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カテゴリー: greater india

  • 映画「ブータン 山の教室」

    映画「ブータン 山の教室」

    コロナ禍ですっかり映画館から足が遠のいていおり、今年度初めてのシネマホール。「ブータン 山の教室」のあらすじはリンク先のとおりだが、結論から言って、ひさびさに映画館で観る上映作品として選択したのは正解であった。

    秀逸なストーリーもさることながら、インドのスィッキム州からすぐ近くにあるブータン王国のティンプーの風景、そこに暮らす若者が教師として赴任する、最寄りの町から徒歩1週間のところにある寒村とその地域の風景。どちらもインドの山岳地域のチベット文化圏を思わせる風情と眺めも興味深かった。緑あふれる美しい山の景色、清冽な水の流れる渓谷、神々しい雪山の眺めをずっと目にしていたくなる。

    GNH(国民総幸福量)とかなんとかいう、いかにも白々しいブータンの官製プロパガンダとは違う角度から描かれた幸せのひとつの形。日本のそれとたいして変わらない都市生活。スマホでいつでもどこでも仲間たちや外国の情報に触れる都市育ちの若者と、電気すらなく村内以外との接触が片田舎の同世代の人たちとの意識の乖離を描きつつ、不便と不満から村人たちに失礼を働きながらも、何もないところに赴任してきてくれる若い教員を尊重して温かく接してくれる村人たちとの信頼関係を築くことができて、任期を終えて後ろ髪引かれながら村を後にする主人公。

    学級委員役のいかにも利発そうな女の子はブータンの有名な子役かと思いきや、そうではなく普通の村の子ということに衝撃のようなものを感じる。生徒たちの前で先生が英語でしばらく話をするシーンもあり、そこはやっばりのインドアクセントであるところが、いかにもブータンらしい。1970年代以降、近代化を目指したブータンの教育仲介言語は英語だが、導入時に「英語人材」を欠いていたブータンに対して、大勢の教員を送り込んでバックアップしたのは、面倒見の良い「兄貴 インド」であったからだ。

    The Endの後のクレジットには、制作陣に香港のメディアグループがあることになるほどと感じるとともに、技術系のスタッフのところにインド人の名前がいくつも並び、おそらくブータン映画産業に携わるインドの業界人は少なくないのだろうとも想像する。

    そういえばブータンで最初にテレビ放送が始まったときもインドによる丸抱えの援助であった。画面にインド人はひとりも出てこないのだが、ブータンとインドの絆が見え隠れするところもまた興味深い作品である。

    ブータン 山の教室」(公式サイト)

  • イスラーム世界とユダヤ社会

    リンク先の記事だが、書いてあることは驚くべきことでも何でもなく、ごく当然のことだろう。イスラーム教徒とユダヤ教徒の対立の歴史は浅い・・・と書くと、いろいろ反論されるかもしれないが、イスラエル建国運動が現実の動きとなり、イスラエルが建国される前は、そんな「対立」はなかったわけで、イスラーム教とユダヤ教の長い長い共存共栄の歴史の中では、「ごく最近の現象」であると言える。

    アラビア世界各地にユダヤ人地区があり、彼らはイスラーム教徒たちと共存していた・・・というよりも、それぞれの現地で、ユダヤ教徒たちは「ユダヤ教を信仰するアラビア人」であった。

    インドにおける、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれるアラビア方面から渡ってきたユダヤ教徒たちもそうで、当初は自らも「アラビア人」として、アラビア式の生活様式、アラビア式の装いをして、インドで商業活動を広げた。やがて彼らの上層部を形成する層は、英国植民地当局の買弁としての活動が広がり、急速に植民地支配者側の体制の人たちとなっていく中で「欧風化」していった。商業活動、とりわけ貿易業に携わるバグダディーが住み着いた地域は、ムンバイ、カルカッタ、ラングーン(現ヤンゴン)などの港町が多かったが、いずれもムスリム地区にある。それほどイスラーム教徒の取引のネットワークとユダヤ教徒のそれは、深い繋がりがあったのだ。

    独立後、ユダヤ教徒は海外流出により、ごくわずかなものとなっているが、どこの街でもシナゴーグなどの保守に当たるのは、現地のユダヤ教徒世話人から託されたイスラーム教徒たちである。イスラエル建国により、国レベルでは、イスラーム教の国々や様々な国々に暮らすイスラーム教徒との間で感情の軋轢が新しく生まれてしまったが、もともとはイスラーム世界の一部を成すユダヤ社会であったわけだし、今に至るもそれは継続している。

