手入れされているようではなく、茶の木がかなり背が高くなってしまっているものもある。自家消費用だろうか?

    のどかな山間の町のモコクチュンだが、早朝や夜間などに出歩いていると、向こうからやってくる数人組の男性が機関銃を持つ軍人であることにギョッとしたりする。ライフルを背負った警察官ではなく、プロの戦闘員が警備をしているというのが、停戦により平和を救助していながらも、いまだ不安を払拭しきれないナガランド州にいることを感じさせてくれる。

    現在、反政府勢力による大きな騒擾が起きていないのは喜ばしいことだ。しかしながら内戦時代を通じて、中国製の武器が大量に流入していること、中国による戦闘員に対する訓練等がなされてきたといった事柄があるがゆえに、インド独立以来半世紀以上に渡って、彼らが当地に展開しているインド軍と互角に渡り合ってきたということになるのだが、同時に市民の間にも相当量の武器類が出回っているものと考えてよいだろう。

    これまで、反政府組織による外国人を狙った誘拐行為などは起きていないようだ。また、一般のナガの人たちは礼儀正してく親切だが、どこの国にも悪い奴はいるものである。政治的な問題はさておき、そういう者が武器を持って強盗を働いたり、山賊行為をしたりということは当然あるはずだ。

    インド国内にありながらも、インド文化圏外にあり、南アジア世界と東南アジア世界の境目にあることを感じさせてくれるのがこのエリアだ。ただしこの「世界の境目」もまた、ナガランド、マニプル、ミゾラムなど、州や地域により民族や文化習慣等も様々であることは大変興味深い。

    北東インドらしくサッカーは盛んなようだ。こちらは地元の大会のポスター。

    〈完〉

  • モコンチュンのクリスマス 2

    モコンチュンのクリスマス 2

    モコクチュンの町

    山の上に広がるモコクチュンの町は、想像していたよりは大きく、見た感じは物資もそこそこ豊かな感じがするのは、ここまで来る道を考えると不思議である。物資を運ぶもっと効率的なルートが他にあるのかといえば、そんなことはないだろう。ナガランド最大の街、ディマープルからのルートが一部アッサムを経由するこのルートで到達するのは、他よりもベターな道路を選好してのことであるからだ。ナガランド州において、ディマープル、コヒマに次いでモコクチュンは大きな町ではないかと思う。

    Hotel Metsuben

    Hotel Metsubenという、町の中でも小高いエリアにあるところに投宿。Metsubenとはナガの言葉で「花」という意味だ。クリスマスなので、込み合っているのではないかという予想は外れた。外国人客は私以外には、インド人バイカー、フランス人の四人連れのグループ、そしてインド人家族連れが二組だけで、ガランとした感じであった。食事も材料の調達の関係があるので事前に注文しておいてくれとのこと。下半期におけるひとつのピークと思われるシーズンでこのような具合ということは、それ以外の時期には閑古鳥が鳴いていることだろう。

    私とインド人バイカー以外は、隣州のアッサム州発のツアーで来ている人たちだ。ナガランド州の交通事情を考えると、これが最善の方法であることは、クリスマス前後の数日間が州内のすべての分野において共通であり、交通機関さえもその例外ではないということを知るに至り判った。ツアーで来ている人たちと、自前の足を持っているインド人バイカー以外は、たとえ町周辺を散策してみようにも、徒歩で行くしかないだけでなく、州内の移動もままならない。同様に、この州では週末は同様の状態となるため、インドの他州と比較して、あるいは同じ山間の州と較べてみても、信じられないくらい旅行はしにくいことになる。

    スィッキム州でも地域間の公共交通機関により移動は、主に朝早い時間帯のシェア・スモウのみという具合であったが、ここでは主要な町のひとつであるモコクチュンからであっても、ディマープル、コヒマ以外へのバスやスモウは、休みの日以外であってもあるのかないのか判然としないくらい頼りない。もともと人口密度が薄く、人やモノの地域間での移動も少ないのだろう。確かに今日眺めた範囲に限られるが、沿道で見かけた集落もずいぶん小さくて簡素なものばかりであった。