    UAEとイスラエル国交樹立により、前者の経済活動にイスラエルから多数参画するようになったのは、今の時代にあっては新しい現象ではあるものの、実は「大昔からそうであった、あるべき姿に戻った」といえるのだ。リンク先記事で、このあたりを押さえておかないと、あたかもイスラーム教徒とユダヤ教徒が何百年も千年も長きに渡って対立してきたかのような誤解を読者に与えてしまいかねないと気になるのだが、これが杞憂であれば幸いである。

    (世界発2021)かつての敵国、急接近 イスラエル・UAE、国交樹立半年 (asahi.com)

  • ミャンマーは今後どうなるのか?

    「内戦の危機なんて、まさか?」とも言えないように感じている。

    アラブの春の一連の動きで、シリアで民主化要求運動が高まっていったころ、誰が内戦など想像しただろうか。アサド政権による厳しい管理社会に多数の武器や弾薬がどこかに隠匿されていたわけではなく、思惑をそれぞれ持つ各国がいろんな勢力に肩入れしていった結果、あのような泥沼になってしまった。

    ミャンマーにおいて、国軍による苛烈な弾圧と市民の抵抗という二極化した形で描かれる現在。これは大変なことなのだが、さらに悪い事態もあり得るのではないかと思う。国軍が割れて、つまり現在の主流派と対立する派閥が浮上して、非ビルマ民族の軍閥組織、近年、多くは政府と手打ちをしたり、武装解除したところも多いとはいえ、これらがそれぞれ利害関係でいずれかと手を組むようなことが。

    そのような事が起きた場合、ミャンマーに大きな権益を持つ中国が主流派を援護し、軍の第二勢力を、東南アジアとの接続のハブとして自国北東部で、道路やインフラの開発を盛んに進めているインドが支援するような構図が生じたりしないだろうか。

    自国北東部から見たASEAN世界の入口であるミャンマーには、親インド政権を樹立してもらいたいわけで、中国になびかない側に肩入れするのは自然な流れである。

    もちろん国防上の理由からも、ミャンマーがさらに中国へと傾斜するのとは是が非でも避けたい。主流派を見限って独自の動きをしようという第二勢力が国軍の中に出てくるようなことがあるとすれば、彼ら自身にとっても、やはり手を組む相手、救いの手を差し伸べてくれる国は、インドをおいて他にない。

    ちょうど、かつての東パキスタン内戦、つまりバングラデシュ独立運動が最高潮に達したときが、これに少し似た構図だった。西パキスタンからすると、東西に分かれていたパキスタン国内の東部での内乱であり、東の東パキスタンにしてみれば独立闘争、そしてインドにしてみると、東パキスタンを潰し、そこに親インド政権をそこに樹立したかった。国外から見ると、東パキスタンをめぐってのインドによる代理戦争。

    インドの思惑とは裏腹に、バングラデシュはインドの傀儡国家とはならなかったものの、反パキスタン国家となり、それ以前は東西を敵対国に挟まれていたインドにとって、自国東部の安全保障上の懸念は消滅した。独立後のバングラデシュは経済、水利、不法移民等々の問題は抱えているものの、自国に脅威を与える存在ではなくなり、東パキスタン内戦に介入した甲斐は大いにあった。あの抵抗はバングラデシュにとっては大きな成功であるとともに、インドにとっても「大成功した戦争」であったということになる。

    今回のミャンマー、経済制裁や周辺国等による説得により、国軍が自制して再び民主化へと舵を切るようになれば良いのだが、国内諸勢力や周辺国をも含めた複雑な対立による炎が燃え上がるようなことになると、取り返しのつかないことになるのではないか、と危惧せずにはいられないのである。

    ミャンマー騒乱を深刻化させた4つの理由――忍びよる内戦の危機 (YAHOOニュース)

  • インドの偉大さ

    先日ミャンマーで発生したクーデター。せっかく民主化してから10年経つというのに、時計の針を一気に戻してしまうような、せっかく軌道に乗って明るい将来を描こうとしていた経済が、これからどうなるのだろうか。ミャンマーからのニュースを目にして、耳にして、ふと思うのは、年中ゴタゴタが絶えない割には、揺るぐことのないインドの安定ぶりである。隣国パキスタンやバングラデシュでは、クーデターあり、政変ありで、目まぐるしいことが多いのだが、インドは時の政権が不人気で政局が流動的になることはあっても、国の根幹が揺らぐことはない。

    いや、例外はあった。インディラーの時代に強権が独走した「非常事態権限」のころである。あのときは在野の政党や指導者たちと民衆が力を合わせてインディラーの独裁に抵抗した。決して長くはなかったが、そんな時期はあった。当時、軍の一部では不穏な動きもあったとのことで、もしかしから?という可能性はあったのかもしれない。

    また、隣国との係争地帯を抱えるカシミール、同様に中国その他からの干渉がある「動揺地域」である北東部のいくつかの州は、そうした周辺国と連動性のある分離活動のため、本来ならば国境の外に向いているべきインド軍の銃砲が、地元市民にも向けられる状態であったため、「インドの民主主義の外」にあった。いや、「あった」という過去形ではなく、地域によっても今もその状態は継続している。そんな地域では、警察組織ではない軍隊に市民を尋問したり拘束したりする権限が与えられていて、さまざまな人権問題も発生しているのだ。

    だが、そうした地域は例外的なもので、やはりインドといえば、独立以来ずっと今にいたるまで非常に民主主義的な国だ。

    90年代以降のめざましい発展が言われるインドだが、まだまだとても貧しい国だ。日本、ドイツに次いで世界第5位のGDPの経済大国とはいっても、13億を軽く超過する、日本の10倍もの人口を持つがゆえのことで、一人当たりのGDPにならすと、わずか2038ドル。9580ドルの中国はインドの4.7倍だ。もう比較にもならない貧しい国である。

    そして文字を読み書きできない人々は総人口中の23%。ひどい州になると33%にも及ぶ。今、西暦2021年なのに・・・である。そんな貧しい人の票もミドルクラスの裕福な人たちの票も等しく一票。投票所の投票マシーンには、政党のシンボルマークが描かれており、文字が読めない人でもそれを頼りに票を投じる。中央の選挙でも地方の選挙でも、ときどき不正があったのどうのという話は出るが、どんな不満があっても居座ったり、クーデターを画策するようなこともなく、敗者は退場していく。落選した議員、失職した大臣などが、政府から与えられた官舎から落選後もなかなか出ていかないというトラブルはあるようだが、公職に力ずくでしがみつこうとするような話はまずない。そのあたりは実にきっちりしている。さすがはインド。

    スーチーさんは母親のキン・チーさんがインド大使であったため10代の一時期をデリーで過ごしており、現地で学校にも通っていた。当時首相であったネルーとも家族ぐるみの親交を持ち、24 AKBAR ROADにあった屋敷がキン・チーさんの大使時代に与えられていた。青春時代にインドの首都で「デモクラシー」の薫陶を受けたスーチーさんにとって、「民主主義インド」は彼女の理想かどうかは知らないが、ひとつの重要なモデルであるとされる。

    それにしても、ネルーからこの24 AKBAR ROADの屋敷を使わせてもらっていたというのは大変なことだ。現在の国民会議派の総本部があるのが、まさにその場所なのだ。そのような重要なところに住まわせてもらっていたのが現在のスーチーさんを含めたキン・チーさん家族。インドと、そして初代首相のネルーと、実にゆかりの深い人だ。それだけに、今の時代になってもミャンマーでこのようなことが起きて、自宅軟禁となっているのは、なんとも皮肉なことである。

    同時に、常々いろいろな問題や不正に満ちていながらも、「総体としてはしっかり」しており、「根幹は良識と法で守られている」インドに対して、いつもながら畏敬の念を抱かずにはいられない。「JAI HIND !(インド万歳)」という言葉が自然と口に出る外国人は、実に多いのである。

    For Japan, Myanmar coup brings fears of threat to business, political ties (The Mainichi)

  • 新型コロナワクチン接種で観光客回帰?