    さきほどナガランド州内のウォカーから到着したインド人バイカーは旅慣れた感じの男性。5週間の休暇中で、ロイヤル・エンフィールドの大排気量モデルを駆り、遠路はるばるケララ州から来ているとのことである。ジャーナリストかライターかと思えばそうではなく、なんと医者であるという。

    「え、医者が忙しい?40歳を過ぎて自分なりの地位を固めれば、仕事は下の者たちがやってくれる。もうしゃきりきに働く年齢ではないさ。」とのこと。この人自身は50歳前後くらいだろう。インドの医者がそんなにヒマとは思えないのだが、どうやら自分で病院を経営していて、彼の子供たちや雇用しているスタッフたちに任せているので、わざわざ「お偉いさん=彼」がオペを取り仕切るようなことはないということのようだ。

    「外科医なんだが、まあアレを切ったり、これを付けたりってな具合だね。要は大工仕事と同じだ。」と笑う彼の趣味はバイクで駆け回ることであるといい、この年齢にしてバイクでケララ州から北東インドにやってきて、帰路もまたこの北東地域から一路ケララ州まで走破することになる。体力にも自信があるようで、なかなか面白い人物らしい。

    大蛇のとぐろみたいなクリスマスツリー
    立派な体格のサンタさん
    雪は降らないけど雪ダルマ
    これまたクリスマスツリーの一形態か?

    この日はクリスマスイブであったため、町中にいくつもある教会ではミサが続いている。賛美歌を合唱する様子を見ていると、これらを日本語で歌ったミッション系スクールに通った高校生時代のことを懐かしく想い出す。ギターその他の洋楽の楽器による伴奏でやっているところもあり、いかにもクリスマスというムードである。

    町一番の大きな教会
    着飾って教会前に集まる子供たち

    ナガランドのキリスト教の歴史は浅く、建築的には見るべきものはない。それでも外部の宗教とまったく縁のなかった地域で、ときに首狩りに遭い殉教してしまう宣教者を出しながらも、教えを広めていったバプティストの人たちの情熱と根気には頭が下がる思いがする。もともとイギリスによる統治に対する反抗が強い土地だったので、そうした外来者による宣教についても相当な嫌悪感や反対もあったことだろう。

    ミサの後に撮影。教会の中はこんな感じだった。

    ナガランド、マニプル、ミゾラムは禁酒州ということになっているため、バーはなく、ホテルでも酒は出していない。どこか闇のバーはあるのではないかと思うのだが。禁酒州がゆえに、町中には酒の広告類もない。ここに住んでいる人たちは、アッサムに出かけて「おおっぴらに飲む」ことに喜びを感じたりするのだろう。

    地元の人たちはけっこう飲んでいるという話もあるので、どこかでかなり出回っているのだろう。軍用に大量に供給されているはずなので、そのあたりからも流れているものがあるのではないかと想像はできる。マーケットや空き地などでビールの空き缶やウイスキーの空き瓶などを見かける。

    夕食は宿のレストランにて。ナガのチキンの料理を食べる。大豆発酵させた調味料を使っているため独特の臭いがする。ちょっと納豆に近いような、そうでもないような具合だ。味わいについては賛否が分かれるところではないかと思う。

    旨いかどうか微妙な味
    ナガ料理については人により評価が大きく分かれるはず

    夜は嫌になるほど冷え込む。二枚の毛布の下に、フリースを着たまま潜り込んだのだが、それでも寒くて寝ることができないほどだ。

    昼間もそうであったが、布団に入ってからも外からはまるで銃撃や爆弾のような物凄い轟音の爆竹の音が断続的に響いてくる。ディワーリーのときによく鳴らしているものと同じだが、子供達の遊びとしてはちょっと危険過ぎる。誤って失明したり指を失ってしまったりという話も耳にする。あんなものは禁止してしまえばいいのにと思うが、そのあたりのさじ加減というか、許容度は日本とインドでは天地の差がある。危険だからと禁止してしまえばいいかといえばそうでもなく、こうしたことから学ぶことも少なくないことも事実であるからして、さじ加減がむずかしいところだ。

    夜はとても冷え込む

    〈続く〉