    1月14日からセイシェル共和国は「新型コロナワクチン接種済」の観光客を検疫等の制限なしで受け入れることを開始した最初の国となったそうだ。

    One island welcomes all vaccinated travelers — but some may want to wait (CNBC)

    現在は同様の措置をネパールも検討中とのことで、これと同様の措置により接種済の証明書を持つ人に対してはPCR検査も隔離もまったく求めず、アライバルビザの復活も併せて検討中であるという。

    Nepal to allow unrestricted entry to vaccinated tourists (Kahmandu Post)

    とりわけこれまで観光に依存してきた国にとっては、今回のコロナ禍により経済が「生きるか死ぬか」になっているところは多い。同様の検討を勧めているところは少なくないはずだ。

    もちろんセイシェルがこのような措置を開始したといっても、観光客の送り出し国では帰国時に従前どおり「14日間の隔離」をそう易々と停止することも現状ではなさそうだ。加えて旅客機の国際間の定期便も激減している中で、セイシェルが期待しているとおりには事が運ばないように思われる。新型コロナウイルスについて、まだわかっていない部分も多く、始まったばかりの接種の効果も未知数の部分もある。

    今後、その効果と集団免疫の達成状況、そして各国間の合意等を経ることによって、「海外旅行」の機会が私たちのもとに戻ってくることになるのだろう。まだしばらく時間がかかるのだろう。

    個人的にはセイシェルには関心はないが、「早く接種してネパールを訪問したい」と思っている。しかしながら現状では、帰国時には2週間の隔離があるだけでなく、「自粛ムード」の中でたとえ航空券が手に入っても、行けるのか?という面も大きなハードルである。

    やはりまだしばらく先のことにはなりそうだが、それでも各地で接種が始まっていたり、開始が予定されているワクチンが大変有効なもので、「接種さえすれば海外渡航も行動も制限なしで当然」というムードが醸成される、ごくごく近い未来に期待したい。

  • 「アーリア人の谷」の気になる噂

    ラダックのブロクパの人たちの地域、俗に「アーリア人の谷」とも呼ばれるところだが、そこにはチベット文化と仏教を受容したアーリア人たちが暮らしている。

    「アレキサンダーの東征の末裔」という説もあるが、中央アジアのフェルガナ盆地に端を発するアーリア人たちの幾多の集団が、現在の欧州、イラン、南アジア等へと移動していく中である集団は定着し、またある集団はさらに先へと移動していった。こうした集団の中の小さなグループがたまたまこの地に定住して、現在に至っているのだろう。周囲はモンゴロイド系の人たちの地域ながらも急峻な山岳に遮られているエリアだけに、そのままコミュニティが残されたのだろうか。

    そんな珍しい地域で嫌な噂が流れているのに気が付いたのは近年。「妊娠ツーリズム」というものがあるのだというのだ。「純粋なアーリア人の遺伝子を求めて子供を授かることを目的でやってくる欧米人女性がいる」という話である。

    当初は根も葉もない与太話だと思っていたのだが、India Today傘下のニュース番組でも取り上げているところから、実際にそういう例はあったようにも思える。ナチスの優生思想ではあるまいし、「純粋なアリアン」が何だというのだろうか。アーリア人の血とは、それ以外の人たちにくらべて、そんなに尊いもののなか。

    それとは別に「現地男性が女性旅行者に買われる」という倫理的な問題がある。言うまでもなく「女性が男性旅行者に買われる」というケースは世界中で多く、これも同様に倫理的に問題なのであり、「アーリア人の谷」でのこの件がそれらより大きな問題というわけではないのだが、こんな小さなコミュニティのもとで、そんなとんでもない「ツーリズム」が振興したとしたら、本当に大変な話だ。

    それはそうと、この地に暮らす「アーリア人仏教徒」というのは、たしかにちょっとミステリアスな存在ではある。しかし「純粋なアーリア人」という意味では、チベット文化を受容しており、チベット仏教徒となっている人たちが多いことなどから、「純血種」というわけでもないように思う。灰色や緑色の瞳の人たちは多いが、総じて小柄で肌色は赤みがかって(これは日焼けか・・・)おり、風貌も先祖のどこかにモンゴロイドの面影を感じさせる村人も少なくないのである。長い歴史の中でどこかで他のコミュニティとの交流があり、混血が繰り返された過去があると考えるのが自然だろう。

    まあ、いろいろ頭に浮かぶことはあるのだが、地域起こしに観光というものは手っ取り早く収益を上げることができ、放っておけば失われてしまう地元の文化を「観光資源」として守り育てていく効果もあるのだが、方向性を誤ると地元の文化やコミュニティをひどく傷つける、地域の評判を著しく落とすたいへん不健康なものとなりかねない。

    このような「ツーリズム」は、ごく一部の非常に稀な事例に尾ひれがついて広まった「都市伝説」みたいなものではないかと個人的には思いたいのだが、とりあえずは今後の進展に注目していくしかない。

    Pregnancy tourism in India (INDIA TODAY)

     

  • サウジアラビアの観光振興

    昔ならば(昔といってもどのあたりまで遡るかによるが)サウジアラビアが観光振興政策を打ち出す時代がくるとは想像すらしなかった。観光査証そのものが存在せず、どうしても見たければ通過査証でなんとかするしかなかった国。その後、名目は「視察」で事実上の観光客を国を限って受け入れるように転換した。たしか十数年前であったか。

    そして今では「Visit Saudi」というキャンペーンを打ち出している。コロナ禍の中で渡航はできないが、収束した後を見据えてのものだろう。広い割にはあまり観るべきところはない国と思う人もあるかもしれないが、実はけっこう名所には事欠かないサウジアラビア。

    インドから同国各地への直行便は多いので、コロナが収束したら訪問してみたいと思う。そうしたフライトの乗客の大半はインド等からの出稼ぎの人たちなのだが、サウジアラビアを観光していても、各地のいろんなところで、インド、ネパール、パキスタンからの出稼ぎの人たちと出会うことだろう。インド旅行裏バージョンみたいなものになるかもしれない。

    人口統計に在住外国人も含まれる湾岸諸国。総人口中に占める外国人の割合が88%と最も高いUAE、81%のカタール、68%のクウェートと比較すると、サウジアラビアでは32%とずっと低い。それでもサービス産業従事者のほとんどは外国人であると思われる。その中でインドをはじめとする亜大陸の人たちが占める割合は高く、加えてエジプト、スーダン、モロッコなどのアラビア語圏の人たちという具合だろう。以前、土地っ子の雇用創出のために外国人タクシー運転手を締め出そうという試みはあったようだが、結局サウジアラビアの人はそういう仕事をしたがらないので、今でも運転手たちは外国人のようだ。

    乗り物の運転手車掌等を含む交通機関の職員、商店の店員、食堂や宿屋等で働いているスタッフやマネージャーなどは、たいてい出稼ぎの人たちだろう。そんなわけで、旅行して接する人たちの多くはインドや周辺国の人たちだろうと想像している。

    前述のとおり、サウジアラビアよりもさらに総人口中に外国人の占める割合が高いUAE、カタールなどで、「アラビア語の次に広く通じる言葉」は、ヒンディー/ウルドゥー語だという。このあたりもコロナ明けに訪問してみたいと考えている。

    アラビアへようこそ (SAUDI TOURISM AUTHORITY)

  • インドの英語

    インドの英語

    インドにおける旧英領のレガシーのひとつに英語がある。どこに行っても、少なくとも都市部で英字紙を目にしないことはなく、その他の出版活動はもちろんのこと、テレビニュースや街中の看板や広告などにも英語が氾濫しており、同様に流暢な英語をしゃべる人たちも多い。

    旧英領であったから今でも英語が広く通用しているという面はあるのだが、統治していた期間、現地の言語事情や独立後の政府の方針などにより、行政・教育の仲介言語として英語が引き継がれるかどうか、またどの程度使用されるのかについては様々である。

    同じ英領インドから分かれた国であっても、パキスタンとなるとウルドゥー語の地位に対して英語はさほど高いとは言えないし、バングラデシュとなると、国民のほぼ大半がベンガル語を母語とするベンガル人から成ること、加えて東西パキスタン時代においては、西からの独立運動におけるベンガル語の存在は象徴的な意味合いもあったため、現在のバングラデシュにおけるベンガル語のステイタスは、インドにおけるヒンディー語のように「下駄履きの言葉」であるかのようなぞんざいな扱いではまったくない。

    また、ミャンマーにおいてはこうした限りでもなく、多民族・多文化から成る国家でありながらも、独立後は行政・教育の仲介言語のビルマ語化が強力に推進され、英語は排除されていくこととなった。その単一言語化に見られるような極めて中央集権的な手法のもとで、それまで各地の藩王に任されていた自治の簒奪も含まれていたのだろう。独立間もないころから各地の少数民族が叛旗を翻すこととなった。1962年のクーデターで中央政府の実権を掌握したネ・ウィンは、さらに国粋主義=ビルマ族主義の政治を推し進め、様々な地方の反政府勢力との対立関係は恒久化することとなった。この国では、かつて英領であったことをまったく感じさせないほど、一般的には英語がほとんど通用しない。

    また、英領下に入ったことがないのに英語がかなり広く浸透しているネパールにおいては、隣国インドへの進学・就職といった接続上、やはり英語というものが大切であったり、国の根幹産業である観光においても必須であったりするという背景があるからだろう。

    また、ブータンにおいては、1970年代に学校教育の英語化が推進され、国語であるゾンカ語の授業以外は、基本的に英語でもって授業がなされるようになっている。背景には各教科の授業を英語化することにより、バラエティ豊かで内容も進んだ外国における教科書やプログラムの導入が容易となり、卒業後に専門教育に進んでからも同様に外国のそうした文物をダイレクトに吸収できるメリットを是としてのものだろう。ヒマラヤの山間の小国が近代化を図るにあたっての英断であったと言えそうだ。

    もちろん、ここで言う「外国」とは、お隣にあり外交的にも特別な関係にあるインドのことであり、学校教育の英語化に当たってはインド政府の全面的な協力により、多数のインド人教師たちが各教科に渡り、またブータン全土で活躍したとも聞く。

    そんな「英語の国インド」であるが、都市部とそれ以外、また州や地方による差異はあるが、平たくならすとインドにおける初等教育の場で、イングリッシュ・ミディアムによる学校はわずか17%に過ぎないという。日本においては、外国人子女向けに設置されているインターナショナルスクールの類を除けば、ジャパニーズ・ミディアムによる学校が100%であることを考えると、大変なものではあるのだが。

    インドにおける英語教育ないしは英語のあり方は、日本のそれと大きな違いがある。日本において、英語は「外国語」であり、「イギリス、アメリカ、オーストラリアにニュージーランドなどの言葉」と一般的に認識されており、教育の場でもそのような扱いをしている。

    そのため英語教育の場には、こうしたアングロサクソンの民族語としての色合いが濃く、テキストなどに出てくる会話場面などでも、英米の街中でのやりとりなどが想定されていたり、そうした地域でのトピックなどが取り上げられていることが多い。

    インドにおいて英語は外国語ではなく、「インドの言葉」として教育・運用されている点が私たちのそれとは大きく異なると言える。たとえわずか17%の学校であっても、日々そこでの授業が英語で与えられ、課題等も英語で実施するとなると、日本において同じような年代の生徒・学生たちが「外国語の授業として教えられる英語」とでは、運用力や理解の深さに大きな差が出ることは言うまでもない。

    またインドの都市部では「英語が母語」という人たちは少数派ではあるが、確実に存在する。そうした人たちが暮らすエリアは下町などではなく、中産階級以上が暮らすポッシユなエリアの立派なお家ということになるが。とはいえ、決して「インドの言葉を理解しない外国人駐在員家族」などのような立場ではなく、経済的にも豊かで羽振りの良い自分たち、インドの文化や習慣などにも造詣の深い自分たちこそが「インド人の中のインド人」と自負している。

    そんな彼らだが、家から一歩出れば人々と言葉を交わすのに現地の言葉を当然流暢に使い、普通にコミュニケーションしているのだが、それでも家の中で家族との会話は昔からいつも英語、読み物や新聞なども常に英語。ヒンディー語など現地語も読めなくはないのだが、その読み書きは幼少時からほとんど習っていないため、字面を追うだけで頭が痛くなる。でもテレビのエンタテインメント番組や映画はヒンディー語その他現地語なので、夕方以降はそうしたブログラムを観てゲラゲラ笑ったり、悲しいストーリーに涙したりする。

    そんな彼らの英語は、米英の人を真似たアクセント、会話の中でのリアクション、ちょっと気の利いた言い回しまでもを模倣しようとしたがる日本人のそれと違って、インド人の英語はインド人がお手本なのでブレることがないのである。やはりその言葉が自国のものとしてきちんと消化されているがゆえ、「インドの言葉として英語を使う」インド人らしいところである。

    A Sampling of Indian English Accents (Youtube)

     

  • パナウティー

    パナウティー

    かつては交易の中継点として栄えたパナウティー。川のほとりに広がるひなびた町並みの風情。カトマンズから南東30km余り進んだところにあるこの町に来ると、30年以上も前の渋滞もなく、田舎町だったカトマンズを彷彿させるものがある。

    訪問者の多くは首都から日帰りするものと思われるが、町中にはゲストハウス、そこそこ美味しいものにありつけそうな食堂などもあり、何日かのんびりしてみるのも良さそうだ。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 女神を見た

    女神を見た

    渋滞によりバスがまったく進まないカトマンズ。郊外に出るまでは歩いたほうが早いように感じるくらいだ。

    そんな中で女神を見た!のかもしれない。
    ネパールで絶世の美女というか、この世のものとは思えない神々しいまでの美しさをたたえた女性の姿がとてもたくさん目につくようになっている。DNAに異変が起きているのか?と言っては失礼かもしれないが、どうなっているのか。

    装いも垢抜けていて、昔のネパールでは見かけなかった存在だ。豊かになり、お洒落になったとしても顔が小さくなったり、手足が長く伸びたりするものでもないだろう。どういうことか。そうした人が首都からバスに乗って、郊外の田舎の村で下車していったりすることもあるのだから、これまた不思議だ。

    街角や辻にお寺や祠が沢山あるこの国だから、天界からサラスワティやパルヴァティなどが、ひょっこり訪問することもあるのだろうか・・・ムニャムニャ・・・と、車内でウトウトまどろんでから目が覚めると、目の前にいたのは昔からよく見かけるまるっこくて愛想の良さそうなおばちゃんであった。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ナガルコートで

    ナガルコートで

    眺めの良い避暑地ナガルコートに宿泊するならば、やはり眺望の良い部屋に滞在したい。ロケーション、シーズンなどによるので一概には言えないとはいえ、閑散期には直接宿に出向くのが良いようだ。ハイシーズンには条件の良いところはすぐにいっぱいになってしまうだろうから、事前の予約は必要だろう。同じ建物の中で同一の条件の間取りや設備であっても、上階ほど料金が高くなる傾向がある。

    この日滞在したのは斜面にあるホテルの最上階の部屋。新しくて部屋もきれいですばらしい。標高が2,100mあり、真夏でも涼しいためエアコンどころか天井のファンさえ無い。

    荷物を部屋に置いてから、坂道下った先にあるナガルコートの中心地にある食堂で遅い昼食。すでに午後4時を回っている。昼食が同じくらい遅くなってしまった前日同様、トゥクパを食べる。すぐに出来上がってくるし、迅速に栄養補給することできて、さらには消化も早い。すぐに腹が減るので夕食の機会を逃すこともないことも利点。他の食事を摂ってしまうと、なかなかそうはいかない。

    ナガルコートのマーケット地域
    トゥクパを注文

    部屋のバルコニーからの眺望は素晴らしい。そして夕方のこの時間帯に聞こえてくるセミしぐれも素敵だ。しばらくくつろいでいると暗雲がたちこめてきて、やがて大雨となった。

    眺望を楽しむことができたのも束の間
    暗雲たちこめて激しい雨に

    朝5時 視界はゼロ

    その後、一晩中激しく降っていた。

    朝5時に起き出して日の出を期待していたが、濃い霧も出ていてバルコニーからの視界はゼロ。まだ雨は降り続いていた。7時半くらいになると雨は上がった。食事済ませてから少し散歩に出てみたが、やはり斜面から何も見えないため眺望は期待できない。ナガルコートから平地へとハイキングで下りることも考えていたが、この天候では楽しそうではないので、やめておこう。

    雨は上がった

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 国道沿いのダーバーのメニュー

    国道沿いのダーバーのメニュー

    いまどきのネパールでは、ダーバー(安食堂)でもそうむやみに安くないのだろうか。こちらは国道沿いにあるそんな店でのメニュー。

    「サーダーカーナー(シンプルな食事、ダルバートのことか?)」が200Rs、肉か魚を付けると330Rs、魚のフライひと皿250Rs等々。訪問時、ネパールルピーは日本円とほぼ等価であったが、こんな価格になるのか?

    材料費、人件費、光熱費、家賃等のコストの違いを考えると、東京の新宿区大久保のネパール料理屋でダルバートをわずか500円で出している店があるというのは、ものすごくお得な出血大サービスだと思う。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